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2013/04/30

健康の都市 室生犀星(「月に吠える」跋)

 

  

 

 

    健康の都市

 

           君が詩集の終わりに

 

 大正二年の春もおしまひのころ、私は未知の友から一通の手紙をもらつた。私が當時雜誌ザムボアに出した小景異情といふ小曲風な詩について、今の詩壇では見ることの出來ない純な眞實なものである。これから君はこの道を行かれるやうに祈ると書いてあつた。私は未見の友達から手紙をもらつたことが此れが生まれて初めてであり又此れほどまで鋭く韻律の一端をも漏さぬ批評に接したことも之れまでには無かつたことである。私は直覺した。これは私とほぼ同じいやうな若い人であり境遇もほぼ似た人であると思つた。ちようど東京に一年ばかり漂泊して歸つてゐたころで親しい友達といふものも無かつたので、私は 飢ゑ渴いたやうにこの友達に感謝した。それからといふものは私たちは每日のやうに手紙をやりとりして、ときには世に出さない作品をお互に批評し合つたりした。

 私はときをり寺院の脚高な椽側から國境山脈をゆめのやうに眺めながら此の友のゐる上野國や能く詩にかかれる利根川の堤防なぞを懷しく考へるやうになつたのである。會へばどんなに心分(こゝろもち)の觸れ合ふことか。いまにも飛んで行きたいやうな氣が何時も瞼を熱くした。この友もまた逢つて話したいなぞと、まるで二人は戀しあふやうな激しい感情をいつも長い手紙で物語つた。私どもの純眞な感情を植ゑ育ててゆくゆく日本の詩壇に現はれ立つ日のことや、またどうしても詩壇の爲めに私どもが出なければならないやうな圖拔けた强い意志も出來てゐた。どこまで行つても私どもはいつも離れないでゐようと女性と男性との間に約されるやうな誓ひも立てたりした。

 

 大正三年になつて私は上京した。そして生活といふものと正面からぶつかつて、私はすぐに疲れた。その時はこの友のゐる故鄕とも近くなつてゐたので、私は草臥れたままですぐに友に逢ふことを喜んだ。友はその故鄕の停車場でいきなり私のうろうろしてゐるのをつかまへた。私どもは握手した。友はどこか品のある瞳の大きな想像したとほりの毛唐のやうなとこのある人であつた。私どもは利根川の堤を松並木のおしまひに建つた旅館まで俥にのつた。淺間のけむりが長くこの上野まで尾を曳いて寒い冬の日が沈みかけてゐた。

 旅館は利根川の上流の、市街(まち)のはづれの靜かな磧に向つて建てられてゐた。すぐに庭下駄をひつかけて茫茫とした磧へ出られた。二月だといふのにいろいろなものの芽立ちが南に向いた畦だの崖だのにぞくぞく生えてゐた。友はよくこの磧から私をたづねてくれた。私どもは詩を見せ合つたり批評をし合つたりした。

 大正四年友は出京した。

 私どもは每日會つた。そして私どもの狂わしいBARの生活が初まつた。暑い八月の東京の街路で時には劇しい議論をした。熱い熱い感情は鐵火のやうな量のある愛に燃えてゐた。ときには根津權現の境内やBARの卓(テーブル)の上で試作をしたりした。私は私で極度の貧しさと戰ひながらも盃は唇を離れなかつた。そしていつも此友にやつかいをかけた。

 間もなく友は友の故鄕へ私は私の國へ歸つた。そして端なく私どもの心持を結びつけるために『卓上噴水』といふぜいたくな詩の雜誌を出したが三册でつぶれた。

 私どもが此の雜誌が出なくなつてからお互にまた逢ひたくなつたのである。友は私の生國に私を訪問することになつた。私のかいた海岸や砂丘や靜かな北國の街々なぞの景情が友を遠い旅中の人として私の故鄕を訪づれた。私が三年前に友の故鄕を友とつれ立つて步いたやうに、私は友をつれて故鄕の街や公園を紹介した。私のゐるうすくらい寺院を友は私のゐさうな處だと喜んだ。または廓の日ぐれどきにあちこち動く赤襟の美しい姿を珍らしがつた。または私が時時に行く海岸の尼寺をも案内した。そこの砂山を越えて遠い長い渚を步いたりして荒い日本海をも紹介した。それらは私どもを子供のやうにして樂しく日をくらさせた。そのころ私は愛してゐた一少女をも紹介した。

 友は間もなくかへつた。それから友からの消息はばつたりと絕えた。友の肉體や思想の内部にいろいろの變化が起つたのも此時からである。手紙や通信はそれからあとは一つも來なかつた。私は哀しい氣がした。あの高い友情は今友の内心から突然に消え失せたとは思へなかつた。あのやうな烈しい愛と熱とがもう私と友とを昔日のやうに結びつけることが出來なくなつたのであらうか。私には然う思へなかつた。

 『竹』といふ詩が突然に發表された。からだぢうに巢喰つた病氣が腐れた噴水のやうに、友の詩を味ふ私を不安にした。友の肉體と魂とは晴れた日にあをあをと伸上がつた『竹』におびやかされた。を感じる力は友の肉體の上にまで重量を加へた。かれは、からだぢう竹が生えるやうな神經系統にぞくする恐竹病におそはれた。そしてまた友の肉體に潜んだいろいろな苦悶と疾患とが、友を非常な神經質な針のさきのやうなちくちくした痛みを絕えず經驗させた。

 

  ながい疾患のいたみから

  その顏は蜘蛛の巢だらけとなり

  腰から下は影のやうに消えてしまひ

  腰から上には竹が生え

  手が腐れ

  しんたいいちめんがじつにめちやくちやなり

  ああけふも月が出で

  有明の月が空に出で

  そのぼんぼりのやうなうすあかりで

  畸形の白犬が吠えて居る

  しののめちかく

  さむしい道路の方で吠える犬だよ

 

 私はこの詩を讀んで永い間考へた。あの利根川のほとりで土筆やたんぽぽ又は匂い高い抒情小曲なぞをかいた此れが紅顏の彼の詩であらうか。かれの心も姿もあまりに變り果てた。かれはきみのわるい畸形の犬がぼうぼうと吠える月夜をぼんぼりのやうに病みつかれて步いてゐる。ときは春の終わりのころであらうか。二年にもあまる永い病氣がすこしよくなりかけ、ある生ぬるい晚を步きにでると世の中がすつかり變化つてしまつたやうに感じる。永遠といふものの力が自分のからだを外にしても斯うして空と地上とに何時までもある。道路の方で白い犬が、ゆめのやうなミステツクな響をもつてぼうぼうと吠えてゐる。そして自分の頭がいろいろな病のために白痴のやうにぼんやりしてゐる。ああ月が出てゐる。

 私は次の頁をかへす。

 

  遠く渚の方を見わたせば

  ぬれた渚路

  腰から下のない病人の列が步いてゐる

  ふらりふらりと步いてゐる

 

 彼にとつては總てが變態であり恐怖であり幻惑(げんわく)であつた。かれの靜かな心にうつつてくるのは、かれの病みつかれた顏や手足にまつわる惱ましい蛛蜘の巢である。彼は殆んど白痴に近い感覺の最も發作の靜まつた時にすら、その指さきからきぬいとのやうなものの垂れるのを感じる。その幻覺はかれの魂を慰める。ああ蒼白なこの友が最も不思議に最も自然に自分の指をつくづく眺めてゐるのに出會して淚なきものがゐようか。私と向ひ合つた怜悧な眼付はどんよりとして底深いところから靜かに實に不審な病夢を見てゐるのである。

 それらの詩編が現はれると間もなく又ばつたり作がなかつた。私のとこへも通信もなかつた。私から求めると今私に手紙をくれるなとばかり何事も物語らなかつた。たうとう一年ばかり彼は誰にも會はなかつた。かれにとつて凡ての風景や人間がもう平氣で見てゐられなくなつた。ことに人を怖れた。まがりくねつて犬のやうに病んだ心と、人間のもつとも深い罪や科やに對して彼は自らを祈るに先立つて、その祈りを犯されることを厭ふた。ひとりでゐることを、ひとりで祈ることを、ひとりで苦しみ考へることを、ああ、その間にも彼の疾患は辛い辛い痛みを加へた。かれはヨブのやうな苦しみを試みられてゐるやうでもあつた。なぜに自分はかやうに肉體的に病み苦しまなければならないかとさへ叫んだ。

 かれにとつて或る一點を凝視するやうな祈禱の心持! どうにかして自分の力を、今持つてゐる意識を最つと高くし最つと良くするためにも此疾患を追ひ出してしまひたいとする心持! この一卷の詩の精神は、ここから發足してゐるのであつた。

 

 彼の物語の深さはものの内臟にある。くらい人間のお腹にぐにやぐにやに詰つたいろいろな機械の病んだもの腐れかけたもの死にそうなものの類ひが今光の方向を向いてゐる。光の方へ。それこそ彼の求めてゐる一切である。彼の詩のあやしさはポオでもボドレエルでもなかつた。それはとうてい病んだものでなければ窺知することのできない特種な世界であつた。彼は祈つた。かれの祈禱は詩の形式であり懺悔の器でもあつた。

 

  凍れる松が枝に

  祈れるままに縊されぬ

 

 といふ天上縊死の一章を見ても、どれだけ彼が苦しんだことかが判る。かれの詩は子供がははおやの白い大きい胸にすがるやうにすなほな極めて懷しいものも其疾患の絕え間絕え間に物語られた。

 

 萩原君。

 私はここまで書いて此の物語が以前に送つた跋文にくらべて、どこか物足りなさを感じた。君がふとしたころから跋文を紛失したと靑い顏をして來たときに思つた。あれは再度かけるものではない。かけても其書いてゐたときの情熱と韻律とが二度と浮んでこないことを苦しんだ。けれどもペンをとると一氣に十枚ばかり書いた。けれどもこれ以上書けない。これだけでは兄の詩集をけがすに過ぎぬ。一つは兄が私の跋文を紛失させた罪もあるが。

 唯私はこの二度目の此の文章をかいて知つたことは、兄の詩を餘りに愛し過ぎ、兄の生活をあまりに知り過ぎてゐるために、私に批評が出來ないやうな氣がすることだ。思へば私どもの交つてからもう五六年になるが、兄は私にとつていつもよい刺戟と鞭撻を與へてくれた。あの奇怪な『猫』の表現の透徹した心持ちは、幾度となく私の模倣したものであつたが物にならなかつた。兄の纖細な恐ろしい過敏な神經質なものの見かたは、いつもサイコロジカルに滲透していた。そこへは私は行かうとして行けなかつたところだ。

 兄の健康は今兄の手にもどらうとしてゐる。兄はこれからも變化するだらう。兄のあつい愛は兄の詩をますます砥ぎすました者にするであらう。兄にとつて病多い人生がカラリと晴れ上つて兄の肉體を温めるであらう。私は兄を福祉する。兄のためにこの人類のすべてが最つと健康な幸福を與へてくれるであらう。そして兄が此の惱ましくも美しい一卷を抱いて街頭に立つとしたらば、これを讀むものはどれだけ兄が苦しんだかを理解するやうになる。この數多い詩篇をほんとに解るものは、兄の苦しんだものを又必然苦しまねばならぬ。そして皆は兄の蒼白な手をとつて親しく微笑して更らに健康と勇氣と光との世界を求めるやうになるであらう。更らにこれらの詩篇によつて物語られた特異な世界と、人間の感覺を極度までに纖細に鋭どく働かしてそこに神經ばかりの假令へば齒痛のごとき苦悶を最も新しい表現と形式によつたことを皆は認めるであらう。

 も一步進んで言へば君ほど日本語にかげ深さを注意したものは私の知るかぎりでは今までには無かつた。君は言葉よりもそのかげ深さとを音樂的な才分で創造した。君は樂器で表現できないリズムに注意深い耳をもつてゐた。君自らが音樂家であつたといふ事實をよそにしても、いろはにほへを鍵盤にした最も進んだ詩人の一人であつた。

 ああ君の魂に祝福あれ。

 大聲でしかも地響のする聲量で私は呼ぶ。健康なれ! おお健康なれ! と。

 

  千九百十六年十二月十五日深更

         東京郊外田端にて

 

             室 生 犀 星 

 

[やぶちゃん注:詩集「月に吠える」初版(大正六(一九一七)年二月感情詩社・白日社出版部共刊)の跋文。底本は昭和五〇(一九七六)年刊筑摩書房版「萩原朔太郎全集 第一巻」の詩集「月に吠える」のパートに所収されているものに拠った。下線部は底本では傍点「ヽ」。なお、ここに示したものは正確には初版「月に吠える」跋のそのままではなく、底本である筑摩書房版全集編者によって仮名遣や漢字正字への補正が行われたものであることを明記しておく。犀星のこれは著作権上、昨年まではネット上に公開することが出来なかったものである。

 なお、文中に示される詩句は、最初の「ながい疾患のいたみから」と始まるものが「月に吠える」所収の「ありあけ」全篇の、「遠く渚の方を見わたせば」で始まっているものは同詩集「春夜」の途中の抜粋、「凍れる松が枝に/祈れるままに吊されぬ」は本文に「天上縊死」の終行二行の、それぞれの『引用のつもり』なのであるのだが、以下に示すように、実はどれも初版「月に吠える」のそれぞれの当該詩とは一致しない。底本(筑摩版全集第一巻)の校異によれば、『本跋文中の引用詩は、雜誌初出形ないし犀星の記憶に基づくもので、詩集收錄作品とは一致しない』とある。それぞれの詩についてここで見ておきたい。

 まず、「ながい疾患のいたみから」から。初版「月に吠える」所収の「ありあけ」全篇は以下の通り(校異を元に私が再現した正確なもの)。 

 

 ありあけ

 

ながい疾患のいたみから、

その顏はくもの巢だらけとなり、

腰からしたは影のやうに消えてしまひ、

腰からうへには籔が生え、

手が腐れ

身體(しんたい)いちめんがじつにめちやくちやなり、

ああ けふも月が出で、

有明の月が空に出で

そのぼんぼりのやうなうすらあかりで、

畸形の白犬が吠えてゐる。

しののめちかく、

さみしい道路の方で吠える犬だよ 

 

しかし犀星の引用は、実は次に示すこの詩の初出形、『ARS』創刊号である大正四(一九一五)年四月号の所収のものと読点の有無を除いてほぼ一致する。初出形を以下に示す。 

 

  ありあけ

 

ながい疾患のいたみから、

その顏は蜘蛛の巢だらけとなり、

腰から下は影のやうに消えてしまひ、

腰から上には竹が生え、

手が腐れ、

しんたいいちめんがぢつにめちやくちやなり。

ああ、けふも月が出で、

有明の月が空に出で、

そのぼんぼりのやうなうすあかりで、

畸形の白犬が吠えて居る

しののめちかく、

さむしい道路の方で吠える犬だよ。 

 

 次に、「遠くの方を見わたせば」。初版「月に吠える」所収の「春夜」全篇は以下の通り(校異を元に私が再現した正確なもの)。 

 

 春夜

 

淺利のやうなもの、

蛤のやうなもの、

みぢんこのやうなもの、

それら生物の身體は砂にうもれ、

どこからともなく、

絹いとやうな手が無數に生え、

手のほそい毛が浪のまにまにうごいてゐる。

あはれこの生あたたかい春の夜に、

そよそよと潮みづながれ、

生物の上にみづながれ、

貝るゐの舌も ちらちらとしてもえ哀しげなるに、

とほく渚の方を見わたせば、

ぬれた渚路には、

腰から下のない病人の列があるいてゐる、

 ふらりふらりと步いてゐる。

ああ、それら人間の髮の毛にも、

春の夜のかすみいちめんにふかくかけ、

よせくる、よせくる、

このしろき浪の列はさざなみです。 

 

「絹いとやうな」はママである。引用は読点を除去した以外は同じである(『ARS』創刊号大正四(一九一五)年四月号所収の初出でも、この部分は、 

 

 ぬれた渚路には、

 腰から下のない病人の列が步いて居る、

 ふらりふらりと步いて居る、 

 

であるから、この引用は初版「月に吠える」と概ね同じと言えよう。

 問題なのは最後の「天上縊死」からの引用として犀星が示した、

 

凍れる松が枝に

祈れるままに吊されぬ 

 

である。初版「月に吠える」所収の「天上縊死」全篇は以下の通りである(校異を元に私が再現した正確なもの)。 

 

 天上縊死

 

遠夜に光る松の葉に、

懴悔の淚したたりて、

遠夜の空にしも白ろき、

天上の松に首をかけ。

天上の松を戀ふるより、

祈れるさまに吊されぬ。 

 

初出の『詩歌』第五巻第一号(大正四(一九一五)年一月号)所収のものも示しておく。 

 

 天上縊死

 

遠夜(とほよ)に光る松の葉に、

懺悔の淚したゝりて、

遠夜の空にしもしろき、

天上の松に首をかけ。

天上の松を戀ふるより、

祈れるさまにつるされぬ。

          ――淨罪詩扁

 

「扁」はママ。犀星の引用には大きな相違がある。それを朔太郎が指摘しなかったのは、跋の中にある原稿紛失という失策の遠慮が朔太郎にあったからであろうか。それとも犀星が見た、この表現の別稿「天上縊死」があったものか。実は現存する「天上縊死」の草稿(その全貌は別掲する)の中に、この部分の、

 

天上の松に凍る

 

という推敲過程を見出すことが出来るのである。]

曼陀羅を食ふ縞馬 大手拓次

 曼陀羅を食ふ縞馬

 

ゆきがふる ゆきがふる。

しろい雪がふる。

あをい雪がふる。

ひづめのおとがする、

樹をたたく啄木鳥(きつつき)のやうなおとがする。

天馬のやうにひらりとおりたつたのは

茶と金(きん)との縞馬である。

若草のやうにこころよく その鼻と耳とはそよいでゐる。

封じられた五音(いん)の丘(をか)にのぼり、

こゑもなく 空(くう)をかめば、

未知の曼陀羅はくづれ落ちようとする。

おそろしい縞馬め!

わたしの舌から、わたしの胸からは鬼火(あをび)がもえる。

ゆきがふる ゆきがふる。

赤(あか)と紫(むらさき)とのまだらの雪がふる。

 

[やぶちゃん注:「五音」は狭義には中国・日本の音楽の理論用語で音階や旋法の基本となる五つの音を指す。各音は低い方から順に宮・商・角・徴(ち)・羽と呼ばれ、基本型としては洋楽のドレミソラと同様の音程関係になる。「ごおん」とも読む。但し、広義には広く音声の調子・音色の意としても用いられる。ここで拓次は架空の、例えば古代ケルトの遺跡のようなイメージを飛ばして、神聖不可侵の楽の音(ね)の封じ込まれた丘を想起しているように思われる。]

鬼城句集 春之部 山吹

山吹   山吹に大馬洗ふ男かな

「こがねむし」は本当にチャバネゴキブリなのか?

野口雨情の童謡「こがねむし」のコガネムシはチャバネゴキブリと断定するニュース記事を読み、

やや疑問を感じたので検索してみた結果、遥かに説得力があって一読に値する記述を見つけた。

星野仁氏のブログ「童謡『黄金虫』の謎」である。

そこでは有力候補は

タマムシ

であり、懐かしい(小学校の国語の教科書を思い出すなあ!)「玉虫の厨子の物語」のあの厨子(!)が

謎の歌詞「飴屋で水飴 買ってきた」「子供に水飴 なめさせた」

の解明説に一役かっているのも頗る面白い!

これはもう、絶対必読の目から鱗である! 虫嫌いも(僕もそうなんだから平気)ご覧あれ!

2013/04/29

やぶちゃんのトンデモ仮説 「陳和卿唐船事件」の真相

先に「北條九代記」の「宋人陳和卿實朝卿に謁す 付 相摸守諫言 竝 唐船を造る」原文と注をブログ公開したところ、私の教え子が以下のような質問を送ってよこした。以下、それと私の返信を附して、私の「陳和卿唐船事件」の真相についてのトンデモ仮説をご披露して、注の最後としたい。

 

☆教え子の質問と添書

・陳和卿の言葉に実朝の心が動いたのはなぜか(真意はどこにあるかは別として)

 

・もし船の建造に成功したら、実朝には日本を離れる意思が本当にあったのかどうか

 

・陳和卿の胸には大船の竣工、進水のあてがあったのかどうか

 

・彼にもし確信なかったのなら、その真意はどこにあったか

 

・もし竣工、進水に成功したら、彼にはどのような目算があったのか、実朝とともに一緒に大陸へ戻ろうと考えていたのか

 

・陳和卿は、進水に失敗した場合に監督者としての責任追求はされなかったのか

 

・日宋貿易にも使われたような大船の建造技術があったはずの当時の日本で、なぜ進水失敗という噴飯物のミスを犯したか

 

・少なくとも大輪田泊に行けば、大陸へ渡る際に使用できるような船は調達できたはず。なぜわざわざ新造させたのか

 

由比ガ浜に打ち捨てられた大船の姿を想像すると、まるで悪夢を見ているようです。本当に事実だったのか、にわかには信じられません。

 

★やぶちゃんの回答

 

あなたのご質問は、どれも個別には私には明確に答え得ないものばかりです。歴史学者でも――いや――歴史学者だからこそいい加減には答えられない、とも思います。しかし私は実は、それらを一気に解決し得る仮説を持ってはいます。

それは私の若書きの大駄作「雪炎」でも臭わせてある、北条義時による極めて遠大なる謀略であったと仮定するのです。

それは例えば、あなたの疑問を逆に辿ることによって、そのシルエットの片鱗が見えてくるように思われるのです。

あなたの仰るように、おかしいのです、実におかしい。

 

「吾妻鏡」には進水しない記事を以って以降、陳和卿の名は登場しません。渡宋用のしかも将軍の乗る唐船です。莫大な資材と人件費がかかっていることは明白です。従って「進水に失敗した場合に監督者としての責任追求」は当然なされなくては噓で、普通なら、奉行となった結城(小山)朝光と実務責任者であった陳和卿には必ずなんらかの処分が下されねばならない。ところが、そうした記載が一切、現われない。そして、これ以降の和卿の行方は知れない。「大輪田泊」(現在の兵庫県神戸市兵庫区にあった港。現在の神戸港西側の一部に相当する。十二世紀後半に平清盛によって大修築されたのは有名。輪田泊(わだのとまり)ともいい、古くは務古水門(むこのみなと)とも称した。平安末期から鎌倉前期にかけて日宋貿易で栄えた。中世にあっては兵庫湊(ひょうご(の)みなと)と呼ばれた)「に行けば、大陸へ渡る際に使用できるような船は調達できた」にも拘わらず、「なぜわざわざ新造させたのか」が不審であり、また「日宋貿易にも使われたような大船の建造技術があったはずの当時の日本で、なぜ進水失敗という噴飯物のミスを犯したか」も説明出来ないのです。――それを納得させる答えは、ただ一つ――即ち、

 
ちゃんとした「浮かぶ」船を調達されてはまずかったし、もともと進水出来ない船を造ることが目的だったから

 
です。

 

誰にとって?

 
当然、それは北条義時にとってであり、最終局面に於ける陳和卿自身にとっても、そうだったのです。

 

即ち、私は、和卿はもともと義時の企画した謀略の道化役に過ぎなかったのではないか、と考えるのです。

 

だとすれば、誰も処分されないことの理由が腑に落ちます。

 
では、和卿は何時から義時の謀略に加担したのか?

 

私は、鎌倉へ下向し、対面を望んだその初めからであったと考えます。彼は東大寺の僧との領地争いによって京に居づらくなっており、鎌倉に伝手(つて)を求めていた。それを知った義時は、

 

――実朝の外的な意味での完璧な『権威の失墜』――

 

を企画するために、如何にもなパフォーマンスから進水失敗まで、総てのシナリオを事前に用意して、この和卿を誘い込んだと考えています。

 

但し、それが実は義時の謀略であることを和卿がちゃんと知っていて加担したのかどうかは留保しておきます。

 

そうです。

 

私が私の駄作で公暁の遺恨を高まらさせ、実朝暗殺へと導いた手法と同じです。

 

そこでは実は、公暁は謀略の張本人が義時であることを知らず、義時を殺そうとさえする。しかし直前に入れ替わった源仲章を公暁は義時と思って殺すわけです。

 

この、首魁自身がその謀略の中で殺されるかも知れないという自己の生命のリスクまで覚悟しているという遠大な謀略――こそ――「謀略」と呼ぶに相応しい「謀略」であるとさえ私は思っているのです。

 

なお、

 

――実朝の外的な意味での完璧な『権威の失墜』――

 

とは、荒っぽく言えば、

 

――東国武士団総体の将軍実朝に対する信頼感を失墜させること――

 

という意味です。

 

将軍が暗殺されても、その将軍を大勢(たいせい)が疎ましく思っていれば、政情の不安は起りにくい。和歌や官位昇進にうつつを抜かすのに加えて、決定的に人心が離れる事件――『暗殺』する/される事件――のためには是が非でも必要なのです。

 

すでに起動していた(と私は考える)公暁による暗殺のシナリオと平行した、別働隊による補強謀略こそが、この「陳和卿唐船事件」であったのではないか?

 

これが私の説です。

 

そうして、これに従うなら、あなたの前半の疑問も一挙に氷塊します。

 

「陳和卿の言葉に実朝の心が動いたのは」例の夢告と陳の言の一致によるものですよね。実朝はこの六年前の夢を今まで誰にも語っていない、と実朝は語っている(ことになっている)のですが、この六年前というと、実朝は未だ満十八歳です。鮮烈な霊的な夢を見た彼が、それを母や近習、後に来た妻に「話さない」ことの方が、遥かに不自然でしょう。若しくは百歩譲って、誰にも語らなかったとしても、日時と時刻まで明確に記されているというのは、この夢を、実朝は何らかの備忘録に記していたに違いないと言えないでしょうか? それを誰かが見た、盗み見たと仮定してもよい。ともかく北条義時はその恐るべき謀略大プロジェクトの中で、その情報を入手し、和卿グループ別働隊による一芝居のシナリオの大事な素材として採用したことは(義時を翳のフィクサーと確信している私にとっては)想像にかたくないのであります。

 

因みに、従って義時の諫言はポーカー・フェイスの完璧なお芝居ということになります。

 

但し、「もし船の建造に成功したら、実朝には日本を離れる意思が本当にあったのかどうか」という疑義の答えだけは分かりません。ここは実朝の側の問題、しかも実朝がどこまで義時による(私の仮説するところの)大謀略プロジェクトに気づいていたかという問題と深く関わることだからです。

 

あえて言うなら、実朝は謀略の意図やその巧妙さをかなり知っていたと私は思っています。

 

義時の諫言を広元が代わって伝えた際の、その答えに、それがよく現われているとは思いませんか?

 

「彼に言ってやりなさい。――『私は、そなたが企んだことも、その目的がなんであるかも、いや――私がいつ殺されるかさえも、皆、分かっているのです。分かっていながら――あなたの思い通りに――私も――演じているのですよ』とね」

 

とでも言いたそうな口ぶりではありませんか。

 

なお、私は駄作でも示した通り、広元は政子サイド(二人は頼朝死後若しくはその前後から恋愛関係にあったのだと確信しています、その証左は長くなりますからここでは語りません。何時かまたお話しましょう)の人間で、義時のこの陰謀には全く加担していないと考えています。陰謀の成就には、味方でも敵でもない何も知らない実直で真面目な人間がどうしても必要なのです。

(なお、以上の仮説に立てば、残るあなたの「陳和卿の胸には大船の竣工、進水のあてがあったのかどうか」「彼にもし確信なかったのなら、その真意はどこにあったか」「もし竣工、進水に成功したら、彼にはどのような目算があったのか、実朝とともに一緒に大陸へ戻ろうと考えていたのか」という疑義は一切意味を成さないということになります)

 

しかし、強引で余りに複雑過ぎる謀略ですから――私だったら、思いついても、実行しませんね。いや、それほど噴飯ものの仮説かも知れません。

 

――が――実質的な北条執権得宗政治を起動させる義時には是が非でもこれを成功させる――という強烈な意志が働いていたのではないか――とも私は思うのです。

 

なんともトンデモ仮説ですが、これでお許し願えますか。

 

☆以上の回答への教え子の返事の極一部

 

……ただし、「執権」という権力の出所である「征夷大将軍」の権威を傷つける、非常に危ない芝居ですね。自分の体重をも預けているザイルを切断するような……。 

 

★教え子の二信への返事

 

あなたのこの言葉を心に、現代語訳をしているうちに、あることに気付きました。それは大江広元の口を借りて、幕府体制の保守的代弁者が記している故実めいた「臣は己を量りて職を受く」という台詞です。

 

文脈から見ると、この「臣」とは、元征夷大将軍の「職」の「主」であった父頼朝から、その「職」を「享け」継いだところの実朝を指しているものとしか読めません。そしこの後の叙述でも「征夷大将軍」は実際権力のための、意味付けのために「過ぎない」「将軍職」であることが分かるように思います(ここに限るなら、「吾妻鏡」と「北條九代記」に思想の相違はないように思われます)。

 

則ち、最早、この当時の幕府にとってさえ、個人の武士(もののふ)の英雄としての「征夷大将軍」はもう「いない」し、もう「不要」なのであって、それはあたかも例の美濃部達吉の天皇機関説と同様、そうしたお墨付きの「将軍」という「張子の虎」としての存在と、それによって起動する機関的運動作用によって、幕府は正常に動作する、「在る」。それをに操るのは現実的には執権、後の得宗というその実権存在であり、その確立のみが幕府を永く保てる方法であると義時は考えたのではないでしょうか。

 

結局は高時の代に至って、その得宗システム自体も時代遅れの装置として、腐食して錆びつき、遂にはその運動を停止することとなるのですが。

 

ここでも永久機関は物理的に否定される訳で、如何にも私には愉快です。
ただの、つまらぬ思いつきです。読み流して下さい。 
 

 

ともかくも私の駄作は話にならないが、太宰治でさえ、このシーンには惹かれた。「右大臣実朝」では、廃船となった唐船での公暁も登場するロケーション・パートが、頗る好きである。(リンク先は私のやぶちゃん恣意的原稿推定版電子テクスト)。

 

★特別限定やぶちゃん現代語訳 北條九代記 宋人陳和卿實朝卿に謁す 付 相摸守諫言 竝 唐船を造る

本来は「北條九代記」では詳細注釈に徹して、現代語訳はしていないが、ここは僕の大好きな話柄なれば――原文と注釈はこちら――



■やぶちゃん現代語訳

 

 ○宋人陳和卿が実朝卿に謁する事

  付けたり 相模守義時の実朝への諌言の事

  並びに  和卿が唐船を造る事

 

 宋国の陳和卿(ちんなけい)は、並ぶ者とてない名仏師である。しかも学識も優れ、道義も深い。

 来日後、そのまま日本に留まり続け、先(さき)つ頃は東大寺の大仏を造立致いたりもした。――その折りの驚くべき事実を、まずは語らずばなるまい。……

……右大将頼朝卿は、かの寺の落慶供養と新造の仏との結縁(けちえん)を期(き)して上洛致いたが、その折り、

「この度の、功ある宋渡りと申す仏工に、これ、是非とも対面(たいめ)致したいものじゃ。」

と仰せられた。

 ところが、その申し入れに対し、和卿は、

「――かの右大将家は、まことに多くの人の命を奪いなされた。――その罪業、これ、いや重きものなれば、――対面の儀は、未だ最後の落慶まで潔斎せる我らに於いては、これ、憚りが御座る。……」

と申し上げ、何と、遂に拝謁を致さなんだ。……

 ところが、今度(このたび)は、その和卿、当建保四年六月八日に至って、何と、自ら鎌倉へ下って参り、

「――ただ今の将軍実朝卿は、これ、『神仏の化身の生まれ変わり』の御方であらっしゃいます。――されば、是非とも、その御尊顔を拝し奉らんがため、はるばる関東の、この地まで赴き参じて参って御座った。――」

と謁見を願い出る言上(ごんじょう)を成した。

 それを聴いた将軍は、とりあえず、筑後左衞門尉朝重の家に和卿を逗留させ、大江広元朝臣を遣わして遠路来府の慰労をなされた。

 その上で一週間の後の同月十五日、めでたく御所に召し出だされ、将軍家との御対面の儀と相い成った。

 

 ところがそこで、異様なる事態が出来致いた。

 和卿は、将軍家の御前(ごぜん)にて合掌三拝致すと、凝っと将軍家の御尊顔を見つめ、突如、

「――あなたさまの前生(ぜんせい)は!――これ――大宋国に御座る育王山(いくおうざん)の禅師長老で御座る!……そして……そして我らはまさに、その折りの! あなたさまのお弟子で御座ったよッ! アイヤー! 我らのこの邂逅(かいこう)の因縁、これ、浅からざるものじゃ!……前世(ぜんせ)、そして今と……二世の契りを遂げ得たることの有難さよッ!……」

と叫んだかと思うと、滂沱(ぼうだ)の涙を流し、床を叩いて、号泣を始めた。

 ところが、将軍実朝卿には、この言葉を聞こし召されながら、不思議な心当たりが御座った。

『……去る建暦元年六月三日の夜(よ)のこと、私には……夢のお告げがあった。……一人の高貴なる僧が私の前に顕現され……私はかつて育王山の禅師の長老であったとの旨を、これ、私にお告げになられたのだった。……その夢告について、私は今日(こんにち)に至るまで、誰(たれ)にも語ったことは、これ、ない。……そうして六年が過ぎた。……しかし……今まさに……それが符合したではないか?!……』

 このことに気づいた実朝卿は、和卿の昂まりの収まるを見計らって、

「――その和卿が申す条は、全く以って我らが見たる夢の告げに違(たが)はざることじゃ!」

と宣はれたのであった。

 かくして将軍家は和卿に対し、深く信仰をお寄せならるるに至り、和卿を親しくお傍に侍らすことが、これ多なったと申す。 

 

 その対面から半年後の十一月二十四日のこと、将軍家は、ある命を発せられた。

「――私の夢告と和卿の言葉は一致した。――されば我ら、我が前生(ぜんしょう)の御住所たる育王山巡礼のため――入唐せんとぞ、思う。――」

と、即座に随伴する伴の者六十余名をお定めになられたのである。 

 

 驚天動地のとんでもない下知に、相模守義時とその子武蔵守泰時とが、しきりに諌め申しあげたものの、実朝卿は一向に聴く耳をお持ちになられぬ。

 遂には直々に、かの陳和卿に向かわれて、渡唐に用いんがための唐船(とうせん)を一艘建造せよと命ぜられたのであった。 

 

 幕府を――否、日本国を揺るがする、この事態に、相模守義時は密かに大江広元朝臣を自邸に招いて次のように語りかけた。

「……将軍家は、内々に渡唐という、呆れたと申すしか御座ない御事を思い立たれてしもうた。甚だ以って由々しき事態である。我らもしきりに諌言を奉ってはみたものの、これ、一向にお聴き入れ下されぬ。さればこそ、この上なく歎き申しておるところで御座る。そればかりにては御座ない。右大将頼朝公は官位昇進の宣下については、これある時には、その都度、昇進を固辞なされてお受けになられなんだが、当代将軍家は、これ、未だ壮年にもなられておらぬにも拘わらず、昇進のこと、甚だ早(はよ)う御座ろう。……されど……貴殿、何故に、ご忠言申されざるや?」

と苦言を含めたところが、広元も、

「……仰せの通り、日頃より我らとて、そのことを歎息致いて御座ったのじゃ。……いや、我らも、まっこと、心より悩み申し上げては御座ったれど、いささかのご忠言を吐露致す機会も、これ、御座なく……ただもう、独り腸(はらわた)を断ち切らんがばかりに――いや、まことで御座る!――口を噤んでおることしか出来ませなんだ。……しかしながら――古来、『臣たる者は己れの力量を見知って職を享(う)く』とこそ申すに、当代の将軍家は、たた単に先君(せんくん)の貴き御跡(みあと)としての将軍職の名目だけを、これ、お継ぎになられておらるるばかりにて、さしたる勲功も、憚りながら、おありには、なられぬ。しかるに――いや、言わせて貰(もろ)うなら、本邦諸国の総軍最高司令官としての征夷大将軍という職でさえも……これ実は、かの君には未だ、分に過ぎたるもので御座る。にも拘わらず、それに加えて中納言・左中将の職にまで補せられなさってしもうた。……これはまるっきり、摂関家の御子息と、何ら変わりは御座らぬ! これは禍いを重ねること、また、その結果として悪しき応報が降り懸かる、実にその双方に於いて、お遁れになることは、これお出来になれぬ。……しかも、少しの幸運さえも、まるで御子孫に残し伝えらるることは、これ、成し難きことと、申すしかなかろうか。……相い分かり申した。……早速に貴殿の御使(みつかい)として参上致し、進言、これ、申し試みようと存ずる。」

と返答なされ、即座に座を立って自邸にお帰りにならるるや、直ちに踵(きびす)を返して、御所に参じ、常に似ず、

「相州義時の意を介したる使いとして――」

とわざわざ断りの言上(ことあ)げ致いた上、

「――ただ願わくは、御子孫御繁栄の御為(おんため)には中納言及び左中将の当官を辞され、征夷大将軍一職をお守りになられて下されい! お歳を召された暁(あかつき)には、いかようにも、公卿の名誉職をも、これ、お享けになられてもよろしゅう御座いますればこそ!……」

と、遠回しの諌めの言葉を奉って御座った。

 すると、実朝卿は、いたって落ち着いたご様子にて、

「……その忠言……いかにもありがたく思うぞ。……なれど、よいか?……我らが源氏の正統……これ、今、この時に衰微し、子孫は、これ、更に相続なんおはとてものことに成し難きぐらいのことは――広元、そちも分かっておろうが?――されば……我ら、あくまでこれらの官職を兼任保守致し、せめても、源家の家名を、これ、後代に至るまで、正統にして公(おおやけ)なるところの受官の者として、輝かしく伝え残さんものと……思うておるのじゃ。……」

と仰せられた。

 この、恐ろしきまでの覚悟の仰せ言には、流石の広元も、最早、是非を申すに及ばず、黙礼致いたままに退出致すしか御座らんだと申す。

 広元は帰って、再び相州義時を訪ね、この趣きを語っては、両人ともに、今まさに幕府の屋台骨が、これ、積み上げた卵の如、すこぶる危険な状況にあるということばかりを歎きあったと申す。 

 

 翌年の四月、遂に唐船の造立が終わった。

 当日は数百人の人を召し出だされて、

「由比の浦に曳き出だいて浮かばせるように。」

と仰せにならるる。

 結城信濃守行光がこれを奉行致いて、午の刻より申の刻に至るまで、人足にありったけの力をふり絞らせ、

――エイヤ!――エイヤ!

と曳かせたけれども……

……何せ、この浦は元来が遠浅であって、かくも巨大なる唐船(からぶね)の浮ぶようも、これ、御座らねばこそ……何の施しようもなく……

……船は、ただ……

……役立たずのままに……

――さても後にはこの浜辺に打ち捨てられたままに朽ち果ててしまったと申す――

……一方、将軍家はと申せば……

……その日、大願の渡唐の大船(おおぶね)の進水とあって、満を持して御出座遊ばされたものの……かくなる仕儀と相い成り、興も醒めて、申の刻の前には還御なされてしまったとのことで御座った。 

 

「……陳和卿は頼朝卿の殺生の罪を冷徹に測り知り、また、実朝卿の前生をも明晰に記憶して、『人の心に隠された思いや、その運命を見通すことの出来る神通力がある』なんどと、尊(たっと)ばれはしたものの、唐船が由比の浦に浮かぶはずもないという、鎌倉にては童(わらんべ)さえ知りおることをも知らで、かくも御大層なる船を造り出だいては、湯水のように無駄金を費やしてしもうた。いや! なんとも妙に大事なところに行き届かぬ神通力ではないか! ト、ハハハハハ!」

と、市井の人々は、手をたたいては笑いおうた、とのことで御座った。

 

竹の根の先を掘るひと 萩原朔太郎 (「竹」別ヴァージョン)

 

 

 竹の根の先を掘るひと

 

病氣はげしくなり

いよいよ哀しくなり

三ケ月空にくもり

病人の患部に竹が生え

肩にも生え

手にも生え

腰からしたにもそれが生え

ゆびのさきから根がけぶり

根には纎毛がもえいで

血管の巢は身體いちめんなり

ああ巢がしめやかにかすみかけ

しぜんに哀しみふかくなりて憔悴れさせ

絹糸のごとく毛が光り

ますます鋭どくして耐えられず

つひにすつぱだかとなつてしまひ

竹の根にすがりつき、すがりつき

かなしみ心頭にさけび

いよいよいよいよ竹の根の先を掘り。

 

[やぶちゃん注:『卓上噴水』第一集・大正四(一九一五)年二月号に掲載された。後の詩集「月に吠える」初版(大正六(一九一七)年二月感情詩社・白日社出版部共刊)の巻頭の載る「竹とその哀傷」の二篇の別ヴァージョンである。下線「すつぱだか」は底本では傍点「ヽ」。「憔悴れさせ」は「やつれさせ」と訓じていよう。「耐え」及び「ついに」はママ。]

竹 萩原朔太郎 (「月に吠える」の「竹」別ヴァージョン+「竹」二篇初出形)

 

  

 

竹は直角、

人のくびより根が生え、

根がうすくひろごり、

ほのかにけぶる。

        ――大正四年元旦――

 

[やぶちゃん注:『詩歌』第五巻第二号・大正四年二月号に掲載された。この雑誌には、後の詩集「月に吠える」初版(大正六(一九一七)年二月感情詩社・白日社出版部共刊)の巻頭にある「竹とその哀傷」に載る、知られた二篇の「竹」の初出形が一緒に掲載されている。以下に、人口に膾炙する「月に吠える」版ではなく、その『詩歌』第五巻第二号・大正四年二月号に載る初出形の二篇を示し、「月に吠える」版との異同を附言しておく。

   *

 

 

 

ますぐなるもの地面に生え、

するどき靑きもの地面に生え、

凍れる冬をつらぬきて、

そのみどり葉光る朝の空路に、

なみだたれ、

なんだをたれ、

いまはや懺悔を終れる肩の上より、

けぶれる竹の根はひろごり、

するどき靑きもの地面に生え。

          ――淨罪詩篇――

 

   *

「月に吠える」では、

・「なんだをたれ」→「なみだをたれ」(「なんだ」は「なみだ」の音変化であって誤りでも特異な使用でもない。明治期の作品にはしばしば使用されている)

・「懺悔を終れる」→「悔をはれる」(格助詞の除去と平仮名化。漢字表記異体字違い)

・末尾「――淨罪詩篇――」→(なし)

となる。

   *

 

 

 

新光あらはれ、

新光ひろごり。

 

光る地面に竹が生え、

靑竹が生え、

地下には竹の根が生え、

根がしだいにほそらみ、

根の先より纎毛が生え、

かすかにけぶる纎毛が生え、

かすかにふるゑ。

 

かたき地面に竹が生え、

地上にするどく竹が生え、

まつしぐらに竹が生え、

凍れる節節(ふしぶし)りんりんと、

靑空のもとに竹が生え、

竹、竹、竹が生え。

 

祈らば祈らば空に生え、

罪びとの肩に竹が生え。

          ――大正四年元旦――

 

   *

「月に吠える」では、

・第一連「新光あらはれ、/新光ひろごり。」→(なし。連ごと総て除去)

・「ふるゑ」→「ふるへ」(歴史的仮名遣としてならば、「ふるへ」が正しい)

・「節節(ふしぶし)]→「節節」(ルビが除去されている)

・第四連「祈らば祈らば空に生え、/罪びとの肩に竹が生え。」→(なし。連ごと総て除去)

・「――大正四年元旦――」→(なし)

となる。因みに、「月に吠える」ではこの二篇の直後に、無題の以下の詩が作者不詳の挿畫とともに配されてあるが、これは両方の多分にキリスト教的なキャプション及びやはり同じイメージの二篇目の第一連・第四連が除去された代わりの『罪びとの絶望の祈り』ように、私には強く感じられる。

   *

 

  みよすべての罪はしるされたり、

  されどすべては我にあらざりき、

  まことにわれに現はれしは、

  かげなき靑き炎の幻影のみ、

  雪の上に消えさる哀傷の幽靈のみ、

  ああかかる日のせつなる纎悔をも何かせむ、

  すべては靑きほのほの幻影のみ。

   *

 

我々は以上に知られた「竹」のイメージ群の、公開された最初のプロトタイプを見る。]

法性のみち 大手拓次

 法性のみち

 

わたしはきものをぬぎ、

じゆばんをぬいで、

りんごの實のやうなはだかになつて、

ひたすらに法性(ほふしやう)のみちをもとめる。

わたしをわらふあざけりのこゑ、

わたしをわらふそしりのこゑ、

それはみなてる日(ひ)にむされたうじむしのこゑである。

わたしのからだはほがらかにあけぼのへはしる。

わたしのあるいてゆく路のくさは

ひとつひとつをとめとなり、

手をのべてはわたしの足をだき、

唇をだしてはわたしの膝をなめる。

すずしくさびしい野邊のくさは、

うつくしいをとめとなつて豐麗なからだをわたしのまへにさしのべる。

わたしの青春はけものとなつてもえる。

 

[やぶちゃん注:「法性」辞書的な意味を示しておく。仏教用語で一切の存在・現象の真の本性。万有の本体。「真如」「実相」「法界(ほっかい)」とも言う。「ほっしょう」と読むことが多い。]

鬼城句集 春之部 芹

芹    根ッ杭を打ち飛ばしけり芹の中

2013/04/28

北條九代記 宋人陳和卿實朝卿に謁す 付 相摸守諌言 竝 唐船を造る

 

      ○宋人陳和卿實朝卿に謁す 付 相摸守諫言 竝 唐船を造る

 

宋人陳和卿(そうひとちんくわけい)は左右なき佛工(ぶつく)なり。學智勝れ、道德あり。本朝に来りて、跡を留め、東大寺の大佛を造立せり。右大將賴朝卿、彼の寺供養結緣の爲上洛して、對面を遂げらるべき由、仰せらる。陳和卿、申して曰く、「右大將家は多く人の命を斷ち給ふ、罪業、是、重し、對面を遂げん事は我に於て憚(はゞかり)あり」とて、遂に拜謁せざりしが、今度鎌倉に下りて申入れけるやう、「當時の將軍實朝卿は権化(ごんげ)の再誕にておはします。恩顏を拜し奉らん爲(ため)、遙(はるか)に東關の地に赴き參りたり」と言上しければ、筑後(ちくごの)左衞門尉朝重が家に置(おか)れ、廣元朝臣を以て慰勞せしめられけり。かくて御所に召出(めしいだ)し、將軍家對面あり。陳和卿、合掌三拜して申しけるは、「君の前生は大宋(たいそう)の朝(てう)に育王山(いくわうざん)の禪師長老なり。我その時に弟子たりき。値遇の緣淺からず。二世の對面を遂げ得る有難さよ」とて、涙をぞ流しける。將軍實朝卿、聞召(ここしめさ)れ、去ぬる建曆元年六月三日の夜、御夢想のことあり。一人の貴僧、この趣を告げたまひき。御言葉には出し給はず、六年を過し給ふ。今既に符合す。和卿が申す旨、全く夢想に違(たが)ふ事なしとて、御信仰淺からず。然らば前生の御住所育王山巡禮の爲、入唐せばやと思召(おぼしめし)立ち給ふ。扈從(こしよう)の人六十餘輩を定めらる。相摸守義時、武藏守泰時、頻に諫め申すといへども、御許容なく、陳和卿に仰せて唐船をぞ造らせらる。相摸守、竊(ひそか)に廣元朝臣を招きて申されけるは、「將軍家、内々渡唐の事を思召立ち給ふ。甚(はなはだ)然るべからず。頻(しきり)に諫言を奉れ共(ども)、御許容なし。尤歎存(もつともなげきぞん)ずる所にて候。しかのみならず、右大將賴朝公は、官位の宣下、是(これ)ある時は毎度固辭して受け給はざりけるに、當將軍家は未だ壮年にも及ばせ給はで、昇進甚(はなはだ)早速(さつそく)なり。貴殿何ぞ申されざるや」とありければ、廣元、答へて申さるるやう、「仰(おほせ)の如く、日比、此事を歎息する所、丹府(たんふ)を惱しながら、微言(びげん)を吐くに遑(いとま)なくして、獨(ひとり)腸(はらわた)を斷ちて默止(もだし)來れり。臣は己を量りて職を受くとこそいふに、當家、僅(わづか)に先君(せんくん)の貴跡(きせき)を繼ぎ給ふ計(ばかり)にて、指(させ)る勲功おはしまさず。然るを諸國の官領職(くわんれいしよく)だに過分の義なり、其(それ)に中納言、左中將に補せられ給ふ、頗る攝關(せつくわん)の御息に替らず、嬰害積殃(ようがいせきわう)の兩篇(へん)を遁れ給ふべからず、佳運、更に後胤(こういん)に傳難(つたへがた)からんか。早く御使として申し試み候はん」とて、座を立て歸られ、御所に參じて、相州の中使(ちうし)と稱し、諷諫(ふうかん)を奉り、「只希(ねがは)くは、御子孫繁榮の御爲には當官を辭して、征東將軍の一職を守り、御高年の後には、如何にも公卿の大職をも受け給へかし」とぞ申されける。實朝卿、仰せられけるに「諷諫、尤も(もつとも)甘心すべしといへども、源氏の正統、今この時に縮(ちゞま)りて、子孫、更に相續(そうぞく)し難(がた)し。然らば我飽(あく)まで官職を兼守(かねまも)り、家名を後代に輝(かゝやか)さんと思ふなり」と、宣へば、廣元、是非を申すに及ばず、退出して、相州にこの由を語り、諸共(もろとも)に累卵(るゐらん)の危(あやぶ)みをぞ歎きける。翌年四月に唐船(たうせん)を造畢(ざうひつ)す。數百人の匹夫(ひつぷ)を召して、由比浦(ゆひにうら)に引き浮(うか)ぶべき由、仰出(おほせいだ)さる。信濃守行光、奉行して、午刻(うまのこく)より申刻(さるのこく)まで人歩(にんぷ)の筋力を盡さしめ、曳(えい)や曳やと引(ひか)せけれども、此浦もとより、唐船の浮ぶべきにあらねば、何の詮(せん)なく、徒(いたづら)に船は海濱に朽損(くちそん)じけり。將軍家、御出ありしも興(きよう)さめて、還御あり。陳和卿は賴朝卿の殺罪を知り、實朝の前生(ぜんしやう)を覺え、他心宿命(たしんしゆくめい)の通力(つうりき)ありと、貴(たつと)かりけれども、唐船の浮ぶまじき事を知らで、かく廣大に造出(つくりいだ)し、用なき費(ついえ)を致しける。行足(ゆきたら)ぬ神通(じんつう)かなと、手を拍(たゝ)きて笑合(わらひあ)へり。 

 

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻二十二の建保四(一二一六)年六月八日・十五日及び九月十八日・二十日及び十一月二十四日と、翌建保五年四月十七日の条に基づく。私の頗る好きなエピソードであるので、本話には私のオリジナルな全文現代語訳を附した。

 

「陳和卿(ちんくわけい)」(生没年未詳)南宋からの渡来工人。本文通りだと、現代仮名遣では「ちんかけい)」となるが、「和」は呉音が「ワ」、漢音が「カ(クヮ)」であるから問題なく、また私はどうしても習慣的に「ちんなけい」と読みたいので、「吾妻鏡」もそれで振った。以下、ウィキの「陳和卿」によれば、平安末の十二世紀末に来日したものと思われ、「南都大佛殿供養 付 賴朝卿上洛」で既に見たように治承四(一一八〇)年の東大寺焼失後、勧進上人の重源に従って焼損した大仏の鋳造と大仏殿の再建に尽力、その功によって播磨国大部荘など五箇所の荘園を賜ったが、それらを重源の大勧進職に寄進して彼はその経営に関与していた。ところが、東大寺の僧侶たちから、彼が材木を船を造るために流用して再建を妨害し、重源を裏切って先に寄進した荘園を押領して再び自分のものにしようとしている、と告発されたため、元久三(一二〇六)年には、『後鳥羽上皇から「宋人陳和卿濫妨停止下文」が出されて、当該荘園及び東大寺の再建事業から追放された。新井孝重によればこの告発は事実ではなく、外部の人間である重源や陳和卿によって寺の再建の主導権を握られた東大寺の僧侶の反感によるものであったという』。その後、本話のように彼は鎌倉に現われ、驚天動地のパフォーマンスを演じて、実朝の信任を勝ち取り、渡宋を思い立った実朝に命じられて、かくの如き大船の建造に着手したが、御覧の通りの仕儀となった。『その後は消息不明。経歴には不明な点が多い』とあるのみ。私はこの陳和卿という男、少なくともこの実朝の一件にあっては、二十の時に書いた超駄作時代小説「雪炎」以来、ずーぅっと、とんだ食わせ者だと思っている。

 

「育王山」阿育王山。浙江省寧波の阿育王禅寺。二八一年に西晋の劉薩訶(りゅうさっか)が釈迦入滅の百年(または二百年)後の古代インドで仏教を守護した阿育王(アショーカ王)の舎利塔を建立した地で、宋代には広利寺と称して五山の一つであった。

 

「丹府」「丹腑」で「赤心」のことであろう。嘘いつわりのない、ありのままの心。丹心。真心(まごころ)。

 

「臣は己を量りて職を受く」文脈から見ると、広元の言うここでの「臣」とは、元征夷大将軍の「職」の「主」であった父頼朝から、その「職」を「享け」継いだところの実朝を指しているものと思われる。但し、この故実が何に基づくものかは不学にして不明である。識者の御教授を乞うものである。

 

「嬰害積殃」「嬰害」の「嬰」は、加算の意で、たび重なる禍い、「積殃」は「積悪の余殃(せきあくのよおう)」で、悪事を積み重ねれば必ず「殃」(禍い)によって報われることとなるという謂いで、ここは禍いを重ねて、その結果として、更にまた、その悪しき応報が降り懸かることを言っている。

 

「中納言、左中將に補せられ給ふ」「吾妻鏡」によれば、実朝はこの建保四年六月二十日に権中納言に転任(この場合の「権」は定員外配当で同等)、七月二十一日には左近衛中将を兼任している。所謂、官打ちの始まりである。

 

「諷諫」遠回しの忠告。

 

「累卵の危み」一般に「累卵の危うき」で使う。「史記」范雎(はんしょ)伝に基づき、積み上げた卵のように非常に不安定で危険な状態の意。

 

「午刻より申刻まで」正午頃から午後四時頃まで。

 

まず、建保四(一二一六)年六月八日の条を見る(書き下しは時制上の相違を改行とダッシュで示した)。

 

○原文

 

八日庚寅。晴。陳和卿參著。是造東大寺大佛宋人也。彼寺供養之日。右大將家結緣給之次。可被遂對面之由。頻以雖被命。和卿云。貴客者多令斷人命給之間。罪業惟重。奉値遇有其憚云々。仍遂不謁申。而於當將軍家者。權化之再誕也。爲拜恩顏。企參上之由申之。即被點筑後左衞門尉朝重之宅。爲和卿旅宿。先令廣元朝臣問子細給。

 

〇やぶちゃんの書き下し文

 

八日庚寅。晴る。陳和卿(ちんなけい)、參著す。

――是れ、東大寺大佛を造れる宋人(そうひと)なり。彼の寺供養の日、右大將家、結緣し給ふの次でに、對面を遂げらるべきの由、頻りに以て命ぜらると雖も、和卿云はく、

「貴客は多く人命を斷たしめ給ふの間、罪業、惟(こ)れ重し。値遇(ちぐ)し奉ること、其の憚り有り。」

と云々。

仍つて遂に謁し申さず。――

而るに當將軍家に於ては、

「權化(ごんげ)の再誕なり。恩顏を拜さんが爲に、參上を企つ。」

の由、之を申す。即ち、筑後左衞門尉朝重が宅を點ぜられ、和卿の旅宿と爲す。先づ廣元朝臣をして子細を問はしめ給ふ。

 

東大寺供養については、「卷第一」の「南都大佛殿供養 付 賴朝卿上洛」にあり、和卿も登場しているが、ここに記された会見固辞の一件はここで初めて明かされる。但し、「吾妻鏡」には載るので、この回想記録と対比するために、

「巻十五」の建久六(一一九五)年三月十三日

の条をも以下に掲げておく。

 

○原文

 

十三日戊戌。晴。將軍家御參大佛殿。爰陳和卿爲宋朝來客。應和州巧匠。凡厥拜盧遮那佛之修飾。殆可謂毘首羯摩之再誕。誠匪直也人歟。仍將軍以重源上人爲中使。爲値遇結緣。令招和卿給之處。國敵對治之時。多斷人命。罪業深重也。不及謁之由。固辭再三。將軍抑感涙。奥州征伐之時以所著給之甲冑。幷鞍馬三疋金銀等被贈。和卿賜甲冑爲造營釘料。施入于伽藍。止鞍一口。爲手搔會十列之移鞍。同寄進之。其外龍蹄以下不能領納。悉以返獻之云々。

 

○原文

 

十三日戊戌。晴る。將軍家、大佛殿に御參。爰に陳和卿、宋朝の來客として、和州の巧匠に應ず。凡そ厥(そ)の盧遮那佛(るしやなぶつ)の修飾を拜むに、殆んど毘首羯摩(びしゆかつま)の再誕と謂ひつべし。誠に直(ただ)なる人に匪ざるか。仍つて將軍、重源(ちやうげん)上人を以て中使と爲し、値遇結緣(ちぐけちえん)の爲に、和卿(なけい)を招かしめ給ふの處、

「國敵對治の時、多く人命を斷つ。罪業深く重きなり。謁に及ばず。」

の由、固辭再三す。將軍、感涙を抑(をさ)へ、奥州征伐の時、著し給ふ所の甲冑幷びに鞍馬三疋、金銀等を以つて贈らる。和卿、賜はる甲冑を造營の釘料(くぎれう)として、伽藍に施入(せにふ)す。鞍一口を止どめ、手搔會(てがいゑ)十列(じふれつ)の移鞍(うつしぐら)として、同じく之を寄進す。其の外の龍蹄(りゆうてい)以下、領納に能はず、悉く以つて之を返し獻ずると云々。

 

・「毘首羯摩」帝釈天の弟子で仏師の祖とされる伝説上の人物。

 

・「手搔會十列の移鞍」「手搔會」は「転害会」とも書く。東大寺西方の雑司町にある平城左京一条大路に西面して建つ転害門で行われる祭礼儀式。現在は毎年十月五日の東大寺鎮守手向山八幡宮の祭礼の際、神輿遷座の門として、ここから総ての祭儀が開催される。平安期には八幡宮祭と呼ばれた。転害門は謂わば、この祭礼に於ける御旅所である。名称はこの門の位置が大仏殿の西北に置かれており、これが吉祥の位置であって、「害を転ずる」の意から「転害門」とも呼ばれ、それが祭儀の名ともなったものである。奈良時代、宇佐八幡宮を東大寺の守護神として東大寺境内に遷座して以来の、非常に古い祭礼であると言われている(以上は「なら・観光ボランティアガイドの会 朱雀」の「東大寺の転害会」に拠った)。「移鞍」は、その儀式に於いて乗換用として用意される馬(行列の十列目に配されものか)におく鞍、の意である。

 

 

続いて建保四(一二一六)年六月十五日の条。

 

○原文

 

十五日丁酉。晴。召和卿於御所。有御對面。和卿三反奉拜。頗涕泣。將軍家憚其禮給之處。和卿申云。貴客者。昔爲宋朝醫王山長老。于時吾列其門弟云々。此事。去建暦元年六月三日丑尅。將軍家御寢之際。高僧一人入御夢之中。奉告此趣。而御夢想事。敢以不被出御詞之處。及六ケ年。忽以符合于和卿申狀。仍御信仰之外。無他事云々。

 

○やぶちゃんの書き下し文

 

十五日丁酉。晴る。和卿を御所に召して、御對面有り。和卿、三反(さんべん)拜し奉り、頗る涕泣す。將軍家、其の禮を憚り給ふの處、和卿申して云はく、

「貴客(きかく)は、昔、宋朝醫王山(いわうざん)の長老たり。時に吾れ、其の門弟に列す。」

と云々。

此の事、去ぬる建暦元年六月三日丑の尅、將軍家、御寢の際、高僧一人、御夢(おんゆめ)の中に入りて、此の趣きを告げ奉る。而れども御夢想の事、敢へて以つて御詞(おんことば)に出だされざるの處、六ケ年に及び、忽ちに以つて和卿の申し狀に符合す。仍つて御信仰の外、他事無しと云々。

 

 

続いて建保四(一二一六)年九月十八日と二十日の連続する条を示す。

 

○原文

 

九月小十八日戊戌。晴。相州招請廣元朝臣。被仰云。將軍家任大將事。内々思食立云々。右大將家者。官位事宣下之毎度。固辭之給。是爲令及佳運於後胤給也。而今御年齡未滿成立。壯年御昇進。太以早速也。御家人等亦不候京都兮。面々補任顯要官班。可謂過分歟。尤所歎息也。下官以愚昧短慮。縱雖傾申。還可蒙其誡。貴殿盍被申之哉云々。廣元朝臣答申云。日來思此事。雖惱丹府。右大將家御時者。於事有下問。當時無其儀之間。獨断膓。不及出微言。今預密談。尤以爲大幸。凡本文之所訓。臣量己受職云々。今繼先君貴(遺)跡給計也。於當代無指勳功。而匪啻管領諸國給。昇中納言中將御。非攝關御息子者。於凡人不可有此儀。爭遁嬰害積殃之兩篇給乎。早爲御使。可申試愚存之趣云々。

 

廿日庚子。晴。廣元朝臣參御所。稱相州中使。御昇進間事。諷諫申。須令庶幾御子孫之繁榮給者。辭御當官等。只爲征夷將軍。漸及御高年。可令兼大將給歟云々。仰云。諫諍之趣。尤雖甘心。源氏正統縮此時畢。子孫敢不可相繼之。然飽帶官職。欲擧家名云々。廣元朝臣重不能申是非。即退出。被申此由於相州云々。

 

○やぶちゃんの書き下し文

 

十八日戊戌。晴る。相州、廣元朝臣を招請し、仰せられて云はく、

「將軍家、大將に任ずる事、内々思し食し立つと云々。右大將家者、官位の事宣下の毎度、之を固辭し給ふ。是れ、佳運を後胤に及ばしめ給はん爲なり。而るに今、御年齡、未だ成立に滿たず。壯年の御昇進、太(はなは)だ以つて早速なり。御家人等、亦、京都に候ぜずして、面々に顯要の官班に補任す。過分と謂ひつべきか。尤も歎息する所なり。下官の愚昧短慮を以つて、縱ひ傾(かたぶ)け申すと雖も、還つて其の誡(いまし)めを蒙るべし。貴殿、盍ぞ之を申されざるや。」

と云々。

廣元朝臣、答へ申して云はく、

「日來(ひごろ)、此の事を思ひ、丹府を惱すと雖も、右大將家の御時は、事に於いて下問有り。當時は其の儀無きの間、獨り膓(はらわた)を斷ち、微言を出すに及ばず。今、密談に預り、尤も以つて大幸たり。凡そ本文の訓(おし)ふる所、臣、己れを量り、職を受く。」

と云々。

「今は先君の遺跡を繼ぎ給ふ計りなり。當代に於いて指(さ)せる勳功無し。而るに啻(た)だ諸國を管領し給ふのみに匪(あら)ず、中納言中將に昇り御(たま)ふ。攝關の御息子に非ずんば、凡人に於いては此の儀有るべからず。爭(いかで)か嬰害積殃(ゑいがいせきあう)の兩篇を遁れ給はんか。早く御使として、愚存の趣きを申し試むべし。」

と云々。

 

廿日庚子。晴る。廣元朝臣、御所へ參り、相州の中使(なかづかひ)と稱し、御昇進の間の事、諷諫し申す。

「須らく御子孫の繁榮を庶幾(しよき)せしめ給ふべくんば、御當官等を辭し、只だ、征夷將軍として、漸くに御高年に及び、大將を兼ねしめ給ふべきか。」

と云々。

仰せて云はく、

「諫諍之趣、尤も甘心すと雖も、源氏の正統は此の時に縮り畢んぬ。子孫、敢へて之を相ひ繼ぐべからず。然れば、飽くまで官職を帶(たい)し、家名を擧げんと欲す。」

と云々。

廣元朝臣、重ねて是非を申す能はず、即ち退出し、此の由、相州に申さると云々。 

 

同年十一月二十四日の造船命令の条。

 

○原文

 

廿四日癸夘。晴。將軍家爲拜先生御住所醫王山給。可令渡唐御之由。依思食立。可修造唐船之由。仰宋人和卿。又扈從人被定六十餘輩。朝光奉行之。相州。奥州頻以雖被諫申之。不能御許容。及造船沙汰云々。

 

○やぶちゃんの書き下し文

 

廿四日癸夘。晴る。將軍家、

「先生(せんしやう)の御住所、醫王山を拜し給はんが爲、唐へ渡りせしめ御(たま)ふべし。うべし。」

の由、思し食(め)し立つに依て、唐船を修造すべきの由、宋人和卿に仰(おほ)す。又、扈從の人六十餘輩を定めらる。朝光、之を奉行す。相州・奥州、頻に以つて之を諫め申さると雖も、御許容に能ばず、造船の沙汰に及ぶと云々。

 

 

そして――翌、建保五(一二一七)年四月十七日の条。

 

○原文

 

十七日甲子。晴。宋人和卿造畢唐船。今日召數百輩疋夫於諸御家人。擬浮彼船於由比浦。即有御出。右京兆監臨給。信濃守行光爲今日行事。隨和卿之訓説。諸人盡筋力而曳之。自午尅至申斜。然而此所之爲躰。唐船非可出入之海浦之間。不能浮出。仍還御。彼船徒朽損于砂頭云々。

 

○やぶちゃんの書き下し文

 

十七日甲子。晴る。宋人和卿、唐船を造り畢んぬ。今日、數百輩の疋夫(ひつぷ)、諸御家人を召し、彼の船を由比の浦に浮かべんと擬す。即ち御出有り。右京兆、監臨し給ふ。信濃守行光、今日の行事たり。和卿之の訓説に隨ひ、諸人、筋力を盡して之を曳くこと、午の尅より申の斜めに至る。然れども、此の所躰爲(ていたらく)、唐船の出入すべきの海浦(かいほ)に非ざるの間、浮き出だす能はず。仍つて還御す。彼(か)の船、徒(いたづ)らに砂頭に朽ち損ずと云々。]

江の島 田山花袋

江の島   田山花袋

 

[やぶちゃん注:大正七(一九一八)年博文館刊の、自然主義の巨頭(私は彼の写真を見る都度、文字通り、巨頭と言いたくなるのである)田山花袋「一日の行楽」より。底本は国立国会図書館近代デジタルライブラリーの画像(コマ番号237)を視認してタイプした。親本は総ルビであるが、読みの振れそうなものと難読語のみのパラルビとした。踊り字「〱」は正字に直した。]

 

     江の島

 

 鎌倉から電車で行く。

 極樂寺の切通を過ぎると、竹藪、水車、小さな川が潺々(せんせん)と流れてゐる。この川の東岸に、義貞鎌倉攻めの時に奮戰して戰死した大舘宗氏(おほだてむねうぢ)以下の墓がある。歩いて行つって見ても好(よ)い。

 やがて海が見え出して來る。

 碧(あを)い、碧い海だ。風のある日に、それに波頭(はとう)が白く颺(あが))つて湧くやうになつて見える。やがて江の島の靑螺(せいら)が海中に浮かんでゐるのが見える。

 漁村が漁村につゞく。電車はところどころに停(とま)つては動いて行く。疎らな風情のある松原の中に別莊のあつたりするのが眼に着く。やがて左はすつかり海になる。所謂七里ケ濱である。江の島は手に取るやうに見える。岸には波が寄せては返し、返しては寄せて來る。

 腰越(こしごえ)の村はづれの岩の松の靡いてゐるのが遠く見える。

 小さな川が丘の中から出て海に注いで行つてゐる。

 行合川(ゆきあひがは)である。僧日蓮の龍口御難(たつのくちごなん)の時、報ずる使者と宥免(いうめん)の使者が行逢(ゆきあ)つたところだといふことである。

 やがてその長い濱は盡きて、ごたごたした漁村に入つて行く、茅茨瓦甍相接(ばうしぐわくわうあひせつ)すといふ風である。昔はこゝは鎌倉の出外(ではづ)れの宿(しゆく)で、非常に賑やかなところであつた。誰(たれ)も皆此處(ここ)に來て一宿して鎌倉に入る許可を待つた。義經などは此處まで來て、遂に鎌倉に入(はひ)ることを許されなかつた。例の腰越狀は此處で書かれた。それを思ふと、旅客(りよかく)は昔を思ふの念に堪へないであらう。

 滿福寺(まんぷくじ)に一詣(し)する。

 それから例の龍口(たつのくち)の龍口寺(りうこうじ)に行く。こゝはもう片瀨である。寺はかなり大きな立派な寺でである。あの日蓮が法華經を持(ぢ)して動かなかつたさまなどが想像される。寺の前に、有名な片瀨饅頭がある。日光の湯澤屋の饅頭よりは拙(まづ)いけれども、それでも東京の土産にはちよつと面白い。

 片瀨で電車を下りる。暫しの間、田舍道を行く、やがて松原が來る。それを通り拔ると、砂濱。もう江の島はずぐ手に取るばかりに近くにある。

 江の島は地形は日向(ひうが)の靑島に似てゐて、それよりも好(よ)い。東京に近く、あまりに人口に膾炙しすぎたので、人は餘りめづらしいと思はないけれど、始めて見た人には、非常に好風景(かうふうけい)に思はれるに相違ない。江戸時代には、江の島鎌倉と言つて、人がわざわざ歩いて一日泊りで生魚(せいぎよ)を食ひに來たところである。右に連つた箱根連山、その上に聳えた富士が非常に美しい。茅ケ崎の海岸にある烏帽子岩も、注意するとそれと指さゝれた。

 砂濱を七八町、やがて棧橋が來る。かなりに長い棧橋である。この棧橋は、暴風雨の時にはよく流されて、島との交通が一日も二日も絶えて了ふことがよくある棧橋である。これを渡ると宿引(やどひき)が澤山やつて來て旅客(りよかく)にまつはる。ゑびすや、江戸屋、岩本、さぬきやなどといふ旅館がある。

 やがて旅客は狹いゴタゴタした爪先上がりの通(とほり)を發見する。江の島土産を竝べた家が軒をつらねて戸毎(こごと)に通る客を呼んでゐる。一種特色のある町である。

 それを通り拔けて少し上ると、左に、金龜樓(きんきろう)といふ旅舍(りよしや)がある。

 こゝでの旅舍は、富士を見るのには、岩本、ゑびすやなどが好い。その反對に、鎌倉、逗子の方を見るには金龜樓が好い。宿料(しゆくれう)は一圓五十錢内外。

 一體、江の島は昔から江戸の人が生魚(せいぎよ)を食ひに來た處なので、旅舍では食物(しよくもつ)の多いを誇りにしてゐる。二の膳、三の膳、もつと多くつける。從つて宿料や晝食料(ちうしよくれう)が廉(やす)くない。それに、調理法も田舍者相手なのであまり旨くない。唯(ただ)材料の多いので旅客を驚かすといふ風である。

 金龜樓から、辨天の本社に參詣して、それから島の絶頂のやうなところを通つて、それからだらだらと下りる。岩と岩との間から白く碎けた波の海が見えて、景色が好い。一遍上人成就水のあるところへ下りて行く山二つあたりは、殊に眺望がすぐれてゐる。

 それも通り越す。と、又土産物を賣る店が兩側に竝んで、やがて奥社の境内へと入つて行く。境内は西の海に面して、感じは広々としてゐる。その西南の隅には、かけ茶屋(ちやや)があつて、そこから窟(いはや)の辨天に行く路が下りて行く。このかけ茶屋の上から見た海は非常に好い。波も好ければ、海も面白い。聳えたり伏したしてゐる岩石にも奇姿(きし)が多い。それに、そこからは、大島の三原山の噴烟(ふんえん)が見える。

 その茶屋で、名物のさゞえの壺燒でも食つて、草履をかりて、そして窟(いはや)へと下りて行く。兒(ちご)が淵(ふち)がすぐその下にある。それは鎌倉の寺の稚兒(ちご)が投身したところとして世にきこえてゐるところである。

 好(い)い加減下りて、岩から岩を傳つて歩く。右も左も前もすべて怒濤澎湃(どたうぼうはい)としてあら海である。そこに、鮑(あはび)を海底から取つて來ると稱する漁師がゐる。しかし、これは取つて來るのではなくて、自分で手で持つて海に入つて取つて來たやうな振(ふり)をするのである。昔はこれでもめづらしいと人々が思つたものだが、今ではそんなことに欺かれるやうな旅客は少ない。

 龍窟(りうくつ)の中は、俗だけれど、ちよつと面白い。棧橋を渡つて、窟(いはや)の中から振返つて海を見た形は奇觀である。案内者があつて、遊覽者を窟の中につれて行くが、窟もかなり深い窟である。

 歸りは山二つの手前のところから左に入つて、近路(ちかみち)をして町の上のところへと出て來る。そこから西に向つた海が手に取るやうに見える。

 で、引返す。片瀨に來て、電車に乘る。電車の中から片瀨川の芦荻(ろてき)や葦(あし)の多い小さな川が見える。電車の便(びん)のない時分には、遊覽者は藤澤からすこし歩いて來て、おの川に待つてゐる小舟に乘つて、海近くまで下つて行つたものである。川の向うは砥上(とがみ)ケ原で、古戰場である。

 鵠沼の停留場で下りると、海水浴舍(かいすゐよくしや)が五六軒そこから五六町行つたところにある。鵠沼海水浴は其處(そこ)である。海水浴をするところとしては、餘りよくはないが、松原がちよつと好(よ)い。宿料も片瀨に同じ位(くらゐ)で、さう大して高くない。

 で、藤澤に來る。

 藤澤には例の遊行寺(いうぎやうじ)がある。時宗の本山で、そこから遊行上人(いうぎやうじゃうにん)が各地に説教に出るのできこえてゐる。そこに行くには一汽車おくらせねばならないが、次手(ついで)だから行つて見るが好(よ)い。距離は十二三町、車賃往復五十錢と思へば間違はない。寺の前は賑やかな門前町で、堂宇も宏壯(くわいさう)である。裏には小栗判官堂がある。小さな小僧が可笑しく案内をする。

 人に由(よ)つては、江の島を先にし、鎌倉を後(あと)にするものもあるであろうが、さういふ人はこれを逆に應用して貰へば間違はない。

 

[やぶちゃん注:「靑螺」元来は青緑色のニシ(巻貝)をいうが、転じて青い山の形容。遠くの山の形を巻貝の形に譬えたものであろう。

「片瀨饅頭」片瀬龍口門前(藤沢市片瀬海岸)にある創業天保元(一八二八)年の和菓子屋「上州屋」の「片瀬まんじゅう」(現在、酒饅頭と茶饅頭の二種があるが、花袋は湯沢屋と比較しているので酒饅頭である)。なお、この「片瀬まんじゅう」、饅頭近代史の中で馬鹿に出来ない存在なんである。ウィキ温泉饅頭には、現在、無数にある温泉饅頭の発祥は一般に伊香保温泉とするのが定説らしいが、そのルーツについて、明治四三(一九一〇)年のこと、伊香保電気軌道(現在は廃線)の伊香保―渋川間開業時のこと、伊香保から江ノ島電鉄の視察に行った者が土産にこの『「上州屋」の「片瀬饅頭」を買って帰り、伊香保で創業間もない団子屋「勝月堂」の初代・半田勝三に、「湯の色をした独特の饅頭を作って、それを名物にしてみては如何なの?」と進言し、その半年後に黒糖を使い、鉄分を含んだ茶褐色の伊香保独特の湯の色に似せた「湯乃花饅頭」が誕生した』とあるのである! 恐るべし! 片瀬まんじゅう! 今度、必ず食うたろ!

「日光の湯澤屋の饅頭」日光市下鉢石町の日光寺社群の門前にある文化元(一八〇四)年創業の和菓子屋「湯沢屋」の酒饅頭。永く元祖「日光饅頭」と呼ばれ親しまれてきた(商標登録の関係で現在は「湯沢屋のまんじゅう」。以上は湯沢屋」公式サイトに拠る)。

「一遍上人成就水」現在は「一遍上人の島井戸」と呼ばれている。リニュアールして改名された新植物園「サムエル・コッキング苑」を通り過ぎた、江ノ島大師近くにある。一遍上人が飲み水に窮していた島民を助うために加持して掘り当てたと伝えられる井戸。一遍自筆と伝える「一遍成就水」の額が江島神社に残る。

 最後に。「そこに、鮑を海底から取つて來ると稱する漁師がゐる。……」というのは、江の島の裏の魚板石(まないたいし)周辺の話柄であるが、余り知られているとは思われないが、かの芥川龍之介は、未完作品「大導寺信輔の半生」の最終章「六 友だち」の掉尾に、この魚板石付近を舞台にした印象的なエピソードが語られている。私のテクストから当該部を引用しておく。

 

 信輔は才能の多少を問はずに友だちを作ることは出來なかつた。標準は只それだけだつた。しかしやはりこの標準にも全然例外のない訣ではなかつた。それは彼の友だちと彼との間を截斷する社會的階級の差別だつた。信輔は彼と育ちの似寄つた中流階級の靑年には何のこだわりも感じなかつた。が、纔かに彼の知つた上流階級の靑年には、――時には中流上層階級の靑年にも妙に他人らしい憎惡を感じた。彼等の或ものは怠惰だつた。彼等の或ものは臆病だつた。又彼等の或ものは官能主義の奴隸だつた。けれども彼の憎んだのは必しもそれ等の爲ばかりではなかつた。いや、寧ろそれ等よりも何か漠然としたものの爲だつた。尤も彼等の或ものも彼等自身意識せずにこの「何か」を憎んでゐた。その爲に又下流階級に、――彼等の社會的對蹠點に病的な惝怳を感じてゐた。彼は彼等に同情した。しかし彼の同情も畢竟役には立たなかつた。この「何か」は握手する前にいつも針のやうに彼の手を刺した。或風の寒い四月の午後、高等學校の生徒だつた彼は彼等の一人、――或男爵の長男と江の島の崖の上に佇んでゐた。目の下はすぐに荒磯だつた。彼等は「潛り」の少年たちの爲に何枚かの銅貨を投げてやつた。少年たちは銅貨の落ちる度にぽんぽん海の中へ跳りこんだ。しかし一人海女あまだけは崖の下に焚いた芥火の前に笑つて眺めてゐるばかりだつた。

 「今度はあいつも飛びこませてやる。」

 彼の友だちは一枚の銅貨を卷煙草の箱の銀紙に包んだ。それから體を反らせたと思うと、精一ぱい銅貨を投げ飛ばした。銅貨はきらきら光りながら、風の高い浪の向うへ落ちた。するともう海女はその時にはまつ先に海へ飛びこんでゐた。信輔は未だにありありと口もとに殘酷な微笑を浮べた彼の友だちを覺えてゐる。彼の友だちは人並み以上に語學の才能を具へてゐた。しかし又確かに人並み以上に鋭い犬齒をも具へてゐた。…………

 

本文中に「或風の寒い四月の午後、高等學校の生徒だつた彼は彼等の一人」とあるが、龍之介の一高卒業は大正二(一九一三)年七月であるから、これは明治四十四(一九一一)年か翌年の四月、若しくは卒業年の大正二(一九一三)年四月の間の出来事となる。まさに花袋の描いたものと美事にシンクロナイズする、まさに海の中のシークエンスなのである。]

鎌倉 田山花袋

鎌倉   田山花袋

 

[やぶちゃん注:大正七(一九一八)年博文館刊の、自然主義の巨頭(私は彼の写真を見る都度、文字通り、巨頭と言いたくなるのである)田山花袋「一日の行楽」より。底本は国立国会図書館近代デジタルライブラリーの画像を視認してタイプした。親本は総ルビであるが、読みの振れそうなものと難読語のみのパラルビとした。なお、親本には途中に「鎌倉圓覺寺舎利殿」のキャプションを持つ当時の写真が挿入されてある。]

 

     鎌倉

 

 鎌倉と江の島は、今では東京の郊外と言つても好(よ)い位(くらゐ)である。ちよつと遊びに行くにもわけがない。鎌倉に住宅を構へて、毎日汽車で東京に出勤してゐるつとめ人などもある位である。

 鎌倉は歴史の跡に富んでゐる。日本では、奈良、平泉、鎌倉、この三つが完全な『廢都(はいと)』の址(あと)である。中で、鎌倉はやゝ開けすぎたので、『廢都』といふ感じは薄らいで了つてゐるけれども、小野湖山が鎌倉懷古の七絶を賦した時分には、憑弔(いようてう)の客(きやく)をして涙(なみだ)襟(きん)を沾(うるほ)すに至らしめたほどさびれてしまつてゐたのでつた。私(わたし)の知つてゐる最初の鎌倉の印象も矢張(やはり)さびしい衰へた『廢都』のさまであつた。八幡前の廣い若宮大路には草が高く生えて、兩側(りやうがは)には茅葺屋根の百姓家が竝び、麥が筵に竝べて干されてあつたりした。

 今は東京にゐて鎌倉を知らないものはない。鶴岡八幡、僧公曉のかくれた大銀杏(おほいてふ)、由比ケ濱の波、長谷の大佛、大塔宮(だいたふのみや)の洞窟、賴朝の墓、靑砥藤綱の滑川(なめりがは)、すべて人口に膾炙してゐる。中學生などもよく修學旅行に出かけて行つて知つてゐる。それに停車場(ていしやぢやう)から長谷の方にかけて、乃至(ないし)は笹目谷(ささめがやつ)とか、松葉谷(まつばがやつ)とか言ふ谷々も皆な別莊や人家で埋められて了つた。何(ど)うしても、東京の郊外といふ氣がする。

 鎌倉で、先づ停車場を下りる。一番先に、鶴岡八幡に行く。八幡の境内は瀟洒で、掃除が行き屆いて氣持が好い。例の靜御前の舞を奏したあとなどを見て、長い石磴(せきとう)を登ると、左に、僧公曉の實朝を弑(しい)した大銀杏がある。無論そのひこばえであるが、それでもかなりに大きい古い樹だ。八幡の樓門の前から、遙かに由比の濱の波の音(おと)を聞いた感じはわるくない。それに鎌倉の四面を圍んだ丘陵の上に、松が竝んで生えてゐるさまも、人に繪のやうな感じを與へた。この下の一帶の低地、若宮大路を挾んだ左右の地は、賴朝時代に覇府(はふ)の行政廳や諸大名の邸(やしき)があつたところで、沿革圖を見ると、その當時のさまが一々指點(してん)される。で、八幡を去つて、師範學校の傍(そば)を通つて、賴朝の邸(やしき)の址(あと)といふのを見て、今度は丘近く賴朝の墓のあるところに行く。

 墓は大江廣元の墓と相竝んでゐる。磴道(とうだう)がかなりに長い。廣元の墓はその後裔の島津家で手を入れているので常に綺麗だが、その主人の賴朝の墓は苔蒸して詣づる人もないのは悲しいやうな氣がする。で、一拜してこゝを去つて、今度は鎌倉がまだ覇府でなかつた以前からある荏柄天神社に行く。さびしい社(やしろ)だが、これが歷史の永い悲喜劇の址を經て來てゐる社だと思ふと、感じが深い。春先は境内の梅が白く咲いてゐて好い。

 やがて鎌倉宮(かまくらのみや)に來る。春は山櫻がちらちらと咲いてゐたりする。護良親王(もりなかしんわう)の弑せられた土牢(どらう)は社の後(うしろ)にあつて、賴めばそれは見せて貰へる。淵邊義博(ふちのべよしひろ)は此處(こゝ)で親王を弑して、その遺骸を奥の松の下に持つて行つて埋めたといふことである。親王の事蹟は、今でも猶ほ人をして暗涙(あんるゐ)に咽(むせ)ばしめるに足るものがある。

 で、此處から引返す金澤の方へ行く路に來て、滑川を渡つて、葛西(かさい)ケ谷(やつ)の方へ行つて見ても好い。此處にも澤山(たくさん)寺がある。北條氏は代々此の谷(たに)にその住所を持つてゐたらしく、高時の亡びた東勝寺(とうしやうじ)の址はもう今は殘つてゐないけれども、それでも別な寺にその時分の址は二三殘つてゐる。これからずつとレールを越して、材木座の方へ出て來ても好いが、普通は、八幡前に戻つて、小袋坂(こぶくろさか)の細い道を通つて、東福寺(とうふくじ)から建長寺の方へと行く。

 建長寺は圓覺寺と共に、此處では是非見なければならない巨刹(きよさつ)である。堂宇も鎌倉時代のすぐれた建築で、その前のヒバの木なども見事だ。山門の扁額は寧(ねい)一山(ざん)の筆として著名である。堂の中には、澤山(たくさん)佛像やら寶物やらが竝んでゐる。富士の牧狩(まきがり)に用いた太鼓だといふものなどもあつた。

 こゝには奥に流行の半僧坊がある。そのせいか、参詣者が多い。それに境内も小ざつぱりしてゐる。こゝから半僧坊のあるところまで五六町。

 こゝを出(で)て少し來ると、山内(やまのうち)の管領屋敷址(くわんれいやしきあと)がある。建物(たてもの)は何もないけれど、地形は依然として、此處に大きな邸(やしき)があつたことを旅客(りよかく)に思はせる。春は川に添うて、赤い野椿(のつばき)の花が咲いてゐたりする。

 圓覺寺は建長寺に比べると、さびしい。いかにも禪寺(ぜんでら)らしい。本堂の扉がびつしり閉つてゐて、晝も小暗(こくら)く杉樹(さんじゆ)が茂つてゐる。それを背景に、梅が白く咲いてゐるさまは繪のやうである。寺の奥に、北條時宗の墓がある。また右の小高い處に、鐘撞堂(かねつきだう)があつて、一撞(つき)一錢で遊客(いうかく)のつくに任せてゐる。をりをり鐘の音(ね)があたりの寂寥(せきれう)を破つてきこえて來る。

 山の内から扇(おふぎ)ケ谷(たに)を通つて、化粧坂(けしやうざか)に行くと、葛原丘神社(くづはらをかじんじや)、景淸土籠(かげきよどらう)などがある。長谷(はせ)の方へも出て行かれる。

 しかし此路(このみち)を行くよりは、再び八幡前に引返す。そして其處に待つてゐる電車に乘る。長谷はすぐである。昔は此間(こゝのあひだ)は麥秀(ばくしう)の歌のひとり手(で)に口に上るやうな畠(はた)であつたが、今はすつかり開けて家屋になつて了つた。町になつて了つた。長谷で電車を下りると、やがて左に觀音に行く路ががわかれてゐる。そつちに行かずに、眞直(まつすぐ)に行く。突き當ると、長谷の大佛である。悲願を以て名高い大佛がそこに立つてゐる。境内も靜かで、木の影が多くなつて夏は涼しい。奈良の大佛などに比べると、非常に小さいのだが、これだけ見ると、かなりに大きく見える。濡佛(ぬれぶつ)であるからであらう。堂守に賴むと、胎内を見せて呉れる。中には佛像などが澤山に並んでゐる。不思議な氣がする。

 こゝを出て、元に戻つて、今度は觀音に行く。門前町から山門に通ずる石段を登る。堂宇もかなりに立派である。こゝにある觀音は、昔(むかし)海中から引上げられたものださうで、案内の僧が轆轤仕(ろくろし)かけ蠟燭を高く持ち上げて、暗い中に立つてゐる像を照して見せる。かなりの大きな像である。

 この附近に權(ごん)五郎社(らうしや)がある。大きな石などがある。權五郎が持つたものだといふことである。昔は力餅(ちからもち)などを賣つてゐたが今は何うしたか。

 鎌倉十井(せい)の一つである星月夜(ほしづきよ)の井(ゐど)なども其の近所にある。晝でも覗くと、その中に星が見えるなどと言はれてゐる。

 この鎌倉の覇府を控へた海は、所謂(いはゆる)由比ケ濱で、西は稻村(いなむら)ケ岬(みさき)、東は小坪の鼻で丸(ま)るく包まれてゐる。何方(どちら)かと言へば、平凡な海である。海岸の砂山に竝んでゐる松も頗る貧弱だ。この海岸路(かいがんろ)は長谷から小坪まで一里に少し近い位だ。

 材木座の方にも、仔細に探ると、見るものが少しはある。寺の大きいのなどもある。小坪から厨子に越えて行く路は、小さな峠を越して。一里半。

 

[やぶちゃん注:大正初年の、既に都市化されつつあった鎌倉の市街の様子がよく分かる名所の記載や呼称には、かなり問題のある箇所が散見されるが、二つだけ、誤りを指摘しておく。

 一つは、頼朝の墓である。「墓は大江廣元の墓と相竝んでゐる。磴道がかなりに長い」とあるのは、北条義時の墓の誤りで、大観的にも「大江廣元の墓と相竝んでゐる」と言うには苦し過ぎ、階段がかなり長くて「相竝んでゐる」のは、広元の墓のすぐ隣り伝義時の墓であって、現在の伝頼朝の墓(頼朝の法華堂跡に後世立てられた供養塔とするのが正しい)位置とアプローチからはあり得ない。因みに、頼朝の墓の東隣の山稜平坦地が北条義時の法華堂跡と推定されている場所を花袋が参ったものである。現在も荒廃が著しいが、当時すでに「苔蒸して詣づる人もないのは悲しいやうな氣がする」という状態であったことが分かる。

 「東福寺」という寺は鎌倉にはない。これは新旧巨福呂坂ルートからはその前は通らないから如何にも苦しいが、寿福寺寺の誤りとしか思われない。

 これらのミス及び後半の「權五郎社」(坂ノ下の御霊神社の別名)の下りで、「昔は力餅などを賣つてゐたが今は何うしたか」と思わず漏らした、その文末から、花袋は執筆時の直近には描かれた各所をすべて来訪したという訳ではないことがバレている。

 「案内の僧が轆轤仕かけ蠟燭を高く持ち上げて、暗い中に立つてゐる像を照して見せる」この描写を読むと、私はどうしても、同じ場所で、同じようにして、この観音を見、激しい感動に打たれた、ある私の愛する人物の手記を引用せずにはいられなくなる。

   《引用開始》

 そこから、われわれは音に聞こえた鎌倉の観音寺の前にいたる。衆生の心魂を救わんがゆえに、永遠の平和のために一切を捨離し、百千万億劫の間、人類と苦難を共にせんがために、涅槃をすてた慈悲憐憫の女仏。――これが観世音だ。

 三層の石階を登って、堂のまえに行くと、入口にひかえていた若い娘が立って、われわれを迎えに出てくる。番僧を呼びに、その娘が本堂の中へ姿を消したと思うと、入れかわりに、こんどは白衣の老僧があらわれて、どうぞおはいりと会釈をする。

 本堂は、今まで見てきた寺と同じくらいの大きさで、やはり同じように、六百年の歳月で古色蒼然としている。屋根からは、さまざまの奉納の品や、字を書いたもの、色とりどりにきれいな色に塗った無数の提灯などが下がっている。入口と向かい合わせのところに、ひとりぽつねんと坐っている像がある。大きさは、人間と同じくらいで、人間の顔をしている像だ。それがへんに薄気味わるく皺のよった顔のなかから、化物じみた小さな目玉をして、こちらを見ている。その顔は、むかしは肉色に塗られ、衣は水色に彩(いろど)られてあったのが、いまは、年とともに積り積った塵ほこりのために、全部が白ちゃけてしまっている。その色の褪せたところが、爺ぐさい姿にかえってよく調和して、ちょっと見ると、生きている托鉢坊主を見ているような気がする。これがおびんずるで、東京の浅草で、無数の参詣者の指になでられて形の擦りへってしまっている、あの有名な像と同じ人物だ[やぶちゃん注:「おびんずる」は底本では「ヽ」の傍点。]。入口の左と右には、筋骨隆々たる、物すごい形相をした仁王が立っている。参詣人が吐きつけた紙つぶてが、深紅の胴体に点々とこびりついている。須弥壇の上には、小さいけれども、ひじょうに好感のもてる観音の像が、炎のちらちらするさまを模した、細長い光背を全身に負うて立っている。

 が、この寺が有名なのは、この小さな観音像のためではないのだ。ほかに、もうひとつ、条件づきで拝観できる像があるのである。老僧が、流暢な英語で書かれた歎願文を、わたくしに示した。それには、参詣者は、本堂の維持と寺僧援護のために、応分の御寄進が願いたいとしてある。宗旨ちがいの参詣者のためには、「人に親切にし、人を善人にみちびく信仰は、すべて尊敬する価値がある」ことを銘記せよ、といって訴えている。わたくしは賽銭を上げて、大観音を拝観させてもらうように、老僧に頼んだ。

 やがて、老僧が提灯に灯をともして先に立ち、壇の左手にある狭い戸口から、本堂の奥の高い暗がりのなかへと案内をする。しばらくのあいだ、あたりに気をくぼりながら、そのあとについて行く。提灯がちらちらするほかには、何も見えない。やがて、なにやらピカピカ光った物の前にとまる。しばらくすると、目がだんだん闇になれてきて、目の前にあるものの輪郭が、しだいにはっきりしてくる。そのうちに、その光った物は、何かの足であることがわかってくる。金色(こんじき)の大きな足だ。足の甲には、金色の衣の裾がだらりとかかっている。と、もう一方の足も見えてくる。してみると、これは、何か立っている像だ。今、われわれのいるところは狭いけれども、天井のばかに高い部屋であることがわかる。そして、頭のずっと上の神秘めいた闇のなかから、金色の足を照らしている提灯の灯影の輪のなかへと、長い綱が何本も下がっているのが見える。その時老僧は、さらに提灯をふたつともして、それを、一ヤード[やぶちゃん注:約九〇センチメートル。]ずつほど離れて下がっている綱についた釣(かぎ)にひっかけると、ふたつの提灯を、同時に、するすると上にたぐり上げた。提灯がゆらゆら揺れながら、上の方へするする上がって行くにつれて、金色の衣がだんだんに現われてくる。やがて、大きな膝の形が二つ、もっこりとあらわれたと思うと、つぎには、彫刻をした衣裳の下にかくれている、円柱のような二本の太股の線があらわれてくる。提灯は、なおも揺れながら、上へ上へと昇って行く。それにつれて、金色のまぼろしは、いよいよ闇のなかに高くそびえ、こんどは何が出てくるだろうという期待の心が緊張してくる。頭のずっと上の方で、目に見えない滑車が、コウモリの鳴くようなキイキイ軋る音を立てるほかは、何の物音もしない。そのうちに、金色の帯の上のあたりに、胸らしいものが見えてくる。すると、つづいて、冥福を祈るために高くあげられている、金色さんぜんたる片方の手が見えてくる。つぎには、蓮華をもった片方の手が、そうして、いちばん最後に、永遠の若さと無量のやさしさをたたえて、莞爾(かんじ)として微笑(みしょう)したもう、金色の観音の慈顔があらわれる。

 このようにして、神秘の闇のなかから現じたもうたこの女仏――古代が産み、古代美術が創造した作品の理想は、ただ、荘厳というようなものだけにはとどまらない。この女仏からひきだされる感情は、ただの讃歎というようなものではなくて、むしろ、畏敬の心持だ。

 美しい観音の顔のあたりに、しばらく止まっていた提灯が、この時、さらに滑車のきしる音とともに、また上へ昇って行った。すると、なんと見よ、ふしぎな象徴をあらわした、三重の冠があらわれた。しかも、その冠は、無数の頭と顔のピラミッド――観音自身の顔を小さくしたような、愛らしい乙女の美しい顔、顔、顔の塔であった。

 けだし、この観音は、十一面観音なのである。

   《引用終了》

 この筆者が、如何にこの観音像に感動したかは、以下、次の「十三」章をまるまる、この長谷観音の縁起を語ることに費やしていることからも分かる(「新編鎌倉志卷之五」の「長谷觀音堂」の記述と比べれば、その温度差は天地ほども違うと言える)。……しかも、もうこの人物が誰かは、お分かりであろう――彼は日本人ではない――いや――後に日本人となったアイルランド人――小泉八雲である。これは彼の日本来日直後の印象を纏めた明治二十四年に刊行された、

HEARN, Lafcadio Glimpses of unfamiliar Japan 2vols. Boston and New York, 1894.

