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2013/04/30

健康の都市 室生犀星(「月に吠える」跋)

 

  

 

 

    健康の都市

 

           君が詩集の終わりに

 

 大正二年の春もおしまひのころ、私は未知の友から一通の手紙をもらつた。私が當時雜誌ザムボアに出した小景異情といふ小曲風な詩について、今の詩壇では見ることの出來ない純な眞實なものである。これから君はこの道を行かれるやうに祈ると書いてあつた。私は未見の友達から手紙をもらつたことが此れが生まれて初めてであり又此れほどまで鋭く韻律の一端をも漏さぬ批評に接したことも之れまでには無かつたことである。私は直覺した。これは私とほぼ同じいやうな若い人であり境遇もほぼ似た人であると思つた。ちようど東京に一年ばかり漂泊して歸つてゐたころで親しい友達といふものも無かつたので、私は 飢ゑ渴いたやうにこの友達に感謝した。それからといふものは私たちは每日のやうに手紙をやりとりして、ときには世に出さない作品をお互に批評し合つたりした。

 私はときをり寺院の脚高な椽側から國境山脈をゆめのやうに眺めながら此の友のゐる上野國や能く詩にかかれる利根川の堤防なぞを懷しく考へるやうになつたのである。會へばどんなに心分(こゝろもち)の觸れ合ふことか。いまにも飛んで行きたいやうな氣が何時も瞼を熱くした。この友もまた逢つて話したいなぞと、まるで二人は戀しあふやうな激しい感情をいつも長い手紙で物語つた。私どもの純眞な感情を植ゑ育ててゆくゆく日本の詩壇に現はれ立つ日のことや、またどうしても詩壇の爲めに私どもが出なければならないやうな圖拔けた强い意志も出來てゐた。どこまで行つても私どもはいつも離れないでゐようと女性と男性との間に約されるやうな誓ひも立てたりした。

 

 大正三年になつて私は上京した。そして生活といふものと正面からぶつかつて、私はすぐに疲れた。その時はこの友のゐる故鄕とも近くなつてゐたので、私は草臥れたままですぐに友に逢ふことを喜んだ。友はその故鄕の停車場でいきなり私のうろうろしてゐるのをつかまへた。私どもは握手した。友はどこか品のある瞳の大きな想像したとほりの毛唐のやうなとこのある人であつた。私どもは利根川の堤を松並木のおしまひに建つた旅館まで俥にのつた。淺間のけむりが長くこの上野まで尾を曳いて寒い冬の日が沈みかけてゐた。

 旅館は利根川の上流の、市街(まち)のはづれの靜かな磧に向つて建てられてゐた。すぐに庭下駄をひつかけて茫茫とした磧へ出られた。二月だといふのにいろいろなものの芽立ちが南に向いた畦だの崖だのにぞくぞく生えてゐた。友はよくこの磧から私をたづねてくれた。私どもは詩を見せ合つたり批評をし合つたりした。

 大正四年友は出京した。

 私どもは每日會つた。そして私どもの狂わしいBARの生活が初まつた。暑い八月の東京の街路で時には劇しい議論をした。熱い熱い感情は鐵火のやうな量のある愛に燃えてゐた。ときには根津權現の境内やBARの卓(テーブル)の上で試作をしたりした。私は私で極度の貧しさと戰ひながらも盃は唇を離れなかつた。そしていつも此友にやつかいをかけた。

 間もなく友は友の故鄕へ私は私の國へ歸つた。そして端なく私どもの心持を結びつけるために『卓上噴水』といふぜいたくな詩の雜誌を出したが三册でつぶれた。

 私どもが此の雜誌が出なくなつてからお互にまた逢ひたくなつたのである。友は私の生國に私を訪問することになつた。私のかいた海岸や砂丘や靜かな北國の街々なぞの景情が友を遠い旅中の人として私の故鄕を訪づれた。私が三年前に友の故鄕を友とつれ立つて步いたやうに、私は友をつれて故鄕の街や公園を紹介した。私のゐるうすくらい寺院を友は私のゐさうな處だと喜んだ。または廓の日ぐれどきにあちこち動く赤襟の美しい姿を珍らしがつた。または私が時時に行く海岸の尼寺をも案内した。そこの砂山を越えて遠い長い渚を步いたりして荒い日本海をも紹介した。それらは私どもを子供のやうにして樂しく日をくらさせた。そのころ私は愛してゐた一少女をも紹介した。

 友は間もなくかへつた。それから友からの消息はばつたりと絕えた。友の肉體や思想の内部にいろいろの變化が起つたのも此時からである。手紙や通信はそれからあとは一つも來なかつた。私は哀しい氣がした。あの高い友情は今友の内心から突然に消え失せたとは思へなかつた。あのやうな烈しい愛と熱とがもう私と友とを昔日のやうに結びつけることが出來なくなつたのであらうか。私には然う思へなかつた。

 『竹』といふ詩が突然に發表された。からだぢうに巢喰つた病氣が腐れた噴水のやうに、友の詩を味ふ私を不安にした。友の肉體と魂とは晴れた日にあをあをと伸上がつた『竹』におびやかされた。を感じる力は友の肉體の上にまで重量を加へた。かれは、からだぢう竹が生えるやうな神經系統にぞくする恐竹病におそはれた。そしてまた友の肉體に潜んだいろいろな苦悶と疾患とが、友を非常な神經質な針のさきのやうなちくちくした痛みを絕えず經驗させた。

 

  ながい疾患のいたみから

  その顏は蜘蛛の巢だらけとなり

  腰から下は影のやうに消えてしまひ

  腰から上には竹が生え

  手が腐れ

  しんたいいちめんがじつにめちやくちやなり

  ああけふも月が出で

  有明の月が空に出で

  そのぼんぼりのやうなうすあかりで

  畸形の白犬が吠えて居る

  しののめちかく

  さむしい道路の方で吠える犬だよ

 

 私はこの詩を讀んで永い間考へた。あの利根川のほとりで土筆やたんぽぽ又は匂い高い抒情小曲なぞをかいた此れが紅顏の彼の詩であらうか。かれの心も姿もあまりに變り果てた。かれはきみのわるい畸形の犬がぼうぼうと吠える月夜をぼんぼりのやうに病みつかれて步いてゐる。ときは春の終わりのころであらうか。二年にもあまる永い病氣がすこしよくなりかけ、ある生ぬるい晚を步きにでると世の中がすつかり變化つてしまつたやうに感じる。永遠といふものの力が自分のからだを外にしても斯うして空と地上とに何時までもある。道路の方で白い犬が、ゆめのやうなミステツクな響をもつてぼうぼうと吠えてゐる。そして自分の頭がいろいろな病のために白痴のやうにぼんやりしてゐる。ああ月が出てゐる。

 私は次の頁をかへす。

 

  遠く渚の方を見わたせば

  ぬれた渚路

  腰から下のない病人の列が步いてゐる

  ふらりふらりと步いてゐる

 

 彼にとつては總てが變態であり恐怖であり幻惑(げんわく)であつた。かれの靜かな心にうつつてくるのは、かれの病みつかれた顏や手足にまつわる惱ましい蛛蜘の巢である。彼は殆んど白痴に近い感覺の最も發作の靜まつた時にすら、その指さきからきぬいとのやうなものの垂れるのを感じる。その幻覺はかれの魂を慰める。ああ蒼白なこの友が最も不思議に最も自然に自分の指をつくづく眺めてゐるのに出會して淚なきものがゐようか。私と向ひ合つた怜悧な眼付はどんよりとして底深いところから靜かに實に不審な病夢を見てゐるのである。

 それらの詩編が現はれると間もなく又ばつたり作がなかつた。私のとこへも通信もなかつた。私から求めると今私に手紙をくれるなとばかり何事も物語らなかつた。たうとう一年ばかり彼は誰にも會はなかつた。かれにとつて凡ての風景や人間がもう平氣で見てゐられなくなつた。ことに人を怖れた。まがりくねつて犬のやうに病んだ心と、人間のもつとも深い罪や科やに對して彼は自らを祈るに先立つて、その祈りを犯されることを厭ふた。ひとりでゐることを、ひとりで祈ることを、ひとりで苦しみ考へることを、ああ、その間にも彼の疾患は辛い辛い痛みを加へた。かれはヨブのやうな苦しみを試みられてゐるやうでもあつた。なぜに自分はかやうに肉體的に病み苦しまなければならないかとさへ叫んだ。

 かれにとつて或る一點を凝視するやうな祈禱の心持! どうにかして自分の力を、今持つてゐる意識を最つと高くし最つと良くするためにも此疾患を追ひ出してしまひたいとする心持! この一卷の詩の精神は、ここから發足してゐるのであつた。

 

 彼の物語の深さはものの内臟にある。くらい人間のお腹にぐにやぐにやに詰つたいろいろな機械の病んだもの腐れかけたもの死にそうなものの類ひが今光の方向を向いてゐる。光の方へ。それこそ彼の求めてゐる一切である。彼の詩のあやしさはポオでもボドレエルでもなかつた。それはとうてい病んだものでなければ窺知することのできない特種な世界であつた。彼は祈つた。かれの祈禱は詩の形式であり懺悔の器でもあつた。

 

  凍れる松が枝に

  祈れるままに縊されぬ

 

 といふ天上縊死の一章を見ても、どれだけ彼が苦しんだことかが判る。かれの詩は子供がははおやの白い大きい胸にすがるやうにすなほな極めて懷しいものも其疾患の絕え間絕え間に物語られた。

 

 萩原君。

 私はここまで書いて此の物語が以前に送つた跋文にくらべて、どこか物足りなさを感じた。君がふとしたころから跋文を紛失したと靑い顏をして來たときに思つた。あれは再度かけるものではない。かけても其書いてゐたときの情熱と韻律とが二度と浮んでこないことを苦しんだ。けれどもペンをとると一氣に十枚ばかり書いた。けれどもこれ以上書けない。これだけでは兄の詩集をけがすに過ぎぬ。一つは兄が私の跋文を紛失させた罪もあるが。

 唯私はこの二度目の此の文章をかいて知つたことは、兄の詩を餘りに愛し過ぎ、兄の生活をあまりに知り過ぎてゐるために、私に批評が出來ないやうな氣がすることだ。思へば私どもの交つてからもう五六年になるが、兄は私にとつていつもよい刺戟と鞭撻を與へてくれた。あの奇怪な『猫』の表現の透徹した心持ちは、幾度となく私の模倣したものであつたが物にならなかつた。兄の纖細な恐ろしい過敏な神經質なものの見かたは、いつもサイコロジカルに滲透していた。そこへは私は行かうとして行けなかつたところだ。

 兄の健康は今兄の手にもどらうとしてゐる。兄はこれからも變化するだらう。兄のあつい愛は兄の詩をますます砥ぎすました者にするであらう。兄にとつて病多い人生がカラリと晴れ上つて兄の肉體を温めるであらう。私は兄を福祉する。兄のためにこの人類のすべてが最つと健康な幸福を與へてくれるであらう。そして兄が此の惱ましくも美しい一卷を抱いて街頭に立つとしたらば、これを讀むものはどれだけ兄が苦しんだかを理解するやうになる。この數多い詩篇をほんとに解るものは、兄の苦しんだものを又必然苦しまねばならぬ。そして皆は兄の蒼白な手をとつて親しく微笑して更らに健康と勇氣と光との世界を求めるやうになるであらう。更らにこれらの詩篇によつて物語られた特異な世界と、人間の感覺を極度までに纖細に鋭どく働かしてそこに神經ばかりの假令へば齒痛のごとき苦悶を最も新しい表現と形式によつたことを皆は認めるであらう。

 も一步進んで言へば君ほど日本語にかげ深さを注意したものは私の知るかぎりでは今までには無かつた。君は言葉よりもそのかげ深さとを音樂的な才分で創造した。君は樂器で表現できないリズムに注意深い耳をもつてゐた。君自らが音樂家であつたといふ事實をよそにしても、いろはにほへを鍵盤にした最も進んだ詩人の一人であつた。

 ああ君の魂に祝福あれ。

 大聲でしかも地響のする聲量で私は呼ぶ。健康なれ! おお健康なれ! と。

 

  千九百十六年十二月十五日深更

         東京郊外田端にて

 

             室 生 犀 星 

 

[やぶちゃん注:詩集「月に吠える」初版(大正六(一九一七)年二月感情詩社・白日社出版部共刊)の跋文。底本は昭和五〇(一九七六)年刊筑摩書房版「萩原朔太郎全集 第一巻」の詩集「月に吠える」のパートに所収されているものに拠った。下線部は底本では傍点「ヽ」。なお、ここに示したものは正確には初版「月に吠える」跋のそのままではなく、底本である筑摩書房版全集編者によって仮名遣や漢字正字への補正が行われたものであることを明記しておく。犀星のこれは著作権上、昨年まではネット上に公開することが出来なかったものである。

 なお、文中に示される詩句は、最初の「ながい疾患のいたみから」と始まるものが「月に吠える」所収の「ありあけ」全篇の、「遠く渚の方を見わたせば」で始まっているものは同詩集「春夜」の途中の抜粋、「凍れる松が枝に/祈れるままに吊されぬ」は本文に「天上縊死」の終行二行の、それぞれの『引用のつもり』なのであるのだが、以下に示すように、実はどれも初版「月に吠える」のそれぞれの当該詩とは一致しない。底本(筑摩版全集第一巻)の校異によれば、『本跋文中の引用詩は、雜誌初出形ないし犀星の記憶に基づくもので、詩集收錄作品とは一致しない』とある。それぞれの詩についてここで見ておきたい。

 まず、「ながい疾患のいたみから」から。初版「月に吠える」所収の「ありあけ」全篇は以下の通り(校異を元に私が再現した正確なもの)。 

 

 ありあけ

 

ながい疾患のいたみから、

その顏はくもの巢だらけとなり、

腰からしたは影のやうに消えてしまひ、

腰からうへには籔が生え、

手が腐れ

身體(しんたい)いちめんがじつにめちやくちやなり、

ああ けふも月が出で、

有明の月が空に出で

そのぼんぼりのやうなうすらあかりで、

畸形の白犬が吠えてゐる。

しののめちかく、

さみしい道路の方で吠える犬だよ 

 

しかし犀星の引用は、実は次に示すこの詩の初出形、『ARS』創刊号である大正四(一九一五)年四月号の所収のものと読点の有無を除いてほぼ一致する。初出形を以下に示す。 

 

  ありあけ

 

ながい疾患のいたみから、

その顏は蜘蛛の巢だらけとなり、

腰から下は影のやうに消えてしまひ、

腰から上には竹が生え、

手が腐れ、

しんたいいちめんがぢつにめちやくちやなり。

ああ、けふも月が出で、

有明の月が空に出で、

そのぼんぼりのやうなうすあかりで、

畸形の白犬が吠えて居る

しののめちかく、

さむしい道路の方で吠える犬だよ。 

 

 次に、「遠くの方を見わたせば」。初版「月に吠える」所収の「春夜」全篇は以下の通り(校異を元に私が再現した正確なもの)。 

 

 春夜

 

淺利のやうなもの、

蛤のやうなもの、

みぢんこのやうなもの、

それら生物の身體は砂にうもれ、

どこからともなく、

絹いとやうな手が無數に生え、

手のほそい毛が浪のまにまにうごいてゐる。

あはれこの生あたたかい春の夜に、

そよそよと潮みづながれ、

生物の上にみづながれ、

貝るゐの舌も ちらちらとしてもえ哀しげなるに、

とほく渚の方を見わたせば、

ぬれた渚路には、

腰から下のない病人の列があるいてゐる、

 ふらりふらりと步いてゐる。

ああ、それら人間の髮の毛にも、

春の夜のかすみいちめんにふかくかけ、

よせくる、よせくる、

このしろき浪の列はさざなみです。 

 

「絹いとやうな」はママである。引用は読点を除去した以外は同じである(『ARS』創刊号大正四(一九一五)年四月号所収の初出でも、この部分は、 

 

 ぬれた渚路には、

 腰から下のない病人の列が步いて居る、

 ふらりふらりと步いて居る、 

 

であるから、この引用は初版「月に吠える」と概ね同じと言えよう。

 問題なのは最後の「天上縊死」からの引用として犀星が示した、

 

凍れる松が枝に

祈れるままに吊されぬ 

 

である。初版「月に吠える」所収の「天上縊死」全篇は以下の通りである(校異を元に私が再現した正確なもの)。 

 

 天上縊死

 

遠夜に光る松の葉に、

懴悔の淚したたりて、

遠夜の空にしも白ろき、

天上の松に首をかけ。

天上の松を戀ふるより、

祈れるさまに吊されぬ。 

 

初出の『詩歌』第五巻第一号(大正四(一九一五)年一月号)所収のものも示しておく。 

 

 天上縊死

 

遠夜(とほよ)に光る松の葉に、

懺悔の淚したゝりて、

遠夜の空にしもしろき、

天上の松に首をかけ。

天上の松を戀ふるより、

祈れるさまにつるされぬ。

          ――淨罪詩扁

 

「扁」はママ。犀星の引用には大きな相違がある。それを朔太郎が指摘しなかったのは、跋の中にある原稿紛失という失策の遠慮が朔太郎にあったからであろうか。それとも犀星が見た、この表現の別稿「天上縊死」があったものか。実は現存する「天上縊死」の草稿(その全貌は別掲する)の中に、この部分の、

 

天上の松に凍る

 

という推敲過程を見出すことが出来るのである。]

曼陀羅を食ふ縞馬 大手拓次

 曼陀羅を食ふ縞馬

 

ゆきがふる ゆきがふる。

しろい雪がふる。

あをい雪がふる。

ひづめのおとがする、

樹をたたく啄木鳥(きつつき)のやうなおとがする。

天馬のやうにひらりとおりたつたのは

茶と金(きん)との縞馬である。

若草のやうにこころよく その鼻と耳とはそよいでゐる。

封じられた五音(いん)の丘(をか)にのぼり、

こゑもなく 空(くう)をかめば、

未知の曼陀羅はくづれ落ちようとする。

おそろしい縞馬め!

わたしの舌から、わたしの胸からは鬼火(あをび)がもえる。

ゆきがふる ゆきがふる。

赤(あか)と紫(むらさき)とのまだらの雪がふる。

 

[やぶちゃん注:「五音」は狭義には中国・日本の音楽の理論用語で音階や旋法の基本となる五つの音を指す。各音は低い方から順に宮・商・角・徴(ち)・羽と呼ばれ、基本型としては洋楽のドレミソラと同様の音程関係になる。「ごおん」とも読む。但し、広義には広く音声の調子・音色の意としても用いられる。ここで拓次は架空の、例えば古代ケルトの遺跡のようなイメージを飛ばして、神聖不可侵の楽の音(ね)の封じ込まれた丘を想起しているように思われる。]

鬼城句集 春之部 山吹

山吹   山吹に大馬洗ふ男かな

「こがねむし」は本当にチャバネゴキブリなのか?

野口雨情の童謡「こがねむし」のコガネムシはチャバネゴキブリと断定するニュース記事を読み、

やや疑問を感じたので検索してみた結果、遥かに説得力があって一読に値する記述を見つけた。

星野仁氏のブログ「童謡『黄金虫』の謎」である。

そこでは有力候補は

タマムシ

であり、懐かしい(小学校の国語の教科書を思い出すなあ!)「玉虫の厨子の物語」のあの厨子(!)が

謎の歌詞「飴屋で水飴 買ってきた」「子供に水飴 なめさせた」

の解明説に一役かっているのも頗る面白い!

これはもう、絶対必読の目から鱗である! 虫嫌いも(僕もそうなんだから平気)ご覧あれ!

2013/04/29

やぶちゃんのトンデモ仮説 「陳和卿唐船事件」の真相

先に「北條九代記」の「宋人陳和卿實朝卿に謁す 付 相摸守諫言 竝 唐船を造る」原文と注をブログ公開したところ、私の教え子が以下のような質問を送ってよこした。以下、それと私の返信を附して、私の「陳和卿唐船事件」の真相についてのトンデモ仮説をご披露して、注の最後としたい。

 

☆教え子の質問と添書

・陳和卿の言葉に実朝の心が動いたのはなぜか(真意はどこにあるかは別として)

 

・もし船の建造に成功したら、実朝には日本を離れる意思が本当にあったのかどうか

 

・陳和卿の胸には大船の竣工、進水のあてがあったのかどうか

 

・彼にもし確信なかったのなら、その真意はどこにあったか

 

・もし竣工、進水に成功したら、彼にはどのような目算があったのか、実朝とともに一緒に大陸へ戻ろうと考えていたのか

 

・陳和卿は、進水に失敗した場合に監督者としての責任追求はされなかったのか

 

・日宋貿易にも使われたような大船の建造技術があったはずの当時の日本で、なぜ進水失敗という噴飯物のミスを犯したか

 

・少なくとも大輪田泊に行けば、大陸へ渡る際に使用できるような船は調達できたはず。なぜわざわざ新造させたのか

 

由比ガ浜に打ち捨てられた大船の姿を想像すると、まるで悪夢を見ているようです。本当に事実だったのか、にわかには信じられません。

 

★やぶちゃんの回答

 

あなたのご質問は、どれも個別には私には明確に答え得ないものばかりです。歴史学者でも――いや――歴史学者だからこそいい加減には答えられない、とも思います。しかし私は実は、それらを一気に解決し得る仮説を持ってはいます。

それは私の若書きの大駄作「雪炎」でも臭わせてある、北条義時による極めて遠大なる謀略であったと仮定するのです。

それは例えば、あなたの疑問を逆に辿ることによって、そのシルエットの片鱗が見えてくるように思われるのです。

あなたの仰るように、おかしいのです、実におかしい。

 

「吾妻鏡」には進水しない記事を以って以降、陳和卿の名は登場しません。渡宋用のしかも将軍の乗る唐船です。莫大な資材と人件費がかかっていることは明白です。従って「進水に失敗した場合に監督者としての責任追求」は当然なされなくては噓で、普通なら、奉行となった結城(小山)朝光と実務責任者であった陳和卿には必ずなんらかの処分が下されねばならない。ところが、そうした記載が一切、現われない。そして、これ以降の和卿の行方は知れない。「大輪田泊」(現在の兵庫県神戸市兵庫区にあった港。現在の神戸港西側の一部に相当する。十二世紀後半に平清盛によって大修築されたのは有名。輪田泊(わだのとまり)ともいい、古くは務古水門(むこのみなと)とも称した。平安末期から鎌倉前期にかけて日宋貿易で栄えた。中世にあっては兵庫湊(ひょうご(の)みなと)と呼ばれた)「に行けば、大陸へ渡る際に使用できるような船は調達できた」にも拘わらず、「なぜわざわざ新造させたのか」が不審であり、また「日宋貿易にも使われたような大船の建造技術があったはずの当時の日本で、なぜ進水失敗という噴飯物のミスを犯したか」も説明出来ないのです。――それを納得させる答えは、ただ一つ――即ち、

 
ちゃんとした「浮かぶ」船を調達されてはまずかったし、もともと進水出来ない船を造ることが目的だったから

 
です。

 

誰にとって?

 
当然、それは北条義時にとってであり、最終局面に於ける陳和卿自身にとっても、そうだったのです。

 

即ち、私は、和卿はもともと義時の企画した謀略の道化役に過ぎなかったのではないか、と考えるのです。

 

だとすれば、誰も処分されないことの理由が腑に落ちます。

 
では、和卿は何時から義時の謀略に加担したのか?

 

私は、鎌倉へ下向し、対面を望んだその初めからであったと考えます。彼は東大寺の僧との領地争いによって京に居づらくなっており、鎌倉に伝手(つて)を求めていた。それを知った義時は、

 

――実朝の外的な意味での完璧な『権威の失墜』――

 

を企画するために、如何にもなパフォーマンスから進水失敗まで、総てのシナリオを事前に用意して、この和卿を誘い込んだと考えています。

 

但し、それが実は義時の謀略であることを和卿がちゃんと知っていて加担したのかどうかは留保しておきます。

 

そうです。

 

私が私の駄作で公暁の遺恨を高まらさせ、実朝暗殺へと導いた手法と同じです。

 

そこでは実は、公暁は謀略の張本人が義時であることを知らず、義時を殺そうとさえする。しかし直前に入れ替わった源仲章を公暁は義時と思って殺すわけです。

 

この、首魁自身がその謀略の中で殺されるかも知れないという自己の生命のリスクまで覚悟しているという遠大な謀略――こそ――「謀略」と呼ぶに相応しい「謀略」であるとさえ私は思っているのです。

 

なお、

 

――実朝の外的な意味での完璧な『権威の失墜』――

 

とは、荒っぽく言えば、

 

――東国武士団総体の将軍実朝に対する信頼感を失墜させること――

 

という意味です。

 

将軍が暗殺されても、その将軍を大勢(たいせい)が疎ましく思っていれば、政情の不安は起りにくい。和歌や官位昇進にうつつを抜かすのに加えて、決定的に人心が離れる事件――『暗殺』する/される事件――のためには是が非でも必要なのです。

 

すでに起動していた(と私は考える)公暁による暗殺のシナリオと平行した、別働隊による補強謀略こそが、この「陳和卿唐船事件」であったのではないか?

 

これが私の説です。

 

そうして、これに従うなら、あなたの前半の疑問も一挙に氷塊します。

 

「陳和卿の言葉に実朝の心が動いたのは」例の夢告と陳の言の一致によるものですよね。実朝はこの六年前の夢を今まで誰にも語っていない、と実朝は語っている(ことになっている)のですが、この六年前というと、実朝は未だ満十八歳です。鮮烈な霊的な夢を見た彼が、それを母や近習、後に来た妻に「話さない」ことの方が、遥かに不自然でしょう。若しくは百歩譲って、誰にも語らなかったとしても、日時と時刻まで明確に記されているというのは、この夢を、実朝は何らかの備忘録に記していたに違いないと言えないでしょうか? それを誰かが見た、盗み見たと仮定してもよい。ともかく北条義時はその恐るべき謀略大プロジェクトの中で、その情報を入手し、和卿グループ別働隊による一芝居のシナリオの大事な素材として採用したことは(義時を翳のフィクサーと確信している私にとっては)想像にかたくないのであります。

 

因みに、従って義時の諫言はポーカー・フェイスの完璧なお芝居ということになります。

 

但し、「もし船の建造に成功したら、実朝には日本を離れる意思が本当にあったのかどうか」という疑義の答えだけは分かりません。ここは実朝の側の問題、しかも実朝がどこまで義時による(私の仮説するところの)大謀略プロジェクトに気づいていたかという問題と深く関わることだからです。

 

あえて言うなら、実朝は謀略の意図やその巧妙さをかなり知っていたと私は思っています。

 

義時の諫言を広元が代わって伝えた際の、その答えに、それがよく現われているとは思いませんか?

 

「彼に言ってやりなさい。――『私は、そなたが企んだことも、その目的がなんであるかも、いや――私がいつ殺されるかさえも、皆、分かっているのです。分かっていながら――あなたの思い通りに――私も――演じているのですよ』とね」

 

とでも言いたそうな口ぶりではありませんか。

 

なお、私は駄作でも示した通り、広元は政子サイド(二人は頼朝死後若しくはその前後から恋愛関係にあったのだと確信しています、その証左は長くなりますからここでは語りません。何時かまたお話しましょう)の人間で、義時のこの陰謀には全く加担していないと考えています。陰謀の成就には、味方でも敵でもない何も知らない実直で真面目な人間がどうしても必要なのです。

(なお、以上の仮説に立てば、残るあなたの「陳和卿の胸には大船の竣工、進水のあてがあったのかどうか」「彼にもし確信なかったのなら、その真意はどこにあったか」「もし竣工、進水に成功したら、彼にはどのような目算があったのか、実朝とともに一緒に大陸へ戻ろうと考えていたのか」という疑義は一切意味を成さないということになります)

 

しかし、強引で余りに複雑過ぎる謀略ですから――私だったら、思いついても、実行しませんね。いや、それほど噴飯ものの仮説かも知れません。

 

――が――実質的な北条執権得宗政治を起動させる義時には是が非でもこれを成功させる――という強烈な意志が働いていたのではないか――とも私は思うのです。

 

なんともトンデモ仮説ですが、これでお許し願えますか。

 

☆以上の回答への教え子の返事の極一部

 

……ただし、「執権」という権力の出所である「征夷大将軍」の権威を傷つける、非常に危ない芝居ですね。自分の体重をも預けているザイルを切断するような……。 

 

★教え子の二信への返事

 

あなたのこの言葉を心に、現代語訳をしているうちに、あることに気付きました。それは大江広元の口を借りて、幕府体制の保守的代弁者が記している故実めいた「臣は己を量りて職を受く」という台詞です。

 

文脈から見ると、この「臣」とは、元征夷大将軍の「職」の「主」であった父頼朝から、その「職」を「享け」継いだところの実朝を指しているものとしか読めません。そしこの後の叙述でも「征夷大将軍」は実際権力のための、意味付けのために「過ぎない」「将軍職」であることが分かるように思います(ここに限るなら、「吾妻鏡」と「北條九代記」に思想の相違はないように思われます)。

 

則ち、最早、この当時の幕府にとってさえ、個人の武士(もののふ)の英雄としての「征夷大将軍」はもう「いない」し、もう「不要」なのであって、それはあたかも例の美濃部達吉の天皇機関説と同様、そうしたお墨付きの「将軍」という「張子の虎」としての存在と、それによって起動する機関的運動作用によって、幕府は正常に動作する、「在る」。それをに操るのは現実的には執権、後の得宗というその実権存在であり、その確立のみが幕府を永く保てる方法であると義時は考えたのではないでしょうか。

 

結局は高時の代に至って、その得宗システム自体も時代遅れの装置として、腐食して錆びつき、遂にはその運動を停止することとなるのですが。

 

ここでも永久機関は物理的に否定される訳で、如何にも私には愉快です。
ただの、つまらぬ思いつきです。読み流して下さい。 
 

 

ともかくも私の駄作は話にならないが、太宰治でさえ、このシーンには惹かれた。「右大臣実朝」では、廃船となった唐船での公暁も登場するロケーション・パートが、頗る好きである。(リンク先は私のやぶちゃん恣意的原稿推定版電子テクスト)。

 

★特別限定やぶちゃん現代語訳 北條九代記 宋人陳和卿實朝卿に謁す 付 相摸守諫言 竝 唐船を造る

本来は「北條九代記」では詳細注釈に徹して、現代語訳はしていないが、ここは僕の大好きな話柄なれば――原文と注釈はこちら――



■やぶちゃん現代語訳

 

 ○宋人陳和卿が実朝卿に謁する事

  付けたり 相模守義時の実朝への諌言の事

  並びに  和卿が唐船を造る事

 

 宋国の陳和卿(ちんなけい)は、並ぶ者とてない名仏師である。しかも学識も優れ、道義も深い。

 来日後、そのまま日本に留まり続け、先(さき)つ頃は東大寺の大仏を造立致いたりもした。――その折りの驚くべき事実を、まずは語らずばなるまい。……

……右大将頼朝卿は、かの寺の落慶供養と新造の仏との結縁(けちえん)を期(き)して上洛致いたが、その折り、

「この度の、功ある宋渡りと申す仏工に、これ、是非とも対面(たいめ)致したいものじゃ。」

と仰せられた。

 ところが、その申し入れに対し、和卿は、

「――かの右大将家は、まことに多くの人の命を奪いなされた。――その罪業、これ、いや重きものなれば、――対面の儀は、未だ最後の落慶まで潔斎せる我らに於いては、これ、憚りが御座る。……」

と申し上げ、何と、遂に拝謁を致さなんだ。……

 ところが、今度(このたび)は、その和卿、当建保四年六月八日に至って、何と、自ら鎌倉へ下って参り、

「――ただ今の将軍実朝卿は、これ、『神仏の化身の生まれ変わり』の御方であらっしゃいます。――されば、是非とも、その御尊顔を拝し奉らんがため、はるばる関東の、この地まで赴き参じて参って御座った。――」

と謁見を願い出る言上(ごんじょう)を成した。

 それを聴いた将軍は、とりあえず、筑後左衞門尉朝重の家に和卿を逗留させ、大江広元朝臣を遣わして遠路来府の慰労をなされた。

 その上で一週間の後の同月十五日、めでたく御所に召し出だされ、将軍家との御対面の儀と相い成った。

 

 ところがそこで、異様なる事態が出来致いた。

 和卿は、将軍家の御前(ごぜん)にて合掌三拝致すと、凝っと将軍家の御尊顔を見つめ、突如、

「――あなたさまの前生(ぜんせい)は!――これ――大宋国に御座る育王山(いくおうざん)の禅師長老で御座る!……そして……そして我らはまさに、その折りの! あなたさまのお弟子で御座ったよッ! アイヤー! 我らのこの邂逅(かいこう)の因縁、これ、浅からざるものじゃ!……前世(ぜんせ)、そして今と……二世の契りを遂げ得たることの有難さよッ!……」

と叫んだかと思うと、滂沱(ぼうだ)の涙を流し、床を叩いて、号泣を始めた。

 ところが、将軍実朝卿には、この言葉を聞こし召されながら、不思議な心当たりが御座った。

『……去る建暦元年六月三日の夜(よ)のこと、私には……夢のお告げがあった。……一人の高貴なる僧が私の前に顕現され……私はかつて育王山の禅師の長老であったとの旨を、これ、私にお告げになられたのだった。……その夢告について、私は今日(こんにち)に至るまで、誰(たれ)にも語ったことは、これ、ない。……そうして六年が過ぎた。……しかし……今まさに……それが符合したではないか?!……』

 このことに気づいた実朝卿は、和卿の昂まりの収まるを見計らって、

「――その和卿が申す条は、全く以って我らが見たる夢の告げに違(たが)はざることじゃ!」

と宣はれたのであった。

 かくして将軍家は和卿に対し、深く信仰をお寄せならるるに至り、和卿を親しくお傍に侍らすことが、これ多なったと申す。 

 

 その対面から半年後の十一月二十四日のこと、将軍家は、ある命を発せられた。

「――私の夢告と和卿の言葉は一致した。――されば我ら、我が前生(ぜんしょう)の御住所たる育王山巡礼のため――入唐せんとぞ、思う。――」

と、即座に随伴する伴の者六十余名をお定めになられたのである。 

 

 驚天動地のとんでもない下知に、相模守義時とその子武蔵守泰時とが、しきりに諌め申しあげたものの、実朝卿は一向に聴く耳をお持ちになられぬ。

 遂には直々に、かの陳和卿に向かわれて、渡唐に用いんがための唐船(とうせん)を一艘建造せよと命ぜられたのであった。 

 

 幕府を――否、日本国を揺るがする、この事態に、相模守義時は密かに大江広元朝臣を自邸に招いて次のように語りかけた。

「……将軍家は、内々に渡唐という、呆れたと申すしか御座ない御事を思い立たれてしもうた。甚だ以って由々しき事態である。我らもしきりに諌言を奉ってはみたものの、これ、一向にお聴き入れ下されぬ。さればこそ、この上なく歎き申しておるところで御座る。そればかりにては御座ない。右大将頼朝公は官位昇進の宣下については、これある時には、その都度、昇進を固辞なされてお受けになられなんだが、当代将軍家は、これ、未だ壮年にもなられておらぬにも拘わらず、昇進のこと、甚だ早(はよ)う御座ろう。……されど……貴殿、何故に、ご忠言申されざるや?」

と苦言を含めたところが、広元も、

「……仰せの通り、日頃より我らとて、そのことを歎息致いて御座ったのじゃ。……いや、我らも、まっこと、心より悩み申し上げては御座ったれど、いささかのご忠言を吐露致す機会も、これ、御座なく……ただもう、独り腸(はらわた)を断ち切らんがばかりに――いや、まことで御座る!――口を噤んでおることしか出来ませなんだ。……しかしながら――古来、『臣たる者は己れの力量を見知って職を享(う)く』とこそ申すに、当代の将軍家は、たた単に先君(せんくん)の貴き御跡(みあと)としての将軍職の名目だけを、これ、お継ぎになられておらるるばかりにて、さしたる勲功も、憚りながら、おありには、なられぬ。しかるに――いや、言わせて貰(もろ)うなら、本邦諸国の総軍最高司令官としての征夷大将軍という職でさえも……これ実は、かの君には未だ、分に過ぎたるもので御座る。にも拘わらず、それに加えて中納言・左中将の職にまで補せられなさってしもうた。……これはまるっきり、摂関家の御子息と、何ら変わりは御座らぬ! これは禍いを重ねること、また、その結果として悪しき応報が降り懸かる、実にその双方に於いて、お遁れになることは、これお出来になれぬ。……しかも、少しの幸運さえも、まるで御子孫に残し伝えらるることは、これ、成し難きことと、申すしかなかろうか。……相い分かり申した。……早速に貴殿の御使(みつかい)として参上致し、進言、これ、申し試みようと存ずる。」

と返答なされ、即座に座を立って自邸にお帰りにならるるや、直ちに踵(きびす)を返して、御所に参じ、常に似ず、

「相州義時の意を介したる使いとして――」

とわざわざ断りの言上(ことあ)げ致いた上、

「――ただ願わくは、御子孫御繁栄の御為(おんため)には中納言及び左中将の当官を辞され、征夷大将軍一職をお守りになられて下されい! お歳を召された暁(あかつき)には、いかようにも、公卿の名誉職をも、これ、お享けになられてもよろしゅう御座いますればこそ!……」

と、遠回しの諌めの言葉を奉って御座った。

 すると、実朝卿は、いたって落ち着いたご様子にて、

「……その忠言……いかにもありがたく思うぞ。……なれど、よいか?……我らが源氏の正統……これ、今、この時に衰微し、子孫は、これ、更に相続なんおはとてものことに成し難きぐらいのことは――広元、そちも分かっておろうが?――されば……我ら、あくまでこれらの官職を兼任保守致し、せめても、源家の家名を、これ、後代に至るまで、正統にして公(おおやけ)なるところの受官の者として、輝かしく伝え残さんものと……思うておるのじゃ。……」

と仰せられた。

 この、恐ろしきまでの覚悟の仰せ言には、流石の広元も、最早、是非を申すに及ばず、黙礼致いたままに退出致すしか御座らんだと申す。

 広元は帰って、再び相州義時を訪ね、この趣きを語っては、両人ともに、今まさに幕府の屋台骨が、これ、積み上げた卵の如、すこぶる危険な状況にあるということばかりを歎きあったと申す。 

 

 翌年の四月、遂に唐船の造立が終わった。

 当日は数百人の人を召し出だされて、

「由比の浦に曳き出だいて浮かばせるように。」

と仰せにならるる。

 結城信濃守行光がこれを奉行致いて、午の刻より申の刻に至るまで、人足にありったけの力をふり絞らせ、

――エイヤ!――エイヤ!

