一言芳談 一一四
一一四
行仙房(ぎやうせんばう)云、或人問ふて云、我身の無道心をかへり見て、往生をうら思ふと、涯分(がいぶん)を顧みず、決定往生と思ふと、何(いづ)れかよく候ふべき。答へて云く、我(われ)むかし小藏入道(をぐらにふだう)に謁(と)ひたりき。往生は最初の一念に決定せり、報命(はうめい)盡きざれば、依身(えしん)の未だ消えざるばかりなりと申されしが、殊緣(しゆえん)の往生をとげられき。熊谷入道(くまがへにふだう)も、此の定(ぢやう)に申されけるとなん承りき。
〇うらおもふ、慮の字にて氣づかひの事なり。
〇涯分、我身の分際なり。
〇小藏入道、園田太郎、號智明房。
〇最初の一念、はじめて信受せし心念なり。
〇報命、たゞ命の事なり。
資持記云、命之延促宿因所招。故云報命。
〇熊谷入道、蓮生房。
[やぶちゃん注:本テクストはⅠに主に拠ったが、Ⅰは幾つかの箇所で疑義があったため、Ⅱ・Ⅲと校合した。ところがⅡ・Ⅲには全体に読みにくい箇所や歴史的仮名遣の甚だしい誤りが散見されるため(但し、Ⅱのそれは原文のままに翻刻したため)、読みの一部を本文に出すなどして、結果としてⅠでもⅡでもⅢでもない、全く独自のテクスト表記となった(学術的に読まれたいのであれば、それぞれに拠って戴きたい)。いつもの通り、読みは歴史的仮名遣に拠ったが、「くまがへ」は敢えてⅡの読みを示した。なお、Ⅰ・Ⅲでは次の一一五の本文部分(最後の割注を除く)が末尾に直に繋がっている(但し、今まで特に注していないが、この現象はⅢではこれ以前にも幾らも存在してはいる)。間接話法が入り込んでいるので、以下に分かり易く一部の表記を書き換え、語を補って、書き直してみる。
行仙房の云はく、
「或る人、問ふて云はく、
『我が身の無道心を顧みて、往生を裡思(うらおも)ふと、涯分を顧みず、決定往生と思ふと、何れかよく候ふべき。』
と。
我、答へて云はく、
『我、昔、小藏入道に謁(えつ)し問ひたりき。答へ申されて、
――往生は最初の一念に決定せり。報命、これ、盡きざれば、依身の未だ消えざるばかりなり――
と申されしが、殊緣の往生をとげられき。熊谷入道も、此の定に申されけるとなん、承りき。』
「行仙房」Ⅱの大橋氏注に、『聖光上人の弟子。隠者。ただし禅勝房の弟子にも同名の人がいる』とある。前に注した通り、禅勝房は、元は天台宗の僧であったものの、蓮生(れんじょう:名将熊谷直実の法名)の説法を聴いて京へ上り、蓮生の師であった法然の弟子となったという因縁から考えれば、本文に「熊谷入道も、此の定に申されけるとなん承りき」と添えたことは、禅勝房の弟子であった方がより必然的で自然なものとして私には思われる。
「小藏入道」Ⅱの大橋氏注に、『上野国小蔵の人。薗田太郎成家。法然上人の弟子となり、智明房と号した』とある。講談社「日本人名大辞典」には智明坊(ちみょうぼう 承安四(一一七四)年~宝治二(一二四八)年)として、浄土宗の僧で幕府御家人、正治二(一二〇〇)年に京都で法然の教えを聴いて僧となり、郷里上野に戻り、教導して家のもの二十余人をみな出家させ、山田郡小倉村に庵室を結んだ。俗名は薗田成家とある。
「報命」定められた寿命。
「依身」心やその働きのよりどころとなる肉体、身体のこと。肉身。
「殊緣」Ⅰは「殊勝」とする。
「資持記云、命之延促宿因所招。故云報命。」Ⅰの訓点を参考にして(一部従っていない)読めば、
資持記に云はく、「命の延促は宿因の招く所なれば、故に報命と云ふ。」と。
となろう。「資持記」は「九十二」に既注。
