みなし兒 北原白秋
みなし兒
あかい夕日のてる坂で
われと泣くよならつぱぶし‥‥
あかい夕日のてるなかに
ひとりあやつる商人(あきうど)のほそい指さき、舌のさき、
絲に吊(つ)られて、譜につれて、
手足(ふる)顫はせのぼりゆく紙の人形のひとおどり。
あかい夕日のてる坂で
やるせないぞへ、らつぱぶし。
笛が泣くのか、あやつりか、なにかわかねど、ひとすぢに、
糸に吊(つ)られて、音(ね)につれて、
手足顫(ふる)はせのぼりゆく戲(おど)け人形のひとおどり。
なにかわかねど、ひとすぢに
見れば輪廻(りんね)が泣いしやくる。
たよるすべなき孤兒(みなしご)のけふ日(び)の寒さ、身のつらさ、
思ふ人には見棄てられ、商人(あきうど)の手にや彈(はぢ)かれて、
糸に吊(つ)られて、譜につれて、
手足顫(ふる)はせのぼりゆく紙の人形のひとおどり。
あかい夕日のてる坂で
消えも入るよならつぱぶし‥‥
(昭和25(1950)年新潮文庫「北原白秋詩集」 「思ひ出」より)
[やぶちゃん注:詩人殿岡秀秋氏のブログ「北原白秋さんの詩集『思ひ出』について その8」で本詩を評して『大道芸人がラッパの擬音トコトットトを各節の終わりにいれるのがらっぱぶしです。紙でできたあやつり人形が手足をふるわせながらのぼってゆきます。それが少年にはみなし児が、恋人に捨てられ、商人に買われて、踊っている少女の姿に見えてくるのです。この転換が見事です。そしてまた、糸につられて、譜につれて、紙の人形にもどって終ります。少年が大道芸をみているときに、一瞬こころに浮かんだ切ない想いをとらえて、描いています』と実に映像として鮮やかに鑑賞なさっておられる。また、河村政敏著「北原白秋の世界 その世紀末的詩境の考察」(至文堂11997年刊)のグーグル・ブックスのレビューに『日本の近代文学史を美しく彩った「パンの会」の詩人、白秋、杢太郎、光太郎らは、隅田川にセーヌをしのびながら、詩と酒と青春との饗宴を繰り展げ、酔えば白秋のこの詩を当時流行の「ラッパ節」の節に合わせて歌ったものだという。享楽の底にしのび入るようなこの世紀末的哀傷こそ、彼等詩人がこよなく愛した情趣であった』とある。なお、「ラッパ節」について、ウィキの演歌師「添田唖蝉坊」には(「そえだあぜんぼう」と読む)には、明治35(1901)年頃、『「渋井のばあさん」と呼ばれていた知り合いの流し演歌師に頼まれてつくった「ラッパ節」が、1905年(明治38年)末から翌年にかけて大流行する。幸徳秋水・堺利彦らとも交流を持つ。こうしたことがきっかけで、堺利彦に依頼を受け、「ラッパ節」の改作である「社会党喇叭節」を作詞。1906年(明治39年)には、日本社会党の結成とともにその評議員になるなどし、その演歌は、社会主義伝道のための手段にな』ったとある。この添田唖蝉坊の「ラッパ節」と明治44(1901)年刊行の、この「思ひ出」の「らつぱぶし」の関連は定かではないが、添田唖蝉坊の「ラッパ節」の流行の頃は、白秋二十歳、新詩社を脱退して木下杢太郎を介して、石井柏亭らのパンの会に参加したのが明治41(1908)年であるから、同じ調べのものであったことは間違いあるまい。]