と曳かせたけれども……

……何せ、この浦は元来が遠浅であって、かくも巨大なる唐船(からぶね)の浮ぶようも、これ、御座らねばこそ……何の施しようもなく……

……船は、ただ……

……役立たずのままに……

――さても後にはこの浜辺に打ち捨てられたままに朽ち果ててしまったと申す――

……一方、将軍家はと申せば……

……その日、大願の渡唐の大船(おおぶね)の進水とあって、満を持して御出座遊ばされたものの……かくなる仕儀と相い成り、興も醒めて、申の刻の前には還御なされてしまったとのことで御座った。 

 

「……陳和卿は頼朝卿の殺生の罪を冷徹に測り知り、また、実朝卿の前生をも明晰に記憶して、『人の心に隠された思いや、その運命を見通すことの出来る神通力がある』なんどと、尊(たっと)ばれはしたものの、唐船が由比の浦に浮かぶはずもないという、鎌倉にては童(わらんべ)さえ知りおることをも知らで、かくも御大層なる船を造り出だいては、湯水のように無駄金を費やしてしもうた。いや! なんとも妙に大事なところに行き届かぬ神通力ではないか! ト、ハハハハハ!」

と、市井の人々は、手をたたいては笑いおうた、とのことで御座った。

 

竹の根の先を掘るひと 萩原朔太郎 (「竹」別ヴァージョン)

 

 

 竹の根の先を掘るひと

 

病氣はげしくなり

いよいよ哀しくなり

三ケ月空にくもり

病人の患部に竹が生え

肩にも生え

手にも生え

腰からしたにもそれが生え

ゆびのさきから根がけぶり

根には纎毛がもえいで

血管の巢は身體いちめんなり

ああ巢がしめやかにかすみかけ

しぜんに哀しみふかくなりて憔悴れさせ

絹糸のごとく毛が光り

ますます鋭どくして耐えられず

つひにすつぱだかとなつてしまひ

竹の根にすがりつき、すがりつき

かなしみ心頭にさけび

いよいよいよいよ竹の根の先を掘り。

 

[やぶちゃん注:『卓上噴水』第一集・大正四(一九一五)年二月号に掲載された。後の詩集「月に吠える」初版(大正六(一九一七)年二月感情詩社・白日社出版部共刊)の巻頭の載る「竹とその哀傷」の二篇の別ヴァージョンである。下線「すつぱだか」は底本では傍点「ヽ」。「憔悴れさせ」は「やつれさせ」と訓じていよう。「耐え」及び「ついに」はママ。]

竹 萩原朔太郎 (「月に吠える」の「竹」別ヴァージョン+「竹」二篇初出形)

 

  

 

竹は直角、

人のくびより根が生え、

根がうすくひろごり、

ほのかにけぶる。

        ――大正四年元旦――

 

[やぶちゃん注:『詩歌』第五巻第二号・大正四年二月号に掲載された。この雑誌には、後の詩集「月に吠える」初版(大正六(一九一七)年二月感情詩社・白日社出版部共刊)の巻頭にある「竹とその哀傷」に載る、知られた二篇の「竹」の初出形が一緒に掲載されている。以下に、人口に膾炙する「月に吠える」版ではなく、その『詩歌』第五巻第二号・大正四年二月号に載る初出形の二篇を示し、「月に吠える」版との異同を附言しておく。

   *

 

 

 

ますぐなるもの地面に生え、

するどき靑きもの地面に生え、

凍れる冬をつらぬきて、

そのみどり葉光る朝の空路に、

なみだたれ、

なんだをたれ、

いまはや懺悔を終れる肩の上より、

けぶれる竹の根はひろごり、

するどき靑きもの地面に生え。

          ――淨罪詩篇――

 

   *

「月に吠える」では、

・「なんだをたれ」→「なみだをたれ」(「なんだ」は「なみだ」の音変化であって誤りでも特異な使用でもない。明治期の作品にはしばしば使用されている)

・「懺悔を終れる」→「悔をはれる」(格助詞の除去と平仮名化。漢字表記異体字違い)

・末尾「――淨罪詩篇――」→(なし)

となる。

   *

 

 

 

新光あらはれ、

新光ひろごり。

 

光る地面に竹が生え、

靑竹が生え、

地下には竹の根が生え、

根がしだいにほそらみ、

根の先より纎毛が生え、

かすかにけぶる纎毛が生え、

かすかにふるゑ。

 

かたき地面に竹が生え、

地上にするどく竹が生え、

まつしぐらに竹が生え、

凍れる節節(ふしぶし)りんりんと、

靑空のもとに竹が生え、

竹、竹、竹が生え。

 

祈らば祈らば空に生え、

罪びとの肩に竹が生え。

          ――大正四年元旦――

 

   *

「月に吠える」では、

・第一連「新光あらはれ、/新光ひろごり。」→(なし。連ごと総て除去)

・「ふるゑ」→「ふるへ」(歴史的仮名遣としてならば、「ふるへ」が正しい)

・「節節(ふしぶし)]→「節節」(ルビが除去されている)

・第四連「祈らば祈らば空に生え、/罪びとの肩に竹が生え。」→(なし。連ごと総て除去)

・「――大正四年元旦――」→(なし)

となる。因みに、「月に吠える」ではこの二篇の直後に、無題の以下の詩が作者不詳の挿畫とともに配されてあるが、これは両方の多分にキリスト教的なキャプション及びやはり同じイメージの二篇目の第一連・第四連が除去された代わりの『罪びとの絶望の祈り』ように、私には強く感じられる。

   *

 

  みよすべての罪はしるされたり、

  されどすべては我にあらざりき、

  まことにわれに現はれしは、

  かげなき靑き炎の幻影のみ、

  雪の上に消えさる哀傷の幽靈のみ、

  ああかかる日のせつなる纎悔をも何かせむ、

  すべては靑きほのほの幻影のみ。

   *

 

我々は以上に知られた「竹」のイメージ群の、公開された最初のプロトタイプを見る。]

法性のみち 大手拓次

 法性のみち

 

わたしはきものをぬぎ、

じゆばんをぬいで、

りんごの實のやうなはだかになつて、

ひたすらに法性(ほふしやう)のみちをもとめる。

わたしをわらふあざけりのこゑ、

わたしをわらふそしりのこゑ、

それはみなてる日(ひ)にむされたうじむしのこゑである。

わたしのからだはほがらかにあけぼのへはしる。

わたしのあるいてゆく路のくさは

ひとつひとつをとめとなり、

手をのべてはわたしの足をだき、

唇をだしてはわたしの膝をなめる。

すずしくさびしい野邊のくさは、

うつくしいをとめとなつて豐麗なからだをわたしのまへにさしのべる。

わたしの青春はけものとなつてもえる。

 

[やぶちゃん注:「法性」辞書的な意味を示しておく。仏教用語で一切の存在・現象の真の本性。万有の本体。「真如」「実相」「法界(ほっかい)」とも言う。「ほっしょう」と読むことが多い。]

鬼城句集 春之部 芹

芹    根ッ杭を打ち飛ばしけり芹の中

2013/04/28

北條九代記 宋人陳和卿實朝卿に謁す 付 相摸守諌言 竝 唐船を造る

 

      ○宋人陳和卿實朝卿に謁す 付 相摸守諫言 竝 唐船を造る

 

宋人陳和卿(そうひとちんくわけい)は左右なき佛工(ぶつく)なり。學智勝れ、道德あり。本朝に来りて、跡を留め、東大寺の大佛を造立せり。右大將賴朝卿、彼の寺供養結緣の爲上洛して、對面を遂げらるべき由、仰せらる。陳和卿、申して曰く、「右大將家は多く人の命を斷ち給ふ、罪業、是、重し、對面を遂げん事は我に於て憚(はゞかり)あり」とて、遂に拜謁せざりしが、今度鎌倉に下りて申入れけるやう、「當時の將軍實朝卿は権化(ごんげ)の再誕にておはします。恩顏を拜し奉らん爲(ため)、遙(はるか)に東關の地に赴き參りたり」と言上しければ、筑後(ちくごの)左衞門尉朝重が家に置(おか)れ、廣元朝臣を以て慰勞せしめられけり。かくて御所に召出(めしいだ)し、將軍家對面あり。陳和卿、合掌三拜して申しけるは、「君の前生は大宋(たいそう)の朝(てう)に育王山(いくわうざん)の禪師長老なり。我その時に弟子たりき。値遇の緣淺からず。二世の對面を遂げ得る有難さよ」とて、涙をぞ流しける。將軍實朝卿、聞召(ここしめさ)れ、去ぬる建曆元年六月三日の夜、御夢想のことあり。一人の貴僧、この趣を告げたまひき。御言葉には出し給はず、六年を過し給ふ。今既に符合す。和卿が申す旨、全く夢想に違(たが)ふ事なしとて、御信仰淺からず。然らば前生の御住所育王山巡禮の爲、入唐せばやと思召(おぼしめし)立ち給ふ。扈從(こしよう)の人六十餘輩を定めらる。相摸守義時、武藏守泰時、頻に諫め申すといへども、御許容なく、陳和卿に仰せて唐船をぞ造らせらる。相摸守、竊(ひそか)に廣元朝臣を招きて申されけるは、「將軍家、内々渡唐の事を思召立ち給ふ。甚(はなはだ)然るべからず。頻(しきり)に諫言を奉れ共(ども)、御許容なし。尤歎存(もつともなげきぞん)ずる所にて候。しかのみならず、右大將賴朝公は、官位の宣下、是(これ)ある時は毎度固辭して受け給はざりけるに、當將軍家は未だ壮年にも及ばせ給はで、昇進甚(はなはだ)早速(さつそく)なり。貴殿何ぞ申されざるや」とありければ、廣元、答へて申さるるやう、「仰(おほせ)の如く、日比、此事を歎息する所、丹府(たんふ)を惱しながら、微言(びげん)を吐くに遑(いとま)なくして、獨(ひとり)腸(はらわた)を斷ちて默止(もだし)來れり。臣は己を量りて職を受くとこそいふに、當家、僅(わづか)に先君(せんくん)の貴跡(きせき)を繼ぎ給ふ計(ばかり)にて、指(させ)る勲功おはしまさず。然るを諸國の官領職(くわんれいしよく)だに過分の義なり、其(それ)に中納言、左中將に補せられ給ふ、頗る攝關(せつくわん)の御息に替らず、嬰害積殃(ようがいせきわう)の兩篇(へん)を遁れ給ふべからず、佳運、更に後胤(こういん)に傳難(つたへがた)からんか。早く御使として申し試み候はん」とて、座を立て歸られ、御所に參じて、相州の中使(ちうし)と稱し、諷諫(ふうかん)を奉り、「只希(ねがは)くは、御子孫繁榮の御爲には當官を辭して、征東將軍の一職を守り、御高年の後には、如何にも公卿の大職をも受け給へかし」とぞ申されける。實朝卿、仰せられけるに「諷諫、尤も(もつとも)甘心すべしといへども、源氏の正統、今この時に縮(ちゞま)りて、子孫、更に相續(そうぞく)し難(がた)し。然らば我飽(あく)まで官職を兼守(かねまも)り、家名を後代に輝(かゝやか)さんと思ふなり」と、宣へば、廣元、是非を申すに及ばず、退出して、相州にこの由を語り、諸共(もろとも)に累卵(るゐらん)の危(あやぶ)みをぞ歎きける。翌年四月に唐船(たうせん)を造畢(ざうひつ)す。數百人の匹夫(ひつぷ)を召して、由比浦(ゆひにうら)に引き浮(うか)ぶべき由、仰出(おほせいだ)さる。信濃守行光、奉行して、午刻(うまのこく)より申刻(さるのこく)まで人歩(にんぷ)の筋力を盡さしめ、曳(えい)や曳やと引(ひか)せけれども、此浦もとより、唐船の浮ぶべきにあらねば、何の詮(せん)なく、徒(いたづら)に船は海濱に朽損(くちそん)じけり。將軍家、御出ありしも興(きよう)さめて、還御あり。陳和卿は賴朝卿の殺罪を知り、實朝の前生(ぜんしやう)を覺え、他心宿命(たしんしゆくめい)の通力(つうりき)ありと、貴(たつと)かりけれども、唐船の浮ぶまじき事を知らで、かく廣大に造出(つくりいだ)し、用なき費(ついえ)を致しける。行足(ゆきたら)ぬ神通(じんつう)かなと、手を拍(たゝ)きて笑合(わらひあ)へり。 

 

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻二十二の建保四(一二一六)年六月八日・十五日及び九月十八日・二十日及び十一月二十四日と、翌建保五年四月十七日の条に基づく。私の頗る好きなエピソードであるので、本話には私のオリジナルな全文現代語訳を附した。

 

「陳和卿(ちんくわけい)」(生没年未詳)南宋からの渡来工人。本文通りだと、現代仮名遣では「ちんかけい)」となるが、「和」は呉音が「ワ」、漢音が「カ(クヮ)」であるから問題なく、また私はどうしても習慣的に「ちんなけい」と読みたいので、「吾妻鏡」もそれで振った。以下、ウィキの「陳和卿」によれば、平安末の十二世紀末に来日したものと思われ、「南都大佛殿供養 付 賴朝卿上洛」で既に見たように治承四(一一八〇)年の東大寺焼失後、勧進上人の重源に従って焼損した大仏の鋳造と大仏殿の再建に尽力、その功によって播磨国大部荘など五箇所の荘園を賜ったが、それらを重源の大勧進職に寄進して彼はその経営に関与していた。ところが、東大寺の僧侶たちから、彼が材木を船を造るために流用して再建を妨害し、重源を裏切って先に寄進した荘園を押領して再び自分のものにしようとしている、と告発されたため、元久三(一二〇六)年には、『後鳥羽上皇から「宋人陳和卿濫妨停止下文」が出されて、当該荘園及び東大寺の再建事業から追放された。新井孝重によればこの告発は事実ではなく、外部の人間である重源や陳和卿によって寺の再建の主導権を握られた東大寺の僧侶の反感によるものであったという』。その後、本話のように彼は鎌倉に現われ、驚天動地のパフォーマンスを演じて、実朝の信任を勝ち取り、渡宋を思い立った実朝に命じられて、かくの如き大船の建造に着手したが、御覧の通りの仕儀となった。『その後は消息不明。経歴には不明な点が多い』とあるのみ。私はこの陳和卿という男、少なくともこの実朝の一件にあっては、二十の時に書いた超駄作時代小説「雪炎」以来、ずーぅっと、とんだ食わせ者だと思っている。

 

「育王山」阿育王山。浙江省寧波の阿育王禅寺。二八一年に西晋の劉薩訶(りゅうさっか)が釈迦入滅の百年(または二百年)後の古代インドで仏教を守護した阿育王(アショーカ王)の舎利塔を建立した地で、宋代には広利寺と称して五山の一つであった。

 

「丹府」「丹腑」で「赤心」のことであろう。嘘いつわりのない、ありのままの心。丹心。真心(まごころ)。

 

「臣は己を量りて職を受く」文脈から見ると、広元の言うここでの「臣」とは、元征夷大将軍の「職」の「主」であった父頼朝から、その「職」を「享け」継いだところの実朝を指しているものと思われる。但し、この故実が何に基づくものかは不学にして不明である。識者の御教授を乞うものである。

 

「嬰害積殃」「嬰害」の「嬰」は、加算の意で、たび重なる禍い、「積殃」は「積悪の余殃(せきあくのよおう)」で、悪事を積み重ねれば必ず「殃」(禍い)によって報われることとなるという謂いで、ここは禍いを重ねて、その結果として、更にまた、その悪しき応報が降り懸かることを言っている。

 

「中納言、左中將に補せられ給ふ」「吾妻鏡」によれば、実朝はこの建保四年六月二十日に権中納言に転任(この場合の「権」は定員外配当で同等)、七月二十一日には左近衛中将を兼任している。所謂、官打ちの始まりである。

 

「諷諫」遠回しの忠告。

 

「累卵の危み」一般に「累卵の危うき」で使う。「史記」范雎(はんしょ)伝に基づき、積み上げた卵のように非常に不安定で危険な状態の意。

 

「午刻より申刻まで」正午頃から午後四時頃まで。

 

まず、建保四(一二一六)年六月八日の条を見る(書き下しは時制上の相違を改行とダッシュで示した)。

 

○原文

 

八日庚寅。晴。陳和卿參著。是造東大寺大佛宋人也。彼寺供養之日。右大將家結緣給之次。可被遂對面之由。頻以雖被命。和卿云。貴客者多令斷人命給之間。罪業惟重。奉値遇有其憚云々。仍遂不謁申。而於當將軍家者。權化之再誕也。爲拜恩顏。企參上之由申之。即被點筑後左衞門尉朝重之宅。爲和卿旅宿。先令廣元朝臣問子細給。

 

〇やぶちゃんの書き下し文

 

八日庚寅。晴る。陳和卿(ちんなけい)、參著す。

――是れ、東大寺大佛を造れる宋人(そうひと)なり。彼の寺供養の日、右大將家、結緣し給ふの次でに、對面を遂げらるべきの由、頻りに以て命ぜらると雖も、和卿云はく、

「貴客は多く人命を斷たしめ給ふの間、罪業、惟(こ)れ重し。値遇(ちぐ)し奉ること、其の憚り有り。」

と云々。

仍つて遂に謁し申さず。――

而るに當將軍家に於ては、

「權化(ごんげ)の再誕なり。恩顏を拜さんが爲に、參上を企つ。」

の由、之を申す。即ち、筑後左衞門尉朝重が宅を點ぜられ、和卿の旅宿と爲す。先づ廣元朝臣をして子細を問はしめ給ふ。

 

東大寺供養については、「卷第一」の「南都大佛殿供養 付 賴朝卿上洛」にあり、和卿も登場しているが、ここに記された会見固辞の一件はここで初めて明かされる。但し、「吾妻鏡」には載るので、この回想記録と対比するために、

「巻十五」の建久六(一一九五)年三月十三日

の条をも以下に掲げておく。

 

○原文

 

十三日戊戌。晴。將軍家御參大佛殿。爰陳和卿爲宋朝來客。應和州巧匠。凡厥拜盧遮那佛之修飾。殆可謂毘首羯摩之再誕。誠匪直也人歟。仍將軍以重源上人爲中使。爲値遇結緣。令招和卿給之處。國敵對治之時。多斷人命。罪業深重也。不及謁之由。固辭再三。將軍抑感涙。奥州征伐之時以所著給之甲冑。幷鞍馬三疋金銀等被贈。和卿賜甲冑爲造營釘料。施入于伽藍。止鞍一口。爲手搔會十列之移鞍。同寄進之。其外龍蹄以下不能領納。悉以返獻之云々。

 

○原文

 

十三日戊戌。晴る。將軍家、大佛殿に御參。爰に陳和卿、宋朝の來客として、和州の巧匠に應ず。凡そ厥(そ)の盧遮那佛(るしやなぶつ)の修飾を拜むに、殆んど毘首羯摩(びしゆかつま)の再誕と謂ひつべし。誠に直(ただ)なる人に匪ざるか。仍つて將軍、重源(ちやうげん)上人を以て中使と爲し、値遇結緣(ちぐけちえん)の爲に、和卿(なけい)を招かしめ給ふの處、

「國敵對治の時、多く人命を斷つ。罪業深く重きなり。謁に及ばず。」

の由、固辭再三す。將軍、感涙を抑(をさ)へ、奥州征伐の時、著し給ふ所の甲冑幷びに鞍馬三疋、金銀等を以つて贈らる。和卿、賜はる甲冑を造營の釘料(くぎれう)として、伽藍に施入(せにふ)す。鞍一口を止どめ、手搔會(てがいゑ)十列(じふれつ)の移鞍(うつしぐら)として、同じく之を寄進す。其の外の龍蹄(りゆうてい)以下、領納に能はず、悉く以つて之を返し獻ずると云々。

 

・「毘首羯摩」帝釈天の弟子で仏師の祖とされる伝説上の人物。

 

・「手搔會十列の移鞍」「手搔會」は「転害会」とも書く。東大寺西方の雑司町にある平城左京一条大路に西面して建つ転害門で行われる祭礼儀式。現在は毎年十月五日の東大寺鎮守手向山八幡宮の祭礼の際、神輿遷座の門として、ここから総ての祭儀が開催される。平安期には八幡宮祭と呼ばれた。転害門は謂わば、この祭礼に於ける御旅所である。名称はこの門の位置が大仏殿の西北に置かれており、これが吉祥の位置であって、「害を転ずる」の意から「転害門」とも呼ばれ、それが祭儀の名ともなったものである。奈良時代、宇佐八幡宮を東大寺の守護神として東大寺境内に遷座して以来の、非常に古い祭礼であると言われている(以上は「なら・観光ボランティアガイドの会 朱雀」の「東大寺の転害会」に拠った)。「移鞍」は、その儀式に於いて乗換用として用意される馬(行列の十列目に配されものか)におく鞍、の意である。

 

 

続いて建保四(一二一六)年六月十五日の条。

 

○原文

 

十五日丁酉。晴。召和卿於御所。有御對面。和卿三反奉拜。頗涕泣。將軍家憚其禮給之處。和卿申云。貴客者。昔爲宋朝醫王山長老。于時吾列其門弟云々。此事。去建暦元年六月三日丑尅。將軍家御寢之際。高僧一人入御夢之中。奉告此趣。而御夢想事。敢以不被出御詞之處。及六ケ年。忽以符合于和卿申狀。仍御信仰之外。無他事云々。

 

○やぶちゃんの書き下し文

 

十五日丁酉。晴る。和卿を御所に召して、御對面有り。和卿、三反(さんべん)拜し奉り、頗る涕泣す。將軍家、其の禮を憚り給ふの處、和卿申して云はく、

「貴客(きかく)は、昔、宋朝醫王山(いわうざん)の長老たり。時に吾れ、其の門弟に列す。」

と云々。

此の事、去ぬる建暦元年六月三日丑の尅、將軍家、御寢の際、高僧一人、御夢(おんゆめ)の中に入りて、此の趣きを告げ奉る。而れども御夢想の事、敢へて以つて御詞(おんことば)に出だされざるの處、六ケ年に及び、忽ちに以つて和卿の申し狀に符合す。仍つて御信仰の外、他事無しと云々。

 

 

続いて建保四(一二一六)年九月十八日と二十日の連続する条を示す。

 

○原文

 

九月小十八日戊戌。晴。相州招請廣元朝臣。被仰云。將軍家任大將事。内々思食立云々。右大將家者。官位事宣下之毎度。固辭之給。是爲令及佳運於後胤給也。而今御年齡未滿成立。壯年御昇進。太以早速也。御家人等亦不候京都兮。面々補任顯要官班。可謂過分歟。尤所歎息也。下官以愚昧短慮。縱雖傾申。還可蒙其誡。貴殿盍被申之哉云々。廣元朝臣答申云。日來思此事。雖惱丹府。右大將家御時者。於事有下問。當時無其儀之間。獨断膓。不及出微言。今預密談。尤以爲大幸。凡本文之所訓。臣量己受職云々。今繼先君貴(遺)跡給計也。於當代無指勳功。而匪啻管領諸國給。昇中納言中將御。非攝關御息子者。於凡人不可有此儀。爭遁嬰害積殃之兩篇給乎。早爲御使。可申試愚存之趣云々。

 

廿日庚子。晴。廣元朝臣參御所。稱相州中使。御昇進間事。諷諫申。須令庶幾御子孫之繁榮給者。辭御當官等。只爲征夷將軍。漸及御高年。可令兼大將給歟云々。仰云。諫諍之趣。尤雖甘心。源氏正統縮此時畢。子孫敢不可相繼之。然飽帶官職。欲擧家名云々。廣元朝臣重不能申是非。即退出。被申此由於相州云々。

 

○やぶちゃんの書き下し文

 

十八日戊戌。晴る。相州、廣元朝臣を招請し、仰せられて云はく、

「將軍家、大將に任ずる事、内々思し食し立つと云々。右大將家者、官位の事宣下の毎度、之を固辭し給ふ。是れ、佳運を後胤に及ばしめ給はん爲なり。而るに今、御年齡、未だ成立に滿たず。壯年の御昇進、太(はなは)だ以つて早速なり。御家人等、亦、京都に候ぜずして、面々に顯要の官班に補任す。過分と謂ひつべきか。尤も歎息する所なり。下官の愚昧短慮を以つて、縱ひ傾(かたぶ)け申すと雖も、還つて其の誡(いまし)めを蒙るべし。貴殿、盍ぞ之を申されざるや。」

と云々。

廣元朝臣、答へ申して云はく、

「日來(ひごろ)、此の事を思ひ、丹府を惱すと雖も、右大將家の御時は、事に於いて下問有り。當時は其の儀無きの間、獨り膓(はらわた)を斷ち、微言を出すに及ばず。今、密談に預り、尤も以つて大幸たり。凡そ本文の訓(おし)ふる所、臣、己れを量り、職を受く。」

と云々。

「今は先君の遺跡を繼ぎ給ふ計りなり。當代に於いて指(さ)せる勳功無し。而るに啻(た)だ諸國を管領し給ふのみに匪(あら)ず、中納言中將に昇り御(たま)ふ。攝關の御息子に非ずんば、凡人に於いては此の儀有るべからず。爭(いかで)か嬰害積殃(ゑいがいせきあう)の兩篇を遁れ給はんか。早く御使として、愚存の趣きを申し試むべし。」

と云々。

 

廿日庚子。晴る。廣元朝臣、御所へ參り、相州の中使(なかづかひ)と稱し、御昇進の間の事、諷諫し申す。

「須らく御子孫の繁榮を庶幾(しよき)せしめ給ふべくんば、御當官等を辭し、只だ、征夷將軍として、漸くに御高年に及び、大將を兼ねしめ給ふべきか。」

と云々。

仰せて云はく、

「諫諍之趣、尤も甘心すと雖も、源氏の正統は此の時に縮り畢んぬ。子孫、敢へて之を相ひ繼ぐべからず。然れば、飽くまで官職を帶(たい)し、家名を擧げんと欲す。」

と云々。

廣元朝臣、重ねて是非を申す能はず、即ち退出し、此の由、相州に申さると云々。 

 

同年十一月二十四日の造船命令の条。

 

○原文

 

廿四日癸夘。晴。將軍家爲拜先生御住所醫王山給。可令渡唐御之由。依思食立。可修造唐船之由。仰宋人和卿。又扈從人被定六十餘輩。朝光奉行之。相州。奥州頻以雖被諫申之。不能御許容。及造船沙汰云々。

 

○やぶちゃんの書き下し文

 

廿四日癸夘。晴る。將軍家、

「先生(せんしやう)の御住所、醫王山を拜し給はんが爲、唐へ渡りせしめ御(たま)ふべし。うべし。」

の由、思し食(め)し立つに依て、唐船を修造すべきの由、宋人和卿に仰(おほ)す。又、扈從の人六十餘輩を定めらる。朝光、之を奉行す。相州・奥州、頻に以つて之を諫め申さると雖も、御許容に能ばず、造船の沙汰に及ぶと云々。

 

 

そして――翌、建保五(一二一七)年四月十七日の条。

 

○原文

 

十七日甲子。晴。宋人和卿造畢唐船。今日召數百輩疋夫於諸御家人。擬浮彼船於由比浦。即有御出。右京兆監臨給。信濃守行光爲今日行事。隨和卿之訓説。諸人盡筋力而曳之。自午尅至申斜。然而此所之爲躰。唐船非可出入之海浦之間。不能浮出。仍還御。彼船徒朽損于砂頭云々。

 

○やぶちゃんの書き下し文

 

十七日甲子。晴る。宋人和卿、唐船を造り畢んぬ。今日、數百輩の疋夫(ひつぷ)、諸御家人を召し、彼の船を由比の浦に浮かべんと擬す。即ち御出有り。右京兆、監臨し給ふ。信濃守行光、今日の行事たり。和卿之の訓説に隨ひ、諸人、筋力を盡して之を曳くこと、午の尅より申の斜めに至る。然れども、此の所躰爲(ていたらく)、唐船の出入すべきの海浦(かいほ)に非ざるの間、浮き出だす能はず。仍つて還御す。彼(か)の船、徒(いたづ)らに砂頭に朽ち損ずと云々。]

江の島 田山花袋

江の島   田山花袋

 

[やぶちゃん注:大正七(一九一八)年博文館刊の、自然主義の巨頭(私は彼の写真を見る都度、文字通り、巨頭と言いたくなるのである)田山花袋「一日の行楽」より。底本は国立国会図書館近代デジタルライブラリーの画像(コマ番号237)を視認してタイプした。親本は総ルビであるが、読みの振れそうなものと難読語のみのパラルビとした。踊り字「〱」は正字に直した。]

 

     江の島

 

 鎌倉から電車で行く。

 極樂寺の切通を過ぎると、竹藪、水車、小さな川が潺々(せんせん)と流れてゐる。この川の東岸に、義貞鎌倉攻めの時に奮戰して戰死した大舘宗氏(おほだてむねうぢ)以下の墓がある。歩いて行つって見ても好(よ)い。

 やがて海が見え出して來る。

 碧(あを)い、碧い海だ。風のある日に、それに波頭(はとう)が白く颺(あが))つて湧くやうになつて見える。やがて江の島の靑螺(せいら)が海中に浮かんでゐるのが見える。

 漁村が漁村につゞく。電車はところどころに停(とま)つては動いて行く。疎らな風情のある松原の中に別莊のあつたりするのが眼に着く。やがて左はすつかり海になる。所謂七里ケ濱である。江の島は手に取るやうに見える。岸には波が寄せては返し、返しては寄せて來る。

 腰越(こしごえ)の村はづれの岩の松の靡いてゐるのが遠く見える。

 小さな川が丘の中から出て海に注いで行つてゐる。

 行合川(ゆきあひがは)である。僧日蓮の龍口御難(たつのくちごなん)の時、報ずる使者と宥免(いうめん)の使者が行逢(ゆきあ)つたところだといふことである。

 やがてその長い濱は盡きて、ごたごたした漁村に入つて行く、茅茨瓦甍相接(ばうしぐわくわうあひせつ)すといふ風である。昔はこゝは鎌倉の出外(ではづ)れの宿(しゆく)で、非常に賑やかなところであつた。誰(たれ)も皆此處(ここ)に來て一宿して鎌倉に入る許可を待つた。義經などは此處まで來て、遂に鎌倉に入(はひ)ることを許されなかつた。例の腰越狀は此處で書かれた。それを思ふと、旅客(りよかく)は昔を思ふの念に堪へないであらう。

 滿福寺(まんぷくじ)に一詣(し)する。

 それから例の龍口(たつのくち)の龍口寺(りうこうじ)に行く。こゝはもう片瀨である。寺はかなり大きな立派な寺でである。あの日蓮が法華經を持(ぢ)して動かなかつたさまなどが想像される。寺の前に、有名な片瀨饅頭がある。日光の湯澤屋の饅頭よりは拙(まづ)いけれども、それでも東京の土産にはちよつと面白い。

 片瀨で電車を下りる。暫しの間、田舍道を行く、やがて松原が來る。それを通り拔ると、砂濱。もう江の島はずぐ手に取るばかりに近くにある。

 江の島は地形は日向(ひうが)の靑島に似てゐて、それよりも好(よ)い。東京に近く、あまりに人口に膾炙しすぎたので、人は餘りめづらしいと思はないけれど、始めて見た人には、非常に好風景(かうふうけい)に思はれるに相違ない。江戸時代には、江の島鎌倉と言つて、人がわざわざ歩いて一日泊りで生魚(せいぎよ)を食ひに來たところである。右に連つた箱根連山、その上に聳えた富士が非常に美しい。茅ケ崎の海岸にある烏帽子岩も、注意するとそれと指さゝれた。

 砂濱を七八町、やがて棧橋が來る。かなりに長い棧橋である。この棧橋は、暴風雨の時にはよく流されて、島との交通が一日も二日も絶えて了ふことがよくある棧橋である。これを渡ると宿引(やどひき)が澤山やつて來て旅客(りよかく)にまつはる。ゑびすや、江戸屋、岩本、さぬきやなどといふ旅館がある。

 やがて旅客は狹いゴタゴタした爪先上がりの通(とほり)を發見する。江の島土産を竝べた家が軒をつらねて戸毎(こごと)に通る客を呼んでゐる。一種特色のある町である。

 それを通り拔けて少し上ると、左に、金龜樓(きんきろう)といふ旅舍(りよしや)がある。

 こゝでの旅舍は、富士を見るのには、岩本、ゑびすやなどが好い。その反對に、鎌倉、逗子の方を見るには金龜樓が好い。宿料(しゆくれう)は一圓五十錢内外。

 一體、江の島は昔から江戸の人が生魚(せいぎよ)を食ひに來た處なので、旅舍では食物(しよくもつ)の多いを誇りにしてゐる。二の膳、三の膳、もつと多くつける。從つて宿料や晝食料(ちうしよくれう)が廉(やす)くない。それに、調理法も田舍者相手なのであまり旨くない。唯(ただ)材料の多いので旅客を驚かすといふ風である。

 金龜樓から、辨天の本社に參詣して、それから島の絶頂のやうなところを通つて、それからだらだらと下りる。岩と岩との間から白く碎けた波の海が見えて、景色が好い。一遍上人成就水のあるところへ下りて行く山二つあたりは、殊に眺望がすぐれてゐる。

 それも通り越す。と、又土産物を賣る店が兩側に竝んで、やがて奥社の境内へと入つて行く。境内は西の海に面して、感じは広々としてゐる。その西南の隅には、かけ茶屋(ちやや)があつて、そこから窟(いはや)の辨天に行く路が下りて行く。このかけ茶屋の上から見た海は非常に好い。波も好ければ、海も面白い。聳えたり伏したしてゐる岩石にも奇姿(きし)が多い。それに、そこからは、大島の三原山の噴烟(ふんえん)が見える。

 その茶屋で、名物のさゞえの壺燒でも食つて、草履をかりて、そして窟(いはや)へと下りて行く。兒(ちご)が淵(ふち)がすぐその下にある。それは鎌倉の寺の稚兒(ちご)が投身したところとして世にきこえてゐるところである。

 好(い)い加減下りて、岩から岩を傳つて歩く。右も左も前もすべて怒濤澎湃(どたうぼうはい)としてあら海である。そこに、鮑(あはび)を海底から取つて來ると稱する漁師がゐる。しかし、これは取つて來るのではなくて、自分で手で持つて海に入つて取つて來たやうな振(ふり)をするのである。昔はこれでもめづらしいと人々が思つたものだが、今ではそんなことに欺かれるやうな旅客は少ない。

 龍窟(りうくつ)の中は、俗だけれど、ちよつと面白い。棧橋を渡つて、窟(いはや)の中から振返つて海を見た形は奇觀である。案内者があつて、遊覽者を窟の中につれて行くが、窟もかなり深い窟である。

 歸りは山二つの手前のところから左に入つて、近路(ちかみち)をして町の上のところへと出て來る。そこから西に向つた海が手に取るやうに見える。

 で、引返す。片瀨に來て、電車に乘る。電車の中から片瀨川の芦荻(ろてき)や葦(あし)の多い小さな川が見える。電車の便(びん)のない時分には、遊覽者は藤澤からすこし歩いて來て、おの川に待つてゐる小舟に乘つて、海近くまで下つて行つたものである。川の向うは砥上(とがみ)ケ原で、古戰場である。

 鵠沼の停留場で下りると、海水浴舍(かいすゐよくしや)が五六軒そこから五六町行つたところにある。鵠沼海水浴は其處(そこ)である。海水浴をするところとしては、餘りよくはないが、松原がちよつと好(よ)い。宿料も片瀨に同じ位(くらゐ)で、さう大して高くない。

 で、藤澤に來る。

 藤澤には例の遊行寺(いうぎやうじ)がある。時宗の本山で、そこから遊行上人(いうぎやうじゃうにん)が各地に説教に出るのできこえてゐる。そこに行くには一汽車おくらせねばならないが、次手(ついで)だから行つて見るが好(よ)い。距離は十二三町、車賃往復五十錢と思へば間違はない。寺の前は賑やかな門前町で、堂宇も宏壯(くわいさう)である。裏には小栗判官堂がある。小さな小僧が可笑しく案内をする。

 人に由(よ)つては、江の島を先にし、鎌倉を後(あと)にするものもあるであろうが、さういふ人はこれを逆に應用して貰へば間違はない。

 

[やぶちゃん注:「靑螺」元来は青緑色のニシ(巻貝)をいうが、転じて青い山の形容。遠くの山の形を巻貝の形に譬えたものであろう。

「片瀨饅頭」片瀬龍口門前(藤沢市片瀬海岸)にある創業天保元(一八二八)年の和菓子屋「上州屋」の「片瀬まんじゅう」(現在、酒饅頭と茶饅頭の二種があるが、花袋は湯沢屋と比較しているので酒饅頭である)。なお、この「片瀬まんじゅう」、饅頭近代史の中で馬鹿に出来ない存在なんである。ウィキ温泉饅頭には、現在、無数にある温泉饅頭の発祥は一般に伊香保温泉とするのが定説らしいが、そのルーツについて、明治四三(一九一〇)年のこと、伊香保電気軌道(現在は廃線)の伊香保―渋川間開業時のこと、伊香保から江ノ島電鉄の視察に行った者が土産にこの『「上州屋」の「片瀬饅頭」を買って帰り、伊香保で創業間もない団子屋「勝月堂」の初代・半田勝三に、「湯の色をした独特の饅頭を作って、それを名物にしてみては如何なの?」と進言し、その半年後に黒糖を使い、鉄分を含んだ茶褐色の伊香保独特の湯の色に似せた「湯乃花饅頭」が誕生した』とあるのである! 恐るべし! 片瀬まんじゅう! 今度、必ず食うたろ!

