耳嚢 巻之六 在郷は古風を守るに可笑き事ある事
在郷は古風を守るに可笑き事ある事
京都江戸抔の繁華の地と違ひ、總て在邊は古風にて、尊卑の品、家筋の事など、殊の外吟味して、誰々の家にて普請に石すへならざる格式、或は門長屋玄關は不致(いたさざる)筋、婚姻葬祭にも上下(かみしも)は着ざる家筋、彼は當時衰へぬれど上下着し上座可致(いたす)ものなり抔、悉く吟味いたし候事なり。夫(それ)に付可笑(つきおかし)きは、川尻甚五郎御代官勤(つとめ)し時、和州何郡の支配たりしか、何村とかいへる村方にて、年々神事の由、百姓集りて古への武者の眞似をなす事の由。或年家筋ならぬ百姓、渡邊綱(わたなべのつな)になりしを、何分(なにぶん)村方にて合點せず、四天王は重き事にて、彼(かの)者の家筋にて綱公時(つなきんとき)になるべき謂(いは)れなし、定めて金銀等の取扱(とりあつかひ)ゆゑ成(なる)べし、以(もつて)の外の事なりとて、若きものは不及申(まうすにおよばず)、宿老なるものも合點せず、終に其(その)結構やみにしと、笑ひ語りぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:古来の伝承風習譚で連関。この神事はどこのどのような祭であろう? 諸本は注しない。識者の御教授を乞うものである。
・「川尻甚五郎」川尻春之(はるの)。先の「古佛畫の事」の私の注を参照のこと。寛政七(一七九五)年に大和国の五條代官所が設置され、彼はその初代代官に就任している。その在任期間は寛政七年から享和二(一八〇二)年である。
・「渡邊綱」(天暦七(九五三)年~万寿二(一〇二五)年)は源頼光四天王の筆頭として剛勇で知られ、大江山の酒呑童子退治、京都の一条戻り橋上で鬼の腕を源氏の名刀「髭切りの太刀」で切り落とした逸話で知られる。
・「公時」金太郎こと、坂田金時(長徳元・正暦六(九九五)年?~?)。公時とも書く。やはり頼光四天王の一人。
・「金銀等の取扱」岩波版長谷川氏注に、『金を出してその役を買ったという』とある。
・「宿老」「おとな」とも読み、前近代社会において集団の指導者をさす語。公家・武家・僧侶・商人・村人・町民の各組織には宿老がおり、特に中世の都市や村落において共同体組織の中心的人物をさす用語として著名である、と平凡社「世界大百科事典」にある。
・「結構」計画。企画。目論み。ここでは単にその百姓のキャスティングのみではなく、この神事に於ける複数の武者を演ずる演目(訳では行列とした)自体が取り止めになった、と解釈した。その方が読者の驚きが大きいと判断したからである。大方の御批判を俟つものである。
■やぶちゃん現代語訳
郷村にては古風を守ることに可笑しき事実のある事
京都や江戸などの繁華の地と異なり、おしなべて田舎の風習は古風なもので、尊卑の品格、家筋のことなどにつき、殊更にうんぬん致いて――誰某(だれそれ)の家の格式では普請をするに際しては基礎に石を据えてはならぬ決まりであるとか――或いは、長屋門や玄関を設けてはならぬ家筋じゃとか――はたまた、婚姻葬祭に際しても裃(かみしも)を着てはならぬ家筋だの――彼の者、今は凋落致いておれど、裃を着し、上座に座らせねばならぬ格式の者であるとか――まあ、悉く、やかましく申すものにて御座る。
それにつき、可笑しいことが御座る。
川尻甚五郎春之(はるの)殿が、大和五条の御代官を勤められた折りのこと、大和国――何郡支配の何村と申したかは失念致いたが――その村方に於いては、毎年、神事が行われており、百姓どもが集って、古えの武者の真似事をなして行列を致す由なれど、ある年のこと、ある百姓、かの頼光四天王の一人、武名も猛き、かの渡邊綱の役を演ずることとなったと申す。ところが、
「――この者は渡邊綱となれる家筋にては、これ、御座ない!」
との疑義が挙がり、何としても、村内の百姓ども一同、合点せず、
「――四天王は重き役にて、かの者の家筋にては渡邊綱や坂田公時(さかたのきんとき)になれる謂われは、これ、御座ない!」
「――これ、定めて金を積んで、渡邊綱を買(こ)うたに違いない! 以ての外のことじゃ!」
とて、若き者は申すに及ばず、宿老格の者どもも、いっかな、合点せず……
……遂に……
……その年の、その武者行列は、これ、沙汰やみと相い成ったとの由。
甚五郎殿御本人が、これ、笑いながら、私に語って御座った話である。