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2013/03/26

耳嚢 巻之六 尾引城の事

 尾引城の事

 

 上州館林の城を、古代は尾引(をびき)の城と云(いひ)し由、土老の語りけるが、其譯を尋(たづね)しに、いにしへいつの頃にやありけん、赤井相公(しやうこう)といへる武士、年始とかや、彼(かの)邊を通りしに、草苅童共、松葉もて狐の穴をいぶし、狐の子二三疋を捕へ引歩行(ひきあるき)しを、赤井見て、狐の子を害せば親狐もなげくらむ、仇(あだ)などなさば村方の爲にもあしかりなんとて、色々諭して代償を出し、右狐の子を買取(かひとり)、とある山へ放し遣(やり)しけるに、或夜赤井が許へ來りて、うつゝに告(つげ)て云(いへ)るは、御身の放し給ひし狐の親なるが、莫大の厚恩報ずべき道なし、御身兼て城地(じやうち)を見立(みたて)、築(きづか)んの企(くはだて)ありと聞(きき)、我案内して其繩張をなし給はゞ、名城にして千歳全からんと申(まうす)にまかせ、日を極めて其指(そのさす)處に至りしに、狐出て田の中谷の間とも不言(いはず)、尾を引(ひき)て案内せる故、其尾に隨ひて繩張せし城なれば、尾引の城と唱へし由かたりぬ。太閤小田原攻(ぜめ)の頃、此城攻(せむる)に品々怪異ありて、落城六ケ敷(むつかし)かりしと、古戰記にも見へぬれば、いやしき土老の物語りながら、かゝる事もあるべきやと、爰に記しぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に感じさせない。妖狐譚で六つ前の「二尾檢校針術名譽の事」と連関。

・「尾引城」現在の群馬県館林市に館林城(尾曳城)の跡が残る。ここに記された通り、この城の築城には伝説が残っており、天文元(一五三二)年、当時の大袋城(おおぶくろじょう:現在の群馬県館林市羽附字富士山にあった。館林城の東約一・五キロメートルの城沼に東北に向かって突き出した半島に築かれていた)主赤井照光が子供達に虐められていた子狐を助けると一人の老人が現われ、新たに城を築く事を強くすすめ、翌日、一匹の老狐が現われて尾を引きながら城の「繩張」り(建築予定の敷地に縄を張って建物の位置を定めること。縄打ち)をして城の守護神になることを約束して姿を消したという。照光は吉兆と思い、新城を築いて、所縁に拠って尾曳城(後の館林城)と名付け、本丸から見て、鬼門の方角に尾曳稲荷神社を遷座させて鬼門鎮守社としたという。但し、歴史資料では文明三(一四七一)年に上杉軍が「立林城」(館林城)を攻略した、という記述があるので、それ以前から築城されていたと思われる。城郭は平城で城沼を外堀とする要害堅固の城で、当時では珍しい総構え、広い城域に城下町を取り込んで、外側を高い土塁と堀で囲んでいたと推定されている。永禄五(一五六二)年に上杉謙信により落城、赤井氏は武蔵忍城に退き、謙信が死去すると、上野国の上杉家の影響力が弱体化したことで武田家・小田原北条家が支配した。江戸時代になると徳川家重臣榊原康政が城主となり、以後も東国の押さえの城として幕府から重要視され、徳川綱吉を筆頭に親藩や有力譜代大名が城主を歴任している。明治維新後は廃城となり、多くの建造物が破棄されたが、市街地にあって破却された平城の中では、土塁などの遺構が比較的残っており、近年、土橋門や土塀・井戸などが復元されて館林市指定史跡に指定されている(以上は「群馬県WEB観光案内所」の「館林城」の記載に拠った)。また、この城内にあった「尾曳稲荷神社」は現存する。現在でも社殿は旧本丸のあった西側方向に向いている(同「尾曳稲荷神社」に拠る)。底本の鈴木氏の注には、上記の他に、『赤井但馬入道法蓮が築城、功成って』弘治二(一五五六)年一月に『引移った(関八州古戦録)』とあり、また、その「繩張」りをした狐は白狐で『当国無双の稲荷新左衛門と名乗っ』たともある。……それにしても……結局、落城までは百年程、四〇〇年後には露と消えている……千年はちと、無理で御座ったな、白狐殿……