「日光の湯澤屋の饅頭」日光市下鉢石町の日光寺社群の門前にある文化元(一八〇四)年創業の和菓子屋「湯沢屋」の酒饅頭。永く元祖「日光饅頭」と呼ばれ親しまれてきた(商標登録の関係で現在は「湯沢屋のまんじゅう」。以上は湯沢屋」公式サイトに拠る)。

「一遍上人成就水」現在は「一遍上人の島井戸」と呼ばれている。リニュアールして改名された新植物園「サムエル・コッキング苑」を通り過ぎた、江ノ島大師近くにある。一遍上人が飲み水に窮していた島民を助うために加持して掘り当てたと伝えられる井戸。一遍自筆と伝える「一遍成就水」の額が江島神社に残る。

 最後に。「そこに、鮑を海底から取つて來ると稱する漁師がゐる。……」というのは、江の島の裏の魚板石(まないたいし)周辺の話柄であるが、余り知られているとは思われないが、かの芥川龍之介は、未完作品「大導寺信輔の半生」の最終章「六 友だち」の掉尾に、この魚板石付近を舞台にした印象的なエピソードが語られている。私のテクストから当該部を引用しておく。

 

 信輔は才能の多少を問はずに友だちを作ることは出來なかつた。標準は只それだけだつた。しかしやはりこの標準にも全然例外のない訣ではなかつた。それは彼の友だちと彼との間を截斷する社會的階級の差別だつた。信輔は彼と育ちの似寄つた中流階級の靑年には何のこだわりも感じなかつた。が、纔かに彼の知つた上流階級の靑年には、――時には中流上層階級の靑年にも妙に他人らしい憎惡を感じた。彼等の或ものは怠惰だつた。彼等の或ものは臆病だつた。又彼等の或ものは官能主義の奴隸だつた。けれども彼の憎んだのは必しもそれ等の爲ばかりではなかつた。いや、寧ろそれ等よりも何か漠然としたものの爲だつた。尤も彼等の或ものも彼等自身意識せずにこの「何か」を憎んでゐた。その爲に又下流階級に、――彼等の社會的對蹠點に病的な惝怳を感じてゐた。彼は彼等に同情した。しかし彼の同情も畢竟役には立たなかつた。この「何か」は握手する前にいつも針のやうに彼の手を刺した。或風の寒い四月の午後、高等學校の生徒だつた彼は彼等の一人、――或男爵の長男と江の島の崖の上に佇んでゐた。目の下はすぐに荒磯だつた。彼等は「潛り」の少年たちの爲に何枚かの銅貨を投げてやつた。少年たちは銅貨の落ちる度にぽんぽん海の中へ跳りこんだ。しかし一人海女あまだけは崖の下に焚いた芥火の前に笑つて眺めてゐるばかりだつた。

 「今度はあいつも飛びこませてやる。」

 彼の友だちは一枚の銅貨を卷煙草の箱の銀紙に包んだ。それから體を反らせたと思うと、精一ぱい銅貨を投げ飛ばした。銅貨はきらきら光りながら、風の高い浪の向うへ落ちた。するともう海女はその時にはまつ先に海へ飛びこんでゐた。信輔は未だにありありと口もとに殘酷な微笑を浮べた彼の友だちを覺えてゐる。彼の友だちは人並み以上に語學の才能を具へてゐた。しかし又確かに人並み以上に鋭い犬齒をも具へてゐた。…………

 

本文中に「或風の寒い四月の午後、高等學校の生徒だつた彼は彼等の一人」とあるが、龍之介の一高卒業は大正二(一九一三)年七月であるから、これは明治四十四(一九一一)年か翌年の四月、若しくは卒業年の大正二(一九一三)年四月の間の出来事となる。まさに花袋の描いたものと美事にシンクロナイズする、まさに海の中のシークエンスなのである。]

鎌倉 田山花袋

鎌倉   田山花袋

 

[やぶちゃん注:大正七(一九一八)年博文館刊の、自然主義の巨頭(私は彼の写真を見る都度、文字通り、巨頭と言いたくなるのである)田山花袋「一日の行楽」より。底本は国立国会図書館近代デジタルライブラリーの画像を視認してタイプした。親本は総ルビであるが、読みの振れそうなものと難読語のみのパラルビとした。なお、親本には途中に「鎌倉圓覺寺舎利殿」のキャプションを持つ当時の写真が挿入されてある。]

 

     鎌倉

 

 鎌倉と江の島は、今では東京の郊外と言つても好(よ)い位(くらゐ)である。ちよつと遊びに行くにもわけがない。鎌倉に住宅を構へて、毎日汽車で東京に出勤してゐるつとめ人などもある位である。

 鎌倉は歴史の跡に富んでゐる。日本では、奈良、平泉、鎌倉、この三つが完全な『廢都(はいと)』の址(あと)である。中で、鎌倉はやゝ開けすぎたので、『廢都』といふ感じは薄らいで了つてゐるけれども、小野湖山が鎌倉懷古の七絶を賦した時分には、憑弔(いようてう)の客(きやく)をして涙(なみだ)襟(きん)を沾(うるほ)すに至らしめたほどさびれてしまつてゐたのでつた。私(わたし)の知つてゐる最初の鎌倉の印象も矢張(やはり)さびしい衰へた『廢都』のさまであつた。八幡前の廣い若宮大路には草が高く生えて、兩側(りやうがは)には茅葺屋根の百姓家が竝び、麥が筵に竝べて干されてあつたりした。

 今は東京にゐて鎌倉を知らないものはない。鶴岡八幡、僧公曉のかくれた大銀杏(おほいてふ)、由比ケ濱の波、長谷の大佛、大塔宮(だいたふのみや)の洞窟、賴朝の墓、靑砥藤綱の滑川(なめりがは)、すべて人口に膾炙してゐる。中學生などもよく修學旅行に出かけて行つて知つてゐる。それに停車場(ていしやぢやう)から長谷の方にかけて、乃至(ないし)は笹目谷(ささめがやつ)とか、松葉谷(まつばがやつ)とか言ふ谷々も皆な別莊や人家で埋められて了つた。何(ど)うしても、東京の郊外といふ氣がする。

 鎌倉で、先づ停車場を下りる。一番先に、鶴岡八幡に行く。八幡の境内は瀟洒で、掃除が行き屆いて氣持が好い。例の靜御前の舞を奏したあとなどを見て、長い石磴(せきとう)を登ると、左に、僧公曉の實朝を弑(しい)した大銀杏がある。無論そのひこばえであるが、それでもかなりに大きい古い樹だ。八幡の樓門の前から、遙かに由比の濱の波の音(おと)を聞いた感じはわるくない。それに鎌倉の四面を圍んだ丘陵の上に、松が竝んで生えてゐるさまも、人に繪のやうな感じを與へた。この下の一帶の低地、若宮大路を挾んだ左右の地は、賴朝時代に覇府(はふ)の行政廳や諸大名の邸(やしき)があつたところで、沿革圖を見ると、その當時のさまが一々指點(してん)される。で、八幡を去つて、師範學校の傍(そば)を通つて、賴朝の邸(やしき)の址(あと)といふのを見て、今度は丘近く賴朝の墓のあるところに行く。

 墓は大江廣元の墓と相竝んでゐる。磴道(とうだう)がかなりに長い。廣元の墓はその後裔の島津家で手を入れているので常に綺麗だが、その主人の賴朝の墓は苔蒸して詣づる人もないのは悲しいやうな氣がする。で、一拜してこゝを去つて、今度は鎌倉がまだ覇府でなかつた以前からある荏柄天神社に行く。さびしい社(やしろ)だが、これが歷史の永い悲喜劇の址を經て來てゐる社だと思ふと、感じが深い。春先は境内の梅が白く咲いてゐて好い。

 やがて鎌倉宮(かまくらのみや)に來る。春は山櫻がちらちらと咲いてゐたりする。護良親王(もりなかしんわう)の弑せられた土牢(どらう)は社の後(うしろ)にあつて、賴めばそれは見せて貰へる。淵邊義博(ふちのべよしひろ)は此處(こゝ)で親王を弑して、その遺骸を奥の松の下に持つて行つて埋めたといふことである。親王の事蹟は、今でも猶ほ人をして暗涙(あんるゐ)に咽(むせ)ばしめるに足るものがある。

 で、此處から引返す金澤の方へ行く路に來て、滑川を渡つて、葛西(かさい)ケ谷(やつ)の方へ行つて見ても好い。此處にも澤山(たくさん)寺がある。北條氏は代々此の谷(たに)にその住所を持つてゐたらしく、高時の亡びた東勝寺(とうしやうじ)の址はもう今は殘つてゐないけれども、それでも別な寺にその時分の址は二三殘つてゐる。これからずつとレールを越して、材木座の方へ出て來ても好いが、普通は、八幡前に戻つて、小袋坂(こぶくろさか)の細い道を通つて、東福寺(とうふくじ)から建長寺の方へと行く。

 建長寺は圓覺寺と共に、此處では是非見なければならない巨刹(きよさつ)である。堂宇も鎌倉時代のすぐれた建築で、その前のヒバの木なども見事だ。山門の扁額は寧(ねい)一山(ざん)の筆として著名である。堂の中には、澤山(たくさん)佛像やら寶物やらが竝んでゐる。富士の牧狩(まきがり)に用いた太鼓だといふものなどもあつた。

 こゝには奥に流行の半僧坊がある。そのせいか、参詣者が多い。それに境内も小ざつぱりしてゐる。こゝから半僧坊のあるところまで五六町。

 こゝを出(で)て少し來ると、山内(やまのうち)の管領屋敷址(くわんれいやしきあと)がある。建物(たてもの)は何もないけれど、地形は依然として、此處に大きな邸(やしき)があつたことを旅客(りよかく)に思はせる。春は川に添うて、赤い野椿(のつばき)の花が咲いてゐたりする。

 圓覺寺は建長寺に比べると、さびしい。いかにも禪寺(ぜんでら)らしい。本堂の扉がびつしり閉つてゐて、晝も小暗(こくら)く杉樹(さんじゆ)が茂つてゐる。それを背景に、梅が白く咲いてゐるさまは繪のやうである。寺の奥に、北條時宗の墓がある。また右の小高い處に、鐘撞堂(かねつきだう)があつて、一撞(つき)一錢で遊客(いうかく)のつくに任せてゐる。をりをり鐘の音(ね)があたりの寂寥(せきれう)を破つてきこえて來る。

 山の内から扇(おふぎ)ケ谷(たに)を通つて、化粧坂(けしやうざか)に行くと、葛原丘神社(くづはらをかじんじや)、景淸土籠(かげきよどらう)などがある。長谷(はせ)の方へも出て行かれる。

 しかし此路(このみち)を行くよりは、再び八幡前に引返す。そして其處に待つてゐる電車に乘る。長谷はすぐである。昔は此間(こゝのあひだ)は麥秀(ばくしう)の歌のひとり手(で)に口に上るやうな畠(はた)であつたが、今はすつかり開けて家屋になつて了つた。町になつて了つた。長谷で電車を下りると、やがて左に觀音に行く路ががわかれてゐる。そつちに行かずに、眞直(まつすぐ)に行く。突き當ると、長谷の大佛である。悲願を以て名高い大佛がそこに立つてゐる。境内も靜かで、木の影が多くなつて夏は涼しい。奈良の大佛などに比べると、非常に小さいのだが、これだけ見ると、かなりに大きく見える。濡佛(ぬれぶつ)であるからであらう。堂守に賴むと、胎内を見せて呉れる。中には佛像などが澤山に並んでゐる。不思議な氣がする。

 こゝを出て、元に戻つて、今度は觀音に行く。門前町から山門に通ずる石段を登る。堂宇もかなりに立派である。こゝにある觀音は、昔(むかし)海中から引上げられたものださうで、案内の僧が轆轤仕(ろくろし)かけ蠟燭を高く持ち上げて、暗い中に立つてゐる像を照して見せる。かなりの大きな像である。

 この附近に權(ごん)五郎社(らうしや)がある。大きな石などがある。權五郎が持つたものだといふことである。昔は力餅(ちからもち)などを賣つてゐたが今は何うしたか。

 鎌倉十井(せい)の一つである星月夜(ほしづきよ)の井(ゐど)なども其の近所にある。晝でも覗くと、その中に星が見えるなどと言はれてゐる。

 この鎌倉の覇府を控へた海は、所謂(いはゆる)由比ケ濱で、西は稻村(いなむら)ケ岬(みさき)、東は小坪の鼻で丸(ま)るく包まれてゐる。何方(どちら)かと言へば、平凡な海である。海岸の砂山に竝んでゐる松も頗る貧弱だ。この海岸路(かいがんろ)は長谷から小坪まで一里に少し近い位だ。

 材木座の方にも、仔細に探ると、見るものが少しはある。寺の大きいのなどもある。小坪から厨子に越えて行く路は、小さな峠を越して。一里半。

 

[やぶちゃん注:大正初年の、既に都市化されつつあった鎌倉の市街の様子がよく分かる名所の記載や呼称には、かなり問題のある箇所が散見されるが、二つだけ、誤りを指摘しておく。

 一つは、頼朝の墓である。「墓は大江廣元の墓と相竝んでゐる。磴道がかなりに長い」とあるのは、北条義時の墓の誤りで、大観的にも「大江廣元の墓と相竝んでゐる」と言うには苦し過ぎ、階段がかなり長くて「相竝んでゐる」のは、広元の墓のすぐ隣り伝義時の墓であって、現在の伝頼朝の墓(頼朝の法華堂跡に後世立てられた供養塔とするのが正しい)位置とアプローチからはあり得ない。因みに、頼朝の墓の東隣の山稜平坦地が北条義時の法華堂跡と推定されている場所を花袋が参ったものである。現在も荒廃が著しいが、当時すでに「苔蒸して詣づる人もないのは悲しいやうな氣がする」という状態であったことが分かる。

 「東福寺」という寺は鎌倉にはない。これは新旧巨福呂坂ルートからはその前は通らないから如何にも苦しいが、寿福寺寺の誤りとしか思われない。

 これらのミス及び後半の「權五郎社」(坂ノ下の御霊神社の別名)の下りで、「昔は力餅などを賣つてゐたが今は何うしたか」と思わず漏らした、その文末から、花袋は執筆時の直近には描かれた各所をすべて来訪したという訳ではないことがバレている。

 「案内の僧が轆轤仕かけ蠟燭を高く持ち上げて、暗い中に立つてゐる像を照して見せる」この描写を読むと、私はどうしても、同じ場所で、同じようにして、この観音を見、激しい感動に打たれた、ある私の愛する人物の手記を引用せずにはいられなくなる。

   《引用開始》

 そこから、われわれは音に聞こえた鎌倉の観音寺の前にいたる。衆生の心魂を救わんがゆえに、永遠の平和のために一切を捨離し、百千万億劫の間、人類と苦難を共にせんがために、涅槃をすてた慈悲憐憫の女仏。――これが観世音だ。

 三層の石階を登って、堂のまえに行くと、入口にひかえていた若い娘が立って、われわれを迎えに出てくる。番僧を呼びに、その娘が本堂の中へ姿を消したと思うと、入れかわりに、こんどは白衣の老僧があらわれて、どうぞおはいりと会釈をする。

 本堂は、今まで見てきた寺と同じくらいの大きさで、やはり同じように、六百年の歳月で古色蒼然としている。屋根からは、さまざまの奉納の品や、字を書いたもの、色とりどりにきれいな色に塗った無数の提灯などが下がっている。入口と向かい合わせのところに、ひとりぽつねんと坐っている像がある。大きさは、人間と同じくらいで、人間の顔をしている像だ。それがへんに薄気味わるく皺のよった顔のなかから、化物じみた小さな目玉をして、こちらを見ている。その顔は、むかしは肉色に塗られ、衣は水色に彩(いろど)られてあったのが、いまは、年とともに積り積った塵ほこりのために、全部が白ちゃけてしまっている。その色の褪せたところが、爺ぐさい姿にかえってよく調和して、ちょっと見ると、生きている托鉢坊主を見ているような気がする。これがおびんずるで、東京の浅草で、無数の参詣者の指になでられて形の擦りへってしまっている、あの有名な像と同じ人物だ[やぶちゃん注:「おびんずる」は底本では「ヽ」の傍点。]。入口の左と右には、筋骨隆々たる、物すごい形相をした仁王が立っている。参詣人が吐きつけた紙つぶてが、深紅の胴体に点々とこびりついている。須弥壇の上には、小さいけれども、ひじょうに好感のもてる観音の像が、炎のちらちらするさまを模した、細長い光背を全身に負うて立っている。

 が、この寺が有名なのは、この小さな観音像のためではないのだ。ほかに、もうひとつ、条件づきで拝観できる像があるのである。老僧が、流暢な英語で書かれた歎願文を、わたくしに示した。それには、参詣者は、本堂の維持と寺僧援護のために、応分の御寄進が願いたいとしてある。宗旨ちがいの参詣者のためには、「人に親切にし、人を善人にみちびく信仰は、すべて尊敬する価値がある」ことを銘記せよ、といって訴えている。わたくしは賽銭を上げて、大観音を拝観させてもらうように、老僧に頼んだ。

 やがて、老僧が提灯に灯をともして先に立ち、壇の左手にある狭い戸口から、本堂の奥の高い暗がりのなかへと案内をする。しばらくのあいだ、あたりに気をくぼりながら、そのあとについて行く。提灯がちらちらするほかには、何も見えない。やがて、なにやらピカピカ光った物の前にとまる。しばらくすると、目がだんだん闇になれてきて、目の前にあるものの輪郭が、しだいにはっきりしてくる。そのうちに、その光った物は、何かの足であることがわかってくる。金色(こんじき)の大きな足だ。足の甲には、金色の衣の裾がだらりとかかっている。と、もう一方の足も見えてくる。してみると、これは、何か立っている像だ。今、われわれのいるところは狭いけれども、天井のばかに高い部屋であることがわかる。そして、頭のずっと上の神秘めいた闇のなかから、金色の足を照らしている提灯の灯影の輪のなかへと、長い綱が何本も下がっているのが見える。その時老僧は、さらに提灯をふたつともして、それを、一ヤード[やぶちゃん注:約九〇センチメートル。]ずつほど離れて下がっている綱についた釣(かぎ)にひっかけると、ふたつの提灯を、同時に、するすると上にたぐり上げた。提灯がゆらゆら揺れながら、上の方へするする上がって行くにつれて、金色の衣がだんだんに現われてくる。やがて、大きな膝の形が二つ、もっこりとあらわれたと思うと、つぎには、彫刻をした衣裳の下にかくれている、円柱のような二本の太股の線があらわれてくる。提灯は、なおも揺れながら、上へ上へと昇って行く。それにつれて、金色のまぼろしは、いよいよ闇のなかに高くそびえ、こんどは何が出てくるだろうという期待の心が緊張してくる。頭のずっと上の方で、目に見えない滑車が、コウモリの鳴くようなキイキイ軋る音を立てるほかは、何の物音もしない。そのうちに、金色の帯の上のあたりに、胸らしいものが見えてくる。すると、つづいて、冥福を祈るために高くあげられている、金色さんぜんたる片方の手が見えてくる。つぎには、蓮華をもった片方の手が、そうして、いちばん最後に、永遠の若さと無量のやさしさをたたえて、莞爾(かんじ)として微笑(みしょう)したもう、金色の観音の慈顔があらわれる。

 このようにして、神秘の闇のなかから現じたもうたこの女仏――古代が産み、古代美術が創造した作品の理想は、ただ、荘厳というようなものだけにはとどまらない。この女仏からひきだされる感情は、ただの讃歎というようなものではなくて、むしろ、畏敬の心持だ。

 美しい観音の顔のあたりに、しばらく止まっていた提灯が、この時、さらに滑車のきしる音とともに、また上へ昇って行った。すると、なんと見よ、ふしぎな象徴をあらわした、三重の冠があらわれた。しかも、その冠は、無数の頭と顔のピラミッド――観音自身の顔を小さくしたような、愛らしい乙女の美しい顔、顔、顔の塔であった。

 けだし、この観音は、十一面観音なのである。

   《引用終了》

 この筆者が、如何にこの観音像に感動したかは、以下、次の「十三」章をまるまる、この長谷観音の縁起を語ることに費やしていることからも分かる(「新編鎌倉志卷之五」の「長谷觀音堂」の記述と比べれば、その温度差は天地ほども違うと言える)。……しかも、もうこの人物が誰かは、お分かりであろう――彼は日本人ではない――いや――後に日本人となったアイルランド人――小泉八雲である。これは彼の日本来日直後の印象を纏めた明治二十四年に刊行された、

HEARN, Lafcadio Glimpses of unfamiliar Japan 2vols. Boston and New York, 1894.

の「十二」章の全文で、引用は私の尊敬する翻訳家平井呈一氏の「日本瞥見記(上)」(一九七五年恒文社刊)に拠った。著作権が存続するが、この項には最も相応しい引用であると確信し、章全体の引用を行った。これは著作権侵害に当たる行為に相当するとは私は思っていないが、著作権者からの要請があれば、必要な引用としての観音の描出シーンを残して前半部を削除する用意はある。

 最後に。前に示した「昔は力餅などを賣つてゐたが今は何うしたか」という懐旧表現に着目して貰いたいのである。実はこの御霊神社の境内には彼の盟友であった国木田独歩が明治三五(一九〇二)年から一年ほど移り住んでいたのである。名物の力餅は独歩の好物でもあった。花袋の、突然の不思議な感懐の吐露は、実は亡き友の面影とのオーバー・ラップなのである。]

 

栂尾明恵上人伝記 21

 建久九年〔戊午〕秋の末に、高尾聊か騷動する事有りしかば、むつかしくとて、本(もと)住(す)み捨てし紀州白上の峯に歸り給ひしが、此の所猶人近(ひとちか)くして、樵夫(せうふ)の斧の音、耳かしましくして、又三四町下は大道なり。うるさきこともあればとて、石垣山(いしがきやま)の奧に、人里(ひとざと)三十町計り隔てゝ、筏立(いかだだち)と云ふ處あり。興ある靈地なり。上人の舅(しうと)湯淺兵衞尉宗光(ゆあさひやうゑのじようむねみつ)が知行(ちぎやう)の處なり。仍て其れに草菴を構へて、請(しやう)じ申されければ、移り給ひて坐禪行道(ざぜんぎやうだう)、萬事を抛(なげう)ちて營まれけり。其の間、唯心觀行式(ゆゐしんくわんぎやうしき)一卷撰集(せんじふ)す。又、隨意別願(ずゐいべつぐわん)の文同じく之を集む。又解脱門義(げだつもんぎ)竝に信種義(しんしゆぎ)之を撰ぶ。

[やぶちゃん注:「筏立」和歌山県有田郡有田川町(旧金屋町)にある明恵の生地。現在は「いかだち」と呼んでいる。現在、歓喜寺(かんぎじ)という浄土宗の寺が現存するが、ウィキ歓喜寺」によれば、伝承によればこの寺の創建は寛和二(九八六年)に「往生要集」の著者源信の開創とする。その後、衰微したが、建長元(一二四九年)年に明恵の高弟で本伝記の作者喜海が再興したとされ、これを促したのは明恵の従兄弟湯浅宗氏(本文の宗光の三男)であったという(当時は真言宗寺院であったが近世に浄土宗に改宗)。

「舅湯淺兵衞尉宗光」「舅」は「おじ」、母親の兄弟である伯父・叔父の意。「湯淺兵衞尉宗光」(生没年不詳)は鎌倉前期の武士で宗重(紀伊国湯浅城(現在の和歌山県有田郡湯浅町青木)を領した平清盛配下の有力武将。清盛の死後、平重盛の子忠房を擁して湯浅城に立て籠もるも源頼朝に降伏して文治二(一一八六)年に所領を安堵される。以後、順調に所領を増やして紀の川流域まで勢力を広げ、後に湯浅党と呼ばれた)の七男(養子とも)。七郎左衛門尉と称した。後に出家して浄心と号した。当初は父と共に平氏に仕えたが、やがて源氏に味方するようになり、鎌倉幕府御家人となった。父から紀伊国保田荘(現在の和歌山県有田市)を譲られて保田氏を名乗るようになる。嫡流でなかったにも拘わらず、湯浅一族の中での最有力者となり、保田氏が湯浅一族全体の主導的立場に立つ基礎を築いた。甥に当たる明恵の後援者でもあった(以上は主に「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。]

朱の搖椅子 大手拓次

 

 朱の搖椅子 

 

岡をのぼる人よ、

 

野をたどる人よ、

 

さてはまた、とびらをとぼとぼとたたく人よ、

 

春のひかりがゆれてくるではないか。

 

わたしたちふたりは

 

朱と金との搖椅子(ゆりいす)のうへに身をのせて、

 

このベエルのやうな氛氣(ふんき)とともに、かろくかろくゆれてみよう、

 

あの温室にさくふうりん草(さう)のくびのやうに。 

 

[やぶちゃん注:「氛氣」空中に見えるクモや、かすみのような気。なお古くは空気・大気の原義である「雰囲気」を「氛圍氣」とも書いた。

 

「ふうりん草」双子葉植物綱キキョウ目キキョウ科ホタルブクロ属 Campanula のホタルブクロ(螢袋)のことか、若しくは狭義の同属のフウリンソウ Campanula medium を指している。現在は改良品種が学名のラテン名「小さな鐘」をそのまま用いてカンパニュラ(カンパヌラ)などとも呼ばれる。フウリンソウ Campanula medium は園芸では正式和名のフウリンソウよりもツリガネソウ(釣鐘草)と呼ぶことの方が多いらしい。ウィキの「カンパニュラ」 の「ふうりんそう」の項(画像あり)には(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更した)、『この仲間では最もポピュラーな植物。草丈二メートルくらいになる二年草だが、秋まきで翌春開花する一年草に改良された品種もある。花色には青紫・藤色・ピンク・白などがあり、上手に育てると、花径一〇センチメートル近い花が数十輪咲き、花壇の背景などに植えると見事である』とある。ここは温室とあるので、後者と考えてよかろう。]

 

 

無題(心靈意識のために絶息する手淫がある、……) 萩原朔太郎

心靈意識のために絶息する手淫がある、

眩惑する妖姫の歡待がある、

芳香無比の LIQUEUR がある、

而して此の種の風月賀宴はその性質上驚くべき秘密性犯罪をを受胎する。

 

見ろ、彼はまつ靑(さを)になつて震へて居る。

 

[やぶちゃん注:底本第三巻の未発表詩篇より。無題。「秘」の字体はママ。]

鬼城句集 春之部 蕨

蕨    松風のごうごうと吹くや蕨取り

[やぶちゃん注:底本では「ごうごう」の後半は踊り字「〱」。]

     王公の履を戴かず蕨かな

[やぶちゃん注:これは「史記」列伝第一に挙げられた殷末の孤竹国(一説に河北省唐山市周辺)の王子の兄弟で、高名な隠者にして儒教の聖人伯夷(はくい)と叔斉(しゅくせい)が、周の武王(本句の「王公」)が父文王の喪の内に紂王を討とうとするのを不忠として諌め、その不忠の君子の国の糧を食むを恥として、王の詫びと重用を拒否し(本句の「履(り)を戴かず」)首陽山に隠れ、蕨(本句の下五)・薇(ぜんまい)を食としたが、遂に餓死して亡くなった故事に基づく。因みに、私は蕨や薇の新芽の渦巻きを見ていると、いつも藁草履を思い出すのを常としている。]

     蕨たけて草になりけり草の中

     蕨出る小山讓りて隱居かな

     食ふほどの蕨手にして飛脚かな

2013/04/27

明恵上人夢記 7・8

一、建仁元年正月三日より、人の爲に修行法(しゆぎやうぼふ)を祈禱す。同十日。同十一日の夜、夢に云はく、上師、成辨と共に、播洲へ下向せしむ。船二艘あり。一便には上師乘らしめ給ふ。又一艘には餘の同行等乘らしめ、然れども、成辨、上師之船に乘り、暫時之間、餘の御房等之船に乘り遷る。佛眼(ぶつげん)の具足入れたる經袋をば上師之船に置けり。其の後、急に駃(はや)き風出で來、船走る事極り無く、譬へ無き程也。此の船は前に進み、上師之船は後に來る。成辨、經袋を取りて來ずと思ひて、心に深く之を悔ゆ。海に入りもこそすれと思ふ。人々も海に入りやせむずらむと思へり。其の船、極めて狹くして、而も長し。ここに於いて、誤り無く陸地に付き了んぬ。人有りて、來りて成辨を肩に乘せて、播洲の御宿所に到り付く。夢心地に、前々の如く、東寺の修理播洲御下向とも思はず、唯、播洲御下向と思ふ。さて御宿處に到り、巳に上師等、皆、落ち付き給ふ。成辨、此の經袋を尋ぬるに、上師の御房云はく、「など我にこそ言ひ誂(あつら)へてあづけましか」とて、此を歎かしめ給ふ。然る間、■■■一人の同行有りて、此の經袋を慥(たしか)にして持ち來る。成辨、悦びて之を取ると云々。其の後、一人の同行有りて、語りて曰はく、「上師告げて曰はく、『明惠房をば、二因緣有る故、此へ具して來る也。一つには病患を療治せん爲の故也。〔此、上之呵嘖之言(うへのかしやくのげん)に似たること有り。之を略す。〕二つには云々。』」善くも聞かず。其の後、上師、御具足を見る。自(みづか)ら手に一つの手箱を持ち給へり。見るに、此の御前之佛、布施之手箱也。夢心地に思はく、此は成辨に施したりしを、此の上師の取り給ふ也と思ふ。又、所治(しよぢ)之驗(しるし)と思ひて、死人等多く見ゆ。此(これ)、所治の相、雜(まじは)れる故也と云々。

 

 一、同十一日、一時に行法す。同十二日の夜、夢に、又、上師、播洲に居給ふ。成辨又參ず。彼の上師悦喜して、種々の談話を作す。

 

[やぶちゃん注:この二つ(厳密には大きく三つと私は判断する。後述)の夢は完全に連続したプロット上のものであるので、続けて示した。

「建仁元年」西暦一二〇一年。

「修行法」密教の修法。

「同十日。同十一日の夜、夢に云はく」この叙述は明恵の夢の特異性を証拠付けるものである。「同十日」は一応、十日の夜の夢ととれる(現代語訳ではそうした)が、必ずしも夜見た夢ではなく、部分的には修法の最中に観想した白日夢様(後述)のものとも採れなくはない(これは最初に述べたように明恵には特異なことではなかった)。それはともかくも、驚くべき事実は――彼は例えばこのように夢を連続した無矛盾(その夢世界に於いて)なものとして、間に有意な覚醒中断を挟みながらも、二日続けて前後篇で(実はこれは叙述が短いが、その翌日「8」も見ているから三夜連続の三部作である)夢をみることがあった――という事実である(こういう夢を見る方は恐らく極めて少ないと思われる)。但し、ここで彼がかなり過酷な呪法を修していたと仮定すると、昼間の覚醒時にあっても恐らくは平生の昼間覚醒状態の正常脳波レベルよりも少し覚醒時幻覚を見やすいレム睡眠のそれに近い状態に偏移していた状態にあった可能性が高いようには思われる。私が夜の夢ではない可能性を示唆したのはそういう意味でもある。ともかくも、寧ろ、そうした『夢の続き』現象が明恵には普通に頻繁にあったことが、この如何にもさりげなく日付を並べていることからも窺えさえするのである。なお、この夢はそういう意味で、明らかにインターミッションがかなりはっきり分かる形で入っている。修法時の覚醒時幻覚ならインターミッションが入るのは当たり前であるが、睡眠中の夢について、近年の研究では必ずしもレム睡眠時または入眠時幻覚相当や覚醒前駆状態にのみ夢を見ているわけではなく、ノンレム睡眠時でも夢を見ていることがあるらしいから、その夢部分のインターミッションを総てノンレムと判断することは出来ないし、更にこの夢は後述するように覚醒した明恵によって一部が意識的にも無意識的にもカットされている可能性がすこぶる高いのである。従って私は、この二日間に渡る長大な「7」の夢を全部で(a)~(f)の七つのパートに別け、翌日の「8」と合わせて八つの夢として現代語訳した。

「上師」母方の叔父で出家最初よりの師である上覚房行慈。明恵はこの翌建仁二年に、この上覚から伝法灌頂を受けている。

「播洲へ下向せしむ。船二艘あり」特に記載はないが(ないからこそ)、設定はかつていた神護寺であり、桂川から淀川を下っているイメージと思われる。後の部分で「夢心地に、前々の如く、東寺の修理播洲御下向とも思はず、唯播洲御下向と思ふ」とあるのは、私の場合もよくあるところのこれは夢の中での夢の自己の内的な認識補注に相当するものであるが、その「東寺の修理播洲御下向」という部分が、「4」で注したように、先立つ建久年間に行われた文覚・上覚らによる修理に関わって、実際に明恵は上覚に随伴して播洲に行ったことがある可能性が高いと推理するものである。その目的は判然としないが、修理に用いる建材か宮大工の関連かとも思われる。そこについては識者の御教授を乞うものである。

「佛眼の具足」「佛眼」は大日如来、「具足」はこの場合、僧の所持品でも狭義の最も重要な経典を指していよう。この仏眼如来の経とは、かの建久七(一一九六)年の「6」大孔雀王の夢で明恵に与えられた、明恵の夢界に於ける最重要アイテムを指していると読むべきであると私は思う。即ち、この夢では「6」の夢がプレにあって、その世界との夢界内無矛盾が成立しているということが、この夢を解き明かす上で重要であると私は思っている。

「其の船、極めて狹くして、而も長し」以下、「ここに於いて、誤り無く陸地に付き了んぬ」とシークエンスが明らかに変わるので、ここを区切りとし、前を(a)パート、後を(b)パートとした。

「人有りて、來りて成辨を肩に乘せて、播洲の御宿所に到り付く」私はこの肩にひょいと二十八歳の大人を乗せてずんずんと歩む人物に、異人性を強く感じる。描写がないが、私は所謂、四天王下の三十二将の天部の仏神の誰かではないかと踏んでいる。

「さて御宿處に到り、巳に上師等、皆、落ち付き給ふ」の「さて」という接続詞は一種の場面転換を意識的に示したものである。従ってここから後を(c)パートと採る。

「誂へ」人に頼んでさせる、の意。

「此を歎かしめ給ふ」ということは、上師はその経袋の存在すら知らず、この場面では行方不明であるということになる。その辺りの明恵自身の心の動きが描かれていないのが残念である。現代語訳ではそこを出してみた。

■■■」これは底本にはない。河合氏が「明惠 夢に生きる」の本夢分析の文中で、原本ではこの部分で『三文字ほどが抹消されている。「一人の同行」の僧を思いだしかけて書いて消してしまったのか、ともかく、ここに記憶の不鮮明さが伴ったことを反映していて、非常に興味深い』とあるのに基づく。なおこれは、私の次注の「思い出せないケース」という判断をも補強して下さるような心強い記載であると感じている。因みに、河合氏はこの文脈でこの「一人の同行」が明恵にとって『未知の僧』であるとされ、その未知の同行の人への思慕という形でシンボライズされている想いが、『結局は釈迦その人への直接的な思慕として結実してくるのである』と分析されておられる。これは極めて至当な解釈として私も支持するものである。

「悦びて之を取ると云々」先にも注したが、この「云々」はこの後に少し有意な展開(シーン・シークエンス)があったが、それを明恵が思い出せない場合に用いたケースと私は採る。従ってここでまでを(c)パート、以降を(d)パートとする。

「其の後、一人の同行有りて、語りて曰はく」この人物は先の経を届けてくれた「一人の同行」とは別人であると私は採る。こういうプロットのはっきりした中で夢記述をする場合、同じ人物であれば、意識的にそれを分かるように記そうとするのが、私の永年の夢記述での習慣からの他者の夢記述でもある程度、普遍的に類推出来る特徴であると思うからである。従って、ここでこれが同一人物であれば――しかも間に思い出せない欠落を挟むというデメリットを補う上でも――「かの經袋を持ち來り給ふ同行の僧」とするはずである。そもそも明恵は経が取り戻せたことで頗る喜悦しているのであるからして、そう記してこそ自然である。にもかかわらずそっけなく、しかも前文の直ぐ近くでくだくだしく見えるように「一人の同行」としたのは、とりもなおさず、これが別人であることを意味していると私は考えるのである。更に言えば、この人物が語る内容は明恵にとってある種のアンビバレントな感情を引き起こさせる契機であるように思われる(次で注するように断言は出来ないが)。その、もしかすると明恵の心内を落ち着かなくさせる人物が、彼の直前の救世主(経を救助した)と同一人物というのはプロットからしても不自然である(私は明恵の不条理な夢を私の覚醒的論理によって強引に辻褄の合うように変造しようとしているのではない。夢記述をしたことのない方には理解しにくいと思うが、私はなるべく夢の不条理性をそのままに残すことを心掛けてきた。では、今ここで私が問題にしていることは何かと言えば、私は明恵が覚醒時に自身の夢を、なるべく見たままに再現しようとした場合にどう記述するかという推理から、そこで用いられている言辞や表現の等価性や差違性を定量化するということである。また附言すれば、実は夢の不条理性には、その閉じられた系の中では実は頗る自然に是認されている限定的無矛盾性(私はそれを単に超自我の検閲規則というしょぼくさい限定存在としては考えていない。もっと遙かに自由自在な性質のものである)が厳然としてあるのである。それは私などの場合、通常、一つの夢の中でのみ有効であるが、強靭な精神力を持った特異な明恵の場合、そうした夢で汎用可能な現実的論理を超越した高次で特異な夢内の法則が、持続的に保持されていたようにも窺われるのである。そしてそれによって、明恵にとっての夢が、現実の体験以上に意味や価値を持つもの変化していった(寧ろ、それらが相互に影響し合って高度化した)のだと私は考えているのである。

「明惠房をば、二因緣有る故、此へ具して來る也。一つには病患を療治せん爲の故也。〔此、上之呵嘖之言似たること有り。之を略す。〕二つには云々。」この台詞には大きな問題点がある。一つは、上覚が明恵をここに随伴してきた二つの理由を、本人にではなく、この同行僧である他者に語ったという事実、更にその最初の理由である「病患を療治せん爲」の内容が、前の仏眼如来経の一件で上覚が「など我にこそ言ひ誂へてあづけましか」と明恵を見損ない、失望し、嘆息した内容と似たようなものであるから(重複するから、というニュアンスである)省略するという、如何にも分かりにくい変な明恵の割注の存在、そして、もう一つの理由が隠蔽されている点である。この二つ目が記されていないことと、そこに例の「云々」があること、更に言えば、その直後に「善くも聞かず」とあることなど、この部分は訳も解釈もしにくいのである。何より「善くも聞かず」はよく聴こえなかったという表現ではなく、(何かある反発心があって)よくも聞こうとはしなかった(だから聴こえたけれど、忘れた。実はそれは覚えていたけれども、忘れたいものであったから、この夢記述をしている今はもう忘れてしまった)という言い分けや暗示のようにさえ読めるのである。そうすると俄然、ここで覚醒時の明恵が割注で口を挟んだのも、聴いたはずなのに覚えていない(若しくは意識的そこを聞こうとしなかった)のは、とりもなおさず、この言葉を上覚の口からではなく(この又聞き間接話法が重要)、「同行の一人」の口から聴いたことが、恐らくは二つの理由内容を含めて極めて明恵にとって不愉快千万なものであったことを示唆しているように私は思うのである。そもそもこの「病患」とは、身体的な病気ではなく、弟子としての明恵の修養の中にある、正しい仏道を踏み外した誤った致命的な疾患の謂いであろうと私は解釈する。でなくては割注の意味が通じないからである。そして、この一つ目の理由でさえ、明恵は途中から聴きたくなくなるほどに不愉快になったのだ。それは覚醒後も持続する感情であった。だからこそ珍しい割注などを挿入して、その不快感情を師に関わる記載であるが故に誤魔化したのである。

「其の後、上師、御具足を見る」「其の後」は明らかに有意な時間経過(若しくはその部分の夢の失念)を指しているから、これ以降を(e)パートとする。「御具足」は、ここでは広義の僧の携帯品のことであろう。

「此の御前之佛、布施之手箱也」よく分からないが、私は神護寺の御本尊若しくは上覚の念持仏の仏前に置かれてあったはずの布施として奉られた手箱の謂いで採った。謂わば、法燈の換喩的象徴物品として私は採るのである。

「又、所治之驗と思ひて、死人等多く見ゆ。此、所治の相、雜れる故也と云々」明らかに本筋とは違う別な、そして死者累々たるすこぶる凄惨な情景である。「所治之驗と思ひて」はこれを記述している覚醒時の明恵の説明であって、前日より今日まで(次注参照)修してきた呪法の影響かと思われ、という謂いであろう。彼が行った修法が如何なるものであったのかは分からないが、そこでは人の死、その死体変相を説く仏説などが含まれていたものと思われる。それがこの累々たる死体の夢として現われたのであろう、と明恵は自己分析しているものと読む。しかし、この後に翌日の夢があることを考えれば、この一連の夢の中では、一種のこの一連の夢の意味を暗示するために配された、非常に重要なフラッシュ・バック・シーンでもあると私は考えている。これを(f)パートとした。

「同十一日、一時に行法す」これは「7」の夢を見る昼間の事実を記している。「一時に」は副詞で、短時間に集中して行うさまをいう。

「所治」二日からずっと行って来て、この日の昼も短い間おこなった修法。]

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 建仁元年正月三日より、さる方の求めにより、さる修法(ずほう)を行(ぎょう)じ、祈禱をなした。その後半の十日及び十一日の夜、続けて見た夢。

(a)

 上覚上師が、私とともに播磨国へと船で下向なさる。

 船は二艘あった。

 一艘には上師がお乗りになられた。

 また、一艘には私の同行(どうぎょう)の僧らを乗らせたが、私は最初は、自分の意志で上師の船に乗り、しばらく下って後、その他の同行せる御房らの乗る船に乗り換えた。

 ところが、その乗り換えた際に、自分の大日如来の経を入れた大事な経袋を、上師の乗っておられた船の中に置き忘れてしまったことに気づいた。

 ところが、その直後に疾風(はやて)が吹き荒び、私の乗った船の早く下ってゆくことといったら、譬えようもないほどの速さなのである。

 私の乗った船はみるみるうちに前へ前へと進み下り、上師のお乗りになられた船はずっと後から遅れて来るのであった。

 私は、

『――ああっ! 忘れた経袋を取りに戻らなかった!……』

と、思わず、心に深く悔いたのであった。また、私の乗る船の尋常でない速さに、

『――このまま我ら、海に沈んだりしたら一大事じゃ!』

と思ったりもした。

 同船している御房連中も、

『……海に沈んでしまうのではなかろうか?……』

と心配している。

 その船の形状は、ともかく極めて船幅が狭いものであって、しかも全長は異様に長いのであった。……

 

(b)

……しかし、その後、辛くも何とか無事に――いや、思ったような難船という事態も起こらずに――陸地へと流れ着いたのであった。

 海岸に人がいるのが見えた。

 その人がすっと寄ってきて、船の中の私を、童子ででもあるかのように、ひょいと肩に載せると、いとも軽そうに、播磨の上師の御宿舎まで運んで呉れる。……

 なお、この時、私は夢心地(ごこち)ながらも、はっきりと、

『この旅は――かなり以前に行ったことがある東寺の修理改修事業に関わる旅――であるという認識はなく――ただ純粋な播磨国への行脚の旅――である。』

という自覚を夢の中で持っていた。……

 

(c)

……さて、御宿舎に着いてみると、何と、後の船に乗っておられたはずの上師御一行は、既に先に到着なさておられた。

 私は、すぐにあの経袋のことを、訊ね申し上げたのであったが、上師の御房様は、

「どうして、この私に頼んで、その経袋を預けなかったのじゃ?!」

と、如何にも私の失策を惜しむように、その一件をしきりにお歎き遊ばされるのであった。――即ち、上師様は、大日如来の経の入った経袋のことを御存じなく、従ってここにはその経がないということを意味した――

 私は思った。

『……ああっ! 私の大切な、かの大日如来の御経は失われてしまったか!……』

 すると、その時である。

 後から遅れて入室してきた一人の同行の僧――■■■殿――があって、その御方が、何と! かの御経の入った経袋をしっかりと両の手に捧げて、持ってこられたのであった。

 私は喜悦して、これを受け取ったのであった。……

 

(d)

……その後のことである。

 先の経を持ってきて下さった人物とは違う、別の上師の同行がいた。

 その男が、私の元へ来たって語って言うことに、

「上師が仰せられたことじゃが、『明恵房をここに伴い来たったのには、ふたつの理由がある。

――一つには明恵自身の仏心の病んだ部分を療治せんがためという理由である。〔明恵注:この理由については、先の経袋を上師に委託しなかったことを譴責したのと酷似する内容が語られているに過ぎないので、略した。〕……

――二つ目の理由は…………』……

……この二つ目の理由は……そうさな、よく聴いても、これ、おらなんだわ…………

 

(e)

……その後の場面。

 上師の御持ち物を垣間見た。

 御自身で手に一つの手箱をお持ちになっておられた。

 それをよく見てみると、それは神護寺にある御本尊の前に置かれてあるはずの、布施として供えられた、あらたかなる手箱ではないか?!