の「十二」章の全文で、引用は私の尊敬する翻訳家平井呈一氏の「日本瞥見記(上)」(一九七五年恒文社刊)に拠った。著作権が存続するが、この項には最も相応しい引用であると確信し、章全体の引用を行った。これは著作権侵害に当たる行為に相当するとは私は思っていないが、著作権者からの要請があれば、必要な引用としての観音の描出シーンを残して前半部を削除する用意はある。

 最後に。前に示した「昔は力餅などを賣つてゐたが今は何うしたか」という懐旧表現に着目して貰いたいのである。実はこの御霊神社の境内には彼の盟友であった国木田独歩が明治三五(一九〇二)年から一年ほど移り住んでいたのである。名物の力餅は独歩の好物でもあった。花袋の、突然の不思議な感懐の吐露は、実は亡き友の面影とのオーバー・ラップなのである。]

 

栂尾明恵上人伝記 21

 建久九年〔戊午〕秋の末に、高尾聊か騷動する事有りしかば、むつかしくとて、本(もと)住(す)み捨てし紀州白上の峯に歸り給ひしが、此の所猶人近(ひとちか)くして、樵夫(せうふ)の斧の音、耳かしましくして、又三四町下は大道なり。うるさきこともあればとて、石垣山(いしがきやま)の奧に、人里(ひとざと)三十町計り隔てゝ、筏立(いかだだち)と云ふ處あり。興ある靈地なり。上人の舅(しうと)湯淺兵衞尉宗光(ゆあさひやうゑのじようむねみつ)が知行(ちぎやう)の處なり。仍て其れに草菴を構へて、請(しやう)じ申されければ、移り給ひて坐禪行道(ざぜんぎやうだう)、萬事を抛(なげう)ちて營まれけり。其の間、唯心觀行式(ゆゐしんくわんぎやうしき)一卷撰集(せんじふ)す。又、隨意別願(ずゐいべつぐわん)の文同じく之を集む。又解脱門義(げだつもんぎ)竝に信種義(しんしゆぎ)之を撰ぶ。

[やぶちゃん注:「筏立」和歌山県有田郡有田川町(旧金屋町)にある明恵の生地。現在は「いかだち」と呼んでいる。現在、歓喜寺(かんぎじ)という浄土宗の寺が現存するが、ウィキ歓喜寺」によれば、伝承によればこの寺の創建は寛和二(九八六年)に「往生要集」の著者源信の開創とする。その後、衰微したが、建長元(一二四九年)年に明恵の高弟で本伝記の作者喜海が再興したとされ、これを促したのは明恵の従兄弟湯浅宗氏(本文の宗光の三男)であったという(当時は真言宗寺院であったが近世に浄土宗に改宗)。

「舅湯淺兵衞尉宗光」「舅」は「おじ」、母親の兄弟である伯父・叔父の意。「湯淺兵衞尉宗光」(生没年不詳)は鎌倉前期の武士で宗重(紀伊国湯浅城(現在の和歌山県有田郡湯浅町青木)を領した平清盛配下の有力武将。清盛の死後、平重盛の子忠房を擁して湯浅城に立て籠もるも源頼朝に降伏して文治二(一一八六)年に所領を安堵される。以後、順調に所領を増やして紀の川流域まで勢力を広げ、後に湯浅党と呼ばれた)の七男(養子とも)。七郎左衛門尉と称した。後に出家して浄心と号した。当初は父と共に平氏に仕えたが、やがて源氏に味方するようになり、鎌倉幕府御家人となった。父から紀伊国保田荘(現在の和歌山県有田市)を譲られて保田氏を名乗るようになる。嫡流でなかったにも拘わらず、湯浅一族の中での最有力者となり、保田氏が湯浅一族全体の主導的立場に立つ基礎を築いた。甥に当たる明恵の後援者でもあった(以上は主に「朝日日本歴史人物事典」に拠った)。]

朱の搖椅子 大手拓次

 

 朱の搖椅子 

 

岡をのぼる人よ、

 

野をたどる人よ、

 

さてはまた、とびらをとぼとぼとたたく人よ、

 

春のひかりがゆれてくるではないか。

 

わたしたちふたりは

 

朱と金との搖椅子(ゆりいす)のうへに身をのせて、

 

このベエルのやうな氛氣(ふんき)とともに、かろくかろくゆれてみよう、

 

あの温室にさくふうりん草(さう)のくびのやうに。 

 

[やぶちゃん注:「氛氣」空中に見えるクモや、かすみのような気。なお古くは空気・大気の原義である「雰囲気」を「氛圍氣」とも書いた。

 

「ふうりん草」双子葉植物綱キキョウ目キキョウ科ホタルブクロ属 Campanula のホタルブクロ(螢袋)のことか、若しくは狭義の同属のフウリンソウ Campanula medium を指している。現在は改良品種が学名のラテン名「小さな鐘」をそのまま用いてカンパニュラ(カンパヌラ)などとも呼ばれる。フウリンソウ Campanula medium は園芸では正式和名のフウリンソウよりもツリガネソウ(釣鐘草)と呼ぶことの方が多いらしい。ウィキの「カンパニュラ」 の「ふうりんそう」の項(画像あり)には(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更した)、『この仲間では最もポピュラーな植物。草丈二メートルくらいになる二年草だが、秋まきで翌春開花する一年草に改良された品種もある。花色には青紫・藤色・ピンク・白などがあり、上手に育てると、花径一〇センチメートル近い花が数十輪咲き、花壇の背景などに植えると見事である』とある。ここは温室とあるので、後者と考えてよかろう。]

 

 

無題(心靈意識のために絶息する手淫がある、……) 萩原朔太郎

心靈意識のために絶息する手淫がある、

眩惑する妖姫の歡待がある、

芳香無比の LIQUEUR がある、

而して此の種の風月賀宴はその性質上驚くべき秘密性犯罪をを受胎する。

 

見ろ、彼はまつ靑(さを)になつて震へて居る。

 

[やぶちゃん注:底本第三巻の未発表詩篇より。無題。「秘」の字体はママ。]

鬼城句集 春之部 蕨

蕨    松風のごうごうと吹くや蕨取り

[やぶちゃん注:底本では「ごうごう」の後半は踊り字「〱」。]

     王公の履を戴かず蕨かな

[やぶちゃん注:これは「史記」列伝第一に挙げられた殷末の孤竹国(一説に河北省唐山市周辺)の王子の兄弟で、高名な隠者にして儒教の聖人伯夷(はくい)と叔斉(しゅくせい)が、周の武王(本句の「王公」)が父文王の喪の内に紂王を討とうとするのを不忠として諌め、その不忠の君子の国の糧を食むを恥として、王の詫びと重用を拒否し(本句の「履(り)を戴かず」)首陽山に隠れ、蕨(本句の下五)・薇(ぜんまい)を食としたが、遂に餓死して亡くなった故事に基づく。因みに、私は蕨や薇の新芽の渦巻きを見ていると、いつも藁草履を思い出すのを常としている。]

     蕨たけて草になりけり草の中

     蕨出る小山讓りて隱居かな

     食ふほどの蕨手にして飛脚かな

2013/04/27

明恵上人夢記 7・8

一、建仁元年正月三日より、人の爲に修行法(しゆぎやうぼふ)を祈禱す。同十日。同十一日の夜、夢に云はく、上師、成辨と共に、播洲へ下向せしむ。船二艘あり。一便には上師乘らしめ給ふ。又一艘には餘の同行等乘らしめ、然れども、成辨、上師之船に乘り、暫時之間、餘の御房等之船に乘り遷る。佛眼(ぶつげん)の具足入れたる經袋をば上師之船に置けり。其の後、急に駃(はや)き風出で來、船走る事極り無く、譬へ無き程也。此の船は前に進み、上師之船は後に來る。成辨、經袋を取りて來ずと思ひて、心に深く之を悔ゆ。海に入りもこそすれと思ふ。人々も海に入りやせむずらむと思へり。其の船、極めて狹くして、而も長し。ここに於いて、誤り無く陸地に付き了んぬ。人有りて、來りて成辨を肩に乘せて、播洲の御宿所に到り付く。夢心地に、前々の如く、東寺の修理播洲御下向とも思はず、唯、播洲御下向と思ふ。さて御宿處に到り、巳に上師等、皆、落ち付き給ふ。成辨、此の經袋を尋ぬるに、上師の御房云はく、「など我にこそ言ひ誂(あつら)へてあづけましか」とて、此を歎かしめ給ふ。然る間、■■■一人の同行有りて、此の經袋を慥(たしか)にして持ち來る。成辨、悦びて之を取ると云々。其の後、一人の同行有りて、語りて曰はく、「上師告げて曰はく、『明惠房をば、二因緣有る故、此へ具して來る也。一つには病患を療治せん爲の故也。〔此、上之呵嘖之言(うへのかしやくのげん)に似たること有り。之を略す。〕二つには云々。』」善くも聞かず。其の後、上師、御具足を見る。自(みづか)ら手に一つの手箱を持ち給へり。見るに、此の御前之佛、布施之手箱也。夢心地に思はく、此は成辨に施したりしを、此の上師の取り給ふ也と思ふ。又、所治(しよぢ)之驗(しるし)と思ひて、死人等多く見ゆ。此(これ)、所治の相、雜(まじは)れる故也と云々。

 

 一、同十一日、一時に行法す。同十二日の夜、夢に、又、上師、播洲に居給ふ。成辨又參ず。彼の上師悦喜して、種々の談話を作す。

 

[やぶちゃん注:この二つ(厳密には大きく三つと私は判断する。後述)の夢は完全に連続したプロット上のものであるので、続けて示した。

「建仁元年」西暦一二〇一年。

「修行法」密教の修法。

「同十日。同十一日の夜、夢に云はく」この叙述は明恵の夢の特異性を証拠付けるものである。「同十日」は一応、十日の夜の夢ととれる(現代語訳ではそうした)が、必ずしも夜見た夢ではなく、部分的には修法の最中に観想した白日夢様(後述)のものとも採れなくはない(これは最初に述べたように明恵には特異なことではなかった)。それはともかくも、驚くべき事実は――彼は例えばこのように夢を連続した無矛盾(その夢世界に於いて)なものとして、間に有意な覚醒中断を挟みながらも、二日続けて前後篇で(実はこれは叙述が短いが、その翌日「8」も見ているから三夜連続の三部作である)夢をみることがあった――という事実である(こういう夢を見る方は恐らく極めて少ないと思われる)。但し、ここで彼がかなり過酷な呪法を修していたと仮定すると、昼間の覚醒時にあっても恐らくは平生の昼間覚醒状態の正常脳波レベルよりも少し覚醒時幻覚を見やすいレム睡眠のそれに近い状態に偏移していた状態にあった可能性が高いようには思われる。私が夜の夢ではない可能性を示唆したのはそういう意味でもある。ともかくも、寧ろ、そうした『夢の続き』現象が明恵には普通に頻繁にあったことが、この如何にもさりげなく日付を並べていることからも窺えさえするのである。なお、この夢はそういう意味で、明らかにインターミッションがかなりはっきり分かる形で入っている。修法時の覚醒時幻覚ならインターミッションが入るのは当たり前であるが、睡眠中の夢について、近年の研究では必ずしもレム睡眠時または入眠時幻覚相当や覚醒前駆状態にのみ夢を見ているわけではなく、ノンレム睡眠時でも夢を見ていることがあるらしいから、その夢部分のインターミッションを総てノンレムと判断することは出来ないし、更にこの夢は後述するように覚醒した明恵によって一部が意識的にも無意識的にもカットされている可能性がすこぶる高いのである。従って私は、この二日間に渡る長大な「7」の夢を全部で(a)~(f)の七つのパートに別け、翌日の「8」と合わせて八つの夢として現代語訳した。

「上師」母方の叔父で出家最初よりの師である上覚房行慈。明恵はこの翌建仁二年に、この上覚から伝法灌頂を受けている。

「播洲へ下向せしむ。船二艘あり」特に記載はないが(ないからこそ)、設定はかつていた神護寺であり、桂川から淀川を下っているイメージと思われる。後の部分で「夢心地に、前々の如く、東寺の修理播洲御下向とも思はず、唯播洲御下向と思ふ」とあるのは、私の場合もよくあるところのこれは夢の中での夢の自己の内的な認識補注に相当するものであるが、その「東寺の修理播洲御下向」という部分が、「4」で注したように、先立つ建久年間に行われた文覚・上覚らによる修理に関わって、実際に明恵は上覚に随伴して播洲に行ったことがある可能性が高いと推理するものである。その目的は判然としないが、修理に用いる建材か宮大工の関連かとも思われる。そこについては識者の御教授を乞うものである。

「佛眼の具足」「佛眼」は大日如来、「具足」はこの場合、僧の所持品でも狭義の最も重要な経典を指していよう。この仏眼如来の経とは、かの建久七(一一九六)年の「6」大孔雀王の夢で明恵に与えられた、明恵の夢界に於ける最重要アイテムを指していると読むべきであると私は思う。即ち、この夢では「6」の夢がプレにあって、その世界との夢界内無矛盾が成立しているということが、この夢を解き明かす上で重要であると私は思っている。

「其の船、極めて狹くして、而も長し」以下、「ここに於いて、誤り無く陸地に付き了んぬ」とシークエンスが明らかに変わるので、ここを区切りとし、前を(a)パート、後を(b)パートとした。

「人有りて、來りて成辨を肩に乘せて、播洲の御宿所に到り付く」私はこの肩にひょいと二十八歳の大人を乗せてずんずんと歩む人物に、異人性を強く感じる。描写がないが、私は所謂、四天王下の三十二将の天部の仏神の誰かではないかと踏んでいる。

「さて御宿處に到り、巳に上師等、皆、落ち付き給ふ」の「さて」という接続詞は一種の場面転換を意識的に示したものである。従ってここから後を(c)パートと採る。

「誂へ」人に頼んでさせる、の意。

「此を歎かしめ給ふ」ということは、上師はその経袋の存在すら知らず、この場面では行方不明であるということになる。その辺りの明恵自身の心の動きが描かれていないのが残念である。現代語訳ではそこを出してみた。

■■■」これは底本にはない。河合氏が「明惠 夢に生きる」の本夢分析の文中で、原本ではこの部分で『三文字ほどが抹消されている。「一人の同行」の僧を思いだしかけて書いて消してしまったのか、ともかく、ここに記憶の不鮮明さが伴ったことを反映していて、非常に興味深い』とあるのに基づく。なおこれは、私の次注の「思い出せないケース」という判断をも補強して下さるような心強い記載であると感じている。因みに、河合氏はこの文脈でこの「一人の同行」が明恵にとって『未知の僧』であるとされ、その未知の同行の人への思慕という形でシンボライズされている想いが、『結局は釈迦その人への直接的な思慕として結実してくるのである』と分析されておられる。これは極めて至当な解釈として私も支持するものである。

「悦びて之を取ると云々」先にも注したが、この「云々」はこの後に少し有意な展開(シーン・シークエンス)があったが、それを明恵が思い出せない場合に用いたケースと私は採る。従ってここでまでを(c)パート、以降を(d)パートとする。

「其の後、一人の同行有りて、語りて曰はく」この人物は先の経を届けてくれた「一人の同行」とは別人であると私は採る。こういうプロットのはっきりした中で夢記述をする場合、同じ人物であれば、意識的にそれを分かるように記そうとするのが、私の永年の夢記述での習慣からの他者の夢記述でもある程度、普遍的に類推出来る特徴であると思うからである。従って、ここでこれが同一人物であれば――しかも間に思い出せない欠落を挟むというデメリットを補う上でも――「かの經袋を持ち來り給ふ同行の僧」とするはずである。そもそも明恵は経が取り戻せたことで頗る喜悦しているのであるからして、そう記してこそ自然である。にもかかわらずそっけなく、しかも前文の直ぐ近くでくだくだしく見えるように「一人の同行」としたのは、とりもなおさず、これが別人であることを意味していると私は考えるのである。更に言えば、この人物が語る内容は明恵にとってある種のアンビバレントな感情を引き起こさせる契機であるように思われる(次で注するように断言は出来ないが)。その、もしかすると明恵の心内を落ち着かなくさせる人物が、彼の直前の救世主(経を救助した)と同一人物というのはプロットからしても不自然である(私は明恵の不条理な夢を私の覚醒的論理によって強引に辻褄の合うように変造しようとしているのではない。夢記述をしたことのない方には理解しにくいと思うが、私はなるべく夢の不条理性をそのままに残すことを心掛けてきた。では、今ここで私が問題にしていることは何かと言えば、私は明恵が覚醒時に自身の夢を、なるべく見たままに再現しようとした場合にどう記述するかという推理から、そこで用いられている言辞や表現の等価性や差違性を定量化するということである。また附言すれば、実は夢の不条理性には、その閉じられた系の中では実は頗る自然に是認されている限定的無矛盾性(私はそれを単に超自我の検閲規則というしょぼくさい限定存在としては考えていない。もっと遙かに自由自在な性質のものである)が厳然としてあるのである。それは私などの場合、通常、一つの夢の中でのみ有効であるが、強靭な精神力を持った特異な明恵の場合、そうした夢で汎用可能な現実的論理を超越した高次で特異な夢内の法則が、持続的に保持されていたようにも窺われるのである。そしてそれによって、明恵にとっての夢が、現実の体験以上に意味や価値を持つもの変化していった(寧ろ、それらが相互に影響し合って高度化した)のだと私は考えているのである。

「明惠房をば、二因緣有る故、此へ具して來る也。一つには病患を療治せん爲の故也。〔此、上之呵嘖之言似たること有り。之を略す。〕二つには云々。」この台詞には大きな問題点がある。一つは、上覚が明恵をここに随伴してきた二つの理由を、本人にではなく、この同行僧である他者に語ったという事実、更にその最初の理由である「病患を療治せん爲」の内容が、前の仏眼如来経の一件で上覚が「など我にこそ言ひ誂へてあづけましか」と明恵を見損ない、失望し、嘆息した内容と似たようなものであるから(重複するから、というニュアンスである)省略するという、如何にも分かりにくい変な明恵の割注の存在、そして、もう一つの理由が隠蔽されている点である。この二つ目が記されていないことと、そこに例の「云々」があること、更に言えば、その直後に「善くも聞かず」とあることなど、この部分は訳も解釈もしにくいのである。何より「善くも聞かず」はよく聴こえなかったという表現ではなく、(何かある反発心があって)よくも聞こうとはしなかった(だから聴こえたけれど、忘れた。実はそれは覚えていたけれども、忘れたいものであったから、この夢記述をしている今はもう忘れてしまった)という言い分けや暗示のようにさえ読めるのである。そうすると俄然、ここで覚醒時の明恵が割注で口を挟んだのも、聴いたはずなのに覚えていない(若しくは意識的そこを聞こうとしなかった)のは、とりもなおさず、この言葉を上覚の口からではなく(この又聞き間接話法が重要)、「同行の一人」の口から聴いたことが、恐らくは二つの理由内容を含めて極めて明恵にとって不愉快千万なものであったことを示唆しているように私は思うのである。そもそもこの「病患」とは、身体的な病気ではなく、弟子としての明恵の修養の中にある、正しい仏道を踏み外した誤った致命的な疾患の謂いであろうと私は解釈する。でなくては割注の意味が通じないからである。そして、この一つ目の理由でさえ、明恵は途中から聴きたくなくなるほどに不愉快になったのだ。それは覚醒後も持続する感情であった。だからこそ珍しい割注などを挿入して、その不快感情を師に関わる記載であるが故に誤魔化したのである。

「其の後、上師、御具足を見る」「其の後」は明らかに有意な時間経過(若しくはその部分の夢の失念)を指しているから、これ以降を(e)パートとする。「御具足」は、ここでは広義の僧の携帯品のことであろう。

「此の御前之佛、布施之手箱也」よく分からないが、私は神護寺の御本尊若しくは上覚の念持仏の仏前に置かれてあったはずの布施として奉られた手箱の謂いで採った。謂わば、法燈の換喩的象徴物品として私は採るのである。

「又、所治之驗と思ひて、死人等多く見ゆ。此、所治の相、雜れる故也と云々」明らかに本筋とは違う別な、そして死者累々たるすこぶる凄惨な情景である。「所治之驗と思ひて」はこれを記述している覚醒時の明恵の説明であって、前日より今日まで(次注参照)修してきた呪法の影響かと思われ、という謂いであろう。彼が行った修法が如何なるものであったのかは分からないが、そこでは人の死、その死体変相を説く仏説などが含まれていたものと思われる。それがこの累々たる死体の夢として現われたのであろう、と明恵は自己分析しているものと読む。しかし、この後に翌日の夢があることを考えれば、この一連の夢の中では、一種のこの一連の夢の意味を暗示するために配された、非常に重要なフラッシュ・バック・シーンでもあると私は考えている。これを(f)パートとした。

「同十一日、一時に行法す」これは「7」の夢を見る昼間の事実を記している。「一時に」は副詞で、短時間に集中して行うさまをいう。

「所治」二日からずっと行って来て、この日の昼も短い間おこなった修法。]

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 建仁元年正月三日より、さる方の求めにより、さる修法(ずほう)を行(ぎょう)じ、祈禱をなした。その後半の十日及び十一日の夜、続けて見た夢。

(a)

 上覚上師が、私とともに播磨国へと船で下向なさる。

 船は二艘あった。

 一艘には上師がお乗りになられた。

 また、一艘には私の同行(どうぎょう)の僧らを乗らせたが、私は最初は、自分の意志で上師の船に乗り、しばらく下って後、その他の同行せる御房らの乗る船に乗り換えた。

 ところが、その乗り換えた際に、自分の大日如来の経を入れた大事な経袋を、上師の乗っておられた船の中に置き忘れてしまったことに気づいた。

 ところが、その直後に疾風(はやて)が吹き荒び、私の乗った船の早く下ってゆくことといったら、譬えようもないほどの速さなのである。

 私の乗った船はみるみるうちに前へ前へと進み下り、上師のお乗りになられた船はずっと後から遅れて来るのであった。

 私は、

『――ああっ! 忘れた経袋を取りに戻らなかった!……』

と、思わず、心に深く悔いたのであった。また、私の乗る船の尋常でない速さに、

『――このまま我ら、海に沈んだりしたら一大事じゃ!』

と思ったりもした。

 同船している御房連中も、

『……海に沈んでしまうのではなかろうか?……』

と心配している。

 その船の形状は、ともかく極めて船幅が狭いものであって、しかも全長は異様に長いのであった。……

 

(b)

……しかし、その後、辛くも何とか無事に――いや、思ったような難船という事態も起こらずに――陸地へと流れ着いたのであった。

 海岸に人がいるのが見えた。

 その人がすっと寄ってきて、船の中の私を、童子ででもあるかのように、ひょいと肩に載せると、いとも軽そうに、播磨の上師の御宿舎まで運んで呉れる。……

 なお、この時、私は夢心地(ごこち)ながらも、はっきりと、

『この旅は――かなり以前に行ったことがある東寺の修理改修事業に関わる旅――であるという認識はなく――ただ純粋な播磨国への行脚の旅――である。』

という自覚を夢の中で持っていた。……

 

(c)

……さて、御宿舎に着いてみると、何と、後の船に乗っておられたはずの上師御一行は、既に先に到着なさておられた。

 私は、すぐにあの経袋のことを、訊ね申し上げたのであったが、上師の御房様は、

「どうして、この私に頼んで、その経袋を預けなかったのじゃ?!」

と、如何にも私の失策を惜しむように、その一件をしきりにお歎き遊ばされるのであった。――即ち、上師様は、大日如来の経の入った経袋のことを御存じなく、従ってここにはその経がないということを意味した――

 私は思った。

『……ああっ! 私の大切な、かの大日如来の御経は失われてしまったか!……』

 すると、その時である。

 後から遅れて入室してきた一人の同行の僧――■■■殿――があって、その御方が、何と! かの御経の入った経袋をしっかりと両の手に捧げて、持ってこられたのであった。

 私は喜悦して、これを受け取ったのであった。……

 

(d)

……その後のことである。

 先の経を持ってきて下さった人物とは違う、別の上師の同行がいた。

 その男が、私の元へ来たって語って言うことに、

「上師が仰せられたことじゃが、『明恵房をここに伴い来たったのには、ふたつの理由がある。

――一つには明恵自身の仏心の病んだ部分を療治せんがためという理由である。〔明恵注:この理由については、先の経袋を上師に委託しなかったことを譴責したのと酷似する内容が語られているに過ぎないので、略した。〕……

――二つ目の理由は…………』……

……この二つ目の理由は……そうさな、よく聴いても、これ、おらなんだわ…………

 

(e)

……その後の場面。

 上師の御持ち物を垣間見た。

 御自身で手に一つの手箱をお持ちになっておられた。

 それをよく見てみると、それは神護寺にある御本尊の前に置かれてあるはずの、布施として供えられた、あらたかなる手箱ではないか?!

 夢心地ながらも、私は、はっきりと、

『……!……あの手箱は、この私に嗣がれたはずの手箱ではないか!……何と! この上師が、それを知らぬ間に不当にも! お取り上げになられたかッ?!……』

と強い憤りを覚えたのであった。……

 

(f)

また、それに続く夢の中には、《明恵附記:この昼間に成した修法(ずほう)の影響からと思われるが、》死人(しびと)らが多く登場する場面を見た。《明恵再附記:先の附記は、この死人の群れは、当日、私が修した修法の内容や性質が、夜の夢に作用して、かくなって現われたのであろうと考えられる、という意味である。》」

 

一、建仁元年正月十一日、短時間の集中的な修法(ずほう)を行じた。その翌日の十二日の夜に見た夢。

「また、上覚上師がいる。上師はやはり、いまだ播磨国におられるのであった。

 私は、またしても師の御前に参じた。

 ところが今度は、いたく私の参ったのをお悦びになられて、いろいろと話しに花が咲いたのであった。

 

[やぶちゃん補注: 河合氏は「明惠 夢に生きる」でこの夢を取り上げ、『この夢を必ずしも上覚という人』実際の師としての個人と『明恵との葛藤と読みとる必要はなく、上覚が一般の当時の僧を代表しているのかも知れないし、あるいは華厳』という宗派存在や教団『を代表しているのかも知れないのである。ともかくもこの夢は、明恵が上覚を「師」として、ひたすらそれに従ってゆくのではなく、自分の道を自分の手で拓いてゆくべきことが暗示されているように思われる』と分析しておられる。ユング派らしい万人受け入れられやすい穏当な夢分析である。但し、最後の部分ではもう少し深く抉っておられ、注で述べた如く、この夢の翌年に『伝法灌頂を受けた頃、明恵は密教の様式によって華厳の教理を体得しようとする意図で、いろいろな工夫をこらしているが、華厳と真言という二つの教理の存在も、明恵にとっては大きい意味をもっていたと推察される』とある。

 7での師上覚とのアンビバレンツは、読んでいて何の困難もなく「腑に落ちる感じ」が私にはする。それは河合氏の夢分析を読まずとも、多くの方が同様に納得されるものと思う。「何を意味するかが論理的に解る」のではなく、こうした夢を見た明恵の心的複合(コンプレクス)が「直感的に腑に落ちる」のである。また、私には、

(e)での師への感情的な憤りの感情が超自我を刺激したために、

(f)の末尾の死体変相の夢魔が明恵に黙示され(それをそうは明恵はとらずに昼間の修法という一種の外部刺激によるものと「強いて」解釈しているところが、実は超自我の解釈検閲のようにも見えるのである)、

その無意識の夢の中の明恵の感情鎮静と師弟間の礼の復元を企図して、

「8」という打って変わった大団円の夢が用意されている、

と私は実に自然にこの長編三部作を破綻なく読解し終わるのである。

 再三述べるが、私はこの夢の隠された意味が分析的に解ったと言っているのではない。私はこの長大な明恵の、一見、複雑な夢を、一つの連続したストーリーとして、十全に楽しむことが出来た、と言っているのである。フロイトのような汎性論的単相の性的象徴関係でステロタイプに分析することは、実は容易いのだと思う。しかしそれは「ためにする」解釈の定式化でしかない。そうして、明恵が積極的に夢を記述する楽しみに生きたように、その明恵の夢を読んで、生き生きと楽しむこと――そこには無論、牽強付会な自己満足が潜んでいることも事実である。しかし、それは私に限らず、精神分析の夢理論総てに言えることなのである――それこそが実は夢を読み解くことの大切な第一歩であると、実は私は信じて疑わないのである。]

鬼城句集 春之部 柳

柳    靑柳や幕打張つて飛鳥井家

     靑柳の木の間に見ゆる氷室かな

麥 萩原朔太郎 (初出形+習作草稿)

 

 

                夢みるひと

 

麥(むぎ)はさ靑(あほ)に延(の)び行(ゆ)けり

 

遠(とほ)き畑(はたけ)の田作(たづく)りの

 

白(しろ)き襦袢(じゆばん)にゑんゑんと

 

眞晝(まひる)の光(ひかり)ふりそそぐ

 

九月(ぐわつ)はじめの旅立(たびだ)ちに

 

汽車(きしや)の窓(まど)より眺(なが)むれば

 

麥(むぎ)の靑(あほ)きに驚(おどろ)きて

 

疲(つか)れし心(こゝろ)が泣(な)き出(だ)せり 

 

[やぶちゃん注:大正二(一九一三)年十一月十七日附『上毛新聞』に前の「雨の降る日」とともに掲載された。「靑(あほ)」(二ヶ所)「ゑんゑん」はママ(新聞の総ルビは作者の意図せざるものである)。なお、この詩は底本第二巻に所収する「習作集(哀憐詩篇ノート)」(「習作集第八巻」「習作集第九巻」と題されて残された自筆ノート分)の「習作集第八巻(一九一四、四)」に以下の詩形とクレジットで所収している。

 

   *

 

 麥

 

 

麥はさ靑に延び行けり

 

遠き畑の田つくりの

 

白き繻絆にえんえん

 

眞晝の光ふりそゝぐ

 

九月はじめの旅立ちに

 

汽車の窓より眺むれば

 

麥の靑きに驚きて

 

つかれし心が泣き出せり

           (一九一三、八)

   *

「繻絆」はママ。]

黄色い馬 大手拓次

   濕氣の小馬

 

 

 

  黄色い馬

 

そこからはかげがさし、

ゆふひは帶をといてねころぶ。

かるい羽のやうな耳は風にふるへて、

黄色い毛竝(けなみ)の馬は馬銜(はみ)をかんで繫(つな)がれてゐる。

そして、パンヤのやうにふはふはと舞ひたつ懶惰(らんだ)は

その馬の繫木(つなぎ)となつてうづくまり、

しき藁(わら)のうへによこになれば、

しみでる汗は祈禱の糧(かて)となる。

 

[やぶちゃん注:「パンヤ」双子葉植物綱アオイ目アオイ科(新エングラー体系及びクロンキスト体系ではパンヤ科)パンヤ亜科セイバ属カポック Ceiba pentandra などのパンヤ類の植物の種子から繊維として採取される、紡ぐことが出来ない綿のような長毛。クッション・救命胴衣・ソフトボールの詰め物などに用いられる。ポルトガル語“panha”を語源とする。]

ここより「濕氣の小馬」の章に入る。

2013/04/26

名も知らない女へ 大手拓次

 名も知らない女へ

 

名も知らない女よ、

おまへの眼にはやさしい媚がとがつてゐる、

そして その瞳(ひとみ)は小魚のやうにはねてゐる、

おまへのやはらかな頰は

ふつくりとして色とにほひの住處(すみか)、

おまへのからだはすんなりとして

手はいきもののやうにうごめく。

名もしらない女よ、

おまへのわけた髮の毛は

うすぐらく、なやましく、

ゆふべの鐘のねのやうにわたしの心にまつはる。

「ねえおつかさん、

あたし足(あし)がかつたるくつてしやうがないわ」

わたしはまだそのこゑをおぼえてゐる。

うつくしい うつくしい名もしらない女よ

これを以って「球形の鬼」の章を終わる。

不思議な無言電話の考察(杉下右京風に)

昨日の5時半前、家の電話が鳴った。とってから何時もながら、相手の様子を窺うタメを十分入れてから
(僕は電話が大嫌いで常にそうしている)
こちらを名乗った。
――無言である
――が――
――電話の向こうではっきりとした時報が鳴っている
――例の117とそっくりな時報である
――しかし無言である
――僕も無言で暫く聴いていた
――そして
――切れた。

ネット上で今調べてみた。こんな情報があった。

  《引用開始》
一番可能性があるのが「いたずら電話」です。
事業所で使用している電話交換機やビジネスホンには「外線ー外線転送」機能や「三者通話」機能が標準装備されています。
いたずらを仕掛けた者をA、質問者さんをBとします。
まず、Aが自分の事業所から時報(117)に電話をします。
その後回線を一旦保留し、Bの会社の番号に電話をします。
Bが応答すると同時にAが保留を解除し、「外線転送」あるいは「三者通話」状態にします。
「外線転送」の場合はAの交換機を中継し「時報」とBが通話状態になります。
「三者通話」の場合は時報とAとBがAの交換機を中心に三者通話状態になります。
「三者通話」の場合はAが声を潜めていることで、Bと時報がつながった状態を聞くことができ、Bが驚いている状態を聞いている…という構図です。
事業所でなくても「トリオホン」というサービスを利用すると、三者通話をNTTの機能で実現できますが、1xx番号は利用できませんので、やはり事業所の電話交換機の機能を使ったいたずらであろうと考えます。
   《引用終了》

なるほど!

……しかし……一つ、よろしいですか?
僕の場合、とってから切れるまで十秒はあったんですよ。
ところがその間、117のような「何時何分をお知らせします」というナレーションは、一切、なかったんですがねぇ……

……つまらないところが気になる――これが僕の悪い癖……

中島敦漢詩全集 六

  六

狼星方爛々
參宿燦斜懸
凍夜疎林上
悠々世外天

[やぶちゃん注:底本では、以下のように、

狼星(シリウス)方爛々
參宿(オリオン)燦斜懸
凍夜疎林上
悠々世外天

と、
「狼星」の右に片仮名で「シリウス」
「參宿」の右に片仮名で「オリオン」
のルビが振られている。]

○やぶちゃんの訓読1(正格)

狼星(らうせい) 方(まさ)に 爛々
參宿(しんしゆく) 燦(さん)として斜めに懸る
凍夜 疎林の上
悠々たり 世外(せぐわい)の天

○やぶちゃんの訓読2(変格)

狼星(シりウス)は方(まさ)に爛々として――
參宿(オリオン)は燦(きらめ)いて斜めに懸かる――
凍(こご)れる夜(よる)の疎らな林の上――
悠々としてある――この世の外(ほか)の天が――

〇T.S.君原案(一部は藪野補筆)の中国語を踏まえた語釈
・「狼星」シリウス。一月初旬には午前零時頃に、二月初旬には午後十時頃に南中する。
・「方」ここでは、まさに今、という意味。
・「爛爛」強く光り輝くさま、若しくは色彩が鮮やかなさま。ここは前者。
・「參宿」オリオン座の三ツ星のうち向かって最も左下の星を中心とした中国古代の星宿。現代でいうオリオン座の恒星計七つにより構成される。但し、ここで詩人が仰ぎ見ている「參宿」というのはこのオリオン座の星座全体ではない。ここで詩人にとっての「參宿」とは――その三ツ星――であったと考えてよい。そもそもそうとらないと、シリウス一顆と參宿の釣り合いが取りにくく、何より、それを形容する「斜懸」という表現もそぐわなくなってしまうからである。従って、この詩においては読者の目にオリオン座の三ツ星さえ輝いて見えておればよい。そしてこれらの星はシリウスのやや西側、視角にして二十度弱しか離れていないところに、輝いている。
・「燦」目を射るように煌(きら)めくさま。
・「斜懸」この二字の組み合わせは必ずしも熟語を構成するものではないが、ここは字義通り、斜めに天空に懸かっていることを言う。但し、三ツ星の並びが「斜め」なのか、參宿が西の空に沈みつつあるさまを「斜め」と表現したのか、については一考の価値がある。狼星は、強烈に光り輝いている、というのであるから、かなり高い位置にある(「狼星」の語釈参照)と想像されるが、そこから視角約二十度程度しか離れていない參宿を、天空において「斜めに懸かる」と表現するのは、やや無理があるように感じられる。従って、ここは――視覚的に纏まったものとして捉えられることが一般化しているところの――三ツ星が、夜空に「斜め」に懸かっている、の意で採るのが自然であると思われる。なお、オリオン座の三ツ星の並びは、東の地平から昇る際にはほぼ垂直であり、西の地平に沈む際にはほぼ水平に近くなる。南中する頃には、向かって左を下にして「斜め」に傾いていて、まさに我々が普通にイメージするところのオリオンの三ツ星の姿なのである。
・「凍夜」凍てつくような夜。今のところ、中国古典の中には特に典拠を見出し得ない。
・「疎林」それほど鬱蒼としていない樹影疎らな林。古来用例の多い語である。ここでは葉を全て落した樹々の寒々しい様子を「疎ら」と表現していると理解しても許されるであろう。
・「悠悠」古来の数多の詩人に愛用されてきた、非常に用例の多い語である。遥か長い、遥か遠い、悠然としたさま、数多いさま、ばかばかしい様子、翻るさま、凡庸なさま、憂愁を含んださま、悠然自在なさまなど、多くのニュアンスを有する。数多くの用例の中で真っ先に浮かぶのは、人口に膾炙した初唐陳子昂の雑言古詩「登幽州臺歌」である。
   *

前不見古人
後不見來者
念天地之悠悠
獨愴然而涕下

 前に古人を見ず
 後に來者を見ず
 天地の悠々たるを念(おも)ひ
 獨り愴然として涕(なんだ)下(くだ)る

[T.S.君訳:古代の聖賢に会うことは出来ず、後世の賢君に会うことも叶わない。時の遥かな流れに比べて、この私の存在のなんと一刹那であることか。それを思うと凄愴たる思いに心が揺さぶられ、涙が流れる。]
   *
ここでは、天空が人界から遥か遠くに位置している感じ、星空が地上の瑣末な営みから超然としている感じ、広大な星空が拡がるさま、などの三つの感覚を同時に担っている語であろう。
・「世外天」世の外にある天。この世界の向こうにある宇宙、といった広大無辺のニュアンスである。

〇T.S.君による現代日本語訳

――静寂――
凍てつく夜
狼星が南の空高く輝いている
その横に參宿の三ツ星が斜めに懸かる
冬枯れの疎林の上
底なしの天空が広がる
――沈黙――
超然として…
何の不足もなく…
恐ろしく巨大な
しかし極めて密やかな
宇宙の
息遣い……

〇T.S.君とやぶちゃんの協働取組みによる評釈
 詩人は自ら、狼星と參宿に、シリウス、オリオンとルビを振った。
 なぜだろう。
 単なる遊び心なのだろうか。
 いや、中国名のみならず西洋名でも括りたくなるほど、彼は時空を超越して「在る」ところの星を、星座を、その「存在」を歌いたかったのだろう。強く描きたかったのだろう。
 では味読に際して、星の名は中国名で押し通すべきなのだろうか。それとも西洋名を使うべきなのだろうか。やはり、中国名を消し去ってはなるまい。なぜならこれは自由詩ではなく、あくまで漢詩という枠を借りて表現された世界だからである。また、母語としての日本語の「狼星(ロウセイ)」と「參宿(シンシュク)」という呼名(日本語としての音律)が完全に滅却された詩世界など、彼には始めからあり得なかったはずだから。
 ただし、西洋名を想起し、星に新時代の新たな彩りを添えることも意義深いと思われる。その時この詩は、東西の文明の差異を超えて、中国思想や西欧思想の、その淵源にある人事(人間)と自然の二項対立、
――『人世』対『宇宙』
という、より古くて新しい普遍的構図へ向かって、さらに純化されていくからである。

 では狼星と參宿は、どちらが主役なのだろうか? 否、その二つの関係は如何なるものなのだろうか?
 勿論、起句で真っ先に示され、輝きに於いては勝る狼星の存在感はすこぶる強烈である。
 しかし、參宿も決して負けてはいない。起句に拮抗して承句の五文字を完全に占拠したその存在は同等に揺るぎない。
 即ちここでは、狼星と參宿の両者が存在していなければ詩が成り立たないのである。
 この詩人の「星図」を我々が詩人とともに見る時、その広がるヴァーチャルな星空を正しく想い描くためには、狼星一つに焦点を合わせていては――いけない――のである。
 主役級のいぶし銀の老俳優の演ずるのが狼星とすれば、參宿の方は準主役である。
 ここでは神がかった狼星の名演技も參宿なしには――生きない――のである。
 さらに言うなら、量子力学よろしく、それを眺める「詩人」なしには、かの二星は――存在しない――のである。
 そこでふと気づく。
――「狼星と參宿と詩人」
という組み合わせは、あたかも、漱石の『こゝろ』に於いての
――「先生とKと私」
のようではないか……。

 転句における疎林の存在も見逃せない。
 この星空は、あくまで「この疎林の上」に広がる星空でなければならないからである。
 単に天空だけを描いたのでは、遥かな星々の姿が左右上下の安定を欠いて揺らいでしまう。疎林と、その上方の謎のように深い星空が、揺るぎないかっちりと固定した構図を形成させているのである。
 広大無辺な宇宙を描くためにこそ、卑小な疎林という定点が、いわば額縁が必要であったのである。
 試みに疎林に言及しない詩世界を想像してみてみればその重要性がよく分かる。近景としての疎林が、遠景無限遠としての深宇宙の奥行きを実感させるのに、どれほど大きな効果を与えているかが実感されるはずである。
 さらに言えば、前景に配された疎林は、宇宙が発する「非人情」の冷たい波動に化石されたかのように、枯れ枝の集合体として我々には映る。
 逆に言えば、一枚の葉も残されていない冬の疎林にしか、この「非人情」の星空の前景の役目を果たす資格はないのだ!

[やぶちゃん注:ここで私とT.S.君が何を思い出しているか、最早、お気づきであろう、それは――「こゝろ」のあのシーンである。
「止めて呉れつて、僕が云ひ出した事ぢやない、もともと君の方から持ち出した話ぢやないか。然し君が止めたければ、止めても可いが、たゞ口の先で止めたつて仕方があるまい。君の心でそれを止める丈の覺悟がなければ。一體君は君の平生の主張を何うする積なのか」
 私が斯う云つた時、脊の高い彼は自然と私の前に萎縮して小さくなるやうな感じがしました。彼はいつも話す通り頗る強情な男でしたけれども、一方では又人一倍の正直者でしたから、自分の矛盾などをひどく非難される塲合には、決して平氣でゐられない質だつたのです。私は彼の樣子を見て漸やく安心しました。すると彼は卒然「覺悟?」と聞きました。さうして私がまだ何とも答へない先に「覺悟、――覺悟ならない事もない」と付け加へました。彼の調子は獨言のやうでした。又夢の中の言葉のやうでした。
 二人はそれぎり話を切り上げて、小石川の宿の方に足を向けました。割合に風のない暖かな日でしたけれども、何しろ冬の事ですから、公園のなかは淋しいものでした。ことに霜に打たれて蒼味を失つた杉の木立の茶褐色が、薄黑い空の中に、梢を並べて聳えてゐるのを振り返つて見た時は、寒さが脊中へ嚙り付いたやうな心持がしました。]

 そうしてまた、私はここで、『人世』と『宇宙』の対峙について、抽象的ながら、しかし、丁寧に説明した文章を想起するのである。「四」にも引用した佐藤春夫の「星」、その第四十八折である。
[やぶちゃん注:底本と書誌及び引用ポリシーについては「四」の当該作引用の前に附した私の注を参照されたい。一部の難読箇所には岩波書店一九九二年刊の岩波文庫池内紀編「美しき町・西班牙犬の家 他六篇」を参考にしつつ、オリジナルに読みを入れた。]。
    《引用開始》
 日と月とは人間の爲めに動くのではない。
 人間の禍福などには一向冷淡な日と月とはただ彼等自身の爲めに動いてゐるのかもしれない。さうして彼等自身でさへその行方を知らないために、恆(つね)に不断の徂(ゆ)き徠(き)をつづけて同じ道をさ迷うてゐるのかも知れない。それらの事を我我は一切知らない。ただ我我は日と月とが東から來て西へ去るのを見る。さうしてこの同じことが果してどれだけ度度繰り返されるか、それを人間は何人も、どんな方法ででも、數へ盡すことは出來ない。ただ人間の出來ることはその無限の徂徠(ゆきき)をつづける日と月との下で、それぞれに、さまざまな思ひで、刻刻に生きてゆくこと――乃至(ないし)は刻刻に死んで行くことだけである。さうして、益春は彼の女の生甲斐としてその愛する子――死んだ夫の生きてゆく思ひ出をしつかりと守つた。この母の目にはその男の子は生育するに從つてだんだん彼の父にそつくりに見えるのも嬉しく悲しい。
   《引用終了》
 さて、まだ触れていないことがある。
 実は、私は幽かに、しかし、確かに感じているのだ。それは……
――この詩の孕む緊張感
と、恐らくは
――この詩人の深いところで渦巻く激情
と、である。
 未熟な言葉を連ねるのは避け、最後に一枚の絵を掲げる。
 知られたゴッホの「星月夜」である。
 画家は宇宙に呑み込まれ、画家自身さえも宇宙の一部分として凝結している。あくまで自分と星空との対峙という構造を失わない中島敦の詩とは、決定的に異なる世界ではあろう――しかし――ゴッホが画面に定着した緊張感、そしてその激情を――中島敦もまた、しっかりと蔵しているのではないか?
 画家は、
「僕らは死によって星へと到達するのだ」
と語ったという。同じ言葉が詩人の口から漏れないなどと、誰が言い切れるだろうか……。

 

Vangogh_starry_night

 

[やぶちゃん補注:ゴッホの手紙の中でも、しばしばいろいろな場面で引用される以上の部分について、私の私淑する瀧口修造氏の訳になる「ファン・ゴッホ書簡全集」(一九七〇年みすず書房刊)の第四巻から、当該書信(同書簡番号506)の相当箇所の前後を正確に引用しておく。弟テオ宛のアルル発信書簡である。クレジットはないが、書簡集の前後から判断すると一八八八年七月中と推定し得る。当該部分は書簡の末尾に現われる。ゴッホに『日本にいるような気がする』(469書簡)とまで新鮮な感動を与えたアルル到着は、同年二月二十一日のことであった。
  《引用開始》
 すべての芸術家、詩人、音楽家、画家が、物質的に不幸なのは――幸福な人がいても――たしかに奇妙な現象だ。前便でギ・ド・モーパッサンについてきみがいっていることがまたその新しい証拠だ。それは永遠の問題に関わることだ。すなわちわれわれには生の全体が眼に見えるだろうか。それとも死なないうちはわれわれにはただその半球だけしか知れないのであろうか。
 画家は――他の連中はさておき――死に、埋葬されるが、その作品によって次の世代に、相次ぐ幾世代に話しかける。
 それだけなのかそれともさらにそれ以上のことがあるのか。画家の生涯にとっては、死は多分最大の困難ではないだろう。
 いずれにしてもそれを知るよしはないとぼくはいわねばならないが、地図の上で町や村をあらわす黒い点がぼくを夢想させるのと同様にただ星を見ていると、ぼくはわけもなく夢想するのだ。なぜ蒼穹に光り輝くあの点が、フランスの地図の黒い点より近づきにくいのだろうか、ぼくはそう思う。
 汽車に乗ってタラスコンやルーアンに行けるなら、死に乗ってどこかの星へ行けるはずだ。
 この推論のなかで絶対間違いのないことは、死んでしまえば汽車に乗れないのと同様に生きている限りは、星に行けないということだ。
 詮ずるところ、コレラや尿石や肺結核や癌は、蒸汽船や乗合馬車や鉄道が地上の交通機関であるように、天上の交通機関であると考えられないでもない。
 老衰して静かに死ぬのは歩いてゆくようなものだろう。
 夜が更けたから、それでは寝よう。おやすみ、いいことがあるように。
 元気で
       きみのフィンセント
   《引用終了》
下線部は、底本では傍点「ヽ」。
 この死について語る部分は、知られたところの、切り出されて純化美化されたアフォリズムのようになった言葉以上に――凄絶に我々の胸を衝く――

追記1:私はこの補注によって、評釈の議論の中で「僕らは死によって星へと到達するのだ」を最初に引用したT.S.君を揶揄しようとしているのでは毛頭ない。実際に「僕らは死によって星へと到達する」で検索をかけて見られるがよい。この格言のような文句が、ゴッホが、何時、誰へ、どんな文脈で書いたかという大切なデーティルを語ることなく(一部の記載にはそうした試みがない訳ではないが、私が心からこれならばと思われる記載は、二〇一三年四月二十六日現在、本格的美術系サイトでも殆んどと言ってよいほど、ない)、単品切り出し伝家の宝刀よろしく、そこら中に転がっているのである。そうした私にとって少しだけ気になる世間的な事実について、本評釈を読んで下さる奇特な方々(は恐らくゴッホがお好きな方も多いと類推する)に是非知って戴きたく――実は、軽率に引用したことを恥ずかしいとして書き換えを望んだT.S.君の要求を退け、敢えてそのままにすることを――私が望んだのである。
追記2:因みに、我々日本人の多くは恐らく、このゴッホの述懐に、いやがおうにも、同じように孤独であった今ひとりの詩人の、ある世界を想起するであろう――言わずもがな――宮澤賢治の「銀河鉄道の夜」――である。]

耳嚢 巻之六 HP版も完成

「耳嚢 巻之六」(全百話)HP版も完全公開した。

耳囊 卷之六 陰德危難を遁し事 ~ 「耳囊 卷之六」了(600話まで完成)

 

本話は「耳嚢 卷之六」の掉尾である。これを以って「耳嚢」全1000話全注釈の60話までを完成した。



 陰德危難を遁し事

 

 或武家、兩國を朝通りしに、色衰へし女、欄干の邊をあちこち徘徊せる樣(さま)、身を投(なげ)、入水(じゆすい)を心懸るやと疑はしく、立(たち)よりて其樣を尋しに、綿摘(わたつみ)を業とせるものにて、預りの綿をぬすまれ、我身の愁ひは申(まうす)に及ばず、親方も吳服所への申譯(まうしわけ)なき筋なれば、入水せんと覺悟極(きはめ)し由かたりぬ。いか程の價ひあればつぐのひなりぬるやと尋(たづね)しに、我等が身の上にて急に調ひがたし、三分程あれば、償ひも出來ぬべしと云ひし故、夫は僅(わづか)の事なり、我與へんとて懷中より金三分取出(とりいだ)し、彼(かの)女子に與へしに百拜して歡び、名所(なところ)など聞(きき)けれど、我は隱德に施すなり、名所を云ふに不及(およばず)とて立別れしが、年を隔(へだて)て、川崎とか又は龜戶邊とか、其所は不聞(きかざり)しが、所用ありて渡し場へ懸りしに、彼(かの)女に與風(ふと)出會(であひ)けるに、女はよく覺へて、過(すぎ)し兩國橋の事を語り、ひらに我元へ立寄り給へと乞し故、道をも急げばと斷りしが、切に引留(ひきとどめ)てあたりの船宿へともない、誠に入水と一途に覺悟せしを、御身の御影にて事なく綿代をも償ひ、不思議に助命せしは誠に大恩故、平日御樣子に似候人もやと心がけ尋しなり、我身もみやづかへにて綿摘し事、過し盜難に恐(おそれ)、暇取(いとまとり)て此船宿へ片付(かたづき)けるに、不思議にも今日御目に懸りしも奇緣とやいふべきとて、蕎麥酒抔出し、家内打寄(うちより)て饗應せしに、彼(かの)渡し場にて何か物騷(ものさわが)しき樣子、其譯を尋しに、俄(にはか)に早手(はやて)出(いで)て渡船(わたしぶね)くつがへり、或は溺死、不思議に命助かりしも怪我抔して、大勢より集(あつまり)て介抱せるよし。是を聞(きき)て、誠に此船宿へ彼女に逢(あひ)、被引留(ひきとめられ)ずば、我も水中のうろくずとならん、天道其(その)善に組(くみ)し、隱德陽報の先言(せんげん)むなしからざる事と、人の語りぬ。 

 

□やぶちゃん注

 

○前項連関:特になし。「耳囊 卷之六」の掉尾である。岩波版長谷川氏注に『落語の「佃祭」に用いられる話で、『譚海』六、『むかしばなし』五、『古今雑談思出草紙』四など類話多し』とある。落語「佃祭」はウィキの「佃祭」(落語)に詳しい。こちらはこの話の後半部のシチュエーションが前半で(主人公は神田の小間物問屋次郎兵衛、救われるのは奉公する女中で恵んだ額は五両、事故現場は佃島からの渡し)、後半はそれを聴いた与太郎が真似して失敗するオチであるが、同解説によれば、本話の原型は『中国明代の説話集『輟耕録』の中にある「飛雲渡」である。占い師より寿命を三十年と宣告された青年が身投げの女を救ったおかげで船の転覆事故で死ぬ運命を免れる話で、落語「ちきり伊勢屋」との類似点もある』(同じウィキの「ちきり伊勢屋」を参照)とあり、更にこの「耳嚢」のことを引き、これも『飛雲渡を翻案した物』であるとし、筆者はこれが落語「佃祭」の系譜のルーツ(の一つ)と推測されているようである)。なお、舞台となった佃の渡しでは明和六(一七六九)年三月四日に藤棚見物の客を満載した渡し船が転覆沈没し、乗客三十余名が溺死しており、これが落語「佃祭」の直接の素材となっているらしい。「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年であるから、この三十年ほどの間に恐らく原「佃祭」が創作され、そのヴァリエーションが、全くの実話として根岸の耳に入った――当時のネットワークの一つのパターンが垣間見られる。「譚海」の話は、主人公は江戸京橋の浪人(の子)で、救われる相手は女ではなく遊里にはまって首が回らなくなった桑名の男で施しは三両、現場は桑名の渡し、「むかしばなし」のそれは主人公は道具屋、救われるのは若夫婦で、現場は本庄の渡しである。この原典から本邦でのインスパイアの歴史については、鈴木滿「『輟耕録』から落語まで」という論文(『武蔵大学人文学会雑誌』第三十四巻第三号所収)が詳細に解き明かしている。必一読。また、鈴木氏のも同論文の中で指摘されてられるが、かなりのひねりが加わった「耳嚢 巻之一 相學奇談の事」等を始めとして、所謂「陰德陽報」譚は、この「耳囊」では相当数数えることが出来る。

 

・「遁し」「のがれし」。

 

・「綿摘」小袖の綿入れなどに入れるために綿を摘綿(真綿を平らにひき伸ばしたもの)にする作業のこと。底本の鈴木氏の注が仔細を極めるので、例外的にほぼ全文を引く。『綿を塗桶にかぶせて延ばして薄くする作業。小袖の中に入れる綿、或いは綿帽子をつくるためにする』。但し、これを表向きの『仕事として内実は淫を売る女を、綿摘と呼ぶことも寛文のころからの流行で、宝永ごろ一時やんだが、その後も一部にはあった。文中に出てくる綿摘の女も、礼ごころとはいえ舟宿へ誘うところなど、少し怪しい感じがする』とある。とってもいい注である。

 

・「償ひ」実は底本は「價ひ」であるが、これでは意味が通らない。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版で訂した。

 

・「金三分」一分金は四枚で一両。現在の金額にすると約五万円前後に相当するか。

 

・「みやづかへにて」この「みやづかへ」は所謂、「宮仕へ所」で、職場、かの綿摘作業をする作業場の謂いであろう。

 

・「うろくず」は魚の鱗、魚のこと(但し、仮名遣は誤り)。「うろくづの餌(ゑ)」辺りと「藻屑(もくづ)」との混同か。

 

・「隱德陽報」人知れず善行を積めば、必ずよい報いとなって現れてくるということ。

 

・「人の語りぬ」という末尾は、微妙に不自然で、本話がその武士の直談ではないというニュアンスを感じさせる。但し、訳ではわざと直談とて、本話をリアルなものとして示しておいた。それが有象無象の本類話の増殖蔓延を目指す戦略の要めでもあろうと判断するからである。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 

 陰徳によって危難から遁れ得た事

 

 ある武士、両国橋を朝方、渡りかけたところ、如何にもやつれて見ゆる一人の女、欄干の辺りをあちらへ一さし、こちらと二さしと歩んでは思案顔、これはもう、身を投げ、入水(じゅすい)を図らんとすると、疑わしき体(てい)なれば、傍らに寄って、

 

「……御女中……如何致いた?――」

 

と、穏やかに質いたところ、

 

「……妾(わらわ)は綿摘(わたつ)みを生業(なりわい)と致す者なれど……預りおいた、さわにあった綿を皆、盗まれて……我が身の途方に暮るるは申すに及ばず……綿摘み元締めの親方も、じきに卸さねばならぬところの呉服屋への申し訳も立たざる仕儀なれば……最早、入水せんと……覚悟を決めて、御座いまする……」

 

と、消え入りそうな声にて語って御座ったと申す。

 

 あらましを聴いた後(のち)、かの武士、

 

「……それは……いかほどの値い、これ、あらば――その盗まれた綿の――償いと致すこと、これ、出来ようものじゃ?」

 

と訊いた。

 

「……我らが身の上にては……とてものこと……直ぐに調えようのできようような金高(かねだか)にては……これ、御座いませぬ……」

 

「――いや――幾らかと――と訊いておる。」

 

「……へえ……三分ほども、あれば……これ、償いも出来ましょうが……」

 

と答えたゆえ、

 

「――なに。それは僅かのことじゃ。我らが取らす。」

 

と、懐中より金三分を取り出だいて、かの女子(おなご)に与えた。

 

 女は、無論、百拝せんほどに歓び、

 

「……ぜひ、お名前やお住まいなど、お聞かせ下さいまし!」

 

と乞うたれど、

 

「――いや――我らはただ隠徳として、これを施すのじゃ。名所(などころ)は言うに及ばぬ。――」

 

と、踵(きびす)を返して立ち去ったと申す。

 

 さて、それから数年の後のこと。

 

 かの武士が――川崎であったか、亀戸辺であったか、場所は聴き洩らいたが――所用が御座って、とある渡し場へ通りかかった。

 

 すると、あの入水をしかけて御座った、かの女に、そこで偶然、再び出逢(お)うたと申す。

 

 女も、かの武士のことを、よう覚えて御座って、過ぎし日の両国橋での一件を語って謝した上、

 

「――ひらに! 我らが元へ、是非、お立寄り下さいまし!」

 

と乞われたによって、

 

「……いやぁ……道をも急いでおるによって……」

 

と一旦は断ったものの、しきりに引きとめられ、さればとて近くの船宿へと相い伴って参った。

 

「――まことに! あの時は、入水せんものと一途に覚悟致いておりましたものを、お武家さまのお蔭にて、無事、盗まれた綿の代(しろ)をも償い、不思議なる御縁によって我らごときをご助命下さいましたは、これ、まっこと、我らにとっての大恩。なればこそ、あれより毎日、ご様子の似申上げて御座らるるお人を見かけては、これは、とせちに心をかけて、貴方さまでは、と訊ね暮らして参りましたので御座います。我が身も――あの頃は世過ぎに綿摘みなど致しておりましたが――過ぎし日の、あの盜難とその難儀の一件にすっかり怖気づきまして、じきに暇(いとま)を貰い、今は、こうして、この船宿を営みまする夫のもとへと片付いて御座います。……ああっ、それにしても! ほんに、不思議にも、今日(きょうび)、お目にかかることが、これ、できました! これも何かの奇縁と申すものに、御座いましょうぞ!……」

 

と、いたく歓んで、蕎麦やら酒やら肴なんどまで持って来させ、主人(あるじ)や子(こお)などまで家内一同うち寄って、上へ下への大饗宴と相い成って御座った。

 

 そんな中、女が風を入れんと、ふと障子を開けたによって、武士は何気なく岸辺を眺めた。

 

 見れば、かの渡し場の辺りにて、何やらん、物騒がしき様子が見てとれる。

 

 女が宿の者に見に行かせたところが、

 

「――いやあ! 何でも、にわかに突風が吹きやしてねぇ! 渡し船が、川のど真ん中にて、これ、ひっくり返(け)えったんでごぜえやす! そんでもって、ある者(もん)は溺れ死に、不幸中の幸いと、命の助かった者(もん)も、これまた、ひどい怪我でごぜえやして、へえ! 大勢の者(もん)が、寄ってたかって介抱しておりやしたが……ともかく、いや、もう、とんでもね、大騒ぎで、え!……」

 

とのことであった。……

 

 

「……まっこと、あそこでかの女に逢い、そこであのように引き留められ、かの船宿に参るらずんば、これ、我らも、水の中の鱗(うろくず)の餌(え)となって御座ったに相違御座らぬ。……これぞ、まさに『天道はその善に与(く)みす』『陰徳陽報』と申す、先人らの言(げん)が、これ、虚しき空言(そらごと)にては御座らなんだということ、相い分かり申した。……」

 

とその御仁が語って御座った。

雨の降る日 萩原朔太郎

 

 

 雨の降る日

 

     (兄のうたえる)

 

雨(あめ)の降(ふ)る日(ひ)の椽側(えんばた)に

 

わが弟(おとゝ)はめんこ打(う)つ

 

めんこの繪具(ゑのぐ)うす靑(あほ)く

 

いつもにじめる指(ゆび)のさき

 

兄(あに)も哀(かな)しくなりにけり

 

雨(あめ)の降(ふ)る日(ひ)のつれづれに

 

客間(きやくま)の隅(すみ)でひそひそと

 

わが妹(いもと)のひとり言(ごと)

 

なにが悲(かな)しく羽根(はね)ぶとん

 

力(ちから)いつぱい抱(だ)きしめる

 

兄(あに)も泣(な)きたくなりにけり 

 

[やぶちゃん注:大正二(一九一三)年十一月十七日附『上毛新聞』に「夢見る人」のペンネームで次に紹介する「麥」とともに掲載された。「靑(あほ)く」「うたえる」はママ。「習作集第八卷(愛憐詩篇ノート)」に以下の草稿がある。

 

   *

 

 雨の降る日

     (兄のうたへるうた)

 

雨の降る日の椽ばたに

わが弟はめんこ打つ

めんこの繪具うす靑く

いつもにじめる指のさき

兄も泣きたく哀しくなりにけり

 

雨の降る日のつれづれに

客間のすみでひそひそと

わが妹のひとりごと

なにが悲しく羽根ぶとん

力いつぱい抱きしめる

兄も泣きたくなりにけり

          (一九一三、五、二〇)

   *

鬼城句集 春之部 蓮華草

蓮華草  蓮華野に見上げて高き日ざしかな

死の行列 大手拓次

 死の行列

 

こころよく すきとほる死の透明なよそほひをしたものものが

さらりさらり なんのさはるおともなく、

地をひきずるおともなく、

けむりのうへを匍(は)ふ靑いぬれ色のたましひのやうに

しめつた脣(くちびる)をのがれのがれゆく。

栂尾明恵上人伝記 20 「おしま殿」への恋文

 

 

 又便(たより)に付けて、暫し栖み馴れける紀州苅磨(かるも)と云ふ嶋へ、狀を遺されける。おろおろ見及びし所少々之を註す。其の狀に云はく、

 

其の後何條の御事候や。罷り出で候ひし後、便宜(べんぎ)を得ず候て、案内を啓せず候。抑も嶋の自體(じたい)を思へば、是慾界繫の法、顯形(けんぎやう)二色(しき)の種類、眼根(げんこん)の所取、眼識(がんしき)の所緣、八事倶生の如(によ)なり。色性即智(しきしやうそくち)なれば悟らざる事なく、智性即理(ちしやうそくり)なれば、遍(へん)せざる所なし。理即眞如(りそくしんによ)なり。眞如即法身(しんによそくほつしん)、無差別の理、理即衆生界(りそくしゆじやうかい)と更に差異なし。然れば非情なりとて衆生に隔(へだて)て思ふべきにあらず。何(いか)に況んや、國土身(こくどしん)は即ち如來十身の隨一(ずゐいつ)なり。盧舍那妙體(るしやなめうたい)の外の物に非ず。六相圓融無碍法門(ろくさうゑんゆうむげほふもん)を談ずれば、嶋の自體則(すなはち)國土身なり。別相門(べつさうもん)に出づる時、即ち是れ衆生身・業報身(ごうはうしん)・聲聞身(しやうもんじん)・緣覺身(えんがくしん)・菩薩身・如來身・法身(ほつしん)・智身・虛空身(こくうじん)なり。嶋の自體則十身の體なれば十身互に周遍せるが故に圓融自在にして、因陀羅網(いんだらもう)を盡して、高く思義(しぎ)の外に出で、遙に識智(しきち)の境を越えたり。然れば、華嚴十佛の悟(さとり)の前に、嶋の理を思へば、依正無㝵(えしやうむげ)・一多自在(いつたじざい)・因陀羅網・重々無盡(ぢゆうぢゆうむじん)・周遍法界(しうへんほつかい)・不可思議圓滿究竟(ゑんまんくきやう)、十身具足、毘盧舍那如來と云ふは、即ち嶋の自躰の外に何ぞ是を求めんや。かく申すに付けても、涙眼に浮かびて、昔見し月日遙に隔たりぬれば、磯に遊び場に戲れし事を思ひ出されて忘られず。戀慕の心を催しながら、見參(けんざん)する期なくて過ぎ候こそ、本意に非ず候へ。又、其れに候ひし大櫻こそ思ひ出されて戀しう候へ。消息など遣りて、何事か有り候など、申したき時も候へども、物いはぬ櫻の許(もと)へ、文やる物狂(ものくる)ひ有りなんど、いはれぬべき事にて候へば、非分(ひぶん)の世間の振舞(ふるまひ)に同ずる程に、思ひ乍らつゝみて候なり。然れども所詮は物狂はしく思はん人は友達になせそかし。寶州(ほうしう)に求めし自在海師(じざいかいし)に伴ひて、嶋に渡りて大海にすまゝし。海雲比丘(かいうんびく)を友として心を遊ばしめんに、何の足らざる處か有らんや。其れに候うて本意の如く行道(ぎやうだう)して候ひしより、いみじき心ある人よりも、誠に面白き遊宴の友とは、御處(ごしよ)をこそ深くたのみ進(まゐら)せて候へ。年來世の中を御覽じたれば、昔習ひに土を掘りて、物語せし者ありしぞかしともや思食(おぼしめ)すらん。其等は古き事なり。此の比(ころ)左樣の事は世に似ぬ事にて候へば、申せば望み有るに似たり。然れども和合僧(わごうそう)の律儀(りつぎ)を修して、同一法界の中に住せり。傍の友の心を守らずは、衆生を攝護(せふご)する心なきに似たり。凡そは咎(とが)にて咎ならぬ事にて候なり。取り敢へず候。併せて後信(ごしん)を期(き)し候。

恐惶敬白。

      某月  日                     高辨狀

               嶋殿へ

 

とぞ書かれける。使者此の御文をば誰に付け候べきと申しければ、只其の苅磨嶋の中にて、栂尾の明惠房の許よりの文にて候と、高らかに喚(よ)ばゝりて、打ち捨てゝ歸り給へとぞ仰せられける。

 

[やぶちゃん注:手紙は底本では全體が一字下げである。

「紀州苅磨(かるも)と云ふ嶋」現在の和歌山県有田郡湯浅町(ゆあさちょう)栖原(すはら)、湯浅湾に浮かぶ苅藻島(かるもじま:近接した二島から成る。グーグル・マップ・データ)のこと。久保田淳・山口明穂校注岩波文庫版「明恵上人集」後注によれば、『明恵は建久年間の末、喜海・道忠とともに南苅磨島に渡って』修行を行っている。即ち、――これは文字通り――限りなく思慕する「おしま殿」への恋文(ラブレター)――なのである。]

2013/04/25

栂尾明恵上人伝記 19 各種教学の煩瑣性

 凡そ此の上人、外には聖教の源底(げんてい)を極め盡し、内には禪定の證智相應し給へり。邪正二宗の迷悟に於いて、又一念も疑ひなし。常に語りて曰はく、若しくは一管の筆、若しくは一挺(ちやう)の墨、若しくは栗・柿一々に付いて、其の理を述べ、其の義を釋せんに、先づ始め凡夫我法(がはふ)の前に粟・柿と知りたる樣(やう)より、孔老の教へに、元氣道より生じ、萬物天地より生る、混沌の一氣、五運に轉變(てんぺん)して、大象(たいしやう)を含(がん)すと云ひ、勝論所立(しようろんしよりう)の實・德・業(ごふ)・有(う)・同異・和合の六句の配立、誠に巧(たくみ)なりと云へども、諸法の中に大有性(だいうしやう)を計立して能有(のうう)とし、數論外道(しゆろんげだう)の二十五諦(たい)も、神我自性常住(じんがじしやうじやうじゆう)の能生(のうしやう)を計して、巳に解脱の我(が)、冥性(めいしやう)の體に會する位を、眞解脱處と建立(こんりう)せる意趣にもあれ、又佛法の中に先づ自宗の五教によるに、小乘の人空法有(にんくうほふう)・始教の緣生即空(えんしやうそくくう)・終教の二空中道・頓教(とんぎやう)の默理(もくり)、圓教の事々相即(じじさうそく)・又般若の眞空(しんくう)・法相(ほつさう)の唯識無境(ゆしきむだん)の談(だん)・法華の平等一乘・涅槃の常住佛性(じやうじゆうぶつしやう)にもあれ、一々の經宗(きやうしゆう)により一々の迷悟(めいご)の差異、其の教宗に付きて、粟柿一の義を述べんに、縱ひ我が一期(いちご)を盡して、日本國の紙は盡くるとも、其の義は説き盡し書き盡すべからずと云々。

鬼城句集 春之部 躑躅

躑躅   谷川に朱を流して躑躅かな

みどり色の蛇

 みどり色の蛇

 

假面のいただきをこえて

そのうねうねしたからだをのばしてはふ

みどり色のふとい蛇よ、

その腹には春の情感のうろこが

らんらんと金(きん)にもえてゐる。

みどり色の蛇よ、

ねんばりしたその執著を路(みち)ばたにうゑながら、

ひとあし ひとあし

春の肌にはひつてゆく。

うれひに滿ちた春の肌は

あらゆる芬香にゆたゆたと波をうつてゐる。

みどり色の蛇よ、

白い柩(ひつぎ)のゆめをすてて、

かなしみにあふれた春のまぶたへ

つよい戀をおくれ、

そのみどりのからだがやぶれるまで。

みどり色の蛇よ、

いんいんとなる戀のうづまく鐘は

かぎりなく美の生立(おひたち)をときしめす。

その齒で咬め、

その舌で刺せ、

その光ある尾で打て、

その腹で紅金(こうきん)の焰を焚(た)け、

春のまるまるした肌へ

永遠を産む毒液をそそぎこめ。

みどり色の蛇よ、

そしてお前も

春とともに死の前にひざまづけ。

 

[やぶちゃん注:太字「ゆたゆた」は底本では傍点「ヽ」。「芬香」は「ふんかう(ふんこう)」で、よい匂い、芳香。]

藝術の映画化に就いて 萩原朔太郎

 藝術の映画化に就いて

 

 著名なる文學を活動寫眞にすることは、藝術の民衆化といふ方面で、非常に效果が多いと思ふ。今日のやうな時代では、人々が落付いて讀書する餘裕がない。特に古典に屬する長篇の文學などは、一層さうであり、生涯かかつて讀む機會がない。然るに一方では、時代が多方面の常識を民衆に要求する。今日の民衆は、すくなくとも文學の常識として、古来の世界的名著、たとへばミルトンの失樂園、ダンテの地獄篇、ゲーテのフアウスト、ホーマーのオデツセイ、それからアラビアンナイトや、ドン・キホーテや、ガリバアの旅行記や、その他の一般的名著を知つて居らねばならぬ。同時に自国の代表作を知ることも必要で、我が國で言へば、源氏物語、平家物語、古事記の類を始め馬琴、西鶴、春水等の小説も、國民常識として一應は讀まねばならないのだ。

 かく今日は、民衆に課せられた讀書の負擔が非常に多く、しかも時間の餘裕が益々すくなくなつてゐる。以上の多き多數の名著は、その梗概を讀破するだけでも容易でない。その上に讀書といふことは、非常に頭腦を疲らせる仕事であるから、一般の民衆はあまり好まない。圖書館といふものも、民衆文化の普及的意義からは、今日既に時代遅れであり、博覧會や馬車と同じく、もはや古風の詩美に屬してゐる。

 そこで現代の通俗文庫は、どうしても活動寫眞でなければならない。活動は眼から印象が入つてくるため、讀書の如く頭腦を疲らすことがない。それに短かい時間の中に、よく作の梗概を會得できる。その上尚一の得點は、古典の堅苦しい文學を、興味本位の通俗に嚙みこなして、素養のない民衆にも解り易くして見せることだ。尤もそれだけ原作の眞趣が失はれ、名作の價値を傷つけるわけであるが、一般の民衆常識として紹介するには、それで充分であり、それ以上の理想は望まれない。何となれば民衆は、藝術の深い素養をもつてゐないから、通俗的の興味が無い限りは、彼等を牽きつけることができないのである。

 かくの如く「藝術の映畫化」は、實に「藝術の民衆化」といふことに意義を有する。所謂「文藝映畫」を見る人は、鑑賞の基準を此所に置き、その常識で價値を判斷すべきである。さうでなく、もし實に純粋の藝術を寫眞に要求するならば、いつでも必ず失望するにきまつてゐる。所謂文藝映畫の鑑賞における興味は、いかに巧みに原作を通俗化したか? といふ見方にあるので、いかに忠實に原作を紹介したか? といふのでない。といふのは、今日の活動寫眞なるものが、多数の民衆を對手にする娯楽的の興行物であり、本質的に通俗のものであるからである。活動寫眞に高級な藝術を要求するのは、民衆娯樂の本質を忘れてゐる、一の沒常識にすぎないだらう。ただ劇における自由劇場のやうに、小人數の識者ばかりを會員とし、限られたる範圍で興行するものならば、吾人の欲求してゐる如き、眞の高級の藝術映畫が見られるだらう○。今の所で言へば、その最も高尚で「藝術的」と呼ばれる映畫も、實は表の通俗小説にすぎないのである。(すべての高級映畫に就いて、その興味の中心を考へて見よ。いかに淺薄で通俗であるかがわかる。)

 それ故に飜譯映畫は、その原作を知らない人が、興味と好奇心で見るのであつて、既に原作を讀んでゐる人は、決して見ない方が好いのである。見れば必ず失望するに極つてゐる。名著の原作から受けたやうな藝術的感動は、どんな名監督の飜案からも、決して受けることができないのだ。尤も原作の性質により、或る程度のものは成功する。一般に古代の文學は、事件を筋で運んでゆくため、映畫に翻案することが容易である。しかるに近代の文學は、ずつと心理的であり、気分や、思想が主になつてゐるため、映畫に寫すことが困難である。私の見た範圍でも、比較的古典文學の映畫化には難がすくなく、近代文學の方で著るしく原作を傷つけてゐる。ドストエフスキイの「カラマゾフ兄弟」や「罪と罰」の映畫化などは、所謂ファンの喝采するに關らず、飜譯としても失敗である上に、映畫それ自身の興味がなく、實に退屈千萬のものであつた。その他近代文学の飜譯映畫で、一として感心したものに出逢はない。單に原作の感動がないといふのでなく、映畫それ自體として退屈なのである。そこで所謂「文藝映畫」なる觀念が、概ね私には「欠伸の出る映畫」を表象させる。けだし映畫中での最もつまらぬものは文藝映畫である

 思ふにこの失敗の理由は、監督や筋書者が、生じつかの藝術意識で、原作に忠實にならうとするからである。映畫は始めから文學でない。映畫で原作を生かさうとするならば、全く原作のプロセスを叩き壞して、全然別な組織の上に、その「精神」だけを抽象せねばならないだらう。強ひて映畫に文學の組織を求め、木に竹を繼ぐやうな無理をするから、不自然で退屈なものができるのである。むしろその藝術意識を捨ててしまひ、文藝の民衆化を目的として、思ひきり原作を通俗北し、ひとへに興味本位のものとして、大體の骨格だけを紹介するやうにせよ。さういふ仕方で行つたものは、今迄にも決して失敗してゐない。

 

 そこで私の望んでゐるのは、「藝術の映畫化」ではなくして、逆に「映畫の藝術化」である。與へられたる原本を、映童に飜譯するといふのでなく、始めから映畫それ自身を、藝術として創作することだ。しかしこれも前言ふ通り、自由劇場の組織でない限りは、思ひ切つたことができないだらう。劇の方には「讀む脚本」といふものがあり、それだけで藝術品たり得るけれども、映畫の方は、寫眞となつて始めて表現ができるのだから、上演不可能のものは仕方がない。そして上演の可能性は、一般の通俗向にあるのだから、藝術映畫の實現は、今の所では困難である。せいぜいの所で通俗の中に藝術味を暗示する位のものだ。

 それ故に我々は、今日の所、映畫に藝術を要求しようと思はない。映畫に對する僕等の興味は、純粋に娯樂本位であり、ただ面白く、氣持ちの好い時間をすごさしてくれれば滿足なのだ。即ち僕等の鑑賞は、それが娯樂として、いかに氣が利いてゐるか? いかに監督の機智が働らいてゐるか? いかに俳優が表出するか? 等の興味にのみかかつてゐる。即ち探偵小説や筋書小説などに對する興味と同樣であり、實に「氣の利いた頭腦」を監督に要求し、技巧の未技を寫眞と俳優とに見れば好いのである。

 映畫の本質をかうして見ると、世界第一の頭腦の所有者は、どうしてもチヤツプリンである。悲劇、喜劇、史劇等のあらゆる映畫を通じてみて、矢張最も面白いのはチヤツプリンの映畫である。しかし近頃では、ロイドの方が人気が高いやうに思はれる。

 ロイドの喜劇は、實に「新時代そのもの」の象徴である。所謂「新時代」の何物たるかを知らうとする人は、ロイドの映畫を見るに限る。陽氣で、明るく、無邪氣で、自由で、快活で、皮肉や陰謀の暗い影が少しもなく、眞に自然兒のオープンハートであり、若き民族の有する溌剌たる元氣と精力が躍動してゐる。即ちロイドそれ自饅體が、アメリカニズムの生きた象徴である。今やアメリカの新興文化は、ジヤヅバンドとロイドの映畫で、全世界を風靡しようとしてゐるのだ。(汎米國主義を世界に宣傳し、アメリカ魂で世界を統一することが、米國の内部で計畫されてゐる。先年の決議によれば、活動寫眞宣傳中、ロイド映畫が第一位に選ばれたさうである。)

 

 映董に対する私の不滿は、色と浮出しのないことである。色彩といふものが全くなく、立體としての奥行もなく、陰氣で眞黑の影繪が、薄ぺらのシーツの上で動いてゐるのを見てゐると、何とはなしに悲しくなつてくる。生きた人間ではなく、手ごたへのないそれの影、厚みも色もない、幕に寫つた陰氣の影繪を、いつしんに見てゐる人々の心を思ふと、この世紀の文明といふものが寂しくなる。

 この一の感情は、私の映畫に對する根本の憂鬱である。色もなく、聲もなく、匂ひもなく、そして肉體そのものが實在しない。幕に寫る幽靈の動作を見てゐるといふ意識が、たまらなく私を憂鬱にする。しかもそれが、この時代における唯一の民衆娯樂であり、地球のすべての人間どもが、唯一の慰安をそれに求めてゐるではないか。活動寫眞に対する憂鬱は、實に「文明の沒落」である。「人間の末路」である。機械文明に心醉して、唯物思想に靈魂をくびられ、生きた肉情を失つてしまつた所の、あはれな造兵のやうな人間共が、陰氣な壁に映つてゐる、眞黑の影繪を見て悦んでゐる。悲しい世の中のすがたでないか! 活動寫眞館の中に入るとき、いつでも絶望的な厭世思想が、私の心に湧いてくるので、苦痛にたまらなくなるのである。それ故に私は、活動が好きでありながら、それを見に行くことを好まない。

 

 もし映畫に色彩と浮出しがついたならば、私の病的な憂鬱性が、ずつと輕くなつてしまふであらう。なぜなれば、それは「眞黑のさびしい影繪」でなく、現實の色と厚みを有する、生きた肉體の再現であり、この三次元の空間に棲む、實の生物の幻燈だから。

 毒を制するものは毒である。人類の娯楽樂に於ける文明的堕落は、より進歩せる文明によって救はれねばならないのだ。「色なき世界」は考へるだに陰慘である。「厚みなき世界」は思ふだに畸形である。世界の民衆が、いつまでもかかる不倫の娯樂を愛し、畸形にして陰惨な趣味に惑溺してゐることは許されない。それは文化の健全性から許されない。正義人道のためにすら、映畫は改良せねばならないのだ。もし眞に完全なる「天然色立體映畫」を發明する人があるならば、その文化的名譽は不朽であらう。但し現在せる如きものは、尚不完全の玩具にすぎない。

 

 藝術映畫といつても、現在のものは單に演劇映畫にすぎない。もつと技術が進歩したら、美術映畫(動く繪畫)や、叙情詩映畫(寫眞で表現する詩)などが創案されるであらう。そして活動寫眞そのものが、畫家のカンバスや繪具に代り、詩人の思想や韻律に代り、一の新しき藝術表現となるであらう。僕等はその未来を期待してゐる。

 

[やぶちゃん注:『中央公論』第四十年第七号・大正一四(一九二五)年六月号に掲載。底本(昭和五一(一九七六)年刊筑摩版全集第八巻)の「初出雜誌・新聞一覽」の注記によれば、『本篇は「文藝の映畫化と音樂のラヂオ化」と總題するうちの一篇である』とある(私はとても凄いことだと思うのだが、この筑摩版全集は編者の記載も何もかも(奥附に至るまで!)総てが正字なのである)。「けだし映畫中での最もつまらぬものは文藝映畫である。」の下線部は、底本では傍点「〇」、「この時代」の斜体下線部は、底本では傍点「●」である。

……朔太郎少年よ。今や「色彩と浮出しがついた」總天然色カラーそして3Dなんて當り前なのだ。寧ろ若者たちからは優れたモノクローム映畫がモノクロであるが故に觀られることがなくなつてしまつた。さうして多くの者たちが自身の内なる絢爛たる色彩を自由に夢想する權利をとつくに失くしてしまつた。はたしてほんたうにこれが君の望む映畫だつたのだらうか?……朔太郎少年よ、君がさうした物量と小手先の技法――着色もSFXも3Dも所詮は科學技術といふ通俗的願望の所産なのだ――に賴つてすつかり曠野となつてしまつた末世の映畫を知らずにゐることは幸ひだと思ふと同時に、今、君があのアンドレヰ・タルコフスキヰのたつた八本許りの作品のその一本をだに見ることが出來ないのだということを私は殘念に思ふであらう。]

海産生物古記録集■3 「蒹葭堂雑録」に表われたるスカシカシパンの記載

「蒹葭堂雑録」に表われたるスカシカシパンの記載

 

[やぶちゃん注:「蒹葭堂雑録(けんかどうざつろく)」大坂の文人・画家・本草学者にしてコレクターであった木村蒹葭堂(元文元(一七三六)年~享和二(一八〇二)年:家は大坂北堀江瓶橋北詰の造り酒屋で、後に大坂船場呉服町で文具商として財をなした。蔵書家としても知られ、彼の死後、その膨大な蔵書は幕命によってほとんどが昌平坂学問所に納められた)の著になる安政六(一八五九)年刊の五巻からなる随筆。各地の社寺に蔵する書画器物や見聞した珍しい動植物についての考証及び珍談奇説などを書き留めた原稿を著者没後に子孫の依頼を受けた大坂の著述家暁鐘成(あかつきかねなり)が整理抜粋したもの。池大雅の印譜や下鴨神社蔵三十六歌仙絵巻などの珍品が雑然と紹介されており、挿画は大阪の画家翠栄堂松川半山の筆になる(以上は主に「世界大百科事典」及びウィキの「木村蒹葭堂」に拠った)。

 底本には国立国会図書館蔵「蒹葭堂雑録」の電子ライブラリーの画像(コマ番号7及び8)を用いたが、原本はほぼ総ルビで、やや五月蠅く感じられるため、難読箇所及び読みが振れると私の判断したものだけのパラルビとした。「み」「ミ」の草書は片仮名にとるか平仮名にとるか迷ったが、固有名詞で「ツミ」の「ツ」が片仮名と判別出来るものを除いて、「み」とした。

 但し、実際に掲げた挿画画像([ ]は私のキャプション)は吉川弘文館の「日本随筆大成第一期 14」所収の「蒹葭堂雑録」に載るものをスキャンして画像補正を施したものを用いた(国立国会図書館の画像は画像自体を転載利用する場合、それぞれ使用許諾を受けねばならないためである。なお、単純な平面画像をそのままに移したものである吉川弘文館本の挿画は文化庁によれば著作権は生じない。ただ、正直なところを言うなら、国立国会図書館のデジタル・ライブラリーのそれも同様であると私は思うのであるが、特にここでその問題を議論するつもりはない)。]

 

○山家集に云、澁川(しぶかは)のうら田(た)と申所(もふすところ)に、おさなき者どもあまた物を拾ひけるを問(とひ)ければ、つみと申もの拾ふなりと申けるを聞(きゝ)て、

   をりたちて浦田(うらだ)に拾ふ蜑(あま)の子はつみよりつみを習ふなりけり

一説に、此(この)つみといへるは貝なりとぞ。然れども未だ其形をしらざれば、彼國の知己(ちき)に此事を言やりしが送りこしたり。浦田(うらだ)といふは備前國兒島郡澁川村(こじまごふりしぶかはむら)にありて、浦田の濱とて海邊(かいへん)なり。此つみ貝(がひ)、何の能益(のうえき)ありやしらず。只(ただ)童の手遊(てあそ)びに拾ひおりしならんか。尤(もつとも)大小ありて一樣(いちゃう)ならず。こゝに圖するものは、就中(なかんづく)大の部なり。小なるは徑(わたり)一寸許(ばかり)なるもありと聞(きこ)ゆ。

 

[図1]
Sukasikasipan1

 

[図2]
Sukasikasipan2_2

 

[以下、挿画図1及び図2のキャプションの翻刻。それぞれ、基本的に上部右から左、上から下へ翻刻した。挿画と照らし合わせてご覧頂きたい(画像がやや大きいので右クリックの「リンクを新しいウィンドウで開く」で開かれるか、ダウンロードして見られることをお勧めする)。]

 

[図1 表(背面)及び側面の図のキャプション翻刻]

 

備前國兒島郡

浦田濱産ツミ貝

     の圖

 

  大サ如圖

 

按ずるにツミ貝といふは

糸を紡ぐ車の具に

紡錘(つむ)又つみともいふ具(もの)有(あり)

形圖のごとし

 

  是は木にて製す

   これを紡錘(つみ)の齒(は)といふ

    其形此貝によく似たり故にツミ貝と

                 なづくるならんか

[やぶちゃん字注:最後の「か」は「歌」の草書として採ったが、自信がない。識者の御意見を乞う。]

 

[側面図の下]

横ヨリ

見タル処

 

[表(背面部)の図]

 

[表(背面内)の部分キャプション]

打ヌキノ

   穴

 

此スジ

 毛ボリ

   ノ如シ

 

[図2 裏(腹面)の図のキャプション翻刻]

狂哥蘆荻集(きやうかあしおぎしふ)云備前(びぜん)の小嶋(こじま)の

瀧資之(たきすけゆき)ぬしと物がたりのついで

円位(ゑんゐ)上人の山家集にひゞ澁川(しぶかは)など

いふ浦(うら)につみといふ貝のあるよし

見へたるはいかなる物にかそこは小嶋に

近きわたりと聞(きく)をさるもの見かひ

つる事やおはさぬかととひたるに

我(われ)も珍らしく思ひて此(この)たびこゝに

もて下りぬ此(この)程見せ參らせんとて

みな月(つき)晦日(つごもり)の日つみなくなるよしの

歌をそへて貝ひとつ送りなされければ

 澁川とさらにをじまの蜑小(あまを)ぶね

  つみ送りしと吉備(きび)のよき人

       京都

         狂歌堂眞顏

 

[裏(腹面)の図]

 

[裏(腹面内)の部分キャプション]

此穴表ヘ拔ル

 

此中スコシ

   凹ミ

 

此スジクボミ

 

一面に

  此点あり

 表も

  同断

 

[やぶちゃん注:「山家集云……」岩波古典大系版「山家集」から「続国歌大観」番号八三六九番歌を詞書とともに引いておく(一部の記号を省略し、詞書は適宜改行した)。

 

  日比(ひゞ)、澁川(しぶかは)と申す方へまかりて、

  四國の方(かた)へ渡(わた)らむとしけるに、

  風惡(あ)しくて程經(ほどへ)にけり。

  澁川(しぶかは)の浦(うら)と申(まうす)所に、

  をさなき者(もの)どもの數多(あまた)物(もの)を

  拾ひけるを問(と)ひければ、

  つみと申(まうす)物拾(ひろ)ふなりと申しけるをきゝて

おり立(た)ちて浦田(うらた)に拾(ひろ)ふ海人(あま)の子(こ)はつみより罪(つみ)を習(なら)ふなりけり

 

「日比、澁川」は、ともに瀬戸内海に面した岡山県本州内最南端の児島(こじま)半島西部に位置する旧児島市、現在の玉野市にある。この地域の立地する児島半島は近世初頭の干拓により本州と陸続きとなる以前は島であった。日比も渋川も児島地域の南、日比は児島郡日比で讃岐へ渡る港湾で、渋川はその日比の西にある海浜地帯の地域名。「程經にけり」は悪天候による船便の欠航によって結構な長い時間、足止めを喰らったという意。「浦田」というのは、「蒹葭堂雑録」本文では明らかに固有名詞として登場しているし、実際に浦田村はこの近くにあるのだが(後注参照)、和歌で見る時、辞書で言うところの、浦に作られた田(小学館「日本国語大辞典」)でもなく、遠浅の海岸線、泥田に似た干潟のことを言っているように私には読めるのである。以下に歌意を示す。

――浦の干潟に下りたっては、何やらん、「つみ」という名の不思議なものを拾っておる海人(あま)の子どもら……彼らはまさに、「つみ」と申すそれを拾うことより始めて……ついは父親(てておや)と同じく海人となり……そうしてまた……殺生の「罪」というものを……習い覚えるのであったのだなあ――

「一説に、此つみといへるは貝なりとぞ」これは図を見て頂いても分かる通り、現在の生物学上では貝類ではない。五ヶ所の殻を貫通する細長い大型の透かし孔によって棘皮動物門ウニ綱タコノマクラ目カシパン亜目スカシカシパン科スカシカシパン Astriclypeus manni に同定出来る。このスカシカシパン類は非常に扁平な殻と、ごく短くいために棘とは認識出来ないようなの棘を保持していること、そして背面の花紋状の紋の延長上から辺縁部までの間の体部に、細長い体幹を背面から腹面まで貫通した穴が一個ずつ、棘皮動物の基本型である五放射形に合わせて計五つ開孔している点が極めて特異的である。全体はほぼ円形で、直径約一四センチメートル、殼高一・五センチメートル。腹面はほぼ平坦で、背面は中央がやや隆起する。背面の直径の半分程度の部分で歩帯が桜の花弁の模様のような形を描いている。腹面では中央の口部から溝が穴の方向に刻まれており、穴の手前で二つに分岐して、その両側に向かっている。主に本州中部から九州に分布し、浅海の砂底に半ば埋もれた状態で棲息している。餌は砂泥中のデトリタスを採餌し、甲殻類や魚類が天敵とされる(ここまではウィキの「スカシカシパン」の記載を参照した)。和名スカシカシパンのカシパンはずばり、そのクッキー状から「菓子麺麭」に由来し、貫通孔から「透かし」である。秋山蓮三「内外普通動物誌 無脊椎動物篇」によれば、本邦では古くからカシパン類をその文様から背面を主にして呼称する場合は「桔梗貝」、腹面を主とする場合は「蓮葉貝」と呼んでいた、とある(荒俣宏「世界大博物図鑑 別巻2 海産無脊椎動物」の「ウニ」の記載から孫引き)。なお、英名“sand dollar”は、その形状を大きなコインに譬えたものである。但し、この「ツミ」という呼称は、一般には「螺(つぶ)」の転訛で、古くから巻貝類の俗称として用いられていた(現在でも恐らくはどこかの方言に残っているのではないかと私は推測する)。従ってそれを稀代の大雑学者であった蒹葭堂が認識していなかったとは到底思われないのである。その観点から本文をもう一度見て見ると、「然れども未だ其形をしらざれば」に続く「然れども」が気になるのである。これは無論、貝と聴いてはいるものの、その実態を知らず、形態が分からない、という逆接なのだが、どうも蒹葭堂はその後に貰った「つみ貝」の実物を見――ウニの同族とは思わなかったにしても――どうも二枚貝にも巻貝にも似ても似つかぬ、これは実は貝ではないのではないか、と実は思ったのではあるまいか、と感じられるのである。私にはそれが「一説に」「とぞ」「然れども」の記載の畳み掛けた言辞に表われているように思われてならないのである。私は「蒹葭堂雜録」などの飽くなき記録の数々を見るに、蒹葭堂はそうした博物学的な直感力を十全に保持していた人物のように思われるのである。

「浦田」「浦田の濱」西行関連の諸記載では玉野市渋川海岸とする。現在、崇徳院を西行が浦田の浜で偲んだのに因んだ「西行まつり」という行事が、この渋川海水浴場付近(岡山県玉野市渋川二-七)で行われている。

「何の能益ありやしらず」先に引用したウィキの「スカシカシパン」によれば、『スカシカシパン、タコノマクラを含むカシパン類、およびブンブクチャガマを含むブンブク類は、ウニ綱に属するウニの仲間だが、ムラサキウニやバフンウニのように食用にはならない。これは、可食部である精巣・卵巣がほとんど発達していないこと、硬く大きな外骨格を割るのも容易ではないこと、中身が食欲をそそらない黒緑色や、暗褐色をしている種が多く、種によってはヘドロのような異臭がするものがいることなどがその理由である。カシパン類、ブンブク類は畑の肥料として利用されることがある』とある。海産物フリークの私も、さすがにスカシカシパンを喰ったことは、残念ながら、ない。いつか食してみたいとは思う。ほんとに。

「紡錘(つむ)」糸を紡ぐための道具でコマの回転力を利用して、繊維をねじって撚りあわせ、糸にする道具。長い木の棒の先端に回転力を強める錘(おもり)となる円盤(紡輪・はずみ車・紡錘車)がついており、丁度、コマの軸が長く伸びたような形状であった。おもりの円盤は「こま」や「つむ」とも呼ばれていた。長い棒は糸を巻き取る回転軸(紡錘・スピンドル)であり、錘(おもり)と反対側の先端には糸を引っ掛けるフックがついている(ウィキの「紡錘」に拠る)。

「狂哥蘆荻集」紀真顔(後で注する最後に記される「狂歌堂眞顏」鹿津部真顔(しかつべのまがお)の別号)作の狂歌集「蘆荻集(ろてきしゅう)」。文化一二(一八一五)年板行。即ち、「云」(いはく)の後の「備前の小嶋の……」以下、最後の「狂歌堂眞顏」までが総て、この「蘆荻集」からの引用である。

「瀧資之」不詳。識者の御教授を乞う。

「円位」西行の法号。

「見かひつる」「見、買ひつる」か。それで訳したが、実は最後までこの部分の判読には迷ったので、ちょっと自信がないのである。識者の御教授を乞うものである。

「みな月晦日の日つみなくなるよしの歌をそへて」六月の晦日は夏越祓(なごしのはらえ)で、半年の罪の穢れを祓って、後の半年の疫除けを祈願する。それに引っ掛けた狂歌が瀧からの「つみ貝」に添えられてあったらしい。如何にも風流である。それにしても何故、その瀧の狂歌をここに記さなかったのか。自選狂歌集ならばこそかも知れないが、それを並べれば「後拾遺和歌集」に相聞のように並ぶ盛少将の和歌(次注参照)のようによかったものを、とも思う。瀧の狂歌の表現が(内容ではなく)今一つ気に入らなかったのかも知れない。もしくはこういう所に後で述べるような独善的な真顔の性格が現われているのかも知れない。

「澁川とさらにをじまの蜑小ぶねつみ送りしと吉備のよき人」私は和歌が苦手であるが、これは恐らく、「後拾遺和歌集」に所収されている源重之の和歌、

   題不知

 松島や雄島(をじま)の磯にあさりせし海人(あま)の袖こそかくはぬれしか

という、涙に濡れる袖を主題とする恋歌を念頭に置いて作歌されたものと思われる。また、この歌にはすぐ後に女性盛少将(さかりのしょうしょう)の、

 かぎりとぞ思ふにつきぬ涙かなおさふる袖も朽ちぬ許(ばかり)に

という涙に濡れそぼつ袖を主題とする恋歌が並んでいる。

 そうするとまず、「澁川」は地名の他に「しぶかは(がむける)」で垢抜けた女を連想させ、それに「さらに」(重ねるように)、「蜑小ぶね」「尼(削ぎの)小ぶね」少女が続き、そうした「吉備のよき人」(「吉備」は地名と、かく洒落た依頼品の贈答をして呉れた瀧の、その即応した「機微」の良さ、との掛詞であろうから)と続き、

――渋川という、それが剥けたという粋な女を思わせる地名……それに加えて恋の機微をよく知っている、浜辺に「つみ」を漁(すなど)る尼削ぎの少女のような、私の愛するあの吉備の美しい娘が……私に『あなたを恋い焦がれる「罪」に繋がる「つみ」という貝を送ったわ』と消息をよこした――

と、私は夢想した。私は歌学を知らず、典拠にも甚だ冥いゆえ、これは高い確率でトンデモ解釈なんであろうとは確信(?)している、但し、本テクストはアカデミックなものでも、この狂歌の解釈学のためのものでもないから、破廉恥にも勝手自在な解釈をさらけ出させて戴いた。その辺をご考慮の上で、和歌や狂歌にお詳しい方の忌憚のない御意見御教授を乞うものである。よろしくお願いしたい。なお、狂歌は現代語訳ではそのまま示した。

「狂歌堂眞顏」狂歌師で戯作者の鹿津部真顔(宝暦三(一七五三)年~文政一二(一八二九)年)。鹿都部真顔とも書き、通称北川嘉兵衛、「狂歌堂」は別号で他にも紀真顔などの多数の別号を持ち、戯作者としては恋川好町(こいかわすきまち)と称した。家業は江戸数寄屋橋河岸の汁粉屋で、大家を業ともしていた。初めは恋川春町に師事して黄表紙を描いていたが、天明年間(一七八一年~一七八九年)初期に四方赤良(大田南畝)に入門して頭角をあらわし、天明四(一七八四)年には数奇屋連を結成している。狂歌の四天王の一人で、狂歌師を生業とした濫觴とされる。狂歌四天王の一人である宿屋飯盛(石川雅望)と狂歌界を二分、流行の新風天明振りをよしとする飯盛に対し、真顔は鎌倉・室町期の狂歌こそが本来の姿であるとし、和歌に接近した狂歌を支持、狂歌という名称を俳諧歌と改めることを主張、飯盛と論争した。化政期(一八〇四年~一八二九年)の門人は全国に三千人と称されたが、尊大な性格に加え、その俳諧歌も面白味に欠き、一般からは親しまれなかった。晩年は家庭的にも恵まれず、貧窮のうちに没した。黄表紙「元利安売鋸商内(がんりやすうりのこぎりあきない)」、狂歌撰集「類題俳諧歌集」など、九十数冊の著作がある(以上はウィキの「鹿津部真顔」に「朝日日本歴史人物事典」の記載をカップリングした)。]

 

◆やぶちゃん現代語訳

 

○山家集に次のようにある。

「澁川の浦田と申すところで、幼い者どもが沢山、何やらん不思議なものを拾っていたので、『それは何と申すものじゃ?』と問うたところ、『「つみ」と申すものを拾うておる』と申したのを聞いて、

   をりたちて浦田に拾ふ蜑の子はつみよりつみを習ふなりけり」

 さて一説に、この「つみ」と言うものは貝であるという。然れども、未だその形容を知らぬによって、かの国の知己(ちき)にこのことを問い合わせたところが、今回、その「つみ」という現物を、わざわざ送って寄越して呉れた。

 浦田(うらだ)と申すのは、備前国児島郡(こじまのこおり)渋川村にあって、浦田の浜と称する海辺(うみべ)であるとのことである。

 さて、このつみ貝というもの、一体、何の役に立つものかは不明である。ただ童が純粋に遊びのために拾っておるに過ぎぬものであろうか?

