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2013/03/04

北條九代記 太輔房源性一幡公の骨を拾ふ 付 賴家郷近習衆禁獄 竝 將軍家叛逆仁田忠常誅せらる

      ○太輔房源性一幡公の骨を拾ふ 付 賴家郷近習衆禁獄 竝 將軍家叛逆仁田忠常誅せらる
太輔房源性は將軍家に昵近(ぢつきん)し奉り、御恩、山の如く蒙りけり。思(おもひ)も寄らざる軍(いくさ)起り、一幡公失せ給へば、せめての事に御遺骨(ゆゐこつ)を尋ね求め、高野山に納め奉らんと思ひて小御所の燒跡に行きて見るに、討死したる人々の死骸共(ども)、灰に塗(まみ)れ、土に和して累々たる事。目も當てられぬ有樣なり。年比(としごろ)さしも作(つくり)磨かれたる御所なるを、忽(たちまち)に修羅の巷(ちまた)となり、一時の内に亡(ほろび)んとは誰か豫(けね)ては思ふベき。若君の御死骸は求むるに得ざりければ、御乳母(めのと)申しけるやう、御最後には染入(そめいれ)の御小袖を著せしめ給へり、菊の枝(えだ)を御紋とする由語りければ、未だ燻(くすぼ)りける灰の中を尋ぬるに、少(ちひさ)き死骸の、燃株(もへくひ)の如くなるが、右の脇の下に小袖、僅(わづか)に一寸餘(あまり)焦(こげ)殘る菊の紋見えたり。是を標(しるし)に御骨(おこつ)を拾ひ壺に入れて、源性自(みづから)肩に掛けて泣々(なくなく)高野山に趣きつゝ、奥院(おくのゐん)にぞ納めける。同月四日、小笠原彌太郎、中野五郎、細野兵衞尉等を召戒(めしいましめ)らる。將軍家の近習として、能員に骨肉の眤(むつび)あり。のちの災(わざはひ)を思はるゝ所なり。さる程に將軍家の御惱少しく怠らせ給ひ、若君、能員滅亡の事を聞召(きこしめさ)れ、「我、憗(なまじひ)に死(しに)もやらでかゝる愁(うれへ)を聞く事よ、此欝胸(うつきよう)、何時(いつ)か開けん」とて和田左衞門尉義盛、仁田四郎忠常に密談あり、北條時政を討べき企(くはだて)をぞ致し給ひける。堀(ほりの)藤次親家を以て御書を和田に下されしを、義盛、思慮を廻して時政に見せたり。時政、軈(やが)て親家を捕へて、工藤小次郎行光に仰せて誅せらる。斯(かく)て北條時政は仁田四郎忠常を名越(なごえ)の亭に召して、能員追伐の賞を行はんとせらる。忠常參りて、日暮に至れども退出せず。舎人男(とねりをとこ)、怪(あやし)みて忠常が乗りたる馬を引きて家に歸り、舍弟仁田五郎六郎等にかくと云ふに、是は一定、北條時政追討の事、將軍家に賴まれ奉る、其事漏れて誅せられたるなるべしと子細にも及ばず、推量に任せて家子(いへのこ)、郎從起り立(たち)て、五郎六郎二人の弟を大將として、江馬殿に押寄(おしよせ)たり。御家人等(ら)、おり合ひて防ぎ戰ふに、波多野(はだの)次郎忠綱は仁田五郎に組(くん)で首を取る。六郎は臺盤所に驅(かけ)込み火を懸けて自害す。仁田〔の〕四郎忠常は、思(おもひ)も寄らず名越の亭より歸りしが、道にて是を聞きつゝ、御所を指して馳(はせ)行きしを、加藤次(かとうじ)景廉に行(ゆき)合ひて討たれたり、運命とは云ひながら楚忽(そこつ)の所行こそ淺ましけれ。
[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻十七の建仁三(一二〇三)年九月三日・四日・五日・六日の条に基づく。標題の「太輔房源性」は既出であるが「たいふばうげんせい」と読み、「一幡公の骨」の「骨」は「こつ」とルビする。
一幡の小袖のエピソードは三日の条。
〇原文
三日戊辰。被搜求能員余黨等。或流刑。或死罪。多以被糺斷。妻妾幷二歳男子等者。依有好。召預和田左衛門尉義盛。配安房國。今日於小御所跡。大輔房源性〔鞠足。〕欲奉拾故一幡君遺骨之處。所燒之死骸。若干相交而無所求。而御乳母云。最後令著染付小袖給。其文菊枝也云々。或死骸。右脇下小袖僅一寸餘焦殘。菊文詳也。仍以之知之奉拾了。源性懸頸。進發高野山。可奉納奥院云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
三日戊辰。能員が余黨等を搜し求められ、或いは流刑に、或いは死罪に、多く以つて糺斷せらる。妻妾幷びに二歳の男子等は、好(よしみ)有るに依つて、和田左衛門尉義盛に召し預け、安房國に配す。今日、小御所の跡に於いて、大輔房源性〔鞠足(まりあし)。〕故一幡君の遺骨(ゆいこつ)を拾ひ奉らんと欲するの處、燒くる所の死骸、若干(そこばく)相ひ交りて求める所無し。而して御乳母(おんめのと)云はく、最後に染付(そめつけ)の小袖を著せしめ給ふ。其の文(もん)、菊の枝なりと云々。
或る死骸の右脇下の小袖、僅かに一寸餘り焦げ殘り、菊の文詳かなり。仍つて之を以つて之を知り拾ひ奉り了んぬ。源性、頸に懸け、高野山へ進發す。奥院へ奉納すべしと云々。