 夢心地ながらも、私は、はっきりと、

『……!……あの手箱は、この私に嗣がれたはずの手箱ではないか!……何と! この上師が、それを知らぬ間に不当にも! お取り上げになられたかッ?!……』

と強い憤りを覚えたのであった。……

 

(f)

また、それに続く夢の中には、《明恵附記:この昼間に成した修法(ずほう)の影響からと思われるが、》死人(しびと)らが多く登場する場面を見た。《明恵再附記:先の附記は、この死人の群れは、当日、私が修した修法の内容や性質が、夜の夢に作用して、かくなって現われたのであろうと考えられる、という意味である。》」

 

一、建仁元年正月十一日、短時間の集中的な修法(ずほう)を行じた。その翌日の十二日の夜に見た夢。

「また、上覚上師がいる。上師はやはり、いまだ播磨国におられるのであった。

 私は、またしても師の御前に参じた。

 ところが今度は、いたく私の参ったのをお悦びになられて、いろいろと話しに花が咲いたのであった。

 

[やぶちゃん補注: 河合氏は「明惠 夢に生きる」でこの夢を取り上げ、『この夢を必ずしも上覚という人』実際の師としての個人と『明恵との葛藤と読みとる必要はなく、上覚が一般の当時の僧を代表しているのかも知れないし、あるいは華厳』という宗派存在や教団『を代表しているのかも知れないのである。ともかくもこの夢は、明恵が上覚を「師」として、ひたすらそれに従ってゆくのではなく、自分の道を自分の手で拓いてゆくべきことが暗示されているように思われる』と分析しておられる。ユング派らしい万人受け入れられやすい穏当な夢分析である。但し、最後の部分ではもう少し深く抉っておられ、注で述べた如く、この夢の翌年に『伝法灌頂を受けた頃、明恵は密教の様式によって華厳の教理を体得しようとする意図で、いろいろな工夫をこらしているが、華厳と真言という二つの教理の存在も、明恵にとっては大きい意味をもっていたと推察される』とある。

 7での師上覚とのアンビバレンツは、読んでいて何の困難もなく「腑に落ちる感じ」が私にはする。それは河合氏の夢分析を読まずとも、多くの方が同様に納得されるものと思う。「何を意味するかが論理的に解る」のではなく、こうした夢を見た明恵の心的複合(コンプレクス)が「直感的に腑に落ちる」のである。また、私には、

(e)での師への感情的な憤りの感情が超自我を刺激したために、

(f)の末尾の死体変相の夢魔が明恵に黙示され(それをそうは明恵はとらずに昼間の修法という一種の外部刺激によるものと「強いて」解釈しているところが、実は超自我の解釈検閲のようにも見えるのである)、

その無意識の夢の中の明恵の感情鎮静と師弟間の礼の復元を企図して、

「8」という打って変わった大団円の夢が用意されている、

と私は実に自然にこの長編三部作を破綻なく読解し終わるのである。

 再三述べるが、私はこの夢の隠された意味が分析的に解ったと言っているのではない。私はこの長大な明恵の、一見、複雑な夢を、一つの連続したストーリーとして、十全に楽しむことが出来た、と言っているのである。フロイトのような汎性論的単相の性的象徴関係でステロタイプに分析することは、実は容易いのだと思う。しかしそれは「ためにする」解釈の定式化でしかない。そうして、明恵が積極的に夢を記述する楽しみに生きたように、その明恵の夢を読んで、生き生きと楽しむこと――そこには無論、牽強付会な自己満足が潜んでいることも事実である。しかし、それは私に限らず、精神分析の夢理論総てに言えることなのである――それこそが実は夢を読み解くことの大切な第一歩であると、実は私は信じて疑わないのである。]

鬼城句集 春之部 柳

柳    靑柳や幕打張つて飛鳥井家

     靑柳の木の間に見ゆる氷室かな

麥 萩原朔太郎 (初出形+習作草稿)

 

 

                夢みるひと

 

麥(むぎ)はさ靑(あほ)に延(の)び行(ゆ)けり

 

遠(とほ)き畑(はたけ)の田作(たづく)りの

 

白(しろ)き襦袢(じゆばん)にゑんゑんと

 

眞晝(まひる)の光(ひかり)ふりそそぐ

 

九月(ぐわつ)はじめの旅立(たびだ)ちに

 

汽車(きしや)の窓(まど)より眺(なが)むれば

 

麥(むぎ)の靑(あほ)きに驚(おどろ)きて

 

疲(つか)れし心(こゝろ)が泣(な)き出(だ)せり 

 

[やぶちゃん注:大正二(一九一三)年十一月十七日附『上毛新聞』に前の「雨の降る日」とともに掲載された。「靑(あほ)」(二ヶ所)「ゑんゑん」はママ(新聞の総ルビは作者の意図せざるものである)。なお、この詩は底本第二巻に所収する「習作集(哀憐詩篇ノート)」(「習作集第八巻」「習作集第九巻」と題されて残された自筆ノート分)の「習作集第八巻(一九一四、四)」に以下の詩形とクレジットで所収している。

 

   *

 

 麥

 

 

麥はさ靑に延び行けり

 

遠き畑の田つくりの

 

白き繻絆にえんえん

 

眞晝の光ふりそゝぐ

 

九月はじめの旅立ちに

 

汽車の窓より眺むれば

 

麥の靑きに驚きて

 

つかれし心が泣き出せり

           (一九一三、八)

   *

「繻絆」はママ。]

黄色い馬 大手拓次

   濕氣の小馬

 

 

 

  黄色い馬

 

そこからはかげがさし、

ゆふひは帶をといてねころぶ。

かるい羽のやうな耳は風にふるへて、

黄色い毛竝(けなみ)の馬は馬銜(はみ)をかんで繫(つな)がれてゐる。

そして、パンヤのやうにふはふはと舞ひたつ懶惰(らんだ)は

その馬の繫木(つなぎ)となつてうづくまり、

しき藁(わら)のうへによこになれば、

しみでる汗は祈禱の糧(かて)となる。

 

[やぶちゃん注:「パンヤ」双子葉植物綱アオイ目アオイ科(新エングラー体系及びクロンキスト体系ではパンヤ科)パンヤ亜科セイバ属カポック Ceiba pentandra などのパンヤ類の植物の種子から繊維として採取される、紡ぐことが出来ない綿のような長毛。クッション・救命胴衣・ソフトボールの詰め物などに用いられる。ポルトガル語“panha”を語源とする。]

ここより「濕氣の小馬」の章に入る。

2013/04/26

名も知らない女へ 大手拓次

 名も知らない女へ

 

名も知らない女よ、

おまへの眼にはやさしい媚がとがつてゐる、

そして その瞳(ひとみ)は小魚のやうにはねてゐる、

おまへのやはらかな頰は

ふつくりとして色とにほひの住處(すみか)、

おまへのからだはすんなりとして

手はいきもののやうにうごめく。

名もしらない女よ、

おまへのわけた髮の毛は

うすぐらく、なやましく、

ゆふべの鐘のねのやうにわたしの心にまつはる。

「ねえおつかさん、

あたし足(あし)がかつたるくつてしやうがないわ」

わたしはまだそのこゑをおぼえてゐる。

うつくしい うつくしい名もしらない女よ

これを以って「球形の鬼」の章を終わる。

不思議な無言電話の考察(杉下右京風に)

昨日の5時半前、家の電話が鳴った。とってから何時もながら、相手の様子を窺うタメを十分入れてから
(僕は電話が大嫌いで常にそうしている)
こちらを名乗った。
――無言である
――が――
――電話の向こうではっきりとした時報が鳴っている
――例の117とそっくりな時報である
――しかし無言である
――僕も無言で暫く聴いていた
――そして
――切れた。

ネット上で今調べてみた。こんな情報があった。

  《引用開始》
一番可能性があるのが「いたずら電話」です。
事業所で使用している電話交換機やビジネスホンには「外線ー外線転送」機能や「三者通話」機能が標準装備されています。
いたずらを仕掛けた者をA、質問者さんをBとします。
まず、Aが自分の事業所から時報(117)に電話をします。
その後回線を一旦保留し、Bの会社の番号に電話をします。
Bが応答すると同時にAが保留を解除し、「外線転送」あるいは「三者通話」状態にします。
「外線転送」の場合はAの交換機を中継し「時報」とBが通話状態になります。
「三者通話」の場合は時報とAとBがAの交換機を中心に三者通話状態になります。
「三者通話」の場合はAが声を潜めていることで、Bと時報がつながった状態を聞くことができ、Bが驚いている状態を聞いている…という構図です。
事業所でなくても「トリオホン」というサービスを利用すると、三者通話をNTTの機能で実現できますが、1xx番号は利用できませんので、やはり事業所の電話交換機の機能を使ったいたずらであろうと考えます。
   《引用終了》

なるほど!

……しかし……一つ、よろしいですか?
僕の場合、とってから切れるまで十秒はあったんですよ。
ところがその間、117のような「何時何分をお知らせします」というナレーションは、一切、なかったんですがねぇ……

……つまらないところが気になる――これが僕の悪い癖……

中島敦漢詩全集 六

  六

狼星方爛々
參宿燦斜懸
凍夜疎林上
悠々世外天

[やぶちゃん注:底本では、以下のように、

狼星(シリウス)方爛々
參宿(オリオン)燦斜懸
凍夜疎林上
悠々世外天

と、
「狼星」の右に片仮名で「シリウス」
「參宿」の右に片仮名で「オリオン」
のルビが振られている。]

○やぶちゃんの訓読1(正格)

狼星(らうせい) 方(まさ)に 爛々
參宿(しんしゆく) 燦(さん)として斜めに懸る
凍夜 疎林の上
悠々たり 世外(せぐわい)の天

○やぶちゃんの訓読2(変格)

狼星(シりウス)は方(まさ)に爛々として――
參宿(オリオン)は燦(きらめ)いて斜めに懸かる――
凍(こご)れる夜(よる)の疎らな林の上――
悠々としてある――この世の外(ほか)の天が――

〇T.S.君原案(一部は藪野補筆)の中国語を踏まえた語釈
・「狼星」シリウス。一月初旬には午前零時頃に、二月初旬には午後十時頃に南中する。
・「方」ここでは、まさに今、という意味。
・「爛爛」強く光り輝くさま、若しくは色彩が鮮やかなさま。ここは前者。
・「參宿」オリオン座の三ツ星のうち向かって最も左下の星を中心とした中国古代の星宿。現代でいうオリオン座の恒星計七つにより構成される。但し、ここで詩人が仰ぎ見ている「參宿」というのはこのオリオン座の星座全体ではない。ここで詩人にとっての「參宿」とは――その三ツ星――であったと考えてよい。そもそもそうとらないと、シリウス一顆と參宿の釣り合いが取りにくく、何より、それを形容する「斜懸」という表現もそぐわなくなってしまうからである。従って、この詩においては読者の目にオリオン座の三ツ星さえ輝いて見えておればよい。そしてこれらの星はシリウスのやや西側、視角にして二十度弱しか離れていないところに、輝いている。
・「燦」目を射るように煌(きら)めくさま。
・「斜懸」この二字の組み合わせは必ずしも熟語を構成するものではないが、ここは字義通り、斜めに天空に懸かっていることを言う。但し、三ツ星の並びが「斜め」なのか、參宿が西の空に沈みつつあるさまを「斜め」と表現したのか、については一考の価値がある。狼星は、強烈に光り輝いている、というのであるから、かなり高い位置にある(「狼星」の語釈参照)と想像されるが、そこから視角約二十度程度しか離れていない參宿を、天空において「斜めに懸かる」と表現するのは、やや無理があるように感じられる。従って、ここは――視覚的に纏まったものとして捉えられることが一般化しているところの――三ツ星が、夜空に「斜め」に懸かっている、の意で採るのが自然であると思われる。なお、オリオン座の三ツ星の並びは、東の地平から昇る際にはほぼ垂直であり、西の地平に沈む際にはほぼ水平に近くなる。南中する頃には、向かって左を下にして「斜め」に傾いていて、まさに我々が普通にイメージするところのオリオンの三ツ星の姿なのである。
・「凍夜」凍てつくような夜。今のところ、中国古典の中には特に典拠を見出し得ない。
・「疎林」それほど鬱蒼としていない樹影疎らな林。古来用例の多い語である。ここでは葉を全て落した樹々の寒々しい様子を「疎ら」と表現していると理解しても許されるであろう。
・「悠悠」古来の数多の詩人に愛用されてきた、非常に用例の多い語である。遥か長い、遥か遠い、悠然としたさま、数多いさま、ばかばかしい様子、翻るさま、凡庸なさま、憂愁を含んださま、悠然自在なさまなど、多くのニュアンスを有する。数多くの用例の中で真っ先に浮かぶのは、人口に膾炙した初唐陳子昂の雑言古詩「登幽州臺歌」である。
   *

前不見古人
後不見來者
念天地之悠悠
獨愴然而涕下

 前に古人を見ず
 後に來者を見ず
 天地の悠々たるを念(おも)ひ
 獨り愴然として涕(なんだ)下(くだ)る

[T.S.君訳:古代の聖賢に会うことは出来ず、後世の賢君に会うことも叶わない。時の遥かな流れに比べて、この私の存在のなんと一刹那であることか。それを思うと凄愴たる思いに心が揺さぶられ、涙が流れる。]
   *
ここでは、天空が人界から遥か遠くに位置している感じ、星空が地上の瑣末な営みから超然としている感じ、広大な星空が拡がるさま、などの三つの感覚を同時に担っている語であろう。
・「世外天」世の外にある天。この世界の向こうにある宇宙、といった広大無辺のニュアンスである。

〇T.S.君による現代日本語訳

――静寂――
凍てつく夜
狼星が南の空高く輝いている
その横に參宿の三ツ星が斜めに懸かる
冬枯れの疎林の上
底なしの天空が広がる
――沈黙――
超然として…
何の不足もなく…
恐ろしく巨大な
しかし極めて密やかな
宇宙の
息遣い……

〇T.S.君とやぶちゃんの協働取組みによる評釈
 詩人は自ら、狼星と參宿に、シリウス、オリオンとルビを振った。
 なぜだろう。
 単なる遊び心なのだろうか。
 いや、中国名のみならず西洋名でも括りたくなるほど、彼は時空を超越して「在る」ところの星を、星座を、その「存在」を歌いたかったのだろう。強く描きたかったのだろう。
 では味読に際して、星の名は中国名で押し通すべきなのだろうか。それとも西洋名を使うべきなのだろうか。やはり、中国名を消し去ってはなるまい。なぜならこれは自由詩ではなく、あくまで漢詩という枠を借りて表現された世界だからである。また、母語としての日本語の「狼星(ロウセイ)」と「參宿(シンシュク)」という呼名(日本語としての音律)が完全に滅却された詩世界など、彼には始めからあり得なかったはずだから。
 ただし、西洋名を想起し、星に新時代の新たな彩りを添えることも意義深いと思われる。その時この詩は、東西の文明の差異を超えて、中国思想や西欧思想の、その淵源にある人事(人間)と自然の二項対立、
――『人世』対『宇宙』
という、より古くて新しい普遍的構図へ向かって、さらに純化されていくからである。

 では狼星と參宿は、どちらが主役なのだろうか? 否、その二つの関係は如何なるものなのだろうか?
 勿論、起句で真っ先に示され、輝きに於いては勝る狼星の存在感はすこぶる強烈である。
 しかし、參宿も決して負けてはいない。起句に拮抗して承句の五文字を完全に占拠したその存在は同等に揺るぎない。
 即ちここでは、狼星と參宿の両者が存在していなければ詩が成り立たないのである。
 この詩人の「星図」を我々が詩人とともに見る時、その広がるヴァーチャルな星空を正しく想い描くためには、狼星一つに焦点を合わせていては――いけない――のである。
 主役級のいぶし銀の老俳優の演ずるのが狼星とすれば、參宿の方は準主役である。
 ここでは神がかった狼星の名演技も參宿なしには――生きない――のである。
 さらに言うなら、量子力学よろしく、それを眺める「詩人」なしには、かの二星は――存在しない――のである。
 そこでふと気づく。
――「狼星と參宿と詩人」
という組み合わせは、あたかも、漱石の『こゝろ』に於いての
――「先生とKと私」
のようではないか……。

 転句における疎林の存在も見逃せない。
 この星空は、あくまで「この疎林の上」に広がる星空でなければならないからである。
 単に天空だけを描いたのでは、遥かな星々の姿が左右上下の安定を欠いて揺らいでしまう。疎林と、その上方の謎のように深い星空が、揺るぎないかっちりと固定した構図を形成させているのである。
 広大無辺な宇宙を描くためにこそ、卑小な疎林という定点が、いわば額縁が必要であったのである。
 試みに疎林に言及しない詩世界を想像してみてみればその重要性がよく分かる。近景としての疎林が、遠景無限遠としての深宇宙の奥行きを実感させるのに、どれほど大きな効果を与えているかが実感されるはずである。
 さらに言えば、前景に配された疎林は、宇宙が発する「非人情」の冷たい波動に化石されたかのように、枯れ枝の集合体として我々には映る。
 逆に言えば、一枚の葉も残されていない冬の疎林にしか、この「非人情」の星空の前景の役目を果たす資格はないのだ!

[やぶちゃん注:ここで私とT.S.君が何を思い出しているか、最早、お気づきであろう、それは――「こゝろ」のあのシーンである。
「止めて呉れつて、僕が云ひ出した事ぢやない、もともと君の方から持ち出した話ぢやないか。然し君が止めたければ、止めても可いが、たゞ口の先で止めたつて仕方があるまい。君の心でそれを止める丈の覺悟がなければ。一體君は君の平生の主張を何うする積なのか」
 私が斯う云つた時、脊の高い彼は自然と私の前に萎縮して小さくなるやうな感じがしました。彼はいつも話す通り頗る強情な男でしたけれども、一方では又人一倍の正直者でしたから、自分の矛盾などをひどく非難される塲合には、決して平氣でゐられない質だつたのです。私は彼の樣子を見て漸やく安心しました。すると彼は卒然「覺悟?」と聞きました。さうして私がまだ何とも答へない先に「覺悟、――覺悟ならない事もない」と付け加へました。彼の調子は獨言のやうでした。又夢の中の言葉のやうでした。
 二人はそれぎり話を切り上げて、小石川の宿の方に足を向けました。割合に風のない暖かな日でしたけれども、何しろ冬の事ですから、公園のなかは淋しいものでした。ことに霜に打たれて蒼味を失つた杉の木立の茶褐色が、薄黑い空の中に、梢を並べて聳えてゐるのを振り返つて見た時は、寒さが脊中へ嚙り付いたやうな心持がしました。]

 そうしてまた、私はここで、『人世』と『宇宙』の対峙について、抽象的ながら、しかし、丁寧に説明した文章を想起するのである。「四」にも引用した佐藤春夫の「星」、その第四十八折である。
[やぶちゃん注:底本と書誌及び引用ポリシーについては「四」の当該作引用の前に附した私の注を参照されたい。一部の難読箇所には岩波書店一九九二年刊の岩波文庫池内紀編「美しき町・西班牙犬の家 他六篇」を参考にしつつ、オリジナルに読みを入れた。]。
    《引用開始》
 日と月とは人間の爲めに動くのではない。
 人間の禍福などには一向冷淡な日と月とはただ彼等自身の爲めに動いてゐるのかもしれない。さうして彼等自身でさへその行方を知らないために、恆(つね)に不断の徂(ゆ)き徠(き)をつづけて同じ道をさ迷うてゐるのかも知れない。それらの事を我我は一切知らない。ただ我我は日と月とが東から來て西へ去るのを見る。さうしてこの同じことが果してどれだけ度度繰り返されるか、それを人間は何人も、どんな方法ででも、數へ盡すことは出來ない。ただ人間の出來ることはその無限の徂徠(ゆきき)をつづける日と月との下で、それぞれに、さまざまな思ひで、刻刻に生きてゆくこと――乃至(ないし)は刻刻に死んで行くことだけである。さうして、益春は彼の女の生甲斐としてその愛する子――死んだ夫の生きてゆく思ひ出をしつかりと守つた。この母の目にはその男の子は生育するに從つてだんだん彼の父にそつくりに見えるのも嬉しく悲しい。
   《引用終了》
 さて、まだ触れていないことがある。
 実は、私は幽かに、しかし、確かに感じているのだ。それは……
――この詩の孕む緊張感
と、恐らくは
――この詩人の深いところで渦巻く激情
と、である。
 未熟な言葉を連ねるのは避け、最後に一枚の絵を掲げる。
 知られたゴッホの「星月夜」である。
 画家は宇宙に呑み込まれ、画家自身さえも宇宙の一部分として凝結している。あくまで自分と星空との対峙という構造を失わない中島敦の詩とは、決定的に異なる世界ではあろう――しかし――ゴッホが画面に定着した緊張感、そしてその激情を――中島敦もまた、しっかりと蔵しているのではないか?
 画家は、
「僕らは死によって星へと到達するのだ」
と語ったという。同じ言葉が詩人の口から漏れないなどと、誰が言い切れるだろうか……。

 

Vangogh_starry_night

 

[やぶちゃん補注:ゴッホの手紙の中でも、しばしばいろいろな場面で引用される以上の部分について、私の私淑する瀧口修造氏の訳になる「ファン・ゴッホ書簡全集」(一九七〇年みすず書房刊)の第四巻から、当該書信(同書簡番号506)の相当箇所の前後を正確に引用しておく。弟テオ宛のアルル発信書簡である。クレジットはないが、書簡集の前後から判断すると一八八八年七月中と推定し得る。当該部分は書簡の末尾に現われる。ゴッホに『日本にいるような気がする』(469書簡)とまで新鮮な感動を与えたアルル到着は、同年二月二十一日のことであった。
  《引用開始》
 すべての芸術家、詩人、音楽家、画家が、物質的に不幸なのは――幸福な人がいても――たしかに奇妙な現象だ。前便でギ・ド・モーパッサンについてきみがいっていることがまたその新しい証拠だ。それは永遠の問題に関わることだ。すなわちわれわれには生の全体が眼に見えるだろうか。それとも死なないうちはわれわれにはただその半球だけしか知れないのであろうか。
 画家は――他の連中はさておき――死に、埋葬されるが、その作品によって次の世代に、相次ぐ幾世代に話しかける。
 それだけなのかそれともさらにそれ以上のことがあるのか。画家の生涯にとっては、死は多分最大の困難ではないだろう。
 いずれにしてもそれを知るよしはないとぼくはいわねばならないが、地図の上で町や村をあらわす黒い点がぼくを夢想させるのと同様にただ星を見ていると、ぼくはわけもなく夢想するのだ。なぜ蒼穹に光り輝くあの点が、フランスの地図の黒い点より近づきにくいのだろうか、ぼくはそう思う。
 汽車に乗ってタラスコンやルーアンに行けるなら、死に乗ってどこかの星へ行けるはずだ。
 この推論のなかで絶対間違いのないことは、死んでしまえば汽車に乗れないのと同様に生きている限りは、星に行けないということだ。
 詮ずるところ、コレラや尿石や肺結核や癌は、蒸汽船や乗合馬車や鉄道が地上の交通機関であるように、天上の交通機関であると考えられないでもない。
 老衰して静かに死ぬのは歩いてゆくようなものだろう。
 夜が更けたから、それでは寝よう。おやすみ、いいことがあるように。
 元気で
       きみのフィンセント
   《引用終了》
下線部は、底本では傍点「ヽ」。
 この死について語る部分は、知られたところの、切り出されて純化美化されたアフォリズムのようになった言葉以上に――凄絶に我々の胸を衝く――

追記1:私はこの補注によって、評釈の議論の中で「僕らは死によって星へと到達するのだ」を最初に引用したT.S.君を揶揄しようとしているのでは毛頭ない。実際に「僕らは死によって星へと到達する」で検索をかけて見られるがよい。この格言のような文句が、ゴッホが、何時、誰へ、どんな文脈で書いたかという大切なデーティルを語ることなく(一部の記載にはそうした試みがない訳ではないが、私が心からこれならばと思われる記載は、二〇一三年四月二十六日現在、本格的美術系サイトでも殆んどと言ってよいほど、ない)、単品切り出し伝家の宝刀よろしく、そこら中に転がっているのである。そうした私にとって少しだけ気になる世間的な事実について、本評釈を読んで下さる奇特な方々(は恐らくゴッホがお好きな方も多いと類推する)に是非知って戴きたく――実は、軽率に引用したことを恥ずかしいとして書き換えを望んだT.S.君の要求を退け、敢えてそのままにすることを――私が望んだのである。
追記2:因みに、我々日本人の多くは恐らく、このゴッホの述懐に、いやがおうにも、同じように孤独であった今ひとりの詩人の、ある世界を想起するであろう――言わずもがな――宮澤賢治の「銀河鉄道の夜」――である。]

耳嚢 巻之六 HP版も完成

「耳嚢 巻之六」(全百話)HP版も完全公開した。

耳囊 卷之六 陰德危難を遁し事 ~ 「耳囊 卷之六」了(600話まで完成)

 

本話は「耳嚢 卷之六」の掉尾である。これを以って「耳嚢」全1000話全注釈の60話までを完成した。



 陰德危難を遁し事

 

 或武家、兩國を朝通りしに、色衰へし女、欄干の邊をあちこち徘徊せる樣(さま)、身を投(なげ)、入水(じゆすい)を心懸るやと疑はしく、立(たち)よりて其樣を尋しに、綿摘(わたつみ)を業とせるものにて、預りの綿をぬすまれ、我身の愁ひは申(まうす)に及ばず、親方も吳服所への申譯(まうしわけ)なき筋なれば、入水せんと覺悟極(きはめ)し由かたりぬ。いか程の價ひあればつぐのひなりぬるやと尋(たづね)しに、我等が身の上にて急に調ひがたし、三分程あれば、償ひも出來ぬべしと云ひし故、夫は僅(わづか)の事なり、我與へんとて懷中より金三分取出(とりいだ)し、彼(かの)女子に與へしに百拜して歡び、名所(なところ)など聞(きき)けれど、我は隱德に施すなり、名所を云ふに不及(およばず)とて立別れしが、年を隔(へだて)て、川崎とか又は龜戶邊とか、其所は不聞(きかざり)しが、所用ありて渡し場へ懸りしに、彼(かの)女に與風(ふと)出會(であひ)けるに、女はよく覺へて、過(すぎ)し兩國橋の事を語り、ひらに我元へ立寄り給へと乞し故、道をも急げばと斷りしが、切に引留(ひきとどめ)てあたりの船宿へともない、誠に入水と一途に覺悟せしを、御身の御影にて事なく綿代をも償ひ、不思議に助命せしは誠に大恩故、平日御樣子に似候人もやと心がけ尋しなり、我身もみやづかへにて綿摘し事、過し盜難に恐(おそれ)、暇取(いとまとり)て此船宿へ片付(かたづき)けるに、不思議にも今日御目に懸りしも奇緣とやいふべきとて、蕎麥酒抔出し、家内打寄(うちより)て饗應せしに、彼(かの)渡し場にて何か物騷(ものさわが)しき樣子、其譯を尋しに、俄(にはか)に早手(はやて)出(いで)て渡船(わたしぶね)くつがへり、或は溺死、不思議に命助かりしも怪我抔して、大勢より集(あつまり)て介抱せるよし。是を聞(きき)て、誠に此船宿へ彼女に逢(あひ)、被引留(ひきとめられ)ずば、我も水中のうろくずとならん、天道其(その)善に組(くみ)し、隱德陽報の先言(せんげん)むなしからざる事と、人の語りぬ。 

 

□やぶちゃん注

 

○前項連関:特になし。「耳囊 卷之六」の掉尾である。岩波版長谷川氏注に『落語の「佃祭」に用いられる話で、『譚海』六、『むかしばなし』五、『古今雑談思出草紙』四など類話多し』とある。落語「佃祭」はウィキの「佃祭」(落語)に詳しい。こちらはこの話の後半部のシチュエーションが前半で(主人公は神田の小間物問屋次郎兵衛、救われるのは奉公する女中で恵んだ額は五両、事故現場は佃島からの渡し)、後半はそれを聴いた与太郎が真似して失敗するオチであるが、同解説によれば、本話の原型は『中国明代の説話集『輟耕録』の中にある「飛雲渡」である。占い師より寿命を三十年と宣告された青年が身投げの女を救ったおかげで船の転覆事故で死ぬ運命を免れる話で、落語「ちきり伊勢屋」との類似点もある』(同じウィキの「ちきり伊勢屋」を参照)とあり、更にこの「耳嚢」のことを引き、これも『飛雲渡を翻案した物』であるとし、筆者はこれが落語「佃祭」の系譜のルーツ(の一つ)と推測されているようである)。なお、舞台となった佃の渡しでは明和六(一七六九)年三月四日に藤棚見物の客を満載した渡し船が転覆沈没し、乗客三十余名が溺死しており、これが落語「佃祭」の直接の素材となっているらしい。「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年であるから、この三十年ほどの間に恐らく原「佃祭」が創作され、そのヴァリエーションが、全くの実話として根岸の耳に入った――当時のネットワークの一つのパターンが垣間見られる。「譚海」の話は、主人公は江戸京橋の浪人(の子)で、救われる相手は女ではなく遊里にはまって首が回らなくなった桑名の男で施しは三両、現場は桑名の渡し、「むかしばなし」のそれは主人公は道具屋、救われるのは若夫婦で、現場は本庄の渡しである。この原典から本邦でのインスパイアの歴史については、鈴木滿「『輟耕録』から落語まで」という論文(『武蔵大学人文学会雑誌』第三十四巻第三号所収)が詳細に解き明かしている。必一読。また、鈴木氏のも同論文の中で指摘されてられるが、かなりのひねりが加わった「耳嚢 巻之一 相學奇談の事」等を始めとして、所謂「陰德陽報」譚は、この「耳囊」では相当数数えることが出来る。

 

・「遁し」「のがれし」。

 

・「綿摘」小袖の綿入れなどに入れるために綿を摘綿(真綿を平らにひき伸ばしたもの)にする作業のこと。底本の鈴木氏の注が仔細を極めるので、例外的にほぼ全文を引く。『綿を塗桶にかぶせて延ばして薄くする作業。小袖の中に入れる綿、或いは綿帽子をつくるためにする』。但し、これを表向きの『仕事として内実は淫を売る女を、綿摘と呼ぶことも寛文のころからの流行で、宝永ごろ一時やんだが、その後も一部にはあった。文中に出てくる綿摘の女も、礼ごころとはいえ舟宿へ誘うところなど、少し怪しい感じがする』とある。とってもいい注である。

 

・「償ひ」実は底本は「價ひ」であるが、これでは意味が通らない。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版で訂した。

 

・「金三分」一分金は四枚で一両。現在の金額にすると約五万円前後に相当するか。

 

・「みやづかへにて」この「みやづかへ」は所謂、「宮仕へ所」で、職場、かの綿摘作業をする作業場の謂いであろう。

 

・「うろくず」は魚の鱗、魚のこと(但し、仮名遣は誤り)。「うろくづの餌(ゑ)」辺りと「藻屑(もくづ)」との混同か。

 

・「隱德陽報」人知れず善行を積めば、必ずよい報いとなって現れてくるということ。

 

・「人の語りぬ」という末尾は、微妙に不自然で、本話がその武士の直談ではないというニュアンスを感じさせる。但し、訳ではわざと直談とて、本話をリアルなものとして示しておいた。それが有象無象の本類話の増殖蔓延を目指す戦略の要めでもあろうと判断するからである。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 

 陰徳によって危難から遁れ得た事

 

 ある武士、両国橋を朝方、渡りかけたところ、如何にもやつれて見ゆる一人の女、欄干の辺りをあちらへ一さし、こちらと二さしと歩んでは思案顔、これはもう、身を投げ、入水(じゅすい)を図らんとすると、疑わしき体(てい)なれば、傍らに寄って、

 

「……御女中……如何致いた?――」

 

と、穏やかに質いたところ、

 

「……妾(わらわ)は綿摘(わたつ)みを生業(なりわい)と致す者なれど……預りおいた、さわにあった綿を皆、盗まれて……我が身の途方に暮るるは申すに及ばず……綿摘み元締めの親方も、じきに卸さねばならぬところの呉服屋への申し訳も立たざる仕儀なれば……最早、入水せんと……覚悟を決めて、御座いまする……」

 

と、消え入りそうな声にて語って御座ったと申す。

 

 あらましを聴いた後(のち)、かの武士、

 

「……それは……いかほどの値い、これ、あらば――その盗まれた綿の――償いと致すこと、これ、出来ようものじゃ?」

 

と訊いた。

 

「……我らが身の上にては……とてものこと……直ぐに調えようのできようような金高(かねだか)にては……これ、御座いませぬ……」

 

「――いや――幾らかと――と訊いておる。」

 

「……へえ……三分ほども、あれば……これ、償いも出来ましょうが……」

 

と答えたゆえ、

 

「――なに。それは僅かのことじゃ。我らが取らす。」

 

と、懐中より金三分を取り出だいて、かの女子(おなご)に与えた。

 

 女は、無論、百拝せんほどに歓び、

 

「……ぜひ、お名前やお住まいなど、お聞かせ下さいまし!」

 

と乞うたれど、

 

「――いや――我らはただ隠徳として、これを施すのじゃ。名所(などころ)は言うに及ばぬ。――」

 

と、踵(きびす)を返して立ち去ったと申す。

 

 さて、それから数年の後のこと。

 

 かの武士が――川崎であったか、亀戸辺であったか、場所は聴き洩らいたが――所用が御座って、とある渡し場へ通りかかった。

 

 すると、あの入水をしかけて御座った、かの女に、そこで偶然、再び出逢(お)うたと申す。

 

 女も、かの武士のことを、よう覚えて御座って、過ぎし日の両国橋での一件を語って謝した上、

 

「――ひらに! 我らが元へ、是非、お立寄り下さいまし!」

 

と乞われたによって、

 

「……いやぁ……道をも急いでおるによって……」

 

と一旦は断ったものの、しきりに引きとめられ、さればとて近くの船宿へと相い伴って参った。

 

「――まことに! あの時は、入水せんものと一途に覚悟致いておりましたものを、お武家さまのお蔭にて、無事、盗まれた綿の代(しろ)をも償い、不思議なる御縁によって我らごときをご助命下さいましたは、これ、まっこと、我らにとっての大恩。なればこそ、あれより毎日、ご様子の似申上げて御座らるるお人を見かけては、これは、とせちに心をかけて、貴方さまでは、と訊ね暮らして参りましたので御座います。我が身も――あの頃は世過ぎに綿摘みなど致しておりましたが――過ぎし日の、あの盜難とその難儀の一件にすっかり怖気づきまして、じきに暇(いとま)を貰い、今は、こうして、この船宿を営みまする夫のもとへと片付いて御座います。……ああっ、それにしても! ほんに、不思議にも、今日(きょうび)、お目にかかることが、これ、できました! これも何かの奇縁と申すものに、御座いましょうぞ!……」

 

と、いたく歓んで、蕎麦やら酒やら肴なんどまで持って来させ、主人(あるじ)や子(こお)などまで家内一同うち寄って、上へ下への大饗宴と相い成って御座った。

 

 そんな中、女が風を入れんと、ふと障子を開けたによって、武士は何気なく岸辺を眺めた。

 

 見れば、かの渡し場の辺りにて、何やらん、物騒がしき様子が見てとれる。

 

 女が宿の者に見に行かせたところが、

 

「――いやあ! 何でも、にわかに突風が吹きやしてねぇ! 渡し船が、川のど真ん中にて、これ、ひっくり返(け)えったんでごぜえやす! そんでもって、ある者(もん)は溺れ死に、不幸中の幸いと、命の助かった者(もん)も、これまた、ひどい怪我でごぜえやして、へえ! 大勢の者(もん)が、寄ってたかって介抱しておりやしたが……ともかく、いや、もう、とんでもね、大騒ぎで、え!……」

 

とのことであった。……

 

 

「……まっこと、あそこでかの女に逢い、そこであのように引き留められ、かの船宿に参るらずんば、これ、我らも、水の中の鱗(うろくず)の餌(え)となって御座ったに相違御座らぬ。……これぞ、まさに『天道はその善に与(く)みす』『陰徳陽報』と申す、先人らの言(げん)が、これ、虚しき空言(そらごと)にては御座らなんだということ、相い分かり申した。……」

 

とその御仁が語って御座った。

雨の降る日 萩原朔太郎

 

 

 雨の降る日

 

     (兄のうたえる)

 

雨(あめ)の降(ふ)る日(ひ)の椽側(えんばた)に

 

わが弟(おとゝ)はめんこ打(う)つ

 

めんこの繪具(ゑのぐ)うす靑(あほ)く

 

いつもにじめる指(ゆび)のさき

 

兄(あに)も哀(かな)しくなりにけり

 

雨(あめ)の降(ふ)る日(ひ)のつれづれに

 

客間(きやくま)の隅(すみ)でひそひそと

 

わが妹(いもと)のひとり言(ごと)

 

なにが悲(かな)しく羽根(はね)ぶとん

 

力(ちから)いつぱい抱(だ)きしめる

 

兄(あに)も泣(な)きたくなりにけり 

 

[やぶちゃん注:大正二(一九一三)年十一月十七日附『上毛新聞』に「夢見る人」のペンネームで次に紹介する「麥」とともに掲載された。「靑(あほ)く」「うたえる」はママ。「習作集第八卷(愛憐詩篇ノート)」に以下の草稿がある。