・「相公」宰相の敬称、また、参議の唐名であるが、これは赤井照光の名「照光」が、誤って伝えられたものであろう。

・「太閤小田原攻」小田原征伐。天正一八(一五九〇)年に豊臣秀吉が関東最大の戦国大名後北条氏を滅ぼして全国統一を完成させた戦い。九州征伐後の秀吉は北条氏政・氏直父子にも上洛を促したが、彼らは関東制覇の実績を奢って秀吉の力を評価せず、上洛に応じなかったため、秀吉は前年の天正一八年に後北条氏の上野の名胡桃(なくるみ)奪取を契機として諸大名を動員、後北条氏討伐を下令した(本文の館林城(尾曳城)攻めはこの時のこと)。後北条氏は上杉謙信・武田信玄に対して成功した本拠相模小田原城での籠城策を採用したが、後北条側から離反の動きが生じ、「小田原評定」という故事成句の元となった北条一族と重臣との豊臣軍との徹底抗戦か降伏かの議論が長く紛糾、同年七月、当主氏直が徳川勢の陣に向かい、己の切腹と引き換えに城兵を助けるよう申し出て開城となった。但し、氏直は家康の娘婿であったために助命となり、紀伊国高野山に追放されて生き延びた(以上は平凡社「世界大百科事典」及びウィキの「小田原征伐」の記載を参照してカップリングした)。

・「古戰記」不詳。識者の御教授を乞う。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 上州館林の城を、古えには『尾引の城』と申した由、土地の古老が語って御座ったによって、その謂われを訊ねてみたところ、

「……昔、何時の頃やら分からねど、赤井相公(そうこう)と申す武士が御座っての、……年始の頃とかに、あの辺りを歩いておったと。……

……と、草刈りに出でておった童(わらべ)どもが、これ、松葉を焚きて、狐の穴を燻(いぶ)し、狐の子(こお)を、これ、二、三疋も捕えて、引きずり回して御座ったを見かけての、……

『……狐の子(こお)を害さば……これ、親狐も嘆くであろ。……また、それを恨みて、仇(あだ)なんどをなしたり致さば……これ、村方のためにも、悪しきことじゃ……』

と、童らをいろいろに諭し、代価まで出だいて、その狐の子(こお)らを買い取ると、その近くの山に放してやったと。……

……さても、その後の、ある夜のことじゃ。……何者かが……赤井が枕許に参っての。……夢現(ゆめうつつ)のうちに告ぐることには、

「……我らは……御身が放ちて下された狐の親なるが……計り知れぬ厚き恩……これ……報いきることも出来ざる程なれど……御身……かねてより……良き地を見立て……城を築かんとする志しのあらるるを……これ……聞き及んで御座る……されば……我ら……案内(あない)致しますによって……その通りに城縄張りをなさったならば……これ……その城……千年の不落……間違い御座りませぬ……」

と申したによって、赤井、夢現のうちに、その狐妖の言うがまま、縄張りの日(ひい)を決め、場所をも示された、と申す。……

……さても、その約定(やくじょう)の日、その狐妖の指し示した所へ出向いたところ……

――確かに

――一疋の狐が出で来て

――田圃の中

――谷の間

――何処(いずく)とも委細構わず

――その長(ながー)き尾を引きて

――案内致いた、と申す。……

……さても、その狐の尾の、地曳き致いたままに、縄張り致いて築いたる城なればこそ、『尾引の城』と、唱えて御座る、じゃて。……」

とのことで御座った。

 太閤秀吉小田原攻めの頃、この城攻めをも行われて御座ったが、その折りには、これ、数多(あまた)の怪異が御座って落城が難しゅう御座った由、古戦記にも見えて御座れば、卑賤の古老の物語ながら、そうした『何かの因縁』も、これ、あるやも知れぬと、ここに書き記しておくことと致す。

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