 なるほどそのようにも見えるが、ただ、この「つみ」には大小があって一様ではない。以下に図として提示するものは、とりわけ大きい部類に属する個体である。小さなものは直径が一寸程度しかない個体もあると聞いている。

[図1 表(背面)及び側面の図のキャプション(訳)]

備前国児島郡浦田浜産ツミ貝の図。

 大きさは原寸大の図の通り。

 考察するに、「ツミ貝」という呼称は、糸を紡ぐ際に用いるところの弾み車の原理を用いた「紡錘(つむ)」または「つみ」とも称する道具があり、その形状は左上の図の通りである。これは木製のもので、これを「紡錘の歯」と呼んでいる。ところがその形状は、まさにこの貝によく似ているのである。ゆえにこれを「ツミ貝」と名付けたものであろうか。

[側面図の下(訳)]

側面より見たところ

[表(背面部)の図(訳)]

[表(背面内)の部分キャプション(訳)]

打ち抜きの穴

ここの筋部分は毛を模して彫ったものに似ている。

[図2 裏(腹面)の図のキャプション(訳)]

狂歌集「蘆荻(ろてき)集」に次のようにある。

『先般、備前の小嶋に在住する瀧資之なる御仁と語らい合った際、

「円位上人西行の「山家集」の中に、日比(ひび)・渋川などと申す浦方に、「つみ」という貝を産する由、記載があるが、これはどのようなもので御座ろうか? それらの場所は、これ、貴殿の在所の児島の近辺と聞いてもおるによって、そのようなものを見かけたり、または、もしや買ったりしたことはあられぬか?」

と訊ねたことがあった。すると後日(ごにち)のこと、

「――我らもよう知らず、珍らしきものならんと存じまして、この度(たび)、在所にて入手致し、所持して参りました。今回は、それをまずは早(はよ)うにお見せ申し上げようと存じます――」

と認めた文(ふみ)に――水無月晦日(つごもり)の夏越祓(なごしはらえ)の日には罪が無くなる――といったような歌意の狂歌を添えて、その「つみ貝」を一つ、送り届けて呉れた。その時の狂歌、

 渋川とさらにをじまの蜑小ぶねつみ送りしと吉備のよき人

       京都

         狂歌堂真顔』

[裏(腹面)の図(訳)]

[裏(腹面内)の部分キャプション(訳)]

 この穴は完全に表へ抜けている。

 この中には少しへこみがある。

 ここの筋は窪みである。

 一面にこのような点を播いたような模様がある。この特徴は表も同様である。

2013/04/24

林道春「丙辰紀行」より金澤・鎌倉・江島 / ブログ・カテゴリ「鎌倉紀行・地誌」創始

ブログ・カテゴリ「鎌倉紀行・地誌」を創始する。

ここでは、鎌倉・江の島・金沢等の、近世から近代にかけての比較的短い紀行文や地誌断片等を電子化してゆく。

 

まず最初は近世では最も古い部類に属する林羅山の丙辰紀行から。

 

 

林道春「丙辰紀行」より金澤・鎌倉・江島

 

[やぶちゃん注:本作は朱子学者にして林家初祖の林道春(号・羅山 天正一一(一五八三)年~明暦三(一六五七)年)が、元和二(一六一六)年に江戸から京都までの東海道を辿った際の紀行文である。彼はこの年の一月に徳川家康の命を受けて、金沢文庫に残っていた、唐初の太宗の撰になる「群書治要」の古活字本の編集版行を行い、五月下旬に完成させ(但し、家康はその前月四月十七日に死去している)、その後、家康の遺命より駿府文庫等の幕府所有の文書類の整理を行った後、生地京都へ戻った、その際の見聞紀行であるが、通常の紀行とは異なり、地名を項目に立てて、まず江戸の各地を地誌風に叙述することから始めている。各地の伝説や名物などの記事を簡潔に記し、多くの場合、七絶か七律の漢詩を添えている。近世初期にあって既にして地誌的記載法を採用している点、注目すべき作品である。

 底本は早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」の同図書館蔵の黒川家旧蔵書写本「丙辰紀行」のPDF版を視認して用いた。適宜、句読点や記号及び濁点を補って読み易くした。送り仮名の一部を本文に出した箇所がある。なお、読みはカタカナであるが、平仮名に直してある。漢詩は本文では白文表記とし、直後に〔 〕で訓点に従った書き下し文を示した。その際、不足する読みや送り仮名を〈 〉で補足した。]

 

丙辰紀行

 

   金澤(かなさは)

 

金澤の絶景は、東州の佳境にて、事好むもの、丹靑(たんせい)の手をかりて屏風にうつし、市杵島・天橋立(あまのはしたて)にも、いかでかおとるべきなど、もてなしあへり。北條氏(ほうでううぢ)、天下の權をとる時に、文庫(ぶんこ)を建(たて)て、金澤の文庫といへる四字を、儒書には黑印(こくゐん)をおし、佛經には朱(しゆ)印をつきておさめ置ける。越後守(えちごのかみ)平貞顯(のさだあきら)、この所にて淸原教隆(ののりたか)に、群(ぐん)書治要(ちよう)を讀(よま)せける。余が見侍りしも文選・清原師光(のもろみつ)が左傳・教隆が群(ぐん)書治要(ぢよう)・齊民要術(さいみんようゆつ)・律令義解(りつれいぎかい)・本朝文粹(ずい)・續本朝文粹・續日本紀などのたぐひ、其外、人家に所々ありけるも、一部と調(とゝのひ)たるはまれなり。一切經も取ほごして、纔(わづか)殘りて今に金澤にあり。古記典籍(てんじやく)の厄(やく)に逢(あへ)る事、いにしへより今に至るまで、いくたびといふ事をしらず。蘇我氏(そがし)が亂は、我が朝の一秦(しん)とも申べき。宅嗣が芸亭(うんてい)は名をだにもきかず。宇治の寶藏・蓮華五院の寶藏なども、跡さへぞなき。誠に祝融(しゆくゆう)にうばはれ、陽侯におぼるゝのみならず、兵燹(せん)にほろび、馬蹄にふみ散らさる。心あらん人、むかしをおもひ出ざらんや。されば人の語りしは、先聖・先師・九哲(てつ)の影、六經の註疏(ちうしよ)、いまに足利(あしかゞ)にあり。小野篁(をのゝたかむら)が東國へまかりける時に、足利に讀書の堂をつくりしが、今に殘りてあるぞ是なるとなん。余もまかりて見むとのみ、あらましにて年月をすごしぬ。

懷古涙痕羇旅情。腐儒早晩起蒼生。人亡書泯幾囘歳。境致空留金澤名。

〔懷古(くわい〈こ〉)の涙痕(るいこん) 羇旅の情

 腐儒(ふ〈じゆ〉) 早晩 蒼生を起す

 人 亡び 書 泯(ほろ)びて 幾囘(いくそばく)の歳ぞ

 境致 空く留む 金澤の名〕

 

   鎌倉(かまくら)

 

鎌倉にいたりて、あなたこなた見ありき侍りしに、賴朝の墓とて人のをしへければ、鴨(かも)の長明が、革も木もなびきし秋の霜きへて、といへる事を思ひ出て。

滿目鎌倉城郭亡。雲烟漠々樹蒼々。逍遙昔聽遊龜谷。報賽今無詣鶴岡草偃匣中三尺水。苔深墓上五更霜。君公不識包桑計。千載英雄涙濕裳。

〔滿目 鎌倉 城郭亡ぶ

 雲烟 漠々(ばく〈ばく〉) 樹蒼々

 逍遙(せう〈えう〉)として昔(かつ)て聽く 龜谷(かめがやつ)に遊〈ぶ〉

 報賽(〈ほう〉さい) 今無し 鶴岡(つるがをか)に詣〈づ〉

 草は偃(のべふ)す 匣中(かう〈ちう〉) 三尺の水

 苔は深し 墓上(ぼ〈じやう〉) 五更の霜

 君公 包桑の計ふを識らず

 千載の英雄 涙 裳(もすそ)を濕(うるを)す〕

[やぶちゃん注:最後の「裳」の「もすそ」は右ではなく左下部に振られている。]

 

   江島(えのしま)

 

藤沢より馬にまたがり、海濱近き所にて漁父の舟をかり、江嶋に渡りて見れば、あなたの海の岸の下に、大なる岩窟(がんくつ)あり。つい松をともして、深く入るほどに百歩あまりにてやみぬ。むかし龍神の棲(すみ)ける所となんいひ傳る。この嶋の弁才(べんざい)天女は、世にかくれなき事なり。

借間嶋中人。不知此孰神。蜿々遺蹤在。君其問水濱。江島從來神女居。風鬟霧鬢駕雲輿。遊人若有登仙意。水宿應傳柳毅書。

〔借間(しやもん)す 嶋中の人

 知らず 此れ孰(いづ)れの神ぞ

 蜿々(えん〈えん〉)として遺蹤(ゐしよ)在り

 君 其れ 水濱(すいひん)を問へ

 

 江島 從來 神女の居

 風鬟霧鬢(〈ふう〉くわんぶれん) 雲輿(〈うん〉よ)に駕す

 遊人 若し登仙の意有らば

 水宿 應〈に〉傳〈ふべし〉 柳毅(〈りう〉き)が書〕

[やぶちゃん注:「霧鬢」底本では「フレン」とある。「霧」には稀な音として「ぶ」がある。「柳毅」は唐代伝奇李朝威作と伝える「柳毅伝」の主人公。科挙に落ちた書生柳毅が洞庭湖の龍王公主と結ばれる恋物語。]

神世いかに今むつましみわたつ海の八重の塩路に言傳やらん

沢庵宗彭「鎌倉巡禮記」 38 ~ 沢庵宗彭「鎌倉巡禮記」完結

以下の漢詩を以って沢庵宗彭「鎌倉巡禮記」は終わっている。

今回、電子テクスト公開に従って、これを読んだ僕の古い教え子の一人は、頻りに、沢庵の文章を名文と称揚していたが、私も全体を通して、その表現も、その選び取る景物も、そして沢庵の血の通った感懐も、どれも頗る附きで優れたものであると再認識した次第である。



   覺園律寺尊氏將軍再興有棟銘、

  覺園律寺日苔生  木葉鳴風布薩聲

  八十呉僧不言戒  只依床壁睡爲榮

[やぶちゃん注:以上を底本の訓点を参考にしながら、私なりに書き下しておく。

   覺園律寺、尊氏將軍再興の棟の銘有り、

  覺園律寺 日に苔(こけ)生ず

  木の葉 風に鳴る 布薩の聲

  八十呉僧 戒を言はず

  只だ床壁に依りて 睡(すゐ)を榮(えい)と爲(す)

わざわざ天井にある尊氏の梁の銘(現存)を題に出しているのであるから、この詩自体にも尊氏に絡んだ何らかの含意があるのであろうが、不学な私は読み解けない。識者の御教授を俟つものである。

「布薩」修行者たちが月に二度(旧暦の満月の十五日と新月の三十日)に集まっては、自身の犯した罪を告白懺悔(さんげ)し、清浄な生活を送ることを確認しあう儀式。説戒とも言う。サンスクリット語のウパバサタ“Upavasatha”の俗語形を音写したもの(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。但し、ここでは山の梢の鳴る音を諸僧の布薩に譬えている。寂寞にして睡るように座禅する老僧ただ一人のみが、そこには「在る」のである。

「呉僧」とあるが、沢庵が実見した僧は勿論、渡来僧ではない。「八十の老僧一兩人うち眠りて壁によりたる有樣いづくにたとへむ閑さとも覺えず、いさゝかも世中をばしらぬがほ也」という俗世を超越したこの老僧に、恰も俗臭紛々たる当代の僧侶にない、異界性を見ているのであろう。だからこそ、それにこがれた沢庵は「心にまかせなば爰にとゞまりて生ををくらまほしくぞおもふ」とさえ吐露したのである。されば結句の「榮」は「誉れ」若しくは「光明」の意を孕む、有り難い一字の眼目をと私は詠むのである。]

沢庵宗彭「鎌倉巡禮記」 38

   拜大鑑禪師淸拙和尚於建長寺禪居庵、

  盤結乾坤作草廬  大唐日本一禪居

  出無門矣入無戸  塔樣直看先劫初

[やぶちゃん注:以上を底本の訓点を参考にしながら、私なりに書き下しておく。

   大鑑禪師淸拙和尚を建長寺禪居庵に拜す、

  乾坤 盤結して 草廬を作る

  大唐 日本 一禪居(ぜんご)

  出づるに門無く 入るに戸無し

  塔樣 直看して 劫初(こふしよ)に先んず

結句には底本では送り仮名がない。

「盤結乾坤作草廬」は「碧巌録」の「第四則 徳山挟複子」に基づくものと思われる。その本則の終盤に、

潙山云、此子、巳後向孤峰頂上盤結草庵、呵仏罵祖去在。

潙山(いざん)曰く、「此の子、巳後、孤峰頂上に向(お)いて草庵を盤結し、仏を呵(かつ)し、祖を罵り去らんぞ。」と。

「盤結」は蟠踞と同じで、本来は蛇がとぐろを巻いて蹲ること、しっかりと根を張って動かぬことを言う。「劫初」この世の初め。]

沢庵宗彭「鎌倉巡禮記」 37

   拜佛國禪師之塔先問塔主山風暗答、常寂塔者無香燈之備、

   雖法門之正統、庵缺提綱之任否、空房而老鼠白日行野狐

   入夜宿、禪扉不閉風霜飽浸慈顏、吁時乎命乎、聞昔年之

   盛事見今日之頽廢、感慨非一卒賦俚語云、

  土曠人稀一塔荒  禪扉不鎖飽風霜

  可憐此法今墜地  佛國光輝有若亡

[やぶちゃん注:以上を底本の訓点を参考にしながら、私なりに書き下しておく。

   佛國禪師の塔を拜し、先づ塔主を問ふに、

   山風、暗(やみ)に答ふ。

   常寂の塔は香燈の備へ無く、

   法門の正統と雖も、

   庵、提綱(ていこう)の任を缺くや否や、

   空房にして、老鼠、白日に行き、

   野狐、夜に入りて宿す。

   禪扉、閉さず、風霜、飽くまで慈顏を浸ほす。

   吁(ああ)、時か命か、

   昔年の盛事を聞き、今日の頽廢を見て、

   感慨、一つに非ず、

   卒(にはか)に俚語を賦して云はく、

  土 曠(あら)く 人 稀れに 一塔 荒る

  禪扉 鎖さず 風霜に飽く

  憐れむべし 此の法 今 地に墜つ

  佛國光輝 有れども亡きがごとし

「佛國禪師」高峰顕日。

「土曠人稀」は「書経」の巻之二の、

 今水患雖平、而卑濕沮洳、未必盡去、土曠人稀、生理鮮少。

(今、水患、平らぐと雖も、而して卑濕沮洳、未だ必ずしも盡く去らず、土、曠く、人、稀にして、生理、鮮少なり。)に基づくものと思われる。「卑濕沮洳」「ひしつしよじよ」と読み、土地が低く水はけが悪くて常にじめじめしていること。「生理」暮し向き。「鮮少」頗る少ない、窮貧の謂い。

 この前書を含む全体を支配する己が禅の源流たる建長寺の完膚なきまでの荒廃への、烈しい悲憤梗概の情は、これ、ただならぬものを感じさせる。さればこそ、私はこの詩を沢庵の名吟の一つと数えたいのである。]

沢庵宗彭「鎌倉巡禮記」 37

   拜報國寺開山佛乘禪師、題門曰漸入佳鏡、

  認題門字入佳境  枯木囘岩裹古蹤

  想見祖師行道日  其聲今聽意中鐘

[やぶちゃん注:以上を底本の訓点を参考にしながら、私なりに書き下しておく。

   報國寺開山佛乘禪師を拜し、門に題して曰く、「漸入佳鏡」、

  門に題するの字を認め 「佳境」に入る

  枯木 囘岩 古蹤の裹(うち)

  想見の祖師 行道(ぎやうだう)の日

  其の聲 今 聽く 意中の鐘

「古蹤」「蹤」は足跡で、古の人の歩いた跡の意。但し、禅語では、古人の優れた行いの意があり、それも含めた謂いではあろう。実際の報国寺訪問の際のパートで注した如く、沢庵はこの寺に感銘していないと私は読む。さればこその「漸入佳鏡」の題字を詠んで、鐘の音のみによって触発される仮想の禅境をのみ夢想して詩を作したものと私は断ずるものである。]

沢庵宗彭「鎌倉巡禮記」 36

   拜稻荷山淨妙寺開山塔、曰光明院行勇禪師

  月沈野水光明院  峯披靑雲祖塔婆

  當昔決竜蛇陣處  看來今日一僧伽

[やぶちゃん注:以上を底本の訓点を参考にしながら、私なりに書き下しておく。

   稻荷山淨妙寺開山塔を拜し、光明院行勇禪師を曰(よ)ばふ、

  月 野水に沈む 光明院

  峯 靑雲に披く 祖塔婆

  當昔(たうせき) 竜蛇陣を決する處

  看來 今日 一僧伽(そうぎや)

底本では標題の「曰」は「日」。勝手に「曰」と判断した。また、標題及び漢詩全文には送り仮名が全くなく、「曰」を「よばふ」(呼ばふ)と訓じたりしたのも私の独断である。大方の御批判を俟つ。

「當昔」往昔。古え。

「竜蛇陣」兵法の陣立ての一つ。「碧巌録」の第七十一則「百丈併却咽喉」〔百丈、咽喉(のど)を却(ふさ)ぐ〕の「頌」等に用例がある。ここでは禅の祖師らの公案の発問を言い、「決する」はそれを喝破し、悟達したことを指すものと思われる。

「看來今日一僧伽」「僧伽」は教団を言うが、ここは単に寺の堂のことであろう。先の浄明寺訪問記載を見れば――見たところ、今日只今は、ただの寂れた堂があるばかり――という謂いであることが分かる。]

沢庵宗彭「鎌倉巡禮記」 35

   金峯山淨智寺開山塔、

  門庭不設祖師禪  淨智莊嚴松竹旋

  見麼我宗直建立  草深一丈法堂前

[やぶちゃん注:以上を底本の訓点を参考にしながら、私なりに書き下しておく。

   金峯山淨智寺開山塔、

  門庭 設けず 祖師の禪

  淨智の莊嚴 松竹旋(せん)

  見麼(けんも) 我が宗 直建立(ちよくこんりふ)

  草は深し 一丈法堂(はつたう)の前

「見麼」は「見たか?」「見たか!」の意。]

沢庵宗彭「鎌倉巡禮記」 34

   入龜谷壽福寺拜千光國師於逍遙院、

  照暗千光本一光  逍遙大宋止扶桑

  請看黑漆崐崘耳  敬爲祖師燒作香

[やぶちゃん注:以上を底本の訓点を参考にしながら、私なりに書き下しておく。

   龜谷(かめがやつ)壽福寺に入り、千光國師を逍遙院に拜す、

  暗(やみ)を照らす 千光 本(もと) 一光

  大宋を逍遙し 扶桑に止まる

  請ふ 看よ 黑漆崐崘耳(こくしつこんろんじ)

  敬す 祖師たり 燒けて香と作(な)る

底本では結句は「敬 祖師(と)爲(り) 燒 香を作る」〔( )は私が補った〕とでも読むか。私には意味不全なので、かく訓じた。大方の御批判を乞う。

「千光國師」は栄西。

「崐崘」は現在のベトナム・カンボジア地域にあった国名であるが、知られた寿福寺蔵の栄西の頂相を見ると、焼けて黒焦げになった如く真っ黒で、背が低く、巨頭にして耳が異様に長い。そうした異形のうちに、逆に仏教伝来の大陸の、往古の聖人の再来の風貌を読み取ったものか。これも大方の御批判を乞うものである。]

耳嚢 巻之六 鳥類助を求るの智惠の事

 

 鳥類助を求るの智惠の事

 

 木下何某(なにがし)の、領分在邑(ざいいふ)の節、領内を一目に見晴す高樓有(あり)て、夏日近臣を打連れて右樓に登(のぼり)、眺望ありしに、遙の向ふに大木の松ありて、右梢に鶴の巢をなして、雄雌餌を運び養育せる有さま、雛も餘程育立(そだち)て首を並べて巢の内に並べるさま、遠眼鏡(とほめがね)にて望みしに、或時右松の根より、餘程ふと黑きもの段々右木へ登る樣、うはゞみの類ひなるべし、やがて巢へ登りて雛をとり喰ふならん、あれを刺せよと、人々申さわげども、せん方なし。しかるに、二羽の鶴の内一羽、右蛇を見付し體(てい)にてありしが、虛空に飛(とび)去りぬ。哀れいかゞ、雛はとられなんと手にあせして望み詠(ながめ)しに、最早彼(かの)蛇も梢近く至り、あわやと思ふころ、一羽の鷲はるかに飛來り、右の蛇の首を喰(くは)へ、帶を下(くだし)し如く空中を立歸りしに、親鶴も程なく立歸りて雌雄巢へ戻り、雛を養ひしとなり。鳥類ながら、其身の手に及ばざるをさとりて、同類の鷲をやとい來りし事、鳥類心ありける事と、かたりぬ。

 

□やぶちゃん注

 

○前項連関:なし。動物奇譚。リアルタイムの叙述で頗るヴィジュアライズされており、事実譚として十分に信じ得る筆致である。

 

・「鳥類助を求るの智惠の事」は「鳥類、助けを求むるの智惠の事」。

・「木下何某」岩波版長谷川氏注に、『備中足守二万五千石木下氏か(鈴木氏)。』とある。以前にも述べたが、この鈴木氏は勿論、底本編者の鈴木棠三氏であるが、ここで長谷川氏の引くものは、私の底本である「日本庶民生活史料集成 第十六巻 奇談・紀聞」(三一書房一九七〇年刊)の「耳嚢」の鈴木氏の注ではなく、同じ鈴木氏の平凡社東洋文庫版(私は所持しない)のものである。底本には、この注はない。因みに足守(あしもり)藩は備中国賀陽郡(「かや」「かよう」の両様に読む)及び上房(じょうぼう)郡の一部を領有した藩。元和元(一六一五)年、木下利房が大坂の陣の功績により二万五千石にて入封。以後、明治まで木下家が十二代、二百五十六年間に亙って在封した(但し、江戸後期には領地の大半が陸奥国に移された)。藩庁は足守陣屋(現在の岡山県岡山市北区足守)に置かれた(以上はウィキの「足守藩」に拠る)。

 

★諸本の説明をしたので、この場を借りて再度断っておきたいのであるが、

 

 ★私は「耳袋」の現代語訳本は一冊も所持していない

 

 ★私のこの「耳嚢」の現代語訳は総てが私のオリジナルである

 

という点を――「耳嚢 巻之六」の終了を間近に控えた――折り返し点を遙かに過ぎ、本格的な復路に入った――ここで、読者に改めて宣明しておく。

 

・「喰(くは)へ」は底本のルビ。 

 

■やぶちゃん現代語訳 

 

 鳥類が仲間に助けを求むるという知恵を持つ事 

 

 木下何某(なにがし)殿が、御領地に在られた折りのことで御座る。

 

 御領内を一目で見晴らすことの出来る高楼(たかどの)が御座って、とある夏の日のこと、近臣をうち連れて、この楼に登り、眺望なされた。

 

 すると、遙か向うにある大木の松の梢に、鶴が巣を成して、雄雌が餌を運んでは子を育んでおる様子にて、雛もよほど大きゅう育って、首を並べて巣の内に並んでおるさまを、木下殿、遠眼鏡(とおめがね)にて如何にも微笑ましゅう望まれるを、これ、楽しみになさっておられた。

 

 ところが、そんなある日のこと、何時ものように楼へ参られ、かの鶴の巣を覗こうとなされたところが、さる御付きの者、目敏(めざと)く、

 

――かの松の根がたより

 

――よほど太く真っ黒なるものが

 

――これ

 

――だんだんに

 

――かの木へと登る

 

と見えた!

 

「……あれ! 蟒蛇(うわばみ)の類いじゃ! 直きに巣へと登り入って雛をとり喰(くろ)うに違いない! 誰か、早(はよ)、あれを刺せぃ!」

 

と、叫んだによって――御主君お気に入りの鶴の親子であればこそ――その場の人々は、これ、慌てふためいて、口々に、何やらん、申しては、騒いではみたものの、何分、高き松の梢のことなれば、如何ともしようが、これ、御座ない。

 

 木下殿以下、陪臣の者ども皆、ただ手を拱いて眺めておるしか御座らなんだ。

 

 しかるに、見ておるうち、巣に御座った二羽の鶴のうちの一羽が、これ、この蛇を見つけた様子にて御座ったものの、何と! 懼れ怖気づいたものか、畜生の哀しさ――空高く、飛び去ってしもうた。……

 

 木下殿、

 

「……哀れな!……ああっ! 雛は最早、獲らるるに違いない!……」

 

と、諸人、手に汗して、遙かに眺めておるばかりで御座った。……

 

 最早、かの蛇も梢近くへと至った。

 

あわや!――

 

――と――

 

思うた、その時、

 

――虚空に一点、黒点が浮かぶ!

 

かと思うと、

 

――みるみるそれが大きくなり

 

――一羽の鷲と相い成る!

 

――急転直下

 

――音もなく飛び来ると

 

バッ!

 

――と――

 

――かの蛇の首を喰(くわ)え

 

――口より長き帯(おび)を垂れ下げた如く

 

――空中(そらなか)を

 

――悠々と

 

――たち帰って御座った。……

 

 すると、先ほど消えた一羽の親鶴も、ほどのう巣へとたち帰って参り、雌雄、目出度く巣に安らいで、また、何時ものように、仲睦まじゅう、雛を養(やしの)う様が、これ、その日も見られて御座った。…… 

 

「……鳥類ながらも、かの一羽の鶴、近づく蛇の、その身の手には及ばざる天敵なることを悟り、同類のうちにても剛(ごう)をならした、かの鷲を雇いに参ったこと……これ、たかが畜生なる鳥類なれど……巧める思慮というものが、これ、御座るものじゃのう。……」

 

とは、木下殿が、直かにお話し下さったもので御座る。

沢庵宗彭「鎌倉巡禮記」 33

   拜瑞鹿山圓覺寺開山佛光禪師、

  圓覺伽藍包大千  大千日月這中旋

  展虛空手禮三拜  宇宙横身老鉅禪

[やぶちゃん注:以上を底本の訓点を参考にしながら、私なりに書き下しておく。

   瑞鹿山圓覺寺開山佛光禪師を拜す、

  圓覺伽藍 大千を包む

  大千 日月 這中(しやちゆう)に旋(めぐ)る

  虛空手を展して 禮 三拜

  宇宙 身を横ふ 老鉅禪(らうきよぜん)

「大千」大千世界。三千大千世界の一つで中千世界を千集めたもので、仏の教化の及ぶ範囲の意に用いる。

「這中」は「しゃちゅう」で、この中の意。「這」は這うの意の場合は音は「ゲン・コン」であるが、「シャ」と読む時、「これ」「この」という指示語になる。同様の意で這箇(しゃこ)・這般(しゃはん:これには別に此度・今度の意がある。)、「このように」の意で這麼(しゃま)等、禅語では頻繁に見かける用字である。

「老鉅」「鉅」には尊(たっと)いの意があり、「鉅偉」(優れて大きい)・「鉅卿(きょけい)」(貴人/他者を尊んで言う二人称代名詞)・「鉅公」(「鉅卿」と同義/名人。その道の達人/天子)の熟語があり、「老」は「老師」「老台」「老爺」等と同じく年長者への尊敬の接頭語であろうから、仏光国師無学祖元の禅の三昧境を言っている。祖元の禅の指導法は頗る懇切で、実に「老婆禅」(年老いた女が世話をやくように万事洩れなく行き届いているの意であろう)と呼ばれ、多くの鎌倉武士の尊崇を受けたのであった。]

よれからむ帆 大手拓次

 よれからむ帆

 

ひとつは黄色い帆、

ひとつは赤い帆、

もうひとつはあをい帆だ。

その三つの帆はならんで、よれあひながら沖(おき)あひさしてすすむ。

それはとほく海のうへをゆくやうであるが、

じつはだんだん空のなかへまきあがつてゆくのだ。

うみ鳥(どり)のけたたましいさけびがそのあひだをとぶ。

これらの帆(ほ)ぬのは、

人間の皮をはいでこしらへたものだから、

どうしても、内側(うちがは)へまきこんできて、

おひての風を布(ぬの)いつぱいにはらまないのだ。

よれからむ生皮(いきがは)の帆布(ほぬの)は翕然(きふぜん)としてひとつの怪像となる。

 

[やぶちゃん注:四行目の「沖(おき)あひさしてすすむ」の部分、底本は「沖(おき)あひさしですすむ」でと格助詞が「て」ではなく、「で」の濁音ある(印字の汚れではなく、確かな植字「で」である)。「沖合指し」という特異な名詞形もあり得ない訳ではないが、ここは創元文庫版「大手拓次詩集」の表記を採用した。

「翕然」「翕(キュウ)」は聚(あつ)まるの意で、多くのものが一つに合う、一致する、集まるさま。]

鬼城句集 春之部 藤の花

藤の花  谷橋に來て飯に呼ぶ藤の花

     竹垣に咲いてさがれり藤の花

     藤棚を落ち來て日あり二ところ

     藤浪や峰吹きおろす松の風

     岩藤や犬吼え立つる橋の上

祕密 萩原朔太郎

 祕密

 

 春畫や春本ほど、一般に祕密にされながら、しかも普遍的なものはないだらう。實に至る所に、僕等はその表現を發見する。たとへば町の共同便所や、寄宿舎の壁や、工場の集會所や、それからたいていの中學生のノートなどに。

 此等のものについて、僕の實に驚くことは、すべてが一樣の型にはまり、同じ言語、同じ畫面が、至る所に約束されてゐるといふことである。そこにはいつも、氣の利かない、馬鹿馬鹿しい、無刺激の言語が羅列され、ただ醜惡の外、何の春情をも挑撥し得ない、誇張した局部の穢畫がある。何故に人々は、こんな醜劣な、非色情的なものによつて、性感の満足と表現を得るのだらうか。もし人間の性生活が、實に果してこの通りで、一樣に、単調に、平凡に、型にはまつたものであり、且つそれが一般的であるとすれば、人生は何といふ陰慘な存在だらう。あらゆる春畫の表現は、僕を絶望的にまで憂鬱にする。實に春童や春本ほど、僕にとつて人生を味氣なく、退屈に感じさせるものはない。

 或はもちろん、此等の街路に見る落書は、何等質感からの表現でなく、子供等の無心にする摸倣の惡戯であるだらう。しかしながら歌麿や豊國やの大家等が、時に全くその「同じもの」を描いて居るのだ。すべての美術的な春畫が、同樣に醜惡の局部を描き、型にはまつた一樣式のものであるとは? 他の創作に於ては、かれほどに獨創的で、特異な個性と創見とをもつてる畫家が、人生の最も情熱的な畫題に対して、一も類型の平凡を脱しないといふことは、いかに人間の性生活が、一般を通じて單調であり、馬鹿馬鹿しく、無刺激なものであるかを證據する。

 果してけれども、それが人間の實の表現だらうか。たいていの人々は、思ふにその實の表現を祕密にしてゐる。人間の羞恥心は、實の恥づかしい、デリケートな性感を人にかくし、一般に知られてゐる、紋切り型の、公開されたものだけを表現してゐる。春畫や淫本に於てさへも、人生の明らさまの表口しか、僕等は見ることができないのだ。

 

[やぶちゃん注:『手帖』第一巻第四号・昭和二(一九二七)年六月号に掲載。……「他の創作に於ては、かれほどに獨創的で、特異な個性と創見とをもつてる畫家が、人生の最も情熱的な畫題に対して、一も類型の平凡を脱しないといふことは、いかに人間の性生活が、一般を通じて單調であり、馬鹿馬鹿しく、無刺激なものであるかを證據する」という断言……そしてコーダに於いて「春畫や淫本に於てさへも、人生の明らさまの表口しか、僕等は見ることができないのだ」と、ある対象を強調的に例示し、それによって他の場合は勿論、当然であることを類推させる副助詞「さへ」に添加の係助詞「も」を用いた朔太郎の、くだらない、おおかたの人間存在の、その人生というものへの絶対のアンニュイが見てとれる……]

2013/04/23

初夏の詩情 萩原朔太郎

私が愛し、私を愛してくれる、京都奈良をことのほか愛する、昔の、ある教え子に捧ぐ――

 初夏の詩情

 日本の季節の中では、初夏と晩秋がいちばん樂しく、絶好の季節のやうに思はれる。特に桐の花の吹く五月頃の季節、即ち所謂「初夏新綠」の候は、妙に空氣が甘ずつぱく、空が透明に靑くすんで、萬物の色が明るく鮮明に冴え、日本畫的であるよりも、むしろ洋餓的風物を思はせる。物の匂ひや肌ざはりやが、最も鋭敏に感じられ、官能の窓が一時に開放されるのもこの頃である。僕はその頃になると、不思議にロマンチツクの詩情に驅られ、何所かの知らない遠い所へ、ひそかに旅をしてみたいやうな、夢見心の郷愁に誘はれる。何がなし初夏の季節は、不思議に浪漫的の季節であり、他の日本的な四季とちがつて、例外的に西洋臭い情緒をもつた季節である。そのためか知らないが、昔の日本の詩歌人たちは、かうした初夏の季節や風物やを、趣味的にあまり好まなかつたやうに思はれる。昔の日本の風雅人等は、春と秋とを專ら好んで、夏と冬とを好かなかつた。特に就中、彼等が春を愛したことは、古今集以下の勅撰歌集に於て、春の部の歌が最も多いことによつて明らかである。
 しかし春といふ季節は、僕自身の主觀に於ては、決してそんなに好い季節ではない。名に空氣が生暖(なまぬる)くむくむくして、生理的に不健康な感じがするし、實際にまた頭痛や目まひがする。特に東京地方の春と來ては、埃がひどく立ちのぼるので、一面に物が汚れて薄ぎたなく、萬象が不透明に霞んで見える。さうした埃つぽい空氣の中で、初めから既に褪色して、白つちやけた色をしてゐる櫻の花を見る毎に、僕はいつも不快な性病をさへも聯想する。昔から多くの人々が、何でこんな櫻なんて汚ない花を、そんなにも多くの詩歌に詠んで愛したのか。そもそもまた春なんて詰らぬ季節を、どうしてそんなにも嘆美したのか。僕には長い間このわけが疑問であつた。
 ところが往年の春、一度京都に遊んで以來、初めてこの疑問が氷解した。京都の春は實に美しい。第一、東京のやうに埃がなく、風が吹かないで靜かな上に、水蒸氣が多いため、空氣がしつとりとして濡れて居り、萬象の風物が色を含んで、艶に朦朧と霞んで見える。特に夕景の美しさは格別で、山際かけて地平線の空に薄い臙脂色の春霞がたなびき、錦繪の空にそつくりである。さうした景象の中で、櫻の花が美女のやうに艷めかしく咲いてるのである。東京の櫻を見て「性病」を聯想した僕は、京都の櫻を見て「戀」を聯想し、初めて「花」といふ日本語の意味がわかつた。(花といふ日本語は、普通に櫻の花を意味し、倂せて艷めかしいこと、色めいたことを意味する。)
 昔の日本の詩歌人たち、特に王朝時代の歌人たちが、そんなにも春を愛し、春の歌を無數に詠んだといふわけも、京都へ來て初めて僕に合點された。その頃の歌人たちは、たいてい皆殿上人の公卿貴嬪(くげきひん)で、その殆んど全部が京都に住んで居たのである。そして同時にさうした彼等の歌の意味も、初めて現質感として理解された。

  見わたせば山もと霞む水無瀨川夕べは秋と何おもひけむ  (後鳥羽院)
  霞たつ末の松山ほのぼのと波にはなるる横雲の空  (藤原家隆)
  春の夜の夢の浮橋とだえして峰に別るる横雲の空  (藤原定家)
  春の空は梅の匂ひに霞みつつ曇りもはてぬ春の夜の月  (藤原定家)
  花は散りその色となく眺むればむなしき空に春雨ぞふる  (式子内親王)

 かうした昔の歌をよんで、以前の僕には何の面白味もなく、何の現實感もイメーヂに浮ばなかつた。むしろさうした歌人たちが、言語を遊戲的に修辭學化して、いたづらに美辭麗句を竝べることの態度に對して反感した。それが京都の春を見てから、自分のまちがひであることがすつかり解つた。「朧ろにかすむ」とか「霞に暮るる」とかの言葉の詩趣は、東京に住んでる人たちは、單なる美辭麗句として以外、絶對に解らないことであるが、京都の春を知る人には、それが眞に文字通りの寫生であり、現實感であることが解るのである。同時にまたさうした春の歌や櫻の歌が、單なる風物の敍景以外、歌の心の奧深く、ひそかに幽玄に匂はせてるところの、色めきたる戀心の種を知ることも出來るのである。
 しかし現實東京に住み、長く關東地方で育つた僕は、年々歳々、白つちやけた櫻を眺め、埃つぽい春の季節ばかりを經驗して居る。「花は散りその色となく眺むればむなしき空に春雨ぞふる」といふやうな色めいた歌の情趣は、現在東京に住んでる僕の場合、容易にイメーヂに浮んで來ない。僕の環境にあつて、常に最もよくイメーヂに浮んで來るのは、やはり前言つた「初夏新綠」の季節である。つまり言つて見れば、東京及び關東地方に於ては、この頃の季節が最も美しく樂しいのである。だが日本の文化は、昔から奈良の都を中心として、關西地方のみで繁榮した。さうして武家は關東に集團し、詩人とインテリゲンチユアの風流人とは、多く皆關西に生活して居た。そのため日本の詩歌にあつては、初夏を歌つたものが極めてすくなく、殆んど稀有の數にすぎない。まれにそれを歌つたものも、僕等の詩情する季節感とは、大いに趣きが異つて居る。即ちたとへば、

  うちしめり菖蒲ぞかをる時鳥なくや五月の雨の夕ぐれ
  時鳥鳴くや五月のあやめ草あやめも知らぬ戀もするかな

 といふ風に、梅雨時のじめじめした暗鬱な季節感を詠んだもので、あの洋畫的の明るい風物や、浪漫的の郷愁感をそそるところの、眞の初夏新綠の季節を歌つた詩歌は、殆んど中世以後の日本にない。ただ上古の詞葉集であつた萬葉集に、珍らしくさうした浪漫的の初夏の歌が散在するのは、當時唐を經て間接に傳來した西歐の文化が、奈良朝歌人に何かの影響を與へたものか。もしくはその所謂「詠み人知らず」の庶民たちが、全國の諸地方に散亂して居た爲かであらう。
 しかし此處に最も奇蹟的な存在は、實に與謝蕪村の俳句である。日本の俳人は歌人と同じく、芭蕉以來系譜的に春秋の二季を愛し、その季に屬する作品が多いのに反して、初夏を詠じたものは甚だすくなく、素堂の名句「目に靑葉山ほととぎす初鰹」の如きも、むしろ異例的な作にすぎない。然るに蘇村の俳句には、さうした初夏の明朗感や郷愁感を歌つたものが、量に於て相當に多いばかりでなく、質に於ても極めて秀れて居るのである。試みに次の蕪村の俳句を見よ。

  愁ひつつ丘に登れば花茨
  絶頂の城たのもしき若葉かな
  鮒鮓や彦根の城に雲かかる
  更衣野路の人はつかに白し
  花茨故郷の道に似たるかな

 此等の俳句が詠じてゐるものは、すべて初夏新綠の頃の季節が特色してゐるところの、明るく爽やかな洋畫的風光であり、そしてその詩情の本質を流れてるものは、同じその季節が誘ふところの、一種の縹渺たるロマンチツクな郷愁である。「在家」の句に於て、いかにその浪漫的郷愁の詩情が、強く高調的に歌はれてるかを見よ。そして「更衣」の句や「絶頂の城」の句が、いかに洋畫風の明るい色彩と空氣を措いてるかを見よ。さらにまた「鮒鮓」の句が、その詩情の本質に於て、島崎藤村氏の名詩「千曲川旅情の歌」と共通して居り、浪漫的抒情の高い調べに富んでるかを見よ。蕪村の生きてた天明年間は、十九世紀の初頭に當り、西歐の文壇では、浪漫主義が全盛に榮えて居た時であつた。しかし同時代の鎖國してゐた島國日本に、さうした西歐文化の渡來して來るわけがないから、蕪村の新らしさと浪漫性とは、全く日本で孤獨に芽生えた變り種で、しかも後に根をつぐものなく、一代限りで亡びてしまつた花であつた。しかも蕪村の生涯は、大部分を京都に暮らして居たことを考へるとき、いよいよ以てその藝術の偶然性と、天才の偶然性(天才の出生は、科學上にも蓋然律の方則でしか證明されず、全く偶然のものである。)が考へられる。
 明治以後になつてから、西歐詩の影響の下に、傳統的な日本詩歌のマンネリズムを脱却して、新しい季節感を歌つた詩歌人はすくなくないが、その最も優なるものは北原白秋氏であつた。特に氏の處女歌集「桐の花」は、その書物の題名が示す如く、集中の歌の大部分が初夏新綠の頃の明るく官能的な風物を歌つたもので、そのリリシズムの本質には、少年の日のやるせない哀傷感が、一種の淡いノスタルヂアとなつて、桐の花の黄粉のやうに漂つて居る。
 最後にこの雜誌の讀者のために、僕の靑年時代に作つた初期の詩から、さうした季節感を歌つた作品一篇を載せてみよう。

      旅上

  ふらんすへ行(ゆ)きたしと思(おも)へども
  ふらんすはあまりに遠(とほ)し
  せめては新(あたら)しき背廣(せびろ)をきて
  氣(き)ままなる旅(たび)に出(い)でてみむ
  汽車(きしや)が山道(やまみち)を行(ゆ)くとき
  水色(みづいろ)の窓(まど)に寄(よ)りかかりて
  我(わ)れひとり嬉(うれ)しきことを思(おも)はむ。
  五月(さつき)の朝(あさ)の東雲(しののめ)
  うら若草(わかぐさ)のもゆる心(こころ)まかせに。

[やぶちゃん注:『婦人公論』第二十六巻第五号・昭和一六(一九四一)年五月号所収。
「うちしめり菖蒲ぞかをる時鳥なくや五月の雨の夕ぐれ」九条良経の和歌。「新古今和歌集」に所収。次の歌の本歌取り。言わずもがな乍ら、「菖蒲」は「あやめ」、「時鳥」は「ほととぎす」、「五月」は「さつき」と読む。
「時鳥鳴くや五月のあやめ草あやめも知らぬ戀もするかな」誤り。「古今和歌集」の「卷第十一」の冒頭「戀歌一」の巻首を飾る「よみ人しらず」「題しらず」の和歌(「国歌大観」番号四六九)。
「目に靑葉山ほととぎす初鰹」誤り。
 目には靑葉山ほととぎす初鰹
である。
 最後に示された「旅上」は知られたものは「純情小曲集」(大正一四(一九二五)年八月新潮社刊)に所収されたものであるが、ここでは、その初出(無題)を示すこととする。

ふらんすへ行きたしと思へども
ふらんすはあまりに遠し
せめては新しき背廣をきて
きまゝなる旅にいでゝみん
汽車が山みちを行くとき
みづいろの窓によりかゝりて
われ一人うれしきことを思はん
五月の朝のしのゝめ
うら若草のもえいづる心まかせに

これは『朱欒』第三号第五号・大正二(一九一三)年五月号所収のものである。]

耳嚢 巻之六 得奇刄事

 

 

 得奇刄事

 

 享保の頃の事とや、本多庚之助(ほんだこうのすけ)家中に、名字は聞もらしぬ、惠兵衞(けいべゑ)と云(いへ)る剛勇の男ありしが、或時夜に入(いり)、程遠き在邊へ至り歸りの節、稻村(いなむら)の内より六尺有餘の男出て、酒手(さかて)をこひし故、持合無之(もちあはせこれなき)由、斷(ことわり)を不聞(きかず)、大脇差を拔(ぬき)て切懸(きりかかり)し故、拔打(ぬきうち)に切付(きりつけ)しに、鹽梅(あんばい)能く一刀に切倒(きりたふ)し候ゆゑ、早く刀を拭(のご)ひ納(をさめ)て立(たち)歸りしが、右の袖手共(そでてども)にのり流れける故、扨(さて)は手を負ひしと思ひ、月明りにて改め見しに、疵請(きずうけ)し事もなし。能々みれば刀の束(つか)をこみともに一寸斗(ばかり)切り落し有之(これある)故、驚きて、遖(あつぱ)れのきれものと、不敵にも右の處へ立(たち)戾り其邊を見しに、こみとも切れ候所も、其場所に落(おち)てありし故ひろひとり、去(さる)にても盜賊の所持せし刀、遖れの名刀也と、猶(なほ)死骸を見しに、彼刄持居候間取納(かのかたなもちをりさふらふあいだとりをさめ)て宿元(やどもと)へ立歸りしが、かゝる切もの、いよいよためし見度(みたし)とて、主人屋敷にてためしものありし節、持參して試し給るやう望(のぞみ)ければ、則(すなはち)ためさんと、彼(かの)刀を拔拂(ぬきはら)ひ、つくづくと見て、扨て珍敷(めづらしき)刀かな、久しぶりにて見候なり、是は名刀也、試すに不及(およばず)と、彼(かの)ためしする者、殊外(ことのほか)賞美して、手に入(いれ)し譯尋(たづね)ける故、今は何をか隱さん、かくかくの事にて手に入(いれ)しとかたりて、右刀には別にせんずわりといふ切名(きりめい)あるべしと、改めしに、果して其銘あり。是は切支丹(きりしたん)御征罰(せいばつ)の時、夥敷(おびただしく)切りしに、中にもすぐれて切身(きれみ)よかりしを、右の切銘を入れしとなり。彼被殺(かのころされ)し盜賊は、權房五左衞門とて、北國(ほつこく)に名ある强盜の由。久田(ひさだ)若年の節、父のもの語りなりと咄しぬ。

 

□やぶちゃん注

 

○前項連関:特になし。本格武辺物の名刀譚。

 

・「得奇刄事」は「奇刄(きじん)を得し事」と読む。

 

・「享保の頃」西暦一七一六年~一七三六年。根岸の生年は元文二(一七三七)年であるから、誕生前の珍しく古い話。「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年であるから、七十年以上前の出来事である。

 

・「本多庚之助」底本の鈴木氏の注には、『播州山崎で一万石』とする。山崎藩(やまさきはん)は播磨国宍粟(しそう)郡周辺を領有した藩で藩庁として山崎(現在の兵庫県宍粟市山崎町)に山崎陣屋が置かれていた。但し、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では、本文が『本多孝之助』となっており、長谷川氏は注で、『正徳元年(一七一一)没の幸之助忠次、三河挙母一万石か』と推定されておられる。『三河挙母』は三河国北西部(現在の愛知県豊田市中心部)を治めた譜代大名の小藩挙母藩(ころもはん)のこと。なお、何れの本田家も「ほんだ」と読む。

 

・「稻村」稲叢。刈り取った稲を乾燥させるために野外に積み上げたもの。稲塚(いなづか)。従ってロケは中秋である。

 

・「六尺有餘」二メートル八十センチを優に越える。

 

・「大脇差」脇差は武士が腰に差す大小二刀の小刀の方の呼称であるが、その脇差の非常に長いものをいう。

 

・「右の袖手共にのり流れける故」「のり」は血糊であるが、後で分かるように、これは一刀のもとに断ち切ったその際、同時に相手の盗賊權房五左衞門の太刀(後に名が出る名刀「せんずわり」)の切っ先が、恵兵衛の太刀の柄の頭(かしら)の部分を断ち切っていたのであったが、その影響から小身(後注参照)が緩み、權房五左衞門を斬った際の多量の血液が恵兵衛の太刀の鍔で止まらず、斬った直後に緩んだ部分から柄の内側にそれが流れ込み、頭の抜けた部分から右二の腕や袖の部分に流れ入ったものと推定される。

 

・「遖(あつぱ)れ」の読みは底本のもの。

 

・「こみ」「小身」「込み」などと書き、刀身の柄(つか)に入った部分。中子(なかご)のこと。

 

・「ためしもの」試し物。刀の斬れ味を試すために死刑囚やその遺体などを試し斬りにすること。

 

・「せんずわり」千頭割か(但し、だったら「せんづわり」でないとおかしい)。刀の加工に用いる道具に「銛(せん)」(「銑」とも書く)と呼ばれる鉄を削る押切りの刃のような大振りの手押し鉋(かんな)があるがそれと関係があるか。キリシタン絡みだから「せんず」は伴天連関連の何かなのかも知れぬ。いや、「センズ」とは「イエズス」の訛かも……なんどと夢想もした。銘なので、ひらがなというのも何なので、勝手ながらとり敢えず、訳では「千頭割」としておいた。正しい漢字表記をご存知の方は、是非、御教授あられたい。

 

・「切名」切銘。刀剣で中子に製作者の名が刻んであるもの。これは「銘の物」と称し、一般には確かな名刀の証しである。

 

・「切支丹御征罰」島原の乱を指すか。幕府軍の攻撃とその後の処刑によって最終的に籠城した老若男女三七〇〇〇人(二七〇〇〇とも)余りが死亡している。

 

・「權房五左衞門」不詳。読みも不詳。「ごんばうござえもん」と読むか。

 

・「久田」不詳。ここまでの「耳嚢」には久田姓の登場人物はいない。それにしても、かく呼び捨てにするというのはかなり新しい情報筋と思われる。 

 

■やぶちゃん現代語訳 

 

 珍らしき名刀を手に入れた事 

 

 享保の頃、とか申す。

 

 本多庚之助(ほんだこうのすけ)殿御家中にて――名字は聞き漏らいたが――恵兵衛(けいべい)と申す剛勇の家士が御座った。

 

 ある夜更け、かなり遠方の村方へ参っての帰り、田の稲叢(いなむら)の中より、突如、六尺を優に越ゆる大男が出て来て、

 

「……酒手(さかて)……お呉んない!……」

 

と乞うたによって、

 

「――今は持ち合わせが――これ、ない――」

 

と断った。

 

 ところが、いっかな引き下がらず、それどころか、大脇差を抜き放って斬りかかって参った。

 

 されば恵兵衛も抜き打ちに斬りつけた。

 

 幸いにも一刀のもとに、たかりの大男を斬り倒して御座った。

 

 直ぐ、刀を拭い納めて、その場は立ち去ったと申す。

 

 ところが、夜道を辿って参るうち、袖や二の腕辺りで、頻りに何やら血糊のようなものが流れる感じが致いたため、

 

「……さては、知らずに手負いを受けて御座ったか……」

 

と思って、立ち止まって月明かりにて改めて見ところが、肌脱ぎになってみても、これといって傷を受けたところは、これ、御座ない。

 

 されど、確かに、夥しい血の滴りが、右袖や右の二の腕に確かにあるゆえ、さらによくよく見てみれば、何と!

 

――恵兵衛の太刀の束(つか)

 

――これ

 

――小身諸共(もろとも)

 

――一寸斗ばかりも

 

――斬り落ちておる

 

ということに、気づいた。

 

 驚いて、

 

「……うむむ! 遖(あっぱ)れの切れ物じゃ!」

 

と感心致いて――もう、夜も丑三つ時にもならんとするに――大胆不敵にも、先(せん)の修羅場へと立ち戻り、その刃傷の辺りを捜してみたと申す。

 

 すると、確かに、恵兵衛の太刀の小身諸共に切れたものが、そのすっぱり切れたそのまんまに、そこに落ちて御座ったゆえ、拾い取って、その切り口の鮮やかなるを見、

 

「……うむむ、うむむ! それにしても……盜賊の所持せる刀ながら、遖れの名刀じゃ!」

 

と、さらに猶も死骸を探って見たと申す。

 

 すると、かの刀を握りしめたまま、とっくにこと切れて転がって御座ったによって、かの刀を、死骸の手から引き剥がし、己が屋敷へと立ち帰ったと申す。

 

 

 その後のことである。

 

「……かかる切れ物の脇差……いよいよその斬れ味、これ、試してみとうなったわい……」

 

と恵兵衛、頻りに思うたによって、ある時、主人(あるじ)の屋敷にて、試し斬りのある由、聞きつけ、かの大脇差を持参致いて、主人(あるじ)へ、

 

「――この脇差儀、どうか、試し斬り給わりますように。」

 

と、切(せち)に望んだところが、主人(あるじ)も、

 

「面白い。一つ、試してやるがよい。」

 

と、即決されたと申す。

 

 試し斬りの達者(たっしゃ)が、試し斬りのために奉行所より引き渡された罪人を据えた庭へと出でる。

 

 かの大脇差も引き出だされ、達者によって刀が抜き払われた。

 

――と

 

 達者、その大脇差をつくづくと見ると、

 

「……むッ! さても珍らしき刀にて御座る! 久し振りの見参じゃ! これは名刀で御座れば――最早――試すに及ず――」

 

と、その試し斬りの達者、殊の外、賞美致いた上、

 

「……かくなる名刀――如何にして手に入れられた?」

 

と、切(せち)に訊ねたゆえ、

 

「――さても今は何をか隠そうず――かくかくの出来事の、これ御座って、かくも手に入れて御座る。」

 

と一切を語り明かした。

 

 すると、かの達者、

 

「――その刀には、恐らく――『せんずわり』――との切銘(きりめい)が彫られてあろうと存ずる。――改めて見らるるがよい。」

 

と申したによって、主人(あるじ)からの命もあればこそ、

 

――チャッツ!

 

と茎(くき)を抜いて見てみたところが、果たして

 

――「千頭割」――

 

との銘が彫られて御座った。……

 

「……この大脇差は、何でも、切支丹(きりしたん)御征伐(せいばつ)の折り、夥しき邪教の者どもを斬り殺しましたが、その折りに使われた脇差の中にても、これ、優れて切れ味の良かったものを選び、特にこの――千頭割――と申す切銘を入れた、と伝え聞いておりまする。……それから、かの、この脇差を所持致いて御座った殺されし盜賊は、これ、権房五左衞門(ごんぼうござえもん)と申す、北陸にて名を轟かせた強盜の由にて御座いました。……」

 

 以上の話は、私昵懇の久田某(ぼう)が、若年の折りに彼の父から聞いた話として私に語って呉れたもので御座る。

橋上 萩原朔太郎 + 荘子 秋水篇 『知魚楽』

 

 橋上

      ――詩壇の議論家に捧ぐ――
 

 

 支那のある水郷地方。

 白柳が枝をたれて、陽春の長閑かな水が、橋の下をいういうと流れてゐる。

 橋の上に一人の男がたたずんでゐる。男はぼんやりと考へながら、川の流れを見つめてゐた。

「どうした? 惠子。」

 さういつて一方の男が、後から肩を叩いた。男は詩人哲學者の莊子であつた。

「あれを見紛へ。」

 二人は默つて、しばらく水面を眺めてゐた。午後の物うげな日光が、橋の欄干にただよつてゐる。支那風の苫船が、白柳の葉影につないであつた。

「何が見える?」

 暫らくして莊子が言つた。

「魚さ」

 惠子が退屈さうに答へた。惠子は若い哲學者で、辯證論の大家であつた。

「見給へ! 奴があの水の中を泳いでゐる樣子を。實に愉快さうぢやないか。」

「わかるものか。」

 莊子が反抗的の態度で言つた。二人は始から敵であつた。個人的には親友であつたけれども、思想上では事事に憎み合つた。趣味が、あらゆる點で反對してゐた。

「人間に魚の心がわかるむのか。魚自身にとつてみれば、あれで悲しんでゐるかも知れないのだ。それとも何か、君には魚の心がわかると言ふのか?」

 いつも抽象的な論理をこねて、彼の詩的な思想に楯をつく敵に對し、ここで復讐してやつたことが、莊子は嬉しくてたまらなかつた。しかし惠子は負けなかつた。彼は皮肉らしく落付いて返事をした。

「その通り! 僕にはちやんと魚の心がわかつて居るんだ。」

「何だと?」

 莊子が呆れて叫んだ。

「獨斷だ! おどろくべき獨斷だ。ふん! いつでも君の議論はそんなものさ。」

「よろしい。」

 惠子が靜かに反問した。

「では聞くがね。人間に魚の心がわからないといふならば、どうしてまた、僕の心が君にわかるだらう? 僕は現に、魚の心を知つてると告白してゐる。然るに君は、勝手に僕の心を否定してゐる。どつちが獨斷かね。」

(莊子の一節から)

 

[やぶちゃん注:『詩神』第二巻第一号・大正一五(一九二六)年一月号。以上の引用は総てママである。一読お気づきのことと思われるが、朔太郎は原話の荘子と恵子の関係を逆転させている。当初、私は単に朔太郎の誤認とも思われたのであるが、どうもこれは確信犯のような気がする。副題の「詩壇の議論家に捧ぐ」とあるが、本話(原話ではない)の「詩壇の議論家」とは、実にその『詩人哲學者の莊子』である。しかも『詩人哲學者の莊子』は『いつも抽象的な論理をこねて、彼の詩的な思想に楯をつく敵に對し、ここで復讐してやつたことが、莊子は嬉しくてたまらなかつた』とある。荘子は普段自分を真正の「詩人」と自認しており、彼が絶対と考える『彼の詩的な思想』にちゃちゃを入れる『惠子』には、普段から不快を抱いていたのだ。この話柄の荘子は、その彼に『復讐』出来たことが如何にも嬉しいという、如何にも俗な詩人を標榜する『莊子』なのである。しかし『惠子は負けなかつた。彼は皮肉らしく落付いて』、かの鮮やかな論理によって『復讐』のための『詩人哲學者の莊子』の『獨斷』を見破るのである。この話では終始一貫して(話柄中一回も矛盾せず)『若い哲學者で、辯證論の大家』で何時も『退屈さうに』世界を見ている『惠子』こそが万物に通底する心を知る真の詩人であり、世間的に詩人と認定されている『莊子』が、実は復讐のために相手を追い込むえげつない非詩人として描かれているのである。原話の最後の部分を変改して断ち切っている点からも、朔太郎は原話のようなロジックやメタ・ロジックの問題をここで語ろうとしているのでもないことが分かる。

 即ち、ここでは文章構造上――萩原朔太郎こそがこの『退屈さうに』世界を見ている『惠子』であり――自称詩人を標榜して雨後の竹の子のように「詩人」として現われ、詩壇で盛んに『詩的な思想』なるものを囀っている『詩人哲學者の莊子』こそが『詩壇の議論家』たち――であることになる。

 しかし――しかし、私は今一つの解釈が定立するように見える。即ち、文字通り、素直に、

――真正詩人を自認する『詩人哲學者の莊子』=萩原朔太郎

でよい。そうすると、では、当時、朔太郎にとって、『詩壇』で詩人でもないのに詩人面をし、しきりに詩について対等に『議論』ふっかけてこようとする自らを詩人と自称したい人物、

――『若い哲學者で、辯證論の大家で』ありながら、いつも『退屈さうに』世界を見つめている『惠子』、『個人的には親友であつたけれども、思想上では事事に憎み合』い、『趣味が、あらゆる點で反對してゐた』、内実に於いては『始から敵であつた』『惠子』、『いつも抽象的な論理をこねて、彼の詩的な思想に楯をつく敵

とは誰であったを考えて見ればよい(下線部やぶちゃん)。

 これは一人しか、いない、のだ。

 即ち、

――『若い哲學者で、辯證論の大家』=芥川龍之介

である。

 以前の注でも既に書いたように、朔太郎は畏友芥川龍之介のことを、

「詩を熱情してゐる小説家である」

と一刀両断にし、

「詩が、芥川君の藝術にあるとは思はれない。それは時に、最も氣の利いた詩的の表現、詩的構想をもつてゐる。だが無機物である。生命としての靈魂がない。」

と公言して憚らなかった(その前後の頗る忘れ難い印象的な複数のシークエンスを我々は萩原朔太郎の「芥川龍之介の死」の中に見出すことが出来る。特にその「11」から「13」である――私は「13」の朔太郎と龍之介の最後のショットを確かに実見したという不思議な錯誤記憶さえあるのである――リンク先は私の電子テクストである)。

 以上の事実を透して、この奇妙な一見とんでもない不全誤訳にしか見えない話を再読すると、私はしかし、妙にすっきりと腑に落ちるのである。

 これは私のオリジナルな『獨斷』ではある。恐らくは、誰もこんなことを問題にしているアカデミストはおるまい。ただの萩原朔太郎の勘違いの一文として葬られていたのではなかろうかと推察する。

 大方の御批判を俟つものである。

 

 最後に。荘子の「荘子(そうじ)」「秋水篇」の、一般に「知魚楽」などという通称で知られる原話は、私が頗る愛するもので、教員時代には漢文でしばしば教材として用いたので、記憶している教え子諸君も多いであろう。以下に原文と訓読及び私の語注、さらにオリジナル現代語訳(今回全面的に新訳した。特に現在時制にしてシナリオのように示すことで新味が出たとは思う)を配して往古を偲ぶよすがとする。

 

○原文

莊子與惠子、遊於濠梁之上。莊子曰、「鯈魚出遊、從容。是魚樂也。」。惠子曰、「子非魚。安知魚之樂。」。莊子曰、「子非我。安知我不知魚之樂。」。惠子曰、「我非子。固不知子矣。子固非魚也。子之不知魚之樂、全。」。莊子曰、「請、循其本。子曰、『女、安知魚樂』云者、既已、知吾知之而問我。我、知之濠上也。」。

 

○やぶちゃんの書き下し文

 莊子、惠子と濠梁(がうりやう)の上(ほと)りに遊ぶ。

 莊子曰く、

「鯈魚(いうぎよ)出でて遊び、從容(しようよう)たり。是れ、魚(うを)の樂しむなり。」

と。

 惠子曰く、

「子は魚に非ず。安(いづく)んぞ魚の樂しむを知らん。」
と。

 莊子曰く、

「子は我に非ず。安んぞ我の魚の樂しむを知らざるを知らん。」
と。

 惠子曰く、

「我は子に非ず。固(もと)より子を知らず。子は固より魚に非ざるなり。子の魚の樂しむを知らざるは、全(まった)し。」

と。

 莊子曰く、

「請ふ、其の本(もと)に循(したが)はん。子曰はく、『女(なんぢ)、安んぞ魚の樂しむを知らん』と云ふは、既已(すでにすで)に、吾の之(これ)を知れるを知りて我に問ひしなり。我、之を濠の上りに知れり。」

と。

 

○やぶちゃんの語注

・「惠子」恵施(けいし 紀元前三七〇年頃~紀元前三一〇年頃)。戦国時代の思想家・政治家で宋の出身であったが魏の恵王・襄王に仕えた。諸子百家の「名家」(論理学派。一種の詭弁術)に分類される。

・「濠梁之上」「濠」は掘割で、「梁」はそこに設けられた簗(やな)、「上」は訓じたように畔(ほとり)の意。この「梁」を一般には、魚類を飼いおくために河川の一部を石で囲ったりして人工的に造った生簀(いけす)とし、ずっと私もそう注して来たが、「濠」を固有名詞の川名として濠水、「梁」は橋の意と採る説もある。私は今回再考してみて、従来のアカデミズムや字義上の大勢より何より、荘子の泥亀と同じであって、この魚たちが生簀に飼われているというシチュエーション自体が甚だ「荘子」的世界には相応しくないという思いに至った。従って現代語訳では従来の私の訳を変え、ここは「掘割の橋の上」と変更することとし、最後の「上」は広角で撮って「畔り」とした。

・「鯈魚」(現代仮名遣「ゆうぎょ」)狭義には淡水産のハヤやオイカワを、広義には細長くて小さい魚の総称。後者でよい。

・「安知我不知魚之樂」この「安(いづく)んぞ」は反語形で、『私(=荘子)に魚の楽しみが分かる』ということが有り得よう、いや、分からぬ、の意である。次の注を参照のこと。

・「『女、安知魚樂』云者」「安んぞ」には実は「どうして」という疑問や反語の意の他に、「どこで」という場所を問う疑問の意味もある。勿論、先の恵子の反義は「どうして~しようか、いや、~しない」の意の反語形であったのだが、ここで荘子は、それに加えて、「どこで」の意も含ませて用いている。それは「知之濠上也」(たしかにこの『ここの掘割の畔り』にあって直ちに魚の心を知った)と呼応して、時空間の混然一体となった荘子的宇宙が最後に示されるのである、と私は採るものである。これを面倒になった荘子が、詭弁、レトリックを弄し、字義をすり替えて(ずらして)議論を収束させたのだとするような見解もあるようだが、私は、採らない。それでは最早、本話はただの頓智話と化してしまって、「荘子」の世界の話では、ない、からである。無論、これが後代の荘子でない誰かによって書かれた偽文であるならばその解釈もあってよかろう。――いや、その可能性は勿論、大いにあるのであろうが――それでも私は、あくまで本話を真正の荘子哲学として読み解きたいのである。本話が人口に膾炙するに功のある湯川秀樹先生が本話を愛された理由も、そうしたこの話柄の持つ宇宙観に基づくものだと、私は信じて疑わないのである。

 

○やぶちゃん現代語訳
 

 荘子が恵子とともに掘割の橋の上を逍遙している。

 荘子は川面を眺めながら、

 

「魚(さかな)が出て、悠々と泳いでいるじゃないか。いや、まっこと、魚たちは楽しんいるんだねぇ。」

 

と呟く。

 すると、それに対して恵子は、

 

「君は魚じゃない。――だから君に魚の楽しみが分かるはずがないね。」

 

と、いなす。

 それに荘子が答えて、

 

「君は僕じゃない。とすればだ、

『僕に魚の楽しみが分からない』

ということがどうして

『君に分かる』んだい? 分かるはずがないよねぇ?」

 

と応酬する。

 すると恵子も黙ってはいない。

 

「僕は、君でない。だから勿論、君のことは分からない。……しかしその同じ論理によって、

『君は魚ではない』

『だから君には魚の楽しみが分からない』

と導けるぜ! どうだい!

『君には魚の楽しみが分からない』

ということは最早、疑いようがない事実だろう?!」

 

 しかし、荘子は徐ろに、静かに、語りかける。

 

「――どうか一つ、今一度、このやりとりの基本に立ち戻ってみようじゃないか。

 君はさっき僕に、

『どうして君に魚の楽しみが分かるろうはずがあるんだ? いや、分からんね!』

と訊いたよ、ね?

ところが、君は、その発問を君がする、それよりもずっと以前から、すでにして、

『僕が魚の楽しみを分かっていると認識している』

ということを、

『君はすでに知っていた』

のだよ、ね?

 だからさ!

 それと全く同じように、僕はまさに――

――『この橋の上で』『確かに』あの魚たちの楽しみが『分かった』

のさ!」

 

懐かしい……実に、懐かしいではないか……こういうものを教えることは私とって頗る至福だった……が……それを以ってつまらぬ試験問題を作り……それを以って評価なんどというものをしなければならなかったのは……これ、実に、『既已(すでにすで)にして』、昔から最後まで、私の教師の仕事の中(うち)、未来永劫、おぞましい記憶として残るのだということだけは、これ、述べて、本注を終わりとする。]

みどりの狂人 大手拓次

 みどりの狂人

 

そらをおしながせ、

みどりの狂人よ。

とどろきわたる媢嫉(ばうしつ)のいけすのなかにはねまはる羽(はね)のある魚は、

さかさまにつつたちあがつて、

齒をむきだしていがむ。

いけすはばさばさとゆれる、

魚は眼をたたいてとびださうとする。

風と雨との自由をもつ、ながいからだのみどりの狂人よ、

おまへのからだが、むやみとほそくながくのびるのは、

どうしたせゐなのだ。

いや………‥魚がはねるのがきこえる。

おまへは、ありたけのちからをだして空をおしながしてしまへ。

 

[やぶちゃん注:「媢嫉」妬み憎むこと、忌み嫌う、の意。「媢」は、ねたむ・そねむ・忌む及び憎むの意を持つ。終わりから二行目のリーダ部は、底本では等間隔で十一ポイントある。]

鬼城句集 春之部 桃の花

桃の花  桃咲いて厩も見えぬ門の内

     屏風して夜の物隱す桃の花

沢庵宗彭「鎌倉巡禮記」 32

   入巨福山建長寺、拜開山大覺禪師於西來院、

   經曰照于東方萬八千土云々、

  不覺從前大覺尊  照東方土破群昏

  篙師得力西來意  下載淸風月一痕

[やぶちゃん注:底本では題は改行せず一続きである。以上を底本の訓点を参考にしながら、私なりに書き下しておく。

   巨福山(こふくさん)建長寺に入りて、

   開山大覺禪師を西來院に拜す、

   經に曰く東方萬八千土を照らすと云々、

  不覺(ふかく) 從前(しようぜん) 大覺尊(だいがくそん)

  東方土を照らし 群昏(ぐんこん)を破る

  篙師(かうし) 力を得(う) 西來の意

  下載(あさい)の淸風 月一痕

「篙師」の「篙」は舟の棹(さお)で、船頭、水夫の意。蘭渓道隆大覚禅師の渡日と、仏国土への引導の意を掛けるか。

「下載の淸風」これは「碧巌録」に載る禅語、

 如今放擲西湖裏 下載淸風付與誰

  如今(じよこん)に放擲す 西湖の裏(うち) 下載(あさい)の淸風 誰(たれ)にか付與せん

に基づく。「安延山承福禅寺」公式サイトにある『今月の禅語 朝日カルチャー「禅語教室」より』の「下載清によれば、ロケーションは無論、杭州西湖。景勝西湖は水上輸送の要衝でもあったとされ、

   《引用開始》

たくさんの荷を積んだ船の船足は重く、ようやく船着き場にたどり着き、せかされるように休む間もなく荷をおろしにかかり、今やっと陸揚げを終えてた。一切の厄介なものを放擲してしまったようにすっきりした気分である。気がつくと西湖の船着き場には川風が吹き抜けてすがすがしい。任務は終わって、さぁあとは川の流れに任せ、帆をいっぱいに広げて下載(あさい)の清風にまかせて銭塘江を快適に下るだけだ。

 このすがすがしい解放感は何とも言いようがない。何の束縛もないこの爽快さ、湧き上がる喜びを誰に伝え、誰と分かち合おうか。

 だが、これだけは誰にも分け与えられるものではない。苦しみ喘ぎ、汗を流してきたものだけが味わうことができる喜びなのだ。

 因みに昔、中国では東南の風を上載といい、西北の風を下載といわれたと聞くが、また、荷物を積んで銭塘江を上がるを上載といい、荷物を下して江を下るを下載ともいわれるのだともいう。いづれにせよ荷を積み流れに逆らって船を走らせる苦労があればこそ、清風を受けて快適に下る心地よさがあるのだ。

 徳川家康の格言として知られる「人の一生は重荷を負うて 遠き道を行くがごとし」のように人は皆いろいろなことを背負って生きていることである。

 しかし、そんな俗界のしがらみも、迷いも囚われもすべて放擲してしまったときにこそ新しい人生、別天地が開けてくるらしいのだというのが、「下載の清風」の語の意図である。ところが、自らもそうだが、人様には無駄なもの余計なものは捨てなさいと言いながら、また拾って歩く自らがある。

 修行して悟りを得れば悟りにとらわれて、後生大事に持ち歩く御仁もおられる。下載の清風を感じられる人生でありたいものである。

   《引用終了》

と、丁寧な解がなされてある。]

沢庵宗彭「鎌倉巡禮記」 31

いく度もとて又々八幡宮に詣て、

  十かへりの木すゑをならす風の音に こゑをあはする鶴か岡の松

  吹千年綠鶴岡松  永翼蔽源家後蹤

  禱則感應如在扣  神宮寺裡一聲鐘

[やぶちゃん注:以上の漢詩を底本の訓点を参考にしながら、私なりに書き下しておく。

  千年の綠を吹く 鶴岡(つるがをか)の松

  永く源家の後蹤(こうしよう)を翼蔽(よくへい)す

  禱(いの)れば則ち感應して 扣(ひか)へに在るがごとし

  神宮寺裡(じり) 一聲の鐘

「扣」は「控」の意に同じい。]

2013/04/22

沢庵宗彭「鎌倉巡禮記」 30

九代の跡といふをみて、

  みてそけふおもひあはする麻はなく 心のまゝのあとの蓬生

新勅撰に入とやらん歌に、

  世中に麻はあとなく成にけり 心のまゝの蓬のみして

 とあるを今おもひ出てなり。又、

  麻はなく蓬とよみしことのはや わか世の後をかねていひけむ

同じき歌の心ばへ也。あれなる岡邊こそは文覺上人の遺跡なれと、あない賴し人の申せば、よそながらみて、

  かくといかてすむ世におもひ岡へなる 一むらすゝきあはれとそみる

  有文覺遺跡  只不見其人  遮眼霜餘草  斷根水上蘋

  懷今復懷古  觀世更觀身  四百年前事  于時感慨新

[やぶちゃん注:「九代の跡」幕府滅亡後に足利尊氏が北条高時の菩提を弔うために旧高時邸のあった場所に宝戒寺を建立したが、その宝戒寺自体か、若しくはそこにある北条得宗家九代に当たる高時を祀った祠である得宗権現社を指しているものと思われる。

「新勅撰に入とやらん歌に……」この和歌は文暦二(一二三五)年に完成した、十三代集最初の歌集「新勅撰和歌集」に「題しらず」で載る、北条泰時の和歌である。

 世の中に麻(あさ)はあとなくなりにけり心のままの蓬(よもぎ)のみして

――世の中には真っ直ぐに立って生える麻のように真っ直ぐな心の人はすっかりいなくなってしまったことだ……今や、心の恣ままに、捩じくれてしか生えぬ蓬のような輩ばかりとなって――

この歌は「荀子」の「勧学篇」にある、「蓬生麻中、不扶而自直。」(蓬も麻の中に生ずれば、扶(たす)けざるも直(なほ)し。)に基づくから、圧倒的多数の「蓬」化、愚鈍劣化を歎くのではなく、矯正指導が必要な「蓬」を正しく導き教導して呉れるはずの「麻」のような教師、自戒を十全に含んだ理想的君子が絶えたことを歎くことが主意である。

「文覺上人の遺跡」現在の金沢街道の鎌倉宮に向かう分岐の「岐れ路」を一〇〇メートル程金沢方向へ向かったところで右折、滑川を渡る大御堂橋の先の丘の下辺りを文覚屋敷と伝える。

「有文覺遺跡……」以下の漢詩を底本の訓点を参考にしながら、私なりに書き下しておく。

  文覺の遺跡有り

  只だ其の人を見ず

  眼を遮る 霜餘(さうよ)の草(さう) 

  根を斷つ 水上の蘋(ひん)

  今を懷ひ 復た古へを懷ひ

  世を觀じ 更に身を觀ず

  四百年前(ぜん)の事

  時に感慨 新たなり

「蘋」は浮草。]

沢庵宗彭「鎌倉巡禮記」 29

やつやつを見めぐるにこゝはたれそれがし、かしこはそのなにがしとかや、ふるきあとども限もなし。
  建久封疆多變寺  寺終廢壞又平蕪
  千旋萬化不留跡  昔日英雄骨又無
[やぶちゃん注:漢詩を底本の訓点を参考にしながら、私なりに書き下しておく。
  建久の封疆 多くは寺と變ず
  寺 終(つひ)に廢壞し 又 平蕪(へいぶ)
  千旋 萬化 跡を留めず
  昔日の英雄 骨 又 無し
「封疆」「ほうきやう(ほうきょう)」と読み、「封境」と同じい。国境のこと。]

耳囊 卷之六 蜘蛛怪の事

 

 

 蜘蛛怪の事

 

 

 文化元子年、吟味方改役(あらためやく)西村鐡四郞、御用有之(これあり)、駿州原宿(はらしゆく)の本陣(ほんぢん)に止宿せしが、人少(すくな)にて廣き家に泊り、夜中與風(ふと)目覺(めざめ)て床の間の方を見やれば、鏡の小さきごとき光あるもの見へける故驚きて、次の間に臥しける若黨へ聲懸ぬれども、かれも起出(おきいで)しが、本間(ほんま)次の間とも燈火消(きえ)て、彼(かの)若徒(わかきと)も右光ものを見て大(おほい)に驚き、燈火など附(つけ)んと周章せし。右のもの音に、亭主も燈火を持出て、彼(かの)光りものを見しに、一尺にあまれる蜘(くも)にてぞありける。打寄りて打殺し、早々外へ掃出(はきいだ)しけるに、程なく湯どの一方にて恐敷(おそろしき)もの音せし故、かの處に至りて見れば、戶を打倒(うちたふ)して外へ出(いで)しようの樣子にて、貮寸四方程の蜘のからびたるありける。臥所(ふしど)へ出しも湯殿へ殘りしも、同物ならん、いかなる譯にやと語りぬ。 

 

□やぶちゃん注

 

○前項連関:本格動物怪異譚二連発。一見、「ウルトラQ」の「クモ男爵」張りの巨大グモが怪異のメインに見えるが――どっこい! 違うぜ!――本当の怪異は最後の小さな蜘蛛なのだよ。……そもそも、この蜘蛛はこんなに小さいのだ。……しかも、とっくに死んで干からびてるじゃないか。……それなのに何故、湯殿で激しく戸を破って外へ出ようとる音が生じたのか?……これは、殺された大蜘蛛の(多分、雄という設定だね)、その、とうに亡くなっていた連れ合いの雌の亡魂湯殿に籠っており、それが夫の死を察して、そこを脱して夫の魂のもとへと参ろうとした……その遺魂の断末魔の仕儀であったのだよ。……彼らは今頃、極楽の蓮(はちす)の蔭で、きっと仲睦まじく生きているに違いない……いや、犍陀多(かんだた)に御釈迦様が降ろした蜘蛛の糸はこの夫婦の蜘蛛の一匹だったに違いないさ……だってそうだろう? ワトソン君?……彼らは何も……悪いことなどしていないんだからねえ……

 

・「文化元子年」「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年八月。この巻は、後半になればなるほど、直近のクレジット附の記事が多いのが特徴である。

 

・「吟味方改役」勘定吟味役の下で勘定方の調べた公文書を再吟味する実質的な実務審理担当官。

 

・「西村鐡四郞」不詳。ここまでの「耳囊」には登場していない。

 

・「駿州原宿」東海道五十三次十三番目の宿場で現在の静岡県沼津市にあった。宿場として整備される以前は浮島原と呼ばれ、歴史的には木曾義仲討伐のために上洛する源義経が大規模な馬揃えを行ったことで知られる(ウィキの「原宿(東海道)」に拠る)。

 

・「本陣」街道の宿駅にあって大名・公家・幕府役人などが宿泊した公的な旅宿を指す。

 

・「一尺にあまれる」約三十センチメートルを超える、ということになり、初読者は一見、本邦産の蜘蛛では到底あり得ないと思いがちであるが、果たしてそうだろうか? このクモ、深夜に室内に出現している徘徊性の種であるから、間違いなく、普通に家庭にいる節足動物門鋏角亜門蛛形(クモ)綱クモ目アシダカグモ科アシダカグモ Heteropoda venatoria である。ウィキの「アシダカグモ」によれば、体長は♀で二~三センチメートル、♂では一~二・五センチメートルで、全長(足まで入れた長さ)は約一〇~一三センチメートルに達し、その足を広げた大きさはCD一枚分程度はあるとする(以上で分かるように、♂の方が♀よりも少し小さく、しかもやや細身で、触肢の先が膨らんでいる点で容易に区別が出来る)。『日本に生息する徘徊性のクモとしてはオオハシリグモ(南西諸島固有)に匹敵する最大級のクモで』、『全体にやや扁平で、長い歩脚を左右に大きく広げる。歩脚の配置はいわゆる横行性で、前三脚が前を向き、最後の一脚もあまり後ろを向いていない。歩脚の長さにはそれほど差がない。体色は灰褐色で、多少まだらの模様がある。また、雌では頭胸部の前縁、眼列の前に白い帯があり、雄では頭胸部の後半部分に黒っぽい斑紋がある』とある。この大きさは、驚愕した直後、しかも夜で、さればこそ叩き潰した後の大きさを言っていると考える方が自然であり、ぺしゃんこの状態から差し引くなら、実際の脚全長はせいぜい一〇数センチメートルから二〇センチメートルとすれば、上限だと確かに特異的な大型個体ながら、必ずしもあり得ない大きさではない。……何故、断言出来るんだって? 引用中に出るキシダグモ科オオハシリグモ Dolomedes orion の♀の生体の脚体長は一五センチメートルを超えるという採集コレクターの記載にあるし……それに何より……しばしば百足野郎が闖入して来、守宮(やもり)君がトイレの窓枠に何年も棲み込む私の家は、昔からこの足高蜘蛛殿の定宿でね……独身だった三十年ほど前の秋のこと、寝室で寝ていたら、顔が……右耳の辺りから……蟀谷(こめかみ)……反対側の左側の頰……顎の下辺りと……それが同時に……円形に引き攣ったことがあったんだよ。……はっ! と……ある直感が働いて起き直り、電燈を点けた。……すると……枕元に……脚長……有に私の掌を越える大きさのアシダカグモ Heteropoda venatoria が――いたのだ!……驚愕とともに……それが私の顔面にいたという鮮やかな顔面皮膚感覚を思い出した時……私は反射的に枕でもってテッテ的に叩き潰していたのだ。……潰れたその「くだらない奴」は……実に完膚亡きまでに平たく平たく熨されて……軽く三〇センチメートルはあろうかと――「見えた」――からなんだよ!(無論、後に枕は容赦なく一緒に捨てたわい!)……ああ、もう!……思い出したくなかったのにぃ!……

 

・「貮寸四方」六センチメートル四方。ここで「四方」としているのは、寧ろ、前の「一尺」が同じく測定単位が「四方」、即ち大きく脚を広げた時の大きさ、すでに述べた通り、若しくは叩き潰し殺したシイカ状態のそれであることを意味する、と私は読む。さすれば、普通のアシダカグモ Heteropoda venatoria の、普通の成虫(それも必ずしも大きくない♀か、それより小型の♂)ということになり、この数字は如何にも普通にリアルである。しかし、小さ過ぎて、話柄の展開とうまく合わない。

 

・「蜘のからびたるありける」これはとうに死んだアシダカグモの死骸、もしくは脱皮片と思われる。

 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 

 蜘蛛の怪の事

 

 

 文化元年子年(ねどし)のことである。

 吟味方改役(あらためやく)西村鉄四郎殿、御用の筋、これあって、駿河国原宿(はらしゅく)の本陣(ほんじん)に止宿致いた。

 

 その日は本陣を用いるような他の客もなく、西村殿同道の配下の者も小人数(こにんず)なれば、これ、その、だだっ広い屋敷に、彼らだけで泊ることと相い成って御座った。

 

 その夜中、西村殿、何か妙な気配に、ふと目覚め、上半身を起こして、何気なく床の間の方(かた)を見やったところが、これ、小さな鏡ほどの丸い光りあるものが、これ、、見えたによって、吃驚仰天、次の間に臥して御座った若党へ、

 

「……お、おいッ!……」

 

と声を掛けた。

 

 その声に、若党も起き出だいては参ったものの、西村殿のおる本間も、その若党のおった次の間も、これ、ともに何故か、燈火が、とっくに消えて御座ったゆえ、その若侍も、目の当たりに皓々たるその光り物を見てしもうた。

 

 されば、これまた、おっ魂消(たまげ)て、

 

「……とっ、と、燈火(ともしび)、な、な、なんどど、つつ、つ、点けま、ましょうぞ……」

 

と闇の中で、ばたばたと、慌てまわり、あちこちにぶつかっては、五月蠅く、物音を立てた。

 

 されば、その物音に、亭主も燈火をうち持って寝所より走り出で、やっと、その明りで、かの光り物を照らし見た。……

 

――と――

 

それは……

 

一尺にも余る驚くべき大蜘蛛――

 

にて御座ったと申す。

 

 余りの異形(いぎょう)なれば、皆して、打ち寄って叩っ殺し、早々に外へと掃き出させた。

 

――と――

 

ほどのう……今度は、奥の湯殿の方(かた)にて、

 

ド、ド、ドン! バン! バ、バン!

 

と、何やらん、恐しく大きなる物音が致いたゆえ、また皆して、その湯殿へと馳せ参じて、戸を開けて見たところが、

 

湯殿の内から締め切って御座った戸を打ち倒して、何とかして外へ出でんとせし様子の……

 

二寸四方ばかりの大きさの干からびた蜘蛛――

 

……その……とうに……干からびて死んだ骸(むくろ)が……湯殿の内側に横たわって御座ったのであった。…… 

 

「……さても……この臥所(ふしど)へ出でた大きなる物も、この、とうに死んで湯殿へ残っておった物も、これ、同じき物の怪ででもあったものか……一体、どういう訳なのか、……今一つ、我ら、分かりませなんだ……」

 

とは、西村鉄四郎殿の直話で御座った。

初夏の印象 萩原朔太郎 (「純情小曲集」版)

 初夏の印象

昆蟲の血のながれしみ
ものみな精液をつくすにより
この地上はあかるくして
女の白き指よりして
金貨はわが手にすべり落つ。
時しも五月のはじめつかた。
幼樹は街路に泳ぎいで
ぴよぴよと芽生は萌えづるぞ。
みよ風景はいみじくながれきたり
青空にくつきりと浮びあがりて
ひとびとのかげをしんにあきらかに映像す。

[やぶちゃん注:ヴィジュアル的には初出よりも遙かに先鋭的に透徹した――が――朗読するにはたるんだと言わざるを得ない。最早、この沈鬱へと沈潜する二次元の影となってしまった人々は、朗誦を拒絶しているのである。]

初夏景物 萩原朔太郎 (「初夏の印象」初出形)

 

 初夏景物

 

昆蟲の血の流れしみ、
ものみな精液をつくすにより、
この地上はあかるく、
女(おんな)の白き指よりして、
金貨はわが手にすべり落つ。
時しも五月のはじめつかた、
幼樹は街路に泳ぎいで、
ぴよぴよと芽生は萌えづるぞ。
みよ風景はいみじく流れきたり、
靑空にくつきりと浮びあがりて、
われひとゝ、
あきらかにしんに交歡す。

 

[やぶちゃん注:『創作』第四巻第六号・大正三(一九一四)年六月号掲載された。十一年後の「純情小曲集」(大正一四(一九二五)年八月新潮社刊)に「初夏の印象」と題を変えて所収されたものの初出である。「おんな」のルビはママ。なお、この詩は底本第二巻に所収する「習作集(哀憐詩篇ノート)」(「習作集第八巻」「習作集第九巻」と題されて残された自筆ノート分)の「習作集第八巻(一九一四、四)」に以下の標題(但し、この副題と添えた一節のように見えるものは、編者によって本「五月上旬」という本詩を更に「初夏景物」という題で同じ原稿の詩の下に改稿しようとしたものの中絶した三行と推定されるという主旨の補注がある。妥当であろう)と詩形・クレジットで所収している。

   *

 

 五月上旬   初夏景物

      昆蟲白き血の流れしみ

      ものみな精液をつくすにより

      地上はあかるく精

 

昆蟲の白き血の

精液の地上に流れしみ

地上はみなあかるく

おみなの白き指よりし

金貨はわが手にすべり落つ、

時しも五月のはじめつかた

幼樹は街路に泳ぎいで

ぴよぴよと芽生は光るぞ(萌えづるぞ)

靑空にくつきりと浮び■■あがりて、

我れひとゝ、しんにあきらかに交歡なす、

            (一九一四、四、一一)

   *

「おみな」はママ。抹消された「光るぞ」の後の「(萌えづるぞ)」の丸括弧は朔太郎自身による。「■■」は二字末梢で原字の判読不能であることを示した。

 私はこちらのポジティヴな総天然色のリアルなコーダこそがこの詩の本当の詩想だったと思う。しかし……朔太郎は詩集に採録するに際して、もしかすると……もうその時には、朔太郎の心の映像としての、そのクライマックス・シーンは……既にして悲劇的で突き放した絶対の孤独のモノクロームのそれに……最早、すっかり色あせて変色していたのだ……とも言えるのかも知れない。いや……こんな私の評なんぞ、ちゃんちゃらおかしい……だって……かく書いている私だって……私の十一年前の私自身の記事の感懐を……これ、最早、まるで理解出来なくなっていることがあるのだから……]

白い髯をはやした蟹 大手拓次

 白い髯をはやした蟹

 

おまへはね、しろいひげをはやした蟹だよ、

なりが大きくつて、のさのさとよこばひをする。

幻影をしまつておくうねりまがつた迷宮のきざはしのまへに、

何年(なんねん)といふことなくねころんでゐる。

さまざまな行列や旗じるしがお前のまへをとほつていつたけれど、

そんなものには眼もくれないで、

おまへは自分ひとりの夢をむさぼりくつてゐる。

ふかい哄笑がおまへの全身をひたして、

それがだんだんしづんでゆき、

地軸のひとつの端(はし)にふれたとき、

むらさきの光をはなつ太陽が世界いちめんにひろがつた。

けれどもおまへはおなじやうにふくろふの羽ばたく晝(ひる)にかくれて、

なまけくさつた手で風琴をひいてゐる。

鬼城句集 春之部 菜の花

菜の花  種菜咲いて風なき國となりにけり

     菜の花の夜明の月に馬上かな

2013/04/21

ジャヌビア服用開始

空腹時血糖が145になったため、昨日より遂に、国内初の糖尿病治療薬選択的DPP-4阻害剤ジャヌビア錠(以上のリンク先は教え子の薬剤師が教えてくれた公式の認可薬方データのPDFファイル)の服用を始めた。昨日昼食後に一錠飲んだのだが、今朝は何故か10時頃まで眼が醒めなかった。なかなかに強烈な藥なのかも知れないな。――

DPP-4阻害剤ジャヌビア錠
http://allabout.co.jp/gm/gc/302364/

他の医療関連記載を見ると、どうも血糖値コントロール効果以外に、瓢箪から駒の不眠改善効果があるらしい……。

――眠りは死よりも愉快である。少くとも容易には違ひあるまい。(芥川龍之介「侏儒の言葉」終章)――

どうもこの「ジャヌビア」という響きが何とも素敵に気になった。気に合った――というべきか――而してここで発見――

「気に合った」理由が分かったよ……ジャニュアリーだ!……僕の好きなヤヌス神、両面宿儺じゃないか!……僕は、かのジャニュアリー神の守護する2月生まれだしな……

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明恵上人夢記 6

 建久七年八月、九月

一、夢に、金色の大孔雀王(だいくじやくわう)有り。二翅あり。其の身量、人身(にんじん)より大きなり。其の頭・尾、倶(とも)に雜(くさぐさ)の寶・瓔路(やうらく)を以て莊嚴(しやうごん)せり。遍身より香氣薰り滿ちて、世界に遍(あまね)し。二つの鳥、各(おのおの)、空中を遊戲飛行(ゆけひぎやう)す。瓔珞の中より微妙の大音聲(だいおんじやう)を出(いだ)し、世界に遍し。其の音聲にて、偈(げ)を説きて曰はく、「八万四千の法、對治門(たいぢもん)、皆是(みなこれ)、釋尊所説の妙法なり。」人有り、告げて曰はく、「此の鳥、常に靈鷲山(りやうじゆせん)に住み、深く無上の大乘を愛樂(あいげう)して世法(せほふ)の染著(せんちやく)を遠離(をんり)す」と云々。鳥、此の偈を説き已(をは)りし時、成辨の手に二卷の經を持つ。一卷の外題には佛眼如來(ぶつげんによらい)と書き、一卷の外題には釋迦如來と書けり。是は、彼(か)の孔雀より此の經を得たる也と思ふ。成辨、此の偈を聞く時、歡喜(くわんぎ)の心、熾盛(しじやう)也。即ち、「南無釋迦如來、南無佛眼如來」と唱へて、涙を流し感悦す。即ち二卷の經を持ちて歡喜す。夢、覺め已(をは)るに、枕の下に涙湛(たた)へりと云々。

 

[やぶちゃん注「建久七年八月、九月」このクレジット(建久七年は西暦一一九六年)は一応、「八月から九月に見た夢」の意で採る。即ち、これに続く夢記述があったがそれは現存しない(若しくは切り離されて他に移ったか、移して散逸した)と採る、ということである(実際、底本ではこのクレジットの後はこの夢一つきりで、前後にアスタリスクが附されている)。但し、本夢が明恵にとっては、この夢は生涯的にも非常に重要な夢であったと判断する私としては、実は八月及び九月に、明恵が二度か複数回、繰り返し見た夢であった可能性をも射程に入れてよいのかも知れないとも思っている。ただ、その場合(複数回の夢の場合)、この夢記述は、何度かの類似夢を意識的に再構成してしまった意識的操作夢ということにも成りかねないので、仮定に留めておく。訳では読者の違和感を排除するために、「建久七年八月か、九月の夢。」としておいた。「大孔雀王」大孔雀明王。ウィキの「孔雀明王」によれば、元来はインドの女神マハーマーユーリーで、パーンチャ・ラクシャー(五守護女神)の一柱。マハーマーユーリーは「偉大な孔雀」の意で、摩訶摩瑜利(まかまゆり)・孔雀仏母・孔雀王母菩薩・金色孔雀王とも呼ばれ、憤怒の相が特徴である明王のなかで唯一、慈悲を表した菩薩形を持つ(中の二つの呼称の母性性や慈悲菩薩相に着目したい)。孔雀の上に乗り、一面四臂の姿で表されることが多い。四本の手にはそれぞれ倶縁果・吉祥果・蓮華・孔雀の尾を持つ(なお、京都仁和寺の北宋期の画像のように三面六臂に表された像もある)。『孔雀は害虫やコブラなどの毒蛇を食べることから孔雀明王は「人々の災厄や苦痛を取り除く功徳」があるとされ信仰の対象となった。後年になると孔雀明王は毒を持つ生物を食べる=人間の煩悩の象徴である三毒(貪り・嗔り・痴行)を喰らって仏道に成就せしめる功徳がある仏という解釈が一般的になり、魔を喰らうことから大護摩に際して除魔法に孔雀明王の真言を唱える宗派も多い。また雨を予知する能力があるとされ祈雨法(雨乞い)にも用いられた』。また、伝奇小説の類いによって、この名は孔雀明王を本尊とした密教呪法である孔雀経法の方で知られており、それは歴史的にも真言密教のおどおどろしい『鎮護国家の大法と』された強力な呪法として認知されているとも言えるように思われる。また、ウィキには渡辺照宏「不動明王」(朝日新聞出版一九九一年刊)に、本明王について記す「仏母大孔雀明王経」の「仏母」+「明王」とは「明妃」(ヴィヤー・ラージニー 明王の女性形)の別訳であって、本来は陀羅尼(ダーラニー 女性名詞)であったという記載がある。これも非常に興味深い。

 ここで私が、本夢が明恵にとって重要な意味を持っていたと推定するのは、その夢内容の深い仏教的象徴性や、夢を見ている最中(若しくはその覚醒直前)に、睡眠中に明恵が感極まって実際に多量の涙を流しているという事実(末尾参照)にあるばかりではなく、この「建久七年」という時間が明恵という生の時間軸にあって極めてエポック・メーキングな瞬間とシンクロしているからである。

 即ち、この年、明恵は白上にあって自らの右耳を削ぎ落し、『自己去勢』(読者のフロイト的な単純解釈を避けるため意識的に今まで用いることを敢えて避けて来たが、これは「明惠 夢に生きる」の中で、誰あろうユング派である河合隼雄氏自身が実際に用いておられる表現である)を遂げた年であるからである。但し、この夢は「栂尾明恵上人伝記」には現われない。また、耳を削いだのが、この年の何時のことであったかは明らかになってはいない。しかし、翌日本「1」酷似文殊菩薩顕現、及び、更にその直近と思わる後日る、菩薩五十二位直喩って最上位妙覚辿り着人是を知らず。今は歸りて語らんと思ひ、又逆次に次第に踏みて十信最初信位の石の處に至つて、諸人に語るいう――これは美事なまでの往相廻向(自分の善行功徳を他者に廻らし、他者の功徳としてともに浄土に往生すること)から還相廻向(阿弥陀の本願に基づき、一度、極楽浄土へ往生したも者が、再び、衆生を救うためにこの現世に帰還すること)へと至る弥陀の本願力の再現夢である――等と並べて本夢を考える時、これは明らかに耳自截直前か直後の、いや、はっきり言うならば、本夢のふっきれたような覚悟自覚やこの上ない至福感から、確かに自截後の明恵の見た夢であると信じて疑わないのである。

「二翅あり」これは「二羽」の意である。即ち、この夢に出現した大孔雀明王は一面四臂の奇異を感じさせる異形の人形(ひとがた)でも、孔雀の上に乗っているのでもなく、金色の鳥としての「孔雀」明王であり、それはまさに叙述から窺えるようにハレーションを起こさせるような、燃え盛る熾天使(セラフィム)のような、所謂、黄金に輝くように見えるところの「火の鳥」として出現するという点に着目すべきである。

「瓔路」本来はインドにおける装身具としての珠玉を連ねた首飾りや腕輪であるが、仏教では仏像を荘厳(しょうごん)するための飾りを指す。

「對治門」煩悩を退治絶滅する法門。

「靈鷲山」インドのビハール州のほぼ中央に位置するチャタ山。釈迦がここで「無量寿経」や「法華経」を説いたとされる。

「佛眼如來」仏眼仏母(ぶつげんぶつも)。明恵にとっては大日如来のことを指すと考えてよいが、明恵の意識の中で最重要の存在でもあるので、以下、ウィキの「仏眼仏母」より引用しておく。梵名ブッダローチャニー、別に眼仏母とも呼ばれる。仏教でも『特に密教で崇められる仏の一尊。真理を見つめる眼を神格化したものである。なお、所依の経典によって、大日如来所変、釈迦如来所変、金剛薩埵所変の三種類の仏眼仏母が説かれる』。『その姿は、日本では一般に装身具を身に着けた菩薩形で、喜悦微笑して法界定印の印相をとる姿に表される』。『人は真理を見つめて世の理を悟り、仏即ち「目覚めた者」となる。これを「真理を見つめる眼が仏を産む」更に「人に真理を見せて仏として生まれ変わらせる宇宙の神性」という様に擬人化して考え、仏母即ち「仏の母」としての仏眼信仰に発展した』。また、「大日経疏」では、『「諸々の仏が人々を観察し、彼らを救うために最も相応しい姿を表す」という大乗仏教の下化衆生思想に基づく解釈も行われている』。『密教においては「目を開いて仏として生まれ変わらせる」その役割から、仏像の開眼儀式でその真言が唱えられる』。『また、仏眼仏母は胎蔵界大日如来が金剛界月輪三昧という深い瞑想の境地に至った姿ととも解釈され、一字金輪仏頂とは表裏一体の関係にあるとされる。例えば、一字金輪仏頂がその輪宝で悪神を折伏するとすれば、仏眼仏母は悪神を摂受によって教え導くという。 そのため仏眼仏母の曼荼羅には必ず一字金輪仏頂も描かれ、一字金輪仏頂曼荼羅にも必ず仏眼仏母が描かれる』とある。この如来に強い母性性が前面に押し出されていることに着目したい。]

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 建久七年八月か、九月の夢。

一、夢。

 

「金色の大孔雀王(だいくじゃくおう)が顕われた。二羽の鳥であった。そのそれぞれの鳥の身の丈けは、人のそれよりも遙かに大きなものであった。その頭部と長く曳いた尾羽根は、二羽ともに、様々な七宝や瓔珞を以って荘厳(しょうごん)されていた。全身からえも言われぬかぐわしい香気が滲み出して薫り、その香りが、この衆生の存在する世界に遍く満ちているのである。二羽の鳥は、それぞれ、空中を天衣無縫自由自在に飛翔している。その身に下がった無数の瓔珞同士がぶつかり、共鳴し合っては、何とも表現のしようがない、とてつもなく大きな響き――但し、決して五月蠅い音ではなく、不思議な玄妙な大きさなのであるが――を発し、それがまたしても、この衆生の世界に遍く満ちているのである。そうしてその音声(おんじょう)が、そのまま何時の間にか、偈(げ)となっているのであった。その偈の説くところは「――八万四千のあらゆる、無数の仏法、そして、煩悩を滅する法門は、皆これ、釈尊のお説き遊ばされた妙法である。――」……

……そこに一人の人が現われる。そうして告げて言うことに、

「――この鳥は、常に霊鷲山(りょうじゅせん)に棲み、深く無上の大乗の教えを心から願い求めて、俗世の相対的でしかない愚かな掟(おきて)が、その心に穢く染み着くことから遠かに離れているのである。――」

と。……

……さて、この鳥が、この偈を説き終えた、その時、私成弁の手は二巻の経を持っていた。その一つの巻の表の経名には「仏眼如來(ぶつげんにょらい)」と書かれてあって、今一巻のそれには「釈迦如来」と書かれてあった。この瞬間、夢の中の私は、

『――かの孔雀明王より、私はこの二巻の経文を得たのだ!』

と思った。……

――因みに、私成弁は、この明王の妙なる偈を聴聞したその一刹那、歓喜(かんぎ)の心が、これ、いやさかに熾烈、盛んに燃え起こったのだ!――

……そこで私は即座に、

「南無釈迦如来! 南無仏眼如来!」

と唱えて、涙を滂沱と流し、深い幸福感とともに感じ入って喜悦した。そうして、私の堅持する二巻の経文を握って、心から歓喜した。――」

 

 夢が大団円となり、即座に醒めたが、その際、枕の下がぐっしょりと涙で濡れていたことを、今もはっきりと覚えている。

[やぶちゃん補注:本夢については河合隼雄「明惠 夢に生きる」の一三四頁に高山寺蔵の当該自筆稿が写真で所載されているが、原文は漢文体の概ね白文であるが、一部に右寄りの小さな送仮名及び字間右傍注の字(「已」)が見られる。まずは、それを可能な限り、一行字数及び字配も含めて以下に復元してみたい。崩し方が現在の新字に酷似するものはそれを採り、私が視認で判読出来ないものは■で示した。□は紙自体の欠損部と思われるところで、辛うじて「夢」と思しい字の右上方角部分が覗けるだけであって、「夢」と視認で判読出来る訳ではない(前後から「夢」の推定は出来る)。他の行との比較から言えば、その字の下に字がないとは言えず、寧ろ、例えば「ヨリ」の右寄り字等がある可能性さえ窺えるように私は思う。

 

建久七年八月 九月

 

一 有夢金之大孔雀王二翅其身量

 

 大於人身其頭尾倶以雜寶■■莊

 

 嚴從遍身香氣薰滿遍世界二鳥各

 

 遊戲飛行於空中自■■中出微妙

 

 大音聲遍世界其音聲而説偈曰

 

 八万四千法對治門皆是釋尊 所説妙法

 

 有人告曰此鳥常住靈鷲山深愛樂無

 

 上大乘遠離世法染著云々鳥説此偈

 

 成弁之手持二卷經一卷外題ニハ佛眼

 

 如來トカキ一卷之外題ニハ尺迦如來トカケリ

 

 是從彼孔雀仍此經得也思成弁

 

 此偈聞時、歡㐂心熾盛也即南無

 

 尺迦如來南無佛眼如來

 

 感悦即二卷乃經歡㐂夢□

 

 覺已枕下涙湛ヘリ云々。

この自筆画像は機会があれば河合氏の当該書で是非見て頂きたいが、明恵が記すうち、いやさかに魂が昂揚してゆくさまが手に取るように分る素敵な書である。なお、河合氏も同書一三六頁の分析の中でそのように指摘されておられる。
 河合氏はもとより、河合氏の当該書からの孫引きとなるが、この夢を自著で紹介される際、上田三四二(みよじ 大正一二(一九二三)年~平成元(一九八九)年:内科医にして歌人・小説家・文芸評論家。引用は「この世この生」(新潮社一九八四年刊)より)の、『時空を越えて明恵の身体になだれ込む夢のうち、もっとも華麗と思われるものを引く。彼はそこにおいて天竺と釈迦を一身のいま、一身のここにおいて享け、一身の透明な壺は歓喜の涙を溢れさせる』という絶妙な引用をもなさっておられる。この夢を明恵になりきって読む人は、私はまさにそうした疑似体験が可能であるとさえ思うのである。  

 まずこの夢の最初の特異点は、人身でない、ガルーダのような人面鳥身でさえない、孔雀明王の形象の至上の美しさにある。ここで我々は実際の孔雀、更にはかの手塚治虫先生の「火の鳥」のそれをイメージして、最も相応しいと言ってよい。しかし、しかも、それが孔雀仏母と別称される孔雀明王であると知った瞬間、私にはその鳥の顔の面影の中に、ふっと――私の亡き母の面影が漂ったことを告白する。これは諸星大二郎の「感情のある風景」のエンディングの、あの悲しく切なく美しい「愛」の形象図形の中にふっと浮かび出る、主人公の亡き母の面影のようなものであった、とも表現したい印象である(私の芥川龍之介「杜子春」と諸星のSFコミック作品「感情のある風景」とを比較した立ち尽くす少年 ――諸星大二郎「感情のある風景」小論を参照)。
 

 次の特異点は河合氏も真っ先に記しておられるが、「香氣薰り滿ちて、世界に遍し」という、極めて稀な嗅覚夢である点である。河合氏はこの明恵の嗅覚夢体験記述を以って、『この点でも彼の特異な能力が認められる。おそらくは彼の夢体験は一般の人に比して、はるかに現実性をそなえたものであったのだろう』と記しておられる。因みに、私は十九の時から三十年間に亙って夢記述をしてきたが、明白な臭気のする夢は、確かにそれほど多くはない(但し、一般人に比すと恐らくは有意に多い)。ただ、それらの殆んどは、堪えがたい食用油を熱した臭いが部屋に充満する夢(三十二歳の結婚直前、現在の妻のアパートに酔って転がり込んだ折りに見た夢で、これは今でも想起出来るほどに――これは今、一切の夢記録を見ずに書いている――頗る強烈な臭気記憶がある)であったり、昔の溜便所の臭い(私は結婚するまで長く家が文化式のそれであったことと、私自身が過敏性腸症候群―Irritable Bowel SyndromeIBS―であるために排泄不安に対する強いフォビアがあり、トイレの夢――それは概ね溢れていたり、詰まったりしていることが殆んどである――はしばしば見るのである。折角の荘厳な夢の補注にクサい話で恐縮ではあるが)といった、ちっとも有り難くない臭いの嗅覚夢ばかりなのであるが(嗅覚夢と、このフロイトなら即、肛門期固着と言い立てそうなトイレ夢については、いつか必ず、これとは別に夢」の中で分析してみたいと思っている。因みに、リンク先は私のブログの夢記述カテゴリである)。
 河合氏は以下、孔雀のシンボルについてローマでの神格化、アルケミーに於ける全体性などを挙げあられた上、先に注で示した「仏母大孔雀明王経」の毒蛇に咬まれた若き僧が仏母大孔雀明王陀羅尼を誦すことで救われた話を引き、孔雀と蛇――空を飛ぶものと地を這うもの――前者の有意性から、この夢の『精神性の強調』と、その『ひとつの勝利がもたらされたことを告げている』とされる。
 また、「二」羽の孔雀、「二」巻の経に着目されて、明恵の夢にしばしば登場する「二」という数の主題こそが『明恵の人生に生じた、実に多くの二元性』を表象するものとされ、私もたびたび指摘したように、明恵が仏眼を母として尊崇した事実に対し、明恵は実は『釈迦には父のイメージをもっていたようである』と推定、その名を記した二巻の経を両手に持っている明恵は、ここで『父性と母性という二元的な態度を共に一手に受けているのであ』り、『人間の心の二元性が明恵という存在に統一されている、と見ることができ』、明恵はその人生に於いて、多様な彼を取り巻く二元論的対象のいずれか一方に『偏重することなく、また二元論的割り切りを行なうのでもなく、強い葛藤をわが身に引き受け、そこに何らかの統一を見出そうとして努力してきた』、『二元論的対立のなかに身をおくことによって、その緊張によって明恵は心身を鍛えられたのである』と本夢の分析を終えておられる。正統なユング派の、実に典型的に前向きなポジティブな夢分析であるが(私はフロイトとの両極で、ユングのこうした「生きる魂の力」としての、健全で明るい解釈に対しても、実は今はある種の胡散臭さを感じている)、明恵というストイックで特異な人物の見た夢としての――謂わば作家論的解釈としては――ほぼ肯んずることが出来る。――といより――誰よりも明恵自身が、この河合氏の解釈を聴けば、必ずや――その通り!――と答えることはほぼ疑いがないと言える――ということである。]

 

沢庵宗彭「鎌倉巡禮記」 28

いにしへ阿佛此里にくだり、月影のやつにかりのやどりして居給ふ跡と聞て、

  その身こそ露ときへてもなきたまや 今もすむらん月かけのやつ

かくて爲相もくだり給ひて、もろともに爰にてなく成給ひぬとか。爲相の石塔とて慈恩寺の上の山にあり。名のたむけに、

 石の碑はたか後の世のためすけと とふこそくちぬその名なりけれ

[やぶちゃん注:「慈恩寺」は鎌倉の廃寺としてあるが、これは浄光明寺の誤り。]

耳嚢 巻之六 鄙僧に遺德ある事

 鄙僧に遺德ある事

 

 新御番(しんごばん)を勤(つとめ)し杉(すぎ)市右衞門といへるは、予若き時、近隣なりし故、昵(むつ)びし事もありき。彼(かの)市右衞門方に月見の夜、座敷の内に瓜の種交りし糞やうのものありしを、穢らはしき事とて侍女抔に命じ拭ひ捨(すて)んとせしに、段々先へ同樣にふへ、二三疊も同じく穢れける故、いかなる事にやと、いづれも奇成(きなる)を恐れけれど、兎角其後は格別の事はなかりしが、時々奇事(きじ)のみありし故、山伏抔招きて祈禱せしに、釋杖を奪(うばひ)とり、或は珠數(じゆず)すりきりなどせし故、山伏も面目を失ひて立歸りぬ。如何せんと思ひし内、或知人、本郷邊の裏店(うらだな)にかすかに住(すめ)る僧をつれ來りて祈禱を賴(たのみ)けるに、是は年古(としふる)狐なり、祈禱すべしとて暫く祈りしに、其(その)怪止みけるが、此(この)狐捨置(すておか)ば又害をやなさんとて、鎭守の稻荷の賽錢箱を取寄(とりよせ)、是へ封じ込(こむ)べしとて、何か暫く念じ、最早氣遣ひなし、猥(みだり)に此箱のふたを、暫くは取給ふなと云て歸りし故、主(あるじ)も嬉しき事に思ひて厚く禮を述(のべ)て、目錄やうのものとりもたせて、彼(かの)裏借屋(うらしやくや)をからうじて尋(たづね)當りしに、禮謝過分のよしにて不請(うけず)ありけるゆゑ、またまた手をかへて禮謝に至りしが、遠國へ廻國に出しとて其店(そのたな)にもあらざりし。其後尋(たづね)とへども、行衞しれずと也。無欲德行の聖(ひじり)にてありしや。かゝる德あるもの故、數年を經し妖獸も退散せしならん。年たちて彼(かの)賽錢箱の内に、狐骨(ここつ)などあるならんとひらき見しに、何もなく、たゞ白き毛夥敷(おびただしく)ありしと、杉氏の一類かたりぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:妖狐譚連関。

・「新御番」江戸城内に交替で勤め、将軍出行の際の先駆けなどの前衛の警護に当たった。近習番。新番。岩波版歯長谷川氏注には『平常は土圭(とけい)の間の衛所に詰める』とある「土圭の間」江戸城内の時計を置いた部屋で、坊主が勤務して時報の任に当たった。但し、平凡社「世界大百科事典」の「新番」の記載には、土圭間番(とけいのまばん)も別称というが、本来は別個のものといえようか、とある。

・「杉市右衞門」底本の鈴木氏注によれば、杉茸陣(すぎしげのぶ 正徳三(一七一三)年~寛政元(一七八九)年)とする。元文三(一七三八)年大盤、寛延二(一七四九)年に新番に移動、明和二(一七六五)年に同番を辞し、同四年致仕。但し、根岸と年配が同じなのは、むしろ養子の鎭喬(しずたか)であるが、大番で終始し、新番は勤めていないので該当しない、と注されておられる。根岸の生年は元文二(一七三七)年で茸陣とは二十四歳年上であるが、鎭衞が根岸家の家督を継いで二十一歳で勘定所御勘定となったのが宝暦八(一七五八)年のことで、その時、茸陣は既に四十六歳で新番であった。近所に住む有望なる若衆として、根岸のことを特に目をかけていた、ということででもあろう。されば、非常に珍しい青年時代の根岸の姿が冒頭にちらりと登場することになる。なお、茸陣が没したのは根岸が勘定奉行の時で、その翌年、南町奉行に就任している。「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年八月であるから、それから十五年が経過しており、しかも根岸はこの執筆時は六十四になっている青春を回想したくなる齢(よわい)である……自分を可愛がって呉れた亡き先輩への追想……自身の若き日の思い出……「稲生物怪録」張りの室内の怪異……呪法が効かず翻弄される修験者……如何にもしょぼくれた僧によって、しかし、匣(はこ)に封じ込まれてしまう妖狐……一切の謝礼を断って霞の彼方へ去ってゆく、その行脚僧……匣の蓋を開いて見れば……ぎゅうっと詰まった白狐の累々たる毛……実に良質の綺談というべきであろう。私は頗る好きである。

・「瓜の種」底本は「瓜の積」。「瓜の種」でないと意味が通らない。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版も「瓜の種」であるので、補正した。

・「裏店にかすかに」この「かすかに」(幽・微かに)は、その町屋の長屋にあって、生活ぶりなどが弱々しく、細々として、具体に貧しいという謂いに加えて、人目につかず、ひっそりと暮らしている、さまをも言っているように思われる。

・「彼裏借屋をからうじて」底本では右に『(尊經閣本「彼裏店へをくりからうじて」)』と補注する。補注の文も参考にしつつ、訳した。

・「目錄」進物をする際、実物の代わりに、同時に若しくは事前に、その品目を記したものを贈るもの。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 貧僧にも後世に残るような人徳のある事

 

 新御番(しんごばん)を勤めておられた杉(すぎ)市右衛門茸陣(しげのぶ)殿と申さるる御方は、私が若き日、近隣にお住まいで御座ったゆえ、頗る昵懇にさせて頂いたことのある御仁で御座る。

 かの市右衛門方にて、その昔、月見を催された夜のことである。

 ふと見ると、座敷の内に、瓜の種が交った獣の糞(くそ)のようなものが、これ、べっとりと落ちておった。

 市右衛門殿、それを見て、

『……何かは分からぬが……何ともはや、汚いものじゃ……侍女などに命じて拭ひ捨てさせねば……』

と思うた。

 ところが……そう思うた傍から……そのおぞましいねばついたものが……これ……だんだんにじわじわと……市衛門殿の現に見て御座る座敷内の……その……先へ先へと……みるみる同じように増えてゆき……瞬く間に、その泥ついて白きものを交えた粘体(ねんたい)……これ、畳二、三畳分にまで広がって……同じように、見るもえげつなきほどに穢れ広がってゆく。

「……こ、これは……一体?……何じゃ?……」

と、その正体不明のどろどろの気持ちの悪いそのもの自体も、また、それが見る見るうちに畳何畳分にも広がるという奇怪(きっかい)なる現象も、これ、いずも妖なることなればこそ、家内の者どもも皆、すこぶる恐れ戦いたと申す。

 まあ、ともかくも、その後(のち)は格別、大きなる変事は御座らなんだものの、それでも時々、何気ないことながらも、後で考えると如何にも奇なることのみがやはりしばしば御座った。

 さればこそ、山伏なんどを招いて、悪霊退散の祈禱など、させてみた。

 ところが、いざ、山伏が祈禱を始める、その傍から、

――山伏の錫杖が、これ、目に見えぬ何者かに奪い取られ、空(くう)を切って、庭や隣りの部屋へと落ちるわ……

――祈禱に使う数珠が突然、

パチン!

