暦の亡魂 萩原朔太郎 (「定本 靑猫」版補正版)
曆の亡魂
薄暮のさびしい部屋の中で
わたしのあうむ時計はこはれてしまつた。
感情のねぢは錆びて ぜんまいもぐだらくに解けてしまつた。
こんな古ぼけた曆をみて
どうして宿命のめぐりあふ曆數をかぞへよう。
いつといふこともない
ぼろぼろになつた憂鬱の鞄をさげて
明朝(あした)は港の方へでも出かけて行かう。
さうして海岸のけむつた柳のかげで
首無(くびな)し船のちらほらと往き通(か)ふ帆でもながめてゐよう
あるいは波止場の垣にもたれて
乞食共のする砂利場の賭博(ばくち)でもながめてゐよう。
どこへ行かうといふ國の船もなく
これといふ仕事や職業もありはしない。
まづしい黑毛の猫のやうに
よぼよぼとしてよろめきながら步いてゐる。
さうして芥燒場(ごみやきば)の泥土(でいど)にぬりこめられた
このひとのやうなものは
忘れた曆の亡魂だらうよ。
[やぶちゃん注:筑摩版全集第二巻の二〇〇~二〇一頁に載る、「底本靑猫」(昭和一一(一九三六)年三月版畫莊刊)を底本として編者によって歴史的仮名遣を補正してしまったもの。「ぜんまい」の下線は底本では傍点「ヽ」。第一書房版「萩原朔太郎詩集」の筑摩版全集第二巻の七二~七三頁に載る第一書房版「萩原朔太郎詩集」(昭和三(一九二八)年三月刊)を底本として編者によって補正されたものとの異同は、
二行目末の句点追加
二行目の「あふむ」を歴史的仮名遣「あうむ」と補正(但し、これは全集編者による補正)
二行目の「あうむ」からの傍点除去
三行目の「ぐたらく」を「ぐだらく」と補正
五行目の末に句点を追加
一〇行目の「首無し」の「無し」が「なし」と平仮名化
十一行目の「あるひは」の「あるいは」の補正(但し、これは全集編者による補正)
十二行目の末に句点を追加
十五行目の「黑鴉」から「黑毛」への変更
十六行目の末に句点を追加
の九箇所を数える。それ以外に編者による歴史的仮名遣の完膚なきまでの「補正」が加えられているのであるから、最早、私は初出の「曆の亡魂」とこの筑摩版全集の「底本靑猫」版「曆の亡魂」とは似て非なる作品であると思う。]
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