「熊谷入道」「平家物語」の一の谷の戦いでの平敦盛との一騎討、そこでの無常観の思いから出家するという知られた名将熊谷直実(永治元(一一四一)年~建永二(一二〇七)年)のこと。法号は蓮生(れんしょう/れんせい)。優れた武士であったが口下手で、建久三(一一九二)年、社会的に優位にあった、父代わり久下直光(直実の母方の伯父)とのおぞましい領地訴訟に敗北し(私のテクスト「北條九代記 問注所を移し立てらる」を参照のこと)、『敦盛を討ったことに対する慙愧の念と世の無常を感じていた直実は』、上洛して『法然との面談を法然の弟子に求めて、いきなり刀を研ぎ始めたため、驚いた弟子が法然に取り次ぐと、直実は「後生」』『について、真剣にたずねたという。法然は「罪の軽重をいはず、ただ、念仏だにも申せば往生するなり、別の様なし」と応えたという』。『その言葉を聞いて、切腹するか、手足の一本切り落とそうと思っていた直実は、さめざめと泣いたという』。家督を嫡子直家に譲った後、建久四(一一九三)年、五十二歳の頃、『法然の弟子となり出家した』。その後の蓮生は美作国久米南条稲岡庄(岡山県久米郡久米南町)の法然生誕地に誕生寺を建立するなど、数多くの寺院を開いていることで知られる。建久六(一一九五)年八月十日には京から鎌倉へ下ったが、『蓮生は鎌倉に着くなり、泣いて懐かしんで頼朝と対面し、仏法と兵法の故実を語り、周囲を感歎させる。出家しても心はなお真俗を兼ねていた。武蔵国へ下向するため退出する際、頼朝にしきりに引き留められている』。その後、京都に戻った蓮生は、建久八(一一九七)年五月、錦小路東洞院西の父貞直所縁んの旧地に『法然を開山と仰ぎ、御影を安置して法然寺を建立し』ている。建久九(一一九八)年には粟生の西山浄土宗総本山光明寺を開いているが、『直実が法然を開山として、この地に念仏三昧堂を建てたのが始まりである。後に黒谷にあった法然の墓が』安貞二(一二二八)年に『比叡山の僧徒に襲撃を受け、遺骸が暴かれたため、東山大谷から移され、ここで火葬して遺骨を納めた宗廟を建てた。遺骨は分骨された』。『本領の熊谷郷に帰った蓮生は庵(後の熊谷寺)で、念仏三昧の生活を送』り、元久元(一二〇四)年には『上品上生し、早く仏と成り、この世に再び還り来て、有縁の者、無縁の者問わず救い弔いたいと、阿弥陀仏に誓い蓮生誓願状をしたためた。誓願状の自筆が嵯峨清涼寺に残されている』。建永元(一二〇六)年八月、翌年の二月八日に『極楽浄土に生まれると予告する高札を武蔵村岡の市に立てた。その春の予告往生は果たせなかったが、再び高札を立て』て、建永二年九月四日に『実際に往生したと言われている』。彼の逸話として、出家後のこと、関白九条兼実の『屋敷で法然の法話をはるか遠くの庭先から聞いていた時、「ああ、この世ほど口惜しい所はない、極楽にはこんな差別などあるまいに、ここでは上人様のお声も聞こえませんぞ」と大声で怒鳴り立てたという、出家前と変わらない反骨精神を伺わせるエピソードが残されて』おり、また、『京都から関東にもどるとき、西を背にすると、浄土の阿弥陀仏に背を向けると言って、鞍を前後さかさまにおいて、西に背を向けずに関東に下ったという』(ウィキの人物図はそれに基づく)。法然は蓮生に一日六万遍の『念仏を勧めており、蓮生はそれを守り通したとされる』とある。(以上の引用はウィキの「熊谷直実」に拠る)。――私は実は――熊谷直実のとびっきりのファンである。
本条は私なりに全文の現代語訳を試みたい。
行仙房が仰せられたことには、
「ある人が我らに問うて言われたことに、
『我が身に道心のないことを自省して往生の心配を致すのと――身のほどを弁えずに往生は既に以って決定(けつじょう)致いておると思うと――これ、何(いず)がよく御座ろうか。』
と。
我らが、答えて申したことには、
『我ら、昔、小蔵(おぐら)入道に謁して、同様のことをお訊ね致いたことが御座った。小蔵入道のお答えは、
――往生は最初の一念にて決定(けつじょう)しておる。定められた命が、これ、尽きておらぬが故に、この肉身は、ただ、未だに消えずにあるのみに過ぎぬ――
との仰せで御座った。その小蔵入道は、そのお言葉通り、決然とした往生をお遂げになられました。また、かの熊谷の蓮生(れんしょう)入道も、これと全く同じことを仰せになられたと、聞き及んで御座る。』
とお答えしておきました。」
疑心暗鬼や姑息な凡智の自省心など、あるだけ、往生の妨げであると喝破する。]