と音を立てたかと思うと、丈夫な紐が、これ、擦り切れ、部屋中に

パチ! パチ! パチ! パチ!

と数珠玉が飛び散るわ……

という始末。

 山伏も面目(めんぼく)を失(うしの)うて、ほうほうの体(てい)で逃げ帰って御座った。

 かくなる上は、如何(いかが)致いたらよいものかと、市右衛門殿も思案に暮れた。

 と――ある市右衛門殿の知人が、本郷辺りの裏店(うらだな)に如何にも貧しく住みなしておると申す僧――

……これ、見た目、如何にもしょぼくれており、凡そ、頼りになりそうには見えなんだが……いや、これ、何でも、その手の怪異の呪法を施させれば天下一と、知人は申して御座ったが……

――を連れて参ったゆえ、藁にも縋る思いで祈禱を頼んで御座った。

 貧僧は、まず、少しばかり静かに瞑想致いて、屋敷内の何かを探っておる様子であったが、ぱっと目を開くと、

「――これは――年古る狐の仕業で御座る。――祈禱致しましょうぞ。――」

と、暫くの間、日参致いては、祈りを続けた。

 すると、その僧の参った日より、あの数多の怪異、これ、ぴたりと止んだ。

 最後の日、参った僧は、しかし、

「――この狐――捨て置くならば、これまた、害をなさぬとも言い難きものなれば……そうさ――この辺りの鎮守の稲荷の賽銭箱を、一つ、取り寄せて下さらぬか?」

と申したによって、下男の者を呼んで、即座に賽銭箱の新しきもの作らせると、近くに稲荷に御座った賽銭箱と替えて持って来させた。

 すると僧は、

「――如何にも――これでよろしゅう御座る。――この内へ、かの妖狐を封じ込んでしまいましょうぞ。」

と、何事か暫く念じたかと思うと、

「――さても、最早、気遣い御無用。――但し、濫りにこの賽銭箱の蓋を――まあ、暫くの間は――お開けなされぬように――」

と告げたかと思うと、そのままふらっと帰ってしもうた。

 主人市右衛門殿も、すこぶる喜んで、

「これは、目録なんどを用意致いて、しっかと手厚き礼を述ぶるが筋じゃ。」

と、下男に目録を持たせて、知人から聴いた、かの僧の住むと申す裏店(うらだな)の借家を、やっとこ、捜し当てた。

 ところが、かの僧、目録を差し出だいた下男に向かって、

「――この礼謝――過分なればこそ平にご容赦――」

と固辞致いたと申す。

 その態度に心打たれた市右衛門殿は、その後も何度も、手を変え品を変えては礼謝に及ばんと致いたものの、悉く辞退された。

 とある日、またしても訪ねさせてみたところが、隣家の者が、

「……あの坊(ぼん)さんなら、遠国へ廻国に出なすったで……」

と、かつての店(たな)には、もうおらずなって御座った。

 その後も、いろいろと手を尽くして方々尋ねさせて見たものの、遂に、行方知れずと相い成って御座ったと申す。

 いや、これ、まっこと、無欲徳行(とくぎょう)の聖(ひじり)では御座らぬか!

 このように稀なる徳を持っておられたゆえ、数十年を経て変化(へんげ)となった妖獣も、僅かの間に退散致いて御座ったものであろう。

 

 因みに――数年経った後のこと、市右衛門殿、

「……そういえば……あの賽銭箱の中……さても……狐……骨なんどになってあるものか?……」

と、おっかなびっくり開いて見て御座ったと申す。

すると――

箱の内には――これ――何もなく――

……ただ

――夥しい量の

――白い毛ばかりが御座った……

……とのことで、御座る。

 

 以上は、杉氏の親族の御方が私に語って下さった話で御座る。

賴朝の髑髏 萩原朔太郎

  賴朝の髑髏

 

 鎌倉の或る禪寺に、少し以前まで、賴朝公三歳の時の髑髏(されかうべ)が、寶物として陳列してあつたことは有名な話である。五十何歳かで死んだ賴朝の髑髏と、三歳の時の賴朝の髑髏とは、哲學上から言へば別個の實在であるから、それが二つあつたところで不思議はないが、實際の現象として、たしかに一つしかないのだから妙である。實見した人の話によれば、何だか非常に小さな物で、おそらく人間の髑髏ではなく、猿か何かの頭蓋骨だらうといふことであつた。

 その珍らしい「寶物」は、古く江戸時代から飾られてあつた物だが、昔は「三歳の時」といふ註釋がなく、おそらく單に「賴朝公の髑髏」として認めてあつたのだらう。或る時その見物人の一人が不審を抱き、「賴朝公は有名な巨頭であつたといふのに、これはあまりに小さすぎる。」と質問した。すると和尚は即座にぬからず「さればでござる。これは賴朝公三歳の時のされかうべでござる。」と答へた。それ以來無邪氣な案内小僧が、「三歳の時の御されかうべ」を反誦したといふのが、おそらくその寶物の緣起であらう。

 人間死せば木石に化す。蓋世の英雄も猿猴も、絶世の美人も牛馬も、ひとしくこれ皆一片の髑髏にすぎない。生者必滅(しやうじやひつめつ)、會者常離(ゑしやじやうり)、無明長夜(むみやうちやうや)の夢から醒めて、早く悟道に入るが好いといふ、禪の幽玄な機微を教へるために、わざと猿の頭蓋骨などを陳列して、皮肉に賴朝の骨などと言つたのだらう。それで禪機のわからぬ俗物の見物人から、野暮な質問を受けた時、一休まがひの頓智によつて、三歳の時のされかうべで御座ると、胸の透くやうに痛快なイロニイを答辯したのだ。もしその見物人が、もつと執念(しつ)ツこい解らずやで、更らにその不合理を難詰したら、「喝」と和尚から警叱され、髑髏と一所に數珠でなぐられたにちがひない。そこで考へて見ると、「洒落」や「通」を好んだ昔の江戸人の心境には、どこかその本質點で禪や佛教の機微に通じてゐるものがある。市井的に巷話化された一休頓智物語は、所詮彼等によつて市民化された佛教であり、逆にまた佛教は、江戸ツ子によつて卑俗的にユーモア化され、その趣味生活の中に入り込んだ。「大いたち」といふ看板で、戸板に血を塗つた物を見せるインチキの見世物を、大悦びで怒りもせずに見物した江戸人等は、賴朝公三歳のされかうべを見物すべく、わざわざ鎌倉へ旅行したほど、物好きで洒落ツ氣の多い人種であつた。

 江戸ツ子の誇りとする「通」とか「粹」とかいふことも、色に遊んで色に溺れず、情痴の世界に遊樂して、しかも情痴に達觀するところの、一種の禪的佛道心境を意味してゐた。

 しかし元來、洒落とか通とかいふことは、あへて江戸ツ子に限らず、文化の爛熟した社會に於ては、都會人の普遍的趣味性となるものである。それが極端になる場合は、江戸末期の頽廢的社會の如く、或は現代巴里(パリー)ジヤンの代表する佛蘭西(フランス)の如く、遂には社會的、國家的の崩壞を招くことになつて來る。由來、國家社會の強健な精神は、洒落を理解しない野暮な田舍者によつて支持される。だが現代日本の過渡期文化は、あまりに野暮臭く、洒落を知らないことに寂しさがある。小學校の教師に引率された、修學旅行の生徒みたいな圃體客が、京都の古刹や鎌倉の名所見物に來て、洒落も風流も解らぬ兵隊理窟を言ふ世の中では、いきほひ賴朝公のされかうべも、江戸前の洒落と一所に、時世から隱遁せねばならなくなつた。

 

[やぶちゃん注:『モダン日本』第十二巻第七号・昭和一六(一九四一)年七月号に掲載。底本は筑摩版全集第十一巻の「随筆」に拠る。下線部は底本では傍点「ヽ」。個人的な興味から、落語でも知られた頼朝の髑髏であるが、この実際に飾られていたという鎌倉の禅寺とは何処か、識者の御教授を乞うものである。その場合、出来れば資料としてそれを証明し得る記載もともにお教え頂けると助かる。]

紫の盾 大手拓次

 紫の盾

 

あをい環(わ)をつみかさねる銅鑼(どら)の遠音(とほね)はうかび、

金衣の僧侶(そうりよ)はいでて祈禱をさづけ、

階段のうへに秋はさめざめとうろついてゐるなかを、

紫(むらさき)の縞目(しまめ)をうつした半月(はんげつ)の盾(たて)をだいて

憔悴した惡徒は入りきたる。

哀音は友をよんで部屋部屋(へやべや)にうつりゆき、

自戒の念にとりまかれた朝はやぶれる。

地をかきたてるかなしい銅鑼(どら)がなれば、

角(つの)ある鳥をゑがいた紫の盾はやすやすともたげられて、

死(し)のまへにみじろぐ惡徒の身をかくす。

紫の盾よ さちあれ、

生をよびかへす白痴の胸にも花よかをれ。

鬼城句集 春之部 大根の花

大根の花 大根咲く里に才女を尋ねけり

2013/04/20

中島敦漢詩全集 五

  五

 

北辰何太廻

人事固堪嗤

莫嘆無知己

瞻星欲自怡

 

〇やぶちゃんの訓読

 

北辰 何すれぞ 太廻(たいくわい)せる

人事 固(もと)より嗤(わら)ふに堪(た)へたり

嘆く莫かれ 知己(ちき)の無きを

星を瞻(あふぎみ)て 自(おのづ)から怡(たの)しまんと欲す

 

〇T.S.君原案(一部は藪野補筆)の中国語を踏まえた語釈

・「北辰」北極星。全天唯一の不動の恒星。

・「何」何故、若しくは、間投詞の「なんと」と言う意味で用いられる。ここでは、何故と、解釈したい。

・「太」程度が過ぎること、非常に、高い、最も高い身分の、という意味を有する。しかし、次の「廻」と合わせた場合には意味が取り難い。ここでは「非常に高い水準において回転し巡り行く」ことから、「万物はその周囲を巡る」という意に解釈する。

・「廻」「回」と同字。もとの場所に戻る、回転する、巡る、返す、という意味を有する。回転を採る。

・「人事」ここでは、人の世、若しくは人の世の様々なことを指す。

・「固」ここでは、もともと、或いは、もとより、という意で用いられている。

・「堪嗤」「堪」は能力的に可能なこと、耐えられることを表わす。「嗤」はあざ笑うこと、嘲笑すること。両者をあわせて「嘲笑に堪えることができる」と読み解けるが、含意は翻って、「嘲笑される程度のものでしかない」と取るべきであろう。

・「莫」動作の禁止、不可能を指す。ここでは動作の禁止を自らに呼びかけていると取るべきであろう。

・「知己」現代の日本語では、単に己れを知る人の意で用いられることも多い。但し、伝統的には、非常に深いところまで自分を理解してくれている極めて特別な人物である。「史記 刺客列伝」の「豫讓」に、次の有名な下りがある。

   *

士為知己者死、女為説己者容。

士は己れを知る者の爲に死し、女は己れを説(よろこ)ぶ者の爲に容(かたちづく)る。

[T.S.君訳:士は自分の価値を知ってくれる者のために死に、女は自分を見て喜ぶ者のために容色を飾る。]

   *

・「瞻」上方あるいは前方を見ること。ここでは勿論、星を見ること、更には、北極星を見上げることと取りたい。

・「欲」得ることや到達することへの欲望、動作への希望、必要であること、今にも状態が変化しそうなことなどを表わす。ここでは状態が変化することへの強い期待感を表現していると採りたい。

・「自怡」「自」はおのずと、という自発の意。「怡」は楽しむこと、嬉しいこと。合わせて「おのずと心楽しくなる」の意。

 

○T.S.君による現代日本語訳

北極星……

お前は何者だ。

なぜ独り微動だにせず、万物がお前の周囲を巡るのか?

全ては移ろい、変転し、流れて行く。――

人の世のあらゆることは、元来、取るに足りないことなのだ。

嘲笑(あざわら)ってやり過ごせばよいのだ。

しかし……

しかし、私を理解する者など、世にひとりとして、ない。……

この孤独を……この鬱悶を……どうすればいい?

だから……

だから……私は信じていたいのだ!

嘆くことはない!

お前の輝きを見れば――心は自ずと満ち足りるのだ、と――

 

〇T.S.君とやぶちゃんの協働取組みによる評釈

 北極星に因んだ詩。

 またしても星空が詩人の心を触発する。

 

 しかし、我々が詩人の心に誠実に近づこうとすればするほど、はっきり見えてくるものがある。

 これは北極星を詠んだ詩では――ない――。

 

 確かに、この不動の星がないと、詩世界は瓦解する。

 しかし――あくまでも星を眺め、憧れ、惧れ、思いを致しつつ、実は、自らの鬱悶を吐露した詩――なのだ。

 北極星に足掛かりを定め、移ろいゆく宇宙と、深淵の前に立ち尽くす自分の眩暈をうたった詩なのだ。

 

 だが――読者は――果して感じ得るのだろうか?

 全天唯一の不動の輝きに、遂に心が満たされ安堵した詩人などというものを?

 北極星に対しつつ、爽やかに自らの孤独を受け止め、胸を張って、しっかり二本の足で立つ詩人などというものを?

 

 まさか、悪い冗談だ。……

 結句の末尾に惑わされてはいけないのだ。

 詩人の鬱悶は何も解決しちゃいない! 軽減されてさえいないんだ!

 たった独り、夜空を見上げる詩人は、却って眼前に広がる大宇宙の流転に慄き、恐ろしい孤独の前に立ち竦む。

 そうして自らを理解してくれる魂の存在を夢想する。

 

 しかし――しかし、自分を完全に理解する他者など――

 ――これは恐らく幻想に過ぎない。

 孤独を全身の肌で感じてしまう恐ろしい一刻は、決して彼を離れない。

 

 そして北極星だ。

 人の世を包むこの大宇宙の中、唯一、不動の極点を捕(つら)らまえた燦めき。

 

 詩人の心はこの輝きに追い縋ろうとする。

「全てが変転する中で、なぜお前だけは?……一体お前は何者なのか?……」

と。

 

 しかし星は何も応えない。

 

 詩人もまた、移り行く世界の一点景でしかあり得ない。

 そんな彼に、永遠を捉えた不可思議な極点にあって星が呟く言葉など――聞こえるはずもないではないか!

 万一、それが聞こえたとしても――彼には、それを理解する術(すべ)さえもないはずだ!

 ましてや、そんな彼が、その星に近づくなど、想像することすら、難しい。

 

 いや、詩人は全て解っている。

 解っていながら――その輝きに目を凝(こ)らさざるを得ないのだ。

 そして、理不尽な世の中と自分との、あらゆる不協和音を束の間でも忘れようと呟かずにはいられないのだ。

 心伸びやかに怡(たの)しむのだ――と、詠(うた)わずにいられないのだ。

そうして、密かに夢想するのだ。……

 

……変化する宇宙にあって、同じくうつろう存在としての自分は……こんなに苦しみ藻掻いている……けれど……動かないもの――確かなもの――永遠なもの――が、きっとあるに違いない!……この世界のどこかに……私の心の中に……。

――なぜなら、あの北極星を見よ! 流転する万物を従えて永遠に微動だにしない輝きが、眼の前に現に存在しているではないか!――

 

現代でこそ、星と孤独を併せて詠(うた)う『文芸モドキ』は、これ、世に溢れている。これらを主題にした歌謡曲さえも、きっと容易に我々は思い出すことが出来るに違いない。

 しかしそれは、謂わば、『孤独の安売り』に過ぎぬ。

 マスメディアが、現代ほどには野放図に信号を発してはいなかった、あの中島敦の生きた時代(*)にあって、この詩想は、どれほど一般的なものであったのだろう?

(*)追加注:「マスメディアが現代ほど野放図に

       信号を発している」という認識自

       体は、実は所詮、一種の幻想でし

       かないと、私には思われるのだけ

       れども。

 詩人が抱えていた心の闇は、美しい北極星の輝きの向こうに見失われがちだ。

 しかし星を見つめながら――つまり、自分の心を見つめながら――吐息とともに、ポツリと、こんな五絶を詠んだ彼の鬱屈した心を思う時、私はその奈落の深さ――闇の濃さをこそ思い致すのである。……

 

 そうして最後に、私は恐ろしいことに気づく。

 

――千仭の奈落、そして漆黒の闇……これは、はたして、詩人独りのものだったのだろうか?

と。

 この詩に共感する私は/私だけは『違う』などと――何を根拠に言い切れるだろうか?……

――私はただ

――惧れ

――黙したままに

 

  詩人とともに

  あの北極星を

  見つめるしか――ない――

耳嚢 巻之六 妖狐道理に服從の事

 妖狐道理に服從の事

 

 八王子千人頭(せんにんがしら)の山本鐡次郎は、親友川尻が親族たり。先々(さきざき)山本妻を呼迎(よびむか)への儀、川尻の祖父世話して、荻生惣七(をぎふそうしち)娘を嫁しけるに、婚姻後、右妻に狐付(つき)候樣子にて、何か甚(はなはだ)不埒の事口走り候故、其夫是(これ)を責諫(せめいさめ)、いかなる譯を以(もつて)、呼迎へし妻に付候哉(や)と道理を解聞(とききか)せければ、其理にや伏しけん、成程退(の)き可申(まうすべし)、しかれども、我のみに無之(これなく)、江戸よりつき來りし狐もありといひし故、夫(それ)は兎(と)あれ角(かく)あれ、先づ汝のくべしと頻りにせめければ、除(のき)しと也。然れどもいまだ正氣ならねば、尚せめさとしければ、我は此女の元方より恨(うらみ)あれば、取付來(とりつききた)る也、依之難退(これによつてのきがたき)由を答ふ。山本これを聞(きき)て、何とも其意不得(えざる)事なり、江戸表より爰元(ここもと)へ嫁し來る頃より狐付たる體(てい)ならば、何ぞ嫁を許しなん、然(しから)ば離緣等いたしても、此方にて狐付(つき)たると、里方にては思ふべし、狐の付たるは、尋常に無之(これなき)もの故離緣せしと里方にて思(おもは)んも、武士道におひて難儀なり、いづれにも離れ候樣、きびしく責諭(せめさと)しければ、其理にや伏しけん、可退(のくべき)由答へけるが、山本尚考申(なほかんがへまうし)けるは、離緣後、里方へ至り、直(ぢき)に狐の付たるといふ事にては同じ事なり、右のわけをいさい證文に可認(したたむべし)と申ければ、書く事はなすべし、文言出來ざる由の答(こたへ)故、文言は可好(このむべし)とて、いさいに文言を好(このみ)、認(みとめ)させけるが、書面のみにては怪談に流れ、人の疑ひあり、狐の付居(つきゐ)たるといふ驗(しるし)なくてはと、又責諭(せめさと)しければ、印形(いんぎやう)はなければ、人間につめ印(いん)といふ事あるわけ抔説聞(とききか)せしに、手を口元へ寄せて墨をふくみ、彼(かの)書面へ押しけるが、獸(けもの)の足の先の跡のごときもの殘れり。これにてよしとて、やがて離緣狀を添(そへ)て川尻氏へ戻して、荻生家へ歸しけるとなり。惣七は徂徠が甥なるものゝ由、川尻かたりぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特になし。「耳嚢」に頻繁に出る妖狐憑依譚であるが、どうもこの話柄、如何にも超現実に「妖しい」のではなく、リアルに「怪しい」という気がする。この女、よっぽど夫が嫌だったか、若しくは予てより誓い合った男でもあったものか、狐憑きを佯狂して、流石に知識人の娘(後注参照)なればこそ、計算された美事な詐術の数々を弄して(もしかすると、彼女の親族か誰かの入れ知恵かも知れぬ)、これ、目出度く離縁に成功したという話柄ではあるまいか? そもそも真正妖狐譚となれば、娘に憑くところの深い「恨」みを探ってこそである。だいたいからして、この娘の出自の良さから考えれば、何故、狐憑きか? その狐の具体な恨みの真相は? という点を追求してこそ面白い、というものであろう。私がこの妻を本当に愛している夫であったなら、少なくともそこを必ずや、探ってやるであろうと思う。まさに、細君のために。――さすればこそ、この夫の妻への愛情も、これ、実は甚だ疑わしいと言わざるを得ない気もしてくる。――いや? 待てよ? これに似たよな話、最近、ドラマで見たぞぅ?! おお! あれあれっ! NHKの五味康祐原作ジェームス三木脚本の「薄桜記」(丹下典膳役・山本耕史、長尾千春役・柴本幸)だぜい! あれはまた、私の以上の邪推とは裏腹の、忌まわしくも実家の元家臣に手籠めにされた「愛する」妻を「救うために」狐に化かされたとして「彼女の世間体を守らんがためにのみ」離縁をするという筋だ! これもありか! おまけに根岸の筆も、言外に、そうした隠れ蓑の先にある意味深長な人間関係を、実名表示を駆使しながら、ポーカー・フェイスで綴っているようにも私には思われるのである(リンク先はNHKの公式サイトだが、既に終わったドラマであるから、閲覧は早めに。近いうちに消滅してしまう可能性が高い)。

「八王子千人頭」八王子千人同心の総統括者。八王子千人同心は江戸幕府の職制の一つで、武蔵国多摩郡八王子(現在の八王子市)に配置された郷士身分の幕臣集団で、その任務は武蔵・甲斐国境である甲州口の警備と治安維持にあった。以下、参照したウィキの「八王子千人同心」によれば、徳川家康の江戸入府に伴い、慶長五(一六〇〇)年に発足し、甲斐武田家の滅亡後に徳川氏によって庇護された武田遺臣を中心に、近在の地侍・豪農などによって組織されたものであった。甲州街道の宿場である八王子を拠点としたのは武田家遺臣を中心に甲斐方面からの侵攻に備えたためであったが、甲斐が天領に編入、太平が続いて国境警備としての役割が薄れ、承応元・慶安五(一六五二)年からは交代で家康を祀る日光東照宮を警備する日光勤番が主な仕事となっていた。江戸中期以降は文武に励むものが多く、優秀な経済官僚や昌平坂学問所で「新編武蔵風土記稿」の執筆に携わった人々(私の電子テクスト「鎌倉攬勝考」の作者植田孟縉もその一人)、天然理心流の剣士などを輩出した。千人同心の配置された多摩郡は特に徳川の庇護を受けていたので、武州多摩一帯は、同心だけでなく農民層にまで徳川恩顧の精神が強かったとされ、それが幕末に、千人同心の中から新撰組に参加するものが複数名現れるに至ったとも考えられている。十組・各百名で編成、各組には千人同心組頭が置かれ、旗本身分の八王子千人頭(本話の主人公の役職)によって統率され、槍奉行の支配を受けた。千人頭は二〇〇~五〇〇石取の旗本として、組頭は御家人として遇された。千人同心は警備を主任務とする軍事組織であり、同心たちは徳川将軍家直参の武士として禄を受け取ったが、その一方で平時は農耕に従事し、年貢も納める半士半農といった立場であった。この事から、無為徒食の普通の武士に比べて生業を持っているということで、太宰春台等の儒者からは武士の理想像として賞賛の対象となった(本話の妻が後述するように儒者の家系の出身であると思われることと一致する)。八王子の甲州街道と陣馬街道の分岐点に広大な敷地が与えられており、現在の八王子市千人町には千人頭の屋敷と千人同心の組屋敷があったといわれる。なお、寛政一二(一八〇〇)年に集団(一部が?)で北海道・胆振の勇払などに移住し、苫小牧市の基礎を作った、とある。なお、岩波版長谷川氏の注では、八王子千人同心の『その組の頭』とあって、八王子千人頭ではなく、八王子千人同心の組頭ととっておられる。識者の御教授を乞うものである。

「山本鐡次郎」wakagenoitagak氏の武田氏紹介サイト「若気の板垣」の「宗格院」(そうかくいん:東京都八王子市にある曹洞宗単立寺院で八王子千人同心所縁の寺)の紹介ページに、八王子千人同心の「山本銕次郎」なる人物の墓が写真入りで載り、その墓碑の没年は寛政九(一七九七)年三月二十四日である、とある。「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年八月であるから、もし、この人物が本主人公であったとすると、恐らくはこの話自体は、それよりも更にかなり前、最低でも十数年前の出来事と推定され、ここのところ、直近の話柄が多かった「耳嚢 巻之六」の流れからは少し外れるのであるが、この話、内容からしても彼が既に故人であったればこそ記すことが出来たのだ、とも言えまいか? なお、幕末の長唄三味線方の名跡で長唄稀音家流家元初代の稀音家六四郎(きねやろくしろう 文化八(一八一一年)~明治四(一八七一)年)なる人物は、ウィキの「稀音家六四郎」によれば、『旗本の次男で本名は山本鉄次郎』とある。同姓同名の全くの無関係な者か、それとも、この主人公の末裔か? 識者の御教授を乞うものである。

・「親友川尻」既に複数回登場している五條代官や松前奉行を歴任した川尻甚五郎春之(はるの)と考えられる。先の「古佛畫の事」の私の注を参照のこと。

・「川尻の祖父」岩波版長谷川氏の注で、「川尻」が川尻春之であるとすれば、その祖父は鎮喬(しげたか 元禄五年(一六九二)年~宝暦四(一七五四)年)とする(生年は長谷川氏注の享年六十三歳から逆算した)。

・「荻生惣七」底本の鈴木氏注に、『荻生家は有名な儒者徂徠が出た家。幕臣としては徂徠の父景明(方庵)の跡は観(タスクル。惣七郎)が継ぎ、観の曾孫義俊が、寛政六年(二十五歳)大番になっている。娘というのは、この人の娘であろうか』と推定留保されているが、岩波版長谷川氏注では、この荻生惣七郎観(たすくる 寛文十(一六七〇)年~宝暦四(一七五四)年)に同定されている(生年は長谷川氏注の享年八十五歳から逆算した)。「甥」とあるが、有名人に関わるこの手の話では、しばしばわざと事実に反することを仕組んでおくものである。いざとなれば、事実と違うでしょ? と責任をわかす手段とするのは今と同じである。

・「つめ印」爪印。拇印のこと。自署や花押・印章などの代わりに、指先に墨・印肉を付けて捺印したもの。。爪判(つめばん)・爪形(つめがた)などとも言う。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 妖狐が道理に服従する事

 

 八王子千人頭(せんにんがしら)を勤めた山本鉄次郎殿は、私の親友川尻春之(はるの)殿の親族である。

 大分、以前の話であるが、山本殿、妻を迎えることと相い成り、川尻殿の祖父である鎮喬(しげたか)御大が世話致いて、荻生惣七郎観(おぎゅうそうしちろうたすくる)殿の娘を嫁と致いた。

 ところが婚姻後のこと、どうも、この妻女に狐が憑いた様子にて、詳しくは存ぜねど、何やらん、はなはだ不埒(ふらち)なることを口走って、手がつけられなくなって御座ったによって、その夫、山本殿、この物の怪の憑いた妻女を厳しく折檻致いて、

「――如何なる訳を以ってか、我らが迎えし新妻に憑いたものかッ!?」

と理を尽くして糺いたところが、その道理に伏(ふく)したものか、

「……確カニ……立チ退(の)キ申シマショウ……然レドモ……憑依致イテオルハ……コレ……我ラノミニテハ御座ナイ……江戸ヨリ……附イテ来タ狐モ……コレ……アリ……」

と、妻の口を借りて申したによって、

「……それは!……いや!――とまれ、かくまれ! 先ずは、そなたが立ち退くが道理じゃッ!」

と、無二無三に責め立てたによって、その告解致いた狐の方は、これ、とり除(んぞ)くことが出来たように見えたと申す。

 ところが新妻は、それでも未だに正気に戻らねば、なおも責め諭しを続けたところ、

「……我ハ……コノ女ノ元ノ在方(ざいかた)ヨリノ恨ミ……コレアレバコソ……カクモ婚姻ノズット先(せん)ヨリ憑リツイテ……ココヘト参ッタモノジャテ……サレバコソ……イッカナ……退(の)ケヌ……ワ……」

と正体を現わして不遜な謂いで答えたと申す。

 山本殿、これを聞くに、

「――何とも、その意、心得難きことではないか! 江戸表より我が元へ嫁として参ったその頃より、既に狐が憑いておったとならば――どうして妻女の親、狐憑きの女を嫁に出だすこと、これ、許そうものか、いや、許そうはずが、ない! 然らば――仮に我らが、これより妻と離縁など致すにしても――我が方(ほう)にて狐が憑いたのじゃと、里方にては思うに決まっておろう!――いや、逆に、狐が憑いたのも、当家自体が尋常ならざる家系なればこそのことであり、さればこそ、我らが『予てよりの狐憑きであった』と称し、己れに体よく、離縁を求めて参ったと、かの里方にて心ならずも邪推さるると申すも、これ、武士道に於いて、如何にも迷惑千万!――何であれ! ともかくも――まずは、我が妻より即座に離れてもろうしか、これ、御座らぬ!」

と、なおも厳しく折檻を加えた。

 されば、その山本殿の理路整然とした謂いに、この執拗(しゅうね)き妖狐も遂に伏したものかと思われ、

「……分カッタ……立チ退クワイナ……」

と答えた。

 すると山本殿、

「いや……暫く待てい!……」

と、なおも何か思案致いた後(のち)、

「――離縁後、里方へ帰って、ただ単に『里方よりの狐が憑いておるによって離縁致す』という説明だけでは、我らが危惧するところの不名誉を受くること、これ、全く以って、同じ結果を齎すは、明白!――されば、以上の我らに語った怨恨から憑依に至るまでの告解の委細――これ、証文に認(したた)めずんばならず!」

と述べたところ、妖狐は、

「……書クコトハ書クルガ……武家ノ式ニ則ッタ……チャントシタ文言ヤ書式ハ……コレ知ラザレバ……我ラニハ……出来難(にく)イ……」

なんどと、ほざいたところ、山本殿、

「――文言は――内容さえ人が読んでそれと分かるものであれば――妖狐流の好みのものでよい。」

と受け流した。

 かくして委細を、見た目、そうさ――妖狐自然流――とでも申そうものか……奇妙な筆使い……奇妙な崩し字……時に、奇妙な絵文字のようなものなんどまで用いて、それでも、確かに里方よりの永き怨恨を持ったる狐の憑依であった由を、分かるように綴ったものを、これ、認めさせて御座った。

 最後に、山本殿、妖狐に向かい、

「――今一つ。書面のみにては、これ、信じ難き怪談に流るるばかりにして、見る者は、『これ、人が捏造せる贋物(がんぶつ)ならん』との疑いを抱くに相違ない。されば、『確かに狐が憑いて書き記したものである』という明々白々な証拠がなくては、これ、埒が明かぬ!」

と、またしても折檻を重ねる。

「……印章ナンドハ……流石ニコノ我レラガ如キノ位階ノ者ニテハ……持タザレバ……」

と申したによって、

「――人間には爪印(つめいん)と申すものが、これ、ある。……」

と、話し聞かせたところ、狐の憑いた新妻、これ、手を口元へ引き寄せ、そのまま伏せるようにして、先程来、証文を書かせるに用いさせた硯に蔽い被さると、その口に、その墨を含み、かの書面へその手を押し附けた。

 新妻が身を起こす。

 その証文の末(すえ)を見れば、

――獣の足の先の跡の如きものが――そこに残っておった。

 山本殿は、

「――これにてよし!」

と、やがてその証文に離縁状を添えて、媒酌人であった川尻氏の元へ一旦、かの女を戻し、その上で、里方の荻生家へと帰したと申す。

 

「……惣七郎殿とは、かの荻生徂徠殿の甥子(おいご)に当たる方で御座る。」

 以上は川尻春之殿の直話で御座る。

父、元気に退院

先ほど、父が脊椎間狭窄の腰部三箇所の手術から元気に帰還した。大方の皆様のお見舞い有り難く存じます。

沢庵宗彭「鎌倉巡禮記」 27

花のやつにて、

  さそなむかしさきけむ春の花のやつ あとの名まても猶匂ふかな

[やぶちゃん注:「花のやつ」「新編鎌倉志卷七」に、

〇花谷〔附慈恩寺の舊跡〕 花谷(はながやつ)は、佐竹屋敷の東方にあり。此の谷(やつ)に、慈恩寺と云ふ寺あり。足利直冬(あしかがただふゆ)の菩提寺(てら)なり。直冬を慈思寺玉溪道昭と號す。嘉慶元年七月二日に卒す。開山は桂堂聞公なり。京五山の名僧、詩を題して此の所の風景を稱美す。其詩を板に彫て、今圓覺寺傳宗菴にあり。其詩如左(左のごとし)。[やぶちゃん注:以下略。]

とある。「佐竹屋敷」とは頼朝時代の有力御家人佐竹秀義の屋敷と伝えるもので、現在の大町にある大宝寺(文安元(一四四四)年創建)の境内が同定されており、その境内には、佐竹氏の守護神社であった多福明神社(大多福稲荷大明神)がある。その佐竹屋敷跡と伝える場所の東の谷戸が花ケ谷である。この廃絶した慈恩寺(詳細はリンク先を参照)境内には数百首の草花が植えられていて、多くの人々がこれを称覧したことに由来する呼称と伝えられている。]

パノラマ館にて (「宿命」版)

 

 パノラマ館にて

 

 あふげば高い蒼空があり、遠く地平に穹窿は連なつてゐる。見渡す限りの平野のかなた、仄かに遠い山脈の雪が光つて、地平に低く夢のやうな雲が浮んでゐる。ああこの自然をながれゆく靜かな情緒をかんず。遠く眺望の消えて盡きるところは雲か山か。私の幻想は淚ぐましく、遙かな遙かな風景の涯を追うて夢にさまよふ。

 聽け、あの悲しげなオルゴルはどこに起るか。忘れた世紀の夢をよび起す、あの古めかしい音樂の音色はどこに。さびしく、かなしく、物あはれに。ああマルセーユ、マルセーユ、マルセーユ……。どこにまた遠く、遠方からの喇叭のやうに、錆ある朗らかのベースは鳴りわたる。げにかの物倦げなベースは夢を語る。

「ああ、ああ、歷史は忘れゆく夢のごとし。時は西曆千八百十五年。所はワータルローの平原。あちらに遠く見える一葦の水はマース河。こなた一圓の人家は佛蘭西の村落にございます。史をひもとけば六月十八日。佛蘭西の皇帝ナポレオン一世は、この所にて英普聯合軍と最後の決戰をいたされました。こなた一帶は佛蘭西軍の砲兵陣地、あれなる小高き丘に立てる馬上の人は、これぞ卽ち蓋世の英雄ナポレオン・ボナパルト。その側に立てるはネー將軍、ナポレオン麾下の名將にして、鬼と呼ばれた人でございます。あれなる平野の大軍は英將ウエリントンの一隊。こちらの麥畑に累累と倒れて居ますのは、皆之れ佛蘭西兵の死骸でございます。無慘やあまたの砲車は敵彈に擊ち碎かれ、鮮血あたりの草を染めるありさま。ああ悲風蕭蕭たるかなワータルロー。さすが千古の英雄ナポレオン一世も、この戰ひの敗軍によりまして、遠くセントヘレナの孤島に幽囚の身となりました。こちらをご覽なさい。三角帽に白十字の襷をかけ、あれなる間道を突擊する一隊はナポレオンの近衞兵。その側面を射擊せるはイギリスの遊擊隊でございます。あなたに遙か遠く山脈の連なるところ、煙の如く砂塵を蹴立てて來る軍馬の一隊は、これぞ卽ち普魯西の援軍にして、ブリツヘル將軍の率ゐるものでございます。時は西曆一八一五年、所は佛蘭西の國境ワータルロー。――ああ、ああ、歷史は忘れゆく夢のごとし」

 明るい日光の野景の涯を、わびしい砲煙の白くただよふ。靜かな白日の夢の中で、幻聽の砲聲は空に轟ろく。いづこぞ、いづこぞ、かなしいオルゴルの音の地下にきこゆる。あはれこの古びたパノラマ館! 幼ない日の遠き追憶のパノラマ館! かしこに時劫の昔はただよひゐる。ああかの暗い隧路の向うに、天幕(てんと)の靑い幕の影に、いつもさびしい光線のただよひゐる。

 

[やぶちゃん注:詩集「宿命」(昭和一四(一九三九)年創元社刊)より。以下に同詩集末に配された「附録 散文詩自註」にある本詩の自註を掲げる。

 

 

パノラマ館にて  幼年時代の追懷詩である。明治何年頃か覺えないが、私のごく幼ない頃、上野にパノラマ館があつた。今の科學博物館がある近所で、その高い屋根の上には、赤地に白く PANORAMA と書いた旗が、葉櫻の陰に翩翻(へんぽん)としてゐた。私は此所で、南北戰爭とワータルローのパノラマを見た。狹く暗く、トンネルのやうになつてる梯子段を登つて行くと、急に明るい廣闊とした望樓に出た。不思議なことには、そのパノラマ館の家の中に、戶外で見ると同じやうな靑空が、無限の穹窿となつて廣がつてるのだ。私は子供の驚異から、確かに魔法の國へ來たと思つた。

 見渡す限り、現實の眞の自然がそこにあつた。野もあれば、畑もあるし、森もあれば、農家もあつた。そして穹窿の盡きる涯には、一抹模糊たる地平線が浮び、その遠い靑空には、夢のやうな雲が白く日に輝いてゐた。すべて此等の物は、實には油繪に描かれた景色であつた。しかしその館の構造が、光學によつて巧みに光線を利用してるので、見る人の錯覺から、不思議に實景としか思はれないのである。その上に繪は、特殊のパノラマ的手法によつて、透視畫法を極度に效果的に利用して描かれてゐた。ただ望樓のすぐ近い下、觀者の眼にごく間近な部分だけは、實物の家屋や樹木を使用してゐた。だがその實物と繪とのつなぎが、いかにしても判別できないやうに、光學によつて巧みに工夫されてゐた。後にその構造を聞いてから、私は子供の熱心な好奇心で、實物と繪との境界を、どうにかして發見しようとして熱中した。そして遂に、口惜しく絕望するばかりであつた。

 館全體の構造は、今の國技館などのやうに圓形になつて居るので、中心の望樓に立つて眺望すれば、四方の全景が一望の下に入るわけである。そこには一人の說明者が居て、畫面のあちこちを指さしながら、絕えず抑揚のある聲で語つてゐた。その説明の聲に混つて、不斷にまたオルゴールの音が聽えてゐた。それはおそらく、館の何所かで鳴らしてゐるのであらう。少しも騷がしくなく、靜かな夢みるやうな音の響で、絕えず子守唄のやうに流れてゐた。(その頃は、まだ蓄音機が渡來してなかつた。それでかうした音樂の場合、たいてい自鳴機のオルゴールを用ゐた。)

 パノラマ館の印象は、奇妙に物靜かなものであつた。それはおそらく畫面に描かれた風景が、その動體のままの位地で、永久に靜止してゐることから、心象的に感じられるヴイジヨンであらう。馬上に戰況を見てゐる將軍も、銃をそろへて突擊してゐる兵士たちも、その活動の姿勢のままで、岩に刻まれた人のやうに、永久に靜止してゐるのである。それは環境の印象が、さながら現實を生寫しにして、あだかも實の世界に居るやうな錯覺をあたへることから、不思議に矛盾した奇異の思ひを感じさせ、宇宙に太陽が出來ない以前の、劫初の靜寂を思はせるのである。特に大砲や火藥の煙が、永久に消え去ることなく、その同じ形のままで、遠い空に夢の如く浮んでゐるのは、寂しくもまた悲しい限りの思ひであつた。その上にもまた、特殊な館の構造から、入口の梯子を昇降する人の足音が、周圍の壁に反響して、遠雷を聽くやうに出來てるので、あたかも畫面の中の大砲が、遠くで鳴つてるやうに聽えるのである。

 だがパノラマ館に入つた人が、何人も決して忘られないのは、油繪具で描いた空の靑色である。それが現實の世界に穹窿してゐる、現實の靑空であることを、初めに人人が錯覺することから、その油繪具のワニスの匂ひと、非現實的に美しい靑色とが、この世の外の海市のやうに、阿片の夢に見る空のやうに、妖しい夢魔の幻覺を呼び起すのである。 

 

下線「つなぎ」は底本では傍点「ヽ」。「今の科學博物館」とあるが、一応、現在の、上野の現在位置にある「国立科学博物館」を指している。現在の国立科学博物館の前身は明治四(一八七二)年、湯島聖堂内に博物館を設立したことに起源を持ち、現在の同館沿革史では創立を明治一〇(一八七七)年の教育博物館設置としている。この「教育博物館」は、同じ上野山内の西四軒寺跡(現在の東京芸術大学の位置)にあった。それが大正に入って科学博物館設立の機運が高まったことを受け、昭和五(一九三〇)年に上野公園内に新館(現在、「日本館」と呼ばれている建物)が建てられ、その翌昭和六(一九三一)には「東京科学博物館」と改称され、東京市の施設となった(以上はウィキ国立科学博物館」に拠った)。]

靑色のさびしい光線 萩原朔太郎 (「パノラマ館にて」初出形)

 靑色のさびしい光線

 

 あふげば高い蒼空があり、遠く地平に穹窿は連なつてゐる。見渡す限りの平野のかなた、仄かに遠い山脈の雪が光つて、地平に低く夢のやうな雲が浮んでゐる。ああこの自然をながれゆく靜かな情緒をかんず。遠く眺望の消えて盡きるところは雲か山か。私の幻想は涙ぐましく、遙かな遙かな風景の涯を追うて夢にさまよふ。

 聽け、あの悲しげなオルゴルはどこに起るか。忘れた世紀の夢をよび起す、あの古めかしい音樂の音色はどこに。さびしく、かなしく、物あはれに‥‥‥。どこにまた遠く、遠方からの喇叭のやうに、錆ある朗らかのベースは鳴りわたる。げにかの物倦げなベースは夢を語る。

『ああ、ああ、歴史は忘れゆく夢のごとし。時は千八百十五年。所はワータルローの平原。あちらに遠く見える一葦の水はマース河。こなた一圓の人家は佛蘭西の村落にございます。史をひもとけば六月十八日。佛蘭西の皇帝ナポレオン一世は、この所にて英獨聯合軍と最後の決戰をいたされました。こなた一帶は佛蘭西軍の砲兵陣地、あれなる小高き丘に立てる馬上の人は、これぞ即ち蓋世の英雄ナポレオン・ボナパルト。その側らに立てるはネー將軍、ナポレオン麾下の名將にして、鬼と呼ばれた人でございます。あれなる平野の大軍は英將ウエリントンの一隊。こちらの麥畑に累々と倒れて居ますのは、皆之れ佛蘭西兵の死骸でございます。無慘やあまたの砲車は敵彈に撃ち碎かれ、鮮血あたりの草を染めるありさま。ああ悲風蕭蕭たるかなワータルロー。さすが千古の英雄ナポレオン一世も、この戰ひの敗軍によりまして、遠くセントヘレナの孤島に幽囚の身となりました。こちらをご覽なさい。こちらの間道に劍をかざして突撃する騎兵はナポレオンの近衞兵。その側面を射擊せるはブリユーヘル將軍の遊擊隊でございます。あなたに遙か遠く山脈の連なるところ、雲のやうに見えます一隊の軍馬は、これぞ即ち普魯西の援軍にして、今や戰場を指して急ぎ來るところ‥‥‥ああ、ああ、歷史は忘れゆく夢のごとし‥‥‥』

 明るい日光の野景の涯を、わびしい砲煙の白くただよふ。靜かな白日の夢の中で、幻聽の砲聲は空に轟ろく。いづこぞ、いづこぞ、かなしいオルゴルの音の地下にきこゆる。あはれこの古びたパノラマ館! 幼ない日の遠き追憶のパノラマ館! かしこに時劫の昔はただよひゐる。ああかの暗い隧路の向うに、天幕(てんと)の靑い幕の影に、いつもさびしい光線のただよひゐる。

 

[やぶちゃん注:大正一一(一九二二)年四月アルス刊のアフォリズム集「新しき欲情」の「第三放射線」より。次に掲げるように、これは七年後の詩集「宿命」に「パノラマ館にて」と題名を変えて所収されるものの初出である。私の底本とした筑摩書房版全集の第四巻のこの詩の末尾には、鍵括弧(トジル)の( 」 )のような擦れたものが見られるが、これは珍しい植字版の枠のスレと思われるので無視した。

「時は千八百十五年……」一八一五年六月十八日、ワーテルローでイギリス・オランダ連合軍及びプロイセン軍が、百日天下を樹立していたナポレオン一世のフランス軍を破った、ナポレオン最後の戦い。連合軍はこれを追撃してフランスに侵攻、ルイ十八世を復位させ、退位したナポレオンはイギリスに降伏、セントヘレナ島に流されて一八二一年、この地で死去した。本詩作時からは百七年前、朔太郎幼年期の記憶であるから詩中の実体験は明治三〇(一八九七)年前後(朔太郎の生年は明治一九(一八八六)年)の出来事とすれば、凡そ八十年前となる。

「所はワータルローの平原」ワーテルロー“Waterloo”(ベルギーのワロン地方及び北部フランスの一部で話されるロマンス語の一つであるワロン語では“Waterlô”)は現在のベルギーのブラバン・ワロン州にある湿潤な草原地帯(現在は基礎自治体名でもある)。但し、ワーテルローは戦場ではなく、イギリス軍の司令部の所在地であり、「ワーテルローの戦い」という命名者も、そこのイギリス軍司令官ウェリントンである。実際の戦場であった地名を取り、「モン・サン・ジャンの戦い」又は「ラ・ベル・アリアンスの戦い」(ドイツでの呼称。後注参照)とも呼ぶ(ウィキワーテルローに拠る)。

「マース川」フランス北東部を水源とし、ベルギーを流れ、オランダで北海へ注ぐ川。九世紀頃よりアルザス・ロレーヌ地方がフランスに併合されることとなるヴェストファーレン条約が締結された一六四八年まで、神聖ローマ帝国の西の国境線がこの河川であった。このことからドイツ国歌「ドイツの歌」の歌詞の一番で「マース川からメーメル川まで」とその領土範囲を郷愁的に歌っていることでも有名である。但し、この一番は現在のドイツでは国歌とされていない(ウィキマース川」に拠る)。

「英將ウエリントン」“Field Marshal Arthur Wellesley”(初代ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリー元帥 一七六九年~一八五二年)。トーリー党(保守党)の政治家としても活躍し、ジョージ四世とウィリアム四世の治世中、二度に亙って首相を務め、ヴィクトリア朝前期にも政界の長老として活躍、『鉄の公爵』“Iron Duke”の異名で呼ばれた。詩中の弁士の「鬼と呼ばれた」はこの畏称を言う(ウィキアーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)に拠る)。

「ブリユーヘル將軍」ワールシュタット大公“Gebhard Leberecht von Blücher”(ゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘル 一七四二年~一八一九年)。プロイセン王国陸軍元帥で、ナポレオン戦争後半のプロイセン軍総司令官。攻撃的な性格から前進元帥“Marschall Vorwärts”(マルシャル・フォアヴェルツ)と渾名された。戦後に彼は主戦場となったラ・ベル・アリアンス(“La Belle Aliance”。「良き同盟」という意味のフランス語)から、本戦を両軍の「同盟」(alliance)の意味にも掛けた「ラ・ベル・アリアンスの戦い」と命名しようと提案したが、ウェリントンは英語での発音と自身の英国軍司令部に固執し、戦場とはやや離れているにも拘わらず、「ワーテルローの戦い」と命名した。ブリュッヘルは暫くパリに駐留していたが、老齢を理由に退役し、シレジアに戻った(以上はウィキのゲプハルト・レベレヒト・フォン・ブリュッヘル「ワーテルローの戦い」に拠った)。]

老人 大手拓次

 老人

 

わたしのそばへきて腰をかけた、

ほそい杖(つゑ)にたよつてそうつと腰をかけた。

老人はわたしの眼をみてゐた。

たつたひとつの光がわたしの背にふるへてゐた。

奇蹟のおそはれのやうに

わらひはじめると、

その口(くち)がばかにおほきい。

おだやかな日和(ひより)はながれ、

わたしの身がけむりになつてしまふかとおもふと、

老人は白いひげをはやした蟹のやうにみえた。

鬼城句集 春之部 芍藥の芽

芍藥の芽 蟄龍の美しき爪や芍藥の芽

[やぶちゃん注:「蟄龍」は「ちつりりよう(ちつりょう)」と読み、地に潜んでいる龍。一般には、活躍する機会を得ずに世に隠れている英雄の譬えとしてしばしば用いられる語。]

2013/04/19

海産生物古記録集■2 「筠庭雑録」に表われたるホヤの記載

……ああっ! なんて楽しいんだろう……僕がしたかったことは……こういうことなんだなぁ……



「筠庭雑録」に表われたるホヤの記載

 

[やぶちゃん注:国学者喜多村信節(きたむらのぶよ 天明三(一七八三)年~安政三(一八五六)年)の随筆「筠庭雑録」に所収。底本は吉川弘文館昭和四九(一九七四)年刊「日本随筆大成 第二期 7」所収の「筠庭雑録(いんていざつろく)」(本書にある影印標題は「筠亭雜録」とする)を用いたが、恣意的に正字化した。踊り字「〱」は正字化した。]

 

   ○保夜

土佐日記に、ほやのつまのいすしといへり。いすしは、本草に出たる淡菜なり。主計式に、貽貝保夜ノ交鮨とみゆ。ほやは雨航雜錄に石勃卒とある是なり。九州に多くあり。筑前より例年江戸に獻上ありとぞ。奧州には春夏これを捕る、西國には秋冬あり。國によりて時節相違すとかや。播州姫路には、保夜にかならずほやを食ふならひなりとか。江戸にもたまたまあるは、いづくより來れるにか。予も是を食し事あり。其狀圓く口二つあり、色赤くして鬼畏ある事、沙巽(ナマコ)の如く、その間に紫色の龜甲紋あり。尻に根生て、石のうへにつきたるは蕈の生たるに似たり。うへの皮を剝ば中に白き肉あり。鹽醋に漬て食ふに、味も沙巽にひとし。寄生をほやといふ故、これにも其名ありとみゆ。能登にても多くとりて食料とすといへり。むかしは海つ物のかゝるたぐひをば、すしといひけるにや。枕雙紙に、名おそろしきもの、いすし、それを名のみならず、見るもおそろしといへるは海膽(ウニ)なるべし。いすしも此例と聞ゆ。

 

Hoyakitamura

 

[やぶちゃん注:「保夜」「海鞘」私の最も愛する海棲生物の一つである。知り合いの物理の大学教授や年季の入った寿司屋の大将、果ては町の魚屋でさえ、「ホヤガイ」と呼称して貝類だと思っていたり、イソギンチャクの仲間と言って見たりと、かなり最近は市民権を獲得して、市場に出回っているにも関わらず、誤認している人が多い生物である。ここで喜多村が図として掲げているものは、脊索動物門尾索動物亜門海鞘(ホヤ)綱壁性(側性ホヤ)目褶鰓亜目ピウラ(マボヤ)科マボヤ Halocynthia roretzi と考えてよい。ホヤは無脊椎動物と脊椎動物の狭間にいる、分類学的には極めて高等な生物である。オタマジャクシ型の幼生時に背部に脊索(脊椎の原型)がある。おまけに目もあれば、口もあり、オタマジャクシよろしく、尾部を振って元気に泳いでいる。しかし、口器部分は吸盤となっていて、その内に岩礁等にそれで吸着、尾部組織は全て頭部に吸収され、口器部分からは擬根が生じ、外皮が皮革化、全くの植物のように変身してしまう。因みに近年の研究によって、ホヤは生物体では珍しく極めて高濃度のバナジウムを血球中に濃縮していることが分かっている。海鞘(ホヤ)綱 Ascidiacea の学名アスキディアはギリシャ語の“askos”(皮袋)に由来、マボヤの属名 Halocynthia はギリシア語の「海」の意の“als”にギリシア神話の月の女神“Cynthia”(キュンティア:よく女性の名や洗礼名などで耳にする「シンシア」である。)の合成語。英名は触れると水を吹くさまから、“sea squirt”、「海の噴水」。仏語名“figue de mer”は「海のイチジク」形が似ているからと思われるが、外郎のような味の独特さも私は各群(果実と海産物)の中で相対的に似ているように思われる(南仏では革質部の色から“violet”(ヴィオレ:紫色。)と呼ばれる)。また、イチジクは母性や乳房という豊饒のシンボルでもあるから、性的な連想も働いているように(エッチな)私は推察する。イタリア語“tarufo di mare”は「海のトリュフ」やはり形状が似ているからであろうが、やはり(エッチな)私はトリュフの媚薬としての連想も禁じ得ない。さらに最後に。ドイツ語では“Seecheide”――「海の膣」――である(以上の名の由来は荒俣宏「世界大博物図鑑 別巻2 水生無脊椎動物」の「ホヤ」の項他を参考にした)。

 

「土佐日記に、ほやのつまのいすしといへり」船出した十二月の翌一月十三日の条を指す(紀貫之の事蹟に基づくならば承平五(九三五)年になる)。底本は一九八八年刊の新潮古典集成版「土佐日記 貫之集」(木村正中校注)を用いたが、恣意的に正字化し、一部に私の読みを追加して示した。

十三日(とをかあまりみか)の曉(あかつき)にいささかに雨降る。しばしありてやみぬ。女(をむな)これかれ、沐浴(ゆあみ)などせむとて、あたりのよろしきところにおりてゆく。海を見やれば、

 雲もみな波とぞ見ゆる海人(あま)もがな

   いづれか海ととひて知るべく

となむ歌よめる。さて、十日あまりなれば、月おもしろし。船に乘りはじめし日より、船には、紅(くれなゐ)濃(こ)くよき衣(きぬ)着ず。それは「海の神に怖(お)ぢて」といひて、なにのあしかげにことづけて、老海鼠(ほや)のつまの貽鮨(いずし)、鮨鮑(すしあはび)をぞ、心にもあらぬ脛(はぎ)に上げて見せける。

・「月おもしろし」(十日過ぎて十五夜が近いから)明け方に残る月が美しい。

・「紅濃くよき衣着ず」派手な衣装を身に着けていると、海神(男神)に魅入られ、船諸共に水底に引き込まれるとして恐れたことを指している。

・「海の神に怖ぢて」底本の頭注で木村氏は、『女たちが紅濃く美しい衣を着なかった理由であるとともに、後文へつながり、性器の露出が邪気悪霊を祓う呪的機能をもつとする民俗信仰にもとづき、海神の心を鎮めようとして、の意味をももつ(松本寧至氏)』と注されておられる。非常によい注である。ここは、私のホヤとの最初の接触点であるという稀有の邂逅であったと同時に、深いしみじみとした因縁のある部分なれば、少し私の話にお付き合い願おう。

 そもそも知られた「土佐日記」でも、このシーンを知らない方は多いと思う。まず高校の授業ではやらない。私が持っていた「土佐日記(全)」の高校生向け参考書で、高校二年生の時にこの下りを発見した時には、何となくどきどきしたものだ。ところが訳を読んでも生硬な逐語訳で全く意味が分からない。また、かつての専門的なアカデミックな評釈書でさえも、国文学者の大半がシャイであったがために、最後の部分の語注や評釈が十全になされていなかった。

 悶々としたまま私は大学に入った私は、お蔭で「日本文学演習(中古)」の授業のテーマに、この一条に表われた性的象徴関係を研究に選んだ。

 「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとて」したはずのものの中に描かれた、「老海鼠のつまの貽鮨、鮨鮑」に似た『あそこ』をぱっくりと海に見せている女たち――それを「心にもあらぬ」――思わず、いや、不用意にも――「脛に上げて見せ」ているじゃないかと、それこそ思わず吐露してしまう筆者は、やはり女ではない――では何故、額縁を壊してまでこのエロチックなシーンを挟む必要があったのか?――それは恐らく、アメノウズメノミコトに象徴される、世界を決定的に転換し得る女性の生殖器の持つ呪的パワーが、この海路の下りにシステムとして求められたからである。――更に言えば――精神の女装化を図った貫之の中の女性性(アニマ)が海―太母(グレート・マザー)への回帰願望として表出したのではなかったか――

というトンデモ論文が、一九七五年に私が書いたオリジナル「土佐日記」論であったのだ。質問に行った講義担当教授は私の話を聴くなり、「君もまあ、その、変なところをいじりたがるんだねえ」と、如何にもいい台詞を一言を呟いておられた(評価の厳しい部類の先生であったが、それでも最後にしっかりと「優」を下さったことには深く感謝している)。

 なお、実は、喜多村先生、まっこと、目から鱗の書きっぷりで、この「筠庭雑録」の「保夜」の次の条は「土佐日記」、しかもこの「保夜」の条の記載をダイレクトに受けてのそれなんである! からして、引用せずんばならず! 長い注になり、ホヤから遠く離れてゆくのは私の授業の脱線と同じ宿命――お付き合いあれ――(一部の表記法を変えて〔 〕で割注。を示した(底本では割注部分に『割注』とあり、鍵括弧でその終了を示している)。本文同様に正字化し、漢文部分は私が底本の訓点を参考にしながらもオリジナルに書き下したものを直後に( )で配した。なお、非常に長い割注部は改行して読み易くした)。

 

   ○土佐日記

土佐日記に、男女これかれゆあみなんどせんとて、あたりのよろしき所におりて行く。〔中略〕。ふねにのりはじめし日より、舟には、くれなゐこくよきゝぬきず。それは海のかみにおぢてといひて、なにのあしかげにことづけて、ほやのつまのいずし、すしあはびをぞ、心にもあらぬはぎにあげて見せける。といへる条。諸抄ともに分曉ならず。今按るに、男女ともに船よりおりたちて、便宜なる所にて行水なんどする事と見へたり。抑ふねに乘そめし日より、けやけき色なる衣をだに着ぬは、海神を恐れ憚りてなり。この日記は、女のかけるやうに物せるにかなへり。〔今も海上ゆく舟には、か一る忌事多し。〕何のあしかげにことづけては、海上にていみじく怖れつゝしみしかど、船岸邊によすれば、さり氣もなく打興じて湯あみするは、蘆の蔭あればおそれなしとおもふにや。なにのはいかに也。〔今俗に、何の事ぞなどいふ意なり。〕ことづけては、今俗にかこつけてなどいふ意也。ほやのつまのいずしあはび、〔是にても聞ゆれど、恐らくは、いずしの下、すしといふ文字、誤りて重なりしか。〕これらの海物(ウミツモノ)を、とりあへず湯あみし男女の陰し處にたとへて興ずるにや。鮑を女陰に準へし事もあれば、ほやを男根に比(タグ)へんこと論なし。こゝは專ら女のかたをいふ。そはほやのつまのと、かの交鮓を妻の意とせるにて明らか也。胎貝は、もとより漢名にも東海夫人といふ名もありて、その肉のかたちよく似たるもの也。鮑をよそへし事は、明衡が新猿樂記に、野干(キツネ)坂伊賀專之男祭。叩蚫苦舞。稻荷山阿小町之愛法。鼿鰹破前喜。(野干坂(きつねさか)の伊賀專(いがとうめ)の男祭(をとこまつり)には、蚫(あはび)が苦本(くぼ)を叩(たた)きて舞ふ。稻荷山の阿小町(あこまち)の愛法には、鰹破前(かつをはぜ)を鼿(ごつ)して喜ぶ。)

〔狐坂。京師在松崎北越北岩倉路(京師は松崎北越北岩倉路に在り)。伊賀專は、もと狐の事なれども、こゝは媒の老女などをいふ。男祭は女に逢はんとて祭るなるべし。蚫苦本はあはびの介のくぼきを女陰にたとへし也。阿小町はむすめをいふ。阿はしたしむ言葉、小町は女をいふ。小野小町、三條小町などおもふべし。愛法は愛染の法などにて、男におもはれむとて祈る也。鼿は、和名抄に宇世流と訓じ、説文を引て、以鼻動物也(鼻を以つて物を動かすなり)といへり。鰹破前はかつをぶし、破前とはその狀なり。和名抄に、玉莖を破前ともいへり。野干坂稻荷山は地名なり。くはしくとき盡さば、事繁く且はこゝにえうなければ、たゞおほむねをいふのみ。〕

とあり。これ雌雄(メヲ)の二根にたとへしもの也。心にもあらぬはぎにあけて見せけるとは、脛高くかゝげしかば、心にもあらで藏しどころを人に見られたるなり。かの湯あみせし人々のかへり來るさまなるべし。[やぶちゃん注:本文はここで終わっている。以下は全部割注である。]

〔さきに岸本※園が[やぶちゃん注:「※」=「木」+「在」。]、土佐日記標註を刻みしころの事なりき。この草稿を※園にも見せ。また高田松屋にも見せ置たるを、人のみつるにや、今茲天保三年後言(シリウゴト)といふ草子三巻子のしつるは、妙々奇談を學びて和學者を批評して、いとおかしく書なしたり。其中に、岸本※園が土佐日記標註を難じたる條、全く予が此説なり。但異なる處は、何のあしかげといへる何は、河字の誤りなるべしと※園がいへるをとれり。此しりうごとといふ草子は、大黒常是の雇人にて、川崎源三千鳥庵琴彦といふもの也。平田篤胤が門人にて有ながら、篤胤をも草子の内に謗れり。其答書に烏おどしといふあり。板行にはならず。是も同人の作なりとぞ。〕

 

以上の詳細注を附すと、いつまでたっても注が終わらなくなってしまうので、要所のみの注とするが、この考証、すこぶる面白い。全く以って、これ、正統なる(エッチな)私好みと言わざるを得ない。

・「分曉」「ぶんげう(ぶんぎょう)」と読み、夜が明ける原義から、明瞭なことを言う。まさに性を抑圧したクソ・アカデミズムへの指弾である。(エッチな)私は頗る小気味よい。

・「明衡」儒学者藤原明衡(あきひら 永祚元(九八九)年?~治暦二(一〇六六)年)。後冷泉天皇朝に於いて式部少輔・文章博士・東宮学士・大学頭などを歴任、従四位下まで上った。詩文に秀で、「本朝文粋」「本朝秀句」を編修、「新猿楽記」「明衡往来」などを著している(ウィキの「藤原明衡」に拠る)。

・「新猿樂記」ある晩、京の猿楽見物に訪れた家族の記事に仮託して当時の世相・職業・芸能・文物などを列挙していった物尽くし・職人尽くし風の書物で、その内容から往来物の祖ともいわれる。参照したウィキの「新猿楽記」には、以下の記載部分について、猿楽見物に訪れた登場人物の一人である右衛門尉の、二十歳も年上の老妻(第一の本妻)が、夫の愛を受けるために信仰している神々の一つとして、この『野干坂の伊賀専の男祭(きつねざかのいがとうめのおまつり)』が挙げられており、『野干坂は山城国愛宕郡松が崎村(現京都市左京区)の西から北岩倉に抜ける路』で、『伊賀専は男女の仲を取り持つ神として祀られた老狐。その狐の、男に逢うための祭で、アワビ(女陰)を叩いて踊った』とし、更に、『稲荷山の阿小町の愛の法』として、『伏見稲荷大社に祀られた稲荷明神の眷属となった狐』『に、男の愛を得るための祈りを、鰹節を陰茎の勃起したものに見立てて振り回し行った』とある。私は「新猿楽記」は未読で所持しないが、頗る読みたくなってきた。

・「鼿鰹破前喜」「鼿」の字は、動物が鼻先で以って獲物などを動かすことを意味する字であるから、前の注の引用を考えると、これはファルスに見立てた鰹節(先の『「立路随筆」に表われたるカツオノエボシの記載』で、イタリア語の隠語では男性器を「鰹(カツオ)」と言う事実を記したが、本邦でも同じだったわけだ!)を両手で握って自分の鼻先まで掲げた上で、振り回す仕草を言っているように思われる。「新猿楽記」をお持ちの方、よろしければ注などお教え下さると嬉しい。なお、割注「宇世流」とある訓は「うせる」で、「さっさと失せろ」の「うせろ」は元は「鼿せろ」と書くらしい。確かに「失せろ」という時、我々は鼻で相手を使っている訳だ。目から鱗、目から鼻に抜けた。

・「岸本※園」国学者岸本由豆流(きしもとゆずる 天明八(一七八八)年~弘化三(一八四六)年)の号で、「※園」で「やまぶきぞの」と訓ずる。幕府弓弦師(ゆみづるし)岸本讃岐(さぬき)の子(一説に養子)。三万巻の蔵書を駆使して平安朝から中世文学の文献学的考証を行った。ここで喜多村がヤリ玉に挙げられているのは彼の「土佐日記考証」である(以上は講談社「日本人名大辞典」に拠った)。

・「後言」はこれが川崎源三千鳥庵琴彦なる人物(未詳)の書いた本の書名らしいが(未詳)、現代仮名遣では「しりゅうごと」で、陰口の意である。師であった篤胤を誹謗しているというから、これ、私好みのトンデモ男である。知りたい。識者の御教授を乞う。

「いすし」貽鮨(いずし)。貽貝(いがい)の肉(軟体部)を漬けて発酵させた熟(な)れ鮨。貽貝は二枚貝綱翼形亜綱イガイ目イガイ科イガイ属イガイ Mytilus coruscus。ムール貝(イガイ属の正式和名ムラサキイガイ Mytilus galloprovincialis)の仲間の、イガイの国産標準種と言った方が通りがよいだろう。

「淡菜」イガイの別名。また、イガイやムラサキイガイを煮て干した食品を指す。イガイは古くからニタリガイの異名を持ち、これ自体も女性生殖器に非常に似ているとされ、かつて江の島などの海浜に近い土産物店では透明樹脂で固定した半開きのイガイの如何にもな標本を売っていたものである。

「主計式」全五十巻の「延喜式」の内、巻二十四及び二十五を主計式(上・下)と呼ぶ。主計寮(しゅけいりょう/かずえのつかさ:現在の財務省主計局。)関連の記載で、主計寮は当年の調庸その他の貢納分を計算して来年の収支の予算を立てることを任務とする。ここで言っているのは、全国への庸・調などの割り当てや当時の全国の農産物・漁獲物・特産物を伝える巻二十四に載る記載である。

「貽貝保夜ノ交鮨」「土佐日記」に出る「鮨鮑」を「日本国語大辞典」でひくと、その使用例に「延喜式」の「九二七」二四の主計が引かれており、そこには『鮨鰒、貽貝、冨耶交鮨各 六斤』とある。「冨耶交鮨」は「ほやのまぜずし」で、まさにこの引用とも一致する。

「雨航雜錄」明代後期の文人馮時可(ひょうじか)が撰した雑文集。魚類の漢名典拠としてよく用いられる。四庫全書に含まれている。

「石勃卒」この古表現は平安初期の本邦の記載に既に見られるらしい。

「九州に多くあり。筑前より例年江戸に獻上ありとぞ。奧州には春夏これを捕る、西國には秋冬あり」ホヤ類は本邦では広く分布するが、ウィキの「ホヤ」にある「食材としてのホヤ」には、『ホヤは日本、韓国、フランスやチリなどで食材として用いられて』おり(韓国では食べかけたが、案内してくれた教え子の韓国大使館事務官に「肝炎になって日本に帰らないつもりなら食べて下さい」と言われて涙を呑んだ)、『日本では主にマボヤ科のマボヤ(Halocynthia roretzi)とアカボヤ(H. aurantium)が食用にされている。古くからホヤの食用が広く行われ多く流通するのは主に東北地方沿岸部であり、水揚げ量の多い石巻漁港がある宮城県では酒の肴として一般的である。また北海道でも一般的に食用の流通がある。多いのはマボヤであり、アカボヤの食用流通は北海道などであるが少ない。東京圏で食用が広まり多く流通するようになったのは近年である。中部地方以西・西日本各地では、今なおごく少ない』(最後の部分には「近年」の部分に時期記載要請、「今なお」の部分にも記載時要請がなされているが省略した)。西日本での需要が今一つであるのは、『食用に供される種であるマボヤは、日本では太平洋側は牡鹿半島、日本海側は男鹿半島以北の近海産が知られる。天然物と養殖により供給されている。鮮度落ちが早く、新鮮なものは臭わないが、鮮度が落ちると金属臭のような独特の臭いがあり、好き嫌いが分かれる。この臭いは鮮度が落ちると特に強くなる。鮮度の管理が難しい』点にあると考えてよいが、この本文の記載等を見ると、産地を九州とし、献上先の筆頭に筑前(福岡)が挙げられている。現在、マボヤは宮城県と岩手県を産地とする。

「播州姫路には、保夜にかならずほやを食ふならひなりとか」「保夜」という一般名詞は、ホヤの当て字として以外にはないので、意味が解らない。叙述からは「夜を保つ」で宿直(とのい)番のことのようにもとれる。そこで同じ字を宛てるホヤにあやかって、警護の無事を祈るということか? いずれにせよ、ホヤに「保夜」の漢字を当てたのは後のことと考えてよく(後注「寄生」参照)、この意味不明の習慣は後付けである。姫路でのホヤの儀礼食の記載にも出逢わない。御存じの方、是非、御教授を!

「鬼畏」不詳。音で「キヰ」と読んでいるか。識者の御教授を乞う。当初は「つの」と読んで入水管と出水管を畏ろしい鬼の角に模して言ったものかとも推測したが、それらは直前で「口二つあり」と表現している以上、違う。すると、後述のようにナマコにもあるとすると、ホヤの外皮の皮革化いた部分にやや突出する疣状の突起物を指しているいるように思われて来、『あれは……そういえば……鬼の持っている金棒――鉄榨(てっさく:「榨」は絞りとる具。)のイボイボに、これ、似てるよなあ……』などと思ったり……。するとこの「鬼畏」はこれで「おどろ」とか「とげ」とか読んでいるのかも知れないなどと思ったり……。どんな情報でも結構である。よろしくお願いしたい。なお、荒俣宏「世界大博物図鑑 別巻2 水生無脊椎動物」の「ホヤ」の項にはマボヤには『「イボボヤ」という異名もある』とある。現代語訳では、「やや尖った疣」とした。

「蕈」「きのこ」と訓じていよう。

「鹽醋」「エンソ」又は「しほず」と訓じていよう。塩酢。

「寄生」これは「ほや」と読んでいるものと思われる。双子葉植物綱ビャクダン目ヤドリギ科ヤドリギ属ヤドリギ Viscum album に代表される植物のことを言っている。実はこの現在は「寄生木(やどりぎ)」と和名漢字表記するヤドリギ類は、古くは「寄生」と書いて「ほや」「ほよ」と呼称していた(呼名語源は不詳。識者の御教授を乞う)。

「むかしは海つ物のかゝるたぐひをば、すしといひけるにや」の部分は、ホヤを離れた「すし」「いすし」考となっている(こういう脱線が私藪野直史的で頗る楽しくなってくるのである!)。「すし」(現在の漢字表記「寿司」は京都で朝廷へ献上することを考慮したものとされ、江戸では「鮨」の、大坂では「鮓」の字が使用が主流である)。既に「延喜式」の中に年魚鮓・阿米魚鮓などの字が見える。「すし」の語源については江戸中期に編まれた「日本釈名」「東雅」などに載る、『その味が酸っぱいから「酸し(すし)」である』とする説が有力とされている(以上の部分はウィキの「寿司を参照した)。即ち、鮮度の落ちやすい海産物は酢締めにされ、それを食したり、呼称したりする際に、大衆が「海産物」を広く「すし」と呼んだとすれば、この喜多村の説は頗る説得力があるように思われる。末尾の「いすしも此例と聞ゆ」の「この例」とはまさにこうした汎用例のことを言っているのではあるまいか?(そのように現代語訳はした)

 

「枕雙紙に、名おそろしきもの、いすし、それを名のみならず、見るもおそろしといへるは海膽なるべし。いすしも此例と聞ゆ」「いすし」は「飯寿司」「飯鮨」で、本邦では非常に古くからあった乳酸発酵させて作る「なれずし」の一種である。海産物をある程度の期間、腐敗を防いで可食化するためには、こうした処理は頗る有効であるから、ある意味で、前注同様、「飯寿司化された海産物」=「海産物」(「今昔物語集」の私の好きなエピソードの一つに鮎のなれずしの話が登場するから水産物全般と言うべきとも思われる)の意味で用いられたと考えてよかろう。「枕草子」の当該箇所は、所謂、『ものづくし』の章段中の「名おそろしきもの」である、以下に示す(諸本により章段数が異なる。一四六又は一五三・一四八周辺を探られたい。私は萩谷朴校注の新潮日本古典集成本の第一四六段を底本とし、底本の各個改行特殊字配(段々に下がるよう表記されている)を大半無視して繫げ(グループ化されているところで改行としたが、やや疑問がある「生靈」は独立させた)、更に恣意的に正字化した)。

 

名恐ろしきもの。

靑淵(あをぶち)。谷の洞(ほら)。

鰭板(はたいた)。鐡(くろがね)。土塊(つちくれ)。

雷(いかづち)は、名のみにもあらず、いみじう恐ろし。暴風(はやち)。不祥雲(ふさうぐも)。戈星(ほこぼし)。

肘笠雨(ひぢかさあめ)。荒野(あらの)ら。

強盗(がうだう)、また萬づに恐ろし。濫僧(らんそう)、おほかた恐ろし。金持(かなもち)、また萬づに恐ろし。

生靈(いきすだま)。

蛇苺(くちなはいちご)。鬼蕨(おにわらび)。鬼野老(おにところ)。薔薇(むばら)。唐竹(からたけ)。

黥(いれずみ)。牛鬼(うしおに)。碇(いかり)、名よりも見るは恐ろし。

 

以上から分かるように、喜多村は最後の部分を誤って引用しているとしか思えない。清少納言は「恐ろしきもの」の最後に(但し、ここまではその名称が「恐ろしい」のであるが、この三つに限っては、その名称ではなく、そのものの具体な実態イメージが「恐ろしい」と言っている点で特異点である)、としては、「名前よりそのものの絵や実物を見るのがとっても怖い」ものとして、処罰としての「黥」、顔面に彫られた隈取のような刺青、牛頭人身で角を生やした地獄の獄卒牛頭(ごず)、そして両側に返しの鉤を持ったあの船の碇を挙げているのである。これらの形象への生理的嫌悪感は素直に理解出来る。

 ところが、これが喜多村の言うように「いすし」であるとすると、これは頗る意味不明となる。

 管見した限りでは、ここを「いすし」とするテクストを知らない(御存じの方は御教授を乞う)。喜多村氏には悪いが、草書の「か」「り」は「す」「し」に似る。これはもしかすると、「いかり」の崩し字を「いすし」と読み違えたものではあるまいか?

 

 なお、図の左には「長け五寸許」(たけごすんばかり:ホヤの高さ約十五センチメートル程)とある。]

 

◆やぶちゃん現代語訳

 

   ○保夜(ホヤ)

「土佐日記」に、『ほやのつまのいすし』という語句が登場する。「いすし」とは、本草書に載るところの「淡菜(たんさい)」のことを指している。「延喜式」の「主計式」の記載にも既に、『貽貝(いがい)と保夜(ほや)の交鮨(まぜずし)』と記されている。ホヤは明の博物書「雨航雜録」に「石勃卒(せきぼっそつ)」とあるのが本種である。九州沿岸に多く産する。筑前より例年、江戸に献上があると聴く。奧州では春から夏にかけてこのホヤを獲り、西国では秋から冬にかけて漁し、国によって漁獲する時節が相違すると聴いている。播州の姫路にては、各家などの宿直(とのい)の際には、必ず、このホヤを食う習慣があるとも聞く。江戸でも、たまに魚河岸にて見かけることがあるのは、あれは、どこの地方から来たれるものなのであろう。私も以前、これを食したことがある。その形状は全体に鞠のように丸く、上部に突出した口が二つあり、全体に色が赤く、また、各所にやや尖った疣(いぼ)があるのは、ちょうど海鼠(なまこ)のようで、その疣の間には紫色を帯びた硬い皮で出来た亀甲紋(きっこうもん)がある。株の下方には根が生えており、石の上に附着した個体などを管見すると、これはあたかも陸の茸(きのこ)が生ているのに似ている。上の皮を剥ぐと、中には白い肉がある。塩・酢に漬けて食うと、味も、これは海鼠と同じい。陸生植物である寄生木(やどりぎ)のことを古くより「ほや」と呼称するから――この根を張って丸い感じが如何にも寄生木と似ているがゆえに――この生物にも、同じ「ホヤ」という名を附けたものと考えられる。能登でも多く漁獲されて食料としていると聴き及んでいる。昔は海産の生物の、このような――魚とは形態の異なるところの有象無象の類いを――これ、「すし」と呼称していたのではなかろうか? 清少納言の「枕草子」にも、『名おそろしきもの、いすし、それを名のみならず、見るもおそろし』と述べる部分があるが、あれは察するに無数の刺を突きだした異形(いぎょう)の海胆(うに)を指して言っているのであろうと思われる。この「土佐日記」等に表われる「いすし」という語も、私はこれと同じ使用法であると考えている。

2013/04/18

北條九代記 北條時政入道の卒去 付 榎島參籠の奇瑞

      ○北條時政入道の卒去 付 榎島參籠の奇瑞

建保三年正月六日、北條遠江守時政入道、卒去せらる。先年、心ならず入道して、天下執権の職を辭し、伊豆國北條郡に引籠りておはせしが、去年の冬の末つ方より癰(よう)と言(いふ)物背中に出來て、腫(はれ)痛む事堪(たへ)難し。本道外科(ほんだうげか)の名醫を招き、補潟割灸(ほしやかつきう)の奇術を盡し、膿水(のうすゐ)を除ひ、肌肉(ひにく)を生ぜしむれども、更に寸效(すんかう)を奏せず、果(はたし)て死に給ひけり。行年七十八歳。一家繁昌の中に於て、一人無常の風に從ひ、閻浮(えんぶ)を辞して、黄泉(くわうせん)に歸(き)す。親疎愁歎の色を含み、貴賤哀傷の思(おもひ)を起す。送葬の營(いとなみ)、孝養の行(おこなひ)、誠に以て深切なり。抑(そもそも)北條家、年に隨て榮え、月を逐(おつ)て威光を増す。この事、故なきにあらず。昔、賴朝卿鎌倉草創の始め、北條時政味方となり、我が娘を合せて婿とし、度々(どゝ)の軍(いくさ)に大功を現(あらは)し、今、三代に及びて、將軍家の外祖たり。一門多く蔓(はびこ)りて、家、富榮(とみさか)ゆる事、云ふ計(ばかり)なし。往初(そのかみ)、時政、榎島(えのしま)に參寵し、三七日を経て家門の繁昌を祈りし所に、滿(まん)ずる夜の曉(あかつき)、緋(ひ)の袴(はかま)に、柳裏(やなぎうら)の衣著たる女房一人、時政が前に來りて仰せられけるは、「汝が過去世(くわこせ)には筥根(はこね)の法師たり。六十六部の法華經を書寫して、六十六ヶ國の靈地に奉納す。此功德、廣大にして、今又、人間(にんげん)に歸り生じたり。子孫、其德用を受け、日本を手に入れて、榮華に誇る家となるべし。若、又、非道あらば、家門、忽(たちまち)に亡ぶべきなり。よくよく愼(つゝしみ)行ふべし。疑(うたがひ)あらば、御經奉納せし靈地を見よ」とて歸り給ふ、其御姿、さしも美麗端正(びれいたんしやう)の粧(よそほひ)替りて、臥長(ふしたけ)二十丈計(ばかり)の大蛇と成りて、海中に入り給ふ。立ち給ひける御跡に鱗を三つ殘し給ふ、時政、願成就すと喜び、彼の鱗を取りて歸り、旗の紋にぞ押されける。北條家三つ鱗形(うろこがた)の紋、これなり。さて國々の靈地に人を遣して、見せらるゝに奉納筥のうへに、大法師時政(じせい)と書きたるにぞ、今俗名に時政と號しけるも、不思議の故ありとかや。

 

[やぶちゃん注:時政の卒去の事実は「吾妻鏡」巻二十二の建保三(一二一五)年一月八日の条によるが、附帯する遡る時政の江ノ島弁天での奇瑞については、「太平記」巻五の「時政榎島に参籠の事」に基づく。最早、政治的には抹殺された時政の死は、「吾妻鏡」でも、以下の通り、如何にもそっけない。過去の人となった彼を、それでもその最期で北条の始祖としてフィード・バックし、その濫觴のシーンを再現顕彰しようとする筆者は、「北條九代記」という本書のコンセプトを、正しく視ている。

○原文

八日戊辰。霽。伊豆國飛脚參。申云。去六日戌尅。入道遠江守從五位下平朝臣〔年七十八。〕於北條郡卒去。日來煩腫物給云々。

○やぶちゃんの書き下し文

八日戊辰。霽る。伊豆國より飛脚參じ、申して云はく、

「去ぬる六日戌尅、入道遠江守從五位下平朝臣〔年七十八。〕北條郡に於て卒去す。日來、腫物を煩ひ給ふと云々。

 

「癰(よう)」は、所謂、ブドウ球菌感染で生じた圧痛のある結節である「おでき」(医学的には癤(せつ)又は癤腫(せつしゅ)と呼び、ドイツ語では“Furunkel”(フルンケル)と呼称する)が皮下で多発し、それらが連続した、癤の集合体病巣を指す。癤よりも化膿が深く、瘢痕を残す。現在の医学的な癰は細菌性皮膚感染症としての皮下膿瘍よりは小さいもの、より浅在性なものをいうが、時政のそれは重い皮下膿瘍や悪性度の高い皮膚癌も射程に入れるべきかも知れない。メルクマニュアル 第18 日本語版の「せつおよび癰」の記載によれば、癤・癰ともに健康な若年成人に発症することがあるが、特に肥満者・免疫不全患者(好中球欠損症を含む)・高齢者に生じる方が多く、また糖尿病患者でも健康な若年成人より発症することが多いと推定されている(私もしばしば軽い同症状起こるのでこれは正しい)。集団発生の場合は比較的衛生状態の悪い密集地区に住む者や、強毒株の感染を受けた患者と接触した者の間で生じることがあるとし、発症素因としては皮膚又は鼻腔内における細菌のコロニー形成・高温多湿な気候・毛包の閉塞または毛包の解剖学的な異常が挙げられ、臨床像は結節又は膿疱で、壊死組織及び血性の膿汁を排出、発熱及び衰弱を伴うことがあると記されている。時政の場合、年齢やⅡ型糖尿病の発症可能性なども十分に窺え、単なる癤や癰であったとしても重症化した可能性がある。

「補潟」東洋医学の鍼灸の経絡治療に於いて「虚実補潟」という考え方があり、その療法を指す。生命力が低下した状態を「虚」、亢進した状態を「実」とし、虚には「補法(ほほう)」、実には「潟法(しゃほう)」を行うことによってバランスをとる。「補法」は気を補う又は気の多い他の場所から少ない場所に運んでくることを、「潟法」は余分な気を散じさせて平にすることを指すという(京都府向日市にある「うらさき鍼灸院の院長ブログ」の「経絡治療について」を参照させて戴いた)。

「割灸」新宿区高田馬場にある「福島鍼灸院」(院長福島賢治氏)のHP内にある「打膿灸について」の記載に、『大きい艾柱、切艾などを用いて皮膚表層を焦灼・破壊し、施灸部に膏薬や発疱薬を貼って皮膚の不完全開放創を持続的につくる灸法。江戸期~戦後の一時期までは、家伝灸としても行われていたが、昨今では一部の灸点所(弘法灸:東京都墨田区の遍照院灸点所、無量寺の灸:大阪市南区の無量寺など)を除いてほとんど行われなくなった』。『施灸局所は、通常、透明または淡白色の薄い膜が張ったような状態を呈する。化膿を起こすブドウ球菌やレンサ球菌などの細菌感染が発生すると、黄色の膿が排出する。打膿灸では、漿液性滲出物の排出を促進するが、黄色の膿汁は期待していないので、化膿時はその部を清潔に保つ』。『本灸法では、施灸時の強い灼熱痛、施灸後の化膿や発熱、瘢痕形成などをみるので事前に十分な説明を行い、必ず本人の理解・承諾を得てから実施する』とあり、また、ウィキの「灸」の歴史の記載にも『日本において鍼、灸、湯液などの伝統中国医学概念は遣隋使や遣唐使などによってもたらされた。灸は律令制度や仏教と共に日本に伝来したが、江戸時代に「弘法大師が持ち帰った灸法」として新たな流行となり、現在も各地に弘法の灸と呼ばれて伝わっている。また他にも「家伝の灸」として無量寺の灸、四ツ木の灸などがある。これらの灸法は打膿灸と呼ばれ、特に熱刺激が強く、皮膚の損傷も激しいため、あまり一般化していない。打膿灸は日本において腰痛や神経痛など様々な症状に用いられるが、実際のところは腫れ物(癰)などに用いたのではないかとも考えられる』とあって、まさに化膿性の癰に対して古い時代には専ら灸が施されていたことが分かる。また、癰が多発した癤の集合体で比較的広範に広がってゆく症状であるから、灸を一箇所ではなく病巣から周辺域に「分割」して据え、しかもその激烈な効果から推測しても相当な量の灸を小分けに「分割」して据えるものと考えられ、この「割灸」の「割」とはそのような施方を述べているのかも知れない。但し、ネット検索では「割灸」という熟語はヒットしなかった。識者の御教授を乞うものである。

「膿水を除ひ、肌肉を生ぜしむれども、更に寸效を奏せず」癰の膿を灸や外科的な切開術によって取り除き、化膿によって壊死した皮肉を切除して、一時的には皮膚を元の状態に戻すことが出来たものの、瞬く間に同箇所やその周辺部に化膿と腫脹が生じ、一向に治療効果が認められなかった、というのである。癰であったとすれば、時政のそれは新たな強毒株のブドウ球菌ででもあったのかも知れない。

 

 以下、「太平記」巻五の「時政榎島に参籠の事」を引く。底本は新潮日本古典集成本を用いたが、恣意的に正字化し、一部のルビを省略、読点を追加した。

 

   時政榎島に參籠の事

 

 時已に澆季(げうき)に及んで、武家天下の權を執(と)る事、源平兩家の間に落ちて度々(どど)に及べり。然れども天道は必ずみてるをかくゆゑに、あるいは一代にして滅び、或いは一世をも待たずして失せぬ。今、相模入道の一家、天下を保つ事、すでに九代に及ぶ。この事ゆゑ有り。

 昔、鎌倉草創のはじめ、北條四郎時政、榎島(えのしま)に參籠して、子孫の繁昌を祈りけり。三七日(さんしちにち)に當りける夜、赤き袴に柳裏(やなぎうら)の衣(きぬ)着たる女房の、端嚴美麗(たんげんびれい)なるが、忽然として時政が前に來たつて、告げていはく、「汝が前生は箱根法師なり。六十六部の法華經を書寫して、六十六箇國の靈地に奉納したりし善根によつて、再び此の土に生(うま)るる事を得たり。されば子孫永く、日本の主と成つて、榮花を誇るべし。ただし、その振舞ひ違ふ所あらば、七代を過ぐべからず。わが言ふ所、不審あらば、國々に納めし所の靈地を見よ」と言ひ捨てて歸りたまふ。その姿をみければ、さしもいつくしかりつる女房、忽ちに伏長(ふしだけ)二十丈ばかりの大蛇(だいじや)と成つて、海中に入りにけり。その跡を見るに、大きなる鱗(いろこ)を三つ、落とせり。時政、所願成就しぬと喜びて、すなはちかの鱗を取つて、旗の文にぞ押したりける。今の三鱗形(みついろこがた)の紋、これなり。その後、辨才天の御示現(ごじげん)にまかせて、國々の靈地へ人を遣はして、法華經奉納の所を見せけるに、俗名(ぞくみやう)の時政を法師の名に替へて、奉納の筒(ばこ)の上に「大法師時政(じせい)」と書きたるこそ不思議なれ。されば今、相模入道七代に過ぎて、一天下を保ちけるも、榎島の辨才天の御利生、またあは過去の善因に感じてんげるゆゑなり。今の高時禪門、すでに七代を過ぎ、九代に及べり。されば亡ぶべき時刻到來して、かかる不思議の振舞いをもせられけるか、とぞ覺えける。

・「澆季」「澆」は軽薄、「季」は末の意で、道徳が衰えて乱れた世。末世。

・「天道は必ずみてるをかくゆゑに」宇宙の道理としての天道にあっては、月が「盈(み)て」(満ち)れば、必ず「虧(か)く」(欠け)ることから分かるように。「易経」に説かれている。

・「三七日」二十一日目。

・「柳裏」裏柳。襲(かさね)の色目の名。表は白、裏は萌葱(もえぎ)の「柳襲」の一種で、春から初夏に用いる。

・「伏長二十丈」横たわって延びた全長が凡そ六十メートル余。

・「かかる不思議の振舞いをもせられけるか」主語は北条高時。本引用部は「相模入道田樂をもてあそび幷(ならび)に鬪犬の事」という、「太平記」の中でもかなり知られた北条高時の奢侈乱行(御所での田楽無礼講に鴉天狗が出現して「天王寺のやえうれぼしを見ばや」と囃すシーンを含む)の話の直後に挿入されている。]

栂尾明恵上人伝記 18 明恵の与り知らぬ勝手に神憑り託宣の話

 又其の比(ころ)、春日の御社に御神樂(みかぐら)のありける次(ついで)に、少き巫女(みこ)の有りけるにつき給ひて、此の宗(しゆう)高雄に講ぜらる。誠に深義(しんぎ)を述ぶること昔に等し。嬉しきかな嬉しきかな、誰々も行きて聞け。又明惠上人をば我が太郎と思ひ、解脱(げだつ)上人をば我が次郎と思ふ、と御託宣ありけるとて、奈良より來れる學侶語り申すこと披露しけり。又上人の御事に付きて、連々の御託宣あり。事多きに依つて略す。

[やぶちゃん注:「解脱上人」法相宗の僧貞慶(じょうけい 久寿二(一一五五)年~建暦三(一二一三)年)。藤原信西を祖父に持つ。号を解脱房、勅謚号を解脱上人と言った。笠置寺上人とも呼ばれた。平治の乱では祖父は自害、また彼の父藤原貞憲も配流された。生家が没落した幼い貞慶は望まずして、興福寺に入り、十一歳で出家、叔父覚憲に師事して法相・律を学んだ。寿永元(一一八二)年には維摩会(ゆいまえ:興福寺において毎年十月十日より七日間に亙って行われる「維摩経」を講説する大会。)の竪義(りゅうぎ:「立義」とも書く。「リュウ」は慣用音で、立てるという意味。義を立てる・理由を主張するということを指す。諸大寺の法会に当たって行われた学僧試業の法に於いて論題提出僧すなわち探題より出された問題につき、自己の考えを教理を踏まえて主張する僧、竪義者(りゅうぎしゃ)。竪者(りつしや)・立者とも書く。)を遂行し、御斎会・季御読経などの大法会に奉仕し、学僧として期待されたが、僧の堕落を嫌って建久四(一一九三)年、以前から弥勒信仰を介して信仰を寄せていた笠置寺に隠遁、以後、般若台や十三重塔を建立して笠置寺の寺観を整備する一方、龍香会を創始して弥勒講式を作るなど弥勒信仰を一層深めた。元久二(一二〇五)年には「興福寺奏状」を起草、法然の専修念仏を批判して、その停止を求めてもいる(そうした人物の言行をさえ引く「一言芳談」の懐の広さを見よ)。承元二(一二〇八)年には海住山寺に移り、観音信仰にも関心を寄せた(以上は主にウィキの「貞慶」を参照した)。]

沢庵宗彭「鎌倉巡禮記」 26

 おふぎの谷におりゐてみれば、あふぎがたにほりたる石の井あり。名水とはいへども夏とてもむすびつべうも覺えず。山のかたにもみぢ色よくそめてつまくれなゐのあふきがやつとぞ見し、

  ゆふかほのしろきあふきのやつなれや つまこかしたるやまのもみち葉

[やぶちゃん注:「おふぎの谷」扇ヶ谷(おおぎがやつ)。

「あふぎがたにほりたる石の井」扇ヶ谷の飯盛山の麓の個人の敷地内(本田邸)にある鎌倉十井の一つ。扇の井。「鎌倉事典」によれば、『井戸は底まで、開扇状に掘り貫かれ、十井の中でも凝った珍しいものといえる。名の由来は、井戸形が開扇状であるためとか、この谷戸が「扇ケ谷」とよばれるため、あるいは源義経の妾静御前が舞扇を納めたためなどといわれている。昔は「亀ケ谷坂」を越えてきた旅人たちの大切な飲み水であったという。「扇ノ井」の銘のある板碑も本田家に伝わる』とある。しかし、沢庵が訪れた際には、すでに水質が低下していたようである。

「ゆふかほのしろきあふきのやつなれや つまこかしたるやまのもみち葉」の上句は「源氏物語」の「夕顔」の冒頭で、夕顔の咲く家の女に興味を持った源氏が、見知らぬ夕顔の花にことよせて、惟光に花を摘らせに行かせた折り、女童(めのわらわ)が、

白き扇のいたうこがしたるを、「これに置きて参らせよ。枝も情けなげなめる花を」とて取らせたれば、

(白い扇で、たいそうよき香を薫きしめたのをさし出だし、「これに載せてその御方に奉って下さいまし。はかない花は勿論のこと枝振りも、如何にも風情のなさそうな花ですもの。」

と言って惟光にとらせたので、)

というシーンをインスパイアした和歌である。]

海産生物古記録集■1 「立路随筆」に表われたるカツオノエボシの記載

 新たな野人の荒野で、僕の偏愛する海産動物の古記録の渉猟し始めようと思う。時にはこの孤独な奇人藪野直史と、淋しい人気のない机上の幻の海浜で、ともに漁(すなど)ってみては如何?――

「立路随筆」に表われたるカツオノエボシの記載

[やぶちゃん注:江戸中期の江戸(内容より推定)の俳人林百助(立路は「りつし」と読み、彼の俳号。それ以外の彼の事蹟は未詳)の書いた一五六条からなる「立路随筆」(成立年未詳)に所収。底本は吉川弘文館昭和四九(一九七四)年刊「日本随筆大成 第二期 18」所収の「立路随筆」を用いたが。「ㇾ」は返り点。カツオノエボシについての図入り記載では嚆矢の部類に属するものと思われる。]

一鰹の烏帽子 三浦三崎の浦に、此烏帽子流寄時は、鰹烏帽子を脱ぐと云て、夫より初鰹を釣に出るなり。此えぼし寄らざる内は、鰹取に不ㇾ出由。
 其形如ㇾ此

Katuonoebosirisi

色白ク水月(クラゲ)ニ似タリ、紉ノ如キ物紺色ニ光ル、針アリ、至テ毒アリ、人手ヲ著レバ忽痛ミハルヽト云。

◆やぶちゃん注
 底本では「其形如ㇾ此」が一字下げで「其形」と「如ㇾ此」が二行左右に配され、その下に図があって、更にその下に「色白ク水月ニ似タリ、紉ノ如キ物紺色ニ光ル、針ア」(改行)「リ、至テ毒アリ、人手ヲ著レバ忽痛ミハヽト云。」とやはり左右に二行で配されている。それにしても――このトンパ文字の如きぶっとんだ図――いいねえ!
・「鰹の烏帽子」海棲動物中で思いつく種を一つ挙げよ、と言われたら、私がまず真っ先に思い浮かべる種といってよい。それほど海産無脊椎動物フリークの私がマニアックに好きな生き物である。刺胞動物門 Cnidaria ヒドロ虫綱 Hydrozoa クダクラゲ目 Siphonophora 嚢泳亜目 Cystonectae カツオノエボシ科 Physaliidae カツオノエボシ属 Physalia カツオノエボシ Physalia physalisLinnaeus, 1758)は英名を“Portuguese Man O' War”(単に“Man-Of-War”とも)他に“Bluebottle”・“Bluebubble”などと呼ぶ。本邦では所謂、刺毒の強烈なクラゲの謂いとして「電気クラゲ」があり、これは多くの記載で種としては箱虫綱箱虫目アンドンクラゲ科アンドンクラゲ Carybdea rastoni 及びカツオノエボシ Physalia physalis を指すと明記するのであるが、クラゲ類はその殆んどが強弱の差こそあれ、刺胞を持ち、毒性があるから、「電気クラゲ」でないクラゲは極めて少数と言ってよいし、感電的ショックを受けるというのなら、二種とは異なる、鉢虫綱旗口クラゲ目オキクラゲ科ヤナギクラゲ属 アカクラゲ Chrysaora pacifica や、同じ旗口クラゲ目の、ユウレイクラゲ科ユウレイクラゲ Cyanea nozakii 及び オキクラゲ科アマクサクラゲ Sanderia marayensis カツオノエボシと同じ嚢泳亜目に属する繩状の、ボウズニラ科ボウズニラ Rhizophysa eysenhardtii なんぞは彼らに優るとも劣らぬ強烈なる「電気クラゲ」である。即ち、「電気クラゲ」とは、実際には『夏期の海水浴場で刺傷するケースが圧倒的に多い』アンドンクラゲ Carybdea rastoni 及びその仲間(最強毒を保持する一種として知られるようになった、沖縄や奄美に棲息する箱虫綱ネッタイアンドンクラゲ目ネッタイアンドンクラゲ科ハブクラゲ Chironex yamaguchii ――本種も私の偏愛するクラゲであるが――大雑把に言えばアンドンクラゲを代表種とするアンドンクラゲを含む立方クラゲ目(Cubomedusae)に属し、科名を見てもお分かりの通り、アンドンクラゲの仲間であると言って差し支えないのである)が「電気クラゲ」として広く認識されている傾向が寧ろ強いと言ってよいと私は思っている。閑話休題。カツオノエボシ Physalia physalis の属名“Physalia”(フィサリア)はギリシア語で「風をはらませた袋」の意で烏帽子状の気胞体の形状に基づき、英名の“Portuguese Man O' War”や“Man-Of-War”の「(ポルトガルの)軍艦」とは、気胞の帆を張ったポルトガルのキャラベル船(三本のマストを持つ小型の帆船であるが高い操舵性を有し、経済性・速度などのあらゆる点で十五世紀当時の最も優れた帆船の一つとされ、主にポルトガル人・スペイン人の探検家たちが愛用した)のような形状と、本種の発生源がポルトガル沿岸でそれが海流に乗りイギリスに漂着すると考えられた(事実どうかは不明)ことに由来する。“Bluebottle”(青い瓶)や“Bluebubble”(青い泡)も気胞由来。和名「カツオノエボシ」は鰹が被っていた烏帽子で、鰹漁の盛んな三浦半島や伊豆半島では、本州の太平洋沿岸に鰹が黒潮に乗って沿岸部へ到来する時期に、まずこのクラゲが先に沿岸部に漂着、その直後に鰹が獲れ始めるところから、その気胞を祝祭的に儀式正装の烏帽子に見たて、カツオノエボシと呼ぶようになった。また、今直ぐに掘り出せないのであるが、かつて読んだ本に、地中海で(イタリアであったか)、本種を採って引っ繰り返したその形状が女性の生殖器にそっくりであるところから、漁師たちはそうした猥雑な意味での呼称(呼称名を思い出せない。「海の婦人」だったか、もっと直接的な謂いだったか)をしている、という外国の文献を読んだ。当該呼称が確認出来次第、掲載したい(因みにイタリア語の隠語では男性器を「鰹(カツオ)」(!)と言うらしい)。これは美事にマッチするネーミングではないか!
・「紉」の字は厳密には「剱」を(いとへん)に替えた字体で、音は「ジン・チン・ニン」、恐らくは「なは(なわ)」と訓じているものと思われる。一重の縄のことである。

◆やぶちゃん現代語訳
一 鰹(かつお)の烏帽子(えぼし) 三浦三崎の浦に、この烏帽子が流れ寄る時には、「鰹、烏帽子を脱ぐ」と言い習わして、その折りより、初鰹を釣りに出るという。この烏帽子が沿岸に寄って来ないうちは、鰹漁には出漁しない由である。
 その形は以下の通り。
 〔図〕
 総体の主部の色は白く、水月(くらげ)に似ており、一重の縄に似たものが下部に垂れ下がっており、それが紺色に光る。そこには針があって、これには非常に強い毒が含まれている。人が手を触れると、瞬時に激痛が走り、腫れ上がるということである。

櫻 萩原朔太郎

教え子の誕生日に――



 櫻

 

櫻のしたに人あまたつどひ居ぬ

なにをして遊ぶならむ。

われも櫻の木の下に立ちてみたれども

わがこころはつめたくして

花びらの散りておつるにも涙こぼるるのみ。

いとほしや

いま春の日のまひるどき

あながちに悲しきものをみつめたる我にしもあらぬを。

 

[やぶちゃん注:「純情小曲集」(大正一四(一九二五)年八月新潮社刊)より。冒頭の「愛憐詩篇」の四番目に配された。以下に『朱欒』第三巻第五号・大正二(一九一三)年五月号掲載の初出を掲げる。こちらは無題である。

 

櫻のしたに人あまたつどひ居ぬ。

なにをして遊あそぶならむ

われも櫻の木の下に立ちてみたれども

わがこゝろはつめたくして

花びらの散ちておつるにも涙こぼるゝのみ

いとほしや

いま春の日のまひるどき

あながちに悲しきものをみつめたる我にしもあらぬを

 

「散ちて」はママ。]

耳嚢 巻之六  其調子揃時弱きは破るゝ事

 其調子揃時弱きは破るゝ事

 

 熊本領に座頭ありて音律に妙を得て、三味線を以(もつて)、何の調子にても合せけるが、或時小兒の障子を敲いて音しけるを、あれにも調子合(あふ)べしやと人のいひしに、合(あは)せ申さんといひし故、彼(かの)小兒に替りて大人の其(その)障子ほとほと打(うち)ける音に、座頭三味線とりて調子を合せけるに、其調子の氣合、言葉にも述(のべ)がたし。しかるに大人の其心してうつ障子なるに、暫く程過(すぐ)れば障子の紙はことごとく裂(さけ)しと、西國の人かたりしをしるしぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:話柄上の有意で密接な関係性は認められないはずだが(前者は与力の話の又聴きで、こちらは西国出身の関係者)、何故か熊本で連関している。シンクロによる共鳴効果か、特殊な倍音の物理的な衝撃波的効果か。

 

 名人の演奏はその調子が揃った瞬間に弱い対象を容易に破壊し得るという事

 

 熊本領に一人の座頭が御座って、音律に妙を得た達人にして、三味線を以って、どのようなおかしなる変拍子であっても、これ、その調子を合わせて三味線を弾くと申す。

 ある時、彼が訪ねた先にて主人(あるじ)と語ろうて御座った折り、すぐ近くの戸の辺りにて、その家(や)の主人の子(こお)が、障子を敲いて遊んでおる音がして御座った。

 それを聴いた主人の曰く、

「――例えば――貴殿、あの音にも、これ、三味の調子を合わすこと――出来ると申すか?」

と質いたゆえ、

「――されば――合わせ申そうず。――」

と即座に答えたれば、主人は、かの子を奥にやって、主人自から、その障子を、

……ほとほと……

……ほとほととんと……とんととほとと……ほととん……

と如何にも乱拍子にて打って御座った。

 と、その音に、かの座頭、徐ろに三味線を執っては調子を合せた――

いや!

