北條九代記 熊谷小次郎上洛 付 直實入道往生 竝 相馬次郎端坐往生
○熊谷小次郎上洛 付 直實入道往生 竝 相馬次郎端坐往生
熊谷(くまがへの)小次郎直家(なほいへ)は次郎直實が嫡子なり。然るに直實は、子細に依て發心して東山の麓黑谷に籠り、源空上人の弟子と成り、専修一心の念佛行者と成りにけり。初め平家追討の時、一の谷の先陣として、武勇の名隱(かくれ)なく、その子直家又忠戰(ちうせん)の勳功あり、父が名跡(みやうせき)相違なく下され、武蔵國にありけるが、承元二年九月に、父直實入道、使を下して、「來十四日には、黑谷にして臨終を取るべし。早く上洛せしめよ」と告げたりければ、小次郎直家、是を見訪(みとぶら)はんが爲に京都にぞ上りける。この事、鎌倉の御所に披露あり。奇代(きたい)の珍事、是ならん。豫て死期(しご)を知る事は、權化(ごんげ)にあらずは、疑(うたがひ)あるに似たり。直實入道蓮生(れんしやう)に於ては世の塵勞(ぢんらう)を遁れて一心に淨土を欣求(ごんぐ)し、念佛三昧(まい)を事とす。積年(しやくねん)修行の薫習(くんじゆ)高(たか)ければ、定(さだめ)て奇特(きどく)を現(あらは)さんものか、相馬〔の〕次郎師常は念佛信心堅固の者にて、去ぬる元久二年十一月十五日、六十七歳にして端坐合掌し、念佛唱へながら卒去したり。決定往生疑(うたがひ)なしとて、結緣(けちえん)の緇素(しそ)、集りて拜みけり。是に合せて念佛の利益、疑ふべき事ならずと、評定、區々(まちまち)なりける所に、東(とうの)平太重胤、京都より下向して、御所に參りて洛中の事共を申す中に、熊谷次郎直實入道、九月十四日、未刻(ひつじのこく)を以て臨終すべき由、洛中に相觸れたり。其日、既に時刻に當つて、結緣の道俗、東山黑谷の草菴に集ひて、幾千萬とも數知らず。既に時刻に成て、蓮生入道、袈裟を著(ちやく)し、禮盤(らいばん)に昇り、端坐合掌して高聲(かうじやう)に念佛し、その聲と共に、臨終を遂げたり。豫て聊(いさゝか)も病氣なし。頗る奇特(きどく)の事なりと申しけり。蓮生入道が子息直家、その跡を取(とり)納め、鎌倉に歸(かへり)參り、言上せし趣(おもむき)、東〔の〕平太が申すに違(たが)はず、皆、感信(かんしん)を催されけり。
[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻十九の承元二(一二〇八)年九月三日及び十月二十一日と、相馬の往生は先立つ巻十八の元久二(一二〇五)年十一月十五日の条に基づく(以下に見るように、本文は広元の直実の死の予告への感慨の直接話法とこれを巧みに繋げて地の文としている)。私の大好きな熊谷直実蓮生の往生譚である。しかも役者もこれ以上のものはない(しかも「吾妻鏡」に記された事実とされる出来事である)。父の極楽往生に京へと向かう直家は、まさにかの寿永三(一一八四)年二月の一の谷の戦さで、直実が組伏した少年平敦盛の面影に見た嫡男である。そうしてそこで心ならずも敦盛の首を搔き切った瞬間、直実の心に無常の観念と仏道への帰依が深く萌したのである。この一連の熊谷直実発心往生譚を私は映像に撮ってみたい激しい欲求にかられるのである。九月三日及び十月二十一日の条を纏めて見る(間には実際には記事がある。また、二十一日の記事の後半は東重胤(とうのしげたね)による朱雀門焼亡の報告であるが、省略した)。
〇原文
(九月)三日庚子。陰。熊谷小次郎直家上洛。是父入道來十四日於東山麓可執終之由。示下之間。爲見訪之云々。進發之後。此事披露于御所中。珍事之由。有其沙汰。而廣元朝臣云。兼知死期。非權化者。雖似有疑。彼入道遁世塵之後。欣求浄土。所願堅固。積念佛修行薰修。仰而可信歟云々。
(十月)廿一日丁亥。東平太重胤〔號東所〕遂先途。自京都歸參。即被召御所。申洛中事等。先熊谷二郎直實入道。以九月十四日未尅可爲終焉之期由相觸之間。至當日。結緣道俗圍繞彼東山草庵。時尅。著衣袈裟。昇禮盤。端坐合掌。唱高聲念佛執終。兼聊無病氣云々。(以下略)
