北條九代記 賴家卿薨去 付 實朝の御臺鎌倉に下向
○賴家卿薨去 付 實朝の御臺鎌倉に下向
同七月十八日實朝時政、計ひ申して、修禪寺に人を遣し、賴家卿を浴室の内にして潛(ひそか)に刺殺し奉る。御年未だ二十三歳、一朝の露と消えて益(あへ)なく名のみを殘し給ひ、永く白日の下(もと)を辭して、一堆(たい)の塚の主となり給ひけり。哀(あはれ)なりける御事なり。賴家卿、近習の輩、謀叛の企(くはだて)露顯せしかば、北條相摸守義時、軍士を遣して誅せらる。實朝の御臺所は京都に奏聞を經給ふ。坊門(ぼうもんの)大納言藤原信淸卿の御娘を定め下さる。御迎(おんむかひ)の人數は容儀花麗の壯士を選(えらみ)遣さる。左馬〔の〕權〔の〕介、結城〔の〕七郎、千葉〔の〕平次郎兵衞尉、畠山六郎、筑後六郎、和田三郎、土肥(とひの)先(せん)次郎、葛西(かさいの)十郎、佐原(さはらの)四郎、長居太郎、宇佐美(うさみの)三郎、佐々木小三郎、南條(なんでうの)平次、安西(あんざいの)四郎、是等を先として、美男優長(いうちやう)の輩を選(えり)揃へて上洛せしめらる。同十二月十日、御臺所、鎌倉に下著あり。即ち、御所んい御輿(おこし)入れましましければ、上下悦(よろこび)の眉(まゆ)を開き、貴賤、安堵の思(おもひ)をなし、賑々(にぎにぎ)しき世となり、關東靜謐(せいひつ)の基(もとゐ)なりと大名諸侍(しよし)の家々までも萬歳を唱へける。
[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻十八の元久元(一二〇四)年七月十九日・二十四日、八月四日、十月十四日、十二月十日に基づくが、無論、「吾妻鏡」では「十九日己夘。酉尅。伊豆國飛脚參着。昨日。〔十八日。〕左金吾禪閤〔年廿三。〕於當國修禪寺薨給之由申之云々。」(十九日己夘。酉の尅、伊豆國の飛脚、參着す。昨日〔十八日。〕、左金吾禪閤〔年廿三。〕、當國修禪寺に於いて薨じ給ふの由、之を申すと云々)とのみあるだけで、北條時政による頼家謀殺については、「承久記」(古活字本巻上)にある「外祖父にて後見なりし北條遠江守時政が爲に亡され給ぬ」や「愚管抄」(巻第六)の「元久元年七月十八日に、修禪寺にて又賴家入道を指ころしてけり。とみに、ゑとりつめざりければ、頸に緒(を)をつけ、ふぐりを取(とる)などしてころしてけりと聞へき」等を元にした叙述と思われる。
「實朝時政、計ひ申して」といっても実朝は当時未だ満十三歳であるから、これはやや無理がある気はする。
「坊門大納言藤原信淸卿の御娘」坊門信清(平治元(一一五九)年~建保四(一二一六)年)は修理大夫藤原信隆の子。同母姉に高倉天皇妃の殖子(七条院)がおり、後鳥羽天皇の外叔父として権勢を揮った。ここはその娘で実朝の正室となった坊門信子(建久四(一一九三)年~文永一一(一二七四)年)。西八条禅尼と通称され、出家後の法名は本覚尼。実朝との仲は良かったとされるが子は出来なかった。承久元(一二一九)年に実朝が公暁によって暗殺されると寿福寺にて出家し、京に戻った。後の承久三(一二二一)年五月に起こった承久の乱では兄である坊門忠信や忠清らが幕府と敵対して敗れたが、信子の嘆願によって死罪を免れている。九条大宮の地に夫の菩提寺遍照心院(現在の大通寺)を建立している(以上はウィキの「坊門信清」及び「坊門信子」を参照した)。この時、彼女は未だ十一歳であった。
「左馬の權の介」北条政範(文治五(一一八九)年~元久元(一二〇四)年)。この迎えの途中から発病し、京で死去した。ウィキの「北条政範」によれば『若年での官位の高さなどから見て、時政の嫡男は異母兄の北条義時ではなく、貴族出身である牧の方を母とする政範であったと考えられる。時政・牧の方鍾愛の子であり、牧の方所生唯一の男子であった政範の死は、畠山重忠の乱、牧氏事件と続く鎌倉幕府、北条氏一族内紛のきっかけとなっている』とある。次話参照。]