その調子の、これ、絶妙なる合わせ方たるや!

これ!

もう、言葉にてはとても、述べ難きものにて御座っての!――いやいや、その実を、これ、方々へお聴かせ出来ぬは、まっこと! 残念至極じゃて!――

――因みに

――ところが

――大の大人が、その座頭の神妙なる三味の合いの手を意識しつつ――この時は……もう、大方、お分かりになられて御座るとは思わるるが、実は、半ばはその三味の調子をわざと崩してやろうぐらいの思いも強う、これ、働いて御座ったが……打ったるところの――この障子――まだ張り替えたばかりの新品で御座ったそうじゃが――これ――この出来事の二、三日後――敲いたところだけにてはなく――一つ戸のその総ての障子の紙が――これ、自然――悉く――ぼそぼそになって裂け破れてしまっておったと申す……

 

 これは熊本所縁の、西国渡りの御仁より聴いたものを書きとめておいたもので御座る。

自畫像 萩原朔太郎

 

 

 

 自畫像

 

 

やさしく我の生くる日に

 

やさしく我の瞳を轉ず

 

ひとみを轉ずうみのうへ

 

ひとみを轉ずきみのうへ

 

またもろもろ魚鳥のうへ

 

われのあかるき美しき

 

われのするどきいぢらしき

 

われの額とわれの唇

 

われの心とわれの胸われの思は遠くして

 

われの愁はいや深し

 

われのみひとりしみじみと

 

われのみひとり血をながす

 

[やぶちゃん注:底本第二巻に所収する「習作集(哀憐詩篇ノート)」(「習作集第八巻」「習作集第九巻」と題されて残された自筆ノート分)の「習作集第九巻(一九一三、九)」所収(この二巻、巻数とクレジットは時系列ではない)。なお、原稿は後ろから二行目が『われのみひとみしんじみに』とあるが、底本の編者による補正された本文を採った。]

 

 

あをい狐 大手拓次

 あをい狐

さかしい眼をするあをい狐よ、
夏葦(なつあし)のしげるなかに
おまへの足をやすめて、
うららかに光明の心(しん)をきる。
草間(くさま)の風を、
その豊麗な背にうけよ、背にうけよ。

鬼城句集 春之部 鬘草

鬘草   鬘草かむつて遊ぶ童達

[やぶちゃん注:「鬘草」は「かもじぐさ」(「かづらぐさ」とも読むが採らない)で、イネ目イネ科エゾムギ属オニカモジグサ変種カモジグサ Elymus tsukushiensis var. transiens。本邦では道端でごく普通に見られる。大きめの小穂をつけた細い穂がたれ、また小穂に長い芒が出るのが目立つ。花期は五~七月、穂は茎の先端から伸びて立ち上がり、先端は弓型に垂れる。穂状花序で茎に沿ってやや間を開けて柄のない小穂をつける。小穂は軸に沿うように上向きになり、長さは一五~二五ミリメートル、多少平坦なくらいで細長く五~一〇の小花を含む。色は緑色で粉を吹いたように白く、部分的に紫を帯びるのが普通。頴(えい)の先端から伸びる芒(のぎ)は長さ一・五~三センチメートルで多くは紫を帯びる。芒は穂の先端方向へすんなりと伸び、乾燥しても反り返らない(以上はウィキカモジグサに拠る)。名は本句にあるように初夏の青紫色を帯びた花と黒っぽい頴が伸びているものを採って束ね、付け髪(かもじ)に擬えて子どもが髪に刺して遊んだことに由来する。]

2013/04/17

耳嚢 巻之六 奸婦不顧恩愛事

 奸婦不顧恩愛事

 

 文化元子年七月盆中、ある與力を勤る人、菩提所淸障寺へ佛參して墓所に至りしに、歷々と見ゆる尤(もつとも)ら敷(しき)武士、未(いまだ)石塔も不立(たてざる)塚の前にて何歟(か)あるが如く口説(くどき)て、殊外(ことのほか)愁傷の體(てい)、數行(すうかう)の涙の樣子故、其脇を過(すぎ)んもいかゞと咳ばらひなどしければ、彼(かの)侍涙を拂ひて、暫く石牌(せきはい)にむかひて居(をり)し故、彼與力も盆拜(ぼんはい)をわりて立(たち)歸る頃、殊外暑(しよ)も強く候故、愛宕(あたご)の水茶屋に腰うちかけて休み居しが、彼侍も同じく來りて、水茶屋に腰うちかけぬる體、國家(こつか)の家來と見へて若黨抔兩人召(めし)連れたるが、與力を見て、扨々先刻は淸障寺墓所にて、侍に不似合(にあはざる)、未錬の落涙の體を御目にかけ、はずかしく存(ぞんじ)候と申ける故、何ぞ左存可申(さぞんじまうすべき)、御愛子(ごあいし)抔を失はれし故ならんと尋(たづね)しに、御察しの通り、四歳になりし娘を失ひしが、右の娘は某(それがし)が命に代りしもの故、其愁傷やみがたく、先刻の體なるといひて、いろいろ世の中のはかなき事抔咄し合けるが、何をか隱さん、我等は熊本家中にて、當春主人用向(ようむき)にて在所へ罷越(まかりこし)、當六月歸りしに、其日は家中知音(ちいん)一族も歸府を悦びて祝し、夜に入(いる)迄酒飮(のみ)て、客も散じける故やがて臥しなんと、一間へ床とらせけるに、四歳の娘、何か某をとゞめ側を不放(はなれざる)故、一所に臥(ふせ)り可申(まうすべし)とてともに床の内へ入れしに、彼(かの)娘片言(かたこと)に、かゝとゝを切ると、ひたものいひし故、いかなる事やと不思議に思ひしに、彼娘は寢入たる故、某も枕をとりしに、何か忍(しのぶ)體の音せし故、心を付(つけ)て娘は片脇(かたわき)へうつし、心をしづめて見し所、蚊帳の釣手(つりで)を四方切落(きりおと)し屛風を押倒す樣子故、密(ひそか)に寢間を拔出(ぬけいで)て枕刀(まくらがたな)を取居(とりをり)しに、やがて右屛風の上へ乘りて、刀を以(もつて)、屛風蚊帳越しにさし通すものありし故、拔打(ぬきうち)に切りしに、大伽裟(おほげさ)に打(うち)はなしける間(あひだ)、盜賊忍入(しのびいり)たり、出合(であへ)と呼(よばは)りしに、召仕(めしつか)ひ共(ども)火を燈し來(き)、娘も右の物音にて目覺(めざめ)、起出(おきいで)しを、妻成(なる)女、娘を捕へ、おのれ口走りたるならんと、九寸五分(くすんごぶ)にて娘のむなもとを突通(つきとほ)す故、是又其席にて妻を及切害(せつがいにおよび)、扨又最初の死骸を改めしに、召仕ひの若黨なり、全右(まつたくみぎ)若黨と妻姦通して、我を盜賊の所爲(しよゐ)の體にて殺しなんとの巧成(たくみなる)べし、彼娘なかりせば、某は姦婦姦人の爲に殺されんと存(ぞんじ)候故、今日娘の墓にまふで、思はず未鍊の歎きをなせしを、御身の目にかゝりしとかたりしが、名は不問(とはざり)しが、恐ろ敷(しき)女もあると、彼與力が許へ來れるものに、語りしとなり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:感じさせない。この話柄、姦婦の非情無慙なることよりも、頑是ない満三才の娘の誠心と人畜生たる鬼母による惨殺の悲劇、それを傷む父の涙こそが話柄の眼目である。内容の極めてしみじみとして良質なコントであるだけに、標題が今一つ気に入らぬのである。

・「奸婦不顧恩愛事」は「かんぷおんあいをかへりみざること」と読む。

・「文化元子年七月盆中」「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年八月であるから、一月前の出来事である。

・「淸障寺」底本には「障」の右に『(淨カ)』と注する。清浄寺というと綱吉が寵愛した側室お伝の方の父の菩提を弔うために創建した覚了山清浄寺世尊院があるが、これは駒形村(文京区千駄木)で、次に登場する「愛宕」(港区愛宕山)とは、余りにもかけ離れている。ただ、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版でも実は『清浄寺』である。しかし乍ら、長谷川氏はこの注に、『後文に愛宕の水茶屋があるから、万年山青松寺』ではないか、と推測されておられる。青松寺(せいしょうじ)は、ウィキの「青松寺」によれば、東京都港区愛宕二丁目にある曹洞宗の寺院で、山号は萬年山(ばんねんざん)と読み、江戸府内の曹洞宗の寺院を統括した江戸三箇寺の一つで、太田道灌が雲岡舜徳を招聘して文明八(一四七六)年に創建、『当初は武蔵国貝塚(現在の千代田区麹町周辺の古地名)にあったが、徳川家康による江戸城拡張に際して現在地に移転した。しかし移転後も長く「貝塚の青松寺」と俗称されていた。長州藩、津和野藩などが江戸で藩主や家臣が死去した際の菩提寺として利用した』。私も長谷川氏の見解を採る。現代語訳では勝手に「青松寺」とさせてもらった。

・「愛宕」愛宕山。東京都港区愛宕にある丘陵で、標高は二五・七メートル。山上にある愛宕神社は江戸の武士が深く信仰し、山頂からの江戸市街の景観の素晴らしさでも有名な場所であった。参照したウィキの「愛宕山」によれば、慶長八(一六〇三)年にこれから建設される江戸市街の防火のため、徳川家康の命で祀られた神社であったが、「天下取りの神」「勝利の神」としても知られ、各藩武士たちは地元へ祭神の分霊を持ち帰り各地で愛宕神社を祀った、とある。

・「未鍊」底本には「鍊」の右に『(練)』と補正注がある。終わりの方にある「未鍊」も同じ。

・「熊本家中」熊本藩。肥後藩とも呼ばれる。五十四万石。文化元(一八〇四)年当時の藩主は細川斉茲(なりしげ)。ウィキの「熊本藩」によれば、同藩『には上卿三家といわれる世襲家老がおかれていた。松井氏(まつい:歴代八代城代であり、実質上の八代支藩主であった)・米田氏(こめだ:細川別姓である長岡姓も許されていた)・有吉氏(ありよし)の三家で、いずれも藤孝[やぶちゃん注:細川藤孝(ふじたか)。細川家先祖で戦国大名として知られた細川幽斎のこと。]時代からの重臣である。そのほか一門家臣として細川忠隆の内膳家と、細川興孝の刑部家があった。支藩としては、のちに宇土支藩と肥後新田支藩(のち高瀬藩)ができた』とあり、「歷々と見ゆる尤ら敷武士」であるなら、もしかすると、この悲劇の武士は、ここ挙げられた中の一族の家士、いや、この一族の誰彼ででもあったのかも知れない。

・「大伽裟」底本には「伽」の右に『(袈)』と補正注がある。

・「九寸五分」は本来は鎧通しと呼ばれる刃渡り約二十九センチメートルの短刀を指すが、ここでは妻が用いているので、女性が護身用に帯にさしたもっと短い短刀、懐剣のことを指す。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 鬼畜の姦婦の父子の恩愛に聊かの情も恥も持たざる事

    ――若しくは父を救わんがために自らの命を落とした頑是ない三歳の少女の物語

 

 文化元年子年(ねどし)七月の盆の頃、ある与力を勤むる者、菩提所の青松寺(せいしょうじ)へ参詣致いて墓所へと参ったところ、相当な御身分とお見受け申す御武家が、未だ石塔も建っておらぬ新仏(にいぼとけ)の塚の前にて、訳ありにて、何事かを霊前に語っては、殊の外、愁傷の体(てい)にて御座って、果ては数行(すうこう)の涙をさえ流しておらるるところに出食わしてしもうたと申す。

『……あの脇を、全くそ知らぬ振りを致いて通り過ぐるも、これ、如何なものか……』

と存じた与力、わざと咳払いなんどを致いて、通り抜けようと致いた。

 すると、その声に気づいたかの侍は、涙をうち拭って御座ったと申す。

 与力は、その後、自家の墓を参り、そのところより、見るともなしに先の御武家を窺ってみると、暫らく、その仮に立てた小さき石の牌(はい)に向こうて、凝っと佇んで御座ったが、心に残って御座ったと申す。

 さて、かの与力も盆の参りを終えて寺を後に致いたが、丁度、その日は、殊の外、暑さも暑し、やりきれぬ程の炎暑にて御座ったれば、愛宕山(あたごやま)下の水茶屋の縁台に腰を下ろして、一休みしておったところが、かの先の侍も、たまたま同じ道を通って、その同じ水茶屋の、近くの縁台に腰を下ろして御座った。

 見たところ、何処(いずこ)かの地方の大藩の御家来と見えて、若党などを二人ほど召し連れておられた。

 その侍が当の与力を見掛け、

「……さてさて……先刻は青松寺墓所にて、侍に似合わざる、未練落涙の体(てい)、お目に掛け、お恥ずかしゅう御座った。……」

と申したゆえ、

「――いや、なにを申されます。御愛子(ごあいし)など、亡くされたものででも御座いましょう。……」

と返したところ、

「……お察しの通り、四歳になりました娘を失(うしの)うて……その娘は……某(それがし)の命に代わって……命を落といたものにて……御座ったればこそ……その愁傷止み難く……先刻の体(てい)たらくにて御座った。……」

と応えられた。

 それから暫くは、人の世の如何にも儚き無常のことなんど、形ばかりに言い交してはお茶を濁して御座ったが、ふと、その侍が語り出だいた。……

 

 ……何をか隠しましょうぞ……我等は熊本藩御家中にて、この春、主人用向きにて在所熊本へ罷り越し、先月の六月に帰府致いた者で御座る。……帰りついたその日は、家中はもとより、知音(ちいん)一族なんども無事の帰府を悦びて祝いを致し、夜(よる)に入るまで酒宴となり申した。……やっと客どもも散じたゆえ、さても一寝入り致そうずと、一間へ床とらせましたところ……四歳になる我が娘が……これ、何やらん、某(それがし)を頻りに寝かすまいと致いて……これ、一向に傍らを放ざれば、永の留守を致いて御座ったゆえ、どうにも淋しゅうて仕方なかったものであろうと、

「――さても――共寝(ともね)致そうぞ。」

と、ともに床の内へ入れて臥して御座った。……

……ところが……

……かの娘、片言(かたこと)にて、

「――かかさまが――ととさまを――きる……」

と、頻りに訳の分からぬことを申すによって、

『……はて、これは一体、如何なる謂いか……』

と不思議に思うては御座ったが、かの娘、すうっとそのまま、我が抱いた懐にて、これ、寝入って御座ったゆえ、某(それがし)も枕を取って眠らんと致いた。……

……暫く致いて……ふと目覚めた……何か、忍ぶ体(てい)にて、部屋へ近づいて参る幽かな音が致いた……されば用心致いて、寝入っておる娘は床の片脇(かたわき)の方へと静かに移し、心を鎭めて、闇の中を覗って御座ったところ……何者かが部屋に忍び入って御座った……そうして……部屋の四隅の蚊帳の釣手(つりで)を切り落いて、その上に屛風を押し倒さんとする気配なればこそ……そっと先方に気づかれぬよう、身を平(ひら)に平に致いたまま、そっと寝床を抜け出でて、護身に置いて御座った枕刀(まくらがたな)を執って闇の中に凝っとして御座った。……

――と!

バサバサッ!

と蚊帳が落ち、

バン!

と、屏風がうち倒されかと思うと、

その屏風の上へ飛び乗って、太刀を以って、屛風蚊帳越しに、力任せに刺し通す人影を見た。――

即座に、我らも手にした太刀を引き抜き、抜き打ちに、その影を切った。――

 袈裟懸けの一太刀の手応えのあればこそ、

「盜賊が忍び入った! 出会え! 出会えっ!」

と呼ばわったによって、召使どもも火を燈して走り来たる。

 部屋の隅に御座った娘も、この激しき物音に目を醒まして起き出で、廊下に佇んで御座った。

――と!

我らが妻なる女――

我らが娘を捕えると――

「おのれッ! よくも! 口走ったなアッ!」

と、おぞましき叫び声を挙ぐるや!

懐剣――引き抜き――

それで――我らが娘の――

胸元を!

ズン!

――と!

突き通しおった……

されば我ら――

即座にその場にて妻をも一刀のもとに斬り殺して御座った。……

 ……さてもまた……最初に斬った死骸を明りで照らし改めてみたところが……

これ――

親しく召し使(つこ)うておった若党で御座った。……

 ……全く……この若党と我が妻……以前より秘かに姦通致いており……我らを……押し込みの盜賊に襲われた体(てい)にて……これ、謀殺致さんとする悪巧みででも……これ、御座ったものらしゅう御座った。……

 ……さても、かの娘がおらなんだら……某(それがし)は、これ、かの姦婦姦人がために殺されて御座ったろうと思わるればこそ……今日……帰らぬ愛しき娘の墓に詣で……思わず……未練の歎きをなしてしもうて御座った。……それが御身の目にとまって御座った……我らが涙の……真意で御座る…………」

 

「……その御武家様の御名(おんな)は、これ、障りもあろうかと敢えて問わずに御座いましたが……いや……それにしても、恐ろしき女もあるもので御座います。……」

とは、その与力自身が彼のところへ訪ねて来た者――それが、たまたま、また私の知音(ちいん)でもあった――に、語って御座ったと申す話である。

北條九代記 將軍實朝民部大夫が家に渡御 付 行光馬を戲する歌

 

      ○將軍實朝民部大夫が家に渡御 付 行光馬を戲する歌

 

同じき十二月十九日夜の明方より雪降りて、山々峯々、白妙(しろたへ)に、木々の稍は花を抽出(ぬきい)で、白銀(びやくごん)世界もかくやらんと面白くぞ覺えし。將軍實朝卿は、山家(さんか)の雪の風景を御覽ぜんとて、狩野(かの)民部〔の〕大夫行光が宅(いへ)に渡御し給ふ。行光俄の事なれども、盃酒(はいしゆ)を調へ、形(かた)の如くの饗應(あるじまうけ)をぞ致しける。山城〔の〕判官行村、蔵人〔の〕大夫朝親、山〔の〕內刑部〔の〕大夫經俊以下御供に候じて、夜に入りければ、和歌管絃の御遊宴ありて、更過(ふけすぐ)る程に還御あり。行光、大に喜び、奥州二戶より出つる驪(くろ)の龍蹄(りうてい)を獻じたり。翌日その馬を御覽するに、鬣(たてがみ)の上に結び付けたる物あり。取らせて御覽すれば、

  この雪を分けて心の君にあれば主(ぬし)知る駒(こま)の例(ためし)をぞひく

將軍家、數返(すへん)御詠吟あり。行光が志優しく思召さるゝ由、御感ありて、御自筆を染められ、御返歌をぞ遣はし下されける。

  主知れと引きける駒の雪を分けば賢きあとに歸れとぞ思ふ

御使內藤馬允(のじよう)知親、是を行光に渡しければ、民部大夫三度頂戴し、家の寳と定めたり。

 

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻二十一の建保元(一二一三)年十二月十九日と二十日の条に基づく。山家の雪景色の中の詩歌詠唱と管弦の音(ね)、白銀の篝火に映える「驪」(黒馬)と、モノクロームの映像美が頗る美しい。この他愛もない話ながら、筆者があえてこれを配したのは、ひとえにこのヴィジュアル感覚によるものであろう。「吾妻鏡」の中でも、悲劇の歌人将軍実朝を哀憐するように挿入される歌物語的なシークエンスである。同原文を二日続けて見ておく。

 

   *

 

○原文

 

十九日乙巳。雪降。將軍家爲御覽山家景趣。入御民部大夫行光之宅。以此次。行光獻盃酒。山城判官行村等群參。有和歌管絃等御遊宴。入夜還御。行光進龍蹄〔黑。〕云々。

廿日丙午。今朝。將軍家御覽去夕行光所進馬。而結付紙於其立髮。召寄之披覽之處。

 この雪をわけて心の君にあれは主知る駒のためしをそひく

如此載之。將軍家數反。以御詠吟。行光所爲優美之由。及再三御感。相叶賢慮之故也。卽染自筆。被遣御返歌。撰好士。以內藤馬允知親爲御使。

 

 主しれと引ける駒の雪を分は賢き跡にかへれとそ思ふ

 

○やぶちゃんの書き下し文

十九日乙巳。雪、降る。將軍家、山家の景趣を御覽ぜんが爲に、民部大夫行光が宅に入御す。此の次でを以つて、行光、盃酒を獻ず。山城判官行村等(ら)群參して、和歌管絃等の御遊宴有り。夜に入りて還御す。行光、龍蹄〔黑。〕を進むと云々。

 

廿日丙午。今朝、將軍家、去ぬる夕べ、行光進ずる所の馬を御覽ず。而るに紙を其の立髮に結(ゆ)ひ付く。之を召し寄せ、披覽せる處、

 この雪をわけて心の君にあれば主知る駒のためしをそひく

 

此のごとく、之を載す。將軍家、數反(すへん)を以つて御詠吟、行光が所爲(しよゐ)優美の由、再三、御感に及ぶ。賢慮に相ひ叶ふの故なり。卽ち、自筆を染めて、御返歌を遣はせらる。好士を撰び、內藤馬允知親を以て御使と爲す。

  主しれと引ける駒の雪を分けば賢き跡にかへれとぞ思ふ

 

   *

 

「狩野民部大夫行光」二階堂行光(長寛二(一一六四)年~承久元(一二一九)年)は二階堂行政(父は藤原行遠、母は頼朝の外祖父熱田大宮司藤原季範の妹)の子で政所執事として絶大な力を持っていた。この五年後の建保六(一二一八)年十二月二日に実朝が右大臣となり、その関連行事として「吾妻鏡」十二月二十日の条に「政所始(まんどころはじめ)」の儀が記されてあるが、

   *

○原文

 

廿日戊午。晴。去二日。將軍家令任右大臣給。仍今日有政所始。右京兆幷當所執事信濃守行光。及家司文章博士仲章朝臣。右馬權頭賴茂朝臣。武藏守親廣。相州。伊豆左衞門尉賴定。圖書允淸定等著布衣列座。淸定爲執筆。書吉書。右京兆起座爲覽吉書。參御所給。路次行光捧持之。從于右京兆御後。將軍家故出御南面階間覽之。〔京兆持參彼吉書於御前給。〕京兆又令歸政所給。被行垸飯。其後行光進御馬御釼等於京兆。

 

○やぶちゃんの書き下し文

 

廿日戊午。晴。去ぬる二日、將軍家右大臣に任ぜしめ給ふ。仍つて今日、政所始有り。右京兆幷びに當所執事信濃守行光、及び家司(けいし)文章博士(もんじやうはかせ)仲章(なかあきら)朝臣・右馬權頭賴茂朝臣・武藏守親廣・相州・伊豆左衞門尉賴定・圖書允淸定等、布衣(ほうい)を著して列座す。淸定、執筆(しゆひつ)として、吉書(きつしよ)を書く。右京兆、座を起ち、吉書を覽(み)んが爲に、御所へ參り給ふ。路次(ろし)は行光、之を捧げ持ち、右京兆の御後に從ふ。將軍家、故に南面の階(はし)の間(ま)へ出御して之を覽(み)る〔京兆、彼(か)の吉書を御前に持參し給ふ。〕。京兆、又、政所へ歸らしめ給ひ、垸飯(わうばん)を行はる。其の後、行光、御馬・御釼等を京兆に進ず。

   *

とあって、北条義時(「右京兆」は右京権大夫の唐名)の次席で政所の実務官僚のトップとして登場、儀式の間中、終始、実朝の直近に侍している様が見てとれる(「相州」は後に幕府初代連署となる北条時房)。参考にしたウィキの「二階堂行光」によれば、『この時代は源実朝の時代であるが、実権はその母の北条政子にあり、ちょうど朝廷における天皇と院政の関係にも似ている。二階堂行光はその尼将軍政子の側近として様々な場面に登場するが、その中でも重要なものが、源実朝が公暁に暗殺された後の』「吾妻鏡」承久元(一二一九)年二月十三日の条に、「十三日庚戌。信濃前司行光上洛。是六條宮。冷泉宮兩所之間。爲關東將軍可令下向御之由。禪定二位家令申給之使節也。宿老御家人又捧連署奏狀。望此事云云。」(十三日庚戌。信濃前司行光、上洛す。是れ、六條宮・冷泉宮兩所の間、關東將軍として下向せしめ御ふべきの由、禪定二位家[やぶちゃん注:政子。]、申さしめ給ふの使節なり。宿老の御家人、又、連署の奏狀を捧げ、此の事を望むと云云)とあって、『政子の使者として朝廷に赴き、その交渉を行っていることである。慈円の『愚管抄』にもそのときの行光のことが記されている』。『このときの交渉は、後鳥羽上皇の子を鎌倉の将軍に迎えたいというものであったが、既に北条氏打倒を考えていた後鳥羽上皇に拒絶される。しかしこの時期の鎌倉政権の行政事務、及び朝廷との外交関係実務はこの二階堂行光を中心に動いていたともみられ、『吾妻鏡』のこの時期の記録の多くはこの二階堂行光の筆録、あるいは所持した資料によっていると見られている』。『行光の後の政所執事は行光の甥の伊賀光宗となったが、光宗が』元仁元(一二二四)年の伊賀氏の変(北条義時の死去に伴って伊賀光宗とその妹で義時の後妻伊賀の方が伊賀の方の実子政村の執権就任と娘婿一条実雅の将軍職就任を画策した事件)で流罪となった後、『行光の子の二階堂行盛が就任し、以降この家系がほぼ政所執事を世襲する』こととなったとある。彼は父の代から鎌倉の二階堂に屋敷を持っており、姓もその地に因んで改姓されていた。現在の瑞泉寺下の谷戸辺りと考えられる。

 

「山城判官行村」二階堂行村。二階堂行光の弟で彼の屋敷も兄の家の近くにあったらしい。

 

「奥州二戶」「二戶」は老婆心ながら、「にのへ」と読む。現在の岩手県内陸部北端に位置する二戸市付近。ウィキの「二戸市」によれば、『かつて奥六郡の北には郡は置かれなかったが、延久蝦夷合戦の結果、糠部郡、鹿角郡、比内郡、津軽平賀郡、津軽田舎郡、津軽山辺郡、津軽鼻和郡、外浜、西浜が建郡された。二戸の名前は、糠部郡に敷かれていた「四門九戸(しもんくのへ)」の制に由来する。 四門九戸の制とは、糠部郡を東西南北の四つの門と、一から九までの「戸」(あるいは部)に分けるものであり、糠部郡内の主な地域を一戸〜九戸に分画して余った四方の辺地を東門、西門、南門、北門と呼んだと思われる。「戸」とは「牧場」の意であるとも言われる』とある。THRC(有限会社十和田乗馬倶楽部)の「幻の南部馬を訪ねて」の「源氏と南部馬」には(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更した)、

 

   《引用開始》

 

 平家物語の第九巻に「宇治川の先陣争い」と題された有名なくだりがあります。

 

 源氏方の二人の武将が、われ先に相手に斬りこんで武勲を立てるべく、宇治川を馬で渡ったというエピソードです。この二人の武将を乗せて宇治川を渡った馬、すなわち佐々木四郎高綱の生咬(いけづき)と梶原源太景季の磨墨(するすみ)はいずれも南部馬です。

 

 生咬と磨墨は、ともに頼朝が奥州藤原氏から贈られた秘蔵馬でした。生咬は蟻渡野(同県七戸町)の産。磨墨は住谷野(青森県三戸町(の産と伝えられています。どちらも「高(たけ)八寸」と書かれていますから、体高四尺八寸、つまり一四四センチです。この当時の馬の標準は、牡馬で四尺三~四寸、牝馬で四尺二寸でしたから、生咬や磨墨は抜きんでた良馬といえるでしょう。

 

 両者が宇治川に乗り入れた時は、景季のほうが一歩先んじていました。それに焦った高綱は、景季に「鞍の腹帯が緩んでいるぞ」と言って磨墨の足を止めさせ、その間に先陣をものにしています。

 

 同じく源平合戦の「一ノ谷の合戦」では別な南部馬が活躍します。

 

 いったんは都落ちした平氏でしたが、京都を奪回すべく一ノ谷(現在の神戸市)に陣を張ります。その平氏を東西からはさみ撃ちするために、義経たちが六甲山を進軍していると、眼下では熊谷直実らが作戦を無視して戦端を切っていました。上述の宇治川と同様、先陣の勲功を目論んだのです。

 

 そこで義経は「鹿も馬も同じ四つ足。鹿にできて馬にできないはずはない」とばかりに、崖を駆け下りて奇襲攻撃をかけます。ひよ鳥ぐらいしか渡れないという峡谷を、馬に乗って渡ってしまった義経の勇猛ぶりは「ひよどり越えの逆落とし」として有名ですが、このとき義経が駆っていた馬大夫黒(たゆうぐろ)も南部馬でした。

 

 あるいは、戦端を切った熊谷直実の権太栗毛(ごんたくりげ)、その子・小次郎の西楼(さいろう)、義経に従った弁慶の馬なども、ことごとく南部馬だったのです。

 

 かくして武家の時代、戦国の時代へとつき進む日本史の中で、有名無名の南部馬たちが歴史を作っていくのです。

 

 この当時、南部馬がいかに高い評価を与えられていたかを知る資料として「延喜式」に触れておきましょう。この「左馬寮の巻」に次のように馬の価格が記されています。

 

「陸奥の駅馬、上一疋稲六百束、中五百束、下三百束」 

 

まだ貨幣経済が発達していない時代なので、米による換算で、稲六百束は約五十五俵に相当します。ちなみに他国産馬の上モノでだいたい三百束というところでした。南部馬の最低ランクと、他国産の優秀な馬が同じ値段だったのですから、南部馬の価値のほどが判ります。

 

   《引用終了》

 

また、江戸期になってからの話であるが、二戸市商工会公式サイトの「にのへむかしばなし」の「藩制時代の馬の牧場」によれば、

 

   《引用開始》

 

 金田一上町の長寿寺入口より南に百米位の処を西方向へ右折すると沢田という地名あり。此の沢田より、約三キロ米位行くと右手側の方向は「沼ノ久保」部落がある。直進すると「柳沢」部落。ここから右折すると「長久保」部落に至る。此の最初の沼ノ久保に、藩制時代からの馬の放牧場だった跡が残っている。

 緩やかな傾斜地であるが、昔の人達は放牧場の柵を通称「土手」と呼んでいた。(土をもって作った高さ八尺(二・五米位)この土手の上に松並木が植えられている)この土手の中が放牧場である。馬はこの柵を跳越えることは不可能である。

 この山の下の方には自然に湧き出る水呑場も整えられてあった。場所は、今は「池」となっている。

 初夏の草木が萌える頃になると当歳(一歳)の馬が一斉に大地の青々とした牧場に放され二歳の駒になるまで牧場の係達の行き届いた管理のもとに成長して行き駒になると牧場より連れ出されて、金田一の場合は駒焼場に集合させて上馬、中馬、下馬と分けられ、藩の証明である鉄製の焼印を駒の臀部に、どこの馬であるかを確認するための印を押した、という。

 仕分けされた駒は調教され乗馬となったり或は軍馬用となり、戦になると武器とまでなるのである。昔この放牧場だった山主は、金田一の某地主さんの所有であったようだが、今は個人の山のようで一部に造林している処もある。

 放牧地の面積は見当がつかないが、かなりの広さである。今も土手の上に松並木の残っている風景は少しであるが、昔の面影を偲ぶことが出来る。

 私が子供の頃は土手も大分残ってあったが、今は山に林道が通り大分壊された部分もある。この頃の馬の牧場経営は、おそらく南部藩の指示によって当時の地主さんの山を借用して馬の生産に励んだものではなかろうか。

 書物によると一放牧場に百二十頭から百五十頭位の馬が放牧されたとある。二戸郡内でも数カ所の牧場があり相当数の馬が居たものと思う。

 これが南部藩の馬産地といわれる所以であろう。こうして、中央から馬の要請に何時でもこたえていたのであろう。

 

   《引用終了》

 

ともある。本話のブラック・ビューティも、まさにこの正統な日本の在来馬南部馬の血脈の一騎であったのである。

「驪の龍蹄」「驪」(音「リ・レイ・ライ」)は「くろみどりのうま」、深黒色の毛並の馬を言う(国字として二歳馬の謂いもあるので、この馬もそれくらいの若馬とも読める)。「龍蹄」は「りゆうてい(りゅうてい)」又は「りようてい(りょうてい)」と読み、優れた馬。駿馬(しゅんめ)・竜馬(りゅうめ)の謂い。

 

「この雪を分けて心の君にあれば主知る駒の例をぞひく」――この雪の降る中、雪をお踏み分けになられてまで、お出でになられたほどの風雅なる御主君なればこそ――名馬を愛された佐殿(頼朝)の例に倣って――その風雅を知尽される優れた主人(あるじ)のことをこそ知る、この馬を曳いて参りました――

 

「主知れと引きける駒の雪を分けば賢きあとに歸れとぞ思ふ」――「おのが主人(あるじ)の心を知尽しておれ」と名臣の命を受けて曳かれて参ったこの馬が――しかし――頻りに雪を掻き分けて恋しい元の主人(あるじ)の元へと帰ろうとする――元の主の元へと帰ること――我が父君佐殿の古えの教えが、そぞろ身に染むことであるよ――

「內藤馬允知親」(生没年未詳)は既注済みであるが再注すると、御家人で実朝の側近にして定家の門弟として和歌をよくした。彼を使いとして選ぶところに実朝の繊細さが窺える。]

鬼城句集 春之部 梅

梅    梅が香や廣前にゐて鷄白し

[やぶちゃん注:「廣前」は「ひろまへ」で神の御前、神社の前庭を言う語。かつて教師時代に高校生に使ったところ、誰も知らなかったので注しておく。]

     梅咲いて百姓ばかりの城下かな

笛をふく墓鬼 大手拓次

 笛をふく墓鬼

 

もぢやもぢやとたれた髮(かみ)の毛(け)、

あをいあばたの鼻(はな)、

ほそい眼(め)が奥(おく)からのぞいてゐる。

つちのうへをぺたぺたとあるいて、

すすいろのやせた手(て)をだしては笛(ふえ)をふく。

ものをすひこむやうなねいろである。

ふるへるやうなまやかしである。

 

[やぶちゃん注:「墓鬼」というのは拓次の造語と思われる。この辺り、まさに大手拓次版「稲生物怪録」張りである。]

五月 萩原朔太郎

 五月

 

私の好きな五月

その五月が來ないうちに

もしかして死んでしまつたら

ほんの氣まぐれの心から

河へでも身を投げたら

もう死んでしまつたらどうしよう

私の好きな五月の來ないうちに

 

[やぶちゃん注:底本第二巻に所収する「習作集(哀憐詩篇ノート)」(「習作集第八巻」「習作集第九巻」と題されて残された自筆ノート分)の「習作集第八巻(一九一四、四)」所収。]

2013/04/16

沢庵宗彭「鎌倉巡禮記」 25

 五山などのか程まであさましく成ぬる事は、いつの時よりかととへば伊豆の早雲關八州を領せられけれども、そこそこの國郡をしる人達皆北條にしたがふといふちぎりばかりにて、國郡はむかしのごとくあづかりゐるなれば、八州の司といふばかりにてしる所やせばかりけむ。事たらざれば力もいらずしておとしやすき寺社の領知を皆おとして、わが臺をにぎほされてよりかくのごとく成ぬと也。五山などいふを地をけづりてはたすべきもいかゞとて、僧一二人の朝げゆふげをつゞけよとて十貫づゝ殘しをきて皆おとされ、建長・圓覺は所ひろきとて百貫殘されし。いまもせめてむかしの地ならばもゝの數にも事たるべきに、しる所も此世にかばりぬればもゝといふ名ばかりにて、庫院のけぶりもにぎはひうすきなどかたるにつけておもふ、人は世によき名をこそ殘さまほしき事なれ。早雲かゝる事をしをきて寺社皆はて、わが家さらば千代萬代もさかへば、其家に善人生れあひてあしき道をよきにあらためなば、先祖の名もかさねてあがりなむ。家はやくはてぬれば、あしき名のあしきまゝにて世に殘ぬる事は、殘多き事也。家をば萬歳千秋と祈べき事也。一度はあしき事もあれどもあらためてよきにかへせば、あしき時の名はかくれてよき名を殘すはめでたし。わが身にことたらぬからに、外をむさぼり寺社をついやす。我こそ心ありてつけずとも、人のつけたるをおとすは重罪なり。されども無道ながらもなべて世の人の心なり。事たらぬより心の外の事もあるべし。餘る財あらば外にほどこして、一は菩提のため、一には名を後代に殘す、外の德何かあらむ。此ごろ神社佛閣修造の御沙汰ありときくにこそ、御家も久しくつたはり、御名もよろづ代までとしらるれ。世のやすからん事を上におもほすより、下が下まで人のいきほひかはりてめでたうぞみえける。此山陰の僧徒まで末たのもしきなどいひあへり。龜江がやつと聞て、

 

  くちぬ名のあとはかはらしをのか身に ふる萬代の龜か江かやつ

 

爰は梅がやつといへば、

 

  むかしたかのきはにさきし梅かやつ わすれぬ宿の香に匂ふらん

 

  梅谷梅開憶昔年 昔年榮達盡黄泉

 

  紫羅帳裡珊瑚枕 會宿此花誰作眠

 

[やぶちゃん注:まず、漢詩を底本の訓点を参考にしながら、私なりに書き下しておく。

 

  梅ヶ谷 梅開いて 昔年(せきねん)を憶(しの)ぶ

 

  昔年の榮達 盡く黄泉(くわうせん)

 

  紫羅 帳裡 珊瑚の枕

 

  此の花に會宿(ゑしゆく)するに 誰れか眠(みん)を作らん

 

底本は「梅谷」で、結句はそのまま書き下すと「會 此花に宿す 誰か眠を作す」である。

 

 この鎌倉衰亡の因縁についての感懐には、沢庵が紫衣事件で受けた処分と、その後の返り咲きの経緯が、深く翳を落としているように読める。

 

「梅かやつ」白井永二編「鎌倉事典」昭和五一(一九七六)年東京堂出版刊)の「梅ヶ谷」によれば、『化粧坂の下の谷をいうといわれているが、はっきりしない。今では亀谷切通しの下、薬王寺のあたりをそうよんでいる。『夫木集』の「誰が里につゞきの原の夕霞、烟も見へず宿はわかまし」の歌に出てくる綴喜の里は梅ヶ谷のことであると『鎌倉志』ではいうがわからない』とあるのは、新編鎌倉志四」の、

 

◯梅谷〔附綴喜の里〕 梅谷(むめがやつ)は、假粧坂(けわひざか)の下の北の谷なり。此邊を綴喜里(つゞきのさと)と云ふ。【夫木集】に、綴喜原(つゞきのはら)を相模(さがみ)の名所として、家隆の歌あり。「誰(た)が里につゞきの原(はら)の夕霞(ゆふがすみ)、烟(けむり)も見へず宿(やど)はわかまし」と。此の地を詠るならん。

 

に基づく。

 

「龜江がやつ」亀ヶ谷。

 

「むかしたかのきはにさきし梅かやつ わすれぬ宿の香に匂ふらん」この歌は「吾妻鏡」巻二十四の建保七(一二一九)年一月二十七日の実朝暗殺のその日の条に載る、その朝に実朝が詠んだとされる和歌、

 

 出でていなば主(ぬし)なき宿となりぬとも軒端(のきば)の梅よ春をわするな

 

を念頭においたもの。]

 

 

文學的蟲介類 萩原朔太郎

        ●文學的蟲介類

           (干潮の前に泳いでるもの)

 

 その本質に哲學を持たない文學者は、感覺の皮膚によつてのみ、時代の空氣を呼吸して居る。彼等は脊髓のない生物であり、毛細血管の末梢から、手探りのおぼつかない觸手を出して、時流の變轉を泳いで居る。彼等は走馬燈中の人物であり、時代の浪が引いたあとでは、乾池に干からびた蟲介みたいに、跡形もなく滅びてしまふ。

 

[やぶちゃん注:昭和四(一九二九)年第一書房刊のアフォリズム集「虚妄の正義」の冒頭に配された「藝術に就いて」の中の一章。朔太郎はその膨大なアフォリズムで自身の誌的人生「哲學」を語っているから、「その本質に哲學を持たない文學者」を似非文学者として批判している(ように見える)。「感覺の皮膚によつてのみ、時代の空氣を呼吸して居る」「脊髓のない生物であ」る惨めな、皮膚呼吸をするしかない無脊椎の下等生物としての「哲學を持たない文學者」を嘲笑している(ように見える)、「毛細血管の末梢から、手探りのおぼつかない觸手を出して、時流の變轉を泳いで居る」に過ぎない似非文学者は「時代の浪が引いたあとでは、乾池に干からびた蟲介みたいに、跡形もなく滅びてしまふ」と揶揄している(ように見える)。「走馬燈中の人物」は所詮、文学者たり得ないのだと言い放っている(ように見える)――しかし――指でものをなぞる極度のフェティシストであった朔太郎――「毛細血管の末梢から、手探りのおぼつかない觸手を出して」いる「竹」の朔太郎――「時代の浪が引いたあとでは、乾池に干からびた蟲介みたいに、跡形もなく滅びてしまふ」であろう、「くさつた蛤」としての人間という疾患としての朔太郎――真昼間に幻灯機で夜の雲を天井に「走馬燈」の如く投影して閉じこもって寝ていた朔太郎……「干潮の前に泳いでる」健全なる人間からスポイルされた畸形者としての「文學的蟲介類」たる存在は――萩原朔太郎自身でもある。]

耳のうしろの野 大手拓次

 耳のうしろの野

 

わたしの耳のうしろにある黄色い野は

僞笑をふくんであでやかに化粧する。

その野のなかにはみどり色の眼をもつた自働車がうごき

いうれいのやうにひるがへる女たちはゆききする。

ただ そこに荒武者のやうに

ひとりの男は銀の穗先(ほさき)の槍をもつてたはむれる。

ふたつの手をもつ世(よ)のひとびとよ、

耳のおくにある幻の伶樂(れいがく)をきけ、

美裝をこらした惡魔どもは

あまい毒刃(どくじん)のゆめよりさめて、

騷然たる神前の吹笛にふける。

かくして、

耳のうしろにある黄色い野は死の頭上にしづかにもえてゐる。

鬼城句集 春之部 薺

薺    猫のゐてペンペン草を食みにけり

     薺咲きぬ三味線草にならであれ

[やぶちゃん注:底本では「ペンペン草」の「ペンペン」の後半は踊り字「〱」。]

2013/04/15

栂尾明恵上人伝記 17 高雄帰還の顛末

 白上の庵聊か難儀なる事ども有りて、栖みたくもなくて、何くにも眺望心に叶ひたる處あらば、暫く住せんと思ひて、相知りたる在家(ざいけ)の人を道しるべにて、淡路國に渡りて、嶋の躰(てい)を見廻りぬ。然れどもさりぬべき處も無し。かゝる所に、文覺上人所勞難治(しよろうなんぢ)の由、同法の許より告げたりしかば、今一度向顏(かうがん)の爲に、又高雄へ歸りぬ。然るに、上人の所勞少し減氣(げんき)せり。上人告げて云はく、深く思ふ樣あり、此の寺の近き所に閑居の地多し、枉(ま)げて草庵を結びて住し給へ。此の山の奧の岩屋の向に大盤石(だいばんじやく)あり。其の體(てい)興(きよう)あり。彼の上に庵を作りて進(まゐら)すべし。其猶御心に叶はずは、梅尾(とがのを)に庵を造りて進(まゐら)すべし。彼(かしこ)に過ぎたる閑居あらじ。處がらも興あり。佛法久住(くぢゆう)すべき地形あり。運慶法師が造りたる釋迦の像付屬し奉らんなんど、樣々ねんごろに留めらる。又即時に唐本(たうほん)の十六羅漢を取り寄せてたびなんどして、丁寧に仰せらる。老病聊か少減の體なれども、心神いまだ快からず、露命且暮(ろめいたんぼ)を期(き)し難し、何に見捨て給ふぞなんどいさめられし程に、暫(しばらく)と思ひて住する所に、衆僧擧(こぞ)りて所望(しよもう)の間、辭するに處なくして、探玄記(たんげんき)を講ずと云々。其の夜の夢に、春日大明神此の宗の傳通を悦び給ひて、坊の緣(えん)に立ち寄りて舞ひ給ふと見る。

北條九代記 長沼五郎太輔房重慶を討つ 付 長沼實朝卿の政道を罵る

      ○長沼五郎太輔房重慶を討つ 付 長沼實朝卿の政道を罵る

大輔房〔の〕阿闍梨重慶(ぢうけい)は、畠山次郎重忠が末子なり。重忠没落の比より、出家遁世の身となり、幽(かすか)なる草菴に、念佛して居たりしが、畠山が滅亡は讒者(ざんしや)の所爲(しよゐ)なりと、將軍家にも思召し付けられ、御後悔ありける故にや、其餘類をも尋ねられず、况(まし)て重慶に於ては遁世修道の法師なれば、何方に居住すとも、咎むべからずと内々は仰(おほせ)ありけり。九月十九日に日光山の別當、法眼辨覺(べんかく)が許より、鎌倉へまうし遣しけるやう、「大輔房重慶當山の麓に住して、諸浪人を招(まねき)集め、佛前を飾り幣(へい)を剪(た)たて、晝夜を云はず黑煙(くろけぶり)を立てて祈る有樣、謀叛の用意と覺え候。定(さだめ)て當家調伏の行ひ其隱(かくれ)、是(これ)なし。早く尋(たづね)聞かしめ給へ」と申したり。仲兼朝臣、披露せらる。折節、長沼(ながぬまの)五郎宗政、御前に候す。將軍家、仰付けられ、重慶を將(つ)れて參るベし、直に子細を聞かしめらるべし、となり。宗政、畏りて、家にも歸らず、家子一人郎等八人倶して、下野國に赴き、同じき二十八日に、鎌倉に立歸り、重慶が首を以て指上(さしあげ)たり。將軍家、大に御氣色ありて、仲兼朝臣を以て仰せられけるは、畠山重忠は本より科(とが)なくして、讒者の爲に誅伏(ちうふく)せり。その末子、出家となり、假令(たとひ)陰謀を挾(さしはさ)むと云ふとも、何程の事かあるべき、生捕(いけどり)て參べしとこそ、仰せ下されしに、犯否(ぼんひ)の虛實をも聞(きゝ)届けず、誅戮を加ふる事、楚忽(そこつ)の結搆、罪過(ざいか)たるの由、申されたり。宗政、座を居直り、眼を怒らし、仲兼を睨(にらん)で申しけるは、「太輔房重慶が叛逆の事は、辨覺、證人として其疑ひ、是(これ)なし。生捕にせんは鼠を捉ふるよりも、いと易かりなん。但し、生捕りて參りたらんには、奥方の女房達、又は入(いり)籠る比丘尼等(ら)が申狀に付けて、定(さだめ)て宥(なだ)め許されるべきを、宗政、豫てより推量せし故に、首打切りて參りて候ぞ。故右大將家の御時、宗政に恩賞厚く賜はるべき由、頻りに嚴命ありといへども、堅く辭退して、御蟇目(おんひきめ)を申し賜(たまは)り、海道十五ヶ國の中に、民間無禮の溢者(あぶれもの)を退治すべしと、仰せ下さる。是(これ)、既に武備を重じ給ふが故なり。其(その)蟇目、今に宗政が家の寶とす。然るを、常代は武職(ぶしよく)に備は(そなは)り給ひて、武道を忘れ、和歌を詠じ、鞠を翫(もてあそ)び、近習(きんじゆ)も外樣(とざま)も、この歌鞠(かきく)に心を窶し(やつ)し、武藝兵法の廢れたる事、枯草の如く成(なり)行き候。又、其御暇(いとま)には、女房を召し集め、繪合(えあはせ)、花競(はなくらべ)、雛(ひな)の遊(あそび)に夜日(よひ)を費し、酒に長じて、醒遣(さめや)る時なし。忠義武勇(ぶよう)の侍(さぶらひ)はあれどもなきが如く、諸國沒收(もつしう)の地あるをも、勳功の賞には充(あて)られず、靑女房等(ら)に賜(たまは)る。榛谷(はんがへの)四郎重朝が遺跡(ゆゐせき)を五條の局(つぼね)に給はり、中山〔の〕四郎重政が所領を下總〔の〕局に下されたり。「今より國家の御大事あらん時は、忠節を存ずる侍は候まじ。女房、比丘尼等に鎧を著(き)せ、武勇を勵させて治め給へ」と、憚る所なく、過言しければ、仲兼は一言にも及ばす、座を立たれたり。宗政も、「あはれ、仲兼、何とぞ云はば、肥腹(ぼてばら)繰通(くりとほ)し、首打ち切るべきものを」と響(どよみ)に成りて退出す。

 

[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻二十一の建暦三(一二一三)年九月十九日及び二十六日の条に基づく(建暦三年は十二月六日に建保に改元される)。まずは追伐出陣の九月十九日の条。

○原文

十九日丙辰。未尅。日光山別當法眼弁覺進使者申云。故畠山次郎重忠末子大夫阿闍梨重慶籠居當山之麓招聚牢人。又祈禱有碎肝膽事。是企謀叛之條。無異儀歟之由申之。仲兼朝臣以弁覺使者申詞。披露御前。其間。長沼五郎宗政候當座之間。可生虜重慶之趣。被仰含之。仍宗政不能歸宅。具家子一人。雜色男八人。自御所。直令進發下野國。聞及郎從等競走。依之鎌倉中聊騷動云々。

○やぶちゃんの書き下し文

十九日丙辰。未の尅、日光山別當法眼弁覺、使者を進じて申して云はく、

「故畠山次郎重忠が末子、大夫阿闍梨重慶(ちやうけい)、當山の麓(ふもと)に籠居して牢人を招き聚(あつ)め、又、祈禱にて肝膽(かんたん)を碎く事有り。是れ、謀叛を企つるの條、異儀無きか。」

の由、之を申す。仲兼朝臣、弁覺の使者を申す詞を以つて、御前に披露す。其の間、長沼五郎宗政、當座に候ずるの間、重慶を生虜(いけど)るべきの趣き、 之を仰せ含めらる。仍つて宗政、歸宅する能はず、家子(いへのこ)一人・雜色男八人を具し、御所より、直きに下野國へ進發せしむ。聞き及びて郎從等、競い走る。之に依つて鎌倉中、聊か騷動すと云々。

 

同二十六日の条。

○原文

廿六日癸亥。天晴。晩景宗政自下野國參著。斬重慶之首。持參之由申之。將軍家以仲兼朝臣被仰曰。重忠本自無過而蒙誅。其末子法師縱雖插隱謀。有何事哉。随而任被仰下之旨。先令生虜其身具參之。就犯否左右。可有沙汰之處。加戮誅。楚忽之議。爲罪業因之由。太御歎息云々。仍宗政蒙御氣色。而宗政怒眼。盟仲兼朝臣云。於件法師者。叛逆之企無其疑。又生虜條雖在掌内。直令具參之者。就諸女性比丘尼等申狀。定有宥沙汰歟之由。兼以推量之間。如斯加誅罰者也。於向後者。誰輩可抽忠節乎。是將軍家御不可也。凡右大將家御時。可厚恩賞之趣。頻以雖有嚴命。宗政不諾申。只望。給御引目。於海道十五ケ國中。可糺行民間無禮之由。令啓之間。被重武備之故。忝給一御引目。于今爲蓬屋重寳。當代者。以歌鞠爲業。武藝似廢。以女性爲宗。勇士如無之。又没収之地者。不被充勳功之族。多以賜靑女等。所謂。榛谷四郎重朝遺跡給五條局。以中山四郎重政跡賜下総局云々。此外過言不可勝計。仲兼不及一言起座。宗政又退出。

〇やぶちゃんの書き下し文

廿六日癸亥。天、晴る。晩景、宗政、下野國より參著す。重慶の首を斬り、持參するの由、之を申す。將軍家、仲兼朝臣を以つて仰せられて曰はく、

「重忠、本(もと)より過ち無くして誅を蒙る。其の末子の法師、縱(たと)ひ隱謀を插(さしはさ)むと雖も、何事か有らんや。随つて仰せ下さるるの旨に任せ、先づ、其の身を生虜らしめて之を具し參らば、犯否(ぼんぷ)の左右(さう)に就きて、沙汰有るべきの處、戮誅(りくちゆう)を加ふは、楚忽(そこつ)の議、罪業(ざいごふ)の因たり。」の由、太(はなは)だ御歎息と云々。

仍つて宗政、御氣色を蒙る。而るに宗政、眼(まなこ)を怒らし、仲兼朝臣に盟(ちか)ひて云はく、

「件(くだん)の法師に於ては、叛逆の企て、其の疑ひ無し。又、生虜りの條、掌(たなごころ)の内に在ると雖も、直きに之を具し參らしめば、諸々の女性・比丘尼等(ら)が申し狀に就きて、定めて宥(なだ)めの沙汰有るかの由、兼ねて以つて推量の間、斯くのごとく誅罰を加ふる者なり。向後(きやうこう)に於ては、誰(たれ)の輩(ともがら)か、忠節を抽(ぬき)んずべけんや。是れ、將軍家、御不可なり。凡そ右大將家の御時は、恩賞を厚くすべきの趣き、頻に以つて嚴命有りと雖も、宗政、諾(だく)し申さず。只だ望むらくは、御引目(おんひきめ)を給はり、海道十五ケ國中に於いて、民の間の無禮を糺(ただ)し行ふべきの由、啓(け)せしむるの間、武備を重んぜらるるの故、忝(かたじけな)くも一(いつ)の御引目を給ひ、今に蓬屋(ほうをく)の重寳たり。當代は、歌(うた)・鞠(まり)を以つて業(わざ)と爲し、武藝は廢(すた)るるに似たり。女性を以て宗(むね)と爲し、勇士の無きがごとし。又、没収の地は、勳功の族(やから)に充(あ)てられず、多く以つて靑女(せいぢよ)等(ら)に賜はる。所謂、榛谷(はんがや)四郎重朝が遺跡は五條局に給ひ、中山四郎重政が跡を以つて下総局に賜ふ。」

と云々。

此の外の過言、勝(あ)げて計(かぞ)ふべからず。仲兼、一言にも及ばず、座を起つ。宗政も又、退出す。

 

「太輔房重慶」畠山重慶(ちょうけい ?~建暦三(一二一三)年)は畠山重忠の末子。父重忠と兄重秀や重保ら一族は先立つ八年前の元久二(一二〇五)年の畠山重忠の乱で幕府軍によって滅ぼされ、畠山氏の名跡は北条氏縁戚であった足利義純が継承、平姓畠山氏は断絶していた。この謀略や乱の一部始終については、「北條九代記」巻三の武藏前司朝雅畠山重保と喧嘩 竝 畠山父子滅亡を参照のこと。

「仲兼朝臣」源仲兼(生没年不詳)は後白河院の有力な近習であった源仲国の弟。父は河内守光遠で、仲兼も近江を始めとする諸国の国守を務めて財を蓄え、建永元(一二〇六)年に火災にあった比叡山の大講堂の再建を担当するなどの造営事業などの請負をしているが、丁度、本話の頃には鎌倉に下向して実朝に仕えていた(以上は「朝日日本歴史人物事典」の記載に拠る)。

「長沼五郎宗政」名は既出であるが、ここで注する。長沼宗政(応保二(一一六二)年~仁治元(一二四一)年)は小山政光の子。下野国長沼荘(現在の栃木県二宮町)を本領とし、同国御厩別当職を帯した。寿永二(一一八三)年の野木宮合戦では兄の小山朝政に従い、合戦の後に兄の名代として鎌倉に参上した頼朝直参の御家人。その後も平家や奥州藤原氏の追討に従軍した歴戦の勇士である。この一件の後の承久の乱後は摂津・淡路の守護に補されて淡路守となっている。鎌倉の宗政邸は将軍御所の南を占め(北面の武士である)、本話では「宗政に恩賞厚く賜はるべき由、頻りに嚴命ありといへども、堅く辭退し」たと自慢しているが、実際にはその所領は下野の他にも、陸奥・美濃・美作・備後・武蔵などに及んでいる(以上は「朝日日本歴史人物事典」の記載を参考にした)。このシークエンスの罵詈雑言も、「荒言悪口之者」とも評された彼ならではのもので、筆者による往年の三船敏郎張りの――「仲兼の青二才野郎が、これ、何ぞほざいたら、あのでぶった腹を引っ摑み、ぶっすり突き通した上に、首を搔き切ってやったに!」――という台詞も、これ、実に小気味よいではないか。……そして、それがまた、周囲に京真似びに現を抜かすとしか見えなかった実朝という存在が、急速に東国武士団の中で求心力を失ってゆく、その象徴的な「北條九代記」の伏線のエピソードである、とも言えるのである。]

沢庵宗彭「鎌倉巡禮記」 24

 爰を出てむかふ山に報國寺といふあり。惣門に漸入佳境と云四字を題す。是より踏入ば岩のめぐりたるかげに佛殿方丈あり。さばかりの跡なり。爰をも出て又むかふ谷に入ぬ。左に入ふかき谷あり、覺園寺と云禪家あり。實古跡也。尊氏將軍の再興し給てよりこのかたの寺也。むねの札にたしかにみえたり。今の世の工の造りたるにちがひ、見所多し。長老坊の造りなど外にはいまだみぬさまなり。月中行事の須簿あり、叮嚀也。むかしはさぞ、今はさだめて十が二三もつとめはあらじとおもふ。八十の老僧一兩人うち眠りて壁によりたる有樣いづくにたとへむ閑さとも覺えず、いさゝかも世中をばしらぬがほ也。心にまかせなば爰にとゞまりて生ををくらまほしくぞおもふ。捨ぬる身さへ心のまゝにならぬ事也。人のおもふにちがひぬ。此寺庄園も少は殘り山林もあれども人をかくより、境日々におとろへぬとみえたり。かい力の人あらば今少はのきをもかゝげ庭の木葉をもはらひつべうぞおぼえける。いづくにも任にあたる人まれ也。境は人によつてあらはるゝといふ事、實也。

[やぶちゃん注:「さばかりの跡なり」とするのは、明らかに沢庵は、この報国寺の佇まいは全く以って惹かれなかったことを意味している。「さばかり」は強意もあるが、ここは「その程度の」の謂いであることは明らかである(実際に心打たれてのであれば、他の寺同様に沢庵なら必ず描写をするはずである)。「鎌倉市史 社寺編」にも、報国寺は『諸僧侶の伝記にも見えず、中世の旅行者はおろか近世の旅行者達もこの寺については何も書いていない。彼らはよく江戸から金沢方面を通ってこの街道を西へ向かっているが、浄妙寺からすぐ杉本寺にかかってここに立ち寄っていないらしい』とある。沢庵はそれでも、わざわざ一回戻って訪ねているのであるが、その労を費やしたにも拘わらず、その趣きの失望感が大であったということででもあろう。今や、『竹の寺』として観光客を寄せている報国寺――私は、さる理由があって(興味のあられる方は私のブログ『父さん 今日 俺が「あいつ」に父さんの仇を討つぜ』をお読みになられたい)、嫌いな寺であるだけに沢庵の、このけんもほろろな謂いが、頗る附きで――痛快である。特に後半の覚園寺の衰亡をプラグマティクに残念に思いながらも、でもその実、許されるなら、この幽邃で俗世間を離れた寺に暮らしたいものだ、と述懐する彼の感懐とは美事に対比されて、如何にも如何にも面白いのである。

「實古跡也」「實に」の「に」の脱字であろう。

「長老坊」祖師堂のことか。

「須簿」「すぼ」と読むか。儀礼等の要点を記載した記録簿のことか。]

耳嚢 巻之六 大す流しという紋所の事

 大す流しという紋所の事

 

 大洲流しといへる事、紋盡(もんづくし)などのものがたりにあれど、いかなる紋と申(まうす)事を不知(しらず)。或(ある)人のいへるは、丹羽の紋所なる拍子木等の如きを、打違(うちたが)へ候を二つ並べてつけたるを、大洲(おほす)ながしといへると、古實者(こじつしや)のかたりといひしが、按ずるに、川除(かはよけ)などに追牛(おひうし)といへるものあり、川瀨の片々は附洲となり、片々(かたかた)は欠所(けつしよ)など出來る所、追牛の二組三組もたてれば、右川先(かはさき)の洲を流し拂ふて川瀨の形よく成(なり)し事あり。右拍子木の打違ひは、川除の具を略し用(もちゐ)たる成るべし。依之(これによつて)大洲流しといふなるべし。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:家紋譚二連発。根岸の経験に基づいたオリジナルな非常に鋭い考証であり、以下の家紋解説の記載等からも正確であると言える。ホームズ鎭衞、ナイス!

・「大す流しという紋所の事」「という」はママ。「大す流しという紋所」図像だけをまず見る。電子データ「業務に使える高品質画像データ集 家紋倶楽部4000」販売サイトの「大洲流(おうすながし)に、全く異なった二種の家紋「保田大洲流し」と「蛇籠大洲流し」の二種、サイト「風雲戦国史――戦国武将の家紋」の「小野寺氏」の項に「大洲流(臥牛)」の家紋があり、これが前者の「保田大洲流し」に一致し、本文の解説の「拍子木等の如きを、打違へ候を二つ並べてつけたる」意匠とも一致する。底本の鈴木氏の注には、『蛇籠を固定させるために杭を打つ、その杭だけを打った形を紋どころにしたもの。初めは蛇籠の目に杭を打った形のものだったといわれる』とある。「小野寺氏」の項にはなお以下の記載がある(冒頭の一部を省略した)。

   《引用開始》

 『奥羽永慶軍記』には小野寺氏の家紋に関して、「小野寺ノ幕ノ紋ニ瓜ヲ用フル事、累代吉左右ノ故アリ。夫レヨリ先ハ牛ノ紋を用ヒシト云ヒ伝フ。近代ノ幕ノ紋ニ、墨絵ニテ牛ヲ画キタル」とある。また、一本『小野寺氏系図』には家紋「根牛」と記されている。これによれば、小野寺氏は瓜の紋とは別に、牛の紋を用いたということになる。さらに「牛ヲ画キタル」ということから哺乳動物の牛を用いていたように思われる。

 しかし、小野寺氏の用いた「牛」は動物の牛ではなく、『応仁武鑑』にも記されているところの「追洲流」の杭をいったものにほかならない。

 そもそも「追洲流」とは、河川の治水用に作られた築造物で、長い籠の中に石を詰め堤防の補強を行った。堤防に沿ってえんえんと配置される光景が長蛇に似ていることから「蛇籠」とも称される。蛇籠は籠のみを積んだものと、杭を立て横木をかけて蛇籠を積み重ねたものがある。そして、蛇籠の杭を奥羽地方や相模地方などの方言では「牛」といった。これは、動物のなかで牛は重荷を負ってよく耐えることから、川除けの杭を牛にたとえてそのように呼ぶようになったのだという。「追洲流」が激流に耐え、田畑を洪水より守る力強さに意義を感じて家紋として用いられるようになったと考えられる。

 「追洲流」の文様は、すでに『一遍上人絵巻』などにも用いられており、家紋としては『太平記』に山城四郎左衛門尉が直垂に描いていたとあり、『羽継原合戦記』には「大スナガシハ泉安田」とあり、紀伊の保田氏も「追洲流」を家紋としていた。小野寺氏の家紋として永慶軍記に記された「牛」、系図の「根牛」は「追洲流=蛇籠」のことであり、動物の牛のことでは決してないのである。

   《引用終了》

因みに、この引用の直前の部分では、後世の記録であるが、「応仁武鑑」には、『小野寺備前守政道の家紋は「追洲流」とあり、さらに、「(前略)その家の紋三引両にして、織田殿より「カ(五葉木瓜)」の紋を賜りしを合せ用うる由をしれり(後略)」とある。ここに記された備前守政道は泰道に比定されるが、「三引両」はともかくとして、織田氏から「カ(五葉木瓜)」紋を賜ったというのはうなづけない』という疑義が記されるが、直前の話の三浦氏の紋所も偶然ながら「三引両」である。

・「紋盡」一般名詞では、絵や図柄として種々の紋柄を描いたもの(また別に、江戸時代に遊女の紋を描いて遊里の案内とした書物をもいう)であるが、岩波版の長谷川氏注には、『曾我兄弟の十番斬の時の紋尽しなど』とある。これは「曽我の紋づくし」と言って、講談などの曽我物で頼朝の富士の巻狩に供した諸国御家人の、幔幕に描かれた紋を「ものづくし」で読み込んだもののことを指す。直ぐ後に「ものがたりにあれど」とあるから、これは長谷川氏の仰る通り、「曽我の紋づくし」のことを指していると考えてよい。

・「丹羽の紋所なる拍子木等の如き」拍子木を図案化した拍子木紋と呼ばれるもの。引両紋と似ており、変形したものと思われ、一般的な図柄は二本若しくは複数(多いものでは十一本)の棒が描かれたもので、拍子木・丸に拍子木・紐付き拍子木などの種類があり、武田氏や伊沢氏などが使用した。森鷗外の「伊澤蘭軒」の「その三」に『伊澤氏は「幕之紋三菅笠(みつすげがさ)、家之紋蔦、替紋拍子木」と氏の下に註してある』と出、家紋関連の書籍で見る限りは、黒い拍子木で上部がやや左右に開き気味の、下に紐が付いた完全な拍子木である。「替紋」とは略式紋のこと。「丹羽」氏の拍子木紋については、岩波版長谷川氏注に、『二本松十万二百石丹波左京大夫の紋所違棒をいう』とある。サイト「祭りだ!山車だ!」の「二本松のちょうちん祭り」の一番下の右の神社の写真をポイントすると、その紋をあしらった提燈の画像(「×」の意匠なだけに、これだけ並ぶとなかなか凄絶である)が見られる。同頁にはこの「違棒紋」についての注があり、それによれば、直違紋・筋違紋(すじかいもん)ともいい、丹羽五郎左衛門長秀(『戦国・安土桃山時代の武将で、信長の養女(信長の兄・織田信広の娘)を妻にした。また、嫡男の長重も信長の四女を娶うなど信長に信頼の厚い家臣であった』。『信長四天王の一人とされ、鬼五郎左・米五郎左と呼ばれ』たが、『長重は、軍律違反があったとして秀吉から領国の大半と、長秀時代の有力家臣まで召し上げられたが、関ヶ原の戦いで西軍に与して改易されたが、後に江戸崎藩主・棚倉藩主・白河藩主となった。二本松藩主の丹羽光重は、長重の子、長秀の孫』とある)の家紋で、『家紋研究家の丹羽基二は、この紋を日本の三大呪符紋のマイナスの呪符紋とし、「災いが起きないよう、来るな」の禁止紋としている』。『古代では、死人が出ると直違いで住居を封じ別の住居へ移る事例があり、江戸時代には閉門・謹慎の処分を受けた武家は、門前に青竹を×型に組んで人の出入りを禁じた。現在でも、北陸・東北地方の一部には、死者の出た家で青竹を家の前に立てる風習がある』。『このように、直違いは、死者の霊を封じ、外との交流を断つ呪術性があったとされ、その呪術性から、武家が戦場の旗印に使い、やがて家紋にも使われるようになったとする説もある』とある。目から「×」の美事な解説である。

・「川除」堤防等の河川の氾濫防止施設の総称。

・「追牛」既に前の注の引用でも解説されているが、「笈牛」で、水防・護岸工事に用いられた用具。四角をした菱牛(四本の合掌木で四角錘を組み、同一の太さの丸太で桁木及び梁木を取り付け、棚を設けて重籠を積載したもの。当該装置の復元画像は個人サイト「武田家の史跡探訪」の「信玄堤(荒川)」を参照。因みにこの最後にある「牛枠」がこの「追牛」か、その原形であろう)に対し、笈牛は三角形を呈しており、山伏の担ぐ笈に似ているとことから命名された。菱牛同様の効果を持つ江戸時代の治水道具で、材木の長さ・太さは同じであるが、菱牛に比べて水流に対する効果は薄い。コンパクトであることから菱牛の設置困難な谷川や小川に用いられた(以上は「信玄堤(荒川)」及び「古河歴史博物館」の「笈牛」――こちらには江戸期のものと思われる「笈牛拵樣(こしらへやう)の圖」「同仕上の圖」の絵図が載るので必見!――の記載を参照させて戴いた)。根岸は勘定吟味役時代に、実地の河川普請の奉行としてこうした技術を知尽していたはずである。従って、本条の最後の考察部(「按ずるに」以下)は根岸自身のものであると私は考える。

・「附洲」岩波版は『つきす』とルビしつつ、長谷川氏は注で、『あるいは「つけす」か。洲のできることをいうのであろう』と注されておられる。この意を現代語訳でも採らさせて戴いた。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 大洲流しという紋所の事

 

 「大洲流し」と申す紋のことは、「曽我の紋づくし」などの物語にも登場致すが、如何なる紋であるかということは知らず御座った。

 ある御仁の申すよう、

「かの丹羽の五郎左衛門長秀殿の紋所にて、拍子木なんどの如きを、打ち違(たが)えに致いたものを、これ、二つばかり並べ附けたる意匠を、これ、『大洲流し』と言うと、有職故実に通じたる者の、話しにて御座った。」

と聴いた。

   *

 しかし、私が按ずるに、川除(かわよけ)などの対策設備の中に、「追牛(おいうし)」と呼称するものが御座る。

 これは、川瀬に於いて、一方が常に洲となって延び、流れが抑えられてしもうて、その対岸にしばしば決壊が生ずるような場所に、この「追牛」の二組か三組を以って、組み立てて設置致す。さすれば、かの川下の先に延び生じておったところの洲を、綺麗に流し去って、川瀬の形が、まことに良好になる場合が御座る。

 この紋所の意匠を――「拍子木の打ち違(たが)え」――と説明しておるが、実は私は、――「川除(かわのけ)に用いる道具たる追牛」――これを意匠化して用いたものに違いないと思うので御座る。だからこそ、この紋所の名称をも――「大洲流し」――と言うので御座ろう。

猫の郷愁 萩原朔太郎

        ●猫の郷愁

 

 女は常に裸體になることを悦樂してゐる。それによつて彼等は、豹の美しい本性性と、野獸の自由性とを囘復して、自然のままの姿となり、遠く本能が憧憬(あこがれ)てる、眷屬の森林に歸れるからだ。

 

[やぶちゃん注:昭和四(一九二九)年第一書房刊のアフォリズム集「虚妄の正義」の冒頭に配された「結婚と女性」の中の一章。]

走る宮殿 大手拓次

 走る宮殿

 

紺色にまたみどり色にあかつきの空を手でかなでる、

このみごもりの世界に滿ちた悉くの蛇よ、

おまへたちの その女のへそのやうなやはらかな金(きん)のうろこをうごかして、

さびしいこのふるい靈像のまはりをとりまけ、

うろこからでる靑銅の焰(ほのほ)はをどる、

なみだをたれてゆく化生(けしやう)の罪は

霧のやうに消えさる。

あかつきは生長して紅(べに)の彩光をなげあたへ、

ひとつひとつの住居(すまゐ)はとびらをひらいて念じ、

さて、わたしたち精靈(せいれい)の宮は

あけぼののやさしい Chorus(コオラス) のなかへとはしる。

 

[やぶちゃん注:「Chorus(コオラス)」表面上は、コーダで「わたしたち」である「精靈の宮」は、目に見えぬ流体としての合唱の歌声の奔流の中へと走り入ってゆくのであるが、私は拓次がこれをわざわざ英文で表記したことに拘る。これは合唱の声であると同時にこの「走る宮殿」という名の野外劇に於ける、そのコロス(“choros”。古代ギリシャ語由来で“chorus”の語源、古代ギリシア劇に於ける合唱隊)の中へと走り去るように思われてならない。ウィキコロス」によれば、『コロスは観客に対して、観賞の助けとなる劇の背景や要約を伝え、劇のテーマについて注釈し、観客がどう劇に反応するのが理想的かを教える。また、劇によっては一般大衆の代わりをすることもある。多くの古代ギリシア劇の中で、コロスは主要登場人物が劇中語れなかったこと(たとえば恐怖、秘密とか)を登場人物に代わって代弁する。コロスは通常、歌の形式を採るが、時にはユニゾンで詩を朗読する場合もある』とある。]

鬼城句集 春之部 水草生ふ

水草生ふ 水草の浮きも得せずに二葉かな

2013/04/14

栂尾明恵上人伝記 16 耳自切後の白上で

 又、或る夜の夢に見給ふ。大海の中に五十二位の石とて、其の間一丈計り隔てゝ、大海おき興に向つて、次第に是を雙(なら)べ置けり。我が踏みて行くべき石と思ひて、其の所に至る。信位(しんゐ)の石の處には、僧俗等數多(あまた)の人あり。然るに信の石を躍(おど)りて初住(しよじゆう)の石に至るよりは人なし。只一人初住の石に至る。又躍りて第三住の石に至る。此の如く次第に躍り著きて十住の石を躍りて、又初行の石に至る。一々に踏みて乃至(ないし)第十地・等覺(とうがく)・妙覺(めうがく)の石といふまで至りて、彼の妙覺の石の上に立て見れば、大海邊畔(たいかいへんぱん)なし。十方世界悉く礙(とゞこほ)りなく見ゆ。來れる方も遙に遠く成りぬれば、此の所をば、人是を知らず。今は歸りて語らんと思ひ、又逆次に次第に踏みて、信位の石の處に至つて、諸人に語ると見る。

 

 又、西域(さいゐき)慈恩(じおん)等の傳記に依りて所々の遺跡(ゆゐせき)を檢(しら)べ、或る求法(ぐはふ)の高僧の巡禮の跡を尋ねて、筆を下し、假名(かな)を以て注し集めたる物あり。金文玉軸集(こんもんぎよくじくしう)とぞ號しける。其の端に誰人なりとも心有らん人の爲に、歿後の付屬(ふぞく)を契りて、一首を詠ず。

  人の見て咲(わら)はん事をかへりみず心やりたる祕密授記(ひみつじゆき)かな

 

 此の草菴に數月を送つて、煗(あたゝ)かなる食事なし。又鹽噌(えんそ)の類も遙に遠ざかる。有待(うだい)の身なれば、四大乖達(しだいかいゐ)して、白痢(はくり)の如くなる物下りて數日を經る間、諸人、且(しばら)く療を加へ、藥を服せよと云へども、邊鄙(へんぴ)醫藥稀なり。必ずしも奔走するに及ばず。生者必滅何ぞ始めて驚かん。縱(たと)ひ佛道修行の故に、病み付いて死せば、修道(しゆだう)の志を以て、來世に繼(つ)がんこと、今日に明日を繼ぐに異ならざらんと云々。爰に或る夜の夢の中に、一人の梵僧來りて、白器に熱湯の如くなる物を一杯盛りて、是を服すべしとて授け給へり。心に薊菜(あざみ)の汁かと覺えて服しぬ。夢覺めても猶其の味口の中にあり。即時に快くして其の病氣日を追ひて平愈せり。

沢庵宗彭「鎌倉巡禮記」 23

 

 次の日は龜谷山壽福寺に入る。逍遙院も今はなし。逍遙院はあやにくに水かれて草あをし。入定の石龕荊棘かこみ藋藜させ り。方丈も今はなし。殘りたる一院にいさゝか開山塔をかまへて香燈をそなふ。千光國師の尊像儼然たり。佛殿もかたばかりの體なり。淨妙寺は小佛殿・方丈是もかたばかりの體也。天地只一僧寂寞の扉をとぢて音もせず。開山塔をば光明院ときけど、光や地におちけむとおもふばかり也。

 

[やぶちゃん注:「逍遙院」は開山栄西の開山塔である逍遙庵のことである。

 

「あやにくに」もとは形容動詞ナリ活用の連用形であるが、ここでは副詞化されて、期待・本意に背いて、生憎、の意。

 

「水かれて」とあるから逍遙院には相応の大きさの池塘があったものと思われる。

 

「藋藜させ り」空白はママ。底本には右に『(藜藋しけりィ)』という編者注がある。「藜藋」は音「レイチ」で、ナデシコ目ヒユ科
Chenopodioideae 亜科 Chenopodieae 連アカザ属
Chenopodium シロザ Chenopodium
album
 変種アカザ Chenopodium album var. centrorubrum のこと(「藋」もアカザの一種であるアオアカザ=基準種シロカサザのことを指す)。ここは恐らくあかざが生い茂った扉の意である「藜戸(れいこ)」、あばら屋のことを表現しようとしたものと思われる。

 

「千光國師の尊像儼然たり」栄西の像。「鎌倉市史 社寺編」の「寿福寺」の項では沢庵の記載を引用して、『寿福寺の頽廃悲しむべきものがある』と記した後、

 

   《引用開始》

 

 その後、半世紀たって『新編鎌倉志』ができるが、この時には外門(『鎌倉五山記』にあった「天下古刹」の額はいまはない)・仏殿・祖師堂・土地堂・鐘楼及び塔頭の桂蔭・正隆・悟本・積翠の四庵があったという。仏殿の本尊は釈迦三尊であって現在に伝えられているが、これは当時から籠釈迦(かごしゃか)とよばれた。仏殿にはまた現在観音菩薩坐像がある。これは永禄十三年仏師信濃法印快円という人の作であることがその胎内銘によってわかっている。

 

 祖師堂(開山堂)には達磨(だるま)・臨済・古文及び開山明菴栄西の像があった。沢庵のみた千光国師像であろうが、これについては慶長四年に上記快円が彩色を施したことが報国寺所蔵の願文(『史料編』一ノ三七八)にみえる。この願文によると天文十年に快円の父泉円が黒漆に塗ったが、その泉円の三十三回忌の布施や開山堂二度の造営の奉加銭未進のため、快円が像の彩色の寄進をもってこれらに替えるために施したものらしい。扇ケ谷は古くから仏師の居住地であり、寿福寺には仏師の家の墓も多いが、この願文によると生活は豊かであったともみえない。しかし沢庵が「千光国師の尊像儼然たり」と印象づけられたことは像が秀作であるからであるのは勿論であるが、快円の彩色も面目を施したことになる。[やぶちゃん注:中略]

 

 この仏殿は沢庵が「形ばかりの体」と評したものであるが、この『鎌倉志』ができて一二年後の元禄十二年及び十六年に鎌倉は大地震に襲われている。大正大震災後の大正十三年十二月十七日仏殿大改修の日に、開山五百年忌の時仏殿を造立させる旨の古記が組子古材の内から発見されたという(当寺所蔵記録に当時の住持元譲和尚の書留めたものがある)。即ち開山五百年忌といえば正徳四年であるからその直前に再建したものであろう。時の住持は法山禅演であった。

 

   《引用終了》

 

正徳四年は西暦一七一四年であるから、沢庵来訪の八十一年後のことである。籠釈迦や寿福寺の詳細については新編鎌倉志の「壽福寺」の項や私の注を参照されたい。]

 

 

耳嚢 巻之六 きむらこう紋所の事

 きむらこう紋所の事

 

 三浦一等の内、當時佐原名乘候(なのりさふらふ)人は、丸にやはり三つ引を附候得共(つけさふらえども)、右三つ引を系譜抔にきむらこうと記し候よし。其子細は、いにしへは右三つ引の一筋黄、二筋目は紫、三筋目は紅に染(そめ)し故、むらさきの下略にて、きむら紅と唱へ候由。佐原氏の人、ものがたりの由、人のかたりぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:感じさせない。武辺有職故実。

・「きむらこう」岩波のカリフォルニア大学バークレー校版では『木村こう』と表記し、長谷川氏は注されて、『三引両の三筋を黄・紫・紅に染めたもの』と記す。サイト「風雲戦国史――戦国武将の家紋」の引両紋の悲喜こもごもには、この通りに着色したカラーの三浦氏の幟が、同三浦氏のページに家紋の図像がある。後者によれば、三浦三つ引両のルーツは桓武平氏良文流とする(今、自宅の書斎にいる私の背後の山の頂上に彼の墓がある)。以下、引用させて頂く(西暦を漢数字に代えさせて頂いた)。

   《引用開始》

 横に、あるいは竪に一本、二本あるいは三本などと線を引いた紋がある。これらの紋は総称して「引両」紋と呼ばれる。非常にシンプルでかつ斬新な武家ならではの家紋である。

 引両紋は、龍を象ったものといわれている。すなわち一龍が「一つ引両」であり、二龍が「二つ引両」というのである。龍は古来、中国では天子の象徴として、我が国では雨の神として尊敬されてきた。家紋となったのも、そのような霊力にあやかろうとしたものと考えられるが、「両」が「龍」に通じることから、そのような説が成立したのであろう。

 鎌倉時代初期、源氏の一門である足利氏・新田氏は将軍家の白幕に遠慮して、自らの陣幕に二本の線、あるいは一本の線を引いた。それが足利氏の「二つ引両」となり、新田氏の「一つ引両」の紋に変化していったのである。こちらの方が、「引両紋」の成立としてはうなづけるものがある。

■幕紋[やぶちゃん注:ここにモノクロームの「三つ引き(黄紫紅)」「二つ引き」「一つ引き(大中黒)」の幟紋が掲げられている。

 三浦氏も「引両紋」を用いたが、三浦氏のものは「三つ引両」として有名である。三浦氏は源頼朝の創業を援け、鎌倉幕府初期の重鎮であった。この三浦氏の幕は、黄紫紅(きむらご)の三色に染め分けられたもので、三浦の「三」の文字を表現したものといわれる。それがのちに「三つ引両」の紋に転じたのである。このように、引両紋は陣幕から転じたものとみて間違いない。

 三浦氏の嫡流は「宝治合戦」で滅亡したが、一族は各地に分散し「三つ引両」の紋を伝えた。会津の葦名氏、越後の三浦和田氏一族、越後・周防の平子氏、織田信長に仕えた佐久間一族も三浦氏の分かれであった。さらに、美作の三浦氏、肥前の深堀氏など各地に広がった三浦一族は、いずれも三つ引両の紋を用いている。

  三浦氏の家紋の記録としては、永享七年(一四三五)に鎌倉公方が、常陸長倉城主の長倉遠江守を追罰した戦記物『羽継原合戦記』に「三つ引両は三浦介」とあり、『見聞諸家紋』にも、三浦介として「竪三つ引両」が記されている。また、北条早雲と戦って滅亡した三浦義意の肖像画の鎧の胴には、「丸に三つ引両」が描かれている。

 とはいえ、長い歴史の流れのなかで三つ引両から他の紋に転じた例もある。たとえば、越後の三浦和田氏一族の場合、惣領家である中条氏は鎌倉時代に三つ引両を用いていたことが知られる。それが、南北朝のとき足利尊氏に属して功があり、戦功の証として酢漿草(かたばみ)を賜った。これをきっかけとして、以後、三つ引両に代えて酢漿草紋を用いるようになったと『中条家記』にみえている。

   《引用終了》

・「一等」底本は右に『(一統)』と補正注を附す。岩波版長谷川氏は「一党」と補正。後者の方がよい。

・「佐原」ウィキの「佐原氏」のほぼ全文を引く(アラビア数字を漢数字に代えた)。『佐原氏(さわらし)は相模三浦氏の一族。三浦大介義明の末子・十郎義連を祖とする。宝治合戦で本家三浦氏が滅んだ際には盛連系を除く佐原氏の一族はこれに殉じて族滅した。僅かに盛連一族のみが生き残ったが、その出身である盛時は三浦氏を再興した。また、盛時の兄弟達の子孫は会津の豪族として活躍している。他にも越後山吉氏は男系では佐原氏の子孫である』。『三浦大介義明の末子である義連は相模国衣笠城の東南・佐原(現・神奈川県横須賀市佐原)に因んで佐原十郎と号した。これが佐原氏の始まりである。佐原義連は平家追討、奥州合戦等で功を立てた。特に後者では陸奥国会津を報償として与えられ、後に佐原氏が会津の豪族として発展する土台を築いた。 建仁三年(一二〇三年)に義連は死去するが、その後の佐原氏の家督がどのようになったかは定かではない。ただ、義連の息子のうち、盛連の遺児達が会津地方に因んで姓を名乗り、後に当地の豪族として発展していったことからすると盛連は会津地方を相続したと考えられる(実際に会津蘆名氏は盛連を初代とする系図が見受けられる)。盛連は本家である三浦義村の娘である矢部禅尼と結婚しているが、彼女は最初は執権北条泰時と結婚して時氏を儲けたものの夫と離別して盛連と再婚したのである。これにより盛連は得宗北条氏と縁繋がりとなった』。『宝治元年(一二四七年)に三浦氏追討の辞が下されて宝治合戦が勃発する。この戦いでは佐原氏の殆どが三浦側に加わったが、北条氏の縁繋がりのある盛連の遺児達は北条側に加わった。戦いの結果、三浦氏の本宗は族滅亡したが、佐原氏も同時に盛連系を除いて族滅したのである。宝治合戦後に盛連の五男・盛時は三浦介を継承して三浦氏を再興することが許された。これが相模三浦氏である。また、盛時の兄弟の子孫は会津の豪族として発展した。その中で有名なのは会津守護と呼ばれた蘆名氏である。盛時の孫である明連は越後国の池保清の娘と結婚した。二人の息子である成明は母方の池氏の名跡を継ぎ、その子孫は山吉氏として発展した』。底本の鈴木氏注に、『この系統の佐原姓が寛政譜に二家ある』とある。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 「きむらこう」の紋所の事

 

 三浦一党の内、現在、佐原姓を名乗っておらるる御武家は、その昔の三浦氏御一党と同じく、

――丸に、やはり、三つ引き

の紋を附けておらるるが、この三つ引きの紋のことを、これ系譜等では、

「きむらこう」

と記して御座る由。

 その子細によれば、古えは、この三つ引きの一筋を黄(き)に、二筋目は紫(むさらき)に、三筋目は紅(こう)にそれぞれ染めて御座ったゆえ、「むらさき」の下を略し、

「黄紫紅(きむらこう)」

とは唱へて御座る由。

 佐原氏御当家の方が直接に物語られた由、知人から聴いた話で御座る。

丘淺次郎 生物學講話 第六章 詐欺 HP版

「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」に丘淺次郎「生物學講話 第六章 詐欺」HP版を公開した。――丘浅次郎先生と、あのKと「先生」が――出逢っていたかもしれない――そんなことを「四 忍びの術」の注に追加しておいた。僕はこういう無想がとっても好きなんだ……

明恵上人夢記 5

一、建久七年春の比、法花經壽量品の註の抄を作る。或る夜、其の義理を案じ、涙を流し、如來を戀慕し奉る。即ち、傍に壽量品の疏(しよ)等を取り集めて熟眠(じゆくめん)し了んぬ。其の夜、夢に、上人之御房御他行(ごたぎやう)之間、成辨、其の御寢所に居り。即ち棧敷(さじき)の如し。其の傍に厨子の口(たな)の如き有り、即ち無量の美膳を調へ居(す)ゑたり。成辨、いくらともなく之を取りて食ふ。又、諸人に與へて之を食はしむ。其の美膳、形、笋(たかむな)の如き等、多く之有りと云々。

 

[やぶちゃん注:「建久七年」西暦一一九六年。

「法花經壽量品」「法華経」二十八品中の第十六如来寿量品。釈迦が久遠の昔から未来永劫に亙って遍在する仏であることを説いたもの。

「上人之御房」一応、文覚ととっておくが訳では出さない。その意図は「2」の私の「上人」の注を参照のこと。

「他行」他所へ行くこと。外出。

「口(たな)」底本の注『原本「口(タナ)」とある』によって復元した。底本ではひらがなで「たな」とする。私はこの原本の「口」という表記にこそ、明恵の夢の大いなるシンボライズされた意味があるのではないかと考えている。

「美膳」豪華な料理をもった膳一式ととった。後文に「其の美膳、形、笋の如き等、多く之有り」とあることは、その料理が一品ではないことを指していると考えるからである。

「いくらともなく」その食した分量がはっきりしないことを指すとも、沢山とも、少しばかりともとれる表現であるが、次で「諸人に與へて」とあることを考えれば、少しだけであろう。但し、これが一種の神々の霊物ネクタールであるならば、その分量は減らないから、存分に食したとしても構わないように思われはする。しかしストイックな明恵がそうするとは思えず、そうしていたら明恵はそれがわかるように記述すると思われる。なお、間違えてはいけないのは「厨子」は、ない、という点である。あるのはその不思議な「口・タナ・棚」のみであり、そこにこの美膳が並んでいるのである。]

 

■やぶちゃん現代語訳

 

一、建久七年春の頃、私は釈迦の永遠の生命を説いた「法華経寿量品(ほけきょうじゅりょうぼん)」の註釈の抄録の作成を自らに課していた。そんなある夜のこと、ある章句の意義を案ずるに、ふっと何だが零れてしまい、その一瞬、釈迦如来のことを深く恋慕し申上げている自分を意識したことがあった。その夜、私は「寿量品」について種々の注釈が記されてある、数多(あまた)の書物などを纏めおいて、その傍らで深い眠りに落ちた。その時に見た夢。

「私の上人様は外出なさっておられ、その御留守の御寝所に私はいる。そこは、高床(たかゆか)の桟敷のようになっており、その傍らには厨子を祀る際、その前に据えるような、一種の棚――それは「口(くち)」と表現するのが妥当であるような不思議な形状(というか場所というか空間)――のようなものが据えられてあり、まさにそこには、曰く言い難い、まことに豪華な料理が調理されて据えおかれてあった。私は少しだけ、それを摂って食べた。また、その後、それを持って里へ出でて多くの人々にそれを分け与え、食べさせた。その料理には、笋(たけのこ)のような不思議な形をした食材が多く使われていた……。」

 

[やぶちゃん補注:「2」に続いて、ここでも「師は不在」である。そして「2」の祭壇と同様に、不思議な構造の、まさに「祭壇のような上人の寝所」である。上人が不在で、舞台がその寝所である、というのは容易に「上人の死」の象徴であると考えてよかろう。そうしてそこにある不思議な料理は即座に「上人の霊肉」という解釈を容易にする。フロイト流の考え方を援用するならば、私には、この「口」のような形を連想させる棚は母性であり、屹立する「笋」は、それに対応する父性の象徴であるように思われ、明恵の中の、両性性の合一(超越)を図ろうとする意識の一つの現われであるようにも思われるのである。]

だれが自然への愛を妨げたか 萩原朔太郎

        ●だれが自然への愛を妨げたか

 

 學校に於て、私は植物學を學んだ。それから尚、動物學と鑛物學の初歩を學んだ。そして一切の「自然」が、ただその屬種を分類するところの、煩瑣な記憶力への公式であり、尚且つ試驗のために課せられてる、厭な陰鬱の現象にすぎないことを、しみじみ深く教へられた。それからして私は、ずつと今日に至るまで、すつかり自然への愛を無くしてしまつた。

 

[やぶちゃん注:昭和四(一九二九)年第一書房刊のアフォリズム集「虚妄の正義」の「社会と文明」の一章。]

躁忙 大手拓次

 躁忙

 

ひややかな火のほとりをとぶ蟲のやうに

くるくるといらだち、をののき、おびえつつ、さわがしい私(わたし)よ

野をかける仔牛(こうし)のおどろき、

あかくもえあがる雲の眞下(ました)に慟哭をつつんでかける毛なみのうつくしい仔牛(こうし)のむれ。

鉤(はり)を産(う)む風は輝く寶石のごとく私(わたし)をおさへてうごかさない。

底のない、幽谷の闇の曙(あけぼの)にめざめて偉大なる茫漠の胞衣(えな)をむかへる。

つよい海風のやうに烈しい身づくろひした接吻をのぞんでも、

すべて手だてなきものは欺騙者の香餌である。

わたしの躁忙は海の底に

さわがしい太鼓をならしてゐる。

 

[やぶちゃん注:「躁忙」は「そうばう(そうぼう)」で「怱忙」と同義であろう。忙しくて落ち着かないことを言う。「欺騙者」は「きへんしや(きへんしゃ)」と読み、「欺騙」は「欺瞞」と同義で、欺(あざむ)き騙(だま)す者。]

鬼城句集 春之部 椿

椿    椿咲く親王塚や畑の中

[やぶちゃん注:「親王塚」大阪府芦屋市翠ヶ丘町にある在原業平の父である阿保親王の古墳とされる親王塚のことか。マイケル氏の『マイケルの「芦屋と打出」』にある阿保親王塚古墳の叙述に『以前は畑のまん中にあったので、遠くから古墳全体の様子がうかがえた』らしい、とある。]

       墓前

     咲きかはりかはり八千歳の椿かな

[やぶちゃん注:底本では「かはりかはり」の後半は踊り字「〱」。「八千歳」は「やちよ」。]

     石の上に椿並べて遊ぶ子よ

     雨の中に落ちて重なる椿かな

     一つ殘りて落ち盡したる椿かな

2013/04/13

沢庵宗彭「鎌倉巡禮記」 22

 又次の日は建長寺に入、佛國禪師を拜す。正統庵は夕に扉をもとぢず。人すまざればよるほけだものすみかとなるとみえたり。いかにしてかゝる樣ぞと問へば、所領庄園いさゝかも今はなければ、兒孫末派はありながらも、わが私の庵をさへ守かねたる事なれば、本庵をいかにともしがたくとかたる。常寂の塔は風とぼそをひらき、さし入物はよはの月より外はあらじ。禪師そのかみ、

  月はさし水鷄はたゝく槇の戸を あるしかほにてあくる山風

と詠じ給けるは、今みればあとを讖し給ふにこそと覺ゆ。さまざまに色どりゑがきたる棟うつばりを雨にくたし、現容によくにむ事をおもひ、志をきざみし尊像も今はつゆしづくにうるほふ。後門のかたをみればから樣にきざみなしたる曲几くづれうづびてあれども、たれおさむる人もなし。か樣にもすたれはつる事やとなげく外なし。いさゝか香の資を奉りしもたれにかくといふべき人もなし。門派の人を尋て授て歸りし。禪居庵は大鑑禪師淸拙和尚の塔也。香拜して歸りぬ。一老僧後に宿坊へ尋られ古今の物かたりどもありし。

[やぶちゃん注:「佛國禪師」高峰顕日(こうほうけんにち 仁治二(一二四一)年~正和五(一三一六)年)。執権北条貞時・高時父子の帰依を受け、鎌倉では万寿寺・浄妙寺・浄智寺・建長寺の住持を歴任した。門下に夢窓疎石などの俊才を輩出、関東における禅林の主流を形成した(ウィキ高峰顕日に拠る)。

「讖し」は「しるし」と訓じているものと思われる。音は「シン」で、字義は、しるし。兆しで、未来の吉兆禍福の前兆の謂いである。

「建長寺境外(外門の道を隔てた向かい)にある建長寺の塔頭。現在は「禅居院」と院号を用いている。

「大鑑禪師淸拙和尚」清拙正澄(せいせつしょうちょう 一二七四年~暦応二・延元四(一三三九)年)。中国渡来の禅僧で北条高時の信任を得、後は後醍醐天皇の勅命で京都の建仁寺・南禅寺などに住した。]

明恵上人夢記 3・4

3・4

一、同廿七日の夜、釋迦如來の御前に於いて、花嚴經を讀誦し奉る。其の間、熟眠(じゆくめん)し了(をは)んぬ。夢に云はく、『菩薩三僧祇(さんそうぎ)修行の圖』と云ひて、獨鈷(とこ)の如くなる物あり。處々に瑕(きず)あり。初僧祇より第二個所に至る間の瑕なんど云ひてあり。成辨(じやうべん)も此(これ)に從ひて修行せんずると覺ゆ。然るに、初心には此(かく)の如き少々の瑕のあるなりと思ふ。此(これ)は、成辨、經典を讀誦する間に心の散亂するをうれふるが故に示す所也。又、東寺の塔の許に繩をひけり。其の繩をひける内は、其の地、深田の如くして歩みにくげなり。少々人のありくも、其の足、地に入りて歩みにくげに見ゆ。成辨、其の繩をひける内に、少しき片足を踏み入れたるが、やがて足をひきて繩の外の大路(おほぢ)へ去りぬ。其の大路は堅地(かたぢ)にして、歩みよげなりと見ると云々。

 

[やぶちゃん注:これは二つの夢から構成されている。訳では分けた。

「花嚴經」正式名「大方広仏華厳経」「大方広仏」とは、時空間を超越した絶対的存在としての「仏」というものの存在について説いた経。「厳」は荘厳(しょうごん)で、「花で厳かに飾られた広大なる教え」の意。

「菩薩三僧祇」三阿僧祇劫(さんあそうぎこう)のこと。修行者である菩薩が仏果を得るまでの途方もない永い時間がかかる修行段階を三分したもので、五〇ある修行の諸段階の内、十信・十住・十行・十回向を第一阿僧祇劫・十地のうちの初地から七地までを第二阿僧祇劫・八地から十地を第三阿僧祇劫に三大別したもの。なお、「僧祇」は「阿僧祇」のことで、梵語の「無数」「無量」の音写で数えられないほどの大きな数、具体的には10の56乗(一説に10の64乗)を示す数の位の単位である。

「獨鈷」密教で用いる法具金剛杵(こんごうしょ)の一種。鉄製又は銅製で両端が尖った短い棒状のもので、魔を払う。古代インドの投擲用の武器の転用。独鈷杵(とっこしょ)。

「此は、成辨、經典を讀誦する間に心の散亂するをうれふるが故に示す所也。」「成辨」は文治四(一一八八)年十六で出家して東大寺で具足戒を受けた折りに明恵が受けた法諱。後に高弁と改名している(底本の注記によれば承元二(一二〇八)年五月以降で承元四(一二一〇)年七月五日以前の間の改名である)。この部分は夢記述ではなく、「夢記」にしばしば見られる明恵による夢解釈で、非常に貴重な部分である。

「東寺」京都市南区九条町にある真言宗の根本道場。現在は東寺真言宗総本山。教王護国寺とも呼ばれる(参照したウィキの「東寺」によれば、正式な名称は東寺である)。

「塔」知られた東寺の国宝五重塔。ウィキの「東寺」によれば、高さ五四・八メートルで木造塔としては日本一の高さを誇る。天長三(八二六)年、空海が創建に着手したが、完成は空海没後の九世紀末とされる。雷火や不審火で四回焼失しており、現在の塔は五代目で、寛永二一(一六四四)年に徳川家光の寄進によって建てられたもの。『初重内部の壁や柱には両界曼荼羅や真言八祖像を描き、須弥壇には心柱を中心にして金剛界四仏像と八大菩薩像を安置する。真言密教の中心尊であり金剛界五仏の中尊でもある大日如来の像はここにはなく、心柱を大日如来とみなしている』とある。底本の注には、『この辺の記事は建久年間に行われた文覚・上覚らによる修理が意識されたものか』とある。しかし、この『意識』というのは夢の具体的アイテムの素材動機となったという以上の情報を教えてくれるものではない。もう少し、即ち、彼らの弟子である明恵が、その改修にどう関わったか、関わらなかったか、といった情報が欲しい。

「繩をひけり」地曳き。「地曳き」は本来は家屋などを建築する際に地均(なら)しや地突きの際に行う儀式としての地曳き祭りを指すが、この場合は実際の間縄(けんなわ)を用いての検地測量や間隔を測る作業を言っている。]

 

■やぶちゃん現代語訳

一、同二十七日の夜、釈迦如来の尊像の御前に於いて、「華厳経」を讀誦し奉った。それを成し終えてから、横になって深い眠りに入った。その時の第一の夢。

「――『菩薩三僧祇(さんそうぎ)修行の図』――

と書かれたものに、独鈷(とっこ)のような物体が描かれている。その物体には所々に疵(きず)がついている。図にはまた、

『――第一阿僧祇劫より第二阿僧祇劫に至る修行の諸階梯の間に生じた疵――』

などという解説が記されている。

 その図を見ながら、

『私、成弁(じょうべん)も、この絵解きに従って修行をして来たし、これからも続けるのであろうなあ。』

としみじみと感じた。

 さても、

『修行の初心にあっては、まさにかくの如き、痛々しき少々の疵も、これ、兎角、つきものなのだなあ。』

とも思いつつ、見つめていた。

〈私明恵の夢解釈〉

これは、私、成弁が、経典を読誦している、その只中にあってさえも、得てして、知らぬ間に心が乱るることがあるが故に、その「警策(けいさく)」として、私、成弁に対し示された夢なのである。

 

続く第二の夢。

「私は東寺の五重の塔の直ぐのところで、地面に間縄(けんなわ)を曳いているのであるが、その縄を曳いた場所の内側(東寺境内の内側)に当たる地所は、深田のような湿地化沼沢のようになってしまっており、非常に歩きにくそうに見える。

 そこには実際、少しは人が歩いているのではあるが、彼らの足はずぶずぶと地面に潜り沈んでしまって、やはり如何にも歩きにくそうに見えるのである。

 私、成弁も、試みに、その縄を曳いた直ぐの、その内側のところに、少しだけ、片足を踏み入れようとしたが、すぐに止め、間縄(けんなわ)の外側(東寺境内の外)の、大路の方に向かって去った。その私が行く大路は、非常に堅い地面であって、歩きながら、

『ああ! 如何にも歩き易そうだなあ。』

と頻りに感じ入った――。

 

[やぶちゃん注:本条について、河合氏は「明惠 夢に生きる」の中で(一三三頁)、まず3の夢について、『自己反省の強い明恵としては、いろいろな「瑕」を意識することが多かったであろうが、「初心には此の如き少々の瑕のあるなり」という言葉で慰められたであろう』とある。ということは、河合氏は、覚醒時には激しい自己拘束を課している明恵の本心の底にあるところの自己の修行実体への秘められた虞れを、夢の中の、夢の中でのみ発動するような、より柔軟で包括的な明恵の内なる、ある存在が『慰め』たということになる。

 また、4について河合氏は『明恵がもう少し社会との接触をもつようになることを暗示しているように思われる』とされ、夢の中の極めて明瞭な二項対立からは、『明恵は以前よりは父性的なものを身につけ、隠遁生活から外の社会へと少し乗り出してゆくことが推察される』と分析なさっておられる。しかし、本夢が底本編者の推定通り、建久六(一一九五)年の記載であるとすれば、明恵はまさに、東大寺への出仕を止めてしまい、神護寺をも出奔して、紀州白上の峰に隠棲してしまうのである。河合氏はこの夢をこの白上遁世以降で、耳自截の翌年である建久九(一一九八)年頃の八月(この時、明恵は一度、高雄に戻って、その後、紀州の白上や筏立に移って点々とするのである)以前に設定しておられるのではあるまいか?]