 

   *

 

 雨の降る日

     (兄のうたへるうた)

 

雨の降る日の椽ばたに

わが弟はめんこ打つ

めんこの繪具うす靑く

いつもにじめる指のさき

兄も泣きたく哀しくなりにけり

 

雨の降る日のつれづれに

客間のすみでひそひそと

わが妹のひとりごと

なにが悲しく羽根ぶとん

力いつぱい抱きしめる

兄も泣きたくなりにけり

          (一九一三、五、二〇)

   *

鬼城句集 春之部 蓮華草

蓮華草  蓮華野に見上げて高き日ざしかな

死の行列 大手拓次

 死の行列

 

こころよく すきとほる死の透明なよそほひをしたものものが

さらりさらり なんのさはるおともなく、

地をひきずるおともなく、

けむりのうへを匍(は)ふ靑いぬれ色のたましひのやうに

しめつた脣(くちびる)をのがれのがれゆく。

栂尾明恵上人伝記 20 「おしま殿」への恋文

 

 

 又便(たより)に付けて、暫し栖み馴れける紀州苅磨(かるも)と云ふ嶋へ、狀を遺されける。おろおろ見及びし所少々之を註す。其の狀に云はく、

 

其の後何條の御事候や。罷り出で候ひし後、便宜(べんぎ)を得ず候て、案内を啓せず候。抑も嶋の自體(じたい)を思へば、是慾界繫の法、顯形(けんぎやう)二色(しき)の種類、眼根(げんこん)の所取、眼識(がんしき)の所緣、八事倶生の如(によ)なり。色性即智(しきしやうそくち)なれば悟らざる事なく、智性即理(ちしやうそくり)なれば、遍(へん)せざる所なし。理即眞如(りそくしんによ)なり。眞如即法身(しんによそくほつしん)、無差別の理、理即衆生界(りそくしゆじやうかい)と更に差異なし。然れば非情なりとて衆生に隔(へだて)て思ふべきにあらず。何(いか)に況んや、國土身(こくどしん)は即ち如來十身の隨一(ずゐいつ)なり。盧舍那妙體(るしやなめうたい)の外の物に非ず。六相圓融無碍法門(ろくさうゑんゆうむげほふもん)を談ずれば、嶋の自體則(すなはち)國土身なり。別相門(べつさうもん)に出づる時、即ち是れ衆生身・業報身(ごうはうしん)・聲聞身(しやうもんじん)・緣覺身(えんがくしん)・菩薩身・如來身・法身(ほつしん)・智身・虛空身(こくうじん)なり。嶋の自體則十身の體なれば十身互に周遍せるが故に圓融自在にして、因陀羅網(いんだらもう)を盡して、高く思義(しぎ)の外に出で、遙に識智(しきち)の境を越えたり。然れば、華嚴十佛の悟(さとり)の前に、嶋の理を思へば、依正無㝵(えしやうむげ)・一多自在(いつたじざい)・因陀羅網・重々無盡(ぢゆうぢゆうむじん)・周遍法界(しうへんほつかい)・不可思議圓滿究竟(ゑんまんくきやう)、十身具足、毘盧舍那如來と云ふは、即ち嶋の自躰の外に何ぞ是を求めんや。かく申すに付けても、涙眼に浮かびて、昔見し月日遙に隔たりぬれば、磯に遊び場に戲れし事を思ひ出されて忘られず。戀慕の心を催しながら、見參(けんざん)する期なくて過ぎ候こそ、本意に非ず候へ。又、其れに候ひし大櫻こそ思ひ出されて戀しう候へ。消息など遣りて、何事か有り候など、申したき時も候へども、物いはぬ櫻の許(もと)へ、文やる物狂(ものくる)ひ有りなんど、いはれぬべき事にて候へば、非分(ひぶん)の世間の振舞(ふるまひ)に同ずる程に、思ひ乍らつゝみて候なり。然れども所詮は物狂はしく思はん人は友達になせそかし。寶州(ほうしう)に求めし自在海師(じざいかいし)に伴ひて、嶋に渡りて大海にすまゝし。海雲比丘(かいうんびく)を友として心を遊ばしめんに、何の足らざる處か有らんや。其れに候うて本意の如く行道(ぎやうだう)して候ひしより、いみじき心ある人よりも、誠に面白き遊宴の友とは、御處(ごしよ)をこそ深くたのみ進(まゐら)せて候へ。年來世の中を御覽じたれば、昔習ひに土を掘りて、物語せし者ありしぞかしともや思食(おぼしめ)すらん。其等は古き事なり。此の比(ころ)左樣の事は世に似ぬ事にて候へば、申せば望み有るに似たり。然れども和合僧(わごうそう)の律儀(りつぎ)を修して、同一法界の中に住せり。傍の友の心を守らずは、衆生を攝護(せふご)する心なきに似たり。凡そは咎(とが)にて咎ならぬ事にて候なり。取り敢へず候。併せて後信(ごしん)を期(き)し候。

恐惶敬白。

      某月  日                     高辨狀

               嶋殿へ

 

とぞ書かれける。使者此の御文をば誰に付け候べきと申しければ、只其の苅磨嶋の中にて、栂尾の明惠房の許よりの文にて候と、高らかに喚(よ)ばゝりて、打ち捨てゝ歸り給へとぞ仰せられける。

 

[やぶちゃん注:手紙は底本では全體が一字下げである。

「紀州苅磨(かるも)と云ふ嶋」現在の和歌山県有田郡湯浅町(ゆあさちょう)栖原(すはら)、湯浅湾に浮かぶ苅藻島(かるもじま:近接した二島から成る。グーグル・マップ・データ)のこと。久保田淳・山口明穂校注岩波文庫版「明恵上人集」後注によれば、『明恵は建久年間の末、喜海・道忠とともに南苅磨島に渡って』修行を行っている。即ち、――これは文字通り――限りなく思慕する「おしま殿」への恋文(ラブレター)――なのである。]

2013/04/25

栂尾明恵上人伝記 19 各種教学の煩瑣性

 凡そ此の上人、外には聖教の源底(げんてい)を極め盡し、内には禪定の證智相應し給へり。邪正二宗の迷悟に於いて、又一念も疑ひなし。常に語りて曰はく、若しくは一管の筆、若しくは一挺(ちやう)の墨、若しくは栗・柿一々に付いて、其の理を述べ、其の義を釋せんに、先づ始め凡夫我法(がはふ)の前に粟・柿と知りたる樣(やう)より、孔老の教へに、元氣道より生じ、萬物天地より生る、混沌の一氣、五運に轉變(てんぺん)して、大象(たいしやう)を含(がん)すと云ひ、勝論所立(しようろんしよりう)の實・德・業(ごふ)・有(う)・同異・和合の六句の配立、誠に巧(たくみ)なりと云へども、諸法の中に大有性(だいうしやう)を計立して能有(のうう)とし、數論外道(しゆろんげだう)の二十五諦(たい)も、神我自性常住(じんがじしやうじやうじゆう)の能生(のうしやう)を計して、巳に解脱の我(が)、冥性(めいしやう)の體に會する位を、眞解脱處と建立(こんりう)せる意趣にもあれ、又佛法の中に先づ自宗の五教によるに、小乘の人空法有(にんくうほふう)・始教の緣生即空(えんしやうそくくう)・終教の二空中道・頓教(とんぎやう)の默理(もくり)、圓教の事々相即(じじさうそく)・又般若の眞空(しんくう)・法相(ほつさう)の唯識無境(ゆしきむだん)の談(だん)・法華の平等一乘・涅槃の常住佛性(じやうじゆうぶつしやう)にもあれ、一々の經宗(きやうしゆう)により一々の迷悟(めいご)の差異、其の教宗に付きて、粟柿一の義を述べんに、縱ひ我が一期(いちご)を盡して、日本國の紙は盡くるとも、其の義は説き盡し書き盡すべからずと云々。

鬼城句集 春之部 躑躅

躑躅   谷川に朱を流して躑躅かな

みどり色の蛇

 みどり色の蛇

 

假面のいただきをこえて

そのうねうねしたからだをのばしてはふ

みどり色のふとい蛇よ、

その腹には春の情感のうろこが

らんらんと金(きん)にもえてゐる。

みどり色の蛇よ、

ねんばりしたその執著を路(みち)ばたにうゑながら、

ひとあし ひとあし

春の肌にはひつてゆく。

うれひに滿ちた春の肌は

あらゆる芬香にゆたゆたと波をうつてゐる。

みどり色の蛇よ、

白い柩(ひつぎ)のゆめをすてて、

かなしみにあふれた春のまぶたへ

つよい戀をおくれ、

そのみどりのからだがやぶれるまで。

みどり色の蛇よ、

いんいんとなる戀のうづまく鐘は

かぎりなく美の生立(おひたち)をときしめす。

その齒で咬め、

その舌で刺せ、

その光ある尾で打て、

その腹で紅金(こうきん)の焰を焚(た)け、

春のまるまるした肌へ

永遠を産む毒液をそそぎこめ。

みどり色の蛇よ、

そしてお前も

春とともに死の前にひざまづけ。

 

[やぶちゃん注:太字「ゆたゆた」は底本では傍点「ヽ」。「芬香」は「ふんかう(ふんこう)」で、よい匂い、芳香。]

藝術の映画化に就いて 萩原朔太郎

 藝術の映画化に就いて

 

 著名なる文學を活動寫眞にすることは、藝術の民衆化といふ方面で、非常に效果が多いと思ふ。今日のやうな時代では、人々が落付いて讀書する餘裕がない。特に古典に屬する長篇の文學などは、一層さうであり、生涯かかつて讀む機會がない。然るに一方では、時代が多方面の常識を民衆に要求する。今日の民衆は、すくなくとも文學の常識として、古来の世界的名著、たとへばミルトンの失樂園、ダンテの地獄篇、ゲーテのフアウスト、ホーマーのオデツセイ、それからアラビアンナイトや、ドン・キホーテや、ガリバアの旅行記や、その他の一般的名著を知つて居らねばならぬ。同時に自国の代表作を知ることも必要で、我が國で言へば、源氏物語、平家物語、古事記の類を始め馬琴、西鶴、春水等の小説も、國民常識として一應は讀まねばならないのだ。

 かく今日は、民衆に課せられた讀書の負擔が非常に多く、しかも時間の餘裕が益々すくなくなつてゐる。以上の多き多數の名著は、その梗概を讀破するだけでも容易でない。その上に讀書といふことは、非常に頭腦を疲らせる仕事であるから、一般の民衆はあまり好まない。圖書館といふものも、民衆文化の普及的意義からは、今日既に時代遅れであり、博覧會や馬車と同じく、もはや古風の詩美に屬してゐる。

 そこで現代の通俗文庫は、どうしても活動寫眞でなければならない。活動は眼から印象が入つてくるため、讀書の如く頭腦を疲らすことがない。それに短かい時間の中に、よく作の梗概を會得できる。その上尚一の得點は、古典の堅苦しい文學を、興味本位の通俗に嚙みこなして、素養のない民衆にも解り易くして見せることだ。尤もそれだけ原作の眞趣が失はれ、名作の價値を傷つけるわけであるが、一般の民衆常識として紹介するには、それで充分であり、それ以上の理想は望まれない。何となれば民衆は、藝術の深い素養をもつてゐないから、通俗的の興味が無い限りは、彼等を牽きつけることができないのである。

 かくの如く「藝術の映畫化」は、實に「藝術の民衆化」といふことに意義を有する。所謂「文藝映畫」を見る人は、鑑賞の基準を此所に置き、その常識で價値を判斷すべきである。さうでなく、もし實に純粋の藝術を寫眞に要求するならば、いつでも必ず失望するにきまつてゐる。所謂文藝映畫の鑑賞における興味は、いかに巧みに原作を通俗化したか? といふ見方にあるので、いかに忠實に原作を紹介したか? といふのでない。といふのは、今日の活動寫眞なるものが、多数の民衆を對手にする娯楽的の興行物であり、本質的に通俗のものであるからである。活動寫眞に高級な藝術を要求するのは、民衆娯樂の本質を忘れてゐる、一の沒常識にすぎないだらう。ただ劇における自由劇場のやうに、小人數の識者ばかりを會員とし、限られたる範圍で興行するものならば、吾人の欲求してゐる如き、眞の高級の藝術映畫が見られるだらう○。今の所で言へば、その最も高尚で「藝術的」と呼ばれる映畫も、實は表の通俗小説にすぎないのである。(すべての高級映畫に就いて、その興味の中心を考へて見よ。いかに淺薄で通俗であるかがわかる。)

 それ故に飜譯映畫は、その原作を知らない人が、興味と好奇心で見るのであつて、既に原作を讀んでゐる人は、決して見ない方が好いのである。見れば必ず失望するに極つてゐる。名著の原作から受けたやうな藝術的感動は、どんな名監督の飜案からも、決して受けることができないのだ。尤も原作の性質により、或る程度のものは成功する。一般に古代の文學は、事件を筋で運んでゆくため、映畫に翻案することが容易である。しかるに近代の文學は、ずつと心理的であり、気分や、思想が主になつてゐるため、映畫に寫すことが困難である。私の見た範圍でも、比較的古典文學の映畫化には難がすくなく、近代文學の方で著るしく原作を傷つけてゐる。ドストエフスキイの「カラマゾフ兄弟」や「罪と罰」の映畫化などは、所謂ファンの喝采するに關らず、飜譯としても失敗である上に、映畫それ自身の興味がなく、實に退屈千萬のものであつた。その他近代文学の飜譯映畫で、一として感心したものに出逢はない。單に原作の感動がないといふのでなく、映畫それ自體として退屈なのである。そこで所謂「文藝映畫」なる觀念が、概ね私には「欠伸の出る映畫」を表象させる。けだし映畫中での最もつまらぬものは文藝映畫である

 思ふにこの失敗の理由は、監督や筋書者が、生じつかの藝術意識で、原作に忠實にならうとするからである。映畫は始めから文學でない。映畫で原作を生かさうとするならば、全く原作のプロセスを叩き壞して、全然別な組織の上に、その「精神」だけを抽象せねばならないだらう。強ひて映畫に文學の組織を求め、木に竹を繼ぐやうな無理をするから、不自然で退屈なものができるのである。むしろその藝術意識を捨ててしまひ、文藝の民衆化を目的として、思ひきり原作を通俗北し、ひとへに興味本位のものとして、大體の骨格だけを紹介するやうにせよ。さういふ仕方で行つたものは、今迄にも決して失敗してゐない。

 

 そこで私の望んでゐるのは、「藝術の映畫化」ではなくして、逆に「映畫の藝術化」である。與へられたる原本を、映童に飜譯するといふのでなく、始めから映畫それ自身を、藝術として創作することだ。しかしこれも前言ふ通り、自由劇場の組織でない限りは、思ひ切つたことができないだらう。劇の方には「讀む脚本」といふものがあり、それだけで藝術品たり得るけれども、映畫の方は、寫眞となつて始めて表現ができるのだから、上演不可能のものは仕方がない。そして上演の可能性は、一般の通俗向にあるのだから、藝術映畫の實現は、今の所では困難である。せいぜいの所で通俗の中に藝術味を暗示する位のものだ。

 それ故に我々は、今日の所、映畫に藝術を要求しようと思はない。映畫に對する僕等の興味は、純粋に娯樂本位であり、ただ面白く、氣持ちの好い時間をすごさしてくれれば滿足なのだ。即ち僕等の鑑賞は、それが娯樂として、いかに氣が利いてゐるか? いかに監督の機智が働らいてゐるか? いかに俳優が表出するか? 等の興味にのみかかつてゐる。即ち探偵小説や筋書小説などに對する興味と同樣であり、實に「氣の利いた頭腦」を監督に要求し、技巧の未技を寫眞と俳優とに見れば好いのである。

 映畫の本質をかうして見ると、世界第一の頭腦の所有者は、どうしてもチヤツプリンである。悲劇、喜劇、史劇等のあらゆる映畫を通じてみて、矢張最も面白いのはチヤツプリンの映畫である。しかし近頃では、ロイドの方が人気が高いやうに思はれる。

 ロイドの喜劇は、實に「新時代そのもの」の象徴である。所謂「新時代」の何物たるかを知らうとする人は、ロイドの映畫を見るに限る。陽氣で、明るく、無邪氣で、自由で、快活で、皮肉や陰謀の暗い影が少しもなく、眞に自然兒のオープンハートであり、若き民族の有する溌剌たる元氣と精力が躍動してゐる。即ちロイドそれ自饅體が、アメリカニズムの生きた象徴である。今やアメリカの新興文化は、ジヤヅバンドとロイドの映畫で、全世界を風靡しようとしてゐるのだ。(汎米國主義を世界に宣傳し、アメリカ魂で世界を統一することが、米國の内部で計畫されてゐる。先年の決議によれば、活動寫眞宣傳中、ロイド映畫が第一位に選ばれたさうである。)

 

 映董に対する私の不滿は、色と浮出しのないことである。色彩といふものが全くなく、立體としての奥行もなく、陰氣で眞黑の影繪が、薄ぺらのシーツの上で動いてゐるのを見てゐると、何とはなしに悲しくなつてくる。生きた人間ではなく、手ごたへのないそれの影、厚みも色もない、幕に寫つた陰氣の影繪を、いつしんに見てゐる人々の心を思ふと、この世紀の文明といふものが寂しくなる。

 この一の感情は、私の映畫に對する根本の憂鬱である。色もなく、聲もなく、匂ひもなく、そして肉體そのものが實在しない。幕に寫る幽靈の動作を見てゐるといふ意識が、たまらなく私を憂鬱にする。しかもそれが、この時代における唯一の民衆娯樂であり、地球のすべての人間どもが、唯一の慰安をそれに求めてゐるではないか。活動寫眞に対する憂鬱は、實に「文明の沒落」である。「人間の末路」である。機械文明に心醉して、唯物思想に靈魂をくびられ、生きた肉情を失つてしまつた所の、あはれな造兵のやうな人間共が、陰氣な壁に映つてゐる、眞黑の影繪を見て悦んでゐる。悲しい世の中のすがたでないか! 活動寫眞館の中に入るとき、いつでも絶望的な厭世思想が、私の心に湧いてくるので、苦痛にたまらなくなるのである。それ故に私は、活動が好きでありながら、それを見に行くことを好まない。

 

 もし映畫に色彩と浮出しがついたならば、私の病的な憂鬱性が、ずつと輕くなつてしまふであらう。なぜなれば、それは「眞黑のさびしい影繪」でなく、現實の色と厚みを有する、生きた肉體の再現であり、この三次元の空間に棲む、實の生物の幻燈だから。

 毒を制するものは毒である。人類の娯楽樂に於ける文明的堕落は、より進歩せる文明によって救はれねばならないのだ。「色なき世界」は考へるだに陰慘である。「厚みなき世界」は思ふだに畸形である。世界の民衆が、いつまでもかかる不倫の娯樂を愛し、畸形にして陰惨な趣味に惑溺してゐることは許されない。それは文化の健全性から許されない。正義人道のためにすら、映畫は改良せねばならないのだ。もし眞に完全なる「天然色立體映畫」を發明する人があるならば、その文化的名譽は不朽であらう。但し現在せる如きものは、尚不完全の玩具にすぎない。

 

 藝術映畫といつても、現在のものは單に演劇映畫にすぎない。もつと技術が進歩したら、美術映畫(動く繪畫)や、叙情詩映畫(寫眞で表現する詩)などが創案されるであらう。そして活動寫眞そのものが、畫家のカンバスや繪具に代り、詩人の思想や韻律に代り、一の新しき藝術表現となるであらう。僕等はその未来を期待してゐる。

 

[やぶちゃん注:『中央公論』第四十年第七号・大正一四(一九二五)年六月号に掲載。底本(昭和五一(一九七六)年刊筑摩版全集第八巻)の「初出雜誌・新聞一覽」の注記によれば、『本篇は「文藝の映畫化と音樂のラヂオ化」と總題するうちの一篇である』とある(私はとても凄いことだと思うのだが、この筑摩版全集は編者の記載も何もかも(奥附に至るまで!)総てが正字なのである)。「けだし映畫中での最もつまらぬものは文藝映畫である。」の下線部は、底本では傍点「〇」、「この時代」の斜体下線部は、底本では傍点「●」である。

……朔太郎少年よ。今や「色彩と浮出しがついた」總天然色カラーそして3Dなんて當り前なのだ。寧ろ若者たちからは優れたモノクローム映畫がモノクロであるが故に觀られることがなくなつてしまつた。さうして多くの者たちが自身の内なる絢爛たる色彩を自由に夢想する權利をとつくに失くしてしまつた。はたしてほんたうにこれが君の望む映畫だつたのだらうか?……朔太郎少年よ、君がさうした物量と小手先の技法――着色もSFXも3Dも所詮は科學技術といふ通俗的願望の所産なのだ――に賴つてすつかり曠野となつてしまつた末世の映畫を知らずにゐることは幸ひだと思ふと同時に、今、君があのアンドレヰ・タルコフスキヰのたつた八本許りの作品のその一本をだに見ることが出來ないのだということを私は殘念に思ふであらう。]

海産生物古記録集■3 「蒹葭堂雑録」に表われたるスカシカシパンの記載

「蒹葭堂雑録」に表われたるスカシカシパンの記載

 

[やぶちゃん注:「蒹葭堂雑録(けんかどうざつろく)」大坂の文人・画家・本草学者にしてコレクターであった木村蒹葭堂(元文元(一七三六)年~享和二(一八〇二)年:家は大坂北堀江瓶橋北詰の造り酒屋で、後に大坂船場呉服町で文具商として財をなした。蔵書家としても知られ、彼の死後、その膨大な蔵書は幕命によってほとんどが昌平坂学問所に納められた)の著になる安政六(一八五九)年刊の五巻からなる随筆。各地の社寺に蔵する書画器物や見聞した珍しい動植物についての考証及び珍談奇説などを書き留めた原稿を著者没後に子孫の依頼を受けた大坂の著述家暁鐘成(あかつきかねなり)が整理抜粋したもの。池大雅の印譜や下鴨神社蔵三十六歌仙絵巻などの珍品が雑然と紹介されており、挿画は大阪の画家翠栄堂松川半山の筆になる(以上は主に「世界大百科事典」及びウィキの「木村蒹葭堂」に拠った)。

 底本には国立国会図書館蔵「蒹葭堂雑録」の電子ライブラリーの画像(コマ番号7及び8)を用いたが、原本はほぼ総ルビで、やや五月蠅く感じられるため、難読箇所及び読みが振れると私の判断したものだけのパラルビとした。「み」「ミ」の草書は片仮名にとるか平仮名にとるか迷ったが、固有名詞で「ツミ」の「ツ」が片仮名と判別出来るものを除いて、「み」とした。

 但し、実際に掲げた挿画画像([ ]は私のキャプション)は吉川弘文館の「日本随筆大成第一期 14」所収の「蒹葭堂雑録」に載るものをスキャンして画像補正を施したものを用いた(国立国会図書館の画像は画像自体を転載利用する場合、それぞれ使用許諾を受けねばならないためである。なお、単純な平面画像をそのままに移したものである吉川弘文館本の挿画は文化庁によれば著作権は生じない。ただ、正直なところを言うなら、国立国会図書館のデジタル・ライブラリーのそれも同様であると私は思うのであるが、特にここでその問題を議論するつもりはない)。]

 

○山家集に云、澁川(しぶかは)のうら田(た)と申所(もふすところ)に、おさなき者どもあまた物を拾ひけるを問(とひ)ければ、つみと申もの拾ふなりと申けるを聞(きゝ)て、

   をりたちて浦田(うらだ)に拾ふ蜑(あま)の子はつみよりつみを習ふなりけり

一説に、此(この)つみといへるは貝なりとぞ。然れども未だ其形をしらざれば、彼國の知己(ちき)に此事を言やりしが送りこしたり。浦田(うらだ)といふは備前國兒島郡澁川村(こじまごふりしぶかはむら)にありて、浦田の濱とて海邊(かいへん)なり。此つみ貝(がひ)、何の能益(のうえき)ありやしらず。只(ただ)童の手遊(てあそ)びに拾ひおりしならんか。尤(もつとも)大小ありて一樣(いちゃう)ならず。こゝに圖するものは、就中(なかんづく)大の部なり。小なるは徑(わたり)一寸許(ばかり)なるもありと聞(きこ)ゆ。

 

[図1]
Sukasikasipan1

 

[図2]
Sukasikasipan2_2

 

[以下、挿画図1及び図2のキャプションの翻刻。それぞれ、基本的に上部右から左、上から下へ翻刻した。挿画と照らし合わせてご覧頂きたい(画像がやや大きいので右クリックの「リンクを新しいウィンドウで開く」で開かれるか、ダウンロードして見られることをお勧めする)。]

 

[図1 表(背面)及び側面の図のキャプション翻刻]

 

備前國兒島郡

浦田濱産ツミ貝

     の圖

 

  大サ如圖

 

按ずるにツミ貝といふは

糸を紡ぐ車の具に

紡錘(つむ)又つみともいふ具(もの)有(あり)

形圖のごとし

 

  是は木にて製す

   これを紡錘(つみ)の齒(は)といふ

    其形此貝によく似たり故にツミ貝と

                 なづくるならんか

[やぶちゃん字注:最後の「か」は「歌」の草書として採ったが、自信がない。識者の御意見を乞う。]

 

[側面図の下]

横ヨリ

見タル処

 

[表(背面部)の図]

 

[表(背面内)の部分キャプション]

打ヌキノ

   穴

 

此スジ

 毛ボリ

   ノ如シ

 

[図2 裏(腹面)の図のキャプション翻刻]

狂哥蘆荻集(きやうかあしおぎしふ)云備前(びぜん)の小嶋(こじま)の

瀧資之(たきすけゆき)ぬしと物がたりのついで

円位(ゑんゐ)上人の山家集にひゞ澁川(しぶかは)など

いふ浦(うら)につみといふ貝のあるよし

見へたるはいかなる物にかそこは小嶋に

近きわたりと聞(きく)をさるもの見かひ

つる事やおはさぬかととひたるに

我(われ)も珍らしく思ひて此(この)たびこゝに

もて下りぬ此(この)程見せ參らせんとて

みな月(つき)晦日(つごもり)の日つみなくなるよしの

歌をそへて貝ひとつ送りなされければ

 澁川とさらにをじまの蜑小(あまを)ぶね

  つみ送りしと吉備(きび)のよき人

       京都

         狂歌堂眞顏

 

[裏(腹面)の図]

 

[裏(腹面内)の部分キャプション]

此穴表ヘ拔ル

 

此中スコシ

   凹ミ

 

此スジクボミ

 

一面に

  此点あり

 表も

  同断

 

[やぶちゃん注:「山家集云……」岩波古典大系版「山家集」から「続国歌大観」番号八三六九番歌を詞書とともに引いておく(一部の記号を省略し、詞書は適宜改行した)。

 

  日比(ひゞ)、澁川(しぶかは)と申す方へまかりて、

  四國の方(かた)へ渡(わた)らむとしけるに、

  風惡(あ)しくて程經(ほどへ)にけり。

  澁川(しぶかは)の浦(うら)と申(まうす)所に、

  をさなき者(もの)どもの數多(あまた)物(もの)を

  拾ひけるを問(と)ひければ、

  つみと申(まうす)物拾(ひろ)ふなりと申しけるをきゝて

おり立(た)ちて浦田(うらた)に拾(ひろ)ふ海人(あま)の子(こ)はつみより罪(つみ)を習(なら)ふなりけり

 

「日比、澁川」は、ともに瀬戸内海に面した岡山県本州内最南端の児島(こじま)半島西部に位置する旧児島市、現在の玉野市にある。この地域の立地する児島半島は近世初頭の干拓により本州と陸続きとなる以前は島であった。日比も渋川も児島地域の南、日比は児島郡日比で讃岐へ渡る港湾で、渋川はその日比の西にある海浜地帯の地域名。「程經にけり」は悪天候による船便の欠航によって結構な長い時間、足止めを喰らったという意。「浦田」というのは、「蒹葭堂雑録」本文では明らかに固有名詞として登場しているし、実際に浦田村はこの近くにあるのだが(後注参照)、和歌で見る時、辞書で言うところの、浦に作られた田(小学館「日本国語大辞典」)でもなく、遠浅の海岸線、泥田に似た干潟のことを言っているように私には読めるのである。以下に歌意を示す。

――浦の干潟に下りたっては、何やらん、「つみ」という名の不思議なものを拾っておる海人(あま)の子どもら……彼らはまさに、「つみ」と申すそれを拾うことより始めて……ついは父親(てておや)と同じく海人となり……そうしてまた……殺生の「罪」というものを……習い覚えるのであったのだなあ――

「一説に、此つみといへるは貝なりとぞ」これは図を見て頂いても分かる通り、現在の生物学上では貝類ではない。五ヶ所の殻を貫通する細長い大型の透かし孔によって棘皮動物門ウニ綱タコノマクラ目カシパン亜目スカシカシパン科スカシカシパン Astriclypeus manni に同定出来る。このスカシカシパン類は非常に扁平な殻と、ごく短くいために棘とは認識出来ないようなの棘を保持していること、そして背面の花紋状の紋の延長上から辺縁部までの間の体部に、細長い体幹を背面から腹面まで貫通した穴が一個ずつ、棘皮動物の基本型である五放射形に合わせて計五つ開孔している点が極めて特異的である。全体はほぼ円形で、直径約一四センチメートル、殼高一・五センチメートル。腹面はほぼ平坦で、背面は中央がやや隆起する。背面の直径の半分程度の部分で歩帯が桜の花弁の模様のような形を描いている。腹面では中央の口部から溝が穴の方向に刻まれており、穴の手前で二つに分岐して、その両側に向かっている。主に本州中部から九州に分布し、浅海の砂底に半ば埋もれた状態で棲息している。餌は砂泥中のデトリタスを採餌し、甲殻類や魚類が天敵とされる(ここまではウィキの「スカシカシパン」の記載を参照した)。和名スカシカシパンのカシパンはずばり、そのクッキー状から「菓子麺麭」に由来し、貫通孔から「透かし」である。秋山蓮三「内外普通動物誌 無脊椎動物篇」によれば、本邦では古くからカシパン類をその文様から背面を主にして呼称する場合は「桔梗貝」、腹面を主とする場合は「蓮葉貝」と呼んでいた、とある(荒俣宏「世界大博物図鑑 別巻2 海産無脊椎動物」の「ウニ」の記載から孫引き)。なお、英名“sand dollar”は、その形状を大きなコインに譬えたものである。但し、この「ツミ」という呼称は、一般には「螺(つぶ)」の転訛で、古くから巻貝類の俗称として用いられていた(現在でも恐らくはどこかの方言に残っているのではないかと私は推測する)。従ってそれを稀代の大雑学者であった蒹葭堂が認識していなかったとは到底思われないのである。その観点から本文をもう一度見て見ると、「然れども未だ其形をしらざれば」に続く「然れども」が気になるのである。これは無論、貝と聴いてはいるものの、その実態を知らず、形態が分からない、という逆接なのだが、どうも蒹葭堂はその後に貰った「つみ貝」の実物を見――ウニの同族とは思わなかったにしても――どうも二枚貝にも巻貝にも似ても似つかぬ、これは実は貝ではないのではないか、と実は思ったのではあるまいか、と感じられるのである。私にはそれが「一説に」「とぞ」「然れども」の記載の畳み掛けた言辞に表われているように思われてならないのである。私は「蒹葭堂雜録」などの飽くなき記録の数々を見るに、蒹葭堂はそうした博物学的な直感力を十全に保持していた人物のように思われるのである。

「浦田」「浦田の濱」西行関連の諸記載では玉野市渋川海岸とする。現在、崇徳院を西行が浦田の浜で偲んだのに因んだ「西行まつり」という行事が、この渋川海水浴場付近(岡山県玉野市渋川二-七)で行われている。

「何の能益ありやしらず」先に引用したウィキの「スカシカシパン」によれば、『スカシカシパン、タコノマクラを含むカシパン類、およびブンブクチャガマを含むブンブク類は、ウニ綱に属するウニの仲間だが、ムラサキウニやバフンウニのように食用にはならない。これは、可食部である精巣・卵巣がほとんど発達していないこと、硬く大きな外骨格を割るのも容易ではないこと、中身が食欲をそそらない黒緑色や、暗褐色をしている種が多く、種によってはヘドロのような異臭がするものがいることなどがその理由である。カシパン類、ブンブク類は畑の肥料として利用されることがある』とある。海産物フリークの私も、さすがにスカシカシパンを喰ったことは、残念ながら、ない。いつか食してみたいとは思う。ほんとに。

「紡錘(つむ)」糸を紡ぐための道具でコマの回転力を利用して、繊維をねじって撚りあわせ、糸にする道具。長い木の棒の先端に回転力を強める錘(おもり)となる円盤(紡輪・はずみ車・紡錘車)がついており、丁度、コマの軸が長く伸びたような形状であった。おもりの円盤は「こま」や「つむ」とも呼ばれていた。長い棒は糸を巻き取る回転軸(紡錘・スピンドル)であり、錘(おもり)と反対側の先端には糸を引っ掛けるフックがついている(ウィキの「紡錘」に拠る)。

「狂哥蘆荻集」紀真顔(後で注する最後に記される「狂歌堂眞顏」鹿津部真顔(しかつべのまがお)の別号)作の狂歌集「蘆荻集(ろてきしゅう)」。文化一二(一八一五)年板行。即ち、「云」(いはく)の後の「備前の小嶋の……」以下、最後の「狂歌堂眞顏」までが総て、この「蘆荻集」からの引用である。

「瀧資之」不詳。識者の御教授を乞う。

「円位」西行の法号。

「見かひつる」「見、買ひつる」か。それで訳したが、実は最後までこの部分の判読には迷ったので、ちょっと自信がないのである。識者の御教授を乞うものである。

「みな月晦日の日つみなくなるよしの歌をそへて」六月の晦日は夏越祓(なごしのはらえ)で、半年の罪の穢れを祓って、後の半年の疫除けを祈願する。それに引っ掛けた狂歌が瀧からの「つみ貝」に添えられてあったらしい。如何にも風流である。それにしても何故、その瀧の狂歌をここに記さなかったのか。自選狂歌集ならばこそかも知れないが、それを並べれば「後拾遺和歌集」に相聞のように並ぶ盛少将の和歌(次注参照)のようによかったものを、とも思う。瀧の狂歌の表現が(内容ではなく)今一つ気に入らなかったのかも知れない。もしくはこういう所に後で述べるような独善的な真顔の性格が現われているのかも知れない。

「澁川とさらにをじまの蜑小ぶねつみ送りしと吉備のよき人」私は和歌が苦手であるが、これは恐らく、「後拾遺和歌集」に所収されている源重之の和歌、

   題不知

 松島や雄島(をじま)の磯にあさりせし海人(あま)の袖こそかくはぬれしか

という、涙に濡れる袖を主題とする恋歌を念頭に置いて作歌されたものと思われる。また、この歌にはすぐ後に女性盛少将(さかりのしょうしょう)の、

 かぎりとぞ思ふにつきぬ涙かなおさふる袖も朽ちぬ許(ばかり)に

という涙に濡れそぼつ袖を主題とする恋歌が並んでいる。

 そうするとまず、「澁川」は地名の他に「しぶかは(がむける)」で垢抜けた女を連想させ、それに「さらに」(重ねるように)、「蜑小ぶね」「尼(削ぎの)小ぶね」少女が続き、そうした「吉備のよき人」(「吉備」は地名と、かく洒落た依頼品の贈答をして呉れた瀧の、その即応した「機微」の良さ、との掛詞であろうから)と続き、

――渋川という、それが剥けたという粋な女を思わせる地名……それに加えて恋の機微をよく知っている、浜辺に「つみ」を漁(すなど)る尼削ぎの少女のような、私の愛するあの吉備の美しい娘が……私に『あなたを恋い焦がれる「罪」に繋がる「つみ」という貝を送ったわ』と消息をよこした――

と、私は夢想した。私は歌学を知らず、典拠にも甚だ冥いゆえ、これは高い確率でトンデモ解釈なんであろうとは確信(?)している、但し、本テクストはアカデミックなものでも、この狂歌の解釈学のためのものでもないから、破廉恥にも勝手自在な解釈をさらけ出させて戴いた。その辺をご考慮の上で、和歌や狂歌にお詳しい方の忌憚のない御意見御教授を乞うものである。よろしくお願いしたい。なお、狂歌は現代語訳ではそのまま示した。

「狂歌堂眞顏」狂歌師で戯作者の鹿津部真顔(宝暦三(一七五三)年~文政一二(一八二九)年)。鹿都部真顔とも書き、通称北川嘉兵衛、「狂歌堂」は別号で他にも紀真顔などの多数の別号を持ち、戯作者としては恋川好町(こいかわすきまち)と称した。家業は江戸数寄屋橋河岸の汁粉屋で、大家を業ともしていた。初めは恋川春町に師事して黄表紙を描いていたが、天明年間(一七八一年~一七八九年)初期に四方赤良(大田南畝)に入門して頭角をあらわし、天明四(一七八四)年には数奇屋連を結成している。狂歌の四天王の一人で、狂歌師を生業とした濫觴とされる。狂歌四天王の一人である宿屋飯盛(石川雅望)と狂歌界を二分、流行の新風天明振りをよしとする飯盛に対し、真顔は鎌倉・室町期の狂歌こそが本来の姿であるとし、和歌に接近した狂歌を支持、狂歌という名称を俳諧歌と改めることを主張、飯盛と論争した。化政期(一八〇四年~一八二九年)の門人は全国に三千人と称されたが、尊大な性格に加え、その俳諧歌も面白味に欠き、一般からは親しまれなかった。晩年は家庭的にも恵まれず、貧窮のうちに没した。黄表紙「元利安売鋸商内(がんりやすうりのこぎりあきない)」、狂歌撰集「類題俳諧歌集」など、九十数冊の著作がある(以上はウィキの「鹿津部真顔」に「朝日日本歴史人物事典」の記載をカップリングした)。]

 

◆やぶちゃん現代語訳

 

○山家集に次のようにある。

「澁川の浦田と申すところで、幼い者どもが沢山、何やらん不思議なものを拾っていたので、『それは何と申すものじゃ?』と問うたところ、『「つみ」と申すものを拾うておる』と申したのを聞いて、

   をりたちて浦田に拾ふ蜑の子はつみよりつみを習ふなりけり」

 さて一説に、この「つみ」と言うものは貝であるという。然れども、未だその形容を知らぬによって、かの国の知己(ちき)にこのことを問い合わせたところが、今回、その「つみ」という現物を、わざわざ送って寄越して呉れた。

 浦田(うらだ)と申すのは、備前国児島郡(こじまのこおり)渋川村にあって、浦田の浜と称する海辺(うみべ)であるとのことである。

 さて、このつみ貝というもの、一体、何の役に立つものかは不明である。ただ童が純粋に遊びのために拾っておるに過ぎぬものであろうか?

