北條九代記 賴家卿の子息善哉鶴ヶ岡御入室
○賴家卿の子息善哉鶴ヶ岡御入室
同十二月二日、故賴家卿の御息善哉公(ぜんやぎみ)、幽(かすか)なる御有樣にておはしけるを、尼御臺政子の御計(はからひ)として將軍實朝卿の御猶子(いうし)となし參(まゐら)せ、鶴ヶ岡の別當宰相阿闍梨尊曉(べつたうさいしやうのあじやりそんげう)の弟子と定め、侍五人を相副へて、彼(かの)本坊に御入室ありけり。後は知らず。めでたかりける御事なり。出家し給ひて、禪師公曉(ぜんじくげう)と申せしは、此御事にておはします。今年いかなる年なれば、京、鎌倉、靜(しづか)ならず、人の心も空に成りて、手を握り、足をつまだて、易きに居(を)る者、更になし。故右大將家の御時より、當家に忠義を存ぜし輩或は人の讒言により、或は自(みづから)恨(うらみ)を含みて、身を滅し、家を滅する者、所々に數を知らず。是に依(よつ)て、軍兵日毎に馳(はせ)違ひ、鎧の汗を乾す隙(ひま)なし。あはれ、弓を嚢(ふくろ)にし、太刀を箱にして、大平を歌ふ世もあれかし、今日はかく時めくといへども、明日(あす)如何ならん事の出來て誰(た)が身の上に禍(わざはひ)あるべきも知らぬ憂世(うきよ)の有樣哉と、互に心をおきつ波(なみ)の打解(うちと)くる事もなく、漸々(やうやう)月日もくれはどり、怪(あやし)みながら送り來て、新玉の春を迎へんと、家々取賄(とりまかな)ひ、除夜を祝ふも理(ことわり)なり。
[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻十八の元久二(一二〇五)年十二月二日及び建永元(一二〇六)年十月二十日に基づくが、カメラを庶民の位置まで下げてリアルな世上を描き出している。一応、「吾妻鏡」を見ておく。元久二年十二月二日の条。
〇原文
二日甲寅。故左金吾將軍若公。〔號善哉公。〕依尼御臺所御計。鶴岳別當宰相阿闍梨尊曉門弟也。酉尅。渡御彼本坊。侍五人扈從。
〇やぶちゃんの書き下し文
二日甲寅。故左金吾將軍若公〔善哉公と號す。〕、尼御臺所の御計ひに依つて、鶴岳別當宰相阿闍梨尊曉の門弟なり。酉の尅、彼(か)の本坊に渡御す。侍五人、扈從(こしやう)す。
次に建永元年十月二十日の条。
〇原文
廿日丁夘。陰。左金吾將軍御息若君〔善哉公〕依尼御臺所之仰。爲將軍家御猶子。始入御營中。御乳母夫三浦平六兵衞尉義村献御賜物等。
〇やぶちゃんの書き下し文
廿日丁夘。陰る。左金吾將軍御息若君〔善哉公。〕、尼御臺所の仰せに依つて、將軍家御猶子(ごいうし)として、始めて營中に入御す。御乳母夫(おんめのと)の三浦平六兵衞尉義村、御賜物(おんたまもの)等を献ず。]