耳嚢 巻之六 生得ならずして啞となる事

 生得ならずして啞となる事

 

 大御番(おほごばん)を勤仕せる餘語(よご)彈正といへる人あり。彼(かの)一子至(いたつ)て聰明なりしが、年頃になりて、與風啞(ふとおし)となりし由。耳も不聞(きこえず)、物言ふ事曾て難成(なりがたし)。されども、年頃になりての事故、物書(ものかく)事はなりぬれば、廢人たる事を歎き、惣領除きを父に願ひて今に存在の由。啞などは自然の不具にて、出生より其病あるは不珍(めづらしからず)といへども、中途右樣の儀有べき事とも思はれず。其父酒癖ありて不經濟にて、甚(はなはだ)貧家成(なる)よしなれば、それを見限りて、其身をわざと廢人に僞(いつはり)なしたるにはあらずやと、いえる人もありしが、右斗(ばかり)にも無之(これなく)、小日向邊の人の奧方も、ふと啞となりて今も存在の由。名はかたりがたきが、三橋飛州(みつはしひしふ)しれる人の由にて、かたりぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:奇態な薬物副作用の疾患から奇病で連関。ここでは後天的に生じた失語様疾患の男女二例を挙げ、男子のケースでは佯狂の可能性を指摘する巷間の噂を載せるが、普通に物書きは普通に出来るというこの男子例は、物心ついてから急に言葉を発しなくなっている点、耳が聞こえないらしい(聴覚器官若しくはそれに相当する脳の部位に重い疾患があると考えるよりも、聴こえてはいるが聴覚上の意味言語の理解が完全に不能になっている可能性もある)点、その後も普通に生活出来、また正常な「書く」能力は失われておらず、日常的行動及び意思伝達は可能である点、更には自身で「惣領除きを父に願ひ」出るという極めて高次の判断力を持っていると思われる点などから、重度の言語症を呈する脳梗塞による運動性失語の全失語様の可能性が疑われる(左大脳半球のシルビウス裂周囲の広範に渡る損傷がもたらす真性全失語であるならば「聞く」「話す」「読む」「書く」全ての言語機能が重度に障害されるので本例とは齟齬する)。症例が仔細に語られない(本当に全く失語しているのか、その他の機能はどうかが語られていない)後者の女子例では寧ろ、重い統合失調症や強い心的外傷後のPTSDや強迫神経症などに起因する緘黙のようにも見える。

・「餘語彈正」底本の鈴木氏注に、『寛政譜に余語氏で弾正を称した者を見ない。大番を勤めたのは勝美で、寛政七年番を辞している。家譜提出当時その子の勝強(カツカタ)は役についていないが、この人がのちに弾正といったのであろう』と推定されておられる。因みに余語氏は近江国伊香郡余語庄をルーツとする姓のようである。

・「三橋飛州」岩波版長谷川氏注に三橋『飛騨守成方(なりみち)。勘定吟味役・日光奉行・小普請奉行。』と注しておられる。彼について「耳嚢 巻之四 痔疾呪の事」の中に出る「三橋何某」の底本注で、鈴木氏は寛政八(一七九六)年当時に勘定吟味役であった彼をその人物に比定しておられた。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 生まれつきではないのに啞(おし)となってしまう事

 

 大御番(おおごばん)を勤仕致いておらるる餘語弾正殿と申さるる方が御座る。

 かの御仁の一子、これ、至って聡明であられたが、年頃になって、突然、唖(おし)になられた由。

 何でも、耳も聞えぬようにて、物を申すことも、これ、全く出来ずなったとのこと。

 然しながら、年頃になっての急変なれば、物を書くことは、これ、普通にしおおせるとのことにて、ある時、自身、書面を以って、

――廃人同様ニ成ツタル事是レ深ク歎カバコソ我等廃嫡ノ儀願上申候――

と父に願い出て、今に存命の由。

「……唖なんどと申すは普通、先天的な障碍であって、出生(しゅっしょう)のその砌りより既に、その病いを発しておるが普通のことじゃ。……成長の中途、それも――元服を過ぎての後に、このような症状を、これ、急に呈すると申すは、ありそうなことととも思われぬ。……かの父弾正……実は大酒飲みにて、飲酒遊興に湯水の如、家産を遣(つこ)うて、の……何でも、餘語家、これ、甚だ貧家なる噂なればこそ……それを息子の見限って……自身の身を、わざと廃人のように成し……謂わば、偽りに唖を演じておるのでは、これ、あるまいか?……」

なんどと、口さがないことを申す者も、これ、おるようじゃ。

 しかし、こうした例はこの一件だけではない。

 小日向辺に住もうさる御仁の奧方も、かなり以前に、突如として唖となり、今も全く緘黙せるままに存命致いておる由。

 こちらは仔細あって、姓名を明かすことは出来ぬが、三橋飛騨守成方(なりみち)殿の知れる人の由にて御座る。

 以上の二件の話は、これ、直接に成方(なりみち)殿より聴いた話しで御座る。

無意義なる人生 萩原朔太郎

無意義なる人生  どんな眞面目な仕事も、遊戲に熱してゐる時ほどには、人を眞面目にし得ない。――といふ事實ほど、人生の不眞面目と無意義を語るものはない。

 

[やぶちゃん注:大正十一(一九二二)年アルス刊のアフォリズム集「新しき欲情」の「254」。]

鬼城句集 春之部 蒲公英

蒲公英  芝燒けて蒲公英ところどころかな

[やぶちゃん注:底本では「ところどころ」の後半は踊り字「〲」。]

ひろがる肉體 大手拓次

 ひろがる肉體

 

わたしのこゑはほら貝(がひ)のやうにとほくひろがる。

わたしはじぶんの腹(はら)をおさへてどしどしとあるくと、

日光(につくわう)は緋のきれのやうにとびちり、

空氣(くうき)はあをい胎壁(たいへき)の息(いき)のやうに泡(あわ)をわきたたせる。

山(やま)や河(かは)や丘(をか)や野(の)や、すべてひとつのけものとなつてわたしにつきしたがふ。

わたしの足(あし)は土(つち)となつてひろがり

わたしのからだは香(にほひ)となつてひろがる。

いろいろの法規(はふき)は屑肉(くづにく)のやうにわたしのゑさとなる。

かくして、わたしはだんまりのほら貝(がひ)のうちにかくれる。

つんぼの月(つき)、めくらの月(つき)、

わたしはまだ滅(めつ)しつくさなかつた。

 

[やぶちゃん注:非常に珍しく題名の「肉體」及び、本文は「緋」を除いて総てにルビが振られている。寧ろ、「緋」は本文総ルビの脱落のようにしか思われない。]

2013/04/12

父は順調に回復

父は手術の翌日からすぐに歩き出し、極めて順調に回復している。お見舞いの言葉など頂戴した方々へ感謝申し上げる。

内部への瞳孔 萩原朔太郎

        ●内部への瞳孔

 

 友人もなく、社會もなく、全くの孤獨でゐるところの人々は、だれでも必然にすぐれた心理學者になるであらう。なぜといつて彼の觀照し得る世界は、彼自身の内部から抽象する外にないのであるから。

 

[やぶちゃん注:昭和四(一九二九)年第一書房刊のアフォリズム集「虚妄の正義」の「孤獨と社交」の巻頭。]

銀の足鐶 大手拓次

 銀の足鐶

 ――死人の家をよみて――

 

囚徒らの足にはまばゆい銀のくさりがついてゐる。

そのくさりの鐶(くわん)は しづかにけむる如く

呼吸をよび 嘆息をうながし、

力をはらむ鳥の翅(つばさ)のやうにささやきを起して、

これら 憂愁にとざされた囚徒らのうへに光をなげる。

くらく いんうつに見える囚徒らの日常のくさむらをうごかすものは、

その、感觸のなつかしく 強靱なる銀の足鐶(あしわ)である。

死滅のほそい途(みち)に心を向ける これらバラツクのなかの人人は

おそろしい空想家である。

彼等は精彩ある巣をつくり、雛(ひな)をつくり、

海をわたつてとびゆく候鳥である。

 

[やぶちゃん注:「死人の家」は、恐らくドストエフスキイの「死の家の記録」(原題“Записки из Мёртвого дома”一八六二年作)である。かれが読んだのは片上伸(かたやまのぶる)訳の大正三(一九一四)年博文館刊の「近代西洋文芸叢書」第六冊に所収されたものであろう。この時の邦訳題は「死人の家」である。]

鬼城句集 春之部 木の芽

木の芽  西日して木の芽花の如し草の宿

     桵の芽のほぐるゝ山の靜かな

[やぶちゃん注:「桵」は「たら」、「タラの芽」で知られるセリ目ウコギ科タラノキ Aralia elata のこと。樹皮には幹から垂直に伸びる棘が数多くある。]

     桵の木の飽くまで刺を吹きにけり

栂尾明恵上人伝記 15 二十四歳――自ら自身の右耳を切り落とす

 上人或る時宣べ給はく、彼の優波毯多(うばきくた)の證智(しようち)は法身(ほつしん)を見るといへども、百歳以後の出世(しゆつせ)、尚生身)しやうしん)を拜せざる恨(うらみ)あり。況や滅後數百歳の後、邊地末法(へんちまつはふ)の世に生れて、在世の眞容(しんよう)をも拜し奉らず、四辨(しべん)の御法(みのり)をも聞かず。又賢聖向果(げんじやうかうか)の道をも耳の外に聞き、西天處々(さいてんしよしよ)の遺跡(ゆゐせき)も是を拜する思ひを絶てり。悲しいかな、我等只春來れば花に戲れ、秋を迎へては果(このみ)を翫ぶ。明暮(あけくれ)心に浮かぶことゝては、財欲・色欲・法欲にのみ埋(うづ)もれて、いかやうに搖(うご)き働くとうふことをも知らず。只物うち食ひては睡る計りをことゝして、他の非(ひ)・他の失(しつ)をのみ心に思ひ、口にのべ、戲笑謟曲(びせうてんごく)極りなし。年月はかはるかはる變ずれども、此の理をば改めず、飽くまで此を笑み、恣に是を食する、是を以て比(くら)ぶるに、我等が第八識雜染種(だいはちしきざふせんしゆ)の中には、只生死有漏(しようしうろ)の中の衣食等の增上業(ぞうじやうごふ)の種子(しゆうじ)をのみ裹(つゝ)めり。然れば其の感ずる所は、只世間の五欲の味をのみ貪る。更に無漏新薰(むろしんぐん)の種なし。あぢきなきかなや、恥(あづか)しきかなや、前世愚にして、三十二相の華(はな)の姿を拜する春も來らず、三菩提(さんぼだい)の果(このみ)を結ぶ秋をも迎へず、此の恨みを思ふに、胸を裂くが如し。何の味あればか、人間に有りて世樂(せらく)に誇らんや。如來最後入寂(にふめつ)の中夜(ちゆうや)に遺誠(ゆゐかい)を垂れて日はく、汝等比丘(なんだちびく)、まさに自ら頭(かふべ)を摩(な)づべし。巳に飾好(しきかう)を捨てゝ壞色(ゑじき)の衣を著す云々と。馬鳴論師(めみやうろんじ)、此の文を釋し給ふに、上々尊勝處(しやうしやうそんしようしよ)。最先(まつさき)に折伏(しやくぶく)す。故に應に自ら故(ゆゑ)を知るべしと云へるなり。又自ら無量(むりやう)の勝心(しようしん)の成就することを示現(しげん)して、身心の行を輕賤(けいせん)するが故に、貴高の煩惱の心を遠離(をんり)するが故にといへり。汝等憍心(きやうしん)忽に起らば、自頭(じとう)をさぐり、壞色の衣を着したる理を思はゞ、貴高の憍心自ら治せられんことを宣(の)べ給へり。然るにたまたま頭(かうべ)を剃(そ)れども、彌々(いよいよ)其の頭のきらめけるを快くし、法衣を着せるも、倍々(ますます)壞色のてれるにほこる。拙きかなや、道の爲に身をやつさば、眼をもくじり、鼻をもきり、耳をもそぎ、手足をも斷(た)ち盡すべし。然れども彼は凡身(ぼんしん)の堪ふべき處に非ざれば、先づ上々尊勝莊嚴(しやうごん)の鬢髮(しゆほつ)を落して、志を潔くせん事を授け給ヘり。然るに巳に藥を服して病を發す、聖術(しやうじゆつ)爰に盡きたり。此の如きの衆生、法理に疎く、我等如來の本意に背ける事を思ひ續くれば、髮を剃れる頭も其の驗(しるし)とするにたらず。法衣を着せる形も其の甲斐更になし。其の心抑へ難きに依つて、彌々形をやつして人間を辭し、志を堅くして如來の跡(あと)を踏まんことを思ふ。然るに、眼をくじらば、聖教を見ざる歎(なげき)あり。鼻を切らば則ち、涕洟(ていい)垂りて聖教を汚(けが)さん。手を切ちば印を結ばんに煩ひあらん。耳は切ると云へども、聞えざるべきに非ず。然れども五根(ごこん)の闕(か)けたるに似たり。されども、片輪者(かたわもの)にならずば、猶人の崇敬(そうけい)に妖(ばか)されて、思はざる外に心弱き身なれば、出世もしつべし。左樣にてはおぼろげの方便をからずば、一定(いちぢやう)損をとりぬべし。片輪者とて人も目を懸けず、身も憚りて指出(さしい)でずんば、自らよかりぬべしと思うて、志を堅くして、佛眼(ぶつげん)如來の御前にして、念誦の次でに、自ら剃刀を取つて右の耳を切る。餘りて走り散る血、本尊竝に佛具聖教等に懸り、其血本所に未だ失せずと云云。其の夜の夢に、一人の梵僧來りて告げて云はく、我は是れ三世の諸佛の因位(いんゐ)の萬行(まんぎやう)、頭目手足を法の爲に惜(をし)まざる所作(しよさ)を記する者なりとて、筆を執りて、一册の書の奧に注しぬ。

 

 又其の翌日に華嚴經第二十五〔六十經也〕を披(ひら)くに、如來、他化自在天王宮たけじざいてんのうきう)摩尼寶藏殿(まにほうざうでん)の上にましくて、無量不可思議(むりやうふかしぎ)の大菩薩衆と倶(とも)に、十地の法門を説き給へることを見るに、誠に氣高くいみじく覺えて浦山敷(うあらやまし)きまゝに、此の經文を讀み續けたれば、我も其衆中に交はり列(つらな)れる心地して、悲しみの涙を拭ひ、耳の痛さを忍びて、泣々聲を上げて、「大方廣佛華嚴經(ただいはうくわうぶつけごんきやう)十地品(ぼん)第二十二の一、

 爾時、世尊在他化自在天王宮、摩尼寶殿上、與大菩薩衆倶、於阿耨多羅三藐三菩提、皆不退轉、(乃至)其名曰金剛藏菩薩・寶藏菩薩・蓮華藏菩薩・(乃至)如來藏菩薩・佛德藏菩薩・解脱月菩薩、如是等、菩薩摩訶薩、無量無邊不可思議不可稱説、金剛藏菩薩而爲上首云々。

[やぶちゃん注:底本の訓点に従って書き下したものを以下に示す。一部に私の判断で送り仮名を補ってある。句読点も適宜、変更した。

 爾時(そのとき)、世尊他化自在天王宮、摩尼寶殿上に在り、大菩薩衆と倶なりき。阿耨多羅(あのくたら)三藐三菩提(みやくさんぼだい)に於て、皆退轉せず、(乃至)其の名を金剛藏菩薩・寶藏菩薩・蓮華藏菩薩・(乃至)如來藏菩薩・佛德藏菩薩・解脱月菩薩と曰ふ。是くのごとき等、菩薩摩訶薩、無量無邊不可思議不可稱説なり。金剛藏菩薩を而かも上首と爲すと云々。]

 是の如く誦(じゆ)し連(つら)ぬれば、他化會上(たけゑじやう)の莊嚴眼前に浮び、在世説法(ざいせせつぱう)の慈顏(じがん)、したしく拜し奉る心地せり。仍て悲喜の涙を拭ひ、本尊をまほり奉り、聲を勵して經を誦する處に、眼の上忽に光り耀(かゞや)けり。目を擧げて見るに、虛空(こくう)に浮かびて現(げん)に文殊師利菩薩(もんじゆしりぼさつ)身(み)金色(こんじき)にして、金獅子に乘じて影向(やうがう)し給へり。其の御長(たけ)三尺許なり。光明赫奕(かくやく)たり。良(やゝ)久くして失せぬ。仍て彌々其の志を勵して、他事なく一心に佛心を悟らんことを祈請(きせい)す。上人極めて柔和(にうわ)正直におはしましゝかば、柔和質直者(にうわしつぢきしや)、即皆見我身(そくかいけんがしん)といふ文も思ひしられたり。

栂尾明恵上人伝記 14 二十三歳 遁世の痛快なるケツまくり

 建久四年〔癸丑〕華嚴宗興隆の爲に公請(くせう)つとむべき評定(ひやうぢやう)あり。學黨(がくたう)雌雄の諍(あらそ)ひ、是を營みて聖意(せいい)を求め、是を憑(たの)みて佛法の益(やく)を得んとも覺えざればあぢきなきことなり。今は此の如き僧中を出でゝ、文殊を憑(たの)み奉つて佛道の入門を得んことを思ひて、高雄を出で、衆中(しゆうちゆう)を辭して、紀州に下向す。其の時詠じ給ひける。

 

  山寺は法師くさくてゐたからず心淸くばくそふくにても

 

[やぶちゃん注:「くそふく」雪隠。厠。便所。「糞拭く」の意。]

 

 湯淺(ゆあさ)の楢原村白上(ならはらむらしらがみ)の峰に、一宇の草庵を立て、居(きよ)をしむ。其の峰に大盤石(だいばんじやく)、左右に聳えて、小(ちいさ)き流水前後に出づ。彼の高巖(かうがん)の上に二間(ふたま)の草庵を構へたり。前(まへ)は西海(せいかい)に向へり。遙(はるか)に淡路島を望めば、雲晴れ浪靜かにして、眼(まなこ)窮(きはま)り難し。北に亦谷(たに)あり、鼓谷(つゞみだに)と號す、溪嵐(けいらん)響(ひゞき)をなして、巖洞(がんどう)に聲(こゑ)を送る。又草庵の緣(えん)を穿(うが)ちて、一株(ひとかぶ)の老松(おいまつ)あり。其の下に繩床(じやうしやう)一脚(きやく)を立つ。又西南の角(すみ)二段ばかり下に當つて、一宇の草庵を立つ。是は同行來入(どうぎやうらいにふ)の爲なり。此の所にして、坐禪・行法・寢食を忘れて怠りなし。或時は佛像に向ひて、在世(ざいせい)の昔を戀慕し、或時は聖教(しやうげう)に對して、説法の古(いにしへ)をうらやむ。


明恵、満22歳。

――あの山寺は、坊主どもが、如何にもクッサくてクッサくてたまんないから、居たくねえ……心を清くしていられるのだったら――糞拭く便所に住んだっていいさ!

美事にケツをまくって神護寺を後にした――
何とまあ――痒かったケツがすっきりするような、痛快な遁世ではないか!

昨日渡唐セル修行僧ノ見タル江ノ島

2013411enosima

栂尾明恵上人伝記 13 エスパー明恵

 或時行法の最中に侍者を召して、手水桶(てうづおけ)に蟲の落ち入りたると覺ゆ、取り上げて放てと仰あり。仍(より)て出でゝ見るに、蜂落ち入りて死なんとす。急ぎ取呈げて放ちけり。 

 

 又、坐禪の中に侍者(じしや)を召して云はく、後(うしろ)の竹原(たけはら)の中に、小鳥(ことり)物にけらるゝと覺ゆる 行きて取さへよと仰せられけり。急ぎ行きて見れば小鷹(こだか)に雀(すゞめ)のけらるゝを追ひ放ちけり。此の如きの事、連々(れんれん)なり。 

 

 或時夜深(よふ)けて、爐邊(ろべ)に眠るが如くして坐し給へるが、俄(にはか)に、あら無慙(むざん)や、遲(おそ)く見付(みつけ)けて、はや食ひつるぞや、火を燃(もや)して、急ぎ行きて、追ひ放てと驚き仰せられけるに、前なる僧、何事に候ぞと申せば、大湯屋(おほゆや)の軒にある雀の巣に、蛇(へび)の入りたるぞと仰せらる。深(しん)の闇(やみ)にてあるに、怪(け)しからずやと思へども、蠟燭(そうそく)急ぎ燃して行きて見れば、はや鎧毛(よろひげ)生(お)ひて、羽(はね)なんども生ひたる雀の子を、大蛇(だいじや)呑みかけて、巣に纏(まと)ひ付(つき)たり。急ぎ取り放ちにけり。かゝる闇の夜に、遙(はるか)に隔たりて、遠き所の物をだに見給ふ。まして我等が陰(かげ)にて惡しき振舞(ふるまひ)する、いかに不當(ふたう)に御覽ずらんとて、御弟子(おでし)同宿(どうしゆく)も、後陰(うしろかげ)までも恥ぢ恐れて、闇室(あんしつ)にても恣(ほしいまゝ)には振舞はざりけり。かゝる事どものあれば、權者(ごんしや)にて御渡り候ふなんど、御後(おんうしろ)にて人の普(あまね)く申し候と侍者の僧など語り申しければ、ことことしくはらはらと暫(しば)し泣き給うて、あら拙(つた)なの者共の云ふことや、さればとよ高辨が如くに定(ぢやう)を好み、佛の教(をしへ)の如くに身を行(ぎやう)じて見よかし、只今に、汝共もかやうのことは有らんずるぞ。我はかやうに成らんと思ふことは努々(ゆめゆめ)無けれども、法の如く行ずること年(とし)積るまゝに、自然と知れずして具足せられたるなり。是はいみじきにはあらず。汝どもが水の欲しければ水を汲みて飮み、火にあたりたければ火のそばへよるも同じ事なりとぞ仰せられける。

 

これは弟子(筆者喜海であろう)の実録である(夢ではない)。

明恵は一種のESP、超感覚的知覚(Extrasensory Perception)を持っていたエスパイであった――しかも――明恵に言わせれば、誰でも、普通に持っているもので、普通に欲しさせすれば普通に実現する――とまで述べているのである――

栂尾明恵上人伝記 12 十六歳から十九歳 受戒 於戒壇院 / 十九の夢 二種 

 文治四年〔戊申〕十六歳にして落髮し、東大寺の戒壇院にして、具足戒を受け給ふ。

 

 十九歳の時、夢に、梵僧來りて、明日、汝に理趣經(りしゆきやう)を授くべしと云ふと見て夢覺めぬ。さて翌日々中(よくじつにつちう)の行法(ぎやうはふ)に、壇の上に音有つて、理趣經を遙(はるか)に遠き方(かた)より、物を隔てゝ響き來たるやうにて讀み授く。初段(しよだん)の金剛手(こんごうしゆ)、若有聞此清淨出生(じやくゆうぶんしせいしゆつせい)句の下(しも)、經の終りを盡くす。其の音(こゑ)而(し)かも虛空(こくう)にして、遠近(ゑんきん)の程聞き定めざるが如し。出堂(しゆつだう)の後、是を記せんとする處に、經の讀み始め慥(たしか)に覺えず。仍(よつ)て筆を閣(お)き、若し大聖(だいしやう)の指授(しじゅ)たらば、重ねて示し給はんことを請ひ、纔(わづか)に目を塞ぎ給ふに、又聲有りて、前(さき)の如く分明に讀むことありき。

 

 又或時、不動の法を修(しゆ)し給ふに、道場忽(たちまち)に華苑と成りて、種々の寶華彌布(みふ)せり。異香薰(くん)じて堂内に遍滿す。又現(げん)に種々の寶網(ほうまう)・寶鈴(ほうれい)・寶幢(ほうとう)・幡蓋(ばんがい)を以て道場を莊嚴(しやうごん)す。上人其の中に有りて此の法を修するに、寶鈴右に旋(めぐ)つて其身(そのみ)を遶(めぐ)る。又三十餘人の梵僧行列して、身に法服(はふふく)を着(ちやく)し、手に香爐を執つて、歌讃稱揚(かさんしやうよう)す。此の如きの奇瑞勝(あげ)て計(かぞ)ふべからず。然れども只(たゞ)屎頭(したう)を見るが如し。いしゝと思ふこともなく、殊勝と思ふこともなし。たゞ鵄舞鴉形(しぶあけい)も同事なり。汝ども、かやうの事をばつれて見るとも、さ思へとぞ教へ給ひける。

栂尾明恵上人伝記 11 十三歳から十九歳 二つの夢記述

 

 

 十三歲より十九まで、金剛界の初行(しよぎやう)の期(き)に至るまで、每日三度、高雄の金堂に入堂す。七ケ年の間退轉(たいてん)することなし。願ふ所は永く世間の榮華を捨てゝ、名利(みやうり)の覊鎖(きづな)にほだされず、必ず文殊の威神(いじん)に依つて如實(によじつ)の正智(しやうち)を得て、佛意(ぶつえ)の源底(げんてい)を極め、聖敎(しやうけう)の深旨(しんし)を覺らんことを望む。然るに、世間に正しき知識もなし。誰(たれ)にか問ひ、何(いづ)れにか尋ねん。諸佛菩薩の加被(かび)に非ずんば、更に得べからざる處なりと思ひて、一心に佛力(ぶつりき)をたのみ仰ぐ。然る間常に種々奇特(きどく)不思議に覺えしことゞも有りき。

 

 或る夜の夢に、大高巖の上に奇麗(きれい)の灌頂堂(くわんぢやうだう)を立てゝ、師匠を受者(じゆしや)として、灌頂を授け奉ると見る。其の時は眞言師に成らんずることをも思はずして、祈請(きせい)の本意(ほんい)にも非ずと覺えき。惣(そう)じて、眞言師と云ふも、學生(がくしやう)と云ふも、誠に悟證(ごしやう)の分(ぶん)もなくて廣學(くわうがく)なるばかりは、浦山敷(うらやましく)も覺えず、唯佛(ほとけ)の出世(しゆつせ)の本意を悟り、佛法に於て、實(まこと)に佛心を得て、教(をしへ)の如くにつとめ修行せんことをのみ思ひき。

 

 或時の夢に、弘法大師、納凉房(のうりやうばう)の長押(なげし)を御枕(おんまくら)にして臥し給へり。其の二つの御眼(おんまなこ)水精(すいしやう)の玉(たま)の如くにして御枕もとにあり。是をたまはりて袖につゝみて持つと云ふことを見給ひき。

栂尾明恵上人伝記 10 十三歳 「今は早十三に成りぬ、既に年老いたり、死なんこと近づきぬらん」――自殺未遂――

李賀は「二十心已朽」――二十(はたち)にして、心、已に朽ちたり――と言ったが――明恵は満十二歳の時に――「既に年老いた……死ぬべき時が近づいてきた……」と思って驚くべき方法で自殺を決行する……のだが……



 十三歳の時、心に思はく、今は早十三に成りぬ、既に年老いたり、死なんこと近づきぬらん、老少不定(らうしやうふぢやう)の習ひに、今まで生きたるこそ不思議なれ、古人も學道は火を鑽(き)るが如くなれとこそ云ふに、悠々として過ぐべきに非ずと、自ら鞭を打ちて、晝夜不退(ちうやふたい)に道行(だうぎやう)を勵ます。或時は後(うしろ)の山の木のうつろに、木(こ)の葉深く積れる上に常に行きて坐し、或時は見解(けんげ)おこるやう、かゝる五蘊(ごうん)の身のあればこそ、若干の煩ひ苦しみもあれ、歸寂(きじやく)したらんには如かずと思ひて、何(いか)なる狗狼(くらう)野干(やかん)にも食はれんと思ひ、三昧原(さんまいはら)へ行つて臥したるに、夜深(よふ)けて犬共多く來て、傍(そば)なる死人(しにん)なんどを食(く)ふ音してからめけども、我をば能々(よくよく)嗅(か)ぎて見て、食ひもせずして、犬共歸りぬ。恐ろしさは限りなし。此の樣を見るに、さては何(いか)に身を捨てんと思ふとも、定業(じやうごふ)ならずば死すまじきことにてありけりと知つて、其の後は思ひ止りぬ。又おとなしく成りて後(のち)、此の事を思ふに、其の時の見解(けんげ)にて死にたらましかば、淺猿(あさま)き事にて有りなまし、はかなかりけることかなとて、自らわらひ給ひけり。

栂尾明恵上人伝記 9 十二歳 予知禁止夢

 十二歳の時思ふやう、眞正の知識を求めて、正路(しやうろ)を開かずんば、徒(いたづら)に心の隙(ひま)のみ費(つひや)して、得道(とくだう)の益(やく)あるべからず、大なる損なるべし。況んや又生死(しやうし)速かなり、後を期(ご)すべきにあらず。急ぎ正知識(しやうちしき)を求めて、猶(なほ)山深き幽閑(いうかん)に閉ぢ籠りて修行せんと思ひて、既に高雄山を出でんと思ひぬ。仇つて藥師堂に詣で暇(いとま)を申し、又鎭守八幡大菩薩にも暇を申して、曉(あかつき)罷出(まかりい)でんと寐たる夜の夢に、既に高雄を出でて、三日坂(みつかざか)まで下りたれば、路(みち)に大蛇(だいじや)頭(かしら)を捧(さゝ)げて横(よこたは)り向ふ。又、八幡大菩薩の御使(おんつかひ)とて、大きなる蜂(はち)の四五寸計りなる、飛び來りていはく、汝此山を去るべからず。若し押して去らば、前(さき)に難に遇ふべし、未だ其の時節到來せざるが故に、道行(だうぎやう)又成(じやう)ずべからずといふと思ひて、夢覺めぬ。さては子細こそ有らめと思ひしかば、此度(このたび)は思ひ止りぬ。

――この蛇と蜂は誰であろう。私は蛇が明恵の父重国であり、予言と禁止を語る蜂こそ、亡き母であったのだと思うのである。――

栂尾明恵上人伝記 8 驚愕の開明夢

 賢如房(けんによばう)の律師尊印、其の比(ころ)碩學(せきがく)たるに依つて、不審を問ひ奉るに、分明(ぶんみやう)ならざる事共有りき。是を如何にしてか明(あき)らめんと思ひて、寐(いね)たる夜の夢に、一人の梵僧(ぼんそう)來りて對面して、其の不審を一々に説き明らむ。誠にかくこそと覺えて隨喜(ずゐき)極りなし。暫く有りて、此の梵僧語つていはく、汝(なんぢ)先世(せんせい)に釋迦如來に結緣(けちえん)し奉ること五百生(ごひやくしやう)なり。當來(たうらい)も亦五百生親近(しんごん)し奉るべしとて去りぬ。翌日尊印に對して、此の趣(おもむき)を述ぶるに、此の深義(しんぎ)未だ知らざる所なりとて、希有(けう)の思ひをなしき。



恐るべきの開明夢である。これが、何と十歳前後の小学校高学年相当の男の子の神秘体験なのである。

明恵という驚くべき存在が夢によって啓かれるのである。

栂尾明恵上人伝記 7 少年明恵の面影

 特(こと)に、父母におくれたること、朝暮(てうぼ)に思ひ忘るゝ時なし。犬烏(いぬからす)を見ても、我が父母にてや有るらんと思ひ、昵(むつ)まじくも、又敬(うあやま)はしくも覺えき。或時、思ひがけず、犬の子を越えたること有りき。若し父母にてや有るらんと思ひて、則ち立ち歸りて拜みき。亦(また)自然(しぜん)戲(たはぶ)れ笑ふ事有るにも、若し父母三途(さんづ)に入りて、苦患(くげん)をや受くらん。是(これ)を助けずして、何事を快(こゝろよ)くしてか戲笑(げせう)すべき。若し又中有(ちうう)にありて、我を見ることあらば、別れを歎かずして、放逸に歡樂して戲笑すと見えん事、恥かしく覺えて、假にも戲笑する事無かりき。今は一筋に、速く法師に成りて、行ひ勤めて、貴(たふと)からんことを念ふ。則ち華嚴五教章(けごんごけうしやう)、又悉曇(しつどん)等(とう)を受學す。



八歳の笑わぬ少年――僕はその面影を想っただけで――何か胸が衝かれるのである……

栂尾明恵上人伝記 6 明恵が記す人生最初の夢――ばらばらになった乳母の肉体――

 其の夜、坊に行き著きて臥したる夢に、死にたりし乳母、身肉(しんにく)段々に切られて散在せり。其の苦痛夥(おびたゞ)しく見えき。此の女、平生(へいぜい)罪深かるべき者なれば、思ひ合せられて殊に悲しく、彌(いよいよ)能き僧に成りて、彼等が後生(ごしやう)をも助くべき由を思ひとり給ひけり。

満八歳にして仏心を発(おこ)こし、神護寺に入った、まさに、その日の晩に見た夢である。
――これが明恵自身の夢記述の濫觴である。
――そうして
――「明恵の夢」という映画の冒頭シーンは
――まさに
――ずたずたに切り裂かれた乳母の肉体
――というショッキングなものだったのである……

栂尾明恵上人伝記 5 九歳

 九歳にして、八月に親類に放(はなた)れて、師に高雄山に登らせらる。何となく故郷の名殘惜しく覺えて、泣々馬に乘つて行くに、鳴瀧(なるたき)と云ふ河を渡るに、馬立留(たちどま)つて水を飮まんとするを、手綱(たづな)を少し引きたれば、歩み水を飮むを見て、思ふ樣は、畜生とて拙(つたな)き者だにも、人の心を知つて行くとこそ思ふらめ、留らずして歩みながら水を飮むらめ。我れ父母の遺命に依りて入寺する、一旦親類の名殘惜しければとて、泣かるゝことのうたてさよ、遙に馬には劣りけりと覺えしかば、則ち戀慕の心止(とゞ)めて、一筋に貴(たつと)き僧と成りて、親をも衆生をも導かんと、心中に願(ぐわん)を發(おこ)しけり。

栂尾明恵上人伝記 4 七歳

 七歳の時、養母の夢に、此の兒、白服(はくふく)を着て、西を指(さし)て去らんとす、仇(より)て白布(はくふ)を以て、縛りて柱に結び付けたるに、引き切つて去ると見る。此の事を高雄(たかを)の上人に語る。上人いはく、昔(むかし)彼の玄奘三藏(げんじやうさんざう)の母の夢に、白服を着て西を指て飛び去ると見ける由、彼の傳に見えたり。希有の事かなとて、請(こ)ひて弟子にせん事を約す。



「高雄の上人」かの文覚である。

栂尾明恵上人伝記 3 四歳 自傷行為の初め

 四歳の時、父戲(たはぶれ)に烏帽子(ゑぼし)を着せて云はく、「形(かたち)美麗なり、男(をとこ)になして御所へ參らせん」と云へるを、予密(ひそか)に心に思ふ樣(やう)は、法師にこそ成らんと思ふに、形美(うるは)しとて男に成さんと云ふに、片輪(かたわ)づきて法師に成されんと思うて、或る時緣(えん)より落つ。人見付て懷き取つて、あやまちげに思へりき。其の後或時、面(かほ)を燒きて、疵(きづ)をつけんと思ひて、火箸(ひばし)を燒く。其の熱氣恐しく覺えて、先づ試(こゝろみ)に左の臂(ひぢ)より下二寸計の程に引き當(あて)つ。其の熱さに涕泣(ていきう)して、面には當てずして止(とゞ)まりぬ。是れ佛法の爲に身をやつさんと思ひし始なり。

栂尾明恵上人伝記 2 二歳

 上人自(みづか)ら語つていはく、二歳の時、乳母(うば)懷(いだ)きて淸水寺に詣(けい)す。時に堂内に僧俗群集して、或は看經(かんきん)し或るは禮拜(らいはい)す。其の聲を聞くに、何と思ひ分(わ)きたる事は無(なか)りしかども、心澄みて貴(たふと)く覺えき。共の後地主(じしゆ)の前に猿樂しける所へ、乳母見物の爲に具して罷(まか)りたりしに、それは見聞(けんもん)したくもなく覺えて、先の所へ行かんと啼(な)きたりし。是れ心に覺えて佛法を貴く思ひし始めなり。

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栂尾明惠上人傳記 

 

[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館デジタルラブラリーのパブリック・ドメインである奥田正造編「栂尾明惠上人傳記」(東京・昭和八(一九三三)年)の、画像(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1191363)視認から起こした(この底本は旧所持者が誤植と思われるものを手書きで補正している。肯んずることの出来る箇所はその補正を用いた)。但し、誤読の恐れのない一部のルビについては省略した。割注は同ポイントで〔 〕で示した。 

 本作は明恵の弟子喜海が著わしたとされる明恵の伝記である。但し、その内容から現在では完本の成立は南北朝期と考えられており、喜海作というのは仮託とされている。

  本テクスト化は私の明恵の「夢記」の私訳注附の電子テクスト化プロジェクトに合わせ、その参考資料として供することを専らの目的として開始した。従ってテクスト化スピードを高めるため、ブログ版では原則、注を附さない。将来的にはHP版として注を附したものを目指す。【ブログ始動:2013年4月12日】]

 

栂尾明惠上人傳記卷上

 

 沙門高辨(しやもんかうべん)は、紀伊の國有田郡石垣の吉原(よしはら)村にして生る。姓は平(たひら)、父重國(しげくに)は高倉院の武者所(むしやどころ)なり。母は藤原宗重(ふじわら)むねしげ)が女(むすめ)なり。治承四年〔庚子〕正月、母におくれ、同九月、父におくれたり。時に八歳にて、二親早世するに依りて、伯母に養育せらる。

 

 そのかみ、父重國、法輪寺に常に參詣して、子息を祈請す。或夜の夢に、童子一人來て告げていはく、「汝が請ふ所の子を與(あた)へん」とて、一の針(はり)を以て耳を刺すと見る。又母、六角堂の觀音に詣で、日を經て堂を遶(めぐ)る事萬遍(まんべん)、其の間 普門品(ふもんぼん)を誦(じゆ)す。祈請(きせい)していはく、「我れ受け難き人身(にんしん)を得たりといへども、女人(によにん)は無智にして必ず人身を失却(しつきやく)せん。願はくは大慈大悲我が後世(ごせい)を助くる程の子一人給へ」と祈念す。承安元年孟夏上旬の比(ころ)、堂前に坐して眠る。夢に人來りて、金果一顆(くわ)を與(あた)ふ。之を取つて懷(ふところ)に入ると見る。其後幾(いくばく)ならずして懷姙す。同三年〔癸巳〕正月八日、辰剋(たつのとき)日出(ひので)の時に誕生す。



その冒頭から、稀有の「夢記」を残した明恵の出生自体に、まさに父母の夢が関わっている事実に、我々は驚愕せざるを得ない。

 

2013/04/11

僕は

世の中には――僕を思い出したくない――おぞましい僕を思い出したくない奴はゴマんといる。――僕が思い出したくても――思い出してほしくない奴も――ゴマんといる。――それはきっと君がおぞましく思うように――僕が愛しているなんて思ってもいまい。――だったら――思い出すのは苦痛だが――それでも僕は思い出したいのだ――そうして――そうして僕は――僕を心底、僕を呪詛する君を――全力で――抱きしめよう――

耳嚢 巻之六 猥に奇藥を用間敷事

 猥に奇藥を用間敷事

 

 肩のつよくはりて難儀する時、白なたまめを粉にして、かたへ張る時は、立(たち)どころに癒(いゆ)るといふ事あり。人の性(しやう)にも可寄哉(よるべきや)、川尻甚五郎、右藥を用ひて大いになやみしとなり。かた斗りにも無之(これなく)、面部惣身(そうみ)まで脹れて、ぶつぶつと出來(でき)ものなど出來(でき)、後は惣身の皮むけて甚(はなはだ)難儀せしと語りぬ。猥(みだり)に奇藥ときゝても、用るに用捨あるべき事なり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:感じさせない。本巻に多い民間療法シリーズであるが、これは例外的に副作用を注意喚起した記事である。

・「猥に奇藥を用間敷事」は「みだりにきやくをもちゐまじきこと」と読む。

・「白なたまめ」バラ亜綱マメ目マメ科ナタマメ Canavalia gladiate の品種シロナタマメCanavalia gladiate forma alba。鉈豆・刀豆・帯刀などとも書く。食用であるシロナタマメの種子には毒性はないが、農林水産省等によれば、ナタマメの完熟した種子はものによって溶血作用のあるサポニンや青酸配糖体、有毒性アミノ酸のカナバリンやコンカナバリンAなどに由来する有毒な物質が含まれるとする一方、漢方では古くから腎臓機能改善(東洋医学では臓器に似た形ものが臓器を補うとする考え方があり、ナタマメが腎臓の形に似ていることに由来する)・認知症防止・尿素浄化作用があるとし、コンカナバリンAは免疫力を高める作用もあり、ナタマメ・エキスを歯周病に効果的として用いている歯科医の記載もある。その他、漢方系記載には蓄膿症・痔等の化膿性疾患、口内炎・扁桃腺や咽頭部の炎症、冷え症・肩こり・生理痛など冷えの症状、便秘・下痢から皮膚湿疹・アトピーまでの効用を記すが、川尻氏の例もあればこそ、注意が必要であろう。この川尻氏のケースはシロナタマメではない比較的毒性の強い他のナタマメであった可能性、若しくは川尻氏が特異的にシロナタマメに含まれる何らかの成分に対して、非常に強いアレルギー体質であった可能性も疑われる。

・「川尻甚五郎」川尻春之(はるの)。先の「古佛畫の事」の私の注を参照のこと。寛政七(一七九五)年に大和国の五條代官所が設置され、彼はその初代代官に就任している。その在任期間は寛政七年から享和二(一八〇二)年である。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 濫りに奇薬を用いてはならぬ事

 

 肩が強く張って難儀する折りには、白鉈豆(しろなたまめ)を粉に致いて、肩へ貼れば、たちどころに軽癒すると聞いては御座る。

 しかしながら、これは人の性(しょう)にもよるものであるものか、川尻甚五郎春之(はるの)殿、この白鉈豆を調剤して用いたところが、これ、腫れが生じて、ひどい目に遇われた由。

「……いや、もう、貼付(とふ)致いたところの肩だけでは、これなく、顔面から全身に至るまで、腫れが広がって御座って。……尚お且つ、そこたらじゅうに、これ、ぶつぶつ、ぶつぶつと、気味(きび)悪きできものまで出来(しゅったい)致いての。……さて、やっと腫れが収まったか、と思うたところが、……今度は、全身、これ、皮が剥けて。……いやぁ! どうもこうも、御座らんだて。……」

と話されて御座った。

 さても、奇薬と聴いても、これ濫りに用いるは、よくよく用心あるべきことにては御座る。

沢庵宗彭「鎌倉巡禮記」 21

 佛光の塔を出て第四山淨智寺に入てみれば、三間四面の堂一宇ふるき佛を安置して、いづくを開山塔といふべき樣もなく、末派邊土の僧一人きたりてかずかず茅屋ちいさくいとなみかたはらにあり。其次に又一僧一宇をかまへてゐたり。佛殿の本尊もやぶれくづれてこもといふ物にてつ一みてありしを、我らみづから負もちきたりて膠付などして、わびつゝも立置ぬとかたりける。あさましきありさま也。天下の五嶽、などかくのごとく成はてぬる事やあると嘆息やみがたし。

[やぶちゃん注:「末派邊土」「末派」は末輩(まっぱい)のことであろう。仲間の末に連なる者の意で、地位・技量などの劣った者のこと。「邊土」は片田舎。どこの馬の骨とも分からぬ田舎者の凡僧のことか。ともかく、沢庵が訪れたこの当時の浄智寺の荒廃が一通りでなかった様が分かる。「鎌倉市史 社寺編」を見ると、まず失われた鐘の記事が目につく。戦国時代、『北条氏康は鉄砲をつくるために某年伊豆山権現の鐘を鋳つぶしたことがあった。このかわりとして天文十九年に浄智寺の鐘を伊豆山に贈った。(『豆州志稿』)この鐘は正慶元年、(元弘二年一重)天外志高が浄智寺の住持としていた時に高時が寄進したもので、銘は清拙正澄が撰した。『風土記稿』はこの銘文を載せている』とし、この鐘については『早稲田大学金石文研究会はこれの拓本を蔵している』が、『鐘そのものは明治維新の際、廃仏毀釈運動の嵐の中に微塵にくだかれたものであろうとという』赤星直忠氏の推論を記した後、この『鐘はこの後慶安三年(一六五〇)に鋳造され、その鐘の銘が『鎌倉志』にのっているが、これに「二百年来宝殿荒廃」とあるのは仏殿が二百年間なかったことを示し、前述『鎌倉五山記』にも仏殿のみが欠如している記事を裏書きしている。慶安二年から逆算二〇〇年(一四四九)は宝徳元年にあたるが勿論この二百年は概算であろうから、若しこの銘の語るところが真実であるとすれば仏殿は永享十年(一四三八)または康正元年(一四五五)に戦火によって失われたものであろう。また『鎌倉五山記』及び『五山記考異』にみえる法堂・僧堂等は『鎌倉志』の伽藍図にはみえない。これはその後、貞享迄にこれらが失われたことを示している』と記す。『文明十八年(一四八六)春鎌倉を訪れた万里集九の『梅花無尽蔵』に「霧を払ひて浄智を山隈に望む」とあるのをみると、集九は足をこの谷に踏入れていないらしいが、中世及び近世を通じて文学・紀行類はおろか諸名所記等でさえここについてふれていない』と、浄智寺忘却史を綴っている。その直後に、本沢庵の来訪を解説し、本文の箇所を引用している(やや異なるので引用する)。

   《引用開始》

 ただ一人沢庵宗彰が寛永の半ばに鎌倉を巡礼してここを訪れている。

 「仏光の塔を出て第四浄智寺に入りて見れば、三間四面の堂一宇古き仏を安置していづくを開山塔というべきようもなく、末流辺土の僧一人来り、かつかつ茅屋少くいとなみ、かたはらに有り、其次に又一僧一宇をかまへて居なり、仏殿の本尊も破れくづれてこもというものにてつつみてありしを、我ら自ら負ひもち来りて膠付などしてかつかつ立置ぬとかたりける。」沢庵の鎌倉巡礼は寛永十年(一六三三)ごろであるから、多分当時ここに住んでいた僧らは永正・天文の昔は知らずとも、天正から元和にいたる世の移りかわりを知っていたろうが、北条氏及び家康のあたえた七貫の寺領ではこの寺を復興する資とはならなかったのである。もっとも海蔵寺薬師堂は棟札その他によれば天正五年の建造、安永六年に浄智寺より海蔵寺に移建したものというから、このころにはこの建物は浄智寺にあったわけである。

 仏殿及び小鐘の復興した慶安二年は、沢庵がこゝを訪れてから十五・六年目のことである。鐘の銘にいう「今環寺残衆相議、而企一宇鼎建之功」とあるのは丁度沢庵来訪時に庵居の僧が出てきたことに対応しているが、これから三十数年後『鎌倉志』のできた貞享のころ、蔵雲庵のほかに塔頭は正紹庵だけが残っている。

 さて慶安二年(一六四九)の鐘もまた銘文を残しただけで失われたらしい。『風土記稿』には延宝七年(一六七九)の鐘があるように記している。なおこの書のできた天保頃に寺観はかな違っていて仏殿・方丈・鐘楼・楼門(中門)外門・惣門があり、蔵雲庵・開山堂・開山塔・正紹庵・正源庵・寮(駐春と号すとあるから正源庵の客殿のこと)・真際精舎(しんざいしょうじゃ)・正覚庵・楞伽院(この二つは無住)があった。これは江戸時代の寺としては先ず先ずの規模である。

 大正十二年(一九二二)の地震はこの寺をも破壊したが、この時の被害は仏殿(文政年間建立とす)・書院・地蔵堂・総門・山門・中門・庫裡・土蔵全壊というから殆んど潰滅したわけである。現在、仏殿・総門・山門があり、寺宝中有名なものに重要文化財地蔵菩薩坐像と(鎌倉穀国宝館出陳、同館図録所収)と玉隠筆の永正十二年の西来庵修造勧進状(『史料編』三ノ二七五)がある。この他兀庵普寧木像・韋駄天木像等がある。現住職朝比奈宗源師。

   《引用終了》

「楞伽院」は「りょうがいん」と読む。底本は昭和三四(一九五九)年の刊行であるので、現在の住職は朝比奈恵温氏である。]

(無題〔散文〕) 萩原朔太郎

●名聲があつて實力のない人がある、實力があつて名聲のない人がある。この前者に屬する人はザラにゐる。後者に屬する詩人は二人居る。即ち大手拓次氏と中川一政氏である。大手氏と中川氏とは、全然素質を異にした作家で、その詩境は全でちがつたものであるが、すぐれた詩人といふ點では同格である。詩の實力からいふならば、現詩壇を總ざらへにしてかかつても、二人に及ぶだけの詩人はめつたにない。そして二人共、私や白鳥省吾君等と一緒に詩壇に出て、長い間詩をかいてゐる。

 かく實力ある詩人が、長い間詩をかいてゐて、それで少しも詩壇に知られずにゐるといふのは、何だか不思議のやうな氣がする。しかしこの二人に對しては、少しも「氣の毒」といふ氣はしない。それは山村暮鳥氏のやうに、詩人的位置に自立してゐて、詩壇に認められなかつたのは氣の毒である。しかし大手氏と中川氏は、始めから「詩壇意識の外野」に立つてゐる。中川氏は畫家が本職であり、大手氏は他に職業を有してゐる。そして二人共、詩に對しては「純一なる餘技」の態度を取りつづけてゐる。彼等は眞に尊敬すべき意味でのヂレツタント――物好きといふ意味でなく、それを以て職業化さないといふ意味の素人藝術家(ヂレツタント)――である。

 詩壇に多すぎるものは、むしろ専門家(くろうと)詩人である。大手氏や中川氏のやうな天分ある素人(しろうと)詩人は、その名聲を望まぬ故に、いよいよ冴えてくる實力の恐ろしさを痛感させる。

 

[やぶちゃん注:『日本詩人』第六巻第二号・大正一五(一九二六)年二月号の「靑椅子」欄に発表した散文。下線は底本では傍点「●」。]

咆える月暈 大手拓次

 咆える月暈(つきかさ)

 

わたしは街(まち)にほえる、

ひとびとのくらいおくそこに。

ひややかな木(き)のこずゑをはなれ、

さまざまの呪ひの銃聲のながれる街のなかに、

瀲灔(れんえん)とたたへられた水(みづ)のやうに

わたしは手づくりの網(あみ)をまいて、

はるかなる死の慰安をほえてゐる。

 

[やぶちゃん注:「瀲灔」水の満ち溢れるさま。また、漣(さざなみ)が光り煌めくさま。「瀲灩」とも書く。]

鬼城句集 春之部 葱の花 

葱の花  鷄に踏み折られけり葱の花

     葱の花ソクソクと風に吹かれけり

[やぶちゃん注:底本では「ソクソク」の後半は踊り字「〱」。]

明恵上人夢記 2

一、同廿二日、一向に、釋迦大師の御所に於いて、忠を盡さむと思ふ。其の夜、夢に、上人の御房、前(さき)に已に滅し給ふ。其のしおかせ給へ金堂土壇(こんだうどたん)の干割(ひわ)れてあしくなれるを、鍬をもてうちかへして、よくよくうちとゝのふ。其の壇の上に多くの赤き丹(に)を散ず。其の色、殊に妙(たへ)にして、諸人(しよにん)之を讚美すと云々。

 

[やぶちゃん注:日付が前後しているのは、明恵が毎日、夢記述を行っていたのではなく、何日かに纏めて書き記していた可能性を示唆し、その場合、恣意的で意識的若しくは無意識的な夢の美化や論理的整合性や合目的性を孕んだ明恵自身による脚色が行われてしまっている可能性をも念頭に置く必要はある。これは夢分析の現場でも最も注意しなければならないこととして知られ、また私自身の夢記述の経験からも、しばしばある問題点である。意識的にも勿論ながら、超自我の検閲が再検閲をかけ、無意識の内に「辻褄が合わないがそれ故にこそ意味あること」を、「辻褄を合わせて意味を無化させる仕儀」を成すことがまま、いや、かなり高い確率で、あるのである(と私は思っているのである)。

「釋迦大師の御所に於いて、忠を盡さむと思ふ」夢(これは正しく就眠時の夢)に入る前の、その日の覚醒時の、事実というより、より重要な心理状態を書き記している点で着目する必要がある。彼は僧であるから、釈迦如来の広大無辺の慈悲への絶対の恭順はいつものことであるはずだが、この日、明恵が、何時もの通りに、「忠を盡さむ」と心に覚えたことを、しかし特に記したい、と感じていることが重要であり、それこそが、その日の夜の夢に意味を与えているのだと明恵が信じている(確信している)という点が眼目なのである。

「上人の御房」これは叙述からも具体的な事実としての仏法上の直接の師を指していることは間違いない。明恵にとって師は、高雄山神護寺に於ける文覚の弟子で、明恵の叔父に当たる上覚(後に「夢記」で「上師」という呼称で登場する)か、後に師事することになる上覚の師である文覚自身となる。ところが、二人の生没年は、

上覚 久安三(一一四七)年~嘉禄二(一二二六)年十月

文覚 保延五(一一三九)年~建仁三(一二〇三)年七月二十一日

である(以上はウィキのそれぞれの生没年によったが、河合氏の「明惠 夢に生きる」では上覚の没年は一二二六年以前と不定にしてある。因みに頼朝挙兵に功のあった文覚は、晩年、後鳥羽上皇に謀反の嫌疑をかけられて対馬国へ流罪となる途中の鎮西で客死している)

本夢が底本編者の推定通り、

建久六(一一九五)年

の記載であるとすれば、明恵の事実上の「上人の御房」=師は、二人とも存命していることになる。勿論、これを全く架空の人物をとることも出来ぬわけではないが、だとすればもっと書きようがあろう。されば、私はこれは、実際には我が師匠は未だ存命しておられるが、夢の中では既に示寂しておられた、という設定であると、とるものである。一見、不吉にして不遜で書き記すことを躊躇しないかと思われる向きもあろうが、浄土教ならずとも、仏法の根本に於いて死を忌避するのは寧ろおかしいであろう。仏者が壇を設けられ祀られているという設定は必ず「在る」ザインであり、同時に「在るべき」ゾルレンである。それにして何れの人物か? 後述される夢では、明らかに上覚に対してはある種のアンビバレントな意識を持っていたことが分かるので、私はここは文覚を指すと一応はとりたい。しかし、実はこれは、理想の文覚であり理想の上覚であり、架空の不二の理想の師でもある設定なのではあるまいか? だからこそ既にして入滅して「いなければ」ならないのではないか?

「土壇」土を盛って築いた祭壇。

「丹」硫黄と水銀の化合した赤土。辰砂(しんしゃ)。道家思想では不老不死長寿の薬でもある。

「云々」引用した文や語句のあとを省略すると際、「以下略」の意味でその末尾に添える語である。必ずしも、省略がなくても引用であることを示すためにこの時代はしばしば使われているが、「夢記」では非常に重要な語句であるように思われる。以降の記述を見ると、明恵は夢を途中(特に話の末尾部分を丸ごと)で忘れた場合、はっきりと思い出せない場合、更に複数の夢を見た場合の区切りとして、この「云々」を用いていると読めるからである。]

 

■やぶちゃん現代語訳

一、同二十二日、今日も何時もの通り、他に心を向けることなく、只管、釈迦如来の祀られている御堂に於いて、真心を尽くし、修行を執り行おうと心に誓って、いつもの通り、かく行法を成し終えた。その夜、見た夢。

「夢の中では、私の御上人様は、既にして、寂滅なさっておられる。

 そうして上人様のために、既にして設けられてある、上人様を祀る金堂が、土を盛った壇の上に築かれてある、その前に私は立っている。

 見ると、金堂の建っている土壇(どたん)がすっかり乾き切って、無数に罅(ひび)割れて、ひどく壊(く)えていた。そこで私は、手ずから鍬を執り、その土壇をしっかりとうち耕して、新たに壇を築き直した。

 すると、その私が拵え直した壇の表面のあちらこちらに、数多(あまた)の真っ赤な辰砂(しんしゃ)がじんわりを浸み出して、壇上に美しい色を点じていた。

 その真紅の色は、殊の外、霊妙で、それを見た会衆は、そのことを頻りに賛美していた。……」

 

[やぶちゃん補注:「丹」が普通なら容易に連想されるはずの忌避される血の色と『敢えて』表現せずに、「殊に妙にして、諸人之を讚美す」というのは、寧ろ、だからこそ、血をそこに明恵が『確かに』認知している、その『血は私の血だ』と深く認知していると言える。そしてこれは、明恵の人生の最大の瞬間を我々にフラッシュ・バックさせる。即ち、建久七(一一九六)年満二十三歳の折りの、自身による耳削ぎのである。奥田正造編「栂尾明惠上人傳記」(私の電子テキスト)から当該箇所を引く。

彌々形をやつして人間を辭し、志を堅くして如來の跡(あと)を踏まんことを思ふ。然るに、眼をくじらば、聖教を見ざる歎(なげき)あり。鼻を切らば則ち、涕洟(ていい)垂りて聖教を汚(けが)さん。手を切ちば印を結ばんに煩ひあらん。耳は切ると云へども、聞えざるべきに非ず。然れども五根(ごこん)の闕(か)けたるに似たり。されども、片輪者(かたわもの)にならずば、猶人の崇敬(そうけい)に妖(ばか)されて、思はざる外に心弱き身なれば、出世もしつべし。左樣にてはおぼろげの方便をからずば、一定(いちぢやう)損をとりぬべし。片輪者とて人も目を懸けず、身も憚りて指出(さしい)でずんば、自らよかりぬべしと思うて、志を堅くして、佛眼(ぶつげん)如來の御前にして、念誦の次でに、自ら剃刀を取つて右の耳を切る。餘りて走り散る血、本尊竝に佛具聖教等に懸り、其血本所に未だ失せずと云云。

この最後、「佛眼如來の御前にして、念誦の次でに、自ら剃刀を取つて右の耳を切る。餘りて走り散る血、本尊竝に佛具聖教等に懸り、其血本所に未だ失せず」

――文殊菩薩像の御前(おんまえ)にして、経を念誦しつつ、自(みずか)ら剃刀を執って右の耳を削ぎ切る。迸り出、ぱっと散じた血は、御本尊や仏具・経に至るまで鮮やかに降り懸かり、その血の跡は、それぞれの散り染めた場所・床に、今も失われずに在る――

というシークエンスは恐ろしくも美しい。
――しかし年号を見て頂きたい。本夢が底本編者の推定通り、建久六(一一九五)年のものえだるとすれば
――この夢は――彼が耳を削ぎ切る前の年の夢なのである……
さればこそ、この自らの耳の自截の瞬間、明恵の心には、かつてのこの夢の映像が、預言としてフィード・バックしたと私は考える。そしてそれは実景としての凄惨さや、血の持つ穢れが完全に無効化され、寧ろ、夢の中の、会衆の讃嘆の声に広がってゆく赤い蓮華のようなものとしてそれが意識されたに違いないと私は思うのである。
 また、生臭い血を超越したそれは、道家的な不滅の、仏法の正当な「血」脈(けちみゃく)のシンボルとしての辰砂でもあるようにも私には感じられる。これは明恵の、精神的な意味での、血脈=法灯の護持の、揺るぎない(だからこそ冒頭に言わずもがなに見える事実を記した)自負が示された夢と読んでよいであろう。この夢こそが翌年の耳自截を預言したものなのである(少なくとも自截後の明恵はそう考えていたに違いない)。しかし、モノクロームの画面に漣のように広がってゆく円形の辰砂の色が実に美しいではないか。]

11時間病院軟禁タイムライン 附 相棒夢

11:52 病院に入る(入館カード記載時刻)。

12:30 手術予定時間となるも音沙汰なし。

13:00 数少ない談話の中の一つ。
父「お前は太宰治をどう思う。」
僕「あまり好きじゃない。最初のカフェの女給は殺人説もある。」
父「そうなんだよ。小動の鼻でね。……鎌倉で、あいつは何度も心中しかけてるんだ。」

13:30 看護師来室し、脳外の生命に関わる急患の緊急手術が入ったのでオペは遅くなる由。

14:00 術式後のケアのために個室をナース・センターの傍のバスタブ・調理器附の最高級個室に移動(病院側都合に附、差額全額減額)。遅い昼のサンドウィッチとコーヒーを売店で買って食う。

14:10 執刀医が来て、急患の由、説明があり、5時か6時の由。明恵の「夢記」の訳にとりかかる。

17:50 父は禁煙と丸一日の空腹に耐え兼ね、飴を舐めたいというが禁ずる。

18:10 手術開始。手術前に移動。ここまでで「夢記」、6話分(B4に6枚)を訳す。「夢記」訳、続行。

19:30 待合室にいた(恐らく急患の家族)青年もいなくなり、一人。

20:00 手術センターから出てきた医師の一人と思しい人物が、奥の部屋で尺八の練習を始めるのが聴こえる。

 
 切れ切れの病院の夜の尺八

20:10 手術終了し、執刀医から脊椎間狭窄三箇所の各個術式の成功と問題なき由の説明を受く。この時点で「夢記」は13話分(B4に14枚)の訳を終っていた。個室にて待っていて下さいとの由。

20:20 個室に戻る。「夢記」の13話の掉尾を仕上げる。久し振りにボールペンを握り続けたため、指が硬縮気味となり、ここのところリハビリに行っていない右腕首が軽く痛んだ。

20:40 麻酔から覚醒した父が戻る。看護師の言うことには素直に正確に従っているが、何度も「おしっこがしたい」と言うので、その都度、僕や看護師がカテーテルの話をするが、すぐ同じことを言うので辟易する(耳が遠いので大声で答えるから夜の病院には響くのも気になる)。最後には僕が尿カテの袋をサイドから外して掲げ、縷々説明するが、結局、別れ際に父は「ここはどこ?」と訊いてくる。「病院だよ」と答えつつも、やや呆れる(父は認知症も呆けもないので、これは、麻酔の余波である)。それでも「じゃあ、帰るよ」と声を掛けると、酸素マスクの下で「ありがとう」としっかり答えた。

20:52 病院を出る(入館カード記載時刻)。こんな時刻になるとは思っていなかったので薄着なれば、異様に寒い。

21:05 自宅着。家に入れてあるアリスを覗いた後、「相棒」の再放送録画の赤いカナリア(赤色テロ集団としては如何にも噴飯物の名称だ)の続編を妻と見つつ、遅い夕食を一緒に摂る。

12:30 パソコン開かず、疲労困憊して就寝。

熟睡後の夢。

……二つの家族(総計6名)全員が末期癌患者で、彼らがマンション一室で全員下着姿のまま一緒に共同生活するというブラック・コメディ。主人公は癌ステージ8(!)で健在という役で演じるは水谷豊、その甥という設定で僕が共演(!)し、一緒に並んで右手の人差し指を立て、「一つ!」とやっていた……

2013/04/10

本日閉店

本日はこれより父の脊椎間狭窄の手術のため、暫く閉店と致す。

耳嚢 巻之六 好所によつて其藝も成就する事

 好所によつて其藝も成就する事

 

 文化元年の頃、將棋の妙手といひて人の評判せし大橋宗光(そうえい)は、大橋の庶家より出しとはいへど、實は至て鄙賤の町家の悴なるよし。幼年の頃より將棋を好みて、いづれへ子守奉公年季等に出しても勤兼(つとめかね)ける故、古宗桂(こそうけい)にてありしや、渠(かれ)が好む所の將棋を教へしに、幼兒の節より五段三段の者、其術に及ぶ事なし。今や將棋所にても彼(かの)者に及ぶものなしと評判なしけるが、今も、子供にても無段のものにても、外の者と違ひ、將棋さゝんといへばいなまず相手になりて、朝夕も將棋を並べ是を樂しみとなせるよし、天然の上手なるべし。當時茶事(ちやじ)に名高き不白(ふはく)といへる宗匠(そうしやう)も、其いにしへは中間(ちうげん)にてありしが、茶事の家に仕へて、其主人の茶を翫(もてあそ)ぶを朝夕覗きて其業(わざ)を見しを、主人汝は茶を好やと一服たてさせしに、常に心を染みし故にや、其手品(てしな)もしほらしく可稱(しやうすべき)手前故、主人其以後は教へさとしけるに、其好所(このむところ)故や追々上達して、當子(たうね)八十七歳になれるが、東都において茶事の宗匠として、門弟も多く、不白といへば誰(たれ)知らぬものなく、手跡(しゆせき)もあまり見事ならねど、壹枚の墨蹟(ぼくせき)を數金(すきん)にかえて貯ふるもの多し。其好所によりて名をなす事、心得あるべき事と、爰にしるしぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に感じさせない。お馴染みの技芸譚シリーズ。

・「好所」「このむところ」と訓じていよう。

・「文化元年」「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年八月。

・「將棋」私は金銀の駒の動かし方も知らぬ門外漢なれば、ウィキの「将棋」の「沿革」より大々的に引用してお茶を濁させて戴く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。

   《引用開始》

古将棋

日本への伝来

 将棋の起源は、古代インドのチャトランガ(シャトランガ)であるという説が最も有力とされている。ユーラシア大陸の各地に広がってさまざまな類似の遊戯に発達したと考えられている。西洋にはチェス、中国にはシャンチー、朝鮮半島にはチャンギ(將棋 : 장기)、タイにはマークルックがある。

 将棋がいつ頃日本に伝わったのかは、明らかになっていない。囲碁の碁盤が正倉院の宝物殿に納められており、囲碁の伝来が奈良時代前後とほぼ確定づけられるのとは対照的である。伝説としては、将棋は周の武帝が作った、吉備真備が唐に渡来したときに将棋を伝えたなどといわれているが、後者に関しては、江戸時代初めに将棋の権威付けのために創作された説であると考えられている。

 日本への伝来時期はいくつかの説があるが、早いもので六世紀ごろと考えられている。最初伝来した将棋は、現在のような平型の駒形ではないという説もある。古代インドから直接日本へ伝来したとする説では、古代インドのチャトランガの流れを汲む立像型の駒であったとされている。東南アジアのマークルックにちかいものが伝播改良されて生み出されたと考えられている。一方、六世紀ごろインドから直接ではなく、中国を経由して伝来したという説では、駒の形状は中国のシャンチー(中国象棋)と同様な平型の駒として伝来したという説もある。チェスでは古い駒ほど写実的であるとされる。アラビア等古い地域において平面の駒がみられる。また今までに立体の日本将棋駒は発見されていない。他説としては、平安時代に入ってからの伝来であったとする説がある。インド→アラビアの将棋からを経て中国のシャンチーそして朝鮮のチャンギ(朝鮮のものは中国由来)が日本に伝わったというものである。しかし平安時代には既に日本に将棋があったという説が有力である。また、駒の形の違い(アラビア、中国などは丸型、チャトランガは市立体像、日本は五角で方向が決まっている)やこれらの駒を線の交点に置くことなど将棋とどれも大きくことなる。これに対し、東南アジアのマークルックは銀と同じ動きの駒があるが、歩にあたるビアの動きがあまりに将棋とは違うことが指摘されている。また、将棋は相手側三列で駒が変化するがマークルックではクン、ルア、コーン、マー、メットとも「成る」ことはない。この点も大きく将棋とは異なる。近年はこの系統の盤戯が中国経由または直接ルートで日本に伝来したとする説がある。また、中国を舞台とした日本と東南アジアの中継貿易は行われていたことから中国経由の伝来は十分に考えられるが、中国での現代のシャンチーの成立時期は平安時代より遅くまた現代のシャンチーはルールも異なる。このため現代中国シャンチーが伝播したものではないと考えられている。いずれにしても日本での、古代の日本将棋に関する文献物証は皆無で、各説は想像の域を出ない。

 

平安将棋

 将棋の存在を知る文献資料として最古のものに、藤原行成(ふじわらのゆきなり(こうぜい))が著した「麒麟抄」があり、この第七巻には駒の字の書き方が記されているが、この記述は後世に付け足されたものであるという考え方が主流である。藤原明衡(ふじわらのあきひら)の著とされる「新猿楽記」(一〇五八年~一〇六四年)にも将棋に関する記述があり、こちらが最古の文献資料と見なされている。

 考古学史料として最古のものは、奈良県の興福寺境内から発掘された駒十六点で、同時に天喜六年(一〇五八年)と書かれた木簡が出土したことから、その時代のものであると考えられている。この当時の駒は、木簡を切って作られ、直接その上に文字を書いたとみられる簡素なものであるが、すでに現在の駒と同じ五角形をしていた。また、前述の「新猿楽記」の記述と同時期のものであり、文献上でも裏づけが取られている。

 三善為康によって作られたとされる「掌中歴」「懐中歴」をもとに、一二一〇年~一二二一年に編纂されたと推定される習俗事典「二中歴」に、大小二種類の将棋がとりあげられている。後世の将棋類と混同しないよう、これらは現在では平安将棋(または平安小将棋)および平安大将棋と呼ばれている。

 平安将棋は現在の将棋の原型となるものであるが、相手を玉将一枚にしても勝ちになると記述されており、この当時の将棋には持ち駒の概念がなかったことがうかがえる。

 これらの将棋に使われていた駒は、平安将棋にある玉将・金将・銀将・桂馬・香車・歩兵と平安大将棋のみにある銅将・鉄将・横行・猛虎・飛龍・奔車・注人である。平安将棋の駒はチャトランガの駒(将・象・馬・車・兵)をよく保存しており、上に仏教の五宝と示しているといわれる玉・金・銀・桂・香の文字を重ねたものとする説がある。さらに、チャトランガはその成立から戦争を模したゲームで駒の取り捨てであるが、平安将棋は持ち駒使用になっていたとする木村義徳の説もある。

 古将棋においては桂馬の動きは、チャトランガ(インド)、シャンチー(中国象棋)、チェスと同様に八方桂であったのではないかという説がある。持ち駒のルールが採用されたときに、他の駒とのバランスをとるために八方桂から二方桂に動きが制限されたといわれている。

 

将棋の発展

 これは世界の将棋類で同様の傾向が見られるようだが、時代が進むにつれて必勝手順が見つかるようになり、駒の利きを増やしたり駒の種類を増やしたりして、ルールを改めることが行われるようになった。日本将棋も例外ではない。

 十三世紀ごろには平安大将棋に駒数を増やした大将棋が遊ばれるようになり、大将棋の飛車・角行・醉象を平安将棋に取り入れた小将棋も考案された。十五世紀ごろには複雑になりすぎた大将棋のルールを簡略化した中将棋が考案され、現在に至っている。十六世紀ごろには小将棋から醉象が除かれて現在の本将棋になったと考えられる。元禄年間の一六九六年に出版された「諸象戯図式」によると、天文年中(一五三二年~一五五五年)に後奈良天皇が日野晴光と伊勢貞孝に命じて、小将棋から醉象の駒を除かせたとあるが、真偽のほどは定かではない。

 十六世紀後半の戦国時代のものとされる一乗谷朝倉氏遺跡から、一七四枚もの駒が出土している。その大半は歩兵の駒であるが、一枚だけ醉象の駒が見られ、この時期は醉象(象)を含む将棋と含まない将棋とが混在していたと推定されている。一七〇七年出版の赤県敦庵著作編集の将棋書「象戯網目」に「象(醉象)」の入った詰め将棋が掲載されている。他のルールは現在の将棋とまったく同一である。

 将棋史上特筆すべきこととして、日本ではこの時期に独自に、日本将棋では相手側から取った駒を自分側の駒として盤上に打って再利用できるルール、すなわち持ち駒の使用が始まった。持ち駒の採用は本将棋が考案された十六世紀ごろであろうと考えられているが、平安小将棋のころから持ち駒ルールがあったとする説もある。近年有力な説としては、一三〇〇年ごろに書かれた「普通唱導集」に将棋指しへの追悼文として「桂馬を飛ばして銀に替ふ」と駒の交換を示す文句があり、この時期には持ち駒の概念があったものとされている。

 持ち駒の起源については、小将棋または本将棋において、駒の取り捨てでは双方が駒を消耗し合い駒枯れを起こしやすく、勝敗がつかなくなることが多かったために、相手の駒を取っても自分の持ち駒として使うことができるようにして、勝敗をつけやすくした、という説が一般的である。

 江戸時代に入り、さらに駒数を増やした将棋類が考案されるようになった。天竺大将棋・大大将棋・摩訶大大将棋・泰将棋(大将棋とも。混同を避けるために「泰」が用いられた)・大局将棋などである。ただし、これらの将棋はごく一部を除いて実際に遊ばれることはなかったと考えられている。 江戸人の遊び心がこうした多様な将棋を考案した基盤には、江戸時代に将棋が庶民のゲームとして広く普及、愛好されていた事実がある。

 将棋を素材とした川柳の多さなど多くの史料が物語っており、現在よりも日常への密着度は高かった。このことが明治以後の将棋の発展につながってゆく。

 

本将棋

御城将棋と家元

 将棋(本将棋)は、囲碁とともに、江戸時代に幕府の公認となった。一六一二年(慶長一七年)に、幕府は将棋指しの加納算砂(本因坊算砂)・大橋宗桂(大橋姓は没後)らに俸禄を支給することを決定し、やがて彼ら家元は、碁所・将棋所を自称するようになった。初代大橋宗桂は五十石五人扶持を賜わっている。寛永年間(一六三〇年頃)には将軍御前で指す「御城将棋」が行われるようになった。八代将軍徳川吉宗のころには、年に一度、十一月十七日に御城将棋を行うことを制度化し、現在ではこの日付(十一月十七日)が「将棋の日」となっている。

 将棋の家元である名人らには俸禄が支払われた。江戸時代を通じて、名人は大橋家・大橋分家・伊藤家の世襲のものとなっていった。現在でも名人の称号は「名人戦」というタイトルに残されている。名人を襲位した将棋指しは、江戸幕府に詰将棋の作品集を献上するのがならわしとなった。

 名人を世襲しなかった将棋指しの中にも、天才が現れるようになった。伊藤看寿は江戸時代中期に伊藤家に生まれ、名人候補として期待されたが、早逝したため名人を襲位することはなかった(没後に名人を贈られている)。看寿は詰将棋の創作に優れ、作品集「将棋図巧」は現在でも最高峰の作品として知られている。江戸末期には天野宗歩が現れ、在野の棋客であったため名人位には縁がなかったが、「実力十三段」と恐れられ、のちに「棋聖」と呼ばれるようになった。宗歩を史上最強の将棋指しの一人に数える者は少なくない。なお、江戸時代の棋譜は「日本将棋大系」にまとめられている。

   《引用終了》

・「大橋宗光」(宝暦六(一七五六)年~文化六(一八〇九)年)底本の鈴木氏注に、『寛政十一年九代目将棋所名人となる。文化六年没。鬼宗英といわれた名手で、近代定跡を始めて統一した』とある(生年は岩波版長谷川氏の記載の享年五十四歳から逆算した)。なお、サイト「DEEP AZABU.com 麻布の歴史・地域情報」の「むかし、むかし8」 の「宮村町の宗英屋敷」に、文化元年頃、『麻布宮村町、増上寺隠居所わきに宗英屋敷と呼ばれる屋敷があった。これは将棋所(幕府の官制で、将棋衆を統括する役。厳密には「名人」と違うが、実際はほぼ同義)の拝領屋敷で主人は織田信長、豊臣秀吉の御前でたびたび将棋を披露し信長から宗桂の名を与えられ』、慶長十七(一六一二)年『に徳川家康から五十石五人扶持を賜った宗桂から数えて大橋家六代目の当主大橋宗英』(ここに西暦の生没年が記されるが私の計算と一致している)『であった。宗英は、現在も江戸期を通して最強の棋士と言われ当時、「鬼宗英」の異名をとった。宗英は大橋分家の五代宗順の庶子で幼少のころ里子へ出されていたが、将棋の才能を認められ、家に呼び戻されたという』。十八歳『で宗英を名乗るが、将棋家の者との対戦は無く、民間棋客との対戦が続き、御城将棋への初勤は』二十三歳『で、将棋家の者としては遅い。しかしその後大成し、その将棋は相掛り戦法や鳥刺し戦法を試みるなど現代の棋士にも通じる将棋感覚で新しい将棋体系の創造に力を尽くしたため、近代将棋の祖といわれる』とある。当該記載は「耳嚢」の本記事も紹介されてあり、宗英について詳述を極める。

・「古宗桂」「古」は「故」の意。底本の鈴木氏注に、『大橋宗桂は明治末年まで十二代続いた。そのうち、初代の宗桂、二代の宗古、五代の宗桂(大橋家中興)、八代宗桂などが名実共に名人といわれる。ここは執筆当時(文化初年)の宗桂が十代目であるから、その先代の九代目であろう。寛政三年五十六歳で将棋所名人位についた。』とある(岩波版長谷川氏の推定同定も同じ)。九代大橋宗桂(寛保四(一七四四)年~寛政一一(一七九九)年)は、ウィキの「大橋宗桂(9代)」によれば、五世名人二代伊藤宗印の孫とし、伊藤家に生まれながら大橋家を継いでいた父の八代宗桂の嫡男として生まれ、十二歳で御城将棋に初出勤する。対戦相手は叔父の初代看寿であったが、飛車香落とされの手合いで勝利している(宝暦一〇(一七六〇)年に初代看寿、翌年に三代宗看が相次いで没して名人位は空位となった)。宝暦一三(一七六三)年には父の八代宗桂との御城将棋初の親子対戦が認められている(右香落とされで敗北)。明和元・宝暦十四(一七六四)年に五段に昇段、同年に七段に昇段した伊藤家の五代伊藤宗印や、翌年の初出勤であった大橋分家五代大橋宗順とは好敵手であり、当時の将軍が将棋好きの徳川家治であったこともあって、名人空位時代でありながら「御好」と呼ばれる対局が盛んに行われるなど将棋界は活気づいた。安永三(一七七四)年に父の八代宗桂が没して家督を継ぎ、この時に宗桂の名も襲名したと思われているが、御城将棋には「印寿」の名のままで出勤している。「浚明院殿御実紀」にも、家治の将棋の相手の一人として「大橋印寿」の名が挙がっている(この頃、大橋分家では安永七(一七七八)年に六代大橋宗英が、伊藤家では天明四(一七八四)年に六代伊藤宗看が御城将棋に初出勤するなど、他家でも世代交代が進んだ)。天明五(一七八五)年に八段に昇段、この頃から「宗桂」の名で御城将棋に出勤している。寛政元(一七八九)年に二十七年間に亙って空位になっていた名人位を継ぎ、当時では比較的高齢な四十六歳で八世を襲位した。この年に宗銀(後の十代宗桂)を養子に迎えた。寛政二(一七九〇)年には六代大橋宗英と平香交じりで対戦し、平手戦で敗れ、この対局は御城将棋では「稀世の名局」と評されるという。寛政九(一七九七)年に最後の御城将棋に出勤二年後に没した、とある。また、「将棋営中日記」には『代々名人の甲乙』として、六代宗英・三代宗看・六代宗看に次ぐ第四位に名が挙げられている、ともある。以上の記述を見ると、疑問を附しながら宗桂が宗英に将棋を教えたという叙述はやや疑問が残るが、本話を読み解く上で非常に貴重なデータであるとは言える。

・「五段三段」将棋の段位は享保二(一七一七)年に「将棊図彙考鑑」に段位の記載がされてからであるとする(ウィキの「将棋の段級」に拠る)。

・「不白」茶人川上不白(享保元・正徳六(一七一六)年~文化四(一八〇七)年)は不白流及び江戸千家流開祖。表千家七代如心斎の命により、江戸へ下って表千家流茶道を「江戸千家」として広めた(ウィキ・トークの「川上不白」に拠る)。

・「當子」文化元(享和四年)の干支は甲子(きのえね)。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 好む所によってその芸も成就するという事

 

 文化元年の頃、「将棋の妙手」と、専ら、人々の評判致いて御座る大橋宗光(そうえい)という御仁は、これ、大橋家の分家の出身と称しては御座れど、実は至ってて身分の賤しい町家の悴れであると申す。

 幼年の頃より将棋を好み、何処へ子守奉公や年季奉公なんどに出しても、これ、全くろくに勤めることが出来ずに御座ったところが、かの名人故宗桂殿ででも御座ったか、この少年の好むところの将棋を、本格的に教えたところが、幼少より将棋の修行を積んで五段や三段に認定されて御座った者でも、かの少年の手には及びようがなく、一人残らず、完敗致いたと申す。

 今や将棋所にてもかの者に及ぶ者は、まず、ないと、専ら評判致いて御座る。

 今も、子供であっても無段の者であっても、外の将棋所の気位の高い者たちとは異なり、将棋を指したし、と乞えば、否まず、相手となって、朝な夕な、将棋を並べて、これのみを楽しみと致いて御座る由。

 全く以って、これ、天然自然の上手という者なので御座ろう。

 また今日(きょうび)、茶事(ちやじ)で名高き川上不白と申さるる宗匠(そうじょう)も、その昔は、賤しき中間(ちゅうげん)で御座ったが、さる茶道の家筋の屋敷に仕えて、その主人の茶を翫(もてあそ)ぶを、これ、朝な夕な、覗き見ては、その手業(てわざ)を見習い、かの主人が、ある時、

「……そなたは、これ、茶(ちゃあ)をお好みか?」

と、水を向け、

「……なら、一服、点(た)てておじゃれ。」

お点てさせたところが、賤しき身ながらも、常に秘かに茶の道に心を傾け、これ、じんわりと染まってでもおったものか、その御点前(おてまえ)、殊の外、雅びにて、文字通り、賞美するに値する御手前で御座ったによって、主人、それ以後は、熱心に茶の奥義を教え諭したと申す。

 されば、その好むところ、よほどの執心の御座ったものか、おいおい上達致いて、当文化元年で八十七歳になって御座るが、江戸に於いて茶事の宗匠として、門弟も多く、不白と申せば誰(たれ)一人知らぬ者とてなき御仁と相い成って御座る。

 その手跡(しゅせき)なんども――私も管見したことが、これ、御座るが、言ってはなんであるが――あまり、その、美事、というほどのものでも御座らぬが、その、不白筆の一枚の墨蹟(ぼくせき)を、数十両で買い求めては、秘蔵しておる者も、これ、多い。

 いや、その好むところによって、名を成すこと、これ、方々、心得あるべきことと、ここに記しおくことと致す。

沢庵宗彭「鎌倉巡禮記」 20

 

 諸師の塔どものこらず順禮し、次の日は圓覺寺に入り、開山佛光禪師を拜するに、所がら常ならず仙境やかくあらんと覺ゆ。塔樣殊に勝たり。慈顏うるはしくいける人にむかふごとく也。いかなる屈強の人も涙をもよほすばかり也。野鳥きたりて肩になれ、白龍けさに現ずと傳へしが、在世のあり樣をうつし、椅子にしろき鳩二とまり、けさに白龍をきざみそへたり。實也谷虛にして山をのづからこたへ、人無心にして物よく感ず。芭蕉無耳雷を聞、磁石無心にして鐵をてんず。無心の力いくばくぞや。菩提心さへ胸にのこらば煩惱なかるべし。まして煩惱を胸にをかむをや。煩惱即菩提といへるは一坂越たらん人々の眼よりいふことば也。己眼あきらかならずして達人のことばをとりもちきたりてわが物となしていへる倫、世に多し。玉はもと石なれ共みがゝざれば光なし。みがゝざる石をさして玉なりといはむや。玉といはゞ玉なるべし。光なくば何を玉の德とせむ。達人のいへる心は石皆玉なり、などみがきて光を得ざる。人皆ほとけなり、修して何ぞ菩提の光をはなたざると也。又修もなく證もなしといへるも修得証得の人のことば也。祖師先德には花實備はりたり。今の世にはあだ花のみさきて實なし。ことばをとるばかり也。甘と云文字となへたるとて口あまかるべからず。火とゝなへたりとて口あつかるべからず。口のほとりにある佛法たのもしからず。何事をも腹にあじはへむ人こそゆかしけれ。

 

[やぶちゃん注:「開山佛光禪師を拜する」これは円覚寺正続(しょうぞく)院蔵の無学祖元の頂相(ちんそう)像を指す。「新編鎌倉志卷之三」の円覚寺開山塔の項の一部と私の注を引いておく。

 

 

 

開山塔 方丈の西北に行く事、四五町許りにあり。正續院と名く。門に萬年山と額あり。此院、昔は平の貞時の建立にて祥勝院と號し、佛牙の舍利殿なりしを、後に開山塔とすと云ふ。昭堂の上に常照と額あり。開山の木像、肩・膝に、鳩と龍とを置く。【元亨釋書】に、祖元宋にありし時、禪定の中に當て神人を見る。告て云、願くは和尚我が國に降れと。如是(是のごとくする)事、數(あまた)たび。神人の至るごとに、先づ一つの金龍來て袖の中に入る。亦羣鴿子あり。或は靑白の者、或は飛啄の態(わざ)、或は予が膝の上にのぼる。其の由(ゆへ)を不測(測らず)。此の國に入いるに及で、人有て語て曰、當境に神あり。八幡大菩薩と云ふ。後に八幡宮に至り、殿梁の上を視るに、數箇(すか)の木鴿子あり。是を問ふ。對(こた)ふる者の曰く、これ神の使鳥のみ。予則ち知る、定中の峨冠は、此の神なる事を。老僧が此に到る、偶然ならざるのみ。老僧が陋質を造らば、膝の上に鴿子及び金龍を安じて、以て往年の讖(しん)に應ぜよと有。(以下略)

 

[やぶちゃん注:「羣鴿子」は「ぐんかふし」と読み、群れ飛ぶハトのこと。

 

「讖」は預言。祖元が見た予知夢のことを指す。

 

「陋質」は自身の肖像の謙遜語。所謂、頂相である。国の重要文化財である本像は鎌倉前期の頂相の傑作とされる。三十年以上前、風入れで見たが玩具のような鳩が座椅子の左右に配され、左の鳩の前にはこれまたエレキングの幼体みたような龍がちょこんととまっていた。祖元は最後まで日本語を覚えなかったと言われるが、その悪戯っぽい眼光と頰をちょっと意地悪そうにきゅっと引いたその表情は何か私には親しげであった。]

 

 

 

「芭蕉無耳雷を聞、磁石無心にして鐵をてんず」は「芭蕉無耳雷を聞」とは「芭蕉、耳、無くして雷(らい)を聞き」であろう。察するに、植物の芭蕉は耳がないのに、その葉で雷の音を真似、磁石は心無きにも拘わらず、鉄を引きつける、という謂いか? 大方の識者の御批判を俟つ。

 

「倫」「ひと」と訓じているか。「ともがら」とも読めるが、採らない。

 

「今の世にはあだ花のみさきて實なし。ことばをとるばかり也。甘と云文字となへたるとて口あまかるべからず。火とゝなへたりとて口あつかるべからず。口のほとりにある佛法たのもしからず。何事をも腹にあじはへむ人こそゆかしけれ」素晴らしい批評である。これは――今現在の我々の世相をも/をこそ鮮やかに指弾している。]

 

 

小説家の詩 萩原朔太郎

        小説家の詩

 

 イメーヂや聯想は、もちろん詩の内容する肉質である。けれどもそれが詩を生むのではなく、イメーヂや聯想の中の情熱(主觀的な詩的興奮)が生むのである。詩的門外漢のアマチユア詩觀は、しばしばこの點で詩の本質を誤つて居る。或る聰明な小説家は、風景から奇拔な聯想を表象して、いつも俳句を作ることに苦心して居た。その俳句には生命がなく、ポエムとしての魅力(詩趣や俳味)が全く缺けてゐた。即ちそれは詩ではなかつた。

 

[やぶちゃん注:『詩・現実』第五冊・昭和六(一九三一)年六月に所収。「詩的門外漢のアマチユア詩觀」を持った、「詩の本質を誤つて居る」ところの「風景から奇拔な聯想を表象して、いつも俳句を作ることに苦心して居た」朔太郎の周辺にいた「聰明な小説家」とは――恐らく故芥川龍之介――しか、いない。かつて朔太郎は、

 芥川龍之介――彼は詩を熱情してゐる小説家である。

 その頃、雜誌「改造」の誌上に於て、彼の連載してゐる感想「文藝的な、餘りに文藝的な」を讀むに及んで、この感はいよいよ深くなつて來た。その論文に於て、彼はしきりに「詩」を説いてる。もちろん彼の意味する詩は、形式上の詩――抒情詩や敍事詩の韻文學――でなく、一般文學の本質感たるべき詩、即ち「詩的情操」を指してゐるのだ。私がこの文中でしばしば言つてゐる「詩」の意味も、もちろんこれに同じ。芥川君のあの論文、及び最近における彼の多くの感想をよんだ人は、いかに彼が純粹な詩の憧憬者であり、ただ詩的なものの中にのみ、眞の意味の文學があり得ることを、必死に力説してゐるかを知るだらう。

 自分は不讀にして、芥川君の以前の文藝觀を知つてゐない。しかし最近の如く、彼が詩に深い接觸をもち、詩的の實精神に憧憬し、殆んどそれによつて文藝觀の本質に突き入らんとするが如きは、恐らくかつて見なかつた所だらう。自分の憶斷する所によれば、最近の芥川君はたしかに一轉期に臨んでゐた。彼の過去における一切の思想と感情とに、ある根本的の動搖があり、新しき生活の革命に入らうとする、けなげにも悲壯な心境が感じられた。そして實際、この轉囘は多少その作品にも現はれてゐる。たとへばあの憂鬱でニヒリズムが濃い「河童」や、特に最近の悲痛な名作「齒車」やに於て。

 けれども自分は、依然として尚芥川君の「詩」に懷疑を抱いてゐた。けだし芥川君は――自分の見る所によれば――實に詩を熱情する所の、典型的な小説家にすぎなかつたから。換言すれば、彼自身は詩人ではなく、しかも詩人にならうとして努力する所の、別の文學者的範疇に屬してゐるのだ。實に詩人といふためには、彼の作品は(その二三のものを除いて)あまりにも客觀的、合理觀的、非情熱的、常識主義的でありすぎる。特にその「文藝春秋」に掲載された「侏儒の言葉」や、私の所謂印象的散文風な短文やを見ると、いかに彼の文學本質が、詩人といふに遙かに別種の氣質に屬するかを感じさせる。しかも芥川君は、自ら稱して「詩人」と呼び、且つ「僕は僕の中の詩人を完成させるために創作する」と主張してゐる。

 かうした芥川君の觀念は、たしかに詩の本質で誤謬をもつてる。すくなくとも私の信ずる所は、芥川君と「詩」の見解を別にする。それで私は、いつか適當の機會をみて、このことで芥川君と一論戰をしようと思つた。丁度その頃、雜誌「驢馬」の同人を主とし、室生、芥川の二君を賓とするパイプの會が上野にあつた。私はその機會をねらつた。だが不運にして芥川君は出席されず、歸途に驢馬同人の諸君に向つて、大いに私の論旨を演説した。「詩が、芥川君の藝術にあるとは思はれない。それは時に、最も氣の利いた詩的の表現、詩的構想をもつてゐる。だが無機物である。生命としての靈魂がない。」私はさういふ意味のことを、可成り大膽に公言した。

と述べている(私の電子テクスト、『改造』昭和二(一九二七)年九月号初出の「芥川龍之介の死」より。下線「詩を熱情してゐる小説家」部分は「○」の傍点)。

 但し、私は芥川龍之介の俳句が、「生命がなく、ポエムとしての魅力(詩趣や俳味)が全く缺けてゐた。即ちそれは詩ではなかつた」という朔太郎の見解には鮮やかに「否!」と応えるものである。]

輝く城のなかへ 大手拓次

 輝く城のなかへ

 

みなとを出る船は黄色い帆をあげて去つた。

嘴(くちばし)は木の葉の群をささやいて

海の鳥はけむりを焚(た)いてゐる。

磯邊の草は亡靈の影をそだてて、

わきかへるうしほのなかへわたしは身をなげる。

わたしの身にからまる魚のうろこをぬいで、

泥土に輝く城のなかへ。

鬼城句集 春之部 韮

韮    韮畑や針金張つて御藥園

     韮生えて枯木のもとの古畑

2013/04/09

沢庵宗彭「鎌倉巡禮記」 19

 開山香拜をとげ、みづからの先師大應國師の塔天源庵に入ぬる道すがらよのつねならず。そのむかし我山の開山祖朝參暮請して此道をゆきかひし給ふ事、しらぬむかしを今見るやうに覺えてあはれなり。爰は雲關のあとゝて、石にきりつけたる柱の跡あり。透過雲關無舊路と頌せられし我祖の句裏の雲關を過て普光の塔に入、香をたいて慈顏を仰拜す。

[やぶちゃん注:「大應國師」南浦紹明。既注。

「天源庵」方丈から左に折れる道を進み、谷戸の右手(北方)を入ったところにある塔頭。南浦紹明はここで七十五歳で示寂した。

「我山の開山祖」沢庵が住持であった大徳寺の開祖大燈国師宗峰妙超(弘安五(一二八二) 年~延元二・建武四(一三三八)年)は南浦紹明の直弟子で徳治二(一三〇七)年、二十六歳の時、師から印可を得ている。

・「雲關のあととゝて……」「雲關」の本義は雲のかかるほどに高い所にある関所の謂いであるが、この場合、「關」は、禅の悟りの関所であり、修行道場・座禅窟の謂いであろう。「新編鎌倉志卷之三」の建長寺の「天源庵」の項には、

天源菴 大應國師、諱は紹明、號南浦(南浦と號す)。嗣法虛堂(虛堂に嗣法す)。駿州の人、當山十三世、延慶元年十二月廿九日に示寂、世壽七十三。【四會の録】あり。堂の額、普光とあり。後宇多帝の宸筆なり。堂に南浦の像あり。經藏には、一切經あり。門に雲關と額あり。大燈和尚投機の所なり。透過雲關無舊路(雲關を透過して舊路無し)と頌せしは此の所なり。

とある。「普光の塔」とは南浦の像のある堂のことである。]

耳嚢 巻之六 長壽は食に不飽事

 長壽は食に不飽事

 

 予七旬に近く、近頃三時の喰(くひ)も程を不過(すぎず)、不足(たらず)に喰ひぬるに、何となく心持よかりしを、同齡同志みな同じ事に云(いひ)て、食事は若きとても猥(みだ)りに飽(あく)まで貪るは、いましむべき事と申(まうし)あひしに、御鷹匠頭(おたかしやうがしら)戸田五助語りけるは、都(すべ)て鳥の類料理するに、何れの鳥も餌袋(ゑぶくろ)充滿せり、鶴に限りては、或は六七分目、餌袋に餌あり、滿溢(まんいつ)のことなし、鳥の内、鶴は諺にも千年の壽と申傳(まうしつた)へば、いづれ餘鳥(よてう)より長齡のものなり、その減食の謂(いはれ)もありや、過食は厭ふべきと、其座の人々申(まうし)あへりき。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に感じさせない。根岸自身の私的な謂いから語り出すのは、比較的、珍しい。……糖尿病の悪化の一途を辿っておる小生には至って痛い話しで御座る。……

・「予七旬に近く」根岸の生年は元文二(一七三七)年であるから、「卷之六」の執筆推定下限の文化元(一八〇四)年には数え六十八歳。

・「御鷹匠頭」御捉飼場(おとらえかいば:鷹匠が鷹を調教する地。)の管理の他に鷹の飼育所である御鷹部屋を管理した職名。個人サイト水喜習平氏の「江戸と座敷鷹」の「鷹場制度」の記載に、『御鷹部屋は二箇所あった。戸田家が管理する千駄木御鷹部屋と、内山家が管理する雑司ヶ谷御鷹部屋。戸田家は幕末を宇都宮藩主で迎える譜代大名戸田家の同族で秀忠・家光に鷹匠頭として仕えた戸田貞吉を祖としており、禄高は』一五〇〇石で、とあり、『鷹匠頭の下に享保元年に設置された鷹匠組頭があり、役高』二五〇俵、とある。

・「戸田五助」底本鈴木氏及び岩波版長谷川氏ともに戸田五介勝英(ごすけかつてる)とする。寛政三(一七九一)年に御鷹匠組頭、同八年に遺跡一五〇〇石を相続、と鈴木氏にあり、水喜氏の記載に一致する。

・「餌袋」通常は動物の胃のことを言うが、ここは鳥であるから内部に消化を助けるための砂礫が見られる砂嚢、所謂、砂肝(すなぎも)・砂ずりを指している可能性が高いか。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 長寿は飽食せざるを良しとする事

 

 私は七十歳に近く、近頃では三食の食にも程を過ぎぬよう、また足らぬように、と食うて御座るが、これ、何とのう心持ちもよくある由、ある折りの談話にて申したところが、同齢の同志、これ、皆、同じことを申し、

「――いや、まっこと、食事は若いからと言うて、濫(みだ)りに飽くまで貪るは、これ、戒めねばならぬことで御座る。」

なんどと話し合(お)うて御座ったところ、その場にあった御鷹匠頭(おたかしょうがしら)の戸田五助勝英(かつてる)殿が語られたことに、

「――すべて鳥の類を料理致すに、いずれの鳥にても、餌袋は、これ、充満致いて御座る。……ところが、鶴に限っては、あるいは六、七分目ほどしか、餌袋に餌は御座らず、満溢(まんいつ)しておるということは、これ、まず、御座ない。鳥のうち、鶴は諺にても『鶴は千年』と申し伝えて御座れば、いずれ、他の鳥よりも長命のものにて御座る。――さればこそ、その食を減ずることの謂われも、これ、御座るものか。……ともかくも、確かに過食はこれ、厭うに若くは御座るまい。」

と申したによって、その座の人々も、肯んじて御座った。

くさつた蛤 萩原朔太郎 (「くさつた蛤」草稿2)

 

 

 

 くさつた蛤

   ――なやましき春夜の感覺

 

    つめた貝のつめ

    つめた貝はわが身をみつめた

    その遠い心の上に

    ざらざらと砂がながれた

    春の淺瀨に

    春の夜ふけのしづけさに

 

しなびくさりきつた蛤

 

半身は砂の中にうづもれて

 

それで居てべろべろ舌を出した→す蛤なりして居る

 

貝のあたまの上には

 

砂利やしほみづがざらざらながれて居る

 

それでも

 

じつに軟體動物の心臟じつにこゝろ細い

 

それがじつにじつにしづかである、

 

病氣とほいところを女の腰紐屍體がながれて居る淺瀨をくらげのひもはふらふら流れてゐるのさへ

 

貝のこのものゝ内臟はたしかに病氣がある

 

この貝のやはらかい内臟は

 

まるでをみるのやうに靑く透明だ→靑い月夜だかすんで見える

 

なんともいへぬ靑白い病氣死病の月夜だ

 

ああ、このへんがたまらなく生ぐさい

 

しかるに蛤はそのおよそこういふ晩に→だから今夜はかふいふときに人間が

 

とんとかぎつて縊るのだ→くびをくくつても死ぬのだ死ねばよい

 

ああそして砂利と砂利とのすきまから

 

蛤は病氣である非常に憔悴(やつ)れてゐる

 

そのまつたくぐにやぐにやした内臟がくさりかけたのだ

 

それでちよろちよろ→ちらちらちよろちよろ靑い息をするらしい

 

たまらなく生ぐさい死のにほひ、靈のにほひだ、 

 

[やぶちゃん注:底本の第一巻『草稿詩篇 月に吠える』(三七二~三七四頁)に載る『くさつた蛤(本篇原稿五種六枚)』とあるくさった蛤」の草稿とする二番目のもの。底本では冒頭に『○』があるので標題はないものと見做した。底本では詩稿の最後に、この原稿の傍題(「くさつた蛤――なやましき春夜の感覺」を指すものと思われる)の左には以下のような序詩らしきものが附記されている旨の注記がある。ここではそれを推定して当該箇所に配した。

 

 但し、原稿では、八行目が、

 

それがしづにしづにしづかである、

 

であるが、底本編者による誤字脱字補正の注に従った。

 但し、底本では八行目の「こういふ」の歴史的仮名遣が「かういふ」に補正されているのは、ママとした。

 取り消し線は抹消を示し、その抹消部の中でも先立って推敲抹消された部分は下線附き取り消し線で示した。「→」の末梢部分は、ある語句の明らかな書き換えがともに末梢されたことを示す。