 なるほどそのようにも見えるが、ただ、この「つみ」には大小があって一様ではない。以下に図として提示するものは、とりわけ大きい部類に属する個体である。小さなものは直径が一寸程度しかない個体もあると聞いている。

[図1 表(背面)及び側面の図のキャプション(訳)]

備前国児島郡浦田浜産ツミ貝の図。

 大きさは原寸大の図の通り。

 考察するに、「ツミ貝」という呼称は、糸を紡ぐ際に用いるところの弾み車の原理を用いた「紡錘(つむ)」または「つみ」とも称する道具があり、その形状は左上の図の通りである。これは木製のもので、これを「紡錘の歯」と呼んでいる。ところがその形状は、まさにこの貝によく似ているのである。ゆえにこれを「ツミ貝」と名付けたものであろうか。

[側面図の下(訳)]

側面より見たところ

[表(背面部)の図(訳)]

[表(背面内)の部分キャプション(訳)]

打ち抜きの穴

ここの筋部分は毛を模して彫ったものに似ている。

[図2 裏(腹面)の図のキャプション(訳)]

狂歌集「蘆荻(ろてき)集」に次のようにある。

『先般、備前の小嶋に在住する瀧資之なる御仁と語らい合った際、

「円位上人西行の「山家集」の中に、日比(ひび)・渋川などと申す浦方に、「つみ」という貝を産する由、記載があるが、これはどのようなもので御座ろうか? それらの場所は、これ、貴殿の在所の児島の近辺と聞いてもおるによって、そのようなものを見かけたり、または、もしや買ったりしたことはあられぬか?」

と訊ねたことがあった。すると後日(ごにち)のこと、

「――我らもよう知らず、珍らしきものならんと存じまして、この度(たび)、在所にて入手致し、所持して参りました。今回は、それをまずは早(はよ)うにお見せ申し上げようと存じます――」

と認めた文(ふみ)に――水無月晦日(つごもり)の夏越祓(なごしはらえ)の日には罪が無くなる――といったような歌意の狂歌を添えて、その「つみ貝」を一つ、送り届けて呉れた。その時の狂歌、

 渋川とさらにをじまの蜑小ぶねつみ送りしと吉備のよき人

       京都

         狂歌堂真顔』

[裏(腹面)の図(訳)]

[裏(腹面内)の部分キャプション(訳)]

 この穴は完全に表へ抜けている。

 この中には少しへこみがある。

 ここの筋は窪みである。

 一面にこのような点を播いたような模様がある。この特徴は表も同様である。

2013/04/24

林道春「丙辰紀行」より金澤・鎌倉・江島 / ブログ・カテゴリ「鎌倉紀行・地誌」創始

ブログ・カテゴリ「鎌倉紀行・地誌」を創始する。

ここでは、鎌倉・江の島・金沢等の、近世から近代にかけての比較的短い紀行文や地誌断片等を電子化してゆく。

 

まず最初は近世では最も古い部類に属する林羅山の丙辰紀行から。

 

 

林道春「丙辰紀行」より金澤・鎌倉・江島

 

[やぶちゃん注:本作は朱子学者にして林家初祖の林道春(号・羅山 天正一一(一五八三)年~明暦三(一六五七)年)が、元和二(一六一六)年に江戸から京都までの東海道を辿った際の紀行文である。彼はこの年の一月に徳川家康の命を受けて、金沢文庫に残っていた、唐初の太宗の撰になる「群書治要」の古活字本の編集版行を行い、五月下旬に完成させ(但し、家康はその前月四月十七日に死去している)、その後、家康の遺命より駿府文庫等の幕府所有の文書類の整理を行った後、生地京都へ戻った、その際の見聞紀行であるが、通常の紀行とは異なり、地名を項目に立てて、まず江戸の各地を地誌風に叙述することから始めている。各地の伝説や名物などの記事を簡潔に記し、多くの場合、七絶か七律の漢詩を添えている。近世初期にあって既にして地誌的記載法を採用している点、注目すべき作品である。

 底本は早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」の同図書館蔵の黒川家旧蔵書写本「丙辰紀行」のPDF版を視認して用いた。適宜、句読点や記号及び濁点を補って読み易くした。送り仮名の一部を本文に出した箇所がある。なお、読みはカタカナであるが、平仮名に直してある。漢詩は本文では白文表記とし、直後に〔 〕で訓点に従った書き下し文を示した。その際、不足する読みや送り仮名を〈 〉で補足した。]

 

丙辰紀行

 

   金澤(かなさは)

 

金澤の絶景は、東州の佳境にて、事好むもの、丹靑(たんせい)の手をかりて屏風にうつし、市杵島・天橋立(あまのはしたて)にも、いかでかおとるべきなど、もてなしあへり。北條氏(ほうでううぢ)、天下の權をとる時に、文庫(ぶんこ)を建(たて)て、金澤の文庫といへる四字を、儒書には黑印(こくゐん)をおし、佛經には朱(しゆ)印をつきておさめ置ける。越後守(えちごのかみ)平貞顯(のさだあきら)、この所にて淸原教隆(ののりたか)に、群(ぐん)書治要(ちよう)を讀(よま)せける。余が見侍りしも文選・清原師光(のもろみつ)が左傳・教隆が群(ぐん)書治要(ぢよう)・齊民要術(さいみんようゆつ)・律令義解(りつれいぎかい)・本朝文粹(ずい)・續本朝文粹・續日本紀などのたぐひ、其外、人家に所々ありけるも、一部と調(とゝのひ)たるはまれなり。一切經も取ほごして、纔(わづか)殘りて今に金澤にあり。古記典籍(てんじやく)の厄(やく)に逢(あへ)る事、いにしへより今に至るまで、いくたびといふ事をしらず。蘇我氏(そがし)が亂は、我が朝の一秦(しん)とも申べき。宅嗣が芸亭(うんてい)は名をだにもきかず。宇治の寶藏・蓮華五院の寶藏なども、跡さへぞなき。誠に祝融(しゆくゆう)にうばはれ、陽侯におぼるゝのみならず、兵燹(せん)にほろび、馬蹄にふみ散らさる。心あらん人、むかしをおもひ出ざらんや。されば人の語りしは、先聖・先師・九哲(てつ)の影、六經の註疏(ちうしよ)、いまに足利(あしかゞ)にあり。小野篁(をのゝたかむら)が東國へまかりける時に、足利に讀書の堂をつくりしが、今に殘りてあるぞ是なるとなん。余もまかりて見むとのみ、あらましにて年月をすごしぬ。

懷古涙痕羇旅情。腐儒早晩起蒼生。人亡書泯幾囘歳。境致空留金澤名。

〔懷古(くわい〈こ〉)の涙痕(るいこん) 羇旅の情

 腐儒(ふ〈じゆ〉) 早晩 蒼生を起す

 人 亡び 書 泯(ほろ)びて 幾囘(いくそばく)の歳ぞ

 境致 空く留む 金澤の名〕

 

   鎌倉(かまくら)

 

鎌倉にいたりて、あなたこなた見ありき侍りしに、賴朝の墓とて人のをしへければ、鴨(かも)の長明が、革も木もなびきし秋の霜きへて、といへる事を思ひ出て。

滿目鎌倉城郭亡。雲烟漠々樹蒼々。逍遙昔聽遊龜谷。報賽今無詣鶴岡草偃匣中三尺水。苔深墓上五更霜。君公不識包桑計。千載英雄涙濕裳。

〔滿目 鎌倉 城郭亡ぶ

 雲烟 漠々(ばく〈ばく〉) 樹蒼々

 逍遙(せう〈えう〉)として昔(かつ)て聽く 龜谷(かめがやつ)に遊〈ぶ〉

 報賽(〈ほう〉さい) 今無し 鶴岡(つるがをか)に詣〈づ〉

 草は偃(のべふ)す 匣中(かう〈ちう〉) 三尺の水

 苔は深し 墓上(ぼ〈じやう〉) 五更の霜

 君公 包桑の計ふを識らず

 千載の英雄 涙 裳(もすそ)を濕(うるを)す〕

[やぶちゃん注:最後の「裳」の「もすそ」は右ではなく左下部に振られている。]

 

   江島(えのしま)

 

藤沢より馬にまたがり、海濱近き所にて漁父の舟をかり、江嶋に渡りて見れば、あなたの海の岸の下に、大なる岩窟(がんくつ)あり。つい松をともして、深く入るほどに百歩あまりにてやみぬ。むかし龍神の棲(すみ)ける所となんいひ傳る。この嶋の弁才(べんざい)天女は、世にかくれなき事なり。

借間嶋中人。不知此孰神。蜿々遺蹤在。君其問水濱。江島從來神女居。風鬟霧鬢駕雲輿。遊人若有登仙意。水宿應傳柳毅書。

〔借間(しやもん)す 嶋中の人

 知らず 此れ孰(いづ)れの神ぞ

 蜿々(えん〈えん〉)として遺蹤(ゐしよ)在り

 君 其れ 水濱(すいひん)を問へ

 

 江島 從來 神女の居

 風鬟霧鬢(〈ふう〉くわんぶれん) 雲輿(〈うん〉よ)に駕す

 遊人 若し登仙の意有らば

 水宿 應〈に〉傳〈ふべし〉 柳毅(〈りう〉き)が書〕

[やぶちゃん注:「霧鬢」底本では「フレン」とある。「霧」には稀な音として「ぶ」がある。「柳毅」は唐代伝奇李朝威作と伝える「柳毅伝」の主人公。科挙に落ちた書生柳毅が洞庭湖の龍王公主と結ばれる恋物語。]

神世いかに今むつましみわたつ海の八重の塩路に言傳やらん

沢庵宗彭「鎌倉巡禮記」 38 ~ 沢庵宗彭「鎌倉巡禮記」完結

以下の漢詩を以って沢庵宗彭「鎌倉巡禮記」は終わっている。

今回、電子テクスト公開に従って、これを読んだ僕の古い教え子の一人は、頻りに、沢庵の文章を名文と称揚していたが、私も全体を通して、その表現も、その選び取る景物も、そして沢庵の血の通った感懐も、どれも頗る附きで優れたものであると再認識した次第である。



   覺園律寺尊氏將軍再興有棟銘、

  覺園律寺日苔生  木葉鳴風布薩聲

  八十呉僧不言戒  只依床壁睡爲榮

[やぶちゃん注:以上を底本の訓点を参考にしながら、私なりに書き下しておく。

   覺園律寺、尊氏將軍再興の棟の銘有り、

  覺園律寺 日に苔(こけ)生ず

  木の葉 風に鳴る 布薩の聲

  八十呉僧 戒を言はず

  只だ床壁に依りて 睡(すゐ)を榮(えい)と爲(す)

わざわざ天井にある尊氏の梁の銘(現存)を題に出しているのであるから、この詩自体にも尊氏に絡んだ何らかの含意があるのであろうが、不学な私は読み解けない。識者の御教授を俟つものである。

「布薩」修行者たちが月に二度(旧暦の満月の十五日と新月の三十日)に集まっては、自身の犯した罪を告白懺悔(さんげ)し、清浄な生活を送ることを確認しあう儀式。説戒とも言う。サンスクリット語のウパバサタ“Upavasatha”の俗語形を音写したもの(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。但し、ここでは山の梢の鳴る音を諸僧の布薩に譬えている。寂寞にして睡るように座禅する老僧ただ一人のみが、そこには「在る」のである。

「呉僧」とあるが、沢庵が実見した僧は勿論、渡来僧ではない。「八十の老僧一兩人うち眠りて壁によりたる有樣いづくにたとへむ閑さとも覺えず、いさゝかも世中をばしらぬがほ也」という俗世を超越したこの老僧に、恰も俗臭紛々たる当代の僧侶にない、異界性を見ているのであろう。だからこそ、それにこがれた沢庵は「心にまかせなば爰にとゞまりて生ををくらまほしくぞおもふ」とさえ吐露したのである。されば結句の「榮」は「誉れ」若しくは「光明」の意を孕む、有り難い一字の眼目をと私は詠むのである。]

沢庵宗彭「鎌倉巡禮記」 38

   拜大鑑禪師淸拙和尚於建長寺禪居庵、

  盤結乾坤作草廬  大唐日本一禪居

  出無門矣入無戸  塔樣直看先劫初

[やぶちゃん注:以上を底本の訓点を参考にしながら、私なりに書き下しておく。

   大鑑禪師淸拙和尚を建長寺禪居庵に拜す、

  乾坤 盤結して 草廬を作る

  大唐 日本 一禪居(ぜんご)

  出づるに門無く 入るに戸無し

  塔樣 直看して 劫初(こふしよ)に先んず

結句には底本では送り仮名がない。

「盤結乾坤作草廬」は「碧巌録」の「第四則 徳山挟複子」に基づくものと思われる。その本則の終盤に、

潙山云、此子、巳後向孤峰頂上盤結草庵、呵仏罵祖去在。

潙山(いざん)曰く、「此の子、巳後、孤峰頂上に向(お)いて草庵を盤結し、仏を呵(かつ)し、祖を罵り去らんぞ。」と。

「盤結」は蟠踞と同じで、本来は蛇がとぐろを巻いて蹲ること、しっかりと根を張って動かぬことを言う。「劫初」この世の初め。]

沢庵宗彭「鎌倉巡禮記」 37

   拜佛國禪師之塔先問塔主山風暗答、常寂塔者無香燈之備、

   雖法門之正統、庵缺提綱之任否、空房而老鼠白日行野狐

   入夜宿、禪扉不閉風霜飽浸慈顏、吁時乎命乎、聞昔年之

   盛事見今日之頽廢、感慨非一卒賦俚語云、

  土曠人稀一塔荒  禪扉不鎖飽風霜

  可憐此法今墜地  佛國光輝有若亡

[やぶちゃん注:以上を底本の訓点を参考にしながら、私なりに書き下しておく。

   佛國禪師の塔を拜し、先づ塔主を問ふに、

   山風、暗(やみ)に答ふ。

   常寂の塔は香燈の備へ無く、

   法門の正統と雖も、

   庵、提綱(ていこう)の任を缺くや否や、

   空房にして、老鼠、白日に行き、

   野狐、夜に入りて宿す。

   禪扉、閉さず、風霜、飽くまで慈顏を浸ほす。

   吁(ああ)、時か命か、

   昔年の盛事を聞き、今日の頽廢を見て、

   感慨、一つに非ず、

   卒(にはか)に俚語を賦して云はく、

  土 曠(あら)く 人 稀れに 一塔 荒る

  禪扉 鎖さず 風霜に飽く

  憐れむべし 此の法 今 地に墜つ

  佛國光輝 有れども亡きがごとし

「佛國禪師」高峰顕日。

「土曠人稀」は「書経」の巻之二の、

 今水患雖平、而卑濕沮洳、未必盡去、土曠人稀、生理鮮少。

(今、水患、平らぐと雖も、而して卑濕沮洳、未だ必ずしも盡く去らず、土、曠く、人、稀にして、生理、鮮少なり。)に基づくものと思われる。「卑濕沮洳」「ひしつしよじよ」と読み、土地が低く水はけが悪くて常にじめじめしていること。「生理」暮し向き。「鮮少」頗る少ない、窮貧の謂い。

 この前書を含む全体を支配する己が禅の源流たる建長寺の完膚なきまでの荒廃への、烈しい悲憤梗概の情は、これ、ただならぬものを感じさせる。さればこそ、私はこの詩を沢庵の名吟の一つと数えたいのである。]

沢庵宗彭「鎌倉巡禮記」 37

   拜報國寺開山佛乘禪師、題門曰漸入佳鏡、

  認題門字入佳境  枯木囘岩裹古蹤

  想見祖師行道日  其聲今聽意中鐘

[やぶちゃん注:以上を底本の訓点を参考にしながら、私なりに書き下しておく。

   報國寺開山佛乘禪師を拜し、門に題して曰く、「漸入佳鏡」、

  門に題するの字を認め 「佳境」に入る

  枯木 囘岩 古蹤の裹(うち)

  想見の祖師 行道(ぎやうだう)の日

  其の聲 今 聽く 意中の鐘

「古蹤」「蹤」は足跡で、古の人の歩いた跡の意。但し、禅語では、古人の優れた行いの意があり、それも含めた謂いではあろう。実際の報国寺訪問の際のパートで注した如く、沢庵はこの寺に感銘していないと私は読む。さればこその「漸入佳鏡」の題字を詠んで、鐘の音のみによって触発される仮想の禅境をのみ夢想して詩を作したものと私は断ずるものである。]

沢庵宗彭「鎌倉巡禮記」 36

   拜稻荷山淨妙寺開山塔、曰光明院行勇禪師

  月沈野水光明院  峯披靑雲祖塔婆

  當昔決竜蛇陣處  看來今日一僧伽

[やぶちゃん注:以上を底本の訓点を参考にしながら、私なりに書き下しておく。

   稻荷山淨妙寺開山塔を拜し、光明院行勇禪師を曰(よ)ばふ、

  月 野水に沈む 光明院

  峯 靑雲に披く 祖塔婆

  當昔(たうせき) 竜蛇陣を決する處

  看來 今日 一僧伽(そうぎや)

底本では標題の「曰」は「日」。勝手に「曰」と判断した。また、標題及び漢詩全文には送り仮名が全くなく、「曰」を「よばふ」(呼ばふ)と訓じたりしたのも私の独断である。大方の御批判を俟つ。

「當昔」往昔。古え。

「竜蛇陣」兵法の陣立ての一つ。「碧巌録」の第七十一則「百丈併却咽喉」〔百丈、咽喉(のど)を却(ふさ)ぐ〕の「頌」等に用例がある。ここでは禅の祖師らの公案の発問を言い、「決する」はそれを喝破し、悟達したことを指すものと思われる。

「看來今日一僧伽」「僧伽」は教団を言うが、ここは単に寺の堂のことであろう。先の浄明寺訪問記載を見れば――見たところ、今日只今は、ただの寂れた堂があるばかり――という謂いであることが分かる。]

沢庵宗彭「鎌倉巡禮記」 35

   金峯山淨智寺開山塔、

  門庭不設祖師禪  淨智莊嚴松竹旋

  見麼我宗直建立  草深一丈法堂前

[やぶちゃん注:以上を底本の訓点を参考にしながら、私なりに書き下しておく。

   金峯山淨智寺開山塔、

  門庭 設けず 祖師の禪

  淨智の莊嚴 松竹旋(せん)

  見麼(けんも) 我が宗 直建立(ちよくこんりふ)

  草は深し 一丈法堂(はつたう)の前

「見麼」は「見たか?」「見たか!」の意。]

沢庵宗彭「鎌倉巡禮記」 34

   入龜谷壽福寺拜千光國師於逍遙院、

  照暗千光本一光  逍遙大宋止扶桑

  請看黑漆崐崘耳  敬爲祖師燒作香

[やぶちゃん注:以上を底本の訓点を参考にしながら、私なりに書き下しておく。

   龜谷(かめがやつ)壽福寺に入り、千光國師を逍遙院に拜す、

  暗(やみ)を照らす 千光 本(もと) 一光

  大宋を逍遙し 扶桑に止まる

  請ふ 看よ 黑漆崐崘耳(こくしつこんろんじ)

  敬す 祖師たり 燒けて香と作(な)る

底本では結句は「敬 祖師(と)爲(り) 燒 香を作る」〔( )は私が補った〕とでも読むか。私には意味不全なので、かく訓じた。大方の御批判を乞う。

「千光國師」は栄西。

「崐崘」は現在のベトナム・カンボジア地域にあった国名であるが、知られた寿福寺蔵の栄西の頂相を見ると、焼けて黒焦げになった如く真っ黒で、背が低く、巨頭にして耳が異様に長い。そうした異形のうちに、逆に仏教伝来の大陸の、往古の聖人の再来の風貌を読み取ったものか。これも大方の御批判を乞うものである。]

耳嚢 巻之六 鳥類助を求るの智惠の事

 

 鳥類助を求るの智惠の事

 

 木下何某(なにがし)の、領分在邑(ざいいふ)の節、領内を一目に見晴す高樓有(あり)て、夏日近臣を打連れて右樓に登(のぼり)、眺望ありしに、遙の向ふに大木の松ありて、右梢に鶴の巢をなして、雄雌餌を運び養育せる有さま、雛も餘程育立(そだち)て首を並べて巢の内に並べるさま、遠眼鏡(とほめがね)にて望みしに、或時右松の根より、餘程ふと黑きもの段々右木へ登る樣、うはゞみの類ひなるべし、やがて巢へ登りて雛をとり喰ふならん、あれを刺せよと、人々申さわげども、せん方なし。しかるに、二羽の鶴の内一羽、右蛇を見付し體(てい)にてありしが、虛空に飛(とび)去りぬ。哀れいかゞ、雛はとられなんと手にあせして望み詠(ながめ)しに、最早彼(かの)蛇も梢近く至り、あわやと思ふころ、一羽の鷲はるかに飛來り、右の蛇の首を喰(くは)へ、帶を下(くだし)し如く空中を立歸りしに、親鶴も程なく立歸りて雌雄巢へ戻り、雛を養ひしとなり。鳥類ながら、其身の手に及ばざるをさとりて、同類の鷲をやとい來りし事、鳥類心ありける事と、かたりぬ。

 

□やぶちゃん注

 

○前項連関:なし。動物奇譚。リアルタイムの叙述で頗るヴィジュアライズされており、事実譚として十分に信じ得る筆致である。

 

・「鳥類助を求るの智惠の事」は「鳥類、助けを求むるの智惠の事」。

・「木下何某」岩波版長谷川氏注に、『備中足守二万五千石木下氏か(鈴木氏)。』とある。以前にも述べたが、この鈴木氏は勿論、底本編者の鈴木棠三氏であるが、ここで長谷川氏の引くものは、私の底本である「日本庶民生活史料集成 第十六巻 奇談・紀聞」(三一書房一九七〇年刊)の「耳嚢」の鈴木氏の注ではなく、同じ鈴木氏の平凡社東洋文庫版(私は所持しない)のものである。底本には、この注はない。因みに足守(あしもり)藩は備中国賀陽郡(「かや」「かよう」の両様に読む)及び上房(じょうぼう)郡の一部を領有した藩。元和元(一六一五)年、木下利房が大坂の陣の功績により二万五千石にて入封。以後、明治まで木下家が十二代、二百五十六年間に亙って在封した(但し、江戸後期には領地の大半が陸奥国に移された)。藩庁は足守陣屋(現在の岡山県岡山市北区足守)に置かれた(以上はウィキの「足守藩」に拠る)。

 

★諸本の説明をしたので、この場を借りて再度断っておきたいのであるが、

 

 ★私は「耳袋」の現代語訳本は一冊も所持していない

 

 ★私のこの「耳嚢」の現代語訳は総てが私のオリジナルである

 

という点を――「耳嚢 巻之六」の終了を間近に控えた――折り返し点を遙かに過ぎ、本格的な復路に入った――ここで、読者に改めて宣明しておく。

 

・「喰(くは)へ」は底本のルビ。 

 

■やぶちゃん現代語訳 

 

 鳥類が仲間に助けを求むるという知恵を持つ事 

 

 木下何某(なにがし)殿が、御領地に在られた折りのことで御座る。

 

 御領内を一目で見晴らすことの出来る高楼(たかどの)が御座って、とある夏の日のこと、近臣をうち連れて、この楼に登り、眺望なされた。

 

 すると、遙か向うにある大木の松の梢に、鶴が巣を成して、雄雌が餌を運んでは子を育んでおる様子にて、雛もよほど大きゅう育って、首を並べて巣の内に並んでおるさまを、木下殿、遠眼鏡(とおめがね)にて如何にも微笑ましゅう望まれるを、これ、楽しみになさっておられた。

 

 ところが、そんなある日のこと、何時ものように楼へ参られ、かの鶴の巣を覗こうとなされたところが、さる御付きの者、目敏(めざと)く、

 

――かの松の根がたより

 

――よほど太く真っ黒なるものが

 

――これ

 

――だんだんに

 

――かの木へと登る

 

と見えた!

 

「……あれ! 蟒蛇(うわばみ)の類いじゃ! 直きに巣へと登り入って雛をとり喰(くろ)うに違いない! 誰か、早(はよ)、あれを刺せぃ!」

 

と、叫んだによって――御主君お気に入りの鶴の親子であればこそ――その場の人々は、これ、慌てふためいて、口々に、何やらん、申しては、騒いではみたものの、何分、高き松の梢のことなれば、如何ともしようが、これ、御座ない。

 

 木下殿以下、陪臣の者ども皆、ただ手を拱いて眺めておるしか御座らなんだ。

 

 しかるに、見ておるうち、巣に御座った二羽の鶴のうちの一羽が、これ、この蛇を見つけた様子にて御座ったものの、何と! 懼れ怖気づいたものか、畜生の哀しさ――空高く、飛び去ってしもうた。……

 

 木下殿、

 

「……哀れな!……ああっ! 雛は最早、獲らるるに違いない!……」

 

と、諸人、手に汗して、遙かに眺めておるばかりで御座った。……

 

 最早、かの蛇も梢近くへと至った。

 

あわや!――

 

――と――

 

思うた、その時、

 

――虚空に一点、黒点が浮かぶ!

 

かと思うと、

 

――みるみるそれが大きくなり

 

――一羽の鷲と相い成る!

 

――急転直下

 

――音もなく飛び来ると

 

バッ!

 

――と――

 

――かの蛇の首を喰(くわ)え

 

――口より長き帯(おび)を垂れ下げた如く

 

――空中(そらなか)を

 

――悠々と

 

――たち帰って御座った。……

 

 すると、先ほど消えた一羽の親鶴も、ほどのう巣へとたち帰って参り、雌雄、目出度く巣に安らいで、また、何時ものように、仲睦まじゅう、雛を養(やしの)う様が、これ、その日も見られて御座った。…… 

 

「……鳥類ながらも、かの一羽の鶴、近づく蛇の、その身の手には及ばざる天敵なることを悟り、同類のうちにても剛(ごう)をならした、かの鷲を雇いに参ったこと……これ、たかが畜生なる鳥類なれど……巧める思慮というものが、これ、御座るものじゃのう。……」

 

とは、木下殿が、直かにお話し下さったもので御座る。

沢庵宗彭「鎌倉巡禮記」 33

   拜瑞鹿山圓覺寺開山佛光禪師、

  圓覺伽藍包大千  大千日月這中旋

  展虛空手禮三拜  宇宙横身老鉅禪

[やぶちゃん注:以上を底本の訓点を参考にしながら、私なりに書き下しておく。

   瑞鹿山圓覺寺開山佛光禪師を拜す、

  圓覺伽藍 大千を包む

  大千 日月 這中(しやちゆう)に旋(めぐ)る

  虛空手を展して 禮 三拜

  宇宙 身を横ふ 老鉅禪(らうきよぜん)

「大千」大千世界。三千大千世界の一つで中千世界を千集めたもので、仏の教化の及ぶ範囲の意に用いる。

「這中」は「しゃちゅう」で、この中の意。「這」は這うの意の場合は音は「ゲン・コン」であるが、「シャ」と読む時、「これ」「この」という指示語になる。同様の意で這箇(しゃこ)・這般(しゃはん:これには別に此度・今度の意がある。)、「このように」の意で這麼(しゃま)等、禅語では頻繁に見かける用字である。

「老鉅」「鉅」には尊(たっと)いの意があり、「鉅偉」(優れて大きい)・「鉅卿(きょけい)」(貴人/他者を尊んで言う二人称代名詞)・「鉅公」(「鉅卿」と同義/名人。その道の達人/天子)の熟語があり、「老」は「老師」「老台」「老爺」等と同じく年長者への尊敬の接頭語であろうから、仏光国師無学祖元の禅の三昧境を言っている。祖元の禅の指導法は頗る懇切で、実に「老婆禅」(年老いた女が世話をやくように万事洩れなく行き届いているの意であろう)と呼ばれ、多くの鎌倉武士の尊崇を受けたのであった。]

よれからむ帆 大手拓次

 よれからむ帆

 

ひとつは黄色い帆、

ひとつは赤い帆、

もうひとつはあをい帆だ。

その三つの帆はならんで、よれあひながら沖(おき)あひさしてすすむ。

それはとほく海のうへをゆくやうであるが、

じつはだんだん空のなかへまきあがつてゆくのだ。

うみ鳥(どり)のけたたましいさけびがそのあひだをとぶ。

これらの帆(ほ)ぬのは、

人間の皮をはいでこしらへたものだから、

どうしても、内側(うちがは)へまきこんできて、

おひての風を布(ぬの)いつぱいにはらまないのだ。

よれからむ生皮(いきがは)の帆布(ほぬの)は翕然(きふぜん)としてひとつの怪像となる。

 

[やぶちゃん注:四行目の「沖(おき)あひさしてすすむ」の部分、底本は「沖(おき)あひさしですすむ」でと格助詞が「て」ではなく、「で」の濁音ある(印字の汚れではなく、確かな植字「で」である)。「沖合指し」という特異な名詞形もあり得ない訳ではないが、ここは創元文庫版「大手拓次詩集」の表記を採用した。

「翕然」「翕(キュウ)」は聚(あつ)まるの意で、多くのものが一つに合う、一致する、集まるさま。]

鬼城句集 春之部 藤の花

藤の花  谷橋に來て飯に呼ぶ藤の花

     竹垣に咲いてさがれり藤の花

     藤棚を落ち來て日あり二ところ

     藤浪や峰吹きおろす松の風

     岩藤や犬吼え立つる橋の上

祕密 萩原朔太郎

 祕密

 

 春畫や春本ほど、一般に祕密にされながら、しかも普遍的なものはないだらう。實に至る所に、僕等はその表現を發見する。たとへば町の共同便所や、寄宿舎の壁や、工場の集會所や、それからたいていの中學生のノートなどに。

 此等のものについて、僕の實に驚くことは、すべてが一樣の型にはまり、同じ言語、同じ畫面が、至る所に約束されてゐるといふことである。そこにはいつも、氣の利かない、馬鹿馬鹿しい、無刺激の言語が羅列され、ただ醜惡の外、何の春情をも挑撥し得ない、誇張した局部の穢畫がある。何故に人々は、こんな醜劣な、非色情的なものによつて、性感の満足と表現を得るのだらうか。もし人間の性生活が、實に果してこの通りで、一樣に、単調に、平凡に、型にはまつたものであり、且つそれが一般的であるとすれば、人生は何といふ陰慘な存在だらう。あらゆる春畫の表現は、僕を絶望的にまで憂鬱にする。實に春童や春本ほど、僕にとつて人生を味氣なく、退屈に感じさせるものはない。

 或はもちろん、此等の街路に見る落書は、何等質感からの表現でなく、子供等の無心にする摸倣の惡戯であるだらう。しかしながら歌麿や豊國やの大家等が、時に全くその「同じもの」を描いて居るのだ。すべての美術的な春畫が、同樣に醜惡の局部を描き、型にはまつた一樣式のものであるとは? 他の創作に於ては、かれほどに獨創的で、特異な個性と創見とをもつてる畫家が、人生の最も情熱的な畫題に対して、一も類型の平凡を脱しないといふことは、いかに人間の性生活が、一般を通じて單調であり、馬鹿馬鹿しく、無刺激なものであるかを證據する。

 果してけれども、それが人間の實の表現だらうか。たいていの人々は、思ふにその實の表現を祕密にしてゐる。人間の羞恥心は、實の恥づかしい、デリケートな性感を人にかくし、一般に知られてゐる、紋切り型の、公開されたものだけを表現してゐる。春畫や淫本に於てさへも、人生の明らさまの表口しか、僕等は見ることができないのだ。

 

[やぶちゃん注:『手帖』第一巻第四号・昭和二(一九二七)年六月号に掲載。……「他の創作に於ては、かれほどに獨創的で、特異な個性と創見とをもつてる畫家が、人生の最も情熱的な畫題に対して、一も類型の平凡を脱しないといふことは、いかに人間の性生活が、一般を通じて單調であり、馬鹿馬鹿しく、無刺激なものであるかを證據する」という断言……そしてコーダに於いて「春畫や淫本に於てさへも、人生の明らさまの表口しか、僕等は見ることができないのだ」と、ある対象を強調的に例示し、それによって他の場合は勿論、当然であることを類推させる副助詞「さへ」に添加の係助詞「も」を用いた朔太郎の、くだらない、おおかたの人間存在の、その人生というものへの絶対のアンニュイが見てとれる……]

2013/04/23

初夏の詩情 萩原朔太郎

私が愛し、私を愛してくれる、京都奈良をことのほか愛する、昔の、ある教え子に捧ぐ――

 初夏の詩情

 日本の季節の中では、初夏と晩秋がいちばん樂しく、絶好の季節のやうに思はれる。特に桐の花の吹く五月頃の季節、即ち所謂「初夏新綠」の候は、妙に空氣が甘ずつぱく、空が透明に靑くすんで、萬物の色が明るく鮮明に冴え、日本畫的であるよりも、むしろ洋餓的風物を思はせる。物の匂ひや肌ざはりやが、最も鋭敏に感じられ、官能の窓が一時に開放されるのもこの頃である。僕はその頃になると、不思議にロマンチツクの詩情に驅られ、何所かの知らない遠い所へ、ひそかに旅をしてみたいやうな、夢見心の郷愁に誘はれる。何がなし初夏の季節は、不思議に浪漫的の季節であり、他の日本的な四季とちがつて、例外的に西洋臭い情緒をもつた季節である。そのためか知らないが、昔の日本の詩歌人たちは、かうした初夏の季節や風物やを、趣味的にあまり好まなかつたやうに思はれる。昔の日本の風雅人等は、春と秋とを專ら好んで、夏と冬とを好かなかつた。特に就中、彼等が春を愛したことは、古今集以下の勅撰歌集に於て、春の部の歌が最も多いことによつて明らかである。
 しかし春といふ季節は、僕自身の主觀に於ては、決してそんなに好い季節ではない。名に空氣が生暖(なまぬる)くむくむくして、生理的に不健康な感じがするし、實際にまた頭痛や目まひがする。特に東京地方の春と來ては、埃がひどく立ちのぼるので、一面に物が汚れて薄ぎたなく、萬象が不透明に霞んで見える。さうした埃つぽい空氣の中で、初めから既に褪色して、白つちやけた色をしてゐる櫻の花を見る毎に、僕はいつも不快な性病をさへも聯想する。昔から多くの人々が、何でこんな櫻なんて汚ない花を、そんなにも多くの詩歌に詠んで愛したのか。そもそもまた春なんて詰らぬ季節を、どうしてそんなにも嘆美したのか。僕には長い間このわけが疑問であつた。
 ところが往年の春、一度京都に遊んで以來、初めてこの疑問が氷解した。京都の春は實に美しい。第一、東京のやうに埃がなく、風が吹かないで靜かな上に、水蒸氣が多いため、空氣がしつとりとして濡れて居り、萬象の風物が色を含んで、艶に朦朧と霞んで見える。特に夕景の美しさは格別で、山際かけて地平線の空に薄い臙脂色の春霞がたなびき、錦繪の空にそつくりである。さうした景象の中で、櫻の花が美女のやうに艷めかしく咲いてるのである。東京の櫻を見て「性病」を聯想した僕は、京都の櫻を見て「戀」を聯想し、初めて「花」といふ日本語の意味がわかつた。(花といふ日本語は、普通に櫻の花を意味し、倂せて艷めかしいこと、色めいたことを意味する。)
 昔の日本の詩歌人たち、特に王朝時代の歌人たちが、そんなにも春を愛し、春の歌を無數に詠んだといふわけも、京都へ來て初めて僕に合點された。その頃の歌人たちは、たいてい皆殿上人の公卿貴嬪(くげきひん)で、その殆んど全部が京都に住んで居たのである。そして同時にさうした彼等の歌の意味も、初めて現質感として理解された。

  見わたせば山もと霞む水無瀨川夕べは秋と何おもひけむ  (後鳥羽院)
  霞たつ末の松山ほのぼのと波にはなるる横雲の空  (藤原家隆)
  春の夜の夢の浮橋とだえして峰に別るる横雲の空  (藤原定家)
  春の空は梅の匂ひに霞みつつ曇りもはてぬ春の夜の月  (藤原定家)
  花は散りその色となく眺むればむなしき空に春雨ぞふる  (式子内親王)

 かうした昔の歌をよんで、以前の僕には何の面白味もなく、何の現實感もイメーヂに浮ばなかつた。むしろさうした歌人たちが、言語を遊戲的に修辭學化して、いたづらに美辭麗句を竝べることの態度に對して反感した。それが京都の春を見てから、自分のまちがひであることがすつかり解つた。「朧ろにかすむ」とか「霞に暮るる」とかの言葉の詩趣は、東京に住んでる人たちは、單なる美辭麗句として以外、絶對に解らないことであるが、京都の春を知る人には、それが眞に文字通りの寫生であり、現實感であることが解るのである。同時にまたさうした春の歌や櫻の歌が、單なる風物の敍景以外、歌の心の奧深く、ひそかに幽玄に匂はせてるところの、色めきたる戀心の種を知ることも出來るのである。
 しかし現實東京に住み、長く關東地方で育つた僕は、年々歳々、白つちやけた櫻を眺め、埃つぽい春の季節ばかりを經驗して居る。「花は散りその色となく眺むればむなしき空に春雨ぞふる」といふやうな色めいた歌の情趣は、現在東京に住んでる僕の場合、容易にイメーヂに浮んで來ない。僕の環境にあつて、常に最もよくイメーヂに浮んで來るのは、やはり前言つた「初夏新綠」の季節である。つまり言つて見れば、東京及び關東地方に於ては、この頃の季節が最も美しく樂しいのである。だが日本の文化は、昔から奈良の都を中心として、關西地方のみで繁榮した。さうして武家は關東に集團し、詩人とインテリゲンチユアの風流人とは、多く皆關西に生活して居た。そのため日本の詩歌にあつては、初夏を歌つたものが極めてすくなく、殆んど稀有の數にすぎない。まれにそれを歌つたものも、僕等の詩情する季節感とは、大いに趣きが異つて居る。即ちたとへば、

  うちしめり菖蒲ぞかをる時鳥なくや五月の雨の夕ぐれ
  時鳥鳴くや五月のあやめ草あやめも知らぬ戀もするかな

 といふ風に、梅雨時のじめじめした暗鬱な季節感を詠んだもので、あの洋畫的の明るい風物や、浪漫的の郷愁感をそそるところの、眞の初夏新綠の季節を歌つた詩歌は、殆んど中世以後の日本にない。ただ上古の詞葉集であつた萬葉集に、珍らしくさうした浪漫的の初夏の歌が散在するのは、當時唐を經て間接に傳來した西歐の文化が、奈良朝歌人に何かの影響を與へたものか。もしくはその所謂「詠み人知らず」の庶民たちが、全國の諸地方に散亂して居た爲かであらう。
 しかし此處に最も奇蹟的な存在は、實に與謝蕪村の俳句である。日本の俳人は歌人と同じく、芭蕉以來系譜的に春秋の二季を愛し、その季に屬する作品が多いのに反して、初夏を詠じたものは甚だすくなく、素堂の名句「目に靑葉山ほととぎす初鰹」の如きも、むしろ異例的な作にすぎない。然るに蘇村の俳句には、さうした初夏の明朗感や郷愁感を歌つたものが、量に於て相當に多いばかりでなく、質に於ても極めて秀れて居るのである。試みに次の蕪村の俳句を見よ。

  愁ひつつ丘に登れば花茨
  絶頂の城たのもしき若葉かな
  鮒鮓や彦根の城に雲かかる
  更衣野路の人はつかに白し
  花茨故郷の道に似たるかな

 此等の俳句が詠じてゐるものは、すべて初夏新綠の頃の季節が特色してゐるところの、明るく爽やかな洋畫的風光であり、そしてその詩情の本質を流れてるものは、同じその季節が誘ふところの、一種の縹渺たるロマンチツクな郷愁である。「在家」の句に於て、いかにその浪漫的郷愁の詩情が、強く高調的に歌はれてるかを見よ。そして「更衣」の句や「絶頂の城」の句が、いかに洋畫風の明るい色彩と空氣を措いてるかを見よ。さらにまた「鮒鮓」の句が、その詩情の本質に於て、島崎藤村氏の名詩「千曲川旅情の歌」と共通して居り、浪漫的抒情の高い調べに富んでるかを見よ。蕪村の生きてた天明年間は、十九世紀の初頭に當り、西歐の文壇では、浪漫主義が全盛に榮えて居た時であつた。しかし同時代の鎖國してゐた島國日本に、さうした西歐文化の渡來して來るわけがないから、蕪村の新らしさと浪漫性とは、全く日本で孤獨に芽生えた變り種で、しかも後に根をつぐものなく、一代限りで亡びてしまつた花であつた。しかも蕪村の生涯は、大部分を京都に暮らして居たことを考へるとき、いよいよ以てその藝術の偶然性と、天才の偶然性(天才の出生は、科學上にも蓋然律の方則でしか證明されず、全く偶然のものである。)が考へられる。
 明治以後になつてから、西歐詩の影響の下に、傳統的な日本詩歌のマンネリズムを脱却して、新しい季節感を歌つた詩歌人はすくなくないが、その最も優なるものは北原白秋氏であつた。特に氏の處女歌集「桐の花」は、その書物の題名が示す如く、集中の歌の大部分が初夏新綠の頃の明るく官能的な風物を歌つたもので、そのリリシズムの本質には、少年の日のやるせない哀傷感が、一種の淡いノスタルヂアとなつて、桐の花の黄粉のやうに漂つて居る。
 最後にこの雜誌の讀者のために、僕の靑年時代に作つた初期の詩から、さうした季節感を歌つた作品一篇を載せてみよう。