〇やぶちゃんの書き下し文
(九月小)三日庚子。陰る。熊谷小次郎直家、上洛す。是れ、父入道、來たる十四日、東山の麓に於いて終はりを執(と)るべきの由、示し下すの間、之を見訪(みとぶら)はんが爲と云々。
進發の後、此の事、御所中に披露す。珍事の由、其の沙汰有り。而るに廣元朝臣云はく、
「兼ねて死期(しご)を知る。權化(ごんげ)に非ずんば、疑ひ有るに似たりと雖も、彼の入道、世塵を遁るるの後、浄土を欣求(ごんぐ)し、所願堅固にして、念佛修行の薰修(くんじゆ)を積む。仰ぎて信ずるべきか。」
と云々。
(十月大)廿一日丁亥。東(とうの)平太重胤〔東所(とうのところ)と號す。〕先途を遂げ、京都より歸參す。即ち、御所に召され、洛中の事等を申す。先づ、熊谷(くまがへの)二郎直實入道、九月十四日未の尅を以つて終焉の期(ご)たるべき由、相ひ觸るるの間、當日に至りて、結緣(けちえん)の道俗、彼の東山の草庵を圍繞(ゐねう)す。時尅に、衣・袈裟を著し、禮盤(らいばん)に昇りて、端坐合掌し、高聲(かうじやう)に念佛を唱へて終はりを執る。兼ねて聊かも病氣無しと云々。(以下略)
・「熊谷小次郎直家」(仁安四・嘉応元(一一六九)年?~?)熊谷直実長男。治承・寿永の乱に父の直実とともに加わり、一ノ谷の戦いに参加、この時は父と郎党一人の三人組で平家の陣に一番乗りで突入、平山季重ともども討死しかけている(彼はこの時、矢に射抜かれ深手を負っており、直実はその仇討ちと勢い込んで、眼に入った若武者敦盛に挑んだのであった)。文治五(一一八九)年の奥州合戦では、頼朝から「本朝無双の勇士なり」と賞賛されている。建久三(一一九二)年、父直実が大叔父久下直光との所領訴訟に敗れて驚天動地の逐電出家をするに及んで家督を相続、父祖以来の武蔵大里郡熊谷郷を領した。承久三(一二二一)年の承久の乱では幕府軍として出陣し、活躍するが、嫡子直国が宇治・瀬田に於いて山田重忠らと戦い、討死にしている。墓所は現在、埼玉県熊谷市の熊谷寺にあり、父母の隣に眠っている(以上は主にウィキの「熊谷直家」に拠った)。
・「權化」神仏が衆生を救済せんがために、この世に仮の姿となって現れること。権現。化身。
・「東平太重胤」(治承元(一一七七)年?~宝治元(一二四七)年?)実朝の側近。千葉氏の庶流である東氏二代目当主。歌人として定家の門人でもあったと伝える(推定生没年はウィキの「東重胤」に拠った)。
・「未の尅」午後二時前後。
・「禮盤」本尊須彌壇(すみだん)の正面にあり、導師が仏を礼拝したり誦経するために上座する壇。
「源空上人」法然。
「相馬次郎師常は念佛信心堅固の者にて、去ぬる元久二年十一月十五日、六十七歳にして端坐合掌し、念佛唱へながら卒去したり。決定往生疑なしとて、結緣の緇素、集りて拜みけり」元久二(一二〇五)年十一月十五日の条を引いておく。
〇原文
十五日丁酉。相馬次郎師常卒。〔年六十七。〕令端座合掌。更不動搖。決定往生敢無其疑。是念佛行者也。稱結緣。緇素擧集拜之。
〇やぶちゃんの書き下し文
十五日丁酉。相馬次郎師常、卒す〔年六十七。〕。端座合掌せしめ、更に動搖せず。決定往生、敢へて其の疑ひ無し。是れ、念佛の行者なり。結緣(けちえん)と稱し、緇素(しそ)、擧(こぞ)りて集まり、之を拜す。
「相馬次郎師常」(保延五(一一三九)年~元久二(一二〇五)年十二月二十六日)は開幕期の重臣であった千葉常胤の次男。将門の子孫とされる篠田師国へ養子に入り、相馬を名乗って相馬氏初代当主となった。父と共に頼朝の挙兵に参加、範頼軍に従い、各地を転戦、文治五(一一八九)年九月の奥州合戦で勲功を立て、頼朝より「八幡大菩薩」の旗を賜っている。建仁元(一二〇一)年に父常胤が亡くなった際に出家し、家督を嫡男相馬義胤に譲り、自らは直実同様、法然の弟子となったと伝えられる。その往生は鎌倉の相馬邸屋敷でのことであった(以上はウィキの「相馬師常」に拠った)。
「緇素」僧俗。]