 なお、

 

しかるに蛤はそのおよそこういふ晩に→だから今夜はかふいふときに人間が

とんとかぎつて縊るのだ→くびをくくつても死ぬのだ死ねばよい

 

の部分は、底本の記号に従えば、二行セットで消去されていることが判明しているらしい。

 終わりから三行目及び二行目の「ぐにやぐにや」「ちよろちよろ」「ちらちら」「ちよろちよろ」の四つの繰り返し後半は底本では踊り字「〱」である。

 以上の二篇によって「くさつた蛤」の産みの苦しみがよく分かる。いいそびれたが、畸形者たる博物学フリークである私は、この蛤」という詩を殊の外、偏愛しているのである。

 削除部分を除去すると(ポイント落ちは読み難いのでやめた)、

 

   *

 

 くさつた蛤

   ――なやましき春夜の感覺


    つめた貝のつめ
    つめた貝はわが身をみつめた
    その遠い心の上に
    砂ざらざらと砂がながれた
    春の夜のしづけさに

 

くさりきつた蛤
半身は砂の中にうづもれて
それで居てべろべろ舌をして居る
貝のあたまの上には
砂利やしほみづがざらざらながれて居る
それがじつにじつにしづかである、
とほい淺瀨をくらげのひもは流れてゐるのさへ
夢のやうにかすんで見える
なんともいへぬ靑白い死病の月夜だ
ああ、このへんがたまらなく生ぐさい
ああそして砂利と砂利とのすきまから
蛤は非常に憔悴(やつ)れてゐる
まつたくぐにやぐにやした内臟がくさりかけたのだ
それでちよろちよろ靑い息をするらしい

 

   *

となる。]

 

 

(無題) 萩原朔太郎 (「くさつた蛤」草稿1)

 

 

 

たいがいのものは非常にやはらかい

 

まるで軟體動物のやうである

 

じつにやはらかい

 

たたきつけたぐにやぐにやして居る

 

そしてすてきに滑らかである

 

女の→美人の→處女の腰を抱いたやうに滑らかである

 

絹のやうに不思議なことに女の裸體のやうに滑らかである

 

私の體身がなめくじのやうである、

 

かういふ感覺の世界夜に限つて月夜であるが出てゐる

 

靑い月夜である、

 

たれも→どんな動生物の姿も見えない

 

遠い渚で貝が砂

 

私は波止場で鉤をたれて居る、

 

渚には微塵子のやうな私がみじんこが渚を步くと泳いでゆくと

 

砂利の中で貝が息をして居た、 

 

[やぶちゃん注:底本の第一巻『草稿詩篇 月に吠える』(三七二~三七四頁)に載る『くさつた蛤(本篇原稿五種六枚)』とある「くさった蛤」の草稿とする最初のもの。底本では冒頭に『○』があるので標題はないものと見做した。但し、原稿では、

 

一行目が、

 

たいがいのものは非常にやはらない

 

三行目が、

 

しづにやららかい

 

五行目が、

 

そしてすてき滑らかである

 

十四行目が、

 

渚には微塵粉のやうな私がみじんこが渚を步くと洗いでゆくと

 

であるが、底本編者による誤字脱字補正の注に従った。

 

 但し、八行目が底本では、

 

私の身體がなめくぢのやうである、

 

に補正されているのは、ママとした。

 

 取り消し線は抹消を示し、その抹消部の中でも先立って推敲抹消された部分は下線附き取り消し線で示した。「→」の末梢部分は、ある語句の明らかな書き換えがともに末梢されたことを示す。なお、

 

たれも→どんな動生物の姿も見えない

 

遠い渚で貝が砂

 

の部分は、底本の記号に従えば、二行セットで消去されていることが判明しているらしい。

 

 なお、抹消部分を消すと

 

   *

 

たいがいのものは非常にやはらかい


まるで軟體動物のやうである


じつにやはらかい


ぐにやぐにやして居る


そしてすてきに滑らかである


不思議なことに女の裸體のやうに滑らかである


私の體身がなめくじのやうである、


かういふ感覺の夜に限つて月が出てゐる


靑い月夜である、


みじんこが渚を泳いでゆくと


砂利の中で貝が息をして居た、

 

 

   *

となる。]

 

 

生きたる過去 大手拓次

 生きたる過去

 

とりかへしのつかない、あの生きたる過去は

ひたひの傷をおさへながらあるきまはる。

だらだらとよみがへつた生血(なまち)はひたひからおちて、

牡熊(をぐま)のやうにくるしさをしのんでゐる。

過去は永遠のとびらをふさがうとする。

過去はたましひのほとりに黄金(こがね)のくさりを鳴らす。

わたしのもえあがる戀の十字架のうへにうつくしい棺衣(かけぎぬ)と灰の白刃(しらは)とを與へる。

かなしい過去のあゆみは

わたしのからだを泥海のやうにふみあらす。

 

[やぶちゃん注:現代思潮社刊現代詩人文庫「大手拓次詩集」では、

 

わたしのもえあがる戀の十字架のうへにうつくしい棺衣(かけぎぬ)と灰の白刃(しらは)とを與へる。

 

の一行を、

 

わたしのもえあがる戀の十字架のうへに

うつくしい棺衣(かけぎぬ)と灰の白刃(しらは)とを與へる。

 

と二行に分かつが、採らない。]

鬼城句集 春之部 蘆の芽

蘆の芽  蘆の芽にかゝりて消ゆる水泡かな

[やぶちゃん注:「水泡」は「みなわ」と読んでいよう。水粒(みつぶ)の意で「みつぼ」とも読めるが採らない。私が、儚い譬えにもいう「みなは」(「みなあわ」の音変化。「な」は「の」の意の格助詞)という音が好きだから。]

     蘆の芽に水ふりまける水車かな

明恵上人夢記 1 / カテゴリ「明恵上人夢記」始動(附完全オリジナル訳注)

明惠上人夢記 やぶちゃん訳注

[やぶちゃん注:以下は明惠(承安三(一一七三)年~寛喜四(一二三二)年)が残した夢記録で、本邦では近世以前では類を見ない稀有の纏まった夢記録である(「夢記」は「ゆめのき」と訓じているようである)。夢によっては明恵自身による夢解釈が附されている。彼は十九歳から夢記録を開始し、示寂直前に至るまで記述をし続けており、現存するそれは全体の凡そ半分程度とされているから、その実態はまさに、近代の西欧心理学移入以前に行われた、本邦に於ける膨大な夢記述と自己分析の驚くべき記録である。底本は岩波書店一九八一年刊久保田淳・山口明徳校注「明恵上人集」所収の片仮名交じりを平仮名に直したものを、私のポリシーに従って正字化した本文を掲げ(但し、一部に読点を追加し、歴史的仮名遣の読みについては私の判断で増やしてある)、必要に応じた注に現代語訳を附した。夢によって私の感ずるところがあった場合は、その後に更に「やぶちゃん補注」として私の感想や解釈を附したものもある。なお、便宜を考え、独自にそれぞれの夢に番号を最初に打った。底本の親本は高山寺蔵の十六篇で、これらは巻子本・冊子本・掛軸装・一通の文書など、種々の形態を成すもので、殆んどが明恵の自筆と認められているものである(底本解説による)が、底本はそれらを編者が推定時系列で並べたものと思われる。但し、例えば冒頭の「1夢」から「5夢」と、「6夢」は同一の「御夢記」と外題する巻子本に仕立てられているものの、まず冒頭が欠損しており、しかも「6夢」は「5夢」に続いているものの、実際には別紙に書かれたものが接がれているとある(底本注)。従って、これらの夢の順序には時系列上の錯雑があると考えてよい、というよりも、あると考えるべきなわけであるが、私は取り敢えずは、お目出度く、無批判に、これらの配列を時系列に沿ったものとして読み解くことにする。それはそうすることによるユング的な予知夢としての解釈の面白みが倍増するからに他ならない。私は文献考証学者でもないし、アカデミズムに縛られている人間でもなく、市井の好事家に過ぎぬからこそ、それが許されもし、それを自ずと楽しむことが出来るのである。

 明恵は華厳宗の僧で、諱は高弁、栂尾(とがのおの)上人とも呼ばれる。父は平重国(高倉上皇の武者所に伺候した伊勢平氏の家人で伊勢国伊藤党の武士。本は藤原氏で平氏は養父の姓。頼朝挙兵による戦乱で上総にて敗死)。現在の和歌山県有田川町出身。華厳宗中興の祖とされる。八歳で両親を失い、養和元(一一八一)年秋に京の高雄神護寺に入山、文治四(一一八八)年、十六歳にして叔父上覚を師として出家、東大寺戒壇院で受戒(この間、十三歳の時には無常を感じて自死を試みている)、仁和寺で真言密教、東大寺で華厳宗・倶舎宗・悉曇・禅を学んで将来を嘱望されたが、建久六(一一九五)年二十三歳の時、東大寺出仕を止めて遁世して紀州白上の峰に籠った(移って暫くして彼は自身の右耳を斬り落としている)。同九年には高雄に戻り、以後は一時的に生地の紀州に住んだりしているものの、概ね高雄を拠点として活動、建永元(一二〇六)年には右京に高山寺を開創している(この間、二度に亙って天竺へ渡っての仏跡巡礼を企図したが、春日明神の神託や病いにより断念している)。明恵は四十歳も年上の法然を、非常に高く評価し、尊敬もしていたが、建久元(一一九〇)年に法然が「選択本願念仏集」を著わすや、その内容を正法に反するものとして義憤を発し、法然が没する建暦二(一二一二)年に法然批判の書「摧邪輪(ざいじゃりん)」を著しているのである(翌年にも「摧邪輪荘厳記」を著して追加批判をさえしている)。なお、「朝日日本歴史人物事典」の「明恵」(松尾剛次氏記)には、従来、明恵は鎌倉旧仏教の改革派・旧仏教僧として理解されてきたが、思想的にも活動面でも鎌倉新仏教の祖師の一人として位置づけるべきだとする説もあるとし、戒・定・慧の三学において革新を主張して(戒の面では菩薩戒を、定の面では華厳経を読誦しながらの座禅を、慧の面では華厳と真言をミックスした教理を唱えた)、正確に釈迦に帰ることを目指し、それを核とした新しい教団を創造した、とされておられる。的を射た明察であると思う。

 私は無神論者であるが、私が妙に惹かれるものとして、今までネット上では「末法燈明記」白文附訓読・現代語訳、「無門關」原文附訳注「一言芳談言芳談」原文附注の三種の仏教書の電子化を手掛けてきた。今回、それらと同等のものとして、何故か、この夢記述のテクスト訳注を並べたくなったのである。それは私自身が説明出来ないから何か不可思議なある種の因縁とでも呼ぶべきものででもあるのかも知れない。訳注に際しては、底本及び私が親しく本書に接する機縁となった河合隼雄「明惠 夢に生きる」(京都松柏社一九八七年刊)等を一部参考にさせて頂いたが、その場合は、参考先を明記した。なお、同時に弟子の喜海の編になるとされる「栂尾明恵上人伝記」の電子テクスト化も開始したので、そちらも参照されたい。藪野直史【ブログ始動:二〇一三年四月九日】] 

 

明惠上人夢記

一、同廿五日、釋迦大師の御前に於いて無想觀を修(しゆ)す。空中に文殊大聖(だいしやう)、現形(げんぎやう)す。金色(こんじき)にして、獅子王に坐す。其の長(たけ)、一肘量(いつちうりやう)計(ばか)りなり。

[やぶちゃん注:底本ではこの前に「之を持ちて即失はずと云々。」とあるが、これは失われた前の部分の夢の殘闕(掉尾)であり、前の内容も分からないので示さないでおいた。本記述以降、三つは続く夢記述から建久六(一一九五)年の同月の記録と考えられる。底本注記に、これ以降の叙述について、『「建久七年八月、九月」以下、枕の下に涙湛へりと云々」までの部分も同一』の巻子本に仕立ててあるものの、『本来は別紙に書かれたものを後に継いだもの』であるとある。


「無想觀」ここで断っておかねばならないが、「夢記」は必ずしも睡眠中の夢記述に限らぬ記載である。明恵が覚醒時に行った修法中の意識の中に立ち上って来たイメージや情景(心理学風に言うなら幻覚・幻視)をも記載している。これもその一つで、あらゆる妄念や想念を離れる無念無想の観法(かんぽう:心に仏法の真理を観察し、熟考する実践修行法。天台十乗観法など)を行じていた際のものである。

「大師」大導師の意で仏菩薩の尊称。


「大聖」仏道の悟りを開いた人の尊称。釈迦如来を一般には指すが菩薩部にも用いる。「たいせい」と読むと、聖人の中でも特にりっぱな人格を備えている人の謂いとなる。文殊は菩薩(修行者)であることから「文殊大士(だいし)」と呼ぶこともあり、また、現世の徳の高い僧を敬って「大師」と呼称するから、後者でも問題はないが、一応、「だいしょう」を採った。


「獅子王」文殊菩薩の造形は一般的に獅子の背の蓮華座に結跏趺坐して、右手に智慧を象徴する利剣(宝剣)を、左手に経典を乗せた青蓮華(しょうれんげ)を持つ。


「一肘量」肘関節から中指の尖端までを基準とする目測の長さの単位。約五十センチメートル。]

 

■やぶちゃん現代語訳


 

一、同二十五日、釈迦大師の御前(おんまえ)に於いて無想観を修(しゅう)した。その際に見た夢。

「空中に文殊大聖(だいしょう)が顕現する。全軀(ぜんく)金色(こんじき)にして、獅子王に坐しておられる。その身の丈けは、凡(おおよ)そ一肘量(いっちゅうりょう)程であった。」

[やぶちゃん補注:明恵の弟子喜海の編とされるも、実際にはその成立は南北朝期まで下るとされ、必ずしも信をおき難いと底本解説にはある「栂尾明恵上人伝記」によれば、高雄山神護寺にあった明恵は、建久四年の公請(くじょう:宮廷からの公的な法会に対する参加要請)に対する衆僧学徒の忌わしい抗争に嫌気がさし

今は此の如き僧中を出でて、本意の如く文殊を憑(たの)み奉りて、佛道の入門を得る事を思ひて、高雄を出でて、衆中を辭して紀州に下向す。


とあるから、彼の遁世の拠り所が文殊菩薩への深い帰依にあったことが分かり、何故、文殊なのかは判明する(「栂尾明恵上人伝記」は底本に載るものを正字化して示した。以下同じである場合は注を略す)。

 底本では夢記述に対して別に注を起こし、これが鎌倉中期に成立した同じ喜海の編になる「高山寺明恵上人行状」の中に、

虛空にうかむて現に七八尺はかりの上に、文殊師利菩薩、身色金色にして金獅子に乘して現し給へり、其長三尺はかり


とある、ともする(引用に際して片仮名を平仮名に換え、また恣意的に正字化した)。


 「現に」は「うつつに」(実体として)であろう。ここでは文殊菩薩は同じく金色の獅子に乗った状態で二メートル強の空中に浮遊して顕現したことになっており、大きさも約九十センチメートルと大きい(「文殊師利」は悪名高いオウム真理教で人口に膾炙してしまったが、文殊菩薩の正式名である本来の梵名マンジュシュリーの漢訳語である)。


 また、先に掲げた「栂尾明恵上人伝記」ではもっと具体的に(リンク先は私の電子テクスト)、

まさに明恵が自らの耳をそぎ落とすという準捨身ともいうべきぎりぎりのアンガジュマン(自己投企)の翌日の体験として


「華厳経」を披き、如来諸菩薩が宝蔵殿にて法門を説いておられる場面を読み、羨ましく思いつつ、『我も其中に交はり烈(つらな)れる心地して、悲しみの涙を拭ひ、耳の痛さを忍びて、泣々聲を上げて、』誦経し続けていると、遙か彼方の天空の『莊嚴、眼前に浮かび、在世説法の慈顏、したしく拜し奉る心地せり。依りて悲喜の涙を拭ひ、本尊をまぼり奉り、聲を勵まして經を誦』していると、

眼の上忽ちに光耀(かかや)けり。目を擧げて見るに、虛空に浮かびて現に文殊師利菩薩、身金色にして金獅子に乘じて影向(やうがう)し給へり。其の御長(おんたけ)三尺許(ばか)りなり。光明赫奕(かくやく)たり。良(やや)久しくして失せぬ。仍りて彌(いよいよ)其の志を勵まして、他事なく一心に仏心を悟らん事を祈請す。

とその白昼夢が記されてあるのである(以上の耳の自截前後の原文は、こちらの私の電子テクストを参照されたい)。しかも、これも睡眠時の夢ではない。さらに言えば、耳を斬り落とした激しい心理的昂揚感と肉体的苦痛の中(観想などという心底落ち着いた状況とは訳が違う)、宗教的自傷行為のファナティクな心理的法悦(エクスタシー)の中で幻視したものである(どうも叙述からはこの夢は「高山寺明恵上人行状」のものと同一のものと私には思われる)。なお、河合隼雄氏の「明惠 夢に生きる」その他によれば、「華厳経」の中でも特に重要とされる一つ「入法界品」は、善財童子(ぜんざいどうじ)という少年が人生を知り尽くした五十三人の人々を訪ねて悟りへの道を追究する物語であるが、童子が最初に出逢うのが文殊菩薩である。河合氏はそれを、幼年期に父母の死によって欠損喪失した『父性と母性の両側面をある程度わがものとして、立派な僧になるべきイニシエーションを成し遂げた明恵が、求道の旅の最初に会う菩薩として、文殊に出会ったとも考えられるのである』(一三二頁)とある。

 但し、これらは弟子の記載であるから、原夢に手を加えて恣意的に荘厳化したものとも考えられるが、それ以上に、明恵はこの文殊顕現夢を頻繁に見ていたこと(だからこそ細部が異なるのだとも言えよう)、それを弟子たちに殊更に語っていたことが明らかになるというべきであろう。

 本条について河合氏も「明惠 夢に生きる」の中で(一三一頁)、

   《引用開始》


ここに述べられている文殊顕現が、果たして『伝記』などに記されているものと同一のものであるかどうか確かめるべくもない。ひょっとして、それは一度ではなかったかも知れない。ともかく明恵にとってこれは大きな体験であったようで、晩年にこのことについて弟子たちに語ったときは、「虚空カヾヤクコトカギリナシ、ソノ光明ノ中ニ、大聖マナアタリ現ジタマフ。歓喜勝計スベカラズ」と述べ、続いて「このゴロ口(くち)キヽ候ハ、ソノユヘニテアル也」とつけ加えている(「却廃忘記」)。つまり、皆に説教しなどできるのも、あの文殊顕現を見たおかげだと言っているのだから、彼がいかにそれを重視していたかが解るのである。


   《引用終了》


と述べておられる(「歓喜勝計スベカラズ」は「歓喜、勝(まさ)に計(けい)すべからず」と読むと思われ、「却廃忘記」は直弟子長円による聞き書きである)。

 それにしても本人が頻りに語りたがり、伝記作者も引用したくなる象徴夢であること明白である。即ち、明恵という高僧の夢記の断簡を継いだ巻子本の冒頭に配するには、これは頗る効果的な夢であると言えるのである。まず総ての仏智を象徴する文殊の顕現である。いや、智は、そのトバ口でしかないということか。寧ろ、金色の眩い輝きに逆照射されることでハレーションしてホワイト・アウトする此岸の側の愚かなさもしい人智の消失こそが、意味を持つ夢なのかも知れぬ。「もんじゅ」「ふげん」(普賢は仏法の髓であるカルマ(法)を象徴する。因みに文殊と普賢の両菩薩は釈迦の両脇侍である)……今まさに、とんでもない名前の忌わしい人智が――「現に」あるではないか。

2013/04/08

北條九代記 千葉介阿靜房安念を召捕る 付 謀叛人白状 竝 和田義盛叛逆滅亡 〈和田合戦Ⅲ 和田義盛死す〉 ~了

義盛が一族郎從は皆、一騎當千の兵共にて、只、討死と思定めたりければ、少もためらふ色はなし。向(むかふ)を打なびけ、掛(かゝ)を追散(おつちら)し、四角八面に邊(あたり)を拂つて、終夜(よもすがら)戰ひ明(あか)せ共、志は撓(たわ)まず、愈(いよいよ)武勇を勵(はげま)しけり。義盛は、老武者なり、數度の戰(たゝかひ)に將軍家よりは新手(あらて)入替り、和田は替る兵なく、戰(たたかひ)疲れ討取らるゝ者、過半にして、殘る兵も、痛手薄手(うすで)負(おひ)ければ、先(まづ)暫く休めとて、前濱(まへはま)の邊にぞ引取りける。足利〔の〕三郎義氏、筑後〔の〕六郎知尚、波多野中務丞(はだののなかつかさのじよう)經朝、鹽田(しほだの)三郎義季等(ら)の軍兵共、中下馬(かなげば)の橋を固め、米町の辻、大町の大路以下、所々を取塞(とりふさ)ぎて、凶徒を攻(せむ)る事、息をも繼(つが)せず。義盛を初(はじめ)て昨日の暮より、今日に至る迄、戰明(たゝかひあか)せ共、兵粮(ひやうらう)をも使はず、馬人共(とも)に疲(つかれ)し所に、横山馬九時兼(よこやまむまのじようときかね)、其婿(くこ)波多野(はだのゝ)三郎、同じく甥の横山五郎以下一門、郎従を引率して、和田が陣に馳來る。軍兵、又、三千騎になりければ、和田は之に力を得て、武藏大路の間(あひだ)、稻村ヶ崎の邊に群りたる、曾我、中村、二宮、河村の者共を散々に追散(おひちら)し、義淸、保忠、義秀三騎の勇兵、轡(くつばみ)を竝べ、掛立々々(かけたてかけたて)打つて廻れば、上總〔の〕三郎、佐々木〔の〕五郎、結城(ゆふきの)左衞門等、馬の足を立兼(たてか)ね、辟易して亂るゝ中に、筑後〔の〕四郎兵衞、壹岐(いきの)兵衞、土方(ひぢかた)次郎、神野(かんのゝ)左近、林内藤次(はやしないとうじ)を初(はじめ)て、二十七騎討たれて、手負(ておひ)は又、數を知らず。土屋大學助義淸、愈(いよいよ)進みて、御所のおはします鶴ヶ岡の別當の坊にうち入らんとする所に、若宮の赤橋の砌(みぎり)にて、流矢飛び来り、頸の骨に箆深(のぶか)に立つ。義淸、目くらみ、心消(きえ)て馬より落つるを、近藤左衞門尉、走り寄りて、首を取る。この義済淸は岡崎〔の〕四郎義實が二男なり、將軍家に恨(うらみ)ありて、和田に属(しよく)して討たれたり。既にその日の酉刻(とりのこく)に成りければ、和田が軍兵、殘少(のおりすくな)に討取られ、人馬共に疲(つかれ)果てて、和田〔の〕四郎左衞門尉義直は伊具馬(いぐまの)太郎盛重に討たれたり。父義盛、之を聞きて、「今は何をか期(ご)すべき。命生(いき)ても甲斐なし」とて、敵を選ばす打つて廻り、江戸〔の〕左衞門尉義範が郎従に組まれてうたれけり。子息五郎兵衞尉義重、六郎義信、七郎秀盛も、所々にして討たれたり。朝夷三郎義秀は、なほこれまでも手も負はず、膚(はだへ)、撓(たわ)まず、力(ちから)つかれざりけれ共、父義盛、その外兄弟郎從等(ら)、悉く討れしかば、今は軍(いくさ)しても詮(せん)なし。時節を待ちて本意を達せんとて、健(すこやか)なる郎從五百餘騎を一所に招(まねき)寄せ、濱面(はまおもて)に打出でつゝ、船六艘に取乘り、安房國に赴き、行方知らず隱れたり。新左衞門尉常盛、山〔の〕内先(せん)次郎、岡崎與一、横出馬允(うまのじよう)、古郡(ふるごほり)左衞門尉、和田〔の〕新兵衞入道は、一方を打破りて落(おち)失せたり。軍、散じて後、打(うち)取る所の首級を、由比浦(ゆひのうら)に梟(か)けられたり。都合二百三十四とそ聞えし。故右大將家より以來(このかた)、忠勤勇武(ようぶ)の輩、打(うち)續きて滅亡し、家門斷絶に及ぶ事も、時運の致す所とは云ひながら、旁(かたがた)以て不祥の瑞(ずゐ)なり。又誰(た)が上にか來るべきと、大名諸侍、口には云はねども、心の安き事はなし。和田が所領を沒收(もつしゆ)して、今度忠戰(ちうせん)の勸賞(けんじやう)に行はれ、諸方に下知して、叛逆(ほんぎやく)の餘黨一類共、悉(ことごとく)、誅せられ、世の中、暫く靜謐に属(しよく)しけり。

 

[やぶちゃん注:〈和田合戦Ⅲ 和田義盛死す〉

「吾妻鏡」巻二十一の建暦三(一二一三)年五月二日・三日の条に基づく。まず、前の二日の残りを示す。

○原文

凡義盛匪啻播大威。其士率一以當千。天地震怒相戰。今日暮及終夜。見星未已。匠作全不怖畏彼武勇。且弃身命。且勸健士。調禦之間。臨曉更。義盛漸兵盡箭窮。策疲馬。遁退于前濱邊。即匠作揚旗率勢。警固中下馬橋給。又於米町辻大町大路等之切處合戰。足利三郎義氏。筑後六郎知尚。波多野中務次郎經朝。潮田三郎實季等乘勝攻凶徒矣。廣元朝臣者。爲警固御文籍。自法花堂還于政所。路次被副遣御家人等。又侍從能氏。〔高能卿子〕安藝權守範高〔熱田大宮司範雅子〕等求納涼之地。今日逍遙邊土。而聞騷動之由奔參。路巷皆爲戰場。仍兩人共扣馬於山内邊之處。伺義盛退散之隙。參法花堂云々。

○やぶちゃんの書き下し文

凡そ義盛、啻(ただ)に大威を播(あ)ぐるのみに匪(あら)ず、其の士率も一(いつ)を以つて千に當り、天地震怒して相ひ戰ふ。今日も暮れ、終夜に及び、星を見るも未だ已まず。匠作(しやうさく)、全く彼の武勇を怖畏(ふい)せず。且は身命(しんみやう)を弃(す)て、且は健士を勸めて、調へ禦(ふせ)ぐの間、曉更(げうかう)に臨みて、義盛、漸く兵盡き、箭(や)窮(きはま)り、疲馬に策(むちう)つて、前濱の邊に遁れ退く。即ち、匠作、旗を揚げ、勢を率(そつ)して、中下馬橋(なかのげばはし)を警固し給ふ。又、米町の辻、大町大路等の切處(せつしよ)に於いて合戰す。足利三郎義氏・筑後六郎知尚・波多野中務次郎經朝・潮田(うしほだ)三郎實季等、勝つに乘じて凶徒を攻む。廣元朝臣は、御文籍を警固せんが爲に、法花堂より政所に還る。路次(ろし)は御家人等を副へ遣はさる。又、侍從能氏〔高能卿が子。〕・安藝權守範高〔熱田大宮司範雅が子。〕等、納涼の地を求め、今日、邊土を逍遙す。而うして騷動の由を聞きて奔り參るに、路巷、皆、戰場たり。仍つて兩人共に、馬を山内の邊に扣(ひか)ふるの處、義盛退散の隙(ひま)を伺ひ、法花堂へ參ずと云々。

・「匠作」北条泰時。既注。

・「中下馬橋」現在の二の鳥居のある鎌倉警察署前附近にあった。現在は暗渠。

・「切處」一般名詞としては山道などの通行困難な難所の謂いであるが、戦時下であるから、所謂、前線地帯、複数の道路の交差地点や、敵味方の拮抗している大路を指しているようである。

・「侍從能氏・安藝權守範高等、納涼の地を求め、今日、邊土を逍遙す」彼らはこの日の早朝からか(事態からは考えにくい)、前日以前からか、鎌倉御府外の郊外(でなければこの呑気さはあり得ないし、山の内に馬を預けたというのがその証左である)に避暑目的で物見遊山していたのである。彼らの行っていた場所が如何にも気になる。私はつい変なことが気になってしまうのが悪い癖でしてねえ……。

 

 建暦三(一二一三)年五月三日の条。非常に長い。

○原文

三日癸卯。小雨灑。義盛絶粮道。疲乘馬之處。寅尅。横山馬允時兼引率波多野三郎。〔時兼聟〕横山五郎〔時兼甥〕以下數十人之親昵從類等馳來于腰越浦之處。既合戰最中也。〔時兼與義盛。叛逆事謀合時。以今日定箭合期。仍今來〕仍其黨類皆弃蓑笠於彼所。積而成山云々。然後加義盛陣。義盛得時兼之合力。當新覊之馬彼是軍兵三千騎。尚追奔御家人等。辰尅。曾我。中村。二宮。河村之輩如雲騷。如蜂起。各陣于武藏大路及稻村崎邊。自法花堂御所。雖有恩喚。義兵有疑貽之氣。無左右不能參上。欲被遣御教書之比。數百騎之中。波多野彌次郎朝定乍被疵應此召。參石橋之砌書之。彼御教書〔被載將軍御判〕者。以安藝國住人山太宗高爲御使被遣之間。軍兵令拜見之。悉以參御方。又千葉介成胤引率黨類馳參。巳尅。被遣御書於武藏以下近國。有被仰下可然御家人等事。相州。大官令連署之上。所被載御判也。其狀云。

 

きん邊のものに。このよしをふれて。めしくすへきなり。わたのさゑもん。つちやのひやうゑ。よこ山のものとも。むほんをおこして。きみをいたてまつるといへとも。へちの事なき也。かたきのちりちりになりたるを。いそきうちとりてまいらすへし。

     五月三日 巳尅                大膳大夫

                            相摸守

 某殿

 

同時。向大軍於濱而合戰。義盛重擬襲御所。然而若宮大路者。匠作。武州防戰給。町大路者。上総三郎義氏。名越者。近江守賴茂。大倉者。佐々木五郎義淸。結城左衞門尉朝光等。各張陣之間。無據于擬融。仍於由比浦幷若宮大路。合戰移時。凡自昨夕至此晝。攻戰不已。軍士等各盡兵略云々。御方兵有由利中八大郎維久者。弓箭之道足譽也。於若宮大路。射三浦之輩。其箭註姓名。古郡左衞門尉保忠郎從兩三輩中此箭。保忠大瞋兮。取件箭射返之處。立匠作之鎧草摺之間。維久令與義盛。奉射御方大將軍之由。披露云々。鎭西住人小物又太郎資政攻入義盛之陣。爲義秀被討取。是故右大將家御時。被征高麗之大將軍也。又出雲守定長折節祗候之間。雖非武勇之家。殊盡防戰之忠。是刑部卿賴經朝臣孫。左衞門佐經長男也。又日光山別當法眼弁覺〔俗名大方余一〕引率弟子同宿等於町大路。與中山太郎行重相戰。小時行重迯奔云々。長尾新六定景之子息太郎景茂。次郎胤景等。相逢于義淸。惟平鬪諍。而胤景舍弟小童〔字江丸。年十三〕自長尾馳參。加兄陣施武藝。義淸等感之。對彼不發箭云々。義淸。保忠。義秀等並三騎轡。攻四方之兵。御方之軍士退散及度々。仍匠作以小代八郎行平爲使者。被申法花堂御所云。雖似有多勢之恃。更難敗凶徒之武。重可被廻賢慮歟云々。將軍家太令驚之給。防戰事。猶以擬被評議。于時廣元朝臣令候政所之間。有其召。而凶徒滿路次。非無怖畏。賜警固武士。可參上之由。依申之。被遣軍士等之時。廣元〔水干葛袴〕參上之後。及御立願。廣元爲御願書執筆。其奥以御自筆。被加二首歌。即以公氏。彼御願書。被奉於鶴岳。當斯時。大學助義淸自甘繩入龜谷。經窟堂前路次。欲參旅御所之處。於若宮赤橋之砌。流矢之所犯。義淸亡命。件箭自北方飛來。是神鏑之由謳歌。僮僕取彼首。葬于壽福寺。義淸依爲當寺本願主也。是岡崎四郎義實二男。母中村庄司宗平女也。建暦二年十二月卅日任大學權助。法勝寺九重塔造營功云々。酉尅。和田四郎左衞門尉義直。〔年卅七〕爲伊具馬太郎盛重被討取。父義盛〔年六十七〕殊歎息。年來依令鍾愛義直所願祿也。於今者。勵合戰無益云々。揚聲悲哭。迷惑東西。遂被討于江戸左衞門尉能範所從云々。同男五郎兵衞尉義重。〔年卅四〕六郎兵衞尉義信。〔廿八〕七郎秀盛。〔十五〕以下張本七人共伏誅。朝夷名三郎義秀。〔卅八〕幷數率等出海濱。棹船赴安房國。其勢五百騎。船六艘云々。又新左衞門尉常盛。〔四十二〕山内先次郎左衞門尉。岡崎余一左衞門尉。横山馬允。古郡左衞門尉。和田新兵衞入道。以上大將軍六人。遁戰場逐電云々。此輩悉敗北之間。世上屬無爲。其後。相州以行親。忠家。被實檢死骸等。構假屋於由比浦汀。取聚義盛以下首。及昏黑之間。各取松明。又相州。大官令承仰。被發飛脚。遣御書於京都。兩人連署之上。所被載將軍家御判也。是義盛雖令伏誅。餘黨之令紛散。未知其存亡。凡京畿之間。有骨肉。不日無羂索之儀者。難斷後昆狼唳也。御書之樣。

 

和田左衞門尉義盛。土屋大學助義淸。横山右馬允時兼。すへて相摸の者とも。謀叛をおこすといへとも。義盛殞命畢。御所方別の御事なし。しかれとも。親類多きうへ。戰場よりもちりぢりに成よしきこしめす。海より西海へも落行候ぬらん。有範。廣綱おのおのそなたさまの御家人等ニ。この御ふみの案をめくらして。あまねくあひふれて。用意をいたして。うちとりてまいらすへき也。

     五月三日 酉尅                  大膳大夫

                              相摸守

   佐々木左衞門尉殿

 

又昨今兩日。致合戰之輩。多以參匠作御亭。々主勸盃酒於件來客給。此間被仰云。於飮酒者。永欲停止之。其故者。去朔日入夜。有數獻會。而曉天〔二日〕義盛襲來刻。憖以著甲冑。雖令騎馬。依淵醉之餘氣。爲惘然之間。向後可斷酒之由。誓願訖。而度々相戰之後。爲潤喉尋水之處。葛西六郎〔武藏國住人〕取副小筒與盞勸之。臨其期。以前之意。忽變用之。至盞者給景綱〔尾藤次郎〕人性於時不定。比興事也。但自今以後。猶不可好大飮云々。

○やぶちゃんの書き下し文(途中に語注を附した)

三日癸卯。小雨灑(そそ)ぐ。義盛、粮道(らうだう)絶へ、乘馬疲(つか)らかすの處、寅の尅、横山馬允時兼、波多野三郎〔時兼が聟。〕・横山五郎〔時兼が甥。〕以下數十人の親昵(しんぢつ)從類等を引率し、腰越の浦に馳せ來るの處、既に合戰の最中なり。〔時兼と義盛、叛逆の事を謀り合はすの時、今日を以つて箭(や)合はせの期(ご)と定む。仍つて今來たる。〕仍つて其の黨類、皆、蓑笠を彼の所に於いて弃つるに、積みて山を成すと云々。

[やぶちゃん語注:

・「寅の尅」午前四時頃。]

 

然る後、義盛が陣に加はる。義盛、時兼の合力(かふりよく)を得、新覊(しんき)の馬に當る。彼れ是れ、軍兵三千騎、尚ほ御家人等を追奔(ついほん)す。 辰の尅、曾我・中村・二宮・河村の輩、雲のごとくに騷ぎ、蜂のごとくに起りて、各々武藏大路及び稻村崎(いなむらがさき)の邊に陣す。法花堂の御所より、恩喚(おんくわん)有ると雖も、義兵、疑貽(ぎたい)の氣有りて、左右(さう)無く參上に能はず。御教書を遣はされんと欲するの比(ころ)、數百騎の中、波多野彌次郎朝定、疵を被り乍らも此の召しに應じ、石橋の砌りに參じて之を書く。彼(か)の御教書(みきやうしよ)〔將軍の御判を載せらる。〕は、安藝國住人山太(やまた)宗高を以つて、御使を遣はさるるの間、軍兵、之を拜見せしめ、悉く以つて御方(みかた)に參ず。又、千葉介成胤、黨類を引率して馳せ參ず。巳の尅、御書を武藏以下の近國へ遣はされ、然るべき御家人等に仰せ下さるる事有り。相州・大官令連署の上、御判を載せらるる所なり。其の狀に云はく、

 

近邊の者に、この由を觸れて、召し具すべきなり。和田左衞門・土屋兵衞・横山の者ども、謀叛を起こして、君を射奉ると雖も、別(べち)の事なきなり。敵(かたき)の散々になりたるを、急ぎ討ち取りて參らすべし。

   五月三日 巳尅                 大膳大夫

                           相摸守

 某殿

 

同じ時、大軍を濱に向けて合戰す。義盛、重ねて御所を襲はんと擬す。然れども、若宮大路は、匠作・武州、防戰し給ふ。町大路(まちおほぢ)は、上総三郎義氏、名越は、近江守賴茂、大倉は、佐々木五郎義淸、結城左衞門尉朝光等、各々陣を張るの間、融(とほ)らんと擬するに據無(よんどころな)し。仍つて由比の浦幷びに若宮大路に於いて、合戰、時を移す。凡そ昨夕より此の晝に至り、攻め戰ふこと已まず。軍士等、各々兵略を盡すと云々。

御方の兵に由利中八大郎維久といふ者有り。弓箭(きうぜん)の道、譽れに足るなり。若宮大路に於いて、三浦の輩を射る。其の箭(や)に姓名を註(しる)す。古郡(ふるこほり)左衞門尉保忠が郎從、兩三輩、此の箭に中(あた)る。保忠、大いに瞋(いか)りて、件の箭を取り射返すの處、匠作の鎧の草摺に立つの間、

「維久、義盛に與せしめ、御方の大將軍を射奉る。」

の由、披露すと云々。

[やぶちゃん語注:

・「新覊の馬に當る」「覊」は「羈」でおもがい(馬の頭部に附ける馬具)であるから、新たに元気な兵馬を得たのと同じである、の意。

・「辰の尅」午前八時頃。

・「恩喚」貴人が目下の者を呼び寄せること。

・「疑貽」疑殆が正しい。原義は疑い危ぶむ、の謂いであるが、解決困難な混乱状況を指している。

・「御教書」三位以上及びそれに准ずる地位にある人の家司が、主の意思を奉じて発給した文書。

・「巳の尅」午前十時頃。

・「相州・大官令」「相摸守」北条義時と「大膳大夫」大江広元。

・「武州」北条時房。]

 

鎭西の住人、小物(こもの)又太郎資政、義盛の陣に攻め入り、義秀の爲に討ち取らる。是れ、故右大將家の御時、高麗を征せらるの大將軍なり。又、出雲守定長、折節(おりふし)、祗候(しこう)するの間、武勇の家に非ずと雖も、殊に防戰の忠を盡す。是れ、刑部卿賴經朝臣の孫、左衞門佐經長が男なり。又、日光山別當法眼弁覺〔俗名、大方(おほかた)余一。〕、弟子や同宿等を引率し、町大路に於いて、中山太郎行重と相ひ戰ひ、小時(しばら)くあつて行重、迯れ奔(はし)ると云々。

[やぶちゃん語注:

・「高麗を征せらる」「歴散加藤塾」の「吾妻鏡入門」の同条注に『実は鬼界嶋で現在の喜界島』とある。喜界島を代表する南西諸島の島嶼地域が何らかの形で強い独立性を示し、幕府に抵抗していたということか。

・「町大路」大町大路。西の端が現在の長谷甘縄から東町の盛久頸座(もりひさくびざ)付近で、東の端が名越の横須賀線踏切長勝寺付近で、現在の下馬四角で若宮大路と交差しており、この一帯が当時の鎌倉市街の繁華街であった。]

 

長尾新六定景の子息太郎景茂・次郎胤景等、義淸・惟平の相ひ逢ひ、鬪諍(とうじやう)す。而るに胤景が舍弟の小童(こわらべ)〔字(あざな)は江丸(かうまる)。年十三。〕、長尾より馳せ參じ、兄の陣に加はり、武藝を施す。義淸等、之に感じ、彼に對し、箭を發たずと云々。

[やぶちゃん注:「長尾」現在の神奈川県横浜市栄区長尾台。現在の大船駅西の直近。]

 

義淸・保忠・義秀等三騎、轡(くつばみ)を並べて、四方の兵を攻め、御方の軍士の退散、度々に及ぶ。仍つて匠作、小代八郎行平を以つて使者と爲し、法花堂の御所へ申されて云はく、

「多勢の恃(たの)み有るに似たりと雖も、更に凶徒の武を敗り難し。重ねて賢慮を廻らさるべきか。」

と云々。

[やぶちゃん注:「賢慮」何らかの新たな攻略法。具体的には鎌倉御府外への増強援軍要請を実朝に求めているのであろう。が、実朝がやったのは神頼みだった。が、それがまたプラシーボ効果を齎すのであるが。]

 

將軍家は、太(はなは)だ之を驚かしめ給ふ。防戰の事、猶ほ以つて評議せられんと擬す。時に廣元朝臣、政所へ候ぜしむるの間、其の召し有り。而るに凶徒路次に滿つ。怖畏(ふい)無きに非ず。警固の武士を賜はりて、參上すべきの由、之を申すに依つて、軍士等を遣はさるるの時、廣元〔水干、葛袴。〕參上の後、御立願(りつぐわん)に及ぶ。廣元、御願書の執筆(しゆひつ)たり。其の奥に御自筆を以つて、二首の歌を加へらる。即ち、公氏を以つて、彼の御願書を鶴岳に於いて奉らる。斯(こ)の時に當り、大學助義淸、甘繩(あまなは)より龜谷(かめがやつ)に入り、窟堂(いはやだう)の前の路次(ろし)を經、旅御所に參ぜんと欲するの處、若宮の赤橋の砌りに於て、流矢、義淸を犯す所、命を亡(うしな)ふ。件の箭、北方より飛び來る。是れ、神の鏑の由、謳歌す。僮僕、彼の首を取り、壽福寺に葬る。義淸、當寺の本願主たるに依つてなり。是れ、岡崎四郎義實が二男、母は中村庄司宗平が女なり。建暦二年十二月卅日、大學權助に任ぜらる。法勝寺九重塔造營の功と云々。

酉の尅、和田四郎左衞門尉義直〔年卅七。〕、伊具馬(いぐま)太郎盛重の爲に討ち取らる。父義盛〔年六十七。〕、殊に歎息す。

[やぶちゃん注:「酉の尅」午後六時頃。]

 

「年來、義直を鍾愛(しようあい)せしむに依つて祿を願ふ所なり。今に於ては、合戰に勵むも無益。」

と云々。

[やぶちゃん注:

・「鍾愛」寵愛。「鍾」は集めるの意。

・「祿を願ふ」(継がせるために)ひたすら領地を所望してしてきた。]

 

聲を揚げて悲哭し、東西に迷惑す。遂に江戸左衞門尉能範が所從に討たると云々。

同男五郎兵衞尉義重〔年卅四。〕・六郎兵衞尉義信〔廿八。〕・七郎秀盛〔十五。〕以下の張本七人、共に誅に伏す。朝夷名三郎義秀〔卅八。〕幷びに數率等、海濱へ出で、船に棹さして安房國へ赴く。其の勢五百騎、船六艘と云々。

[やぶちゃん注:ここで遁走した私の好きな「朝夷名三郎義秀」は行方を晦まし、遂には伝説の彼方へと去ってゆくのである。]

 

又、新左衞門尉常盛〔四十二。〕・ 山内先次郎左衞門尉・岡崎余一左衞門尉・横山馬允・古郡左衞門尉・和田新兵衞入道、以上大將軍六人は、戰場を遁れ、逐電すと云々。

此の輩、悉く敗北するの間、世上、無爲(ぶゐ)に屬す。其の後、相州は行親・忠家を以つて、死骸等を實檢せらる。假屋(かりや)を由比の浦の汀(みぎは)に構へ、義盛以下の首を取り聚(あつ)む。昏黑(こんこく)に及ぶの間、各々松明を取る。又、相州・大官仰せを承はり、飛脚を發せられ、御書(おんしよ)を京都に遣はす。兩人連署の上、將軍家の御判を載せらるる所なり。是れ、義盛、誅に伏せしむと雖も、餘黨の紛散せしむる、未だ其の存亡を知らず。凡そ京畿の間に、骨肉有り。不日(ふじつ)に羂索の儀無くんば、後昆(こうこん)の狼唳(らうれい)を斷ち難きなり。御書の樣(さま)、

 和田左衞門尉義盛・土屋大學助義淸・横山右馬允時兼、總て相摸の者共、謀叛を起こすと雖も、義盛、命を殞(おと)し畢んぬ。御所方、別(べち)の御事なし。然れども、親類多き上、戰場よりも散々に成る由、聞し召す。海より西海へも落ち行き候ひぬらん。有範・廣綱、各々そなた樣の御家人等に、この御文の案を廻らして、遍く相ひ觸れて、用意を致して、討ち取りて參らすべきなり。

     五月三日 酉尅                  大膳大夫

                              相摸守

  佐々木左衞門尉殿

又、昨今兩日、合戰致すの輩、多く以つて匠作の御亭へ參ず。亭の主、盃酒を件(くだん)の來客に勸め給ふ。此の間、仰せられて云はく、

「飮酒に於いては、永く之を停止(ちようじ)せんと欲す。其の故は、去る朔日(ついたち)、夜に入り、數獻(すこん)の會有り。而るに曉天〔二日。〕、義盛襲ひ來たるの刻(きざみ)、憖(なまじ)ひに以つて甲冑を著し、騎馬せしむと雖も、淵醉(えんずい)の餘氣に依つて、惘然(ばうぜん)と爲すの間、向後、斷酒すべきの由、誓願し訖んぬ。而るに度々相ひ戰ふの後、喉を潤さんが爲に、水を尋ぬるの處、葛西六郎〔武藏國の住人。〕、小筒(ささえ)と盞(さかづき)を取り副(そ)へ、之を勸む。其の期(ご)に臨み、以前の意(こころ)、忽ちに變じて、之を用う。盞に至りては、景綱〔尾藤次郎。〕に給ふ。人の性(しよう)、時に於て不定(ふじやう)、比興(ひきやう)の事なり。但し、今より以後、猶ほ大飮を好むべからず。」

と云々。

[やぶちゃん語注:

・「無爲に屬す」平静に戻った。

・「不日に」すぐに。

・「羂索」捕縛。「羂」は罠の意で、元は鳥獣を捉えるトラップのこと。

・「後昆の狼唳」「後昆」は「後」も「昆」も、後(のち)の意で、子孫後裔のこと。「狼唳」狼の如く凶悪で道理に背く行為・狼藉で後代の禍根の意。

・「曉天」とあるが、二日の和田の御所包囲(その際に初めて泰時の名が挙がっている)は「酉の尅」(午後六時)で齟齬する。このオチのエピソード自体が如何にもな作話っぽい。人徳の人泰時の逸話としては、血糊と死臭の中で演じられるこの軽いノリは、私にはおぞましいワン・シーンで好きになれぬ。

・「淵醉」単なる酒宴の意味で用いているが、本来、これは宮中の清涼殿殿上の間に殿上人を召して催した酒宴を指す。参会者は朗詠や今様などを歌い、歌舞を楽しんだ。正月三が日中の吉日又は新嘗祭などの後に行われた宮中行事の名称である。]

沢庵宗彭「鎌倉巡禮記」 18

 

 開山塔西來院は此山のかげなり。惣門に嵩山といふ額あり。佛光禪師の筆也。方丈あり。庫院あり。照堂には圓鑑といふ額あり。圓鑑と打たる額にゆへあり。開山隨身の鑑あり、入滅のきはに是を志ふかき隨時の僧に授給ふ。開山入滅の後、時賴、師をしたひ給ひ愁嘆なのめならず。ある夜師、夢に時賴にむかひての給はく、わが在世隨身の鑑をしかじかの僧に授ぬ。われをしたふ心あらば此鑑を見給へ。其鑑にわがすがたをのこすなりとしめし給ふ。夜明て不思議のおもひをなし、しかじかの名ついたる僧やあると尋給ひければ、さ候と申。鑑や持たるとゝひ給へば、夢のうちの師のしめしにたがはず。さらばそのかゞみをとて取りあげ、時賴つねに此鑑を見給ひて師をしたひ給ふ。鑑の金をみがきたるに、觀音の像とみへたる金の紋あり。是をわがすがたを鑑に殘すと師のしめし給へば、實に師は大悲の示現ありて辟支佛の身をあらはし、世を救ひ給ふなるべし。時賴薨じ給ひて後開山塔に籠給ふ。さてこそ圓鑑と額をかきたると寺僧語られし。鑑の體は爐形なるが爐のまるみを鑑の面に見せてみがきたる金の故に大悲のすがたほのかにあり、とを目に見るごとく也。

 

[やぶちゃん注:「圓鑑」(「えんかん」と読む)については「新編鎌倉志巻之三」の「建長寺」の寺宝の項の冒頭にある「圓鑑」に図像を含む厖大な資料がある。未見の方は、是非、お読みになられることをお薦めする。「時賴」は時宗の誤り。

 

「辟支佛」「びやくしぶつ(びゃくしぶつ)」と読む。縁覚(えんがく)のこと。師無くして独自に悟りを開いた人を言う。サンスクリット語の漢訳。独覚とも。十二因縁を観じて理法を悟り、あるいは様々な外縁に拠って悟る故に縁覚と言うとする。]

 

 

耳嚢 巻之六 豺狼又義氣有事



 豺狼又義氣有事

 

 尾州名古屋より美濃へ肴荷(さかなに)を送りて生業とする者ありしが、拂曉夜へかけて山道を往返(わうへん)なしけるが、右道端へ狼出てありければ、與風(ふと)肴の内を少々わけてあたへければ、悅べる氣色にて聊(いささか)害もなさゞりしゆゑ、後々は往來每(ごと)に右狼道の端に出ける節、不絕(たえず)肴を與へ通りしが、誠に馴れむつぶ氣色にて、必(かならず)其道の邊に出で肴を乞ひ跡を送りなどせる樣なり。かく月日へて或時、右の所肴荷を負ふて通り、彼狼に與ふべき分は別に持(もち)て彼(かの)邊にいたりしに、與へし肴は曾(かつ)て喰はず、荷繩をくわへて山の方へいざのふ樣子故、いかゞする事ぞと、其心に任せけるに、四五町も山の方へ引きいたりしに、狼の寐臥(ねふし)する所なるや、すゝき萱(かや)等蹈(ふみ)しだきたる所あり。其所(そこ)に暫(しばらく)たゝずみいたりしに、何か近邊里方にて大聲をあげ、鐡砲などの音して大勢にてさわぐ樣子なりける故暫(しばらく)猶豫して、靜りける故元の道へ立(たち)出しに、里人あつまりて、御身は狼の難には不逢哉(あはざるや)、渡り狼兩三疋出て海邊の方へ行(ゆき)しが、人を破(やぶら)ん事を恐れて、大勢聲をあげ鐡砲など打(うつ)て追拂(おひはら)ひしといひける故、我等はかくかくの事にて常に往來の節、肴抔あたへ馴染の狼、此山の奧の方へともなひし譯かたりければ、扨は彼(かの)狼、わたり狼の難を救ひしならんと、里人もともに感じけるとなり。

 

□やぶちゃん注

 

○前項連関:山路奇譚で美事連関。こういう連関、とってもいい!

 

・「豺狼又義氣有事」は「さいらうまたぎきあること」と読む。「豺狼」は「山犬(やまいぬ)と狼(おおかみ)」の謂いであるが、ここは山犬の謂いであろう(次注参照)。

 

・「狼」狭義には食肉(ネコ)目イヌ科イヌ属タイリクオオカミ亜種ニホンオオカミ Canis lupus hodophilax を指すが、本話の場合、主人公に非常になついている様子から、元は人に飼われていた可能性があり、すると必ずしもニホンオオカミではなく(ニホンオオカミでも勿論よい。後に引くウィキの「ニホンオオカミ」によれば、シーボルトはヤマイヌとオオカミ両方を飼育していたとある)、所謂、イヌ属 Canis の野犬の一種であったのかも知れない。以下、ウィキの「ニホンオオカミ」より引用する(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『一九〇五年(明治三八年)一月二十三日に、奈良県東吉野村鷲家口で捕獲された若いオス(後に標本となり現存する)が確実な最後の生息情報、とされる。二〇〇三年に「一九一〇年(明治四三年)八月に福井城址にあった農業試験場(松平試農場。松平康荘参照)にて撲殺されたイヌ科動物がニホンオオカミであった」との論文が発表された。だが、この福井の個体は標本が現存していない(福井空襲により焼失。写真のみ現存。)ため、最後の例と認定するには学術的には不確実である。二〇一二年四月に、一九一〇年に群馬県高崎市でオオカミ狩猟の可能性のある雑誌記事(一九一〇年三月二十日発行狩猟雑誌『猟友』)が発見された。環境省のレッドリストでは、「過去五十年間生存の確認がなされない場合、その種は絶滅した」とされるため、ニホンオオカミは絶滅種となっている』。特徴は『体長九五~一一四センチメートル、尾長約三〇センチメートル、肩高約五五センチメートル、体重推定一五キログラムが定説となっている(剥製より)。他の地域のオオカミよりも小さく中型日本犬ほどだが、中型日本犬より脚は長く脚力も強かったと言われている。尾は背側に湾曲し、先が丸まっている。吻は短く、日本犬のような段はない。耳が短いのも特徴の一つ。周囲の環境に溶け込みやすいよう、夏と冬で毛色が変化した』。『ニホンオオカミは、同じく絶滅種である北海道に生育していたエゾオオカミとは、別亜種であるとして区別される。エゾオオカミは大陸のハイイロオオカミの別亜種とされているが、ニホンオオカミをハイイロオオカミの亜種とするか別種にするかは意見が分かれており、別亜種説が多数派であるものの定説にはなっていない』とある。本話の「豺(やまいぬ)」と「狼(おおかみ)」の違いについて独立した記載があるので引用すると、『「ニホンオオカミ」という呼び名は、明治になって現れたものである。日本では古来から、ヤマイヌ(豺、山犬)、オオカミ(狼)と呼ばれるイヌ科の野生動物がいるとされていて、説話や絵画などに登場している。これらは、同じものとされることもあったが、江戸時代ごろから、別であると明記された文献も現れた。ヤマイヌは小さくオオカミは大きい、オオカミは信仰の対象となったがヤマイヌはならなかった、などの違いがあった。このことについては、下記の通りいくつかの説がある。

 

 ヤマイヌとオオカミは同種(同亜種)である。

 

 ヤマイヌとオオカミは別種(別亜種)である。

 

 ニホンオオカミはヤマイヌであり、オオカミは未記載である。

 ニホンオオカミはオオカミであり、未記載である。Canis lupus hodophilax はヤマイヌなので、ニホンオオカミではない。

 ニホンオオカミはオオカミであり、Canis lupus hodophilax は本当はオオカミだが、誤ってヤマイヌと記録された。真のヤマイヌは未記載である。

 ニホンオオカミはヤマイヌであり、オオカミはニホンオオカミとイエイヌの雑種である。

 ニホンオオカミはヤマイヌであり、オオカミは想像上の動物である。

 

シーボルトはオオカミとヤマイヌの両方を飼育していた。現在は、ヤマイヌとオオカミは同種とする説が有力である。なお、中国での漢字本来の意味では、豺はドール(アカオオカミ)、狼はタイリクオオカミで、混同されることはなかった。現代では、「ヤマイヌ」は次の意味で使われることもある。

 ヤマイヌが絶滅してしまうと、本来の意味が忘れ去られ、主に野犬を指す呼称として使用される様になった。


 英語のwild dogの訳語として使われる。wild dogは、イエイヌ以外のイヌ亜科全般を指す(オオカミ類は除外することもある)。「ヤマネコ(wild cat)」でイエネコ以外の小型ネコ科全般を指すのと類似の語法である』。次に「生態」の項。『生態は絶滅前の正確な資料がなく、ほとんど分かっていない。薄明薄暮性で、北海道に生息していたエゾオオカミと違って大規模な群れを作らず、二、三~十頭程度の群れで行動した。主にニホンジカを獲物としていたが、人里に出現し飼い犬や馬を襲うこともあった(特に馬の生産が盛んであった盛岡では被害が多かった)。遠吠えをする習性があり、近距離でなら障子などが震えるほどの声だったといわれる。山峰に広がるススキの原などにある岩穴を巣とし、そこで三頭ほどの子を産んだ。自らのテリトリーに入った人間の後ろをついて来る(監視する)習性があったとされ、いわゆる「送りオオカミ」の由来となり、また hodophilax (道を守る者)という亜種名の元となった。一説にはヤマイヌの他にオオカメ(オオカミの訛り)と呼ばれる痩身で長毛のタイプもいたようである。シーボルトは両方飼育していたが、オオカメとヤマイヌの頭骨はほぼ同様であり、テミンクはオオカメはヤマイヌと家犬の雑種と判断した。オオカメが亜種であった可能性も否定出来ないが今となっては不明である。「和漢三才図会」には、「狼、人の屍を見れば、必ずその上を跳び越し、これに尿して、後にこれを食う」と記述されている』。「人間との関係」の項。『日本の狼に関する記録を集成した平岩米吉の著作によると、狼が山間のみならず家屋にも侵入して人を襲った記録が頻々と現れる。また北越地方の生活史を記した北越雪譜や、富山・飛騨地方の古文書にも狼害について具体的な記述が現れている。奥多摩の武蔵御嶽神社や秩父の三峯神社を中心とする中部・関東山間部など日本では魔除けや憑き物落とし、獣害除けなどの霊験をもつ狼信仰が存在する。各地の神社に祭られている犬神や大口の真神(おおくちのまかみ、または、おおぐちのまがみ)についてもニホンオオカミであるとされる。これは、山間部を中心とする農村では日常的な獣害が存在し、食害を引き起こす野生動物を食べるオオカミが神聖視されたことに由来する。『遠野物語』の記述には、「字山口・字本宿では、山峰様を祀り、終わると衣川へ送って行かなければならず、これを怠って送り届けなかった家は、馬が一夜の内にことごとく狼に食い殺されることがあった」と伝えられており、神に使わされて祟る役割が見られる』。最後に「絶滅の原因」の項。『ニホンオオカミ絶滅の原因については確定していないが、おおむね狂犬病やジステンパー(明治後には西洋犬の導入に伴い流行)など家畜伝染病と人為的な駆除、開発による餌資源の減少や生息地の分断などの要因が複合したものであると考えられている。江戸時代の一七三二年(享保一七年)ごろにはニホンオオカミの間で狂犬病が流行しており、オオカミによる襲撃の増加が駆除に拍車をかけていたと考えられている。また、日本では山間部を中心に狼信仰が存在し、魔除けや憑き物落としの加持祈祷にオオカミ頭骨などの遺骸が用いられている。江戸後期から明治初期には狼信仰が流行した時期にあたり、狼遺骸の需要も捕殺に拍車をかけた要因のひとつであると考えられている。なお、一八九二年の六月まで上野動物園でニホンオオカミを飼育していたという記録があるが写真は残されていない。当時は、その後十年ほどで絶滅するとは考えられていなかった』とある。

・「四五町」約四三六~五四五メートルほど。

 

・「渡り狼」定住せず、野山を渡り歩く狼。

 

■やぶちゃん現代語訳

 狼(おおかみ)にもまた堅気のあるという事

 尾張名古屋より美濃へ魚(さかな)を運ぶことを生業(なりわい)と致す者があったが、品が品なれば、払暁から夜へかけて山道を往復致すが常であった。

 

 その通り道の端(は)へ、ある時、一匹の狼(おおかみ)が出でておったれば、ふと、荷の魚の内から、少々を分け与えてやったところが、何か悦んでおる気色(けしき)にて、聊かの害もなさずあったによって、その後、往来の度(つど)、その一匹狼の道の端に出でて待ちおるに、絶えず商売の魚少々を、

 

「――山の神への初穂じゃ。」

 

と与えては、通って御座ったと申す。

 

 この狼、狼にしては、まことに男に馴れなついた様子で、必ず、かの者の通り道の辺りに出ででは、魚を乞うて、静かに食べた後(のち)は、男の後を暫く見送るようについて御座ったりも致いたそうな。

 

 かく月日が経ったある日のこと、何時もの場所を魚の荷を負うて通った。

 

 いつものように、かの狼に与えようと思うておった分は、別に手に持って、かの辺りに至って御座った。

 

 いつものように、かの狼がおった。

 

 ところが――その日に限って、与えた魚を、一向に喰う気配がない。

 

 ――と――

 

 ふっと荷縄を銜えて山の方(かた)へと誘(いざな)う素振りを見せる。

 

「……何や?……何をしようと言うんかい?……」

 

と、不審に思いながらも、そのなすがままにまかせて、四、五町も山の方へと引かれて入って御座った。

 

 連れて行かれたところはと言えば――これ、かの狼の寝臥(ねふ)しする棲み家と思しい――薄や茅(かや)なんどを踏みしだいた一所(ひとところ)で御座った。

 

 気が付けば……かの狼……知らぬ間に姿を消して御座った。……

 

 かの狼が戻って来るまでと、そこに暫くの間、ただぼんやりと佇んで御座ったところ……

 

――ホイ! ホイ! ホイーッ!

 

――ウッシ! ウッシ!

 

と、何やらん、近隣の里方(さとがた)より、大声を挙げるて人の来るのが聴こえだしたかと思うと、

 

――パン! パパンッ!

 

と今度は鉄砲なんどの音までして、これ、どうも、相当に大勢にて騒いでおる様子なれば、

 

「……これ、尋常ではないぞ!……鉄砲にても打たれては、かなわん!……」

 

と、少し様子を窺って後、静まったのを見計らって、元の山道へと下って立ち戻った。

 

 すると、曙の薄ら明りの中、松明を持った里人が仰山に集まっており、かの男を見つけるや、

 

「――お前さん、狼の難には遇わなんだか!?……この近くで、渡り狼が三疋ばかりも現われおっての!……ここからずっと海辺の方へと山道を走っていったようじゃて……人を襲うては、これ、一大事と……まあ、こうして大勢にて声を挙げ、鉄砲なんど撃っては、追い払(はろ)うておったんじゃ!……」

 

と申したによって、

 

「……我らはかくかくのことにて、常に往来の砌り、商売の雑魚なんどを一疋の狼に与えて御座ったが……その馴染みの狼が……今日は、この山の奧の方(かた)へと、我らを伴(ともの)うて入って御座ったれば……」

 

と語ったところ、

 

「……さては! その狼、お前さんが、渡り狼の難に遇うを、これ、救うたに違いない!……」

 

と、里人もともに、畜生ながら、狼の堅気に感じ入ったとのことで御座る。

一言芳談 一四五 / 奥書 / 「一言芳談」了

本ブログを以って――「一言芳談」やぶちゃん再構成補注ブログ版――を完了した。まさに同行二人として毎日ともに歩んで、欠かさずに感想を述べてくれた友に感謝するものである。ありがとう。



   一四五

 

 有(あるひと)いはく、遁世といふは、ふかく人をいとふべからず。但し、ゆゑなく人をおそるゝ、又、僻因(ひがいん)なり。いま、いとふゆゑは、ふかく名利(みやうり)をいとふゆゑなり。抑(そもそも)又、凡夫(ぼんぷ)の行人(ぎやうにん)は獨身(どくしん)にして、難治(なんぢ)なる故に、いたく名利をもよほさぬ。同行一兩人、あひかまへて、したしむべきか。それも多くならば、かたがた難あるべきなり。

 

○人をいとふべからず、一向に人をいとふもひがごとなり。ひとり住めば懈怠になるを、よき師友にそへば、わが心をはげます因緣なり。かの西仙房の事、公尊阿闍梨の事を見るべし。黑谷、明惠両上人の伝にあり。又ひとへに塵俗にかじはれば緣にふれて道心もさめやすし。處靜なればおのづから道もおこなはるゝなり。

 佛話經云、比丘在聚落身口精勤、諸佛皆憂、

 比丘在山息事安臥、諸佛皆喜。永嘉曰、

 未得道而先居山、但、見其山必忘其道。

かくのごとく、佛祖の教誡、おのおの一義によるものなり。

 法然上人云、ひとりゐて念佛申されずば、同行と共行(ぐぎやう)して申すべし。共行して申されずば、ひとりこもりゐて申すべし、云々。

 

[やぶちゃん注:標注の漢文は続いた文であるが、全体が一字下げであるで、かくの如く配しておいた。

「僻因」捻くれた考え方。

「抑又、凡夫の行人は獨身にして、難治なる故に、いたく名利をもよほさぬ。」どうも意味が摑めない。Ⅱで大橋氏は、

『思うに、凡夫の修行者は、一人ではやりにくいから、それほどには名誉とか利欲といった心をおこさせないのです。』

と訳しておられるが、私にはこの訳でも、何か腑に落ちないでいる。一人では正しい念仏の行法を修しにくいから、複数でやる。複数でやる場合は、相互に相手の心を慮るから、自然、名誉や利欲に走るような心を、逆に起こさせにくいという便(びん)がある、という意味か?……それでもやはり不審である……識者の御教授を乞うものである。

「西仙房」不詳。識者の御教授を乞う。

「公尊阿闍梨」不詳。「鶴岡八幡宮年表」の応長元(一三一一)年五月二十三日の条に『この日、別当道珍、公尊を供僧職に補任す』とあるが、別人であろう。識者の御教授を乞う。

「黑谷」法然。

「明惠」(承安三(一一七三)年~寛喜四(一二三二)年)は華厳宗の僧。諱は高弁。栂尾(とがのおの)上人とも呼ばれる。父は平重国。現在の和歌山県有田川町出身。華厳宗中興の祖とされる。彼の名が師友に添う例の注ではあっても、ここに、しかも、法然と名を並べて登場していることに、私は驚きと不思議な因縁を隠せぬのである――それが何故、不思議な因縁であるかは――今は語らない。――しかし近日中には――その意味がお分かり頂けるであろう――。彼は四十歳も年上の法然を、非常に高く評価し、尊敬もしていたが、建久元(一一九〇)年に法然が「選択本願念仏集」を著わすや、その内容を正法に反するものとして義憤を発し、法然が没する建暦二(一二一二)年に法然批判の書「摧邪輪(ざいじゃりん)」を著しているのである(翌年にも「摧邪輪荘厳記」を著して追加批判をさえしている)。

「佛話經云、比丘在聚落身口精勤、諸佛皆憂、比丘在山息事安臥、諸佛皆喜。永嘉曰、未得道而先居山、但、見其山必忘其道。」Ⅰの訓点を参考に書き下しておく。

 

「佛話經」に云はく、「比丘、聚落(じゆらく)に在れば、身口、精勤なるも、諸佛、皆、憂ひ、比丘、山に在りて事を息めて安臥すれば、諸佛、皆、喜ぶ。」と。永嘉曰く、「未だ道を得ずして、先づ山に居(きよ)せば、但だ、其の山を見て必ず其の道を忘る。」と。」

 

 

 

「佛話經」は単に仏説の経、ブッダの教えを記した古仏典といった謂いであろうか。本引用が具体的に何という経によるものかは不詳。識者の御教授を乞う。

「永嘉」は永嘉玄覚(ようかげんかく 六六五年~七一三年)で唐初の禅僧。禅宗六祖慧能の直弟子。「六祖壇経」の内容を再構成した「証道歌」という日本の曹洞宗で現在でも読まれている経の作者であるとされているが、歴史学的な証拠は存在しない。また、その他、玄覚の生涯については殆んど記録が残っておらず、詳しいことは分かっていない(以上はウィキ永嘉玄覚に拠った)。]

 

 

 

  依輔定所望難去早速馳筆

  于時寛正第四載孟夏上弦之比

        頽齡五十五

        洛下田畔野叟 朱印

 

○是は慶安年中、板行本の奥書なり。輔定、なに人ぞ、考見るべし。或云、江州佐和山に古本有。徹書記の筆也。是はその本の奥書なり。朱印に正徹とありとぞ。

 

[やぶちゃん注:Ⅲは最後の二行がなく、二行ほど空いて、

 

一言芳談卷之下終   慶安元年林甚右衞門刊

 

とある(Ⅱも同じコンセプト)。また示した標註はⅠにはなく、Ⅱの脚注にあるものを起こした。Ⅱでは更に大橋氏によって、この『慶安年中云々」は、慶安元年林甚右衛門刊を指す』とある。ところが不思議なことに、Ⅱには注はもとより、訳者解題の版本流伝の解説中にも、このⅠにある「頽齡五十五/洛下田畔野叟 朱印」の部分の記載がない。

 Ⅱの訓点(Ⅰ・Ⅲは白文)を参考に漢文部分を書き下しておく。

 

  輔定(すけさだ)の所望、去り難きに依つて早速に筆を馳(はし)らす。

  時に寛正第四載の孟夏、上弦の比(ころ)。

 

「寛正第四載」西暦一四六三年。室町時代で幕府将軍は足利義政。

「慶安元年」慶安元年は西暦一六四八年。正保五年二月十五日に改元された。幕府将軍は徳川家光。

「田畔野叟」が雅号であるが、正徹の現存するそれにはないものと思われる。

「徹書記」「正徹」正徹(しょうてつ 永徳元(一三八一)年~長禄三(一四五九)年)は室町中期の臨済僧で歌人。道号は清巌(岩)、庵号は招(松)月庵。石清水八幡宮に仕える祀官一族の出身で、父は小松(または小田)康清といわれ、備中国(現在の岡山県)小田郡の小田荘を知行していた。俗名は正清。和歌を冷泉為尹と今川了俊(貞世)に学んだ。応永二一(一四一四)年に出家して法号を正徹と号した。京都東福寺の書記であったことから徹書記とも呼称された。室町幕府六代将軍足利義教に忌避されて謫居(たっきょ)となる。そのためか、「新続古今和歌集」に正徹の歌は入集していない。義教の没後は歌壇に復帰して活躍。歌人のみならず古典学者としても評価をされており、義政に「源氏物語」の講義を行った事蹟が知られる。二万首近くの詠歌が現存する室町期最大の歌人で、歌風も際立って特色があり、二条派からは異端視されたものの、藤原定家を尊崇し、時に前衛的・象徴的・夢幻的で、独自の幽玄の風体を開拓した。門下には心敬らがいる。家集に「草根集」、歌論に「正徹物語」がある。古典学者としては「源氏物語」の研究のほか、「伊勢物語」などの物語類や藤原定家などの歌人の家集などの古典籍の書写を行っており、現存の伝本流布にも貢献している。中でも正徹の書写した「徒然草」は現存最古の写本として重要なものであり、彼が『つれづれ草は枕草子をつぎて書きたる物也』として両書を同じ文学形態として初めて認めた点で文学史家としての優れた着眼点を持っていたと言える(以上はウィキの「正徹」に拠った)。]

一言芳談 一四四

   一四四

 

 敬佛上人のもとにて、人々、後世門(ごせもん)の事につきて、あらまほしき事ども、ねがひあひたりけるに、或人云〔椎尾四郎太郎〕、法門(ほふもん)なき後世物語(ごせものがたり)、云々。上人感じて云、いみじくねがへり。その髓(ずゐ)を得たる事、これにしくべからず。

 

○法門なき後世物語、あながちに經釋(きやうしやく)を引かず、さのみ問答にも及ばず、直(ぢき)に生死無常の事をかたりて、道心をはげまんとなり。

○いみじくねがへり、よきねがひやうなり。

○その髓を得たり、後世者の最要(さいえう)をいひ得たりとなり。達摩(だるま)、二祖の見處(けんじよ)をほめて、汝得吾髓とのたまひし事、傳燈錄に見ゆ。

 

[やぶちゃん注:標注の「汝得吾髓」は「汝、吾が髓を得たり」と読む。

「敬佛房」「三十六」に初出し、本書に多く登場するが、伝不詳。法然・明遍の両人の弟子とされる。

「後世門」浄土についてのこと。

「あらまほしき事」かくあってほしいという、各々の理想染みたこと。

「ねがひあひたりけるに」かくありたいと、経文や法語を交えてしきりに云々していたところ。

「或人云〔椎尾四郎太郎〕」Ⅰには割注はない。この「椎尾四郎太郎」についてはⅡで『伝未詳』とあるが、『歎異抄』の教学史的研究」(竜谷大学仏教文化研究叢書十七・矢田了章他共同研究)に、当時の法然浄土教に属する念仏集団についての叙述の中で、「一言芳談」『は、法然・明遍・敬仏・明禅・聖光など多くの語録を収集している。このなか、一四五条の三分の一を占めているのが敬仏の語録である』とし、この条を挙げて、『「或云く」とあり、その註に「椎尾四郎太郎」と一人の人物が登場する。この「椎尾」の姓は、常陸真壁の椎尾氏を意味し、真壁出身の真仏の「椎尾弥三郎」と同姓である。同時代であることからも、敬仏の弟子でもあった真仏と密接な関係にあった眷属に間違いはなく、関東の親鸞門弟周辺でも、このように念仏聖の語録が収集し伝えられていることが窺える。この敬仏は弘願本『法然聖人絵』や、無住の『沙石集』にも登場し、敬仏の後世者としての人気が高かったことがわかる』とある。

「法門なき後世物語」Ⅱで大橋氏は「後世物語」に注され、『平凡な、あのよの話。前世・現世に対し、後世・来世といい、法然上人は「ただ念仏の一行をもて、すなはち後世に付属流通せしむ」(『選択本願念仏集』)と述べ、『広決瑞決集』巻三に「念仏は只一向に後世の為のみにあらず、かねてはまた現世の祈ともなる」とあるのは同意』と記される(私は馬鹿なのか、これが『同意』であることがよく分からない)。「広疑瑞決集」とは法然の孫弟子敬西房信瑞という僧が建長八(一二五六)年に書いたもので、現在の諏訪市上原に拠点を置いた諏訪氏の一族の上原敦広なる人物の疑問に信瑞が答えた問答集である(長野県立歴史館 歴史館たより二〇〇二春号の記載に拠る)。

――「経文などを引用したり、くだくだしい法論などを抜きにしたあの世の物語を!」――の請いである。

「二祖」私の大好きな慧可(えか 四八七年~五九三年)。雪舟の絵で著名な「雪中断臂」「慧可断臂」(慧可が嵩山の少林寺で面壁していた達磨に面会して弟子入りを請うたが、達磨が断わるも、慧可は達磨の背後の雪中に立ち尽くし、遂には自らの左腕を切り落として入門を許されたとされる)の中国禅宗の二祖。

「見處」見地。見極め。断臂した慧可の覚悟が俗情や世知によるものではないこと。

「汝得吾髓」探し方が悪いらしく、所持する「傳燈錄」の電子テクスト・データから当該箇所が発見出来ないので、「サイト禅宗祖師」慧可大祖禪師にあるテクストを参考に引用する。

 

達磨祖師曰、「時將至矣、汝等盍各言所得乎。」

時有道副對曰、「如我所見、不執文字、不離文字、而爲道用。」

祖曰、「汝得吾皮。」

尼總持曰、「我今所解、如慶喜見阿〔門人人人。〕佛國、一見更不再見。」

祖曰、「汝得吾肉。」

道育曰、「四大本空、五陰非有、而我見處、無一法可得。」

祖曰、「汝得吾骨。」

最後、慧可禮拜、依位而立。

祖曰、「汝得吾髓。」

 

この部分について、個人ブログ「真実の自己を求めて」の汝得吾髄(その1)に谷口清超著「正法眼蔵を読む 葛藤の巻」を参考にされた現代語訳がある(一部を省略、句読点を追加し、改行を施させて戴いた)。

   《引用開始》

 達磨大師は曾て門人達にこう言われた。

「将に伝法の時が来たと思う。お前達夫々悟りの極致を言ってみよ。」

 すると門人道副が、こう言った。

「私の今の境地は文字に因われず、しかも離れることなく、時に応じて真理を活用するということです。」

すると達磨は、

「お前は吾が皮を得た。」

と言われたのである。

 次に尼総持は、こう述べた。

「私の今の悟りの境地は阿難尊者がかの阿しゅく如来の国土を一見して、さらに二度と見ようとはなさらなかったような心境です。」

すると達磨は、

「お前は私の肉を得た。」

と言われた。

 第三に道育が、こう言った。

「地水火風などのあらゆる現象は本来空であり、五蘊(色受想行識)は本来あるものではありません。従って私の悟りは、現象はなしということです。」

すると達磨は、

「お前は私の骨を得た。」

と言われたのである。

 そして最後に、慧可は、達磨の前で三拝して、又、もとの自分の席に戻って無言のまま立ったのである。

 すると達磨は、こう言われた。

「お前は私の髄を得た。」

 こうしてその後、達磨は慧可を二祖として法を伝え、袈裟を授けたのであった。

   《引用終了》

しばしば、お世話になっている「つらつら日暮らしWiki〈曹洞宗関連用語集〉」の汝得吾髄でも、『達磨大師が自らの弟子達に各々得たところを示すように促した。二祖となる慧可大師はただ達磨大師を三拝し、自位に戻っただけであったが、達磨は慧可に対し、「吾が髄を得たり」として評した』とある。

「傳燈錄」中国の禅宗史書の一つ。三十巻。蘇州承天寺の道原の作。北宋の景徳元 (一〇〇四)年に真宗に上進され、勅許によって入蔵されたことから、「景徳伝灯録」とも呼ばれる。時の宰相楊億の序を持つ。過去七仏に始まり、インドの二十八代・中国の六代を経て北宋初期に至る総計一七〇一人の祖師の名と伝灯相承(そうじよう)の次第を述べた書。北宋時代における禅の興隆とともに士大夫の教養書の一つとなり、禅本の権威となった。仏祖の機縁問答を「一千七百則の公案」と呼ぶのは,本書に収める仏祖の数字に基づく(以上は平凡社「世界大百科事典」の記載に拠った)。]

およぐひと 萩原朔太郎 (「月に吠える」版)

 およぐひと

およぐひとのからだはななめにのびる、

二本の手はながくそろへてひきのばされる、

およぐひとの心臟(こころ)はくらげのやうにすきとほる、

およぐひとの瞳(め)はつりがねのひびきをききつつ、

およぐひとのたましひは水(みづ)のうへの月(つき)をみる。

[やぶちゃん注:「月に吠える」初版(大正六(一九一七)年二月感情詩社・白日社出版部共刊)の「くさつた蛤 なやましき春夜の感覺とその疾患」の五篇目。朗唱なさってみらるるがよい。これは完全に朗詠のために改稿されたものであうことが分かる。そうして――そうして詩とは論理性と無縁であることがはっきりと分かる。それは一つの完成された神話なのだ。「およぐひと」という神話全体が発動すれば、そこでは「胴體」も「心臟(こころ)」も「こころ」も「瞳(め)」相互に置換されても全く問題がない。優れた詩とは確かに伝説なのである。]

およぐひと(泳ぎの感覺の象徴) 萩原朔太郎  (「およぐひと」初出形)

 およぐひと(泳ぎの感覺の象徴)

およぐひとのからだはななめにのびる、

二本の手はながくそろへてひきのばされる、

およぐひとの胴體はくらげのやうに透きとほる、

およぐひとのこころはつりがねのひびきをききつつ

およぐひとのたましひは月をみる。

[やぶちゃん注:『LE.PRISME』第二号・大正五(一九一六)年五月号に所収。後の「月に吠える」初版(大正六(一九一七)年二月感情詩社・白日社出版部共刊)の「およぐひと」の初出形。]

春のかなしみ 大手拓次

 春のかなしみ

 

かなしみよ、

なんともいへない 深いふかい春のかなしみよ、

やせほそつた幹(みき)に春はたうとうふうはりした生きもののかなしみをつけた。

のたりのたりした海原のはてしないとほくの方へゆくやうに

ああ このとめどもない悔恨のかなしみよ、

温室のなかに長いもすそをひく草のやうに

かなしみはよわよわしい賴(たよ)り氣をなびかしてゐる。

空想の階段にうかぶ鳩の足どりに

かなしみはだんだんに虛無の宮殿にちかよつてゆく。

鬼城句集 春之部 植物 櫻

公開と季節とのシンクロを維持するために以降も単季題で公開することとする。



  植物

 

櫻    花散るや愁人面上に黑子あり

     しらしらと人踏まで暮るゝ落花かな

[やぶちゃん注:底本では「し」は「志」を崩した草書体表記で「ひらひら」の後半は踊り字「〱」。]

     草の戸にひとり男や花の春

     欝金櫻色濃く咲いて淋しいぞ

[やぶちゃん注:「欝金櫻」ウコン(鬱金)はサクラの栽培品種一つ。開花の時期は東京でソメイヨシノより遅めの四月中旬頃。花弁に葉緑体を持つなど性質はギョイコウ(御衣黄)に似ているが、色は緑色が弱く、淡黄色。数百品種あるサクラの中では唯一、黄色の花を咲かせる。大輪の八重咲きで、名はショウガ科のウコンの根を染料に用いた鬱金色に由来するが、それと混同されないように、「鬱金桜」或いは「鬱金の桜」と呼ばれることもある。また、別名として「黄桜」「浅葱桜(浅黄桜)」などがあるが、これらの別称はギョイコウを指すこともあるので注意が必要。(以上はウィキの「ウコン(サクラ)」に拠った)。]

       賀

     二人してひいて遊べよ糸櫻

     よき馬や櫻に曳いて御奉納

     山寺や彼岸櫻に疊替

     吹きよせて落花の淵となりにけり

     御經の金泥へげて八重櫻

     花散つてきのふに遠き靜心

     花ちりて地にとゞきたる響かな

     花散るや耳ふつて馬のおとなしき

      墓前

     呼べど返らず落花に肥ゆる土の色

     篝火の尾上にとゞく櫻かな

[やぶちゃん注:「尾上」は「をのへ(おのえ)」で、原義は「峰(を)の上(うへ)」の意で山の頂のこと。ここでは篝火の炎の頂点を指す。]

     うつろ木のたゝけば鳴りて櫻かな

     里人や古歌かたれ山櫻

     愁人の首も縊らず花見かな

     庭の雨花の篝火を消して降る

     無信心の顏見られけり寺の花

     四五輪の花に老木となりにけり

     花雲のかゝりて暮れぬ三軒家

     里人の堤を燒くや花曇

     家こぼちて櫻さみしく咲きにけり

一言芳談 一四三

   一四三

 

 敬佛房、奥州の方、修行のとき、寄宿しける在家(ざいけ)の四壁、大堺(おほざかひ)みなやぶれて、住み荒らせる體(てい)なり。そのゆゑをとふに、亭主こたへて云、名取郡(なとりのこほり)にうつりすむべきゆゑなり、云々。敬佛房、これをきゝて落涙し、同行(どうぎやう)に示して云、欣求(ごんぐ)の心あらば、自然(じねん)に穢土(ゑど)を執(しふ)すべからず。才覺(さいかく)にいはれけるなり。

 

○四壁、家の四方の壁なり。

○大堺、屋敷のさかひの垣(かき)などなり。

○名取郡、奥州の郡の名なり。名所なり。

 

[やぶちゃん注:「名取郡」同名の郡が昭和六三(一九八八)年まで宮城県南部にあった。明治一一(一八七八)年に行政区画として発足した当時の郡域は、名取市・岩沼市(吹上・吹上西・阿武隈・大昭和などを除く)・仙台市太白区及び青葉区の一部(茂庭・新川など)・若林区の一部(沖野・下飯田・三本塚・井土以南)に当たる。七世紀に設置されたと推定される郡で、かつては和銅六(七一三)年に陸奥国に丹取郡を置いたとする『続日本紀』の記事が、「名取」を「丹取」と誤記したものだとする説が有力だったが、現在では否定されている(丹取郡(にとりのこおり)は和銅六(七一三)年に当時の陸奥国最北の郡として、後の名取郡よりも遙かに北方である現在の宮城県大崎市辺りを中心に設置された郡。神亀五(七二八)年頃に分割・廃止された)。天平元(七二九)年十一月十五日の日付で、陸奥国名取郡から昆布を納めたときの荷札の木簡が、平城宮から見つかっている。また、郡の字は付されていないものの、郡山遺跡から出た土師器の坏に「名取」と記されたものがある。「名取」の名の文献上の初見は、「続日本紀」天平神護二(七六六)年十二月三十日の条にある名取竜麻呂の改姓記事であるが、郡名「名取郡」としては神護景雲三(七六九)年三月十三日の条、

神護景雲三年三月辛巳○辛巳。陸奧國白河郡人外正七位上丈部子老。賀美郡人丈部國益。標葉郡人正六位上丈部賀例努等十人。賜姓阿倍陸奧臣。安積郡人外從七位下丈部直繼足阿倍安積臣。信夫郡人外正六位上丈部大庭等阿倍信夫臣。柴田郡人外正六位上丈部嶋足安倍柴田臣。會津郡人外正八位下丈部庭蟲等二人阿倍會津臣。磐城郡人外正六位上丈部山際於保磐城臣。牡鹿郡人外正八位下春日部奧麻呂等三人武射臣。曰理郡人外從七位上宗何部池守等三人湯坐曰理連。白河郡人外正七位下靭大伴部繼人。黑川郡人外從六位下靭大伴部弟蟲等八人。靭大伴連。行方郡人外正六位下大伴部三田等四人大伴行方連。苅田郡人外正六位上大伴部人足大伴苅田臣。柴田郡人外從八位下大伴部福麻呂大伴柴田臣。磐瀨郡人外正六位上吉彌侯部人上磐瀨朝臣。宇多郡人外正六位下吉彌侯部文知上毛野陸奧公。名取郡人外正七位下吉彌侯部老人。賀美郡人外正七位下吉彌侯部大成等九人上毛野名取朝臣。信夫郡人外從八位下吉彌侯部足山守等七人上毛野鍬山公。新田郡人外大初位上吉彌侯部豐庭上毛野中村公。信夫郡人外少初位上吉彌侯部廣國下毛野靜戸公。玉造郡人外正七位上吉彌侯部念丸等七人下毛野俯見公。竝是大國造道嶋宿禰嶋足之所請也。

の、『名取郡人外正七位下吉彌侯部老人』に『上毛野名取朝臣』を賜姓したとする記事が最も早い。元来は名取川及び支流の広瀬川が宮城郡との境であったが、近世初期には広瀬川支流の竜ノ口沢が境界線となり、青葉城を含む土地が宮城郡へと編入された(以上は主にウィキ名取郡」等に拠ったが、「続日本紀」の引用部はJ-TXTS 日本文学電子図書館続日本紀巻第廿九にあるものを恣意的に正字化して引用した)。Ⅱの大橋氏注には『山道・海道の合する要衝の地で』あったとする。しかし、本話では、敬仏房はこの「名取郡」を西方浄土の謂いとして置換している。

「欣求の心あらば、自然に穢土を執すべからず。才覺にいはれけるなり。」――欣求浄土のみ心のままにあれば、この穢土に対し、自ずと執着しなくなるものなのである。『近々、名取郡(なとりのこおり)に移り住むことになっておりますゆえ』とは、これ、我ら念仏者に対し、機転を利かせてお答えになられたのじゃ――

……しかし恐らく、かく涙して讃じた敬仏房に対して、この在家の主(あるじ)は微苦笑せざるを得なかったには違いあるまい……。]

2013/04/07

一言芳談 一四二

   一四二

 

 或人の云、後世者(ごせしや)は、したき事をとゞむるなり。心にしたき事はみな惡事なるがゆゑなり。

 

○したき事をとゞむるなり、寶雲經云、心相是大患之本也。不令是心得自在。

 平泰時の歌に、世を海のあまの小舟(をぶね)の綱手繩(つなでなは) 心のひくに身をなまかせそ。

 

[やぶちゃん注:「寶雲經云、心相是大患之本也。不令是心得自在。」書き下す。

 「寶雲經」に云はく、「心相(しんさう)は是れ、大患の本なり。是の心をして自在を得せしめず。」と。

「寶雲經」六世紀の南梁の扶南沙門曼陀羅仙僧伽婆羅(まんだらせんさんぎゃばら)訳述になる「仏説宝雲経」七巻。

「心相」心の姿。心の様。心のはたらくさま。

「平泰時」鎌倉幕府第三代執権北条泰時(寿永二(一一八三)年~仁治三(一二四二)年)。以下の和歌は不詳。識者の御教授を乞う。]

一言芳談 一四一

   一四一

 

 乘願上人云、佛法には、德をかくす事をば、よき事にいひたれども、外(ほか)に愚を現ずれば、又、懈怠(けだい)になる失あり。たとへば、道場へは入らずして、寢所(ねどころ)にゐて、念佛せんとするほどに、しばらくこそあれ、ねぶりならへる所なるがゆゑに、のちにはやがて、ねいるがごとし。されば凡夫は、とにかくに、すすまじとするを、すすめんために、助業(じよごふ)は大切(たいせつ)なり。

 

○乘願上人云、此詞また肝要なり。前に人目に立つ事をいましめらるる言多けれども、あまりに人目をしのび、世にしたがひすぐれば、眞實の懈怠者になるなり。過不及(くわふきふ)の間をはからふべし。

○助業、念佛のものうき時、たすけすゝむるわざを助業といふなり。經をよみ、佛を觀じ、禮拜をし、六時禮讚などをつとむる事なり。

 

[やぶちゃん注:この条は想像通り、「一四〇」の如何にもな附帯条であって、「一言芳談」には不要な一条であると私は断じて憚らない。称名以外の必然性を説くこれは、鮮やかに教団組織化という俗化変質への敷衍を正当化して支持するものだからである。私は敢えてⅡの大橋俊雄氏の訳をここに全文示しおきたい。私は私の訳を、この条に限って全くしたいと思わないからである。

   《引用開始》

 仏の教えには、徳はおもてに出さず、秘かにおこなうのがよい(陰徳)とされているが、ことさらに愚か者のように振舞えば、かえって、それが身につき、仏道の修行をなおざりにするようになってしまう。

 喩えていえば、道場に入らず、寝所で念仏しようと思っていたものの、それは初めばかりで、しばらくすると、そこは眠る場所であるため、やがて、寝てしまうようなものです。

 それゆえ、凡夫はそれはさておき、念仏がなおざりになりがちなのを、そうならないためにも、念仏以外の他のつとめをすることも大切なのです。

   《引用終了》

――私は眠くなったら寝る。――少なくとも私は寝ながら念仏をすることは出来ない。―私が念仏者なら(間違えては困るが、これをテクスト化している私は無神論者であり、如何なる神も仏も信じてはいない)起きている間だけしか念仏は出来ない。――それを法然は正しいと言うであろう。――いや――何より――何も考えずに眠っていることは、これといった徳を積んでいる訳ではないけれども、悪しきところもない――と明禅法印も言っているのである(「十六」)。……

「助業」浄土門では往生を可能にするところの読誦(どくじゅ)・観察・礼拝・称名・讚歎供養(さんたんくよう)の五つを正行(しょうぎょう)と呼ぶが、その中でも称名を特に正定業(しょうじょうごう)とし、その他の四種の行為を助業と呼ぶ。]

一言芳談 一四〇

   一四〇

 

 乘願上人云、善導を仰がん人は、名号よりほかのことは行ずべきにあらず。さればとて、よりこん所の善根の、念佛の障碍(しやうげ)とならざらんほどの事をば値遇結緣(ちぐけちえん)すべきなり。きらへばとて、いまいましき事の樣にはおもふべからず。行ずべければとて、念佛のいとまを入るべからず。

 

○よりこん所の善根、緣ありてなすべきもろもろの善事なり。一家の人などの堂をたて、佛をつくり、經をかき、僧をも供養せんにはちからを加へ、緣をむすぶべし。念佛をもさまたげず、專修もやぶれず、これ法然上人の御義なり。

○きらへばとて、餘善をきらふことはひたすら念佛せんがためなり。餘善にとがあるにはあらず。

○行ずべければとて、念佛を主人のごとくし、餘善を眷屬とすべし。

 

[やぶちゃん注:「乘願上人」宗源。「七十四」「一一七」「一三〇」に既出。

「よりこん所の善根の、念佛の障碍とならざらんほどの事をば値遇結緣すべきなり」「よりこん」は「寄り來ん」か「依り來る」で(私は後者を採る)、「値遇」は縁あって仏縁ある対象にめぐり逢うことであるから「結緣」とは同義的。

――依って来たるところの善い行いを成す機縁で、念仏申すことの妨げとならない程度のことである場合は、それは仏・菩薩が世の人を救うために手を差し伸べて縁を結ばんとするのであるから、善きまことの機縁として作善しても構わない――

の意。

「きらへばとて、いまいましき事の樣にはおもふべからず」直前の部分を受けて、

――だから、作善は悪しき自力の穢れであると断じて、忌み嫌い、避けて慎むべきものであると殊更に思うようなことがあってはならぬ――

の意。

「行ずべければとて、念佛のいとまを入るべからず」そうした作善の許容を受けながらも、最後には、

――だからと言って『何かやるべき、やらねばならぬ「善行」があるから』と称して、念仏を修することを、それらの行為のために費やすということは、決してあってはならないことである――

と言うのである。私は最後の一文のみが法然や乗願の眼目であると信じたい(が、残念ながら乗願にとってはそうではなかった。次の「一四一」参照)。実際には『何かやるべき、やらねばならぬ「善行」』などというものは――ない――のである。さればこそ、「標註」群はおぞましい。これらの注はあってはならぬ注であると私は確信するものである。
 

 私のラフな推論をここで述べておきたい。相対世界に於いてしか定立し得ない善悪の二元論という矛盾を、メタな論理によって超克しようとした人物が、かつて、いた。それが伝教大師最澄であり、その論駁こそが「末法燈明記」に他ならなかったのだ。また一方、宗派としてその論理矛盾を個の悟りへと投企(捨象)することによって、超論理的解決を求めようとしたのが禅であった。しかし、それらの論理矛盾を認知していた法然は、一切衆生の救済という浄土教の核心によって、それを相対世界の無効化によって、一挙に解消しようと試みたのではなかったか? ところが、相対的なものでしかない善を否定することは、仏教の「布教」という側面では頗る都合が悪い。さればこそ、さもしい「善」を全否定することが出来なかったのである。それが例えば本条に現われるような、一見、作善を肯定する謂いとなって現われ出でた。しかし、しかもそれを「個」の問題として、どうしても突き詰めなければならなかった一人の男が、彼の弟子の中に、いた。それこそが親鸞であった。彼は自らを救い難い凡夫の中でも、さらに救い難い破戒の存在であると自覚することによって、しかもそうした自己存在をも救うものこそが、弥陀の絶対の慈悲としての本願であるという、極北に辿り着いたのである(だからこそ彼は「教行信証」の中で「末法燈明記」を延々と引用したのである)。しかしながら、それは親鸞個人の内的な叫びであって、結局、真宗教団という集団の組織化のためには、遂に個の叫びとして封印されざるを得なかったのである。所詮、衆生という存在を組織体として認めるためには、哀しい絶対の孤独な叫びとしてしか、それを吠えることは、結果、出来なかったのである、と私は思うのである。――相対的善悪の中に在ることは煩悩でありながらも、実に「そのように在る」ことが安穏であることを――知っていた。――絶対の真理という認識こそが――実は現世に於いては「見かけの絶対の孤独な無明」の中にあるのと同義にしか見えぬ――ということを――『最澄や法然や親鸞は知っていた』のだ――と私は思うのである。……これはそれこそあらゆる批判を受ける破戒の言説(ディスクール)であろう。……しかし私は確かにそう思うのである。

一言芳談 一三九

   一三九

 

 顕眞座主(けんしんざす)云、轆轤(ろくろ)かまへたることぞ。

 

○轆轤かまへたることぞ、佛願の重罪を接したまふことは大木を引くに轆轤をかまへたらんがごとし。繪詞傳第十九に物語あり。

 

[やぶちゃん注:「顕眞座主」(天承元(一一三一)年~建久三(一一九二)年)は天台僧。号は宣陽房、父は美作守右衛門権佐(うえもんのごのすけ)藤原顕能(あきよし)。母は参議藤原為隆の娘。比叡山で天台教学や密教を学んだ後、承安三(一一七三)年、大原別所に隠棲、浄土信仰へ傾き、文治二(一一八六)年に勝林院に法然・重源・貞慶・明遍・証真らの碩学を集めて大原問答を行ったとされる(参加者については異説あり)。翌文治三(一一八七)年には勝林院で不断念仏を始めている。建久元(一一九〇)年、第六十一代天台座主に就任、最勝会(金光明最勝王経を講じて国家の安泰を祈願する勅会)の証義も勤めさせられ、権僧正の位に昇った(以上は主にウィキ顕真に拠った)。

「轆轤かまへたることぞ」Ⅱの大橋氏の訳はこの主語を「阿弥陀仏の本願は、」と補って訳しておられる。

「轆轤」重い物の上げ下ろしに用いる滑車。

「佛願の重罪を接したまふこと」私が馬鹿なのかこの部分、意味が分からない。識者の御教授を得たい。是非、お願いする。

「繪詞傳」「法然上人行状絵図」のこと。個人ブログ「いとーの部屋」のにあるのがそれか?(正字化して引用させて戴いた)

上人かたりての給はく。淨土の法門を學する住山者ありき。示云。われすでに此教の大旨を得たり。しかれども信心いまだおこらず、いかにしてか信心おこすべきとなげきあはせしにつきて、三寶に祈請すべきよし教訓をくはへて侍しかば、かの僧はるかに程へてきたりていはく。御をしへにしたがひて祈請をいたし侍しあひだ、あるとき東大寺に詣たりしに、おりふし棟木をあぐる日にて、おびたゞしき大物の材木ども、いかにしてひきあぐべしともおぼえぬを轆轤をかまへてこれをあぐるに、大木おめおめと中にまきあげられてとぶがごとし。あなふしぎと見る程に、おもふ所におとしすへにき。これを見て良匠のはかりごとなをかくのごとし。いかにいはんや彌陀如來の善巧方便をやとおもひしおりに、疑網たち所にたえて信心決定せり。これしかしながら、日頃祈請のしるしなりとかたりき。其後兩三年をへてなん。種々の靈瑞を現じて往生をとげける。受教と發心とは各別なるゆへに、習學するには發心せざれども、境界の緣を見て信心をおこしけるなり。人なみなみに、淨土の法門をきき念佛の行をたつとも、信心いまだおこらざらん人は、たゞねんごろに心をかけてつねに思惟し、また三寶にいのり申べきなりとぞ仰られける。]

一言芳談 一三八

   一三八

 

 敬日房(きやうにちばう)云、かまへて、念佛に氣味おぼえよ。

 

○氣味おぼえよ、わが念佛のこゑ耳に入りて、信をもよほし、罪を滅し、妄念をはらふ。そのほかあまたの德あり。西要抄(さいえうせう)にも念佛の氣味知りたる人はいとまれなりとあり。

 

[やぶちゃん注:「敬日房」既出。読みなども含め、「八十一」の私の注を参照のこと。

「かまへて」副詞で「心を配って、必ず」の謂い。心して。

「氣味」この場合は、香りと味や物事の趣、味わい、の謂いで、念佛の醍醐味の謂いである。

「西要抄」既出。読みなども含め、「一一七」の私の注を参照のこと。]

一言芳談 一三七

   一三七

 

 ある人云、眞實に往生せんと思はば、人をもかへりみず、物にもいろはずして、ただ念佛すべし。利生(りしやう)は還來穢國(げんらいゑこく)を期(ご)すべし。

 

○人をもかへりみず、他を教化(けうげ)せんとも思はず。

○物にもいろはず、佛法の事、世間の事にもかゝはらず。

○還來穢國、善導の御釋(おんしやく)に、還來穢國度人天(げんらいゑこくどにんてん)とあり。極樂より立歸りて衆生を利益(りやく)する義なり。

 

[やぶちゃん注:――仏法や利生などを云々するのは、これ、お前が極楽に一度行って、そして戻ってからにせよ――実に実に、いい台詞である。

「いろはずして」「いろふ」は「綺ふ・弄ふ」などと書き、①関わり合う。関与する。②口出しする。干渉する。③言い争う。さからう、といった意味を持つ。ここは①でよい。

「利生」「利益衆生(りやくしゅじょう)」の略。仏・菩薩が衆生に利益を与えること。また、その利益。

「還來穢國」、中国南北朝期の僧で中国浄土教の開祖とされる曇(四七六年?~五四二年?)が「浄土論註」巻下で説いた往還回向の内の還相回向のこと。「還来穢国の相状」の略で、浄土へ往生した者を、再びこの世で衆生を救うために還り来たらしめようとの願いを指す。「往生浄土の相状」の略である往相回向が、自分の善行功徳を他の者に廻らしつつ、他の者の功徳として、共に浄土に往生しようとの願い、即ち、一切衆生がともに極楽往生しようとする願いという極楽への普通のベクトルに対する逆ベクトル、極楽往生して仏となった者が再び衆生を済度するためにこの穢土に帰還することを指す。

「物にもいろはず、佛法の事、世間の事にもかゝはらず」この標註、ぶっ飛んでいて、実によい。

「善導」(六一三年~六八一年)は唐代の僧で浄土教の大成者。

「御釋」善導の「法事讚」巻下の冒頭の「転経分」の第一段末尾に、

 下、高に接ぎて讚じていへ。

 願はくは往生せん、願はくは往生せん。佛と聲聞・菩薩衆、同じく舍衞に遊び祇園に住し、三塗を閉ぢ六道を絶たんと願じて、無生淨土の門を開顯したまふ。人天大衆みな來集して、尊顏を瞻仰して未聞を聽く。佛を見たてまつり、經を聞きて同じく悟を得、畢命に心を傾けて寶蓮に入る。誓ひて彌陀の安養界に到り、穢國に還來して人天を度せん。願はくは、わが慈悲際限なくして、長時長劫に慈恩を報ぜん。衆等、心を囘して淨土に生ぜんとして、手に香華を執りてつねに供養したてまつれ。

とある(ウィキ・アーカイブ法事讃のものを正字化して示した)。]

丘淺次郎 生物學講話 第五章 食はれれぬ法

「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」に丘淺次郎「生物學講話 第五章 食はれれぬ法」HP版を公開した。

耳嚢 巻之六  賊術識貯金事

 賊術識貯金事

 

