一言芳談 一〇一
一〇一
傳教記文(でんげうきもん)に云、後世者の住所(すみどころ)は三間(さんげん)に不可過(すぐべからず)。謂(いは)く、一間(いつけん)は持佛堂、一間は住所(ぢゆうしよ)、一間は世事所(せいじどころ)なり。
〇後世者の住所、長明がかりの庵、ほどせばしといへども一身をやどすに不足なしといへり。その家のありさまは方丈記に見るべし。
[やぶちゃん注:「傳教記文」伝教大師最澄の書き記したもの。但し、この出典は不詳。最澄入寂の西暦一三八七年の「一弘仁十三年四月。告諸弟子言。若我滅後。皆勿着俗服。」(一つ、弘仁十三年四月、諸弟子に告げて言はく、若し我が滅後に皆俗服を着すること勿れ。)に始まる「根本大師臨終遺言」には「一第五充房也。上品人者。小竹圓房。中品人者。方丈圓室。下品人者三間板室。造房之料。修理之分。秋節行檀。諸國一升米。城下一文錢。」(一つ、第五は充房なり。上品の人は小竹(ささ)の圓房、中品の人は方丈の圓室、下品の人は三間の板室とす。造房の料、修理の分は、秋節に檀を行ぜよ。諸国は一升の米、城下は一文の錢なり。)とある。「檀を行ぜよ」とは「布施を戴け」の意。最澄は天台教学とともに密教・禅の他、浄土教の念仏行を本邦に齎している。
「持佛堂」Ⅱで大橋氏は、『朝夕その人が礼拝する持仏を安置してある堂や部屋をいい、高野山諸寺院が従来本堂を所有せず、持仏堂、持仏間のみを存するのは、中世後世者の庵室の名残りであろう』と注されておられる。
「世事所」最低限度の世俗的生活に関わる雑事をなす所。
「長明がかりの庵……」以下、長明の庵のさまを具体に示す最初の部分を「方丈記」より引用する(底本は一応、角川文庫昭和四二(一九六七)年刊の簗瀬一雄訳注版を用いたが、一部の読みや読点には従わず、また恣意的に漢字を正字化した。後に底本を参考に簡単な注を附した)。
こゝに、六十(むそぢ)の露、消えがたに及びて、更に末葉(すゑは)の宿りを結べる事あり。いはば、旅人の一夜(いちや)の宿りを造り、老いたる蠶(かいこ)の繭を營むがごとし。これを中ごろの栖(すみか)に並ぶれば、また百分が一に及ばず。とかく言ふほどに、齡(よはい)は歳々(としどし)にたかく、栖は、をりをりに狹(せば)し。その家の有樣、世の常にも似ず。廣さは僅かに方丈、高さは七尺(しちしやく)がうちなり。處を思ひ定めざるが故に、地を占(し)めて造らず。土居(つちゐ)を組み、うちおほひを葺きて、繼目(つぎめ)ごとに、かけがねを掛けたり。もし、心にかなはぬ事あらば、やすく他に移さんがためなり。その改め造る事、いくばくの煩ひかある。積むところ、わづかに二輛、車の力を報ふ外には、さらに他の用途(ようど)いらず。
いま、日野山の奧に、跡をかくして後(のち)、東に三尺餘りの庇(ひさし)をさして、芝折りくぶるよすがとす。南に竹の簀子(すのこ)を敷き、その西に閼伽棚(あかだな)を作り、北によせて、障子をへだてて、阿彌陀の繪像(ゑざう)を安置(あんぢ)し、そばに普賢をかけ、前に法華經を置けり。東のきはに蕨(わらび)のほどろを敷いて、夜の床とす。西南に竹の吊棚(つりだな)をかまへて、黑き皮籠(かはご)三合を置けり。すなはち、和歌・管絃・往生要集ごときの抄物(せうもつ)を入れたり。かたはらに、琴・琵琶おのおの一張(ちやう)を立つ。いはゆる、をり琴・つぎ琵琶これなり。かりの庵の有樣、かくのごとし。(以下略)
●「中ごろの栖」前段で、三十過ぎて鴨の河原近くに造って住んでいた家屋を指す。それでも車輪附きで移動可能であったことが記されてある。
●「方丈」約三メートル強四方。
●「七尺」約二メートル強。
●「うちおほひ」簡易に蔽った屋根様のもの。
●「用途」費用。
●「日野山」山科。現在の京都市伏見区日野町。
●「三尺餘り」一メートル足らず。
●「蕨のほどろ」蕨の穂のほうけたばさばさしたもの。
●「皮籠」竹や籐(とう)などで編んだ上に皮を張った蓋付きの籠(かご)。
●「をり琴・つぎ琵琶」もともと組立式になっている携帯に簡便な琴・琵琶のこと。]