北條九代記 千葉介阿靜房安念を召捕る 付 謀叛人白状 竝 和田義盛叛逆滅亡 〈泉親衡の乱〉
○千葉介阿靜房安念を召捕る 付 謀叛人白状 竝 和田義盛叛逆滅亡
[やぶちゃん注:本条はやや長いので、シークエンスごとに私の標題を附けた上で、数パートに分けて注を入れた。従って実際には文章は総て連続している。]
建暦三年十二月六日に改元あり。建保元年とぞ號しける。然るに、今年二月十五日、千葉介成胤が手に、一人の法師を召捕りて、相摸守にぞ參せける。是、叛逆(ほんぎやく)の中使(ちうし)なり。信濃國の住人、靑栗(あをぐり)七郎が弟阿靜房安念といふ者なり。諸方に廻りて、一味同心の輩を相語(かたら)ふ。運命の極(きはま)る所、天理に叶はざる故にやありけん、千葉介が家に入來り、かうかうと語りければ、成胤は當家忠直(ちうちよく)の道を守り、即ち召捕(めしとり)て參(まゐら)せたり。相摸守、軈(やが)て、山城判官行村に仰せて糺問し、金窪(かなくぼの)兵衞尉行親を相副へて聞かしめられたりければ、安念法師一々に白狀して、謀叛(むほん)の同類をさし申す。 一村(いちむらの)小次郎、籠山(こみやまの)次郎、宿屋(しゆくやの)次郎、上田原(うへだはらの)三父子、園田七郎、狩野(かのゝ)小太郎、澁河(しぶかはの)刑部六郎、磯野(いそのゝ)小三郎、栗澤(くりざはの)太郎父子、木曾、瀧口、奥田、臼井等(ら)、殊更、和田義盛が子息四郎義直、五郎義重、一族、是(これ)に與(くみ)す。張本百三十餘人、伴類(ばんるゐ)百人に及ぶといひければ、國々の守護人(しゆごにん)に仰せて、召進ずべしと下知せらる。この事の起(おこり)を尋ぬるに、泉(いづみの)小次郎親平と云ふもの、賴家卿の御子千壽丸とておはしけるを、大將に取立てて、北條家を亡(ほろぼ)さんと相謀り、安念法師に廻文(くわいぶん)を持たせて、潛(ひそか)に諸國の武士を語(かたら)ふに與力(よりき)同心、既に多し。親平は建橋(たてばし)といふ所に隱れ居(を)ると申しければ、工藤十郎を遣して召(めし)て參るべき由、仰せ付もる。工藤は家子郎從二十餘人を倶して建橋に行き向ひ、案内しければ、親平、異なる氣色(けしき)もなく工藤を呼入(よびい)れて首打落(うちおと)し、其間(そのあひだ)に親平が郎從三十餘人、打ちて出でつゝ、工藤が郎従、一人も殘らず打殺して、親平は行方なく落失(おちう)せけり。すはや、鎌倉に大事起りぬとて、上を下へ打返しければ、諸國の御家人等(ら)聞付け、次第に鎌倉に馳參(はせまゐ)る事、幾千萬とも數知らず。
[やぶちゃん注:〈泉親衡の乱〉
「吾妻鏡」巻二十一の建暦三(一二一三)年二月十五日・十六日、三月二日・八日等の条に基づく。当該の「吾妻鏡」の条を順に示す。まず、二月十五日の条。
〇原文
十五日丙戌。天霽。千葉介成胤生虜法師一人進相州。是叛逆之輩中使也。〔信濃國住人靑栗七郎弟。阿靜房安念云々。〕爲望合力之奉。向彼司馬甘繩家處。依存忠直。召進之云々。相州即被上啓此子細。如前大膳大夫有評議。被渡山城判官行村之方。可糺問其實否之旨被仰出。仍被相副金窪兵衞尉行親云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
十五日丙戌。天、霽る。千葉介成胤、法師一人を生虜り、相州に進ず。是れ、叛逆の輩の中使なり。〔信濃國の住人靑栗七郎が弟、
阿靜房安念と云々。〕合力(かふりよく)の奉(うけたまは)りを望まんが爲、彼(か)の司馬が甘繩の家へ向ふ處に、忠直を存ずるに依つて、之を召し進ずと云々。
相州、即ち此の子細を上啓せらる。前(さき)の大膳大夫に如(したが)ひ、評議有りて、山城判官行村の方へ渡され、其の實否(じつぷ)を糺し問ふべきの旨、仰せ出ださる。仍つて、金窪兵衞尉行親を相ひ副へらると云々。
・「千葉介成胤」「和田義盛上總國司職を望む」に既注。