      旅上

  ふらんすへ行(ゆ)きたしと思(おも)へども
  ふらんすはあまりに遠(とほ)し
  せめては新(あたら)しき背廣(せびろ)をきて
  氣(き)ままなる旅(たび)に出(い)でてみむ
  汽車(きしや)が山道(やまみち)を行(ゆ)くとき
  水色(みづいろ)の窓(まど)に寄(よ)りかかりて
  我(わ)れひとり嬉(うれ)しきことを思(おも)はむ。
  五月(さつき)の朝(あさ)の東雲(しののめ)
  うら若草(わかぐさ)のもゆる心(こころ)まかせに。

[やぶちゃん注:『婦人公論』第二十六巻第五号・昭和一六(一九四一)年五月号所収。
「うちしめり菖蒲ぞかをる時鳥なくや五月の雨の夕ぐれ」九条良経の和歌。「新古今和歌集」に所収。次の歌の本歌取り。言わずもがな乍ら、「菖蒲」は「あやめ」、「時鳥」は「ほととぎす」、「五月」は「さつき」と読む。
「時鳥鳴くや五月のあやめ草あやめも知らぬ戀もするかな」誤り。「古今和歌集」の「卷第十一」の冒頭「戀歌一」の巻首を飾る「よみ人しらず」「題しらず」の和歌(「国歌大観」番号四六九)。
「目に靑葉山ほととぎす初鰹」誤り。
 目には靑葉山ほととぎす初鰹
である。
 最後に示された「旅上」は知られたものは「純情小曲集」(大正一四(一九二五)年八月新潮社刊)に所収されたものであるが、ここでは、その初出(無題)を示すこととする。

ふらんすへ行きたしと思へども
ふらんすはあまりに遠し
せめては新しき背廣をきて
きまゝなる旅にいでゝみん
汽車が山みちを行くとき
みづいろの窓によりかゝりて
われ一人うれしきことを思はん
五月の朝のしのゝめ
うら若草のもえいづる心まかせに

これは『朱欒』第三号第五号・大正二(一九一三)年五月号所収のものである。]

耳嚢 巻之六 得奇刄事

 

 

 得奇刄事

 

 享保の頃の事とや、本多庚之助(ほんだこうのすけ)家中に、名字は聞もらしぬ、惠兵衞(けいべゑ)と云(いへ)る剛勇の男ありしが、或時夜に入(いり)、程遠き在邊へ至り歸りの節、稻村(いなむら)の内より六尺有餘の男出て、酒手(さかて)をこひし故、持合無之(もちあはせこれなき)由、斷(ことわり)を不聞(きかず)、大脇差を拔(ぬき)て切懸(きりかかり)し故、拔打(ぬきうち)に切付(きりつけ)しに、鹽梅(あんばい)能く一刀に切倒(きりたふ)し候ゆゑ、早く刀を拭(のご)ひ納(をさめ)て立(たち)歸りしが、右の袖手共(そでてども)にのり流れける故、扨(さて)は手を負ひしと思ひ、月明りにて改め見しに、疵請(きずうけ)し事もなし。能々みれば刀の束(つか)をこみともに一寸斗(ばかり)切り落し有之(これある)故、驚きて、遖(あつぱ)れのきれものと、不敵にも右の處へ立(たち)戾り其邊を見しに、こみとも切れ候所も、其場所に落(おち)てありし故ひろひとり、去(さる)にても盜賊の所持せし刀、遖れの名刀也と、猶(なほ)死骸を見しに、彼刄持居候間取納(かのかたなもちをりさふらふあいだとりをさめ)て宿元(やどもと)へ立歸りしが、かゝる切もの、いよいよためし見度(みたし)とて、主人屋敷にてためしものありし節、持參して試し給るやう望(のぞみ)ければ、則(すなはち)ためさんと、彼(かの)刀を拔拂(ぬきはら)ひ、つくづくと見て、扨て珍敷(めづらしき)刀かな、久しぶりにて見候なり、是は名刀也、試すに不及(およばず)と、彼(かの)ためしする者、殊外(ことのほか)賞美して、手に入(いれ)し譯尋(たづね)ける故、今は何をか隱さん、かくかくの事にて手に入(いれ)しとかたりて、右刀には別にせんずわりといふ切名(きりめい)あるべしと、改めしに、果して其銘あり。是は切支丹(きりしたん)御征罰(せいばつ)の時、夥敷(おびただしく)切りしに、中にもすぐれて切身(きれみ)よかりしを、右の切銘を入れしとなり。彼被殺(かのころされ)し盜賊は、權房五左衞門とて、北國(ほつこく)に名ある强盜の由。久田(ひさだ)若年の節、父のもの語りなりと咄しぬ。

 

□やぶちゃん注

 

○前項連関:特になし。本格武辺物の名刀譚。

 

・「得奇刄事」は「奇刄(きじん)を得し事」と読む。

 

・「享保の頃」西暦一七一六年~一七三六年。根岸の生年は元文二(一七三七)年であるから、誕生前の珍しく古い話。「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年であるから、七十年以上前の出来事である。

 

・「本多庚之助」底本の鈴木氏の注には、『播州山崎で一万石』とする。山崎藩(やまさきはん)は播磨国宍粟(しそう)郡周辺を領有した藩で藩庁として山崎(現在の兵庫県宍粟市山崎町)に山崎陣屋が置かれていた。但し、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、本文が『本多孝之助』となっており、長谷川氏は注で、『正徳元年(一七一一)没の幸之助忠次、三河挙母一万石か』と推定されておられる。『三河挙母』は三河国北西部(現在の愛知県豊田市中心部)を治めた譜代大名の小藩挙母藩(ころもはん)のこと。なお、何れの本田家も「ほんだ」と読む。

 

・「稻村」稲叢。刈り取った稲を乾燥させるために野外に積み上げたもの。稲塚(いなづか)。従ってロケは中秋である。

 

・「六尺有餘」二メートル八十センチを優に越える。

 

・「大脇差」脇差は武士が腰に差す大小二刀の小刀の方の呼称であるが、その脇差の非常に長いものをいう。

 

・「右の袖手共にのり流れける故」「のり」は血糊であるが、後で分かるように、これは一刀のもとに断ち切ったその際、同時に相手の盗賊權房五左衞門の太刀(後に名が出る名刀「せんずわり」)の切っ先が、恵兵衛の太刀の柄の頭(かしら)の部分を断ち切っていたのであったが、その影響から小身(後注参照)が緩み、權房五左衞門を斬った際の多量の血液が恵兵衛の太刀の鍔で止まらず、斬った直後に緩んだ部分から柄の内側にそれが流れ込み、頭の抜けた部分から右二の腕や袖の部分に流れ入ったものと推定される。

 

・「遖(あつぱ)れ」の読みは底本のもの。

 

・「こみ」「小身」「込み」などと書き、刀身の柄(つか)に入った部分。中子(なかご)のこと。

 

・「ためしもの」試し物。刀の斬れ味を試すために死刑囚やその遺体などを試し斬りにすること。

 

・「せんずわり」千頭割か(但し、だったら「せんづわり」でないとおかしい)。刀の加工に用いる道具に「銛(せん)」(「銑」とも書く)と呼ばれる鉄を削る押切りの刃のような大振りの手押し鉋(かんな)があるがそれと関係があるか。キリシタン絡みだから「せんず」は伴天連関連の何かなのかも知れぬ。いや、「センズ」とは「イエズス」の訛かも……なんどと夢想もした。銘なので、ひらがなというのも何なので、勝手ながらとり敢えず、訳では「千頭割」としておいた。正しい漢字表記をご存知の方は、是非、御教授あられたい。

 

・「切名」切銘。刀剣で中子に製作者の名が刻んであるもの。これは「銘の物」と称し、一般には確かな名刀の証しである。

 

・「切支丹御征罰」島原の乱を指すか。幕府軍の攻撃とその後の処刑によって最終的に籠城した老若男女三七〇〇〇人(二七〇〇〇とも)余りが死亡している。

 

・「權房五左衞門」不詳。読みも不詳。「ごんばうござえもん」と読むか。

 

・「久田」不詳。ここまでの「耳嚢」には久田姓の登場人物はいない。それにしても、かく呼び捨てにするというのはかなり新しい情報筋と思われる。 

 

■やぶちゃん現代語訳 

 

 珍らしき名刀を手に入れた事 

 

 享保の頃、とか申す。

 

 本多庚之助(ほんだこうのすけ)殿御家中にて――名字は聞き漏らいたが――恵兵衛(けいべい)と申す剛勇の家士が御座った。

 

 ある夜更け、かなり遠方の村方へ参っての帰り、田の稲叢(いなむら)の中より、突如、六尺を優に越ゆる大男が出て来て、

 

「……酒手(さかて)……お呉んない!……」

 

と乞うたによって、

 

「――今は持ち合わせが――これ、ない――」

 

と断った。

 

 ところが、いっかな引き下がらず、それどころか、大脇差を抜き放って斬りかかって参った。

 

 されば恵兵衛も抜き打ちに斬りつけた。

 

 幸いにも一刀のもとに、たかりの大男を斬り倒して御座った。

 

 直ぐ、刀を拭い納めて、その場は立ち去ったと申す。

 

 ところが、夜道を辿って参るうち、袖や二の腕辺りで、頻りに何やら血糊のようなものが流れる感じが致いたため、

 

「……さては、知らずに手負いを受けて御座ったか……」

 

と思って、立ち止まって月明かりにて改めて見ところが、肌脱ぎになってみても、これといって傷を受けたところは、これ、御座ない。

 

 されど、確かに、夥しい血の滴りが、右袖や右の二の腕に確かにあるゆえ、さらによくよく見てみれば、何と!

 

――恵兵衛の太刀の束(つか)

 

――これ

 

――小身諸共(もろとも)

 

――一寸斗ばかりも

 

――斬り落ちておる

 

ということに、気づいた。

 

 驚いて、

 

「……うむむ! 遖(あっぱ)れの切れ物じゃ!」

 

と感心致いて――もう、夜も丑三つ時にもならんとするに――大胆不敵にも、先(せん)の修羅場へと立ち戻り、その刃傷の辺りを捜してみたと申す。

 

 すると、確かに、恵兵衛の太刀の小身諸共に切れたものが、そのすっぱり切れたそのまんまに、そこに落ちて御座ったゆえ、拾い取って、その切り口の鮮やかなるを見、

 

「……うむむ、うむむ! それにしても……盜賊の所持せる刀ながら、遖れの名刀じゃ!」

 

と、さらに猶も死骸を探って見たと申す。

 

 すると、かの刀を握りしめたまま、とっくにこと切れて転がって御座ったによって、かの刀を、死骸の手から引き剥がし、己が屋敷へと立ち帰ったと申す。

 

 

 その後のことである。

 

「……かかる切れ物の脇差……いよいよその斬れ味、これ、試してみとうなったわい……」

 

と恵兵衛、頻りに思うたによって、ある時、主人(あるじ)の屋敷にて、試し斬りのある由、聞きつけ、かの大脇差を持参致いて、主人(あるじ)へ、

 

「――この脇差儀、どうか、試し斬り給わりますように。」

 

と、切(せち)に望んだところが、主人(あるじ)も、

 

「面白い。一つ、試してやるがよい。」

 

と、即決されたと申す。

 

 試し斬りの達者(たっしゃ)が、試し斬りのために奉行所より引き渡された罪人を据えた庭へと出でる。

 

 かの大脇差も引き出だされ、達者によって刀が抜き払われた。

 

――と

 

 達者、その大脇差をつくづくと見ると、

 

「……むッ! さても珍らしき刀にて御座る! 久し振りの見参じゃ! これは名刀で御座れば――最早――試すに及ず――」

 

と、その試し斬りの達者、殊の外、賞美致いた上、

 

「……かくなる名刀――如何にして手に入れられた?」

 

と、切(せち)に訊ねたゆえ、

 

「――さても今は何をか隠そうず――かくかくの出来事の、これ御座って、かくも手に入れて御座る。」

 

と一切を語り明かした。

 

 すると、かの達者、

 

「――その刀には、恐らく――『せんずわり』――との切銘(きりめい)が彫られてあろうと存ずる。――改めて見らるるがよい。」

 

と申したによって、主人(あるじ)からの命もあればこそ、

 

――チャッツ!

 

と茎(くき)を抜いて見てみたところが、果たして

 

――「千頭割」――

 

との銘が彫られて御座った。……

 

「……この大脇差は、何でも、切支丹(きりしたん)御征伐(せいばつ)の折り、夥しき邪教の者どもを斬り殺しましたが、その折りに使われた脇差の中にても、これ、優れて切れ味の良かったものを選び、特にこの――千頭割――と申す切銘を入れた、と伝え聞いておりまする。……それから、かの、この脇差を所持致いて御座った殺されし盜賊は、これ、権房五左衞門(ごんぼうござえもん)と申す、北陸にて名を轟かせた強盜の由にて御座いました。……」

 

 以上の話は、私昵懇の久田某(ぼう)が、若年の折りに彼の父から聞いた話として私に語って呉れたもので御座る。

橋上 萩原朔太郎 + 荘子 秋水篇 『知魚楽』

 

 橋上

      ――詩壇の議論家に捧ぐ――
 

 

 支那のある水郷地方。

 白柳が枝をたれて、陽春の長閑かな水が、橋の下をいういうと流れてゐる。

 橋の上に一人の男がたたずんでゐる。男はぼんやりと考へながら、川の流れを見つめてゐた。

「どうした? 惠子。」

 さういつて一方の男が、後から肩を叩いた。男は詩人哲學者の莊子であつた。

「あれを見紛へ。」

 二人は默つて、しばらく水面を眺めてゐた。午後の物うげな日光が、橋の欄干にただよつてゐる。支那風の苫船が、白柳の葉影につないであつた。

「何が見える?」

 暫らくして莊子が言つた。

「魚さ」

 惠子が退屈さうに答へた。惠子は若い哲學者で、辯證論の大家であつた。

「見給へ! 奴があの水の中を泳いでゐる樣子を。實に愉快さうぢやないか。」

「わかるものか。」

 莊子が反抗的の態度で言つた。二人は始から敵であつた。個人的には親友であつたけれども、思想上では事事に憎み合つた。趣味が、あらゆる點で反對してゐた。

「人間に魚の心がわかるむのか。魚自身にとつてみれば、あれで悲しんでゐるかも知れないのだ。それとも何か、君には魚の心がわかると言ふのか?」

 いつも抽象的な論理をこねて、彼の詩的な思想に楯をつく敵に對し、ここで復讐してやつたことが、莊子は嬉しくてたまらなかつた。しかし惠子は負けなかつた。彼は皮肉らしく落付いて返事をした。

「その通り! 僕にはちやんと魚の心がわかつて居るんだ。」

「何だと?」

 莊子が呆れて叫んだ。

「獨斷だ! おどろくべき獨斷だ。ふん! いつでも君の議論はそんなものさ。」

「よろしい。」

 惠子が靜かに反問した。

「では聞くがね。人間に魚の心がわからないといふならば、どうしてまた、僕の心が君にわかるだらう? 僕は現に、魚の心を知つてると告白してゐる。然るに君は、勝手に僕の心を否定してゐる。どつちが獨斷かね。」

(莊子の一節から)

 

[やぶちゃん注:『詩神』第二巻第一号・大正一五(一九二六)年一月号。以上の引用は総てママである。一読お気づきのことと思われるが、朔太郎は原話の荘子と恵子の関係を逆転させている。当初、私は単に朔太郎の誤認とも思われたのであるが、どうもこれは確信犯のような気がする。副題の「詩壇の議論家に捧ぐ」とあるが、本話(原話ではない)の「詩壇の議論家」とは、実にその『詩人哲學者の莊子』である。しかも『詩人哲學者の莊子』は『いつも抽象的な論理をこねて、彼の詩的な思想に楯をつく敵に對し、ここで復讐してやつたことが、莊子は嬉しくてたまらなかつた』とある。荘子は普段自分を真正の「詩人」と自認しており、彼が絶対と考える『彼の詩的な思想』にちゃちゃを入れる『惠子』には、普段から不快を抱いていたのだ。この話柄の荘子は、その彼に『復讐』出来たことが如何にも嬉しいという、如何にも俗な詩人を標榜する『莊子』なのである。しかし『惠子は負けなかつた。彼は皮肉らしく落付いて』、かの鮮やかな論理によって『復讐』のための『詩人哲學者の莊子』の『獨斷』を見破るのである。この話では終始一貫して(話柄中一回も矛盾せず)『若い哲學者で、辯證論の大家』で何時も『退屈さうに』世界を見ている『惠子』こそが万物に通底する心を知る真の詩人であり、世間的に詩人と認定されている『莊子』が、実は復讐のために相手を追い込むえげつない非詩人として描かれているのである。原話の最後の部分を変改して断ち切っている点からも、朔太郎は原話のようなロジックやメタ・ロジックの問題をここで語ろうとしているのでもないことが分かる。

 即ち、ここでは文章構造上――萩原朔太郎こそがこの『退屈さうに』世界を見ている『惠子』であり――自称詩人を標榜して雨後の竹の子のように「詩人」として現われ、詩壇で盛んに『詩的な思想』なるものを囀っている『詩人哲學者の莊子』こそが『詩壇の議論家』たち――であることになる。

 しかし――しかし、私は今一つの解釈が定立するように見える。即ち、文字通り、素直に、

――真正詩人を自認する『詩人哲學者の莊子』=萩原朔太郎

でよい。そうすると、では、当時、朔太郎にとって、『詩壇』で詩人でもないのに詩人面をし、しきりに詩について対等に『議論』ふっかけてこようとする自らを詩人と自称したい人物、

――『若い哲學者で、辯證論の大家で』ありながら、いつも『退屈さうに』世界を見つめている『惠子』、『個人的には親友であつたけれども、思想上では事事に憎み合』い、『趣味が、あらゆる點で反對してゐた』、内実に於いては『始から敵であつた』『惠子』、『いつも抽象的な論理をこねて、彼の詩的な思想に楯をつく敵

とは誰であったを考えて見ればよい(下線部やぶちゃん)。

 これは一人しか、いない、のだ。

 即ち、

――『若い哲學者で、辯證論の大家』=芥川龍之介

である。

 以前の注でも既に書いたように、朔太郎は畏友芥川龍之介のことを、

「詩を熱情してゐる小説家である」

と一刀両断にし、

「詩が、芥川君の藝術にあるとは思はれない。それは時に、最も氣の利いた詩的の表現、詩的構想をもつてゐる。だが無機物である。生命としての靈魂がない。」

と公言して憚らなかった(その前後の頗る忘れ難い印象的な複数のシークエンスを我々は萩原朔太郎の「芥川龍之介の死」の中に見出すことが出来る。特にその「11」から「13」である――私は「13」の朔太郎と龍之介の最後のショットを確かに実見したという不思議な錯誤記憶さえあるのである――リンク先は私の電子テクストである)。

 以上の事実を透して、この奇妙な一見とんでもない不全誤訳にしか見えない話を再読すると、私はしかし、妙にすっきりと腑に落ちるのである。

 これは私のオリジナルな『獨斷』ではある。恐らくは、誰もこんなことを問題にしているアカデミストはおるまい。ただの萩原朔太郎の勘違いの一文として葬られていたのではなかろうかと推察する。

 大方の御批判を俟つものである。

 

 最後に。荘子の「荘子(そうじ)」「秋水篇」の、一般に「知魚楽」などという通称で知られる原話は、私が頗る愛するもので、教員時代には漢文でしばしば教材として用いたので、記憶している教え子諸君も多いであろう。以下に原文と訓読及び私の語注、さらにオリジナル現代語訳(今回全面的に新訳した。特に現在時制にしてシナリオのように示すことで新味が出たとは思う)を配して往古を偲ぶよすがとする。

 

○原文

莊子與惠子、遊於濠梁之上。莊子曰、「鯈魚出遊、從容。是魚樂也。」。惠子曰、「子非魚。安知魚之樂。」。莊子曰、「子非我。安知我不知魚之樂。」。惠子曰、「我非子。固不知子矣。子固非魚也。子之不知魚之樂、全。」。莊子曰、「請、循其本。子曰、『女、安知魚樂』云者、既已、知吾知之而問我。我、知之濠上也。」。

 

○やぶちゃんの書き下し文

 莊子、惠子と濠梁(がうりやう)の上(ほと)りに遊ぶ。

 莊子曰く、

「鯈魚(いうぎよ)出でて遊び、從容(しようよう)たり。是れ、魚(うを)の樂しむなり。」

と。

 惠子曰く、

「子は魚に非ず。安(いづく)んぞ魚の樂しむを知らん。」
と。

 莊子曰く、

「子は我に非ず。安んぞ我の魚の樂しむを知らざるを知らん。」
と。

 惠子曰く、

「我は子に非ず。固(もと)より子を知らず。子は固より魚に非ざるなり。子の魚の樂しむを知らざるは、全(まった)し。」

と。

 莊子曰く、

「請ふ、其の本(もと)に循(したが)はん。子曰はく、『女(なんぢ)、安んぞ魚の樂しむを知らん』と云ふは、既已(すでにすで)に、吾の之(これ)を知れるを知りて我に問ひしなり。我、之を濠の上りに知れり。」

と。

 

○やぶちゃんの語注

・「惠子」恵施(けいし 紀元前三七〇年頃~紀元前三一〇年頃)。戦国時代の思想家・政治家で宋の出身であったが魏の恵王・襄王に仕えた。諸子百家の「名家」(論理学派。一種の詭弁術)に分類される。

・「濠梁之上」「濠」は掘割で、「梁」はそこに設けられた簗(やな)、「上」は訓じたように畔(ほとり)の意。この「梁」を一般には、魚類を飼いおくために河川の一部を石で囲ったりして人工的に造った生簀(いけす)とし、ずっと私もそう注して来たが、「濠」を固有名詞の川名として濠水、「梁」は橋の意と採る説もある。私は今回再考してみて、従来のアカデミズムや字義上の大勢より何より、荘子の泥亀と同じであって、この魚たちが生簀に飼われているというシチュエーション自体が甚だ「荘子」的世界には相応しくないという思いに至った。従って現代語訳では従来の私の訳を変え、ここは「掘割の橋の上」と変更することとし、最後の「上」は広角で撮って「畔り」とした。

・「鯈魚」(現代仮名遣「ゆうぎょ」)狭義には淡水産のハヤやオイカワを、広義には細長くて小さい魚の総称。後者でよい。

・「安知我不知魚之樂」この「安(いづく)んぞ」は反語形で、『私(=荘子)に魚の楽しみが分かる』ということが有り得よう、いや、分からぬ、の意である。次の注を参照のこと。

・「『女、安知魚樂』云者」「安んぞ」には実は「どうして」という疑問や反語の意の他に、「どこで」という場所を問う疑問の意味もある。勿論、先の恵子の反義は「どうして~しようか、いや、~しない」の意の反語形であったのだが、ここで荘子は、それに加えて、「どこで」の意も含ませて用いている。それは「知之濠上也」(たしかにこの『ここの掘割の畔り』にあって直ちに魚の心を知った)と呼応して、時空間の混然一体となった荘子的宇宙が最後に示されるのである、と私は採るものである。これを面倒になった荘子が、詭弁、レトリックを弄し、字義をすり替えて(ずらして)議論を収束させたのだとするような見解もあるようだが、私は、採らない。それでは最早、本話はただの頓智話と化してしまって、「荘子」の世界の話では、ない、からである。無論、これが後代の荘子でない誰かによって書かれた偽文であるならばその解釈もあってよかろう。――いや、その可能性は勿論、大いにあるのであろうが――それでも私は、あくまで本話を真正の荘子哲学として読み解きたいのである。本話が人口に膾炙するに功のある湯川秀樹先生が本話を愛された理由も、そうしたこの話柄の持つ宇宙観に基づくものだと、私は信じて疑わないのである。

 

○やぶちゃん現代語訳
 

 荘子が恵子とともに掘割の橋の上を逍遙している。

 荘子は川面を眺めながら、

 

「魚(さかな)が出て、悠々と泳いでいるじゃないか。いや、まっこと、魚たちは楽しんいるんだねぇ。」

 

と呟く。

 すると、それに対して恵子は、

 

「君は魚じゃない。――だから君に魚の楽しみが分かるはずがないね。」

 

と、いなす。

 それに荘子が答えて、

 

「君は僕じゃない。とすればだ、

『僕に魚の楽しみが分からない』

ということがどうして

『君に分かる』んだい? 分かるはずがないよねぇ?」

 

と応酬する。

 すると恵子も黙ってはいない。

 

「僕は、君でない。だから勿論、君のことは分からない。……しかしその同じ論理によって、

『君は魚ではない』

『だから君には魚の楽しみが分からない』

と導けるぜ! どうだい!

『君には魚の楽しみが分からない』

ということは最早、疑いようがない事実だろう?!」

 

 しかし、荘子は徐ろに、静かに、語りかける。

 

「――どうか一つ、今一度、このやりとりの基本に立ち戻ってみようじゃないか。

 君はさっき僕に、

『どうして君に魚の楽しみが分かるろうはずがあるんだ? いや、分からんね!』

と訊いたよ、ね?

ところが、君は、その発問を君がする、それよりもずっと以前から、すでにして、

『僕が魚の楽しみを分かっていると認識している』

ということを、

『君はすでに知っていた』

のだよ、ね?

 だからさ!

 それと全く同じように、僕はまさに――

――『この橋の上で』『確かに』あの魚たちの楽しみが『分かった』

のさ!」

 

懐かしい……実に、懐かしいではないか……こういうものを教えることは私とって頗る至福だった……が……それを以ってつまらぬ試験問題を作り……それを以って評価なんどというものをしなければならなかったのは……これ、実に、『既已(すでにすで)にして』、昔から最後まで、私の教師の仕事の中(うち)、未来永劫、おぞましい記憶として残るのだということだけは、これ、述べて、本注を終わりとする。]

みどりの狂人 大手拓次

 みどりの狂人

 

そらをおしながせ、

みどりの狂人よ。

とどろきわたる媢嫉(ばうしつ)のいけすのなかにはねまはる羽(はね)のある魚は、

さかさまにつつたちあがつて、

齒をむきだしていがむ。

いけすはばさばさとゆれる、

魚は眼をたたいてとびださうとする。

風と雨との自由をもつ、ながいからだのみどりの狂人よ、

おまへのからだが、むやみとほそくながくのびるのは、

どうしたせゐなのだ。

いや………‥魚がはねるのがきこえる。

おまへは、ありたけのちからをだして空をおしながしてしまへ。

 

[やぶちゃん注:「媢嫉」妬み憎むこと、忌み嫌う、の意。「媢」は、ねたむ・そねむ・忌む及び憎むの意を持つ。終わりから二行目のリーダ部は、底本では等間隔で十一ポイントある。]

鬼城句集 春之部 桃の花

桃の花  桃咲いて厩も見えぬ門の内

     屏風して夜の物隱す桃の花

沢庵宗彭「鎌倉巡禮記」 32

   入巨福山建長寺、拜開山大覺禪師於西來院、

   經曰照于東方萬八千土云々、

  不覺從前大覺尊  照東方土破群昏

  篙師得力西來意  下載淸風月一痕

[やぶちゃん注:底本では題は改行せず一続きである。以上を底本の訓点を参考にしながら、私なりに書き下しておく。

   巨福山(こふくさん)建長寺に入りて、

   開山大覺禪師を西來院に拜す、

   經に曰く東方萬八千土を照らすと云々、

  不覺(ふかく) 從前(しようぜん) 大覺尊(だいがくそん)

  東方土を照らし 群昏(ぐんこん)を破る

  篙師(かうし) 力を得(う) 西來の意

  下載(あさい)の淸風 月一痕

「篙師」の「篙」は舟の棹(さお)で、船頭、水夫の意。蘭渓道隆大覚禅師の渡日と、仏国土への引導の意を掛けるか。

「下載の淸風」これは「碧巌録」に載る禅語、

 如今放擲西湖裏 下載淸風付與誰

  如今(じよこん)に放擲す 西湖の裏(うち) 下載(あさい)の淸風 誰(たれ)にか付與せん

に基づく。「安延山承福禅寺」公式サイトにある『今月の禅語 朝日カルチャー「禅語教室」より』の「下載清によれば、ロケーションは無論、杭州西湖。景勝西湖は水上輸送の要衝でもあったとされ、

   《引用開始》

たくさんの荷を積んだ船の船足は重く、ようやく船着き場にたどり着き、せかされるように休む間もなく荷をおろしにかかり、今やっと陸揚げを終えてた。一切の厄介なものを放擲してしまったようにすっきりした気分である。気がつくと西湖の船着き場には川風が吹き抜けてすがすがしい。任務は終わって、さぁあとは川の流れに任せ、帆をいっぱいに広げて下載(あさい)の清風にまかせて銭塘江を快適に下るだけだ。

 このすがすがしい解放感は何とも言いようがない。何の束縛もないこの爽快さ、湧き上がる喜びを誰に伝え、誰と分かち合おうか。

 だが、これだけは誰にも分け与えられるものではない。苦しみ喘ぎ、汗を流してきたものだけが味わうことができる喜びなのだ。

 因みに昔、中国では東南の風を上載といい、西北の風を下載といわれたと聞くが、また、荷物を積んで銭塘江を上がるを上載といい、荷物を下して江を下るを下載ともいわれるのだともいう。いづれにせよ荷を積み流れに逆らって船を走らせる苦労があればこそ、清風を受けて快適に下る心地よさがあるのだ。

 徳川家康の格言として知られる「人の一生は重荷を負うて 遠き道を行くがごとし」のように人は皆いろいろなことを背負って生きていることである。

 しかし、そんな俗界のしがらみも、迷いも囚われもすべて放擲してしまったときにこそ新しい人生、別天地が開けてくるらしいのだというのが、「下載の清風」の語の意図である。ところが、自らもそうだが、人様には無駄なもの余計なものは捨てなさいと言いながら、また拾って歩く自らがある。

 修行して悟りを得れば悟りにとらわれて、後生大事に持ち歩く御仁もおられる。下載の清風を感じられる人生でありたいものである。

   《引用終了》

と、丁寧な解がなされてある。]

沢庵宗彭「鎌倉巡禮記」 31

いく度もとて又々八幡宮に詣て、

  十かへりの木すゑをならす風の音に こゑをあはする鶴か岡の松

  吹千年綠鶴岡松  永翼蔽源家後蹤

  禱則感應如在扣  神宮寺裡一聲鐘

[やぶちゃん注:以上の漢詩を底本の訓点を参考にしながら、私なりに書き下しておく。

  千年の綠を吹く 鶴岡(つるがをか)の松

  永く源家の後蹤(こうしよう)を翼蔽(よくへい)す

  禱(いの)れば則ち感應して 扣(ひか)へに在るがごとし

  神宮寺裡(じり) 一聲の鐘

「扣」は「控」の意に同じい。]

2013/04/22

沢庵宗彭「鎌倉巡禮記」 30

九代の跡といふをみて、

  みてそけふおもひあはする麻はなく 心のまゝのあとの蓬生

新勅撰に入とやらん歌に、

  世中に麻はあとなく成にけり 心のまゝの蓬のみして

 とあるを今おもひ出てなり。又、

  麻はなく蓬とよみしことのはや わか世の後をかねていひけむ

同じき歌の心ばへ也。あれなる岡邊こそは文覺上人の遺跡なれと、あない賴し人の申せば、よそながらみて、

  かくといかてすむ世におもひ岡へなる 一むらすゝきあはれとそみる

  有文覺遺跡  只不見其人  遮眼霜餘草  斷根水上蘋

  懷今復懷古  觀世更觀身  四百年前事  于時感慨新

[やぶちゃん注:「九代の跡」幕府滅亡後に足利尊氏が北条高時の菩提を弔うために旧高時邸のあった場所に宝戒寺を建立したが、その宝戒寺自体か、若しくはそこにある北条得宗家九代に当たる高時を祀った祠である得宗権現社を指しているものと思われる。

「新勅撰に入とやらん歌に……」この和歌は文暦二(一二三五)年に完成した、十三代集最初の歌集「新勅撰和歌集」に「題しらず」で載る、北条泰時の和歌である。

 世の中に麻(あさ)はあとなくなりにけり心のままの蓬(よもぎ)のみして

――世の中には真っ直ぐに立って生える麻のように真っ直ぐな心の人はすっかりいなくなってしまったことだ……今や、心の恣ままに、捩じくれてしか生えぬ蓬のような輩ばかりとなって――

この歌は「荀子」の「勧学篇」にある、「蓬生麻中、不扶而自直。」(蓬も麻の中に生ずれば、扶(たす)けざるも直(なほ)し。)に基づくから、圧倒的多数の「蓬」化、愚鈍劣化を歎くのではなく、矯正指導が必要な「蓬」を正しく導き教導して呉れるはずの「麻」のような教師、自戒を十全に含んだ理想的君子が絶えたことを歎くことが主意である。

「文覺上人の遺跡」現在の金沢街道の鎌倉宮に向かう分岐の「岐れ路」を一〇〇メートル程金沢方向へ向かったところで右折、滑川を渡る大御堂橋の先の丘の下辺りを文覚屋敷と伝える。

「有文覺遺跡……」以下の漢詩を底本の訓点を参考にしながら、私なりに書き下しておく。

  文覺の遺跡有り

  只だ其の人を見ず

  眼を遮る 霜餘(さうよ)の草(さう) 

  根を斷つ 水上の蘋(ひん)

  今を懷ひ 復た古へを懷ひ

  世を觀じ 更に身を觀ず

  四百年前(ぜん)の事

  時に感慨 新たなり

「蘋」は浮草。]

沢庵宗彭「鎌倉巡禮記」 29

やつやつを見めぐるにこゝはたれそれがし、かしこはそのなにがしとかや、ふるきあとども限もなし。
  建久封疆多變寺  寺終廢壞又平蕪
  千旋萬化不留跡  昔日英雄骨又無
[やぶちゃん注:漢詩を底本の訓点を参考にしながら、私なりに書き下しておく。
  建久の封疆 多くは寺と變ず
  寺 終(つひ)に廢壞し 又 平蕪(へいぶ)
  千旋 萬化 跡を留めず
  昔日の英雄 骨 又 無し
「封疆」「ほうきやう(ほうきょう)」と読み、「封境」と同じい。国境のこと。]

耳嚢 巻之六 蜘蛛怪の事

 

 

 蜘蛛怪の事

 

 

 文化元子年、吟味方改役(あらためやく)西村鐡四郞、御用有之(これあり)、駿州原宿(はらしゆく)の本陣(ほんぢん)に止宿せしが、人少(すくな)にて廣き家に泊り、夜中與風(ふと)目覺(めざめ)て床の間の方を見やれば、鏡の小さきごとき光あるもの見へける故驚きて、次の間に臥しける若黨へ聲懸ぬれども、かれも起出(おきいで)しが、本間(ほんま)次の間とも燈火消(きえ)て、彼(かの)若徒(わかきと)も右光ものを見て大(おほい)に驚き、燈火など附(つけ)んと周章せし。右のもの音に、亭主も燈火を持出て、彼(かの)光りものを見しに、一尺にあまれる蜘(くも)にてぞありける。打寄りて打殺し、早々外へ掃出(はきいだ)しけるに、程なく湯どの一方にて恐敷(おそろしき)もの音せし故、かの處に至りて見れば、戶を打倒(うちたふ)して外へ出(いで)しようの樣子にて、貮寸四方程の蜘のからびたるありける。臥所(ふしど)へ出しも湯殿へ殘りしも、同物ならん、いかなる譯にやと語りぬ。 

 

□やぶちゃん注

 

○前項連関:本格動物怪異譚二連発。一見、「ウルトラQ」の「クモ男爵」張りの巨大グモが怪異のメインに見えるが――どっこい! 違うぜ!――本当の怪異は最後の小さな蜘蛛なのだよ。……そもそも、この蜘蛛はこんなに小さいのだ。……しかも、とっくに死んで干からびてるじゃないか。……それなのに何故、湯殿で激しく戸を破って外へ出ようとる音が生じたのか?……これは、殺された大蜘蛛の(多分、雄という設定だね)、その、とうに亡くなっていた連れ合いの雌の亡魂湯殿に籠っており、それが夫の死を察して、そこを脱して夫の魂のもとへと参ろうとした……その遺魂の断末魔の仕儀であったのだよ。……彼らは今頃、極楽の蓮(はちす)の蔭で、きっと仲睦まじく生きているに違いない……いや、犍陀多(かんだた)に御釈迦様が降ろした蜘蛛の糸はこの夫婦の蜘蛛の一匹だったに違いないさ……だってそうだろう? ワトソン君?……彼らは何も……悪いことなどしていないんだからねえ……

 

・「文化元子年」「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年八月。この巻は、後半になればなるほど、直近のクレジット附の記事が多いのが特徴である。

 

・「吟味方改役」勘定吟味役の下で勘定方の調べた公文書を再吟味する実質的な実務審理担当官。

 

・「西村鐡四郞」不詳。ここまでの「耳囊」には登場していない。

 

・「駿州原宿」東海道五十三次十三番目の宿場で現在の静岡県沼津市にあった。宿場として整備される以前は浮島原と呼ばれ、歴史的には木曾義仲討伐のために上洛する源義経が大規模な馬揃えを行ったことで知られる(ウィキの「原宿(東海道)」に拠る)。

 

・「本陣」街道の宿駅にあって大名・公家・幕府役人などが宿泊した公的な旅宿を指す。

 

・「一尺にあまれる」約三十センチメートルを超える、ということになり、初読者は一見、本邦産の蜘蛛では到底あり得ないと思いがちであるが、果たしてそうだろうか? このクモ、深夜に室内に出現している徘徊性の種であるから、間違いなく、普通に家庭にいる節足動物門鋏角亜門蛛形(クモ)綱クモ目アシダカグモ科アシダカグモ Heteropoda venatoria である。ウィキの「アシダカグモ」によれば、体長は♀で二~三センチメートル、♂では一~二・五センチメートルで、全長(足まで入れた長さ)は約一〇~一三センチメートルに達し、その足を広げた大きさはCD一枚分程度はあるとする(以上で分かるように、♂の方が♀よりも少し小さく、しかもやや細身で、触肢の先が膨らんでいる点で容易に区別が出来る)。『日本に生息する徘徊性のクモとしてはオオハシリグモ(南西諸島固有)に匹敵する最大級のクモで』、『全体にやや扁平で、長い歩脚を左右に大きく広げる。歩脚の配置はいわゆる横行性で、前三脚が前を向き、最後の一脚もあまり後ろを向いていない。歩脚の長さにはそれほど差がない。体色は灰褐色で、多少まだらの模様がある。また、雌では頭胸部の前縁、眼列の前に白い帯があり、雄では頭胸部の後半部分に黒っぽい斑紋がある』とある。この大きさは、驚愕した直後、しかも夜で、さればこそ叩き潰した後の大きさを言っていると考える方が自然であり、ぺしゃんこの状態から差し引くなら、実際の脚全長はせいぜい一〇数センチメートルから二〇センチメートルとすれば、上限だと確かに特異的な大型個体ながら、必ずしもあり得ない大きさではない。……何故、断言出来るんだって? 引用中に出るキシダグモ科オオハシリグモ Dolomedes orion の♀の生体の脚体長は一五センチメートルを超えるという採集コレクターの記載にあるし……それに何より……しばしば百足野郎が闖入して来、守宮(やもり)君がトイレの窓枠に何年も棲み込む私の家は、昔からこの足高蜘蛛殿の定宿でね……三十年ほど前の秋のこと、寝室で寝ていたら、顔が……右耳の辺りから……蟀谷(こめかみ)……反対側の左側の頰……顎の下辺りと……それが同時に……円形に引き攣ったことがあったんだよ。……はっと……ある直感が働いて起き直り、電燈を点けた。……すると……枕元に……脚長……有に私の掌を越える大きさのアシダカグモ Heteropoda venatoria が――いた。……驚愕とそれが私の顔面にいたという鮮やかな顔面皮膚感覚を思い出した時……私は反射的に枕でもってテッテ的に叩き潰していたのだ。……潰れたその「くだらない奴」は……実に完膚亡きまでに平たく平たく熨されて……軽く三〇センチメートルはあろうかと――「見えた」――からなんだよ!(無論、後に枕は容赦なく一緒に捨てたわい!)……ああ、もう!……思い出したくなかったのにぃ!……

 

・「貮寸四方」六センチメートル四方。ここで「四方」としているのは、寧ろ、前の「一尺」が同じく測定単位が「四方」、即ち大きく脚を広げた時の大きさ、すでに述べた通り、若しくは叩き潰し殺したシイカ状態のそれであることを意味する、と私は読む。さすれば、普通のアシダカグモ Heteropoda venatoria の、普通の成虫(それも必ずしも大きくない♀か、それより小型の♂)ということになり、この数字は如何にも普通にリアルである。しかし、小さ過ぎて、話柄の展開とうまく合わない。

 

・「蜘のからびたるありける」これはとうに死んだアシダカグモの死骸、もしくは脱皮片と思われる。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 蜘蛛の怪の事

 

 文化元年子年(ねどし)のことである。

 吟味方改役(あらためやく)西村鉄四郎殿、御用の筋、これあって、駿河国原宿(はらしゅく)の本陣(ほんじん)に止宿致いた。

 

 その日は本陣を用いるような他の客もなく、西村殿同道の配下の者も小人数(こにんず)なれば、これ、その、だだっ広い屋敷に、彼らだけで泊ることと相い成って御座った。

 

 その夜中、西村殿、何か妙な気配に、ふと目覚め、上半身を起こして、何気なく床の間の方(かた)を見やったところが、これ、小さな鏡ほどの丸い光りあるものが、これ、、見えたによって、吃驚仰天、次の間に臥して御座った若党へ、

 

「……お、おいッ!……」

 

と声を掛けた。

 

 その声に、若党も起き出だいては参ったものの、西村殿のおる本間も、その若党のおった次の間も、これ、ともに何故か燈火がとっくに消えて御座ったゆえ、その若侍も、目の当たりに皓々たるその光り物を見てしもうた。

 

 されば、これまた、おっ魂消(たまげ)て、

 

「……とっ、と、燈火(ともしび)、な、な、なんどど、つつ、つ、点けま、ましょうぞ……」

 

と闇の中でばたばたと慌てまわり、あちこちにぶつかっては五月蠅く物音を立てた。

 

 されば、その物音に、亭主も燈火をうち持って寝所より走り出で、やっと、その明りでかの光り物を照らし見た。……

 

――と――

 

それは……

 

一尺にも余る驚くべき大蜘蛛――

 

にて御座ったと申す。

 

 余りの異形(いぎょう)なれば、皆して打ち寄って叩っ殺し、早々に外へと掃き出させた。

 

――と――

 

ほどのう……今度は、奥の湯殿の方(かた)にて、

 

ド、ド、ドン! バン! バ、バン!

