金草鞋 箱根山七温泉 江之島鎌倉廻 離山
離山
鎌倉の名所古跡一見すみて、それより歸り道は、東海道(とうかいどう)の戸塚(とつか)の宿(しゆく)にいたるに、鎌倉より二里なり。鎌倉をいでゝ離山(はなれやま)といふ立場(たてば)あり。これより戸塚へ一里。
〽狂 旅笠の
ちらちらしろく
木のまより
見ゆるは
春(はる)の
はなれ
山みち
「はいはい、それ、あぶない、馬(むま)だ、馬だ、のつているおいらも、やつぱり馬だから、傍(かた)よれ、傍よれ。」
「イヤ、このお侍(さふらひ)さまは、『のつてゐる俺(おれ)も馬(むま)だ』といひなさつたが、あのお人は馬、儂(わし)は狸(たぬき)だ。なぜといふに、儂は金玉(きんたま)が大きいものだから、儂の渾名(あだな)を『狸』といふことを、この前、お地頭(ぢとう)さまがおきゝなされて、殿さまが私(わたし)をめされて、
『これ、これ、その方(ほう)は「狸」そうな、腹鼓(はらつづみ)をうて。』
とおつしやるから、いやともいはれず、仕方なしに腹をあけて、たゝいてお目にかけたら、
『さても、よくなる腹だ。その腹がほしい。俺にくれろ。』
とおつしやるから、
『これはあげられませぬ。私の體(からだ)へ造り附けにいたしてござりますから、はなされませぬ。』
といふと、
『いやいや、はなしてとらうとはいはぬ、俺がもらつて、その方へあづけておくが、それが承知なら、もはや、その方の腹ではないぞ、侍といふ者は、いつ何時(なんどき)、どのやうなことがあるまいものでもないから、腹も掛け替(が)へがなくてはならぬ。その掛け替への腹にするのだ。』
とおつしゃるから、
――こいつ、小氣味のわるいこと……
と思ひながら、御扶持(ごふち)をくださることだから、おうけ申しておきましたが、此節(せつ)きけば、お地頭さまに、なにか、間違ひがあつたといふこと。
『さあ、しまつた、掛け替えへの腹をきられてはたまらぬ。』
と、儂はそのまゝ、驅落(かけおち)して、このやうに當(あ)て無(な)しの旅へでかけました。後(あと)では大方(かた)、腹がなくなつたとて、儂は出臍(でべそ)でござるから、出臍を證據(しやうこ)に、腹の詮議(せんぎ)がきびしからうとおもひますから、めつたに臍をだしてはあるかれませぬ。」
[やぶちゃん注:狂歌は惜春の情を詠んでなかなかに風雅であると私は思う。既に掉尾に近く、そうした別れへの一九の思いも込められているのやも知れぬ。
「離山」鶴岡節雄氏校注「新版絵草紙シリーズⅥ 十返舎一九の箱根 江の島・鎌倉 道中記」(千秋社昭和五七(一九八二)年刊)の脚注には、『現在の大船駅東、松竹撮影所の辺にあった三つの丘(地蔵山、長山、腰山)の総称、一面のたんぼの中にあったので、戸塚から鎌倉へめざす旅人の目印であった。都市化した現在は、その面影はない』と、沢寿郎「つれづれの鎌倉」(一九七六年かまくら春秋社刊行)より引用されている。三つの山の名称は「新編相模国風土記稿」によるものであろう。松竹撮影所は消滅して記載が古くなってしまっているため、言い換えると、現在の鎌倉女子大学から鎌倉芸術館、更に大船中央病院及びその南西にある三菱電機を含む、大船五丁目から六丁目にかけてかつて存在した山で、今は五丁目の端にバス停の名として知られる程度である(昔からの住人であった私などには如何にも懐かしい響きの地名であるが、私が物心ついた頃でさえ、赤さびた貯蔵タンクだけが「離山」のイメージであった(そのタンクももうない)。「鎌倉攬勝考卷之一」に、
離(ハナレ)山 山の内を西へ行て、巨福呂谷村、市場村の出口、戸塚道の邊、水田の中に北寄に當て獨立する童山、凡高さ三丈許、東西へ長き三十間餘、實にはなれ出たる山ゆへ名附、往來より二町を隔つ。享德四年六月、公方成氏朝臣を追討として、京都將軍の御下知を承て、駿州今川上總介範忠、海道五ケ國の軍勢を引卒し鎌倉へ發向と聞へければ、鎌倉にても木戸、大森、印東、里見等離山に陣取て駿州勢を待かけ防ぎ戰けれど、敵は目にあまる大軍叶ひがたく、仍て成氏朝臣新手二百餘差向たれど敵雲霞の如く押來れば終に打負、成氏朝臣を初とし、皆武州府中をさして落行と、【大草紙】に見へたるは此時なり。夫より駿州勢鎌倉へ亂入し、神社佛閣を亂妨し、民屋に放火しければ、元弘以來の大亂ゆへ、古書古器等皆散逸せしとあり。偖此離山は四邊平坦の地に孤立せし山にて、西を上として三丈許りの高さより、東へ續き一階低き所あり。爰も高さ一丈餘、樹木一株もなき芝山なり。謂れあるゆへにや土人等むかしより耕耘のさまたげあれとも鍬鋤などもいれざれば、故あることには思はれける。道興准后法親王の歌もあり。或説には當國にふるき大塚有事を聞。されば、此山こそは上古の世の塋域に封築せし塚なるべし。他國にも大塚と地名する伊所はいつくにも有て、大ひなる塚の有ものなり。爰の離山はちいさき山の形に見へけるゆへ、はなれ山とは解しける、其製は畿内及び諸國にも見へたり。下野國那須郡國造の古碑ある湯津上村に、今も古塚の大ひなる數多あり。二級に築しもの多し。此所の山も夫に形相同じ、是は上古の製にて車塚と唱ふ。後世に至りては皆丸く築けり。古えは車塚の頂上えは、人の登らぬ爲に埒をゆひ、一階低き所にて祭奠を行ふやうに造れるものなりといふ。偖また此塚山は何人の塚なるもしれず。當國の府は高座郡にて、早川今泉の邊に國府と稱する地有て、國分寺の舊礎も田圃の間に双び存せり。國造も其邊に住せしなるべし。鎌倉よりは六七里を隔てたり。國造が墳はかしこに有べし。是なる塚はあがれる世には、此郡中に住せし丸子連多麻呂か先祖の塚山にてや有けん。其慥成證跡はしらねど、後の考へにしるせり。
とある。当該項には絵図もあり、更に、私の「離山」についてのオリジナルな考証をもしているので、是非、参照されたい。]