・「相州」北条義時。
・「靑栗七郎」後掲される泉親衡の郎党と思われるが不詳。しばしば御厄介になっている「歴散加藤塾」の「吾妻鏡入門」の同条注に、『長野県長野市に青木島町青木島も栗田もあるが不明』とある。
・「司馬」千葉成胤。「歴散加藤塾」の「吾妻鏡入門」の同条注に、『唐名で国史の次官を司馬という。千葉介は下総次官』とある。
・「前の大膳大夫」大江広元。
・「如(したが)ひ」諸注釈は「ごとき」と訓じているが、従わず、オリジナルに「従い」の意で読んだ。大方の御批判を俟つ。
・「山城判官行村」二階堂行村。
・「金窪兵衞尉行親」(生没年不詳)は得宗被官で、次の条で連名で和田義盛の甥和田胤長を預かっている安東忠家とともに、義時の側近。
翌二月十六日の条。
〇原文
十六日丁亥。天晴。依安念法師白狀。謀叛輩於所々被生虜之。所謂。一村小次郎近村。〔信濃國住人。匠作被預之。〕籠山次郎。〔同國住人。高山小三郎重親預之。〕宿屋次郎。〔山上四郎時元預之。〕上田原平三父子三人。〔豊田太郎幹重預之。〕薗田七郎成朝。〔上條三郎時綱預之。〕狩野小太郎。〔結城左衞門尉朝光預之。〕和田四郎左衞門尉義直。〔伊東六郎祐長預之。〕和田六郎兵衞尉義重〔伊東八郎祐廣預之。〕澁河刑部六郎兼守。〔安達右衞門尉景盛預之。〕和田平太胤長。〔金窪兵衞尉行親。安東次郎忠家預之。〕礒野小三郎。〔小山左衞門尉朝政預之。〕此外白狀云。信濃國保科次郎。粟澤太郎父子。靑栗四郎。越後國木曾瀧口父子。下総國八田三郎。和田奥田太。同四郎。伊勢國金太郎。上総介八郎。甥臼井十郎。狩野又太郎等云々。凡張本百三十餘人。伴類及二百人云々。可召進其身之旨。被仰國々守護人等。朝政。行村。朝光。行親。忠家奉行之云々。此事被尋濫觴者。信濃國住人泉小次郎親平。去々年以後企謀逆。相語上件輩。以故左衞門督殿若君〔尾張中務丞養君。〕爲大將軍。欲奉度相州云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
十六日丁亥。天晴。安念法師の白狀に依つて、謀叛の輩、所々に於いて之を生虜らる。所謂、一村(いちむら)小次郎近村〔信濃國住人。匠作(しやうさく)、之を預からる。〕・籠山(こみやま)次郎〔同國住人。高山小三郎重親、之を預かる。〕・宿屋(やどや)次郎〔山上四郎時元、之を預かる。〕上田原平三父子三人〔豊田太郎幹重、之を預かる。〕・薗田(そのだ)七郎成朝〔上條(かみじやう)三郎時綱、之を預かる。〕・狩野(かの)小太郎〔結城左衞門尉朝光、之を預かる。〕・和田四郎左衞門尉義直〔伊東六郎祐長、之を預かる。〕・和田六郎兵衞尉義重〔伊東八郎祐廣、之を預かる。〕・澁河刑部六郎兼守〔安達右衞門尉景盛、之を預かる。〕・和田平太胤長〔金窪兵衞尉行親・安東次郎忠家、之を預かる。〕・礒野(いその)小三郎〔小山左衞門尉朝政、之を預る。〕、此の外、白狀に云はく、信濃國保科(ほしな)次郎・粟澤(あはさは)太郎父子・靑栗四郎・越後國木曾瀧口父子・下総國八田三郎・和田・奥田太(おくだた)・同四郎・伊勢國金太郎・上総介八郎・甥(をひ)臼井十郎・狩野(かの)又太郎等と云々。
凡そ張本百三十餘人、伴類二百人に及ぶと云々。
其の身を召し進ずべきの旨、國々の守護人等に仰せらる。朝政・行村・朝光・行親・忠家、之を奉行すと云々。
此の事、濫觴を尋ねらるれば、信濃國住人、泉小次郎親平、去々年(きよきよねん)より以後、謀逆を企て、上(かみ)の件(くだん)の輩と相ひ語らひ、故左衞門督殿の若君〔尾張中務丞(おはりなかつかさのじょう)が養君(やしなひぎみ)。〕を以つて大將軍と爲(な)し、相州を度(はか)り奉らんと欲すと云々。
・以上の人名の読みは私が諸資料から推定したもので、確実なものではないものも含まれているので注意されたい。各人の出身地等については、「歴散加藤塾」の「吾妻鏡入門」の同条注に詳しいので参照されたい。