 

と、何やらん、恐しく大きなる物音が致いたゆえ、また皆して、その湯殿へと馳せ参じて、戸を開けて見たところが、

 

湯殿の内から締め切って御座った戸を打ち倒して、何とかして外へ出でんとせし様子の……

 

二寸四方ばかりの大きさの干からびた蜘蛛――

 

……その……とうに干からびて死んだ骸(むくろ)が……湯殿の内側に横たわって御座ったのであった。…… 

 

「……さても……この臥所(ふしど)へ出でた大きなる物も、この、とうに死んで湯殿へ残っておった物も、これ、同じき物の怪ででもあったものか……一体、どういう訳なのか、……今一つ、我ら、分かりませなんだ……」

 

とは、西村鉄四郎殿の直話で御座った。

初夏の印象 萩原朔太郎 (「純情小曲集」版)

 初夏の印象

昆蟲の血のながれしみ
ものみな精液をつくすにより
この地上はあかるくして
女の白き指よりして
金貨はわが手にすべり落つ。
時しも五月のはじめつかた。
幼樹は街路に泳ぎいで
ぴよぴよと芽生は萌えづるぞ。
みよ風景はいみじくながれきたり
青空にくつきりと浮びあがりて
ひとびとのかげをしんにあきらかに映像す。

[やぶちゃん注:ヴィジュアル的には初出よりも遙かに先鋭的に透徹した――が――朗読するにはたるんだと言わざるを得ない。最早、この沈鬱へと沈潜する二次元の影となってしまった人々は、朗誦を拒絶しているのである。]

初夏景物 萩原朔太郎 (「初夏の印象」初出形)

 

 初夏景物

 

昆蟲の血の流れしみ、
ものみな精液をつくすにより、
この地上はあかるく、
女(おんな)の白き指よりして、
金貨はわが手にすべり落つ。
時しも五月のはじめつかた、
幼樹は街路に泳ぎいで、
ぴよぴよと芽生は萌えづるぞ。
みよ風景はいみじく流れきたり、
靑空にくつきりと浮びあがりて、
われひとゝ、
あきらかにしんに交歡す。

 

[やぶちゃん注:『創作』第四巻第六号・大正三(一九一四)年六月号掲載された。十一年後の「純情小曲集」(大正一四(一九二五)年八月新潮社刊)に「初夏の印象」と題を変えて所収されたものの初出である。「おんな」のルビはママ。なお、この詩は底本第二巻に所収する「習作集(哀憐詩篇ノート)」(「習作集第八巻」「習作集第九巻」と題されて残された自筆ノート分)の「習作集第八巻(一九一四、四)」に以下の標題(但し、この副題と添えた一節のように見えるものは、編者によって本「五月上旬」という本詩を更に「初夏景物」という題で同じ原稿の詩の下に改稿しようとしたものの中絶した三行と推定されるという主旨の補注がある。妥当であろう)と詩形・クレジットで所収している。

   *

 

 五月上旬   初夏景物

      昆蟲白き血の流れしみ

      ものみな精液をつくすにより

      地上はあかるく精

 

昆蟲の白き血の

精液の地上に流れしみ

地上はみなあかるく

おみなの白き指よりし

金貨はわが手にすべり落つ、

時しも五月のはじめつかた

幼樹は街路に泳ぎいで

ぴよぴよと芽生は光るぞ(萌えづるぞ)

靑空にくつきりと浮び■■あがりて、

我れひとゝ、しんにあきらかに交歡なす、

            (一九一四、四、一一)

   *

「おみな」はママ。抹消された「光るぞ」の後の「(萌えづるぞ)」の丸括弧は朔太郎自身による。「■■」は二字末梢で原字の判読不能であることを示した。

 私はこちらのポジティヴな総天然色のリアルなコーダこそがこの詩の本当の詩想だったと思う。しかし……朔太郎は詩集に採録するに際して、もしかすると……もうその時には、朔太郎の心の映像としての、そのクライマックス・シーンは……既にして悲劇的で突き放した絶対の孤独のモノクロームのそれに……最早、すっかり色あせて変色していたのだ……とも言えるのかも知れない。いや……こんな私の評なんぞ、ちゃんちゃらおかしい……だって……かく書いている私だって……私の十一年前の私自身の記事の感懐を……これ、最早、まるで理解出来なくなっていることがあるのだから……]

白い髯をはやした蟹 大手拓次

 白い髯をはやした蟹

 

おまへはね、しろいひげをはやした蟹だよ、

なりが大きくつて、のさのさとよこばひをする。

幻影をしまつておくうねりまがつた迷宮のきざはしのまへに、

何年(なんねん)といふことなくねころんでゐる。

さまざまな行列や旗じるしがお前のまへをとほつていつたけれど、

そんなものには眼もくれないで、

おまへは自分ひとりの夢をむさぼりくつてゐる。

ふかい哄笑がおまへの全身をひたして、

それがだんだんしづんでゆき、

地軸のひとつの端(はし)にふれたとき、

むらさきの光をはなつ太陽が世界いちめんにひろがつた。

けれどもおまへはおなじやうにふくろふの羽ばたく晝(ひる)にかくれて、

なまけくさつた手で風琴をひいてゐる。

鬼城句集 春之部 菜の花

菜の花  種菜咲いて風なき國となりにけり

     菜の花の夜明の月に馬上かな

2013/04/21

ジャヌビア服用開始

空腹時血糖が145になったため、昨日より遂に、国内初の糖尿病治療薬選択的DPP-4阻害剤ジャヌビア錠(以上のリンク先は教え子の薬剤師が教えてくれた公式の認可薬方データのPDFファイル)の服用を始めた。昨日昼食後に一錠飲んだのだが、今朝は何故か10時頃まで眼が醒めなかった。なかなかに強烈な藥なのかも知れないな。――

DPP-4阻害剤ジャヌビア錠
http://allabout.co.jp/gm/gc/302364/

他の医療関連記載を見ると、どうも血糖値コントロール効果以外に、瓢箪から駒の不眠改善効果があるらしい……。

――眠りは死よりも愉快である。少くとも容易には違ひあるまい。(芥川龍之介「侏儒の言葉」終章)――

どうもこの「ジャヌビア」という響きが何とも素敵に気になった。気に合った――というべきか――而してここで発見――

「気に合った」理由が分かったよ……ジャニュアリーだ!……僕の好きなヤヌス神、両面宿儺じゃないか!……僕は、かのジャニュアリー神の守護する2月生まれだしな……

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明恵上人夢記 6

 建久七年八月、九月

一、夢に、金色の大孔雀王(だいくじやくわう)有り。二翅あり。其の身量、人身(にんじん)より大きなり。其の頭・尾、倶(とも)に雜(くさぐさ)の寶・瓔路(やうらく)を以て莊嚴(しやうごん)せり。遍身より香氣薰り滿ちて、世界に遍(あまね)し。二つの鳥、各(おのおの)、空中を遊戲飛行(ゆけひぎやう)す。瓔珞の中より微妙の大音聲(だいおんじやう)を出(いだ)し、世界に遍し。其の音聲にて、偈(げ)を説きて曰はく、「八万四千の法、對治門(たいぢもん)、皆是(みなこれ)、釋尊所説の妙法なり。」人有り、告げて曰はく、「此の鳥、常に靈鷲山(りやうじゆせん)に住み、深く無上の大乘を愛樂(あいげう)して世法(せほふ)の染著(せんちやく)を遠離(をんり)す」と云々。鳥、此の偈を説き已(をは)りし時、成辨の手に二卷の經を持つ。一卷の外題には佛眼如來(ぶつげんによらい)と書き、一卷の外題には釋迦如來と書けり。是は、彼(か)の孔雀より此の經を得たる也と思ふ。成辨、此の偈を聞く時、歡喜(くわんぎ)の心、熾盛(しじやう)也。即ち、「南無釋迦如來、南無佛眼如來」と唱へて、涙を流し感悦す。即ち二卷の經を持ちて歡喜す。夢、覺め已(をは)るに、枕の下に涙湛(たた)へりと云々。

 

[やぶちゃん注「建久七年八月、九月」このクレジット(建久七年は西暦一一九六年)は一応、「八月から九月に見た夢」の意で採る。即ち、これに続く夢記述があったがそれは現存しない(若しくは切り離されて他に移ったか、移して散逸した)と採る、ということである(実際、底本ではこのクレジットの後はこの夢一つきりで、前後にアスタリスクが附されている)。但し、本夢が明恵にとっては、この夢は生涯的にも非常に重要な夢であったと判断する私としては、実は八月及び九月に、明恵が二度か複数回、繰り返し見た夢であった可能性をも射程に入れてよいのかも知れないとも思っている。ただ、その場合(複数回の夢の場合)、この夢記述は、何度かの類似夢を意識的に再構成してしまった意識的操作夢ということにも成りかねないので、仮定に留めておく。訳では読者の違和感を排除するために、「建久七年八月か、九月の夢。」としておいた。「大孔雀王」大孔雀明王。ウィキの「孔雀明王」によれば、元来はインドの女神マハーマーユーリーで、パーンチャ・ラクシャー(五守護女神)の一柱。マハーマーユーリーは「偉大な孔雀」の意で、摩訶摩瑜利(まかまゆり)・孔雀仏母・孔雀王母菩薩・金色孔雀王とも呼ばれ、憤怒の相が特徴である明王のなかで唯一、慈悲を表した菩薩形を持つ(中の二つの呼称の母性性や慈悲菩薩相に着目したい)。孔雀の上に乗り、一面四臂の姿で表されることが多い。四本の手にはそれぞれ倶縁果・吉祥果・蓮華・孔雀の尾を持つ(なお、京都仁和寺の北宋期の画像のように三面六臂に表された像もある)。『孔雀は害虫やコブラなどの毒蛇を食べることから孔雀明王は「人々の災厄や苦痛を取り除く功徳」があるとされ信仰の対象となった。後年になると孔雀明王は毒を持つ生物を食べる=人間の煩悩の象徴である三毒(貪り・嗔り・痴行)を喰らって仏道に成就せしめる功徳がある仏という解釈が一般的になり、魔を喰らうことから大護摩に際して除魔法に孔雀明王の真言を唱える宗派も多い。また雨を予知する能力があるとされ祈雨法(雨乞い)にも用いられた』。また、伝奇小説の類いによって、この名は孔雀明王を本尊とした密教呪法である孔雀経法の方で知られており、それは歴史的にも真言密教のおどおどろしい『鎮護国家の大法と』された強力な呪法として認知されているとも言えるように思われる。また、ウィキには渡辺照宏「不動明王」(朝日新聞出版一九九一年刊)に、本明王について記す「仏母大孔雀明王経」の「仏母」+「明王」とは「明妃」(ヴィヤー・ラージニー 明王の女性形)の別訳であって、本来は陀羅尼(ダーラニー 女性名詞)であったという記載がある。これも非常に興味深い。

 ここで私が、本夢が明恵にとって重要な意味を持っていたと推定するのは、その夢内容の深い仏教的象徴性や、夢を見ている最中(若しくはその覚醒直前)に、睡眠中に明恵が感極まって実際に多量の涙を流しているという事実(末尾参照)にあるばかりではなく、この「建久七年」という時間が明恵という生の時間軸にあって極めてエポック・メーキングな瞬間とシンクロしているからである。

 即ち、この年、明恵は白上にあって自らの右耳を削ぎ落し、『自己去勢』(読者のフロイト的な単純解釈を避けるため意識的に今まで用いることを敢えて避けて来たが、これは「明惠 夢に生きる」の中で、誰あろうユング派である河合隼雄氏自身が実際に用いておられる表現である)を遂げた年であるからである。但し、この夢は「栂尾明恵上人伝記」には現われない。また、耳を削いだのが、この年の何時のことであったかは明らかになってはいない。しかし、翌日本「1」酷似文殊菩薩顕現、及び、更にその直近と思わる後日る、菩薩五十二位直喩って最上位妙覚辿り着人是を知らず。今は歸りて語らんと思ひ、又逆次に次第に踏みて十信最初信位の石の處に至つて、諸人に語るいう――これは美事なまでの往相廻向(自分の善行功徳を他者に廻らし、他者の功徳としてともに浄土に往生すること)から還相廻向(阿弥陀の本願に基づき、一度、極楽浄土へ往生したも者が、再び、衆生を救うためにこの現世に帰還すること)へと至る弥陀の本願力の再現夢である――等と並べて本夢を考える時、これは明らかに耳自截直前か直後の、いや、はっきり言うならば、本夢のふっきれたような覚悟自覚やこの上ない至福感から、確かに自截後の明恵の見た夢であると信じて疑わないのである。

「二翅あり」これは「二羽」の意である。即ち、この夢に出現した大孔雀明王は一面四臂の奇異を感じさせる異形の人形(ひとがた)でも、孔雀の上に乗っているのでもなく、金色の鳥としての「孔雀」明王であり、それはまさに叙述から窺えるようにハレーションを起こさせるような、燃え盛る熾天使(セラフィム)のような、所謂、黄金に輝くように見えるところの「火の鳥」として出現するという点に着目すべきである。

「瓔路」本来はインドにおける装身具としての珠玉を連ねた首飾りや腕輪であるが、仏教では仏像を荘厳(しょうごん)するための飾りを指す。

「對治門」煩悩を退治絶滅する法門。

「靈鷲山」インドのビハール州のほぼ中央に位置するチャタ山。釈迦がここで「無量寿経」や「法華経」を説いたとされる。

「佛眼如來」仏眼仏母(ぶつげんぶつも)。明恵にとっては大日如来のことを指すと考えてよいが、明恵の意識の中で最重要の存在でもあるので、以下、ウィキの「仏眼仏母」より引用しておく。梵名ブッダローチャニー、別に眼仏母とも呼ばれる。仏教でも『特に密教で崇められる仏の一尊。真理を見つめる眼を神格化したものである。なお、所依の経典によって、大日如来所変、釈迦如来所変、金剛薩埵所変の三種類の仏眼仏母が説かれる』。『その姿は、日本では一般に装身具を身に着けた菩薩形で、喜悦微笑して法界定印の印相をとる姿に表される』。『人は真理を見つめて世の理を悟り、仏即ち「目覚めた者」となる。これを「真理を見つめる眼が仏を産む」更に「人に真理を見せて仏として生まれ変わらせる宇宙の神性」という様に擬人化して考え、仏母即ち「仏の母」としての仏眼信仰に発展した』。また、「大日経疏」では、『「諸々の仏が人々を観察し、彼らを救うために最も相応しい姿を表す」という大乗仏教の下化衆生思想に基づく解釈も行われている』。『密教においては「目を開いて仏として生まれ変わらせる」その役割から、仏像の開眼儀式でその真言が唱えられる』。『また、仏眼仏母は胎蔵界大日如来が金剛界月輪三昧という深い瞑想の境地に至った姿ととも解釈され、一字金輪仏頂とは表裏一体の関係にあるとされる。例えば、一字金輪仏頂がその輪宝で悪神を折伏するとすれば、仏眼仏母は悪神を摂受によって教え導くという。 そのため仏眼仏母の曼荼羅には必ず一字金輪仏頂も描かれ、一字金輪仏頂曼荼羅にも必ず仏眼仏母が描かれる』とある。この如来に強い母性性が前面に押し出されていることに着目したい。]

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 建久七年八月か、九月の夢。

一、夢。

 

「金色の大孔雀王(だいくじゃくおう)が顕われた。二羽の鳥であった。そのそれぞれの鳥の身の丈けは、人のそれよりも遙かに大きなものであった。その頭部と長く曳いた尾羽根は、二羽ともに、様々な七宝や瓔珞を以って荘厳(しょうごん)されていた。全身からえも言われぬかぐわしい香気が滲み出して薫り、その香りが、この衆生の存在する世界に遍く満ちているのである。二羽の鳥は、それぞれ、空中を天衣無縫自由自在に飛翔している。その身に下がった無数の瓔珞同士がぶつかり、共鳴し合っては、何とも表現のしようがない、とてつもなく大きな響き――但し、決して五月蠅い音ではなく、不思議な玄妙な大きさなのであるが――を発し、それがまたしても、この衆生の世界に遍く満ちているのである。そうしてその音声(おんじょう)が、そのまま何時の間にか、偈(げ)となっているのであった。その偈の説くところは「――八万四千のあらゆる、無数の仏法、そして、煩悩を滅する法門は、皆これ、釈尊のお説き遊ばされた妙法である。――」……

……そこに一人の人が現われる。そうして告げて言うことに、

「――この鳥は、常に霊鷲山(りょうじゅせん)に棲み、深く無上の大乗の教えを心から願い求めて、俗世の相対的でしかない愚かな掟(おきて)が、その心に穢く染み着くことから遠かに離れているのである。――」

と。……

……さて、この鳥が、この偈を説き終えた、その時、私成弁の手は二巻の経を持っていた。その一つの巻の表の経名には「仏眼如來(ぶつげんにょらい)」と書かれてあって、今一巻のそれには「釈迦如来」と書かれてあった。この瞬間、夢の中の私は、

『――かの孔雀明王より、私はこの二巻の経文を得たのだ!』

と思った。……

――因みに、私成弁は、この明王の妙なる偈を聴聞したその一刹那、歓喜(かんぎ)の心が、これ、いやさかに熾烈、盛んに燃え起こったのだ!――

……そこで私は即座に、

「南無釈迦如来! 南無仏眼如来!」

と唱えて、涙を滂沱と流し、深い幸福感とともに感じ入って喜悦した。そうして、私の堅持する二巻の経文を握って、心から歓喜した。――」

 

 夢が大団円となり、即座に醒めたが、その際、枕の下がぐっしょりと涙で濡れていたことを、今もはっきりと覚えている。

[やぶちゃん補注:本夢については河合隼雄「明惠 夢に生きる」の一三四頁に高山寺蔵の当該自筆稿が写真で所載されているが、原文は漢文体の概ね白文であるが、一部に右寄りの小さな送仮名及び字間右傍注の字(「已」)が見られる。まずは、それを可能な限り、一行字数及び字配も含めて以下に復元してみたい。崩し方が現在の新字に酷似するものはそれを採り、私が視認で判読出来ないものは■で示した。□は紙自体の欠損部と思われるところで、辛うじて「夢」と思しい字の右上方角部分が覗けるだけであって、「夢」と視認で判読出来る訳ではない(前後から「夢」の推定は出来る)。他の行との比較から言えば、その字の下に字がないとは言えず、寧ろ、例えば「ヨリ」の右寄り字等がある可能性さえ窺えるように私は思う。

 

建久七年八月 九月

 

一 有夢金之大孔雀王二翅其身量

 

 大於人身其頭尾倶以雜寶■■莊

 

 嚴從遍身香氣薰滿遍世界二鳥各

 

 遊戲飛行於空中自■■中出微妙

 

 大音聲遍世界其音聲而説偈曰

 

 八万四千法對治門皆是釋尊 所説妙法

 

 有人告曰此鳥常住靈鷲山深愛樂無

 

 上大乘遠離世法染著云々鳥説此偈

 

 成弁之手持二卷經一卷外題ニハ佛眼

 

 如來トカキ一卷之外題ニハ尺迦如來トカケリ

 

 是從彼孔雀仍此經得也思成弁

 

 此偈聞時、歡㐂心熾盛也即南無

 

 尺迦如來南無佛眼如來

 

 感悦即二卷乃經歡㐂夢□

 

 覺已枕下涙湛ヘリ云々。

この自筆画像は機会があれば河合氏の当該書で是非見て頂きたいが、明恵が記すうち、いやさかに魂が昂揚してゆくさまが手に取るように分る素敵な書である。なお、河合氏も同書一三六頁の分析の中でそのように指摘されておられる。
 河合氏はもとより、河合氏の当該書からの孫引きとなるが、この夢を自著で紹介される際、上田三四二(みよじ 大正一二(一九二三)年~平成元(一九八九)年:内科医にして歌人・小説家・文芸評論家。引用は「この世この生」(新潮社一九八四年刊)より)の、『時空を越えて明恵の身体になだれ込む夢のうち、もっとも華麗と思われるものを引く。彼はそこにおいて天竺と釈迦を一身のいま、一身のここにおいて享け、一身の透明な壺は歓喜の涙を溢れさせる』という絶妙な引用をもなさっておられる。この夢を明恵になりきって読む人は、私はまさにそうした疑似体験が可能であるとさえ思うのである。  

 まずこの夢の最初の特異点は、人身でない、ガルーダのような人面鳥身でさえない、孔雀明王の形象の至上の美しさにある。ここで我々は実際の孔雀、更にはかの手塚治虫先生の「火の鳥」のそれをイメージして、最も相応しいと言ってよい。しかし、しかも、それが孔雀仏母と別称される孔雀明王であると知った瞬間、私にはその鳥の顔の面影の中に、ふっと――私の亡き母の面影が漂ったことを告白する。これは諸星大二郎の「感情のある風景」のエンディングの、あの悲しく切なく美しい「愛」の形象図形の中にふっと浮かび出る、主人公の亡き母の面影のようなものであった、とも表現したい印象である(私の芥川龍之介「杜子春」と諸星のSFコミック作品「感情のある風景」とを比較した立ち尽くす少年 ――諸星大二郎「感情のある風景」小論を参照)。
 

 次の特異点は河合氏も真っ先に記しておられるが、「香氣薰り滿ちて、世界に遍し」という、極めて稀な嗅覚夢である点である。河合氏はこの明恵の嗅覚夢体験記述を以って、『この点でも彼の特異な能力が認められる。おそらくは彼の夢体験は一般の人に比して、はるかに現実性をそなえたものであったのだろう』と記しておられる。因みに、私は十九の時から三十年間に亙って夢記述をしてきたが、明白な臭気のする夢は、確かにそれほど多くはない(但し、一般人に比すと恐らくは有意に多い)。ただ、それらの殆んどは、堪えがたい食用油を熱した臭いが部屋に充満する夢(三十二歳の結婚直前、現在の妻のアパートに酔って転がり込んだ折りに見た夢で、これは今でも想起出来るほどに――これは今、一切の夢記録を見ずに書いている――頗る強烈な臭気記憶がある)であったり、昔の溜便所の臭い(私は結婚するまで長く家が文化式のそれであったことと、私自身が過敏性腸症候群―Irritable Bowel SyndromeIBS―であるために排泄不安に対する強いフォビアがあり、トイレの夢――それは概ね溢れていたり、詰まったりしていることが殆んどである――はしばしば見るのである。折角の荘厳な夢の補注にクサい話で恐縮ではあるが)といった、ちっとも有り難くない臭いの嗅覚夢ばかりなのであるが(嗅覚夢と、このフロイトなら即、肛門期固着と言い立てそうなトイレ夢については、いつか必ず、これとは別に夢」の中で分析してみたいと思っている。因みに、リンク先は私のブログの夢記述カテゴリである)。
 河合氏は以下、孔雀のシンボルについてローマでの神格化、アルケミーに於ける全体性などを挙げあられた上、先に注で示した「仏母大孔雀明王経」の毒蛇に咬まれた若き僧が仏母大孔雀明王陀羅尼を誦すことで救われた話を引き、孔雀と蛇――空を飛ぶものと地を這うもの――前者の有意性から、この夢の『精神性の強調』と、その『ひとつの勝利がもたらされたことを告げている』とされる。
 また、「二」羽の孔雀、「二」巻の経に着目されて、明恵の夢にしばしば登場する「二」という数の主題こそが『明恵の人生に生じた、実に多くの二元性』を表象するものとされ、私もたびたび指摘したように、明恵が仏眼を母として尊崇した事実に対し、明恵は実は『釈迦には父のイメージをもっていたようである』と推定、その名を記した二巻の経を両手に持っている明恵は、ここで『父性と母性という二元的な態度を共に一手に受けているのであ』り、『人間の心の二元性が明恵という存在に統一されている、と見ることができ』、明恵はその人生に於いて、多様な彼を取り巻く二元論的対象のいずれか一方に『偏重することなく、また二元論的割り切りを行なうのでもなく、強い葛藤をわが身に引き受け、そこに何らかの統一を見出そうとして努力してきた』、『二元論的対立のなかに身をおくことによって、その緊張によって明恵は心身を鍛えられたのである』と本夢の分析を終えておられる。正統なユング派の、実に典型的に前向きなポジティブな夢分析であるが(私はフロイトとの両極で、ユングのこうした「生きる魂の力」としての、健全で明るい解釈に対しても、実は今はある種の胡散臭さを感じている)、明恵というストイックで特異な人物の見た夢としての――謂わば作家論的解釈としては――ほぼ肯んずることが出来る。――といより――誰よりも明恵自身が、この河合氏の解釈を聴けば、必ずや――その通り!――と答えることはほぼ疑いがないと言える――ということである。]

 

沢庵宗彭「鎌倉巡禮記」 28

いにしへ阿佛此里にくだり、月影のやつにかりのやどりして居給ふ跡と聞て、

  その身こそ露ときへてもなきたまや 今もすむらん月かけのやつ

かくて爲相もくだり給ひて、もろともに爰にてなく成給ひぬとか。爲相の石塔とて慈恩寺の上の山にあり。名のたむけに、

 石の碑はたか後の世のためすけと とふこそくちぬその名なりけれ

[やぶちゃん注:「慈恩寺」は鎌倉の廃寺としてあるが、これは浄光明寺の誤り。]

耳嚢 巻之六 鄙僧に遺德ある事

 鄙僧に遺德ある事

 

 新御番(しんごばん)を勤(つとめ)し杉(すぎ)市右衞門といへるは、予若き時、近隣なりし故、昵(むつ)びし事もありき。彼(かの)市右衞門方に月見の夜、座敷の内に瓜の種交りし糞やうのものありしを、穢らはしき事とて侍女抔に命じ拭ひ捨(すて)んとせしに、段々先へ同樣にふへ、二三疊も同じく穢れける故、いかなる事にやと、いづれも奇成(きなる)を恐れけれど、兎角其後は格別の事はなかりしが、時々奇事(きじ)のみありし故、山伏抔招きて祈禱せしに、釋杖を奪(うばひ)とり、或は珠數(じゆず)すりきりなどせし故、山伏も面目を失ひて立歸りぬ。如何せんと思ひし内、或知人、本郷邊の裏店(うらだな)にかすかに住(すめ)る僧をつれ來りて祈禱を賴(たのみ)けるに、是は年古(としふる)狐なり、祈禱すべしとて暫く祈りしに、其(その)怪止みけるが、此(この)狐捨置(すておか)ば又害をやなさんとて、鎭守の稻荷の賽錢箱を取寄(とりよせ)、是へ封じ込(こむ)べしとて、何か暫く念じ、最早氣遣ひなし、猥(みだり)に此箱のふたを、暫くは取給ふなと云て歸りし故、主(あるじ)も嬉しき事に思ひて厚く禮を述(のべ)て、目錄やうのものとりもたせて、彼(かの)裏借屋(うらしやくや)をからうじて尋(たづね)當りしに、禮謝過分のよしにて不請(うけず)ありけるゆゑ、またまた手をかへて禮謝に至りしが、遠國へ廻國に出しとて其店(そのたな)にもあらざりし。其後尋(たづね)とへども、行衞しれずと也。無欲德行の聖(ひじり)にてありしや。かゝる德あるもの故、數年を經し妖獸も退散せしならん。年たちて彼(かの)賽錢箱の内に、狐骨(ここつ)などあるならんとひらき見しに、何もなく、たゞ白き毛夥敷(おびただしく)ありしと、杉氏の一類かたりぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:妖狐譚連関。

・「新御番」江戸城内に交替で勤め、将軍出行の際の先駆けなどの前衛の警護に当たった。近習番。新番。岩波版歯長谷川氏注には『平常は土圭(とけい)の間の衛所に詰める』とある「土圭の間」江戸城内の時計を置いた部屋で、坊主が勤務して時報の任に当たった。但し、平凡社「世界大百科事典」の「新番」の記載には、土圭間番(とけいのまばん)も別称というが、本来は別個のものといえようか、とある。

・「杉市右衞門」底本の鈴木氏注によれば、杉茸陣(すぎしげのぶ 正徳三(一七一三)年~寛政元(一七八九)年)とする。元文三(一七三八)年大盤、寛延二(一七四九)年に新番に移動、明和二(一七六五)年に同番を辞し、同四年致仕。但し、根岸と年配が同じなのは、むしろ養子の鎭喬(しずたか)であるが、大番で終始し、新番は勤めていないので該当しない、と注されておられる。根岸の生年は元文二(一七三七)年で茸陣とは二十四歳年上であるが、鎭衞が根岸家の家督を継いで二十一歳で勘定所御勘定となったのが宝暦八(一七五八)年のことで、その時、茸陣は既に四十六歳で新番であった。近所に住む有望なる若衆として、根岸のことを特に目をかけていた、ということででもあろう。されば、非常に珍しい青年時代の根岸の姿が冒頭にちらりと登場することになる。なお、茸陣が没したのは根岸が勘定奉行の時で、その翌年、南町奉行に就任している。「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年八月であるから、それから十五年が経過しており、しかも根岸はこの執筆時は六十四になっている青春を回想したくなる齢(よわい)である……自分を可愛がって呉れた亡き先輩への追想……自身の若き日の思い出……「稲生物怪録」張りの室内の怪異……呪法が効かず翻弄される修験者……如何にもしょぼくれた僧によって、しかし、匣(はこ)に封じ込まれてしまう妖狐……一切の謝礼を断って霞の彼方へ去ってゆく、その行脚僧……匣の蓋を開いて見れば……ぎゅうっと詰まった白狐の累々たる毛……実に良質の綺談というべきであろう。私は頗る好きである。

・「瓜の種」底本は「瓜の積」。「瓜の種」でないと意味が通らない。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版も「瓜の種」であるので、補正した。

・「裏店にかすかに」この「かすかに」(幽・微かに)は、その町屋の長屋にあって、生活ぶりなどが弱々しく、細々として、具体に貧しいという謂いに加えて、人目につかず、ひっそりと暮らしている、さまをも言っているように思われる。

・「彼裏借屋をからうじて」底本では右に『(尊經閣本「彼裏店へをくりからうじて」)』と補注する。補注の文も参考にしつつ、訳した。

・「目錄」進物をする際、実物の代わりに、同時に若しくは事前に、その品目を記したものを贈るもの。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 貧僧にも後世に残るような人徳のある事

 

 新御番(しんごばん)を勤めておられた杉(すぎ)市右衛門茸陣(しげのぶ)殿と申さるる御方は、私が若き日、近隣にお住まいで御座ったゆえ、頗る昵懇にさせて頂いたことのある御仁で御座る。

 かの市右衛門方にて、その昔、月見を催された夜のことである。

 ふと見ると、座敷の内に、瓜の種が交った獣の糞(くそ)のようなものが、これ、べっとりと落ちておった。

 市右衛門殿、それを見て、

『……何かは分からぬが……何ともはや、汚いものじゃ……侍女などに命じて拭ひ捨てさせねば……』

と思うた。

 ところが……そう思うた傍から……そのおぞましいねばついたものが……これ……だんだんにじわじわと……市衛門殿の現に見て御座る座敷内の……その……先へ先へと……みるみる同じように増えてゆき……瞬く間に、その泥ついて白きものを交えた粘体(ねんたい)……これ、畳二、三畳分にまで広がって……同じように、見るもえげつなきほどに穢れ広がってゆく。

「……こ、これは……一体?……何じゃ?……」

と、その正体不明のどろどろの気持ちの悪いそのもの自体も、また、それが見る見るうちに畳何畳分にも広がるという奇怪(きっかい)なる現象も、これ、いずも妖なることなればこそ、家内の者どもも皆、すこぶる恐れ戦いたと申す。

 まあ、ともかくも、その後(のち)は格別、大きなる変事は御座らなんだものの、それでも時々、何気ないことながらも、後で考えると如何にも奇なることのみがやはりしばしば御座った。

 さればこそ、山伏なんどを招いて、悪霊退散の祈禱など、させてみた。

 ところが、いざ、山伏が祈禱を始める、その傍から、

――山伏の錫杖が、これ、目に見えぬ何者かに奪い取られ、空(くう)を切って、庭や隣りの部屋へと落ちるわ……

――祈禱に使う数珠が突然、

パチン!

と音を立てたかと思うと、丈夫な紐が、これ、擦り切れ、部屋中に

パチ! パチ! パチ! パチ!

と数珠玉が飛び散るわ……

という始末。

 山伏も面目(めんぼく)を失(うしの)うて、ほうほうの体(てい)で逃げ帰って御座った。

 かくなる上は、如何(いかが)致いたらよいものかと、市右衛門殿も思案に暮れた。

 と――ある市右衛門殿の知人が、本郷辺りの裏店(うらだな)に如何にも貧しく住みなしておると申す僧――

……これ、見た目、如何にもしょぼくれており、凡そ、頼りになりそうには見えなんだが……いや、これ、何でも、その手の怪異の呪法を施させれば天下一と、知人は申して御座ったが……

――を連れて参ったゆえ、藁にも縋る思いで祈禱を頼んで御座った。

 貧僧は、まず、少しばかり静かに瞑想致いて、屋敷内の何かを探っておる様子であったが、ぱっと目を開くと、

「――これは――年古る狐の仕業で御座る。――祈禱致しましょうぞ。――」

と、暫くの間、日参致いては、祈りを続けた。

 すると、その僧の参った日より、あの数多の怪異、これ、ぴたりと止んだ。

 最後の日、参った僧は、しかし、

「――この狐――捨て置くならば、これまた、害をなさぬとも言い難きものなれば……そうさ――この辺りの鎮守の稲荷の賽銭箱を、一つ、取り寄せて下さらぬか?」

と申したによって、下男の者を呼んで、即座に賽銭箱の新しきもの作らせると、近くに稲荷に御座った賽銭箱と替えて持って来させた。

 すると僧は、

「――如何にも――これでよろしゅう御座る。――この内へ、かの妖狐を封じ込んでしまいましょうぞ。」

と、何事か暫く念じたかと思うと、

「――さても、最早、気遣い御無用。――但し、濫りにこの賽銭箱の蓋を――まあ、暫くの間は――お開けなされぬように――」

と告げたかと思うと、そのままふらっと帰ってしもうた。

 主人市右衛門殿も、すこぶる喜んで、

「これは、目録なんどを用意致いて、しっかと手厚き礼を述ぶるが筋じゃ。」

と、下男に目録を持たせて、知人から聴いた、かの僧の住むと申す裏店(うらだな)の借家を、やっとこ、捜し当てた。

 ところが、かの僧、目録を差し出だいた下男に向かって、

「――この礼謝――過分なればこそ平にご容赦――」

と固辞致いたと申す。

 その態度に心打たれた市右衛門殿は、その後も何度も、手を変え品を変えては礼謝に及ばんと致いたものの、悉く辞退された。

 とある日、またしても訪ねさせてみたところが、隣家の者が、

「……あの坊(ぼん)さんなら、遠国へ廻国に出なすったで……」

と、かつての店(たな)には、もうおらずなって御座った。

 その後も、いろいろと手を尽くして方々尋ねさせて見たものの、遂に、行方知れずと相い成って御座ったと申す。

 いや、これ、まっこと、無欲徳行(とくぎょう)の聖(ひじり)では御座らぬか!

 このように稀なる徳を持っておられたゆえ、数十年を経て変化(へんげ)となった妖獣も、僅かの間に退散致いて御座ったものであろう。

 

 因みに――数年経った後のこと、市右衛門殿、

「……そういえば……あの賽銭箱の中……さても……狐……骨なんどになってあるものか?……」

と、おっかなびっくり開いて見て御座ったと申す。

すると――

箱の内には――これ――何もなく――

……ただ

――夥しい量の

――白い毛ばかりが御座った……

……とのことで、御座る。

 

 以上は、杉氏の親族の御方が私に語って下さった話で御座る。

賴朝の髑髏 萩原朔太郎