耳嚢 巻之六 大蟲も小蟲に身を失ふ事 (二話)
大蟲も小蟲に身を失ふ事
文化の初秋、石川氏の親族の家に池ありしが、田螺蓋を明きて水中に遊居(あそびをり)しを、一尺四五寸もありし蛇出て、かの田螺を喰ふ心や、蓋へ口を付(つけ)しを、田螺急に蓋をなしける故、蛇の下腮(したあご)をくわへられ、蛇苦しみて遁れんと色々頭をふり尾を縮め、蟠(わだかま)り延(のび)て品々なしけるが、不離(はなれず)。日も暮んとせし頃、蛇甚(はなはだ)よはりて、永くなり居(をり)しが、終(つひ)に蛇は斃(たふれ)て、田螺は終に水中へ落ち入りて、理運なりしと也。
□やぶちゃん注
○前項連関:特に感じさせない。動物――標題とこの時代の博物学で言うなら――「蟲類」奇譚であるが、最新の噂話(実話らしき話)として読める(腹足綱原始紐舌目タニシ科 Viviparidae に属するタニシ類で本来の国産種は通常は五センチメートル以下であるが、大型個体もいる。噛まれたのは「下腮」とあるが、舌を挟まれたとする方がリアルかとも思われる)点で巻之六の中では着目すべき話である(但し、田螺を採餌しようとした蛇が、何らかの急性疾患によって激しく悶え苦しみ、衰弱、遂に田螺を銜えたままに力尽きて死んだ――即ち、七転八倒の様態は田螺に噛まれた結果ではない――とする方が理には適っているかも知れない。御存じの通り、古代の「漁夫の利」から近代の大型の貝類の挟まれて溺死するという都市伝説まで、この手の話は枚挙に暇がない。しかし、だからこそ糞真面目に考察してみる価値がない、とは言えまい。科学的論理的考察とは時に人には退屈で糞にしか見えぬものである)。冒頭「文化の初秋」とあることから、「卷之六」の執筆推定下限の文化元(一八〇四)年七月の、まさに直近に記載であることが分かる。本巻中でも最もホットな話柄である(次の第二話「又」の話柄の冒頭「右同時七月八日」というクレジットにも注目!)。
・「石川氏」表記が異なるが、恐らく高い確率で次の第二話「又」に登場する「石河(いしこ)壹岐守」(次話注参照)のことを指していると私は思う。その冒頭に「同時」とするのは、この二つの話が同時に齎されたことを意味しており、そこでたまたま「石川」氏とは異なる「石河(いしこ)」氏絡みの、極めて酷似した事件が起こるというのは、これ、ドラマの「相棒」みたような噴飯偶然だらけで、リアルじゃあ、ない、と思うのである。……いや……実は、この二つの話がデッチアゲの都市伝説であることを、その微細な奇妙な違い(逆に妙に似ている)部分でそれとなく示そうとする悪戯っぽい原話の創作者や伝承者たち(創作元は根岸ではないが、伝承者として無意識にその役割を担っている)の魂胆ででも、あったのかもしれない。
・「理運」「利運」とも書く。幸運。
・「一尺四五寸」約四二センチメートル強から四五センチメートル強。
■やぶちゃん現代語訳
大なる虫も小なる虫のために身を失うことのあるという事
文化元年の初秋のこと。
石川氏の親族の家に池があった。
田螺が蓋を開けて水の中にゆっくらと泳い御座ったが、そこへ一尺四、五寸もあろうかという蛇が現われ、その田螺を喰はんとするものと見えて、蓋のところへ口吻をもっていったところが、田螺が急に蓋を閉ざしたゆえ、蛇は下腮(したあご)を銜え込まれてしもうた。
蛇はひどう苦しんで遁れようと、激しく頭を振ってみたり、尾をきゅっと縮めてみたり、田螺を内側に蟠(わだかま)ってみたり、逆にべろり延びてみたりと、いろいろなことを試みておったが、一向に離れず。
日も暮れようとした頃には、蛇、これ、甚だ衰弱致いて、池の端にだらりと身を横たえて御座った。
見ておると、遂に蛇は――死に絶えて動かずなった。
――と――
田螺はやっと蓋を緩め、池の内へと落ち入って、恙のう生き延びて御座った……とのことで御座る。
*
又
右同時(おなじきとき)七月八日の事なりし由、石河壹岐守屋鋪(いしこいきのかみやしき)にて、是も小蛇成(なる)が、草鞋蟲(ざうりむし)といえる小蟲をくらわんとせしが、是も其所(そこ)をさらず、蛇の舌につき居(ゐ)て終(つひ)に死せし由。わらぢ蟲もともに死せしをまのあたり見し人の、語りぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:小虫大虫を殺す奇譚で、「蛇の災難」の二連発、恐らく同一(「石川」=「石河」)ソースの動物都市伝説。前話注で述べた通り、異例のクレジット入りのホット・ニュース!