・「匠作」北条義時。修理職(しゅりしき)の唐名。義時はこの二年前の建暦元(一二一一)年に修理亮に補任している。
・「故左衞門督殿」源頼家。
・「泉小次郎親平」泉親衡(ちかひら 生没年不詳)。親平とも書く。泉氏は信濃国小県郡小泉庄(現在の長野県上田市)を本拠としたと言われ、源満仲の弟満快(みつよし)の曾孫信濃守為公(ためとも)の後裔と伝えられ、親衡は満快の十代孫に当たる。但し、この乱によって荒唐無稽な伝説が附与されたために実像ははっきりしない。参照したウィキの「泉親衡」によれば、『その際の奮闘ぶりにより後世大力の士として朝比奈義秀と並び称され、様々な伝説を産み、江戸時代には二代目福内鬼外(森島中良)が『泉親衡物語』と題した読本を著しているなどフィクションの世界で活躍した。一方、信濃国の民話に登場する泉小太郎と同一視され、竜の化身としたり犀を退治したという昔話の主人公にもなっている』とあり、『子孫は信濃国飯山を拠点とし、泉氏として栄えた』とある。私はこの人物、非常に怪しいと踏んでいる。この事件そのものが、和田一族を追い落とす結果を惹起させている以上、謀略以外の何ものでもない。この闇に消えた泉親衡なる男は、実は北条義時の息が掛かった間者ではなかったかと、つい、憶測したくなるのである。義時とは北条氏とは、そういう男であり、一族である、と私は思っている。
なお、続く「吾妻鏡」の記載は、薗田成朝の上条時綱邸からの逃亡、彼が訪れた親しい僧の出家の慫慂、それに対する一国の国司となる望みを達せぬうちは出家などしないと喝破して行方知れずとなる一件(同二月十八日)が語られ、その話を聴いた実朝が成朝の志しに御感あって恩赦を命じたり(二十日)、安達景盛預りの澁河兼守が二十六日に処刑されると告げられて憂愁の中で十首の和歌を詠じて荏柄天神に奉納(二十五日)、その和歌を工藤祐高が御所に持参、それらを賞翫した実朝がやはり御感の余りに赦免する(二十六日)など、読んでいて、実に面白い。また、二十七日の条には大方の謀叛人は流罪で済まされた旨の記載がある。
次に翌建暦三(一二一三)年三月の二日の条。
〇原文
二日癸夘。天晴。今度叛逆張本泉小次郎親平。隱居于違橋之由。依有其聞。遣工藤十郎被召處。親平無左右企合戰。殺戮工藤幷郎從數輩。則逐電之間。爲遮彼前途。鎌倉中騷動。然而遂以不知其行方云々。
〇やぶちゃんの書き下し文
二日癸夘。天、晴る。今度の叛逆の張本(ちやうぼん)泉小次郎親平、違橋(すぢかへばし)に隱居の由、其の聞え有るに依つて、工藤十郎を遣はし召さるるの處、親平、左右(さう)無く合戰を企て、工藤幷びに郎從數輩を殺戮し、則ち、逐電するの間、彼の前途を遮(さいぎ)らんが爲に、鎌倉中、騷動す。然れども、遂に以つて其の行方を知らずと云々。
・「工藤十郎」不詳。ここ「北條九代記」では『工藤が郎従、一人も殘らず打殺して』とあるが、「吾妻鏡」では『工藤幷びに郎從數輩を殺戮し』とあって工藤十郎本人も亡くなっている。この人物、「吾妻鏡」では他に建仁元(一二〇一)九月十八日の条で、頼家が犬を飼うことになり、その餌やりの六人の当番として名が載るのみである(この六人の中には能成や比企時員などの頼家の近習も選ばれている)。この謀叛を企んだトンデモ首謀者の追捕に、何故、よりによってこんな無名者の、この彼が選ばれ、そして、何故、御所の目と鼻の先での合戦なのに援軍もなく、あっけなく死なねばならなかったのか? 何だか、やっぱりおかしいぞ!
「北條九代記」のこのパートの終りの部分は、三月八日の条の頭の『己酉。天霽。鎌倉中兵起之由。風聞于諸國之間。遠近御家人群參。不知幾千万。』(八日己酉。天、霽る。鎌倉中に兵起るの由、諸國に風聞の間、遠近(をちこち)の御家人の群參、幾千万を知らず)に基づく(この条は次のパートで全条を示す)。]