頼家の時政誅伐指令発令の和田義盛の密告による不発と暗愚の家来と親族によって仁田一族が滅ぼされる(というより私はこれも北条氏の巧妙な謀略の臭いがするのであるが)、五・六日を続けて見る。
〇原文
五日庚午。將軍家御病痾少減。憖以保壽算給。而令聞若君幷能員滅亡事給。不堪其鬱陶。可誅遠州由。密々被仰和田左衛門尉義盛及新田四郎忠常等。堀藤次親家爲御使。雖持御書。義盛深思慮。以彼御書献遠州。仍虜親家。令工藤小次郎行光誅之。將軍家彌御心勞云々。
六日辛未。及晩。遠州召仁田四郎忠常於名越御亭。是爲被行能員追討之賞也。而忠常參入御亭之後。雖臨昏黒。更不退出。舍人男恠此事。引彼乘馬。歸宅告事由於弟五郎六郎等。而可奉追討遠州之由。將軍家被仰合忠常事。令漏脱之間。已被罪科歟之由。彼輩加推量。忽爲果其憤。欲參江馬殿。江馬殿折節被候大御所。〔幕下將軍御遺跡。當時尼御臺所御坐。〕仍五郎已下輩奔參發矢。江馬殿令御家人等防禦給。五郎者爲波多野次郎忠綱被梟首。六郎者於臺所放火自殺。見件煙。御家人等競集。又忠常出名越。還私宅之刻。於途中聞之。則稱可弃命。參御所之處。爲加藤次景廉被誅畢。
〇やぶちゃんの書き下し文
五日庚午。將軍家の御病痾、少減し、憖(なまじひ)に以つて壽算を保ち給ふ。而るに若君幷びに能員が滅亡の事を聞かしめ給ひ、其の鬱陶(うつたう)に堪へず、
「遠州を誅すべし。」
由、密々に和田左衛門尉義盛及び新田四郎忠常等に仰せらる。堀藤次親家、御使として、御書を持ち向ふと雖も、義盛、深く思慮し、彼(か)の御書を以つて遠州に献ず。仍つて親家を虜(とら)へ、工藤小次郎行光をして之を誅せしむ。將軍家、彌々(いよいよ)御心勞と云々。
六日辛未。晩に及び、遠州、仁田四郎忠常を名越の御亭に召す。是れ、能員追討の賞を行はれんが爲なり。而るに、忠常御亭に參入の後、昏黑に臨むと雖も、更に退出せず。舍人(とねり)の男、此の事を恠(あや)しみ、彼の乘馬を引きて歸宅し、事の由を弟五郎・六郎等に告げる。而して、
「遠州を追討奉るべきの由、將軍家、忠常に仰せ合はせらるる事、漏脱せしむの間、已に罪科せらるるか。」
の由、彼(か)の輩、推量を加へ、忽ち其の憤りを果さんが爲に、江馬殿に參らんと欲す。江馬殿、折節、大御所〔幕下將軍の御遺跡。當時、尼御臺所御坐(おはしま)す。〕へ候ぜらる。仍つて五郎已下の輩、奔參(ほんさん)して矢を發(はな)つ。江馬殿が御家人等をして防禦せしめ給ふ。五郎は波多野次郎忠綱の爲に梟首せられ、六郎は臺所(だいどころ)に於いて火を放ちて自殺す。件の煙を見て、御家人等競ひ集まる。又、忠常、名越を出でて、私宅へ還るの刻(きざみ)、途中に於いて之を聞き、
「則ち、命を弃(す)つべし。」
と稱し、御所へ參るの處、加藤次景廉の爲に誅せられ畢んぬ。

「御惱少しく怠らせ給ひ」この「怠る」は、病気が快方に向かうの意。
「堀藤次親家」(?~建仁三(一二〇三)年)は「淸水冠者討たる 付 賴朝の姫君愁歎」以降に既出で、木曾義高を誅殺したのは彼の郎党であった。即ち、ここで簡単に誅されているのであるが、彼は決して頼家のぺえぺえの近習なんぞではない。彼は治承四(一一八〇)年八月の頼朝挙兵当初から側近として仕えた歴戦の勇者で山木兼隆襲撃や石橋山の戦いにも実戦参加、その後も奥州合戦や頼朝の上洛にも従い、頼朝死後は頼家に仕えた。さすれば、当時、有に四十は越えており、五十歳に近かった可能性さえもある。直参の彼がかくもあっさりと誅せられているのは、なんとも不審であり哀れでもあるが、これもあらゆる対立可能性因子を除去し去る遠大な北条氏の陰謀の一齣ででもあったのかも知れない。
「臺盤所」「だいばんどころ」と読み、食物を調理する台所のこと。]

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