・「七月八日」文化元(一八〇四)年七月八日(西暦に換算すると一八〇四年八月十三日になる)。「耳嚢」で、しかも噂話や都市伝説の類いで日付までクレジットされるというのは、これ、極めて珍しい。
・「石河壹岐守」岩波版長谷川氏注に従えば石河貞通。寛政一〇(一八〇〇)年に御小性番頭とする。これは底本の鈴木氏も同じ同定であるが、そこでは『イシコ』と本姓を訓じている(長谷川氏は本文で同じく『いしこ』とルビを振る)。石河貞通という人物、下総小見川藩の第六代藩主で小見川藩内田家九代の内田正容(まさかた)なる大名のウィキの記載中に、正容が、寛政一二(一八〇〇)年八月十三日に、『大身旗本で留守居役を務めた石河貞通(伊東長丘の五男)の三男として生まれ』たという記載があり、年代的に見ても、この伊東長丘(備中岡田藩第六代藩主)五男石河貞通と本文の「石河壹岐守」貞通とは同一人物の可能性が高いように思われるが、如何?
・「草鞋蟲」一般には甲殻亜門軟甲(エビ)綱真軟甲亜綱フクロエビ上目等脚(ワラジムシ)目ワラジムシ亜目ワラジムシ科ワラジムシ
Porcellio scaber 及びその仲間の総称。ウィキの「ワラジムシ」によれば、現生種は約一五〇〇種が知られ、その内の一〇〇種ほどが本邦に棲息するとされているが、実際には国内種は四〇〇種ほどもいる、とも言われているとある。なお、誤解されている方も多いと思われるので注しておくと、触れると球形になって防禦姿勢をとる通称ダンゴムシ、ワラジムシ亜目オカダンゴムシ科オカダンゴムシ
Armadillidium vulgare と、このワラジムシ
Porcellio scaber とは異なる種である。しかも、ウィキの「ダンゴムシ」の記載から、本文の「草鞋蟲」はオカダンゴムシ
Armadillidium vulgare である可能性は低いように思われる。何故なら、我々がしばしば家屋の周囲で目にするところの『オカダンゴムシは、元々、日本には生息していなかったが、明治時代に船の積荷に乗ってやってきたという説が有力である。日本にはもともと、コシビロダンゴムシという土着のダンゴムシがいたが、コシビロダンゴムシはオカダンゴムシより乾燥に弱く、森林でしか生きられないため、人家周辺はオカダンゴムシが広まっていった』とあるからである(この記載中の「コシビロダンゴムシ」というのはワラジムシ亜目コシビロダンゴムシ科セグロコシビロダンゴムシ
Venezillo dorsalis のことを指しているように思われる)。――以下、私のクソ考察。――但し、この石河氏の屋敷の傍に林があり、そこから虫に噛まれたまま蛇が屋敷内に侵入したとすればセグロコシビロダンゴムシの可能性が全くないとはいえない。しかし、ワラジムシやダンゴムシの類は、よく見かける種で一二センチメートル程、大型種でも二センチを超えるようなものは少ないと思われ、蛇の舌先に喰らいついて死に至らしめるような口器を腐植土などの有機物を餌としている彼らが持っているとは思われない。とすれば、先の田螺のケースと同様、何らかの蛇の内臓疾患や、猛禽類などの天敵による致命的打撲損傷(開放性の外傷が他にあったのでは、この話は成立しないと思われる)、若しくは強毒性の植物か茸などを蛇が誤って摂餌した結果、衰弱して斃死した際、たまたまそこで死んでいたワラジムシが、その口刎部に附着した、それを見た人間がワラジムシが蛇を噛み殺したと誤認した、というのが事実ではなかろうか?
■やぶちゃん現代語訳
大なる虫も小なる虫のために身を失うことのあるという事 その二
先とほとんど同時期の話で、日附も本文化元年の七月八日のことであったと申す。
石河(いしこ)壱岐守貞通殿御屋敷にて、これも前話同様、蛇――但し、こちらは小蛇であったとのことであるが、草鞋虫(ぞうりむし)と我らが呼んでおるところの、あの小虫、これを、その蛇が喰らわんしたところ、これも、蛇の舌先に逆に喰らいついて、いっかな、離さぬ。
舌に喰いつかれたたまま、蛇は、これ、遂に死んだと申す。
草鞋虫もともに死んでおるを、目の当たりに見た人の直談で御座る。