 和州郡山に粕屋某といへる富商ありて、時々京都へ往返(わうへん)して商賣の道を營(いとなみ)けるに、或年大晦日(おほみそか)に、京都より金子四五十兩財布に入(いれ)、懷中して、夜に入りぬれど、明日は元日なれば郡山へ歸らんと立出(たちいで)しが、山道人離(ひとばな)れなる場所故、心靜(しづか)ならざれば用心して歸りしに、右途中六部(ろくぶ)の大男道連れに成(なり)て、郡山近所迄同道せんと云(いひ)しが、何とやらん空恐しく思へども、いなまば却(かへつ)て災ひあらんと思ひて任其意(そのいにまかせ)ければ、彼(かの)六部申(まうし)けるは、御身は金子も餘程所持し給ふ、凡(およそ)何程懷中ありしと見へたりといへる故、彌怖敷(いよいよおそろしく)、震ふ計(ばかり)をこらへて相應に答へけるに、彼六部申けるは、さのみ恐れ給ひそ、某(それがし)元は何を隱さん、盜賊なりしが、其罪業を恐れてかく六部とはなりぬ、夫(それ)に付(つき)、御身に申(まうす)べき事あり、金子を財布に入(いれ)、左の懷(ふところ)の方(かた)へ入(いれ)給ふ、左(さ)あるべしと尋し故、搜り見れば果して彼(かれ)が申(まうす)ごとくなり。都(すべ)て盜賊の、往來の懷中を察するに、其歩行振(そのあるきぶり)等にて何程(いかほど)あるべきという事は察し知るなり。依之以來(これによつていらい)とも必(かならず)金子懷中いたし侯はゞ、其心得あるべき事也と、教示しけるよし。扨々怖敷(さてさておそろしき)事なりしと、彼(かの)柏屋手代(てだい)、咄しけるとなり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:上方の事実譚として軽く連関。

・「賊術識貯金事」標題は「賊術、貯金を識る事」と読む。

・「和州郡山」現在の奈良県郡山市。

・「六部」六十六部の略。法華経を六十六回書写して、一部ずつを六十六か所の霊場に納めて歩いた巡礼者、回国聖。室町時代に始まるとされるが、江戸時代には多くが零落し、仏像を入れた厨子を背負って鉦や鈴を鳴らしては米銭を請い歩いた、一種の僧形のホカイビト(乞食)ともなった。

・「いう事は」はママ。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 往来の旅人の所持金を探り当てる盗賊の巧みな術(じゅつ)についての事

 

 大和国郡山に柏屋某(なにがし)と申す富商(ふしょう)が御座った。

 しばしば京都と郡山を往復致すような、商売を営んで御座ったと申す。

 ある年の大晦日のこと、京都より金子四、五十両を財布に入れ、懐中致いて、帰りは夜に入(い)って御座ったれど、

「……明日は元日なれば、郡山へは是非とも帰りたいものじゃ。……」

と、出立(しゅったつ)致いたと申す。

 山道にて人気(ひとけ)無き街道なればこそ、心穏やかにてはおられず、用心致いて帰ったと申す。

 ところが、途中にて、六部(ろくぶ)の大男が、これ、かの手代の道連れとなって、

「――郡山近所まで――我ら――同道致さんと存ずる。――」

と申し出た。

 何とも言えず、そら恐しゅう思うたものの、

『……これ……否まば……却って……直ちに災いのあろうような気も致さばこそ……』

と思い、その申し出のままに、同道致すことと相い成って御座った。

 さて、暫く無言で山道を辿ったところ、かの六部、手代に、

「……御身は……金子も余程、所持していなさるようじゃの。……およそ四、五十両程、懐中にしておらるると、見た。――」

と言うたによって、手代、これ、いよいよ怖しゅうなって、体がぶるぶると震えださんばかりになるを、必死で堪(こら)えつつ、適当に返事を致いて御座ったと申す。

 すると、かの六部の申すことには、

「……まあ、そんなに恐れなさるな。……某(それがし)、確かに元は、何を隠さん、盜賊で御座った――が――今はその罪業を恐れ、かくも六十六部とは、なって御座る。――さればこそ――御身に申しておきたきことが、これ、御座るのじゃ。……

――四、五十両見当の金子……

――これを財布に入れて……

――左の懐(ふところ)の方(かた)へ……

――入れていなさる……

……そうで御座ろう?――」

と尋ねたゆえ――あまりの恐ろしさに、懐の中がどうなって御座ったやら、ようも分からずなっておったゆえに――掻い探って見たところが――これ……

――果してかの六部の申す通り……

――金子の入った財布は――これ――懐の左側に――移って御座った。

「……すべて――盜賊が往来を行き来する者の、その懐中を察する場合は――その歩き振り等の妙な癖や、僅かな変り様を見極め――何程(いかほど)の金子を――どの辺りに所持致いておるか――ということ――これ、容易に察し知るもので御座る。……さればこそ……御身、向後は……必ずや――特に大枚の金子を懐中致いておらるる際には――これ、そうした心得を、十全になさって、立ち居振る舞いを致すが、これ、肝要で、御座る。……」

と、教示し呉れたと申す。

 

「……さてもさても、これ、怖しき体験で御座った。……」

とは、かの柏屋の、その手代自身が語ったことと聴いて御座る。

沢庵宗彭「鎌倉巡禮記」 17

 

 建長・圓覺寺はならびの山也。淨智寺もむかふ山也。壽福・淨妙は各別の所なりとそこそこのすがらを委うかゞひ、燒香順禮の爲なれば香の資など取したゝめ、威儀をとゝのへ先建長寺にむかふ。左の偏門には海東法窟と云額あり。右の偏門、天下禪林と額あり。正門には巨福山といふ額あり。山門には西※之筆にて巨福山建長興國禪寺と二行に額あり。中央の爐は石なり。閣は壞て今はなし。仰てみればかりに板をしき其上に觀音の像を安置す。たゞちに佛殿にむかふ。ゆくての右を嵩山といふ。古木雲をしのぎときはの松に秋の色をまじへ、折から山のはへいはむかたなし。

 

[やぶちゃん注:「※」=「礀」-「月」+「日」。但し、これは底本か原本かの「礀」の誤りである。

 

「そこそこのすがらを」そこそこの来歴の一部始終を。

 

「委」「くはしく」と訓じているか。

 

「偏門」東外門。

 

「右の偏門」西外門。

 

「正門」総門。

 

「西※」(「※」=「礀」-「月」+「日」)は南宋浙江省出身の臨済僧西澗子曇(せいかんしどん 一二四九年~嘉元四(一三〇六)年)。文永八(一二七一)年に来日、一度帰って正安元(一二九九)年に一山一(いっさんいちねい)に従って再来日した。第九代執権北条貞時に信任され、円覚寺や建長寺住持となった。書画をよくした。諡号大通禅師。道号は「西礀」とも書き、また法名は「すどん」とも読む(講談社「日本人名大辞典」の「西澗子曇」の項を参考にした)。

 

「嵩山」新編鎌倉三」の「建長寺」の「嵩山幷に兜率巓」の項に、

 

嵩山(すうざん)幷に兜率巓(とそつてん) 開山塔の後ろの山を嵩山と號し、峯(みね)を兜率巓と云ふ。兜率巓に、開山幷に佛光の石塔あり。佛光禪師は、圓覺寺の開山なれども、建長寺にて葬る故に、塔は嵩山にあり。

 

とある。前後その他についても、の建長寺の記載(委細を極める)や私の注を参照されたい。]

 

 

かなしい遠景 萩原朔太郎 (「月に吠える」版)

 

 

 かなしい遠景

 

かなしい薄暮になれば、

勞働者にて東京市中が滿員なり、

それらの憔悴した帽子のかげが、

市街(まち)中いちめんにひろがり、

あつちの市區でも、こつちの市區でも、

堅い地面を掘つくりかへす、

掘り出して見るならば、

煤ぐろい嗅煙草の銀紙だ。

重さ五匁ほどもある、

にほひ菫のひからびきつた根つ株だ。

それも本所深川あたりの遠方からはじめ、

おひおひ市中いつたいにおよぼしてくる。

なやましい薄暮のかげで、

しなびきつた心臟がしやべるを光らしてゐる。

 

[やぶちゃん注:詩集「月に吠える」初版(大正六(一九一七)年二月感情詩社・白日社出版部共刊)の「悲しい月夜」の巻頭詩。私は、

 

 紫色の顏 → 帽子のかげ

 (なし) → なやましい薄暮かげで

 空腹の勞働者が → しなびきつた心臟が

 

といった、このサンボリスムの微妙な截ち入れが行われたものよりも、初出の方の、イタリア・ネオリアイリスモ風の映像的な詩の方が好きだ。私にとっては「本所深川」じゃだめ――「本所淺草」でなくっちゃ――いけないんだ。何より朗読して御覧! 遙かに初出の韻律の方がスラーだって……。]

 

遠景 萩原朔太郎 (「かなしい遠景」初出)

  
 
 遠景

 

哀しい薄暮になれば、

 

勞働者にて東京市中が滿員なり、

 

それらの憔悴した紫色の顏が、

 

巷街(まち)中いちめんにひろごり、

 

あつちの市區でも、こつちの市區でも、

 

堅い地面を掘つくりかへす、

 

掘り出して見るならば、

 

煤ぐろい嗅煙草の銀紙だ、

 

重さ五匁ほどもある、

 

にほひ菫の干(ひ)からびきつた根の株だ、

 

それも本所淺草あたりの遠方からはじめ、

 

東京市中いちめんにおよんで、

 

空腹の勞働者がしやべるを光らす。

 

[やぶちゃん注:『詩歌』第五巻第一号・大正四(一九一五)年一月号に掲載。次に示す詩集「月に吠える」初版(大正六(一九一七)年二月感情詩社・白日社出版部共刊)の「悲しい月夜」の巻頭を飾る「かなしい遠景」の初出。太字は底本では傍点「ヽ」。「五匁」(ごもんめ)は一八・七五グラム。「にほひ菫」双子葉植物綱スミレ目スミレ科スミレ属ニオイスミレ Viola odorata。西アジアからヨーロッパ・北アフリカの広い範囲に分布し、バラ・ラヴェンダーと並ぶ香水の原料花として古くから栽培されている。草丈は一〇~一五センチメートル、茎は匍匐して葉は根生、他のスミレ類と同じくハート形。花は露地植えでは四月から五月にかけて咲き、左右相称の五弁花で菫色又はヴァイオレット・カラーと呼ばれる明るい藍色が基本であるが、薄紫・白・淡いピンクなどもあって八重咲きもある。パンジーやヴィオラに比べると花も小さく、花付きも悪いが、室内に置くと一輪咲いているだけで部屋中が馥郁たる香りに包まれるほどの強い香りがある(以上はウィキニオイスミレ」に拠った)。しかし……これ……プロレタリア詩の中に作者名を伏せて潜ませれば、誰もがそれらしい無名の労働者の詩だ、とその象徴詩の巧妙な罠に気づかずに納得してしまうものではなかろうか?……]

鬼城句集 春之部 百足 (「春之部 動物」了)

百足   鷄の二振り三振り百足かな

本句を以って「鬼城句集」の「春之部 動物」は終わっている。

一言芳談 一三六

   一三六

 

 行仙房云、あひかまへて、ひじるべきなり。往生のさはりの中に、貪愛(とんあい)にすぎたるはなし。衆惡(しゆあく)のさはり、色貪(しきとん)をさきとす云々。

 

〇ひじるべしとは塵俗を出でよとなり。

〇貪愛、財色の二に通ず。

 淨心誠觀云、夫欲修道於三業中、先斷財色二種。若不貪財、即無諂諍、若不貪色、即無熱腦。

 

[やぶちゃん注:聖たる聖者が言わずもがなにこれを言わねばならなかったのは、その欲に縛られない聖者は、行仙房を含め、頗る少なかったからだと言える。Ⅰでは――まさにこの条が「用心」の章の最後――即ち「標註一言芳談抄」の掉尾にあるのである。……

「行仙房」「五十三」「五十五」「一一四」に既出。平清盛の異母弟で平家滅亡後も生き延びた平頼盛の孫とされる。

「貪愛」「色貪」Ⅰはともに「どんあい」「しきどん」と濁音。Ⅱ・Ⅲを採った。「とんない」とも読む。対象に執着し、むさぼり愛着する心。貪欲。怒りの心たる「瞋(しん)」と真理に対して無知である心を謂う「癡(痴)」の三大煩悩たる三毒の一つ。行仙房は往生の最大の妨げとなるものをこの「貪」(物欲・色欲)であるとしているが、仏教では諸悪の根源として一般には「癡」を挙げている。「色」について述べるにはまず五下分結(ごげぶんけつ)・五上分結(ごじょうぶんけつ)を示す必要がある。一切衆生が生成死滅を繰り返す三界(さんがい:欲界・色界・無色界。)に衆生を結びつけようとする束縛、即ち煩悩の異名をかく言い、五下分結と五上分結を合わせて十結(じゅっけつ)という。これをメタにしたものが三毒ということになろうか。

五下分結は、我々の在る欲界に我々を束縛している欲たる煩悩を指し、

①身見(しんけん:自己存在が不変に存在すると錯覚すること。)

②疑惑(ぎわく:釈迦に対して疑義を抱くこと。)

③戒取(かいしゅ:対象に捉われること。拘り。)

④欲貪(どんよく:貪ること。)

⑤瞋恚(しんに:怒り。)

である。以下が五上分結で、こちらは欲界を越えた上級ステージである色界・無色界に至った者をも拘束する欲たる煩悩を指す。

⑥色貪(しきとん:色界(三界の一。欲界の上で無色界の下にある世界。欲界のように欲や煩悩はないが、無色界ほどには物質や肉体の束縛から脱却していない世界。色界天。色天。四禅を修めた者の生まれる天界とされ、初禅天から第四禅天の四禅天よりなり、さらに一七天に分ける)への執着。

⑦無色貪(むしきとん:無色界(三界の一。色界の上にあり、肉体・物質から離脱し、心の働きである受・想・行・識の四蘊(しうん)のみからなる世界。さらに四天に分けられ、その最上の非想非非想天を有頂天ともいう)への執着。

⑧掉挙(じょうこ:心の昂揚。)

⑨我慢(がまん:慢心。)

⑩無明(むみょう:最後の最後まで僅かに残るところの無明の闇。微妙曖昧模糊たる無知。)

本文で言う、「貪愛」「色貪」はともに⑥に相当し、まさに完全には物質や肉体の束縛から脱却していないために生ずる微妙なる対象への物欲・色欲の執着を指している。なお、十結をすべて断滅させて初めて聖者・聖と呼ばれる(以上の五下分結と五上分結については、主にブログ「ブッダへ至る道」の五下分結と五上分結[仏教の基礎知識(7)]等の記載を参考にさせて頂いた)。

「ひじる」聖る。名詞「ひじり(聖)」の動詞化。戒律を厳しく守る。

「淨心誠觀云……」以下、Ⅰの訓点やⅡの大橋氏の注にある書き下し文を参考に書き下す。

 「淨心誠觀」に云はく、「夫(そ)れ、道を三業(さんごふ)の中に修せんと欲せば、先づ財色二種を斷て。若(も)し財を貪らざれば、即ち、諂諍(てんじやう)、無し。若し色を貪らざれば、即ち、熱腦(ねつなう)、無し。

・「淨心誠觀」「浄心誡観法」唐代の南山律宗の開祖道宣(五九六年~六六七年)の書。

・「三業」身業・口業(くごう)・意業。身・口・心による種々の行為。

・「諂諍」へつらいやおもねりと、いさかいや争い。

・「熱腦」熱悩。激しい心の苦悩、身を焼くような心の苦悩。]

2013/04/06

極光 萩原朔太郎

 極光

 

懺悔者の背後には美麗な極光がある。

 

[やぶちゃん注:大正一二(一九二三)年七月新潮社刊の詩集「蝶を夢む」の掉尾に配された「散文詩 四篇」(『「月に吠える」前派の作品』という添書きを持つ)の掉尾。恐ろしいまでのストイックな截ち入れである。以上四篇を私は青年萩原朔太郎の『月に吠える』の時代との、哀しい決別のための遺書であるように思われてならない。]

懺悔者の姿 萩原朔太郎 (正規表現版・「極光」原形)

 

 懺悔者の姿

 

懺悔するものゝ姿は冬に於て最も鮮明である。

 

暗黑の世界に於ても、彼の姿のみはくつきりと浮彫のごとく宇宙に光つて見える。

 

見よ、合掌せる懺悔者の背後には美麗なる極光がある。

 

地平を超えて永遠の闇夜が眠つて居る。

 

恐るべき氷山の流失がある。

 

見よ、祈る、懺悔の姿。

 

むざんや口角より血をしたたらし、合掌し、瞑目し、むざんや天上に縊れたるものの、光る松が枝に靈魂はかけられ、霜夜の空に、凍れる、凍れる。

 

みよ、祈る罪人の姿をば。

 

想へ、流失する時却と、闇黑と、物言はざる刹那との宙宇にありて、只一人吊されたる單位の恐怖をば、光る心靈の屍體をば。

 

ああ、懺悔の淚、我にありて血のごとし、肢體をしぼる血のごとし。

 

[やぶちゃん注:『詩歌』第五巻第二号・大正四(一九一五)年二月号に掲載。次に示す後の大正一二(一九二三)年七月新潮社刊の詩集「蝶を夢む」の掉尾に配された「散文詩 四篇」(『「月に吠える」前派の作品』という添書きを持つ)の掉尾「極光」の初出形とする。「くつきり」の下線は底本では傍点「ヽ」。底本では「時却」について、底本編者による「時劫」の誤りとする補正割注が入っている。

 

 但し、フライングすると、決定稿本文は、本詩の三行目、

 

見よ、合掌せる懺悔者の背後には美麗なる極光がある。

 

のみを素材に用い、更に割愛して、「美麗なる」を「美麗な」としただけの、

 

   *

 

懺悔者の背後には美麗な極光がある。

 

   *

 

である。]

Omega の瞳 萩原朔太郎

 

 Omega の瞳

 

死んでみたまへ、屍蠟の光る指先から、お前の靈がよろよろとして昇發する。その時お前は、ほんたうにおめがの靑白い瞳(め)を見ることができる。それがお前の、ほんたうの人格であつた。

 

ひとが猫のやうに見える。

 

[やぶちゃん注:大正一二(一九二三)年七月新潮社刊の詩集「蝶を夢む」の掉尾に配された「散文詩 四篇」(『「月に吠える」前派の作品』という添書きを持つ)の三篇目。「おめが」の下線は底本では傍点「ヽ」。]

(無題) 萩原朔太郎 (「Omega の瞳」初出形)

幼兒は眞實であり神は純一至高の感傷である。

死んでみたまへ死蠟の光る指先からお前の至純な靈が發散する、其時お前にほんとうに ONEGA の靑白い感傷のひとみを見ることができる其れは汝の人格であつた。

 

[やぶちゃん注:『卓上噴水』第二集・大正四(一九一五)年四月刊に掲載。次に示す後の大正一二(一九二三)年七月新潮社刊の詩集「蝶を夢む」の掉尾に配された「散文詩 四篇」(『「月に吠える」前派の作品』という添書きを持つ)の三篇目「Omega の瞳」の初出形であるが、底本には標題部に『○』が打たれているだけであるので、無題と判断した。「死蠟」「ほんとう」はママ。]

本日は

最初の教え子とその大学生となった娘と私の妻と昼食会なれば、暫く閉店と致す(「生物学講話」の第五章HP版は半分強まで作業を終了している)。

柳 萩原朔太郎 (「蝶を夢む」版)

 

 

 

放火、殺人、竊盜、夜行、姦淫、およびあらゆる兇行をして柳の樹下に行はしめよ。夜において光る柳の樹下に。

 

そもそも柳が電氣の良導體なることを、最初に發見せるもの先祖の中にあり。 

 

手に兇器をもつて人畜の内臟を電裂せんとする兇賊がある。

 

かざされたるところの兇器は、その生(なま)あたたかき心臟の上におかれ、生ぐさき夜の呼吸において點火發光するところのぴすとるである。

 

しかしてみよ、この黑衣の曲者(くせもの)も、白夜柳の木の下に凝立する所以である。

 

 

[やぶちゃん注:大正一二(一九二三)年七月新潮社刊の詩集「蝶を夢む」の掉尾に配された「散文詩 四篇」(『「月に吠える」前派の作品』という添書きを持つ)の二篇目。]

柳に就いて 萩原朔太郎 (「柳」初出形)

 柳に就いて

 

放火、殺人、竊盜、夜行、姦淫、及びあらゆる兇行をして柳の樹下に行はしめよ。夜に於て光る柳の樹下に行はしめよ。

かかる塲合に於ける、すべての兇行は必ず靈性を生ず。

そもそも柳が動物電氣の良電體なることを、世界に於て最初に發見せるもの我々の先祖にあり。

しかも極めて不徹底に無自覺に、あまつさへ、傳説的に表現せられしところに新人の增補がある。

 

手に兇器を所持して人畜の内臟を電裂せんとする兇賊がある。

彼はその愛人の額に光る鑛石を射擊せんとして震慄し、かつ疾患するところの手を所有する。

かざされたるところの兇器は、その生あたたかき心臟の上におかれ、生ぐさき夜の靈智の呼吸に於て、點火發光するところのぴすとるである。而して見よ、この黑衣の曲者も、白夜柳の木の下に停立凝視する由所である。

 

[やぶちゃん注:『詩歌』第五巻第二号・大正四(一九一五)年二月号に掲載。次に示す後の大正一二(一九二三)年七月新潮社刊の詩集「蝶を夢む」の掉尾に配された「散文詩 四篇」(『「月に吠える」前派の作品』という添書きを持つ)の二篇目「柳」の初出形。「ぴすとる」の下線は底本では傍点「ヽ」。「由所」はママ。「白夜柳」は架空の北方地方の白夜の柳の謂いであろう。少なくとも「ビャクヤヤナギ」という和名の種はないものと思われる。]

鬼城句集 春之部 龍昇天

龍昇天  龍昇つて魚介(うろくづ)もとの水に在り

[やぶちゃん注:龍は春の盛んな気に乗じて昇天するとされる俗信に基づく。現代の一部の「プラグマティクな」歳時記には所収しない。

     

一言芳談 一三五

   一三五

 

 又云、僞らざる心をもて、佛の本願を信じて、まさに往生せんと思ふ、これを三心(さんじん)といふなり。

 

○僞らざる心、至誠心(しじやうしん)。

〇佛の本願を信じて、深心(しんじん)。

〇往生せんと思ふ、回向心(ゑかうしん)。これが横(わう)の三心なり。

 

[やぶちゃん注:標注は底本では一行に書かれているが、三分割した。

「三心」既に「二十八」「三十七」「一二二」「一二四」の本文に出、注もしてきた最後に再注する。念仏信仰で浄土に生れるための至誠心・深心(しんじん)・回向発願心(えこうほつがんしん)の三つの信心(安心(あんじん)とも)を指す。「至誠心」とは誠心を以って素直に阿弥陀仏の「誠心」を受け止める心、「深心」は己の凡夫たることを知り(機の信心)、弥陀の四十八誓願の教えを深く信ずること(法の信心)。「回向発願心」は以上を得て、阿弥陀仏と向き合って自らの極楽往生への願を発すること。

「横」横超(おうちょう)。阿弥陀仏の本願力によって迷いの世界を一瞬に跳び超え、浄土へと往生すること。現在では特に浄土真宗で他力浄土門の中の絶対他力の教えを指す言葉として使われる。]

2013/04/05

吠える犬 萩原朔太郎 (「蝶を夢む」版)

 

 吠える犬 

 

月夜の晩に、犬が墓地をうろついてゐる。

 

この遠い、地球の中心に向つて吠えるところの犬だ。

 

犬は透視すべからざる地下に於て、深くかくされたるところの金庫を感知することにより。

 

金庫には翡翠および夜光石をもつて充たされたることを感應せることにより。

 

吠えるところの犬は、その心靈に於てあきらかに白熱され、その心臟からは螢光線の放射のごときものを透影する。

 

この靑白い犬は、前足をもつて堅い地面を掘らんとして焦心する。

 

遠い、遠い、地下の世界において微動するものを感應することにより。

 

吠えるところの犬は哀傷し、狂號し、その明らかに直視するものを掘らんとして、かなしい月夜の墓地に焦心する。 

 

吠えるところの犬はである。

 

なんぢ、忠實なる、敏感なる、しかれどもまつたく孤獨なる犬よ。

 

汝が吠えることにより、病兒をもつた隣人のために銃をもつて撃たれるまで。

 

吠えるところの犬は、靑白き月夜においての人である。 

 

[やぶちゃん注:大正一二(一九二三)年七月新潮社刊の詩集「蝶を夢む」の掉尾に配された「散文詩 四篇」(『「月に吠える」前派の作品』という添書きを持つ)の巻頭詩。下線「人」は底本では傍点「ヽ」。初出のシンボルの暴露が鮮やかに隠蔽されて、遙かに優れた象徴詩となっている。]

吠える犬 萩原朔太郎 (初出形)

 吠える犬

月夜の晩に、犬が墓標をめぐつて居る。

この遠い地球の核心に向つて吠えるところの犬だ。

犬は透視すべからざる地下に於て深くかくされたるところの主人の金庫を感知することにより、金庫には斐翠及び夜光石を以て充たされたることを感能せることにより。

吠えるところの犬は、その心靈に於て明らかに白熱され、その心臟に於て螢光線の放射の如きものを透影する。

この靑白い犬は、前足を以て堅固き地面を堀らんとして焦心する。遠い、遠い地下の世界に於て微動せるところのものを感得せることにより。

吠えるところの犬は感傷し、犬は疾患し、しかもその明らかに直視するところのものを堀らんとして月夜の墓地に焦心する。

吠えるところの言葉は『詩』である。

汝、忠實なる、敏感なる、然れども全く孤獨なる犬よ。汝が吠えることにより、洞察なき隣人のために銃を以て撃たれるまで、汝が飢死するに及ぶまで、汝が『謎』を語ることを止めざる最後にまで。

吠えるところの犬は、靑白き月夜に於いての『詩人』である。

[やぶちゃん注:『詩歌』第五巻第二号・大正四(一九一五)年二月号に掲載。次に示す後の大正一二(一九二三)年七月新潮社刊の詩集「蝶を夢む」の掉尾に配された「散文詩 四篇」(『「月に吠える」前派の作品』という添書きを持つ)の巻頭詩の初出形。「斐翠」及び、二箇所の「掘る」の「掘」を「堀」とするのはママ。詩集「月に吠える」初版は大正六(一九一七)年二月(感情詩社・白日社出版部共刊)である。まさにこれこそが――巷間に初めて出現した月に吠える犬であった――。]

耳嚢 巻之六 丹後國成相山裂の事

 

追記:先程、本話公開直後に、これを読んだ知人が兵庫県豊岡市~京都府宮津市にある山田断層のことを教えて呉れた。その地図を見ると……まさに……その線上に……成相山はあった!……

 

 丹後國成相山裂の事

 

 文化元子年、松平主計頭領分丹後國宮津城下より乾方の二里程隔、成相寺觀音安置有之。去亥年十二月下旬より右境内池の坊と申畑より、鐘樓堂下迄凡百間程、大地裂陷候所、當子正月下旬より次第に所々地裂、所により候ては七八尺も陷入候場所も有之。地裂晝夜三分五分程、谷間欠候所も有之候由。境内諸堂社幷寺院住居傾候故、追々取片付の旨、在所家來共より申越候。人馬怪我は無之候。異變に付、此段御屆の旨、主計頭より御老中え申立候由。宗德養安、右屆の書面の由、携來の儘、書留ぬ。且繪圖もありしが、朱墨不端正難分故、不及模寫。

 

◆やぶちゃんの書き下し文

 

 丹後國成相山裂(たんごのくになりあいやまさけ)の事

 

 文化元子年(ねどし)、松平主計頭(かずへのかみ)領分、丹後國宮津城下より乾方(いぬゐのかた)二里程隔(へだ)て、成相寺(なりあひじ)、觀音安置之れ有り。去ぬる亥年(ゐどし)十二月下旬より右境内池の坊と申す畑より、鐘樓堂下迄、凡そ百間程、大地、裂け陷り候ふ所、當子(とうね)正月下旬より次第に所々、地裂(ぢれつ)、所により候ふては七・八尺も陷入(おちい)り候ふ場所も之れ有り。地裂、晝夜三分(ぶ)・五分程に、谷間、欠け候ふ所も之れ有り候ふ由。境内諸堂社幷びに寺院住居、傾き候ふ故、追々、取り片付けの旨、在所家來共より申し越し候ふ。人馬怪我は之れ無き候ふ。異變に付き、此の段、御屆(おとどけ)の旨、主計頭より御老中へ申し立て候ふ由。宗德養安(しゆうとくやうあん)、右屆の書面の由、携へ來たるの儘、書き留めぬ。且つ、繪圖もありしが、朱墨(しゆずみ)、端正(たんせい)ならず分かり難き故、模寫に及ばず。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:不載ながら、絵図による事実報告で連関する。今回は上申書のような本文の体裁雰囲気を大事にしたいので、まず底本のそのままを示し、後に私がやや補正を加えながら書き下したものを示した。現代語訳も遊んだ(正規の古文書の形式など全く知らぬ私の、あくまで「遊び」であるので注意されたい)。根岸は流石に町奉行である。こうした天変地異の公文報告の転載には何か真摯さが感じられ、叙述も頗る厳密である。……それにしても……これは……まさか!……活断層?!……よかったねえ、寺で……因みにさ……地図で見てみたんだけどさ……この場所から真東に四十キロメートル行くと……今、何があるか知ってるかい?……大飯原子力発電所……だよ…………

・「丹後國成相山」先の犬の堂の事に既出であるが、改めて注する。山としての名は成相山(なりあいさん)、鼓ヶ岳ともいう。京都府宮津市と与謝郡岩滝町及び中郡大宮町の境界をなす山で標高五六九メートル。山頂は宮津湾奥にある天橋立の北側付け根の約三・五キロメートル北西に当たる。南東側中腹に真言宗成相寺がある(後注する)。特に南側山麓に近い標高一四〇メートル付近にある傘松公園からは天橋立の展望が素晴らしく、今は南麓にある籠(この)神社の横からケーブルカーが通じている(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。

・「文化元子年」「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年八月であるから、半年ほど前の、リアルな、文字通り、驚天動地の、戦慄の天災報告なのである。

・「松平主計頭」松平宗允(むねただ)(安永九(一七八〇)年/一説に天明二(一七八二)年~文化一三(一八一六)年)。丹後宮津藩第四代藩主、本庄松平家第七代。第三代藩主松平資承(すけつぐ)の次男として江戸で生まれたが、兄資統(すけのぶ)が病弱だったため廃嫡され世子に指名され、寛政七(一七九五)年十一月十七日の父の隠居によって家督を継いだ。当時、藩主となって九年目、二十四か二十二歳であった(ウィキ松平宗允に拠った)。

・「丹後國宮津城下」天橋立で知られる京都府宮津市。因みに、この宮津市は与謝野町旧岩滝町を挟んで、南北に完全な飛び地になっている珍しい市である。

・「成相寺」京都府宮津市にある現在は真言宗単立寺院。以下、ウィキの「成相寺」によれば、山号は成相山で西国三十三所第二十八番札所である。本尊は聖観世音菩薩。寺伝によれば慶雲元(七〇四)年に真応上人の開基で、文武天皇の勅願寺となったとするが、中世以前の寺史は判然としない、とある。寺は天橋立を一望する成相山の山腹にあるが、創建時は山のさらに上方に位置して修験の道場となっていた。現在地に移ったのは応永七(一四〇〇)年の山崩れ以降である(山崩れとは降雨その他によるものの可能性も含まれるが、その後の四〇〇年の後のこの時にも、このような現象(本件は叙述から見ても降雨などによる地盤の緩みによる地滑りや陥没とは思われない)が起こっているということは……これ、この山全体がとんでもない活断層の上にでもあるのではなかろうか?)ある山号は古くは「世野山」と称し、雪舟の「天橋立図」(京都国立博物館蔵・国宝)には「世野山成相寺」の書き込みとともに当寺が描かれている。本堂は安永三(一七七四)年の再建とあるから、本事件の三十年前といことになり、更にウィキにかく記されているということは本堂は傾いたものの、恐らく補強補修で済んだことを意味している。堂内には中央の厨子内に本尊の聖観音像、向かって左に地蔵菩薩坐像(重要文化財)、右に千手観音立像を安置するが、本尊は三十三年に一度開扉の秘仏である。

・「池の坊」Kiichi Saito氏の「丹後の地名・資料編」の「成相寺(地名)の概要」に引用されている「角川日本地名大辞典」の成相寺の小字名として、「池ノ坊新畑池ノ坊」「別所池ノ坊山」の二つを見出せる。前者か。位置は不明。

・「百間」一八一・八メートル。

・「七八尺」約二メートルから二メートル四〇センチ。

・「三分五分」元の状態から十分の三から、ひどい箇所では二分の一ほどの陥没や地滑りによる段差が生じたことを言うか。

・「宗德養安」不詳。名前からすると僧のようである。成相寺の住持若しくは首座か。識者の御教授を乞うものである。

・「朱墨」朱粉を膠(にかわ)で固めた墨。赤墨。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 丹後国成相山山裂(たんごのくになりあいやまやまさけ)の事〔松平主計頭(かずえのかみ)殿上申〕

 

●報告年時

 文化元年子年(ねどし)。

●事件現場

 松平主計頭(かずえのかみ)宗允(むねただ)殿領分、丹後国宮津城下より北西に二里ほど隔てたところのある、天橋立を見下ろす西国三十三所第二十八番札所として知られた成相寺(なりあひじ)〔本堂に本尊聖観音を安置〕。

●事件の発生

 昨年亥年(いどし)の十二月下旬より、現在に至る。

●事件の経過

 同寺境内の「池の坊」と称する畑地から、同寺鐘楼堂の下方まで、凡そ百間ほど、大地が裂け、大きな陥没が発生した。

 更に当年子年(ねどし)の正月下旬より、同境内に於いて次第に所々で、やはり地面に亀が発生し、場所によっては七~八尺も深い陥入が生じた場所もある。

 その後も地面の亀裂や陥穽(かんせい)は、昼夜分かたず断続的に起り、元の状態の三分(ぶ)強、ひどい場所では五分ほども沈下や段差が生じ、谷間のように深く抉られて空ろになってしまった場所も認められた。

●損壊その他

 境内の諸堂社(しょどうしゃ)並びに寺院に附帯する住僧らの住居等は、その殆んどが傾いてしまったため、傾斜の著しい箇所及び重要な建物から順に、瓦礫の撤去・補強・片付などを行っている旨(むね)、在所の民及び当藩家来より報告を受けている。

 怪我人やその他家畜等の損害はない、との報告を受けている。

以上。

 発生した異変についての詳細と幕府へ届け出でたるの主旨(おもむき)

             松平主計頭〔花押〕

御老中様へ 申立候(もうしたてそうろう)

   *

 以上、その上申の書面を宗徳養安(しゅうとくやうあん)なる者が届出人として丹後より携帯して参ったものを、全くそのままに手を加えずに書き留めたものである。

 なお、実はその上申書には、土地陥没・家屋損壊等に就いて、その被害実態を示す朱墨(しゅずみ)による注記を施した絵図も添えられていたが――災害の発生時の混乱の中で記したためであろうか――これ、きちんとしておらぬ殴り書きのようなものであり、非常に分かり難いものであったがため、その模写は断念した。

           以上、根岸鎭衞、記す。

灰色の道 萩原朔太郎 (「蝶を夢む」版)

 灰色の道

 

日暮れになつて散歩する道

ひとり私のうなだれて行く

あまりにさびしく灰色なる空の下によこたふ道

あはれこのごろの夢の中なるまづしき乙女

その乙女のすがたを戀する心にあゆむ

その乙女は薄黄色なる長き肩掛けを身にまとひて

肩などはほつそりとやつれて哀れにみえる

ああこのさびしく灰色なる空の下で

私たちの心はまづしく語り 草ばなの露にぬれておもたく寄りそふ。

戀びとよ

あの遠い空の雷鳴をあなたは聽くか

かしこの空にひるがへる波浪の響にも耳をかたむけたまふか。

 

戀びとよ

このうす暗い冬の日の道邊に立つて

私の手には菊のすえたる匂ひがする

わびしい病鬱のにほひがする。

ああげにたへがたくもみじめなる私の過去よ

ながいながい孤獨の影よ

いまこの竝木ある冬の日の街路をこえて

わたしは遠い白日の墓場をながめる

ゆうべの夢のほのかなる名殘をかぎて

さびしいありあけの山の端をみる。

戀びとよ 戀びとよ。

 

戀びとよ

物言はぬ夢のなかなるまづしい乙女よ

いつもふたりでぴつたりとかたく寄りそひながら

おまへのふしぎな麝香のにほひを感じながら

さうして霧のふかい谷間の墓をたづねて行かうね。

 

[やぶちゃん注:大正一二(一九二三)年七月新潮社刊の詩集「蝶を夢む」所収。少なくとも私などは初出を知ってしまうと、決定稿の甘ったるさに微苦笑したくなってしまうのである。]

重たい書物を抱へて歩む道 萩原朔太郎 (「灰色の道」初出形)

 重たい書物を抱へて歩む道

 

日暮になつて散歩する道、

よく手入れうぃした美しい並木の道道、

ひとり私のうなだれて歩いて行く、

あまりに寂しく灰色なる空の下によこたふ道。

あはれこのごろの夢の中なるまづしき少女、

その少女の姿を戀する心にあゆむ、

その少女は薄黄色なるながき肩掛を身にまとひて、

肩などはほつそりとやつれてあはれにみえる、

ああこのさびしく灰色なる空の下に、

私たちの心はまづしく語り、草ばなの露にぬれて重たく寄りそふ。

戀びとよ、

あの遠い空の雷鳴をあなたはきくか、

かしこの空にひるがへる浪浪のひびきにも耳をかたむけたまふか。

戀びとよ、

この薄暗い冬の日の道べにたちて、

私の手には重たい厭生の書物をかかへてゐる、

みたまへ、

ここの PAGE には菊のすえたるにほひをかぎ、

ここの PAGE には病みたる心靈の光をみる、

そしてこのうすいみどり色の

わびしい病鬱のにほひがする。PAGE,PAGE は、

風にふかれる葉つぱのやうにちつてしまつた、

ああ げにたえがたくもみぢめなる私の過去よ、

ながいながい孤獨の影よ、

いまこの美しい並木ある冬の日の街路をこえて、

私は遠い憂愁の墓塲をながめる、

ゆうべの夢のほのかなる名殘をかぎて、

さびしいありあけの山の端をみる、

戀びとよ、戀びとよ、

物言はぬ夢の中なるまづしい少女よ、

いつも私はひとりで歩み、

ひとりでかんがへ、

ひとりでかなしみ、

私の白い墓塲のかげに座つてお前のくるのを待ちたいのだ、

このごろ夢によくみる、

よにもしたしげな、そして力ない愛憐の微笑をかぎながら。

 

[やぶちゃん注:『詩歌』第八巻第一号(大正七(一九一八)年一月号)掲載。次に示す大正一二(一九二三)年七月新潮社刊の詩集「蝶を夢む」に所収する「灰色の道」の初出形であるが、比較されれば分かる通り、これははっきり言うと、コーダが全く異なる別な詩である。詩人は何れの詩でも実は独りであるが、本詩の寂寥の方が遙かに鋭角的且つ清冽である。なお、「厭生」の「生」、「ああ げにたえがたくもみぢめなる私の過去よ、」の二箇所の歴史的仮名遣の誤りはママである。]

くちなし色の車 大手拓次

 くちなし色の車

 

つらなつてくる車のあとに また車がある。

あをい背旗(せばた)をたてならべ、

どこへゆくのやら若い人たちがくるではないか、

しやりしやりと鳴るあらつちのうへを

うれひにのべられた小砂利(こじやり)のうへを

笑顏しながら羽ぶるひをする人たちがゆく。

さうして、くちなし色の車のかずが

河豚(ふぐ)のやうな闇のなかにのまれた。

鬼城句集 春之部 落角

落角   鹿の角何にかけてや落としたる

一言芳談 一三四

   一三四

 

 然阿上人云、かなしき哉、因果を信ずる者は他力の信よわく、本願を信ずる者は因果の理(ことわり)ゆるし。庶幾(こひねがはく)は、もはら本願を信じて、かねて因果を信ぜよ。すなはち佛意にかなひて、往生をとぐべきものなり。

 

〇因果を信ず、他力を疑ふは偏見なり。因果をやぶるは邪見なり。かねて信ずるは正見なり。

 

[やぶちゃん注: 本条は以上に示したⅠと、Ⅱ・Ⅲのそれが大きく異なる。以下にⅢを示す(区切り記号「〇」の位置に(これはⅠともⅡとも異なる箇所がある)適宜判断した句読点を打った。「信ぜば」の部分のみ、Ⅲが「ぜは」とあるのをⅡで補正した)。

 

 然阿(ねんあ)上人云、かなしき哉(かな)。因果(いんぐは)を信(しん)ずるものは、他力(たりき)の信よはく、佛願(ぶつぐはん)を信じて、かねて因果(いんぐは)を信(しん)ぜば即(すなはち)佛意に、かなひて、往生すべきものなり。

 

因果の理法に則るなら、自力他力を問わず、来世での在り方は既に因果によって定まっており、極楽往生出来ると定まっていることにはならないから、当然、この因果応報説によって、絶対他力による極楽往生の決定を信ずる心は、弱化される。しかし、因果説やそこから分かり易く引き出されて善悪に分類された応報説は、元来が方便であることは言を俟たぬ。さればこそ、彌陀の本願という特殊相対性理論の真理性を信じ、同時にそれを分かり易く理解するためには、迂遠ながらも小学校で習う初等算数としての因果の四則をも、まずは信ずる必要がある、と述べているのだと私は解釈する。]

2013/04/04

丘淺次郎 生物學講話 第四章 寄生と共棲 HP版

「やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」に丘淺次郎「生物學講話 第四章 寄生と共棲」HP版を公開した。

沢庵宗彭「鎌倉巡禮記」 16

 はまべの道をはるばるとゆきて腰越にて舟をかり島へわたり、つゞらおりなる坂をのぼり、一坂一坂にて海のおもてを木のまより見おろしたる氣色いふかたなし。丹靑も筆及がたくぞ覺る。來てみる我もよそのながめとやならむ。見盡瀟湘景乘船人畫圖とも、かゝる事をやいひつらむ。[やぶちゃん注:「見盡瀟湘景乘船入畫圖」を訓点を参考にしながら私なりに書き下すと、「瀟湘の景を見盡して、船に乘りては畫圖に入る」としたい。底本そのままだと「瀟湘景を見盡して船に乘りて畫圖に入る」である。]

  なかめぬる我をもこめて江のしまを 筆のあとにや人のとむへき

  下從金際上登空  一島名高州八東

  驅景何知自成景  人乘船入畫圖中

[やぶちゃん注:書き下す。

 

  下(しも) 金際(こんざい)に從ひ 上(かみ) 空に登る

  一島 名は高し 州八(しうはつ)の東(とう)

  景を驅けりて 何ぞ知らん 自づから景を成すを

  人 船に乘りて 畫圖の中(うち)に入る

 

「州八」は日本の古称である八州で平仄上から、かくなしたものと思われる。「州」は平声(〇)、「八」は入声で(●)であるから「〇●」、この詩は「從」(意味からこれは平声〇)であるから正格(平起式)の七言絶句であるから、この承句の五・六字目は「○●」若しくは「●●」でなくてはならないからである。]

 

於同島和天裕和尚之韵

  西湖易地是君山  江島眺望天水間

  潮滿則舟潮落歩  波心一路有人還

[やぶちゃん注:詩題も含めて書き下す。

 

    同島に於いて天裕和尚の韵(ゐん)に和す

  西湖 地を易(か)ゆ 是れ君山

  江島 眺望 天水の間

  潮(しほ)滿つれば 則ち舟 潮落つれば 歩

  波心一路 人の還る有り

 

「天裕和尚」不詳。この沢庵の旅の二年後の寛永一二(一六三五)年に、大徳寺一六九世となるのが天祐紹杲(てんゆうしょうこう 天正十四(一五八六)年~寛文六(一六六六)年)という人物であるが、彼のことか? 大徳寺一五三世であった沢庵よりも十三歳年下ではあるが、おかしくはないように思われる。識者の御教授を乞う。

「韵」詩賦。……しかし、この詩を含む前後の部分は、これ、李白が洞庭湖での舟遊びの際に吟詠した「陪族叔刑部侍郎曄及中書賈舎人至遊洞庭 五首」(族叔刑部侍郎曄及び中書賈舎人至に陪して洞庭に遊ぶ 五首)の「其五」を元としているように見受けられる。

  帝子瀟湘去不還

  空餘秋草洞庭間

  淡掃明湖開玉鏡

  丹靑畫出是君山

   帝子 瀟湘を去つて還らず

   空しく秋草を餘す 洞庭の間

   淡く明湖(めいこ)を掃つて玉鏡を開けば

   丹靑もて畫き出だすは 是れ君山(くんざん)

以下。私にブラウザでの縦書を教えて下さった恩人であるつくば原人氏のウェブサイトのを以下に引用させて戴く。

   《引用開始》

   堯帝の娘は 瀟湘に身を投げて帰らず

   洞庭湖のほとりには 秋草だけが生えている

   明るい湖面をひと拭きして 玉の鏡を開くと

   絵具で描いたように現れる それが君山だ

 「帝子」というのは堯帝(ぎょうてい)の娘の娥皇(がこう)と女英(じょえい)のことで、夫帝舜の死を知って悲しみ、湘水に身を投じて死にます。

 李白は「空しく秋草を余す 洞庭の間」と人生の空しさを詠います。

転結の二句は洞庭湖に朝の光が射し込む瞬間の描写です。

 「君山」は当時は湖岸に近い湖中にあった島で、「君山」の名は湘君(娥皇)の君にちなむと言われています。朝日がさすと、君山が鏡のような湖面に描いたように浮かびあがってくる。

 五首連作の最後を美しい夜明けの風景でまとめた李白の技はみごとです。

 この七言絶句の連作は李白晩年の名作とされていますが、同船者二人の境遇や故事を理解していないと、詩の隠された意味がわからず、詩のよさを味わいつくすことはできません。

  《引用終了》

 因みに最後の部分を簡単に述べておくと、李白は軍律違反による流罪についてこの時、赦免されていたものの、同行した李曄と賈至なる人物は何れも左遷の身であったことを指す。すると、この時の沢庵境遇との酷似点が見えてくるではないか。冒頭注で示したように、沢庵は寛永四(一六二七)年の紫衣事件で幕府によって出羽国上山に流罪にされ、同じく幕府に物申した同輩たちがやはり流罪となった。その後、寛永九(一六三二)年の秀忠の死の大赦令によって許されて、一旦、江戸へ出て神田広徳寺に入ったものの、京に帰ることはすぐには許されず、同年冬から駒込の堀直寄の別宅に身を寄せて、寛永一一(一六三四)年の夏までそこに留まっていた、とある。寛永一〇(一六三三)年十一月の鎌倉行脚は、そうした中の旅であったのである。ここで沢庵が殊の外、李白のこの詩の心境に強烈な共時性を持ったことは想像に難くないのである。]

 おのくかへさもよほして島をほなれ、もときし道にむかふ。流を片瀨川といふ。

  おもへともおもはぬ人の片瀨川 わたらはすそやぬれまさりけむ

星月夜の井をすぐるに夕日もかたぶけば、

  雲はれて道はまよはし星月夜 かまくら山は名のみなりけり

新長谷寺に詣て、

  大和路やうつせはこ一も泊瀨寺 尾上のかねのよそならぬ聲

 あま小舟泊瀨とよみしは、實に爰なるべし。海山かけてながめ一かたならぬ所なり。くれて雪の下のやどりにかへり、五山の樣體ども所の者にとふ。

[やぶちゃん注:「あま小舟泊瀨」古歌で「あまをぶね」(海人小舟・蜑小舟)は「泊瀬(はつせ)」に掛かる枕詞である。]

耳嚢 巻之六 黑鯉の事

 黑鯉の事

 

 黑鯉は流沙川(りゆうさがは)の産にて、文化元子年長崎より獻備(けんび)なし、數二つの内、一つは路中にて斃(たふ)れぬ。其活魚(かつぎよ)を見し御醫師の持來るを、爰に記しぬ。

Kurogoi

 

□やぶちゃん注

○前項連関:なし。珍しい、外国産の珍魚の図入り奇談である。博物学的には極めて興味深いが、情報が少な過ぎるのが玉に疵。もう少し、細部の描写が欲しかった。

・「黑鯉」(「くろごひ(くろごひ)」ではなく、「こくり」と音読みしている可能性があるので読みを振らなかった。訳では大陸伝来の雰囲気を出すために「こくり」とした)まず、名称と図から言うと、体表面の背側半身が黒色を呈していることと、その全体の形状が鯉に似ているのであろうと推測する(恐らく、この「黑鯉」という名称自体が中国から提供された時点でついていた名前であろうと考えられ、恐らく新鮮な生体でしっかり黒色であったと考えてよいであろう。即ち、途中で黒く変色したものではまずないと考えてよいと思われる)正確な描写であるかどうかが疑わしいが、頭部の形状が極めて特異である。上辺が背に対してほぼ平行しており、吻部が特徴的に独立して突き出していて、これは凡そコイ科のそれには見えない。寧ろハゼの類に似ているように思われる。但し、これは長途の移動(中国から長崎を経て江戸)で弱って病的な変形が起こったものとも思われる。今一つ特徴的なのは鰭である。尾鰭の中央が貫入せず、まさにハゼ類のようにすっぱりとなっている。但し、図を良く見ると、尾鰭下方の部分は、何か不自然に千切れたように描かれており、これも運搬で疲弊し尾鰭の上下に後ろに伸びていた部分が傷んで脱落したものとも考え得る。また、背びれがかなり丸みを帯びて描かれていることや、胸鰭もやや大きいことなどを指摘出来る(但しこれも、損壊の可能性を否定は出来ない)。さらに推理するならば、この二個体、これ、非常に巨大な個体であったのではあるまいか? そもそもが普通の大きさで黒っぽい鯉に似た魚では、献上品としてのインパクトに欠ける。これが献上品であるためには、本邦の鯉を遙かに越える巨大魚である必要があるように思われるのである。諸本注せず、「黒鯉」はネット検索にも掛かって来ない。以下、同定は次の「流沙川」の注で続ける。

・「流沙川」岩波版長谷川氏注に、流沙は『中国北西部ゴビ砂漠、タクラマカン砂漠をいう』とある。これではあまりに広範囲で、まず棲息河川自体の同定が不可能である。しかし、そもそもが砂漠地帯のど真ん中であるはずもなく、すると大きな両砂漠に繋がるような河川で、尚且つ、日本にそこで獲れた魚類を運び持ち来たることの出来る川となれば、これは黄河しかあるまい。

 以下、この「黑鯉」の確かな特徴を整理しよう。

 ①巨大魚である(推定)。

 ②コイに似ている。

 ③背部半身の体表が優位に黒色を呈する。

 ④尾鰭がコイに似ない(損壊の可能性有り)。

 ⑤背鰭が丸みを帯びている(損壊の可能性有り)。

 ⑥頭部が特徴的である(病変による眼球や吻部突出の可能性有り)。

 ⑦本個体の採集地は黄河である可能性が高い。

この内、④を除いた(私は図のそれを欠損と採る。魚類の尾鰭はしばしばそうしたストレスによって欠損するからである)各項より導き出される有力な同定候補は――

条鰭綱骨鰾上目コイ目コイ科アブラミス亜科コクレン属コクレン Aristichthys nobilis(シノニム Hypophthalmichthys nobilis

であろうように私には思われる。

 コクレン(黒鰱)は参照したウィキの「コクレン」によれば、同じアブラミス亜科ハクレン属ハクレン Hypophthalmichthys molitrix と同じ鰱魚(れんぎょ:ハクレンとコクレンの二種を合わせた名称。)で中国原産の四大家魚(*)の一種である。

(*)「四大家魚」とは中国で食性の異なる、

 コイ科ソウギョ亜科アオウオ属アオウオ Mylopharyngodon piceus

 コイ科ソウギョ亜科ソウギョ属ソウギョ Ctenopharyngodon idellus

 コイ科アブラミス亜科コクレン属コクレン Aristichthys nobilis

 コイ科アブラミス亜科ハクレン属ハクレン Hypophthalmichthys molitrix

の四種類の魚類を指す。この四種を同一の池で飼育することで、自然界の食物連鎖を効率よく利用出来る養魚システムを構築することが出来る。これは古来から中国で伝承されてきた養魚法であった(この部分注はウィキ四大家魚」などに拠った)。

コクレンは『中国では華南を中心に一般的な淡水魚であり、主に珠江水系と長江水系に棲息する。黄河以北にも棲息するが、その数は少ない』(この棲息分布は私の採集地を黄河とする考えとはややマッチしないとは言える)。『ハクレンよりも養殖効率、味ともに良いとされ、台湾でレンギョというともっぱらこの本種のことを指す。東南アジアなどにも移出されて、養殖されたり、自然の河川で繁殖したりしている』。『ハクレンによく似るが、体色がハクレンは銀白色なのに対し、コクレンは体色に黒みがあり、全身に黒い雲状の斑紋が広がっている。腹の部分の隆起縁が腹鰭の位置よりも後の方に有る。ハクレンよりも成長が早く大型に成長する。体長は体高の』三・一~三・五倍、頭長の二・九~三・四倍『と相対的に頭が大きい』(記載には体長の具体が示されないが、同じウィキの、『よく似る』とするハクレン」に最大で一三〇センチメートル以上にもなる大型魚とあるから、やはりこの「黑鯉」大型個体と見たのは正しかったと言えまいか?)。『日本へは、アオウオと同様にハクレンとソウギョを輸入した際に混じってきたと考えられている。日本では利根川水系、江戸川水系、霞ヶ浦、北浦で自然繁殖が確認されているが、その生息数は極めて少なく、「幻の魚」とも言われる。淀川にも放流されている』とある(移入の時期が特定されていると本話を考える上で嬉しいのだが……。識者の御教授を乞う)。

 また⑥については、写真などを見ると気づかないのであるが、荒俣宏著「世界大博物図鑑2 魚類」(平凡社一九八九年刊)の「中国の四大家魚」一二六頁にある「中国鯉科魚類誌」(たたら書房一九八〇年刊)のこの四種の図を見ると、アオウオ・コクレン・ハクレンの頭部の吻部上辺は有意に平たく突き出るようになっているのが確認出来、本「耳嚢」の図(やや誇張されているが)が必ずしもおかしくないことが分かった。

 以上から私は「黑鯉」=コクレン Aristichthys nobilis に同定する。大方の御批判を俟つ。

・「文化元子年」「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年七月。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 黒鯉(こくり)の事

 

 黒鯉(こくり)は中国奥地の砂漠から流れ出づる河川の産にして、文化元年子年(ねどし)の今年初め、長崎より献上品となして江戸へ送られ、その数二尾(び)の内、一尾は道中にて斃死致いたが、そのもう一匹の生きた黒鯉(こくり)、これを実見致いた御殿医が、それを描いた絵図を持参致いたによって、ここに移し写しておく。

時計を見る狂人 萩原朔太郎 (「宿命」版)

 時計を見る狂人

 

 或る瘋癲病院の部屋の中で、終日椅子の上に坐り、爲すこともなく、毎日時計の指針を凝視して居る男が居た。おそらく世界中で、最も退屈な、「時」を持て餘して居る人間が此處に居る、と私は思つた。ところが反對であり、院長は次のやうに話してくれた。この不幸な人は、人生を不斷の活動と考へて居るのです。それで一瞬の生も無駄にせず、貴重な時間を浪費すまいと考へ、ああして毎日、時計をみつめて居るのです。何か話しかけてご覽なさい。屹度腹立たしげに呶鳴るでせう。「默れ! いま貴重な一秒時が過ぎ去つて行く。Time is life! Time is life!」と。

 

[やぶちゃん注:詩集「宿命」(昭和一四(一九二九)年創元社刊)版。朗読時のし易さ、それを聴く耳触りの良さ、更には詩想の分かり易さから言えば、こちらであろうが、私には粉飾のない(特に芝居がかった狂人の末尾英語など)初出の方が戦慄的である。]

時計を見る狂人 萩原朔太郎 (初出形)

 時計を見る狂人

 

 或る瘋癲病院の部屋の中で、終日椅子の上に坐り、時計の指針を凝視してゐる男が居た。おそらく世界の中で、最も退屈な人間が此所に居ると私は思つた。ところが反對であり、院長は次のやうに話してくれた。「この不幸な人は、人生を不斷の活動と考へてゐるのです。それで一瞬の生も無駄にせず、貴重な時間を浪費すまいと考へ、ああして毎日、やツつてるのです。何か話しかけてご覽なさい。きつと腹立しげに怒張るでせう。默れ! いま一秒時が過ぎ去ると。」

 

[やぶちゃん注:『新作家』昭和六(一九三一)年五月号に所収。「怒張る」はママ。]

鬼城句集 春之部 白魚

白魚   白魚の九膓見えて哀れなり

ふくろふの笛 大手拓次

 ふくろふの笛

 

とびちがふ とびちがふ暗闇(くらやみ)のぬけ羽(ば)の手(て)、

その手は丘(をか)をひきよせてみだれる。

そしてまた 死の輪飾りを

薔薇のつぼみのやうなお前のやはらかい肩へおくるだらう。

おききなさい、

今も今とて ふくろふの笛は足ずりをして

あをいけむりのなかにうなだれるお前のからだを

とほくへ とほくへと追ひのける。

一言芳談 一三三

   一三三

 

 又云、往生は、決定と思へば、定めて生(むま)る。不定とおもへば不定なり。

 

〇決定と思へば、何の仔細もなく、此度決定往生とおもひつめて申すべし。そのつよき心にて往生は手に取るがごとし。

 

[やぶちゃん注:「生(むま)る」の読みはⅡ・Ⅲに拠った。「往生は」以下の法然の法語はⅡの大橋氏注に、「法然上人行状絵図」の第二十一、「閑亭後世物語」の巻下、「東宗要」の巻四にも見える、とある。「閑亭後世物語」は「一一七」で既に注したが、二巻からなり、まさに「一三二」で注した、多念義を主張した浄土宗長楽寺流流祖隆寛の語録である。しかし、何よりも人口に膾炙する「徒然草」に引用されている点であろう。以下、第三十九段を引く 

(底本は昭和二七(一九五二)年角川書店刊今泉忠義訳注「徒然草」本文に拠った)。 

 

 或人、法然上人に、「念佛の時、睡(ねぶり)にをかされて行をおこたり侍ること、いかがして、このさはりをやめ侍らむ」と申しければ、「目の醒めたらむ程念佛し給へ」と答へられたりける、いと尊かりけり。また、「往生は一定(いちぢやう)と思へば一定、不定(ふぢやう)と思へば不定なり」といはれけり。これも尊し。また、「疑ひながらも念佛すれば往生す」ともいはれけり。これもまた尊し。 

 

「をかされて」「をかす」は「犯す」「侵す」で、害する、妨げるの意、「目の醒めたらむ程」「む」は婉曲、「程」は限定を示す形式名詞で、目が醒めている時だけ、の意。「疑ひながらも念佛すれば往生す」とは、これまでの「一言芳談」の叙述から見ると、一見、やや不審な気もするが、考えて見れば――救い難き煩悩の凡夫は、心から純粋に疑いなく念仏申すべきこと、これ候はず――と私などは思うによって、嫌いな兼好と珍しくも同じく、「また尊し」と思うのである。しかして本条の標注を見れば「つよき心」と言うが、心の在り方が純粋に「何の仔細もなく、此度決定往生とおもひつめ」たる状態であるならば、それを厳密には「つよき心」と表現する必要はないのである。他力を完全なる『真』命題としている心の状態にあっては、それは既にして「つよき心」と呼ぶ必要はない。そこに宿命の凡夫としての一抹の『偽』の疑いの翳が潜んでいながら、それでも、他力を信じようという「つよき心」がある場合にこそ、「つよき心」とは言うのである。さればこそ「疑ひながらも」「つよき心にて」「決定と思」ひて「念佛すれば」「定めて生る」、「往生す」と法然は語るのではないか?]

 

2013/04/03

北條九代記 千葉介阿靜房安念を召捕る 付 謀叛人白状 竝 和田義盛叛逆滅亡 〈和田合戦Ⅱ 朝比奈義秀の奮戦〉

 

朝夷(あさひな)はもとより大力武勇(ぶよう)の健者(したゝかもの)にて二領重(がさね)の大鎧に、星甲(ほしかぶと)の緒(を)をしめ、九尺計(ばかり)の鐡撮棒(かなさいぼう)をうち振りて、當るを幸(さいはひ)に、馬人を云はず打伏(うちふ)せ薙(なぎ)倒す。新野(にひの)左近將監景直は、緋威(ひをどし)の鎧に同じ毛の甲(かぶと)を猪頸(ゐくび)に著(き)なし、黑鴾毛(くろつきげ)の馬に乘り、太刀を眞甲(まつかふ)に翳(かざ)して、朝夷に走せ掛(かゝ)る。義秀、是を見て横樣に打(うち)開けば、棒の當りし所より新野二つにちぎれて、血煙(ちけぶり)と共に落ちたりけり。葛貫(くずぬきの)三郎盛重、隙間なく馳(はせ)寄せ、義秀に組まんとする所に、朝夷、棒を取り延べて衝いたりければ、馬は横に倒れて、盛重、下に敷(しか)れたりしを、義秀、續けて突けるに、甲の鉢共に首(かうべ)碎けて失せにけり。五十嵐小文次(いがらしのこぶんじ)、是を見て、「あな、事々しや。さりながら、一騎打(うち)寄せ、手合(てあひ)の勝負を思ふ故に、兵多く討(うた)るゝぞ。大勢一同に前後左右より攻(せめ)付けよ」とて、郎從七、八人、我身諸共に聲を合せて、同時に打て掛りしかば、朝夷、れいの鐡撮棒(かなさいぼう)を振(ふり)上げ、向樣(むかふざま)に、小文次が甲の眞向を、丁と打てば、太刀にて受け流さんとして、翳(かざ)しけるが、その太刀共に首(かうべ)は胴ににえ入りて、馬より落ちたりけり。此勢(いきほひ)に恐れて、郎從共はばらばらと引退(ひきしりぞ)く。高井〔の〕三郎兵衞尉重茂(しげもち)は、和田〔の〕次郎義茂が嫡子として、義盛には甥にてあり、一族を離れて將軍家に屬(しよく)し奉り、忠を存じ、道を立(たつ)る。この度の軍(いくさ)に私(わたくし)なき大功を現(あらは)さんと、義盛が郎從、數多打取りしが、朝夷と寄(よせ)合せて、暫(しばし)戰ふに勝負なし。義秀は大力にて、重茂は手利(てきゝ)なり。打開き切流し、右に掛り、左に廻(めぐ)り、半時ばかり戰ひしが、重茂、太刀を打折(うちをら)れしかば、轡(くつばみ)を竝べて、雌雄を決せんと、義秀が草摺(くさずり)に取りつき、兩人、馬より動(どう)と落ち、しばしは組(くみ)合ひたりけれども、朝夷、流石に力まさりて重茂を押へて、首を搔く。相摸次郎朝時(ともとき)は、泰時の舍弟なり。心剛(がう)にして變化(へんくわ)の權(けん)を工(たくみ)にす。味方の陣を馳廻(はせめぐ)り、軍の樣(やう)を下知せられしが、朝夷と戰うて、手を負うて、引退(ひきしりぞ)く。足利(あしかゞの)三郎義氏は、政所の前橋(まえばし)のつめにて、義秀に渡(わたり)あふ。朝夷、屹(きつ)と見て、「善き敵ぞ、いざ、組(くま)ん」とて、義氏が鎧の袖に取付きたり。義氏、叶はじと思ひて、乘たる馬に一鞭當てて廣さ二丈餘(あまり)の堀を飛越(とびこえ)、莞爾(につこ)と笑うて立たりけり。鎧の袖はちぎれて、朝夷が手にのこり、主(ぬし)は向ふに飛越えたり。義秀、力及ばず、隍(ほり)の東より橋を渡りて追ひかゝれば、足利の郎等、其中を隔てて、防ぎけるが、皆、多く打殺さる。この間に、義氏は虎口を遁れて、引退ぞく。若宮大路米町(こめまち)の口にして、武田(たけだの)五郎信光と朝夷と出合うたり。互に目を掛けて馳せ寄する所に、信光が嫡子惡三郎信忠、生年十五歳、父が前に蒐塞(かけふさが)り、太刀拔側(ぬきそば)めて、打て掛る。義秀、之を見て、「かゝる少年を討ちたればとて何事かあるべき。父が命に替らんとする形勢(ありさま)、志の優しさよ」とて.、馳(はせ)通りければ、聞く人、朝夷を感ぜぬはなかりけり。


[やぶち
ゃん注:〈和田合戦Ⅱ 朝比奈義秀の奮戦〉

引き続いて「吾妻鏡」五月二日の条に基づく。前の引用の続きを示す。

〇原文

依之。將軍家入御于右大將家法花堂。可遁火災御之故也。相州。大官令被候御共。此間及挑戰。鳴鏑相和。利劔耀刄。就中義秀振猛威。彰壯力。既以如神。敵于彼之軍士等無免死。所謂五十嵐小豐次。葛貫三郎盛重。新野左近將監景直。禮羽蓮乘以下數輩被害。其中。高井三郎兵衞尉重茂。〔和田二郎義茂子。義盛甥也〕與義秀攻戰。互弃弓並轡。欲決雌雄。兩人取合。共以落馬。遂重茂被討訖。取落義秀之者。爲此一人之上。不與一族之謀曲。獨參御所殞命也。人以莫不感歎。爰義秀未騎馬之際。相摸次郎朝時取太刀。戰于義秀。比其勢。更雖不恥對揚。朝時主逢蒙疵也。然全其命。是兵略與筋力之所致。殆越傍輩之故也。又足利三郎義氏。於政所前橋之傍相逢義秀。義秀追取義氏之鎧袖。縡太急兮。義氏策駿馬。令飛隍西。其間鎧袖絶從中。然而馬不倒。主不落。義秀雖勵志。合戰數剋。乘馬疲極之間。泥而留于隍東。論兩士之勇力。互無強弱掲焉也。見者抵掌鳴舌。義秀猶廻橋上。擬追義氏之刻。鷹司官者隔其中。依相支。爲義秀被害。此間義氏得遁奔走云々。又武田五郎信光。於若宮大路米町口。行逢于義秀。互懸目。已欲相戰之處。信光男惡三郎信忠馳入其中。于時義秀感信忠欲代父之形勢。馳過畢。

〇やぶちゃんの書き下し文

之れに依つて、將軍家、右大將家の法花堂に入御す。火災を遁れ御(たま)ふべきの故なり。相州、大官令、御共に候ぜられしむ。此の間、挑み戰ふに及びて、鳴鏑(なりかぶら)、相ひ和し、利劔、刄を耀(かかや)かす。就中(なかんづく)、義秀、猛威を振ひ、壯力を彰(あら)はすは、既に以つて神のごとし。彼に敵するの軍士等、死を免るるは無し。所謂、五十嵐小豐次(いがらしこぶんじ)・葛貫(くずぬき)三郎盛重・新野(しんや)左近將監景直・禮羽蓮乘(れいはれんじやう)以下の數輩、害せらる。其の中、高井三郎兵衞尉重茂〔和田二郎義茂が子。義盛の甥なり。〕、義秀と攻め戰ふ。互に弓を弃(す)て、轡(くつばみ)を並べて、雌雄を決せんと欲す。兩人、取り合ひ、共に以つて馬より落つ。遂に重茂、討られ訖んぬ。義秀を取り落すの者は、此の一人たるの上、一族の謀曲に與(くみせず、獨り御所に參じて命を殞(おと)すなり。人、以て感歎せざる莫し。爰に義秀、未だ騎馬せざるの際(きは)、相摸次郎朝時、太刀を取り、義秀と戰ふ。其の勢(せい)を比ぶれば、更に對揚(たいやう)を恥ぢずと雖も、朝時主(ぬし)、逢ひて疵を蒙るなり。然も其の命を全うす。是れ、兵略と筋力との致す所、殆んど傍輩(はうばい)を越ゆるの故なり。又、足利三郎義氏、政所の前の橋の傍(かたはら)に於いて義秀に相ひ逢ふ。義秀追ひて義氏が鎧の袖を取る。縡(こと)、太だ急にして、義氏、駿馬に策(むちう)つて、隍(ほり)の西に飛ばしむ。其の間、鎧の袖、中より絶つ。然れども馬は倒れず。主(ぬし)は落ちず。義秀、志を勵ますと雖も、合戰數剋(こく)して、乘馬疲れ極むるの間、泥(なづ)みて隍(ほり)の東に留まる。兩士の勇力を論ずれば、互ひに強弱無きこと、掲焉(けちえん)なり。見る者、掌を抵(う)ち、舌を鳴らす。義秀、猶ほ橋上を廻り、義氏を追はんと擬(ぎ)するの刻(きざみ)、鷹司官(たかつかさのくわん)なる者、其の中を隔だて、相ひ支へるに依つて、義秀が爲に害せらる。此の間に義氏、遁るるを得て奔走すと云々。

又、武田五郎信光、若宮大路米町(こめまち)口に於いて、義秀に行き逢ひ、互ひに目を懸け、已に相ひ戰はんと欲するの處、信光が男(なん)惡三郎信忠、其の中に馳せ入る。時に義秀、信忠、父に代らんと欲するの形勢(ありさま)に感じ、馳せ過ぎ畢んぬ。

・「高井三郎兵衞尉重茂」和田一族でありながら幕府軍についてかく討死したが、彼の子息高井時茂(ときもち ?~建治三(一二七七)年:和田の乱後に出家して道円と号した)は母の津村尼から相模鎌倉南深沢郷と越後奥山荘の地頭職を譲られ、子孫は三浦和田氏を称して和田氏を再興している。

・「相摸次郎朝時」北条義時の次男で名越流北条氏の祖北条朝時(建久四(一一九三)年~寛元三(一二四五)年)。北条泰時の異母弟。参照したウィの「北条朝時によれば、この和田の乱の前年である建暦二(一二一二)年五月七日、二十歳の時に将軍実朝の御台所信子に仕える官女佐渡守親康の娘に艶書を送り、一向に靡かないことから、業を煮やした末、深夜に彼女の局に忍んで誘い出した事が露見、実朝の怒りを買って父義時から義絶され、駿河国富士郡に蟄居していたが、この戦さで鎌倉に呼び戻されて、かく戦ったのであった。この後、御家人として幕府に復帰する。後、父義時は承久の乱でも『大将軍として朝時を起用する一方、小侍所別当就任、国司任官はいずれも兄の朝時を差し置いて同母弟の重時を起用するなど、義時・朝時の父子関係は複雑なものがあり、良好ではなかったと見られ』、朝時は『得宗家の風下に甘んじ』ざるを得なかった。その後の『名越流は得宗家には常に反抗的で、朝時の嫡男光時をはじめ時幸・教時らが宮騒動、二月騒動で度々謀反を企てている』とある。

・「掲焉なり」はっきりしている。

・「見る者、掌を抵ち、舌を鳴らす」直前に二人の臂力が互角であったのは言を俟たない、と或る以上、これは敵味方いずれもが、義氏が戦わずして逃げたことに対し、不満を示したと読むべきところであろう。

・「鷹司官なる者」と訓じておいたが、これはどうも原典の、鷹司冠者の誤りであるらしい。熱田神宮大宮司で鷹司冠者と呼ばれた鷹司禅門藤原野田朝季という人物と思われる。

・「武田五郎信光」「梶原叛逆同意の輩追捕」で示した「伊澤五郎信光」(応保二(一一六二)年~宝治二(一二四八)年)のこと。甲斐武田氏第五代当主。第四代当主武田信義五男。武田有義の弟。

・「米町」「新編鎌倉志卷之七」の「大町〔附米町〕」の項に、

大町(をほまち)は、夷堂橋(えびすだうばし)と逆川橋(さかがはばし)の間(あいだ)の町なり。大町の四つ辻より西へ行く横町(よこまち)を、米町(こめまち)と云。大町・米町の事、【東鑑】に往々見へたり。

とある。この逆川橋は大町四ツ角(本文の「四つ辻」)から横須賀線を渡って材木座へと向かうと、朱色の魚町橋を渡った左側に路地があり、入ってすぐの所に架橋されている(「逆川」という名は、この滑川の支川が地形の関係からこの部分で大きく湾曲して、海と反対、本流滑川に逆らうように北方向に流れているために付けられたもの)。鎌倉幕府は商業活動への社会的認識の未成熟と要塞都市としての軍事的保安理由から、建長三(一二五一)年に御府内に於いては指定認可した小町屋だけが営業が出来るという商業地域限定制を採り、大町・小町・米町・亀ヶ谷の辻・和賀江(現在の材木座辺りか)・大倉の辻、気和飛坂(現・仮粧坂)山上以外での商業活動が禁止された。その後、文永二(一二六五)年にも再指定が行われて、認可地は大町・小町・魚町(いおまち)・穀町(米町)・武蔵大路下(仮粧坂若しくは亀ヶ谷坂の下周辺か)・須地賀江橋(現在の筋違橋)・大倉の辻とされている。

・「信光が男惡三郎信忠」武田信光次男。承久の乱で奮戦し、功を立てたが、何故か、仁治二(一二四一)年十二月二十七日に父信光より義絶されている(「吾妻鏡」同条)。義絶の理由は明らかではないが、「歴散加藤塾」の「吾妻鏡入門」の同条注では、『三月二十五日の海野幸氏との境相論に対する泰時の判決に対して不満を流布した落し前のようだ』と推定されておられる。しかし、四郎勝頼氏の個人ブログ「四郎勝頼の京都祇園日記」の甲斐武田氏総集編②武田有義・信光~信政兄弟の人物目録の中の「武田信忠(悪三郎)」の項には、「石和町誌」の記載に『少しでも危険を減らすために、義絶という形で信忠との関係を絶つことによって、武田の安泰を図ろうとしたと考えることができよう』とあるとされ、『義絶された信忠は『武田源氏一流系図』によれば、「高信と改む。子孫は紀州熊野八庄司のうちの湯川庄司」とある。おそらく執権北条泰時に湯川庄を与えられたのであろう』と推定されておられる。何れも興味深い見解である。なお、この「吾妻鏡」の仁治二(一二四一)年十二月二十七日の条では、本義秀との対決の下りが、義絶を不審として信光を糺す執権泰時に対し、切々たる思いの中で信忠の孝を語る父信光(この当時は出家して光蓮を名乗っている)の台詞の中に再現されている(それだけにこの義絶はますます不思議である)。私は個人的に、この超人ハルク義秀が頗る好きである。以下にこの部分も抜粋して示しておきたい。

〇原文

先建曆年中。和田左衞門尉義盛謀叛之時。諸人以防戰雖爲事。怖朝夷名三郎義秀武威。或違于彼發向之方。或雖見逢遁傍路。以逢義秀爲自之凶。爰光蓮者。奉尋武州。通若宮大路東頰米町前。向由比浦方。義秀者自牛渡津橋。打出同西頰。指御所方馳參。各相逢于妻手番。義秀見光蓮。頗合鎧進寄。光蓮暫者不懸目。只雖降行。已在箭比之間。聊向轡於西取直弓。于時信忠忽爲相代父命。捨身馳隔兩人中之處。義秀雖取太刀。見信忠無二之體。直加感詞。不及鬪戰。馳過訖。且是兼知信忠武略實之故歟。

〇やぶちゃんの書き下し文

先の建曆年中、和田左衞門尉義盛謀叛の時、諸人防戰を以つて事と爲すと雖も、朝夷名(あさひな)三郎義秀の武威を怖れ、或ひは彼が發向の方に違(たが)へ、或ひは見逢ふと雖も傍路に遁れ、義秀に逢ふを以つて自らの凶と爲す。爰に光蓮は、武州を尋ね奉り、若宮大路東頰(つら)の米町の前を通り、由比の浦の方へ向ひ、義秀は牛渡津橋(うしわたつばし)より、同じく西頰に打ち出で、御所方を指して馳せ參ず。各々妻手(めて)の番(つが)ひに相ひ逢ふ。義秀、光蓮を見て、頗る鎧を合はせ進み寄る。光蓮、暫くは目を懸けず、只た降り行くと雖も、已に箭比(やごろ)に在るの間、聊か轡(くつばみ)を西に向け、弓を取り直す。時に信忠、忽ち父の命に相ひ代らんが爲に、身を捨てて兩人の中を馳せ隔つるの處、義秀、太刀を取ると雖も、信忠が無二の體(てい)を見て、直ちに感詞を加へ、鬪戰に及ばず、馳せ過ぎ訖んぬ。且つは是れ、兼ねて信忠の武略の實を知るが故か。

・「牛渡津橋」不詳。この名称からは、例えば干潮時には牛が渡渉可能であるような、当時の滑川の比較的河口近くにあった橋の呼称か。識者の御教授を乞うものである。]

液體化した文學 萩原朔太郎

       液體化した文學

 

 詩作とは、詩人の經驗内容にある對象や素材やを、韻律によつて液體化することの技術である。すべての物質は、液體化することによつて、その個體の時の形相を無くしてしまふ。詩の表現が、すべての生活經驗をイメーヂ化することによつて、縹渺模糊たる風趣を帶びるのはこのためである。經驗内容の素材が、その固體のままの原形で出るやうな文學は、未だ詩ととは言へないのである。

 

[やぶちゃん注:昭和一五(一九四〇)年創元社刊のアフォリズム集「港にて」の冒頭パート「詩と文學 1 詩――詩人」の二十四番目、先に示した「抒情詩と敍事詩」の直後に配されたものである。萩原朔太郎は「經驗内容の素材が、その固體のままの原形で出るやうな文學は、未だ詩ととは言へない」として所謂、あの、世界に稀なる、おぞましき私小説を全否定しているのである。私小説の中にも詩的なるもののたまさかに輝くことを私は否定しない。しないが、やはり私にとって私小説は、「胡散臭い」の一言に尽きる。長々と辿ってきた「港にて」の冒頭パート「詩と文學 1 詩――詩人」は未だ続くのであるが、この私の好きな「液體化した文學」を以って、ここで暫くブレイクとする。]

抒情詩と敍事詩 萩原朔太郎

       抒情詩と敍事詩

 

 抒情詩の實は音樂的であり、敍事詩の美は建築的である。前者の魅力は、時間の持續する旋律のペーソスと、その曲線的な流動の美しさにある。後者の魅力は、空間上に固定した律動の均齊美と、その莊重典雅な雄大性とにある。ところで日本では、建築そのものさへが抒情詩化し「物のあはれ」のペーソスを表現するところの、茶座敷風な物に造られてゐる。日本に抒情詩だけが發育して、敍事詩の無かつた所以(ゆゑん)である。

 

[やぶちゃん注:昭和一五(一九四〇)年創元社刊のアフォリズム集「港にて」の冒頭パート「詩と文學 1 詩――詩人」の二十三番目、先に示した「リリシズムの悲哀(ペーソス)」の直後に配されたものである。このアフォリズムは鋭い。]

リリシズムの悲哀(ペーソス) 萩原朔太郎

       リリシズムの悲哀(ペーソス)

 

 獸の如く、心に烈しい怒りや情熱やを持ちながら、獸の如く、常に忍從して語らず、靜かに智慧深く、そして音樂のやうに美しく、風なき薄暮の空に燃えのぼる火事の炎。それがリリシズムと呼ばれるものの、最も内奧的な悲哀(ペーソス)である………。

 

[やぶちゃん注:昭和一五(一九四〇)年創元社刊のアフォリズム集「港にて」の冒頭パート「詩と文學 1 詩――詩人」の二十二番目、先に示した「詩と激情性」の直後に配されたものである。]

沢庵宗彭「鎌倉巡禮記」 15

 

 神事をはり宿にかへり、明れば四日也。冬の日は賴がたし、木枯の風やしきりけむ、時雨の雲やきほひけむ、先いさとをき方をきはめてわがさす所の寺にゆくゑをしめむとて五山の寺々をばおくにひめをき、江島におもむく。道すがら浦山かけてけしきも所々にかはり、目をこらす跡多し。金銅の大佛・新長谷をもかへるさを心にちぎりてたゞちにゆくに、濱邊ちかき山本の一村をば坂の下といふ。名もくもりなくそこすみたるは星月夜の井に影みれば、身のおとろへに、爰も老の坂よと越ゆけば極樂寺といふ律寺あり。

 

  たのしみをきはむる寺のうちとても 世のうきことやかはらさるらん

 

といひつ一門に入て見れば極樂といふ名にも似ぬありさま、佛は骨おちみぐしかたぶき、堂はいらかやぶれ、むな木たをみ、かゝぐべき寺僧の力もなく、あらき繩もてまとひ立たるは是や七寶正眞のまき柱ならむ。極樂寺のかゝる零落を見て、地獄門のさかゆく事そらにしられけり。しかあれど、さる人のいへるは、地獄と極樂の境も、さまでとをしとも聞えず、方寸の胸の中、一心の上よりみづからつくり出す事なれば、時の間に地獄もきえて天堂と成べし。地獄天宮皆爲淨土と聞時は、此寺のめぐりにしげき梢をば七えの寶樹とも見、囀る鳥の聲々は賓伽衆鳥の和雅ともきゝ、或現大身滿虛空中と聞ときは、佛はまのあたり也。億土もとをからず、去此不遠ととけり。是に速へる衆生に、かりのすがたを方便して、己心の覺體を表すれば實に利益無邊也。誰も心をはふらすべからず。法は機によつて修すべし。

 

 極樂寺前地獄門  人々具足業障根

 

 野燒幾度春風草  還死受生原上魂

 

[やぶちゃん注:まず書き下しておく。

 

 極樂寺前(じぜん) 地獄門

 

 人々 業障(がうしやう)の根(こん)を具足す

 

 野燒 幾度(いくたび)ぞ 春風の草(さう)

 

 還死(くわんし) 受生(じゆせい) 原上(げんじやう)の魂(こん) 

 

底本では「極樂寺の前に」、「春風草」、「生を受く」である。

 

「たをみ」「撓む」。本来は「たわむ」であるが「たをむ」とも表記した。

 

「七寶正眞」「七寶」は七珍(しっちん)とも呼び、経に説く仏法を象徴する七種の宝。「無量寿経」では、金・銀・瑠璃・玻璃・硨磲(しゃこ):シャコガイ。)・珊瑚・瑪瑙を、「法華経」では、金・銀・瑪瑙・瑠璃・硨磲・真珠・玫瑰(まいかい:中国産の美しい赤色の石。)とする。「正眞」は本物であるから、ここは檜や杉で作った「まき柱」(真木柱)を荘厳の七珍としてシンボライズさせ、それが荒縄で支えられている有り様を描いて、極楽寺の衰亡を象徴させている。それにしても寂寥慄然たる景色ではないか。これほどリアルに江戸期の鎌倉の衰亡を描いているとは、今回、精読して、激しく驚いている次第である。

 

「賓伽衆鳥」迦陵頻伽(かりょうびんが)のことを指すか。梵語“kalavika”の音写漢訳で、妙声・美音・妙音鳥などと訳すが、雪山(せっせん)あるいは極楽浄土にいるする想像上の鳥。聞いて飽きることない美声によって法を説くとされ、浄土曼荼羅では人頭・鳥身の姿で表される。ガルーダである。

 

 それにしても沢庵和尚、ちゃんと最初に江の島に遊んでるんだね。とってもお茶目!]

耳嚢 巻之六 賤商其器量ある事

 賤商其器量ある事

 

 文化元年の頃、築土下白金町(つくどしたしろがねちやう)に伊勢屋三四郎といへるありし。親代(おやだい)より搗米(つきごめ)を商賣いたし、男女大勢召(めし)仕ひて、所々屋敷がたの搗入(つきいれ)など引請(ひきうけ)けるが、此年七月盆前差詰(さしつま)り、ひしと差支(さしつかへ)けると也。元來三四郎、其身驕るにもあらず、遊興等なす人にもあらず、手代の引負(ひきおひ)、又は不時のもの入(いり)にて期(ご)差詰りしを、あたりにても憐みけるが、兄成(なる)者は下町にて豪家也、其外本家親類にも有德(うとく)のものありしが、是迄度々の合力(こうりよく)、助合(たすけあひ)もあれば、今更可申入(まうしいるべき)事もならず色々心腑(しんぷ)を勞しけるが、八月朔日、與風(ふと)家出して行衞不知(しれず)。親類豪家ども打寄(うちより)て所々手を分尋(わけたづね)けれど、三日までしれざれば如何(いかが)せんと周章(あはて)騷ぎけるに三日の日、四谷邊の町家(まちや)軒下倒れもの有(あり)て、懷中にいせや三四郎宛の仕切書付(しきりかきつけ)あり、一向言舌不分由(いつかうげんせつわからざるよし)、爲知(しらせ)來りし故、驚きて駕をもたせ彼(かの)所に至りつれ戻りしに、一向物いふ事なく、狐狸の爲にたぶらかされしか、天狗に抓(つまま)れしかともいふべき體(てい)故、兄はさらなり、親類共も打寄(うちより)、盆前の諸拂(はらひ)、搗入等の用向(ようむき)、金銀を出し取賄(とりまかなひ)、難なく盆も濟(すみ)て今以(いまもつて)醫者を懸け療治最中にて、此程は筆談のみならず、少々はものもいふ由。我等が許へも來(きた)る相學者栗原老人、其(その)相を見しに、聊か病氣の趣(おもむき)もなし。醫者にも内々聞(きき)しが、聊か病氣にあらずと言(いひ)しと語りぬ。親類に金銀をはたらかせ、盆前を凌げる一時の奇謀也と知りぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:番町と築土下白金町は一キロメートル圏内にあり、極めて近いので、ロケーションで連関すると言える。しかし、これ本当に詐病であろうか? 伊勢屋三四郎は実直な商人であることは本文から十全に窺え、親類縁者に最終的に助力を受けるのに、こんな見え透いた芝居を打つとは私には思われない。寧ろ、盆前の炎暑の中、金作に奔走していた彼が、軽い脳卒中や脳梗塞に罹って倒れたが、処置が比較的早く、思ったよりも言語野の損傷も拡大せずに済んだことから、予後が良かった症例であったと読む方が、遙かに自然である。三四郎にはとんだ濡れ衣のようにしか私には思えず、見知らぬ御仁ながら、伊勢屋三四郎、「卷之六」の執筆推定下限文化元(一八〇四)年七月から実に二百有余年後の今日まで、詐病者の汚名を着せ続けるは、これ、如何にも哀れで御座る。――根岸先生、怪しい情報屋の栗原老人の言で満足せず、御自身で三四郎儀、検分訊問致すべきでは御座らなんだか?……伊勢屋殿、不肖、拙者藪野直史、貴殿の濡れ衣、確かにお雪ぎ申したぞ!……

・「築土下白金町」現在の新宿区の北東部に位置する新宿区白金町及びそこに接する筑土八幡町辺。地名の由来となっている筑土八幡社の下方の意。

・「伊勢屋三四郎」不詳。

・「搗米を商賣」搗米屋。江戸や大坂などにあった米穀を消費者に販売した小売商で、舂米(つきごめ)屋とも書いた。玄米を仕入れ、これを精白して白米を小売りした。江戸の搗米屋仲間には十八組があって各組に支配の行事がいた(吉川弘文館「国史大辞典」に拠る)。

・「引負」主家の金を奉公人が使い込むこと。

・「八月朔日」鈴木棠三先生に悪いが、この記載によって、実は巻六の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年七月ではなく、八月までであることが分かる(既に記載した部分を訂正することはしないが、以下では「八月」とする)。

・「仕切書付」現在の商品受渡明細書である仕切書(しきりしょ)。商品の明細・数量・単価合計金額などを書き込むことが出来、納品書・請求書・受領書として使う事が出来る文書のことを言う。仕切書には当該品目の買主である相手先の名・受渡日付・品名・数量・合計金額などを記す(株式会社ゴーガの「マネー事典」に拠る)。

・「相學者栗原老人」本巻でも「孝傑女の事」に既出の、「耳嚢 巻之四 疱瘡神狆に恐れし事」に初出する根岸の情報通の軍書読み。ただ、この男、今まで読んでくると結構、針小棒大型の性格の持主のように感じられてしょうがない。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 賤しき商人にもとんだ企略がある事

 

 文化元年の頃、築土下白金町(つくどしたしろがねちょう)に伊勢屋三四郎と申す者が御座った。

 親の代より搗米(つきごめ)を生業(なりわい)と致し、男女大勢、召し使(つこ)うて、各所の屋敷方の米搗き入れなんどを引き請けて御座ったと申す。

 ところが、今年の七月、盆を前にして、突如、金繰りが悪うなって、二進(にっち)も三進(さっち)も行かずなり、商売そのものが、これ、いっかな、行き詰って御座ったと申す。

 元来、この三四郎儀、その身は、驕る者にてもあらず、遊興なんども、これ、一切なさざる御仁にて、何でも――手代による莫大な使い込みやら――またそれに加えての、不意の多額の物入りなんどが――これ、続いたがゆえ、かくも進退窮まるほどに、差し迫って御座った、とか申す。

 されば、周囲や縁者の者らも、勿論、気の毒に思うては御座った。

 三四郎の兄なる者は、これ、下町にては、かなり知られた豪家(ごうけ)で御座ったし、本家や親類の者の中にも、相応の資産を有して御座る者もあったが、三四郎儀、

「……彼らよりは、今までも、度々の合力(こうりょく)や助け合いを受けて御座ったれば……今更、借財や援助を申し入るること、これ、致し難いことじゃ……」

と、殊更に彼らの方へ足を向けることものう、いろいろと自身にて算段致いてはみたものの、心痛ばかりが重なる一方で御座ったと申す。

 さても、三四郎、八月一日のこと、ふと、家を出たっきり――これ、行方知れずとなってしもうた。

 親類・豪家ども、知らせを聴いて打ち寄り、方々、手分け致いて尋ねたれども、三日経っても、行方、これ、分からず、

「……さても……どうしたものか?……」

と、誰も慌てふためいて、騒いでおるばかりで御座った。……

 ところが、その三日目の午後のこと……

――四谷辺の町屋の軒下に一人の男が倒れており、

――この男、懐中に伊勢屋三四郎宛の仕切書付(しきりかきつけ)を所持しておったものの、

――介抱致いて、一応、正気に戻ったかのように見えながらも、

――これ

――一向に、

――その申すこと、よう分からぬことばかりなれば……

とて、知らせを受けたによって、一同驚き、駕籠を手配致いて、四谷へと至り、ようやっと連れ帰ったところが……

……これ

……一向にものを言う様子も

……御座ない。……

 されば、者ども、

「……これは狐狸(こり)のために誑(たぶら)かされたものか?……」

「……いや……この様子は天狗に抓(つまま)れたに違いない……」

なんどと噂致すような状態で御座ったゆえ、かの豪家の兄は勿論のこと、親類どもも再びうち集って、盆の前から滞って御座った伊勢屋の諸払い、諸屋敷搗き入れ等の既に契約の終わって御座る仕事なんど、皆して、金子(きんす)を拠出致いて、支払いやら搗き入れなど、総てとり賄(まかな)って、難なく、盆も済まして御座ったと申す。……

 今、以って医師を頼んで療治の最中とのことで御座るが、最近では筆談のみならず、少しは言葉を喋ることも出来るようになった、と申す。

 私のところへ、しばしば訪ねて参る相学者の栗原老人は、この伊勢屋三四郎に面会致す機会が御座って、その人相を実検致いたところが、

「……いや、これ聊かも病気の「び」の字も感じられませぬゆえ、内々に、かの担当の医師にも聞いてみ申したが――『これ、聊かも病気にては御座らぬ。』――と明言致いて御座った。……」

とのこと。

 親族の者に金子を出させ、危急の山で御座ったところの盆の前を、巧みに凌ぐための、これ――一時の奇謀であった――ということは、これ、拙者にも分かって御座ったよ。

昂奮と灌漑 萩原朔太郎

       昂奮と灌漑

 

 詩作に必要な動機は、感情や情緒の昂奮ではなく、平常、常識によつて抑壓されてゐたそれらの物が、何等かのはずみによつて、解放れることの機緣である。それ故に詩は、アルコールの酩酊によつて生ずる如き、情緒のパツシヨネートの昂奮ではなく、心に貯へられてあつた池槽の水が、靜かに美しく律動しながら、平地に灌漑して行くやうな狀態でのみ、常に藝術され得るのである。詩がもし「昂奮」であるならば、詩は知性的に盲目者でなければならぬ。だがその反對に、詩は澄み切つた知性の眼で、常にその周圍の風景を見渡しながら、悠々として情緒の浪に漂ひつつ、靜かに美しく律動して行く。詩は「情緒の灌漑」であつて昂奮ではない。

 

[やぶちゃん注:昭和一五(一九四〇)年創元社刊のアフォリズム集「港にて」の冒頭パート「詩と文學 1 詩――詩人」の二十番目、先に示した「人工による靈感」の直後に配されたものである。下線「必要」は底本では傍点「ヽ」。私はこの「情緒の感慨」ならぬ『情緒の灌漑』という表現が、これ、とびっきりに好きだ。このアフォリズムを示したいがために、ここまでのそれらを、私は延々と引いて来たと言っても、実は過言ではないのである。]

球形の鬼 大手拓次

 球形の鬼

 

あつまるものをよせあつめ、

ぐわうぐわうと鳴るひとつの箱のなかに、

やうやく眼をあきかけた此世の鬼は

うすいあま皮(かは)に包まれたままでわづかに息(いき)をふいてゐる。

香具をもたらしてゆく虛妄の妖艷、

さんさんと鳴る銀と白蠟の燈架のうへのいのちは、

ひとしく手をたたいて消えんことをのぞんでゐる。

みよ、みよ、

世界をおしかくす赤(あか)いふくらんだ大足(おほあし)は

夕燒のごとく影をあらはさうとする。

ああ、力(ちから)と闇(やみ)とに滿ちた球形(きうけい)の鬼(おに)よ、

その鳴りひびく胎期の長くあれ、長くあれ。

 

[やぶちゃん注:ここまで再読して私は「藍色の蟇」のイメージに最も近い画家は、かの私の偏愛するルドンであるように思えてならなくなってきたことをここに告白する。]

鬼城句集 春之部 小鮎

小鮎   日暮るゝに竿續ぎ足すや小鮎釣

一言芳談 一三二

   一三二

 

 又云、もし自力の心に住(ぢゆう)せば、一聲なほ自力なり。もし他力をたのまむは、聲々念々(しやうしやうねんねん)みな他力なり。

 

〇自力の心に、一念義の説に、往生は一念にきはまれり。多く申さんとするは自力念佛なりといへり。上人それをきこしめして、かく仰せられしなり。我力にて往生すと思はゞ、一遍も自力なり。たすけ給へと佛をたのむ心ならば、幾萬遍申すともいよいよ他力をかこつなり。

〇自力の心とは、諸宗の修行を云。淨土宗門に自他の兩門を立。しかも他力本願に歸す。自立他破、與奪抑揚はいづれの宗旨にも有べし。(句解)

 

[やぶちゃん注:「句解」注はⅡを参考にした。

「自力の心に住せば……」この法然の法語は、既に「三」で述べた一念義多念義という法然門下におこった念仏往生に関する論争を背景としている。弥陀の本願を信じる唯一度の念仏で往生出来るとする一念義と、往生には臨終まで可能な限り多くの念仏を唱える必要があるとする多念義の正邪論争で、前者は行空・幸西らにより、後者は多念義を主張した浄土宗長楽寺流流祖隆寛(久安四(一一四八)年~安貞元(一二二八)年)の主唱に基づくものである。一念義は法然の在世中から京都・北陸方面で信奉され、一念の信心決定に重きを置き、多念の念仏行を軽視、やがては否定した。しかしその結果、一念往生の主張を都合よくとって破戒造悪を厭わぬ反社会的行為に走る者も出(私は親鸞の思想はその極北をもつらまえていると思っている)、専修念仏弾圧の一因ともなった。これまでの条々と本条から見て、本「一言芳談」の筆者は多念義の流れを汲む浄土僧であると考えて間違いない。

 但し――私は法然自身のこの言葉の意図は――一念義を否定し、多念義を否定する立場にあった――とは――実は思っていない。法然の謂わんとしたことは、単純に――その人の念の――魂の誠実さの――問題であったのだと私は思っているのである。――

 さすればこそ、私は少し寂しい気がする。

 この「一言芳談」はあらゆる浄土教の感懐の「るつぼ」であるべきであって、これが一見解としての多念義の是を補強増強する幟として俄然立ち上がって来ると、瞬く間に、書店に居並ぶビジネスマンの実用本や、まことしやかな経済本、『現世をより楽しく生きるための』(「よく」ではない)指南本へと堕っし去ると思うからである。それは死を希求し続けることによって生の存在を逆照射することを核とする本作の稀有の哲学を根底から覆すことになると私は思うからである。例えば前の「一三二」などは、そこだけを伐り出してしまえば、如何にもなアフォリズムではないか。私はこの言葉と同じようなものを、おぞましい小学生時代の「道徳」の授業の中で、鳥肌が立つ不快な響きとともに読まされ、説教された記憶がある。こういう法語が一人歩きを始める時、それは鮮やかに、ある思想や個人の勝手な解釈に晒され、利用され、国家のために個人を犠牲にすることや、他者を排撃し、押し退け、死に至らしめてでも自己欲求を追求せんとすることの正当化の方便に用いられてしまうのである。

 そもそも私は、嘗て本条を読んだ瞬間、

 

 又云、もし他力の心に住(ぢゆう)せば、一聲なほ他力なり。もし他力をたのまむ心の曇りて候はば、聲々念々(しやうしやうねんねん)なせども、これ、みな自力なり。

 

と法然は思っている、と思ったものである。

 恐らく、この私の物言いは大方の御批判を受けるものであろう。しかし、ここで私は、私の中の「一言芳談」について語っているのである。アカデミックな見解でもなければ、私の著作を有料で買って戴いた訳でもない。不快ならば立ち去られるがよろしいし、また、御自分で独自のテクストを立ち上げられ、そこで私に反論なされるがよろしい。ともかくも今、そうした反対者と議論する私の精神上の余裕は、残念ながら、ない、とだけ述べておく。]

2013/04/02

人工による靈感 萩原朔太郎

       人工による靈感

 

 詩は靈感なしに作れない。しかも靈感は偶然であり、氣紛れの時にしかやつて來ない。ところでこの偶然を必然にし、人爲的に靈感を呼ぶ方法は――すくなくとも私の經驗によつて――ただ一つしかない。日常の生活樣式を變化させ、不眠、絶食、過勞、暴飮暴食、房事過度等によつて、肉體神經を衰弱させ、意識を變則的(アブノーマル)の狀態に導くのである。(實際に多くの詩人は、さうしたヒステリイ的狀態に於てのみ創作してゐる。)しかしもつと自然的な方法は、實生活上の烈しい打撃――失意や失戀など――によつて、精神を極度に痛め傷けることから、同じヒステリイの狀態になることである。だが我々は、求めてそんな苦勞してまで、詩を作る必要はどこにもないのだ。

 

[やぶちゃん注:昭和一五(一九四〇)年創元社刊のアフォリズム集「港にて」の冒頭パート「詩と文學 1 詩――詩人」の十九番目、先に示した「無能者のエゴイズム」の直後に配されたものである。下線「必要」は底本では傍点「◎」。朔太郎は詩の霊感は自然に生まれるもののみが真であると言いたいのである。否、人工的なアブノーマルな状態に自己を堕しめ、作為として「作る」詩は詩ではない、そうしなければ詩を書けない詩人は詩人ではないと言っているのであろう。確かに私も、そう、思う。]

沢庵宗彭「鎌倉巡禮記」 14

 やどりは瑞垣ちかき所なり。暮がたより社頭にぎやか也。いかにとゝへば、けふは霜月に入て卯日也、神拜あるよし聞ゆ。幸也とて夜に入て社參す。拜殿には神樂はじまり五人のおのこ・八乙女戸拍子の聲松にひゞき笛鼓のをと肝に銘ず。宮々の御燈のかげほのかにして社參の人々の足音ばかりは聞えて其人はさだかにみえず。燈ちかくなれば袖の行かひ色めくあり樣、よるの神事程殊にすぐれたるはなし。石のきざはしたかくのぼりて、本社に詣ければ、神主着座あり。伶人左右になみ居たり。御器めぐり三獻過て樂はじまり、左座より伶人出てまふ。八音のひゞき内陣も感動し、鶴岡の松の風千とせの聲をそへ、鎌倉山も萬歳とよばふ。

[やぶちゃん注:この偶然の夜の神楽のシークエンスも、とてもよい。篝火の舞殿から上の宮での舞と神事の映像と、そこに流れる楽の音(ね)のSE(効果音)が素晴らしいではないか。

「五人のおのこ」これは、直前に「神樂はじまり」とあるから、副神官ではなく、所謂、江戸時代の祭り囃子である「五人囃子」の笛・鉦(かね)・締め太鼓二つ・大太鼓の五つの楽器で行う合奏、特にこの八乙女舞神楽の楽人(がくにん)であろう。続いて出る正式な「伶人(れいじん)」(雅楽の奏者)とは異なる(と私は考える)。

「八乙女」「やおとめ」と読む。主に神楽や舞(巫女神楽・巫女舞)を以って神事に奉仕する八人の巫女のこと。参照したウィキの「八乙女」によれば、人数が八人に定まったのは『後世の事であり、古くは「八」の字は複数あるいは多くという意味で使われていたもので、神霊を扱う神聖な処女の意味があったと言われている。また、巫女の群遊の場合には「七」という数字が用いられる事例がある(『古事記』高佐士野の説話など)』。『古代の景行天皇の大嘗祭の際に天皇と神々に食事を奉仕した巫女に由来するとされている。後には神祇官において卜定められた采女がこうした任務にあたった。この影響を受けて他の神社においても同様の役目の巫女が置かれ、更には神事にも関わるようになったとされている』とある。

「三獻」は「さんこん」と読み、通常の固有名詞としては、正式な饗宴での儀礼的酒宴の作法で、肴(さかな)の膳を出して酒を三度進めることを一献と数え、初献・二献・三献と膳を替えて三回繰り返すことを言う(平安期から見られるが、次第に様式が整えられて室町期には「式三献」の語が用いられるようになった。現在の神前式や仏前式の婚礼で行う三三九度のルーツである。因みに主に初献の肴としては雑煮を用いたが、これが正月の祝い膳での雑煮の名残とされる)が(以上は講談社「和・洋・中・エスニック 世界の料理がわかる辞典」の記載に拠る)、ここでは所謂、神前に饌した神膳を神官が食すところの神人共食の儀式を言っているように思われる。

「八音」は「はちおん」で、本来は八種の楽器を表す語で、古代中国では楽器は金・石・糸・竹・匏(ふくべ)・土・革・木の八種類の素材から作られると考えられて区分されていたことに拠る。参照したウィキの「八音」によれば、金は金属で作った楽器で青銅を使った編鐘(へんしょう)・鉄板を使った方響(ほうきょう)・銅鑼(どら)などを指し、石は石で作った楽器で磬(けい)と呼ばれる種類を、糸は絹の糸を張った琴・箏・瑟・琵琶・阮咸(げんかん)・箜篌(くご)などの弦楽器を、竹は竹製楽器で笛などの管楽器を、ヒョウタン・ユウガオなどを素材として作った匏は笙(しょう)などを、土は土を焼成して作った土笛などの陶製楽器を、革は牛などの獣類の革を張った鼓類を、そして木は木製の拍板(はくばん:中国の伝統的打楽器で数片の硬材や竹片からなり、相互に打ち鳴らし音を出す。)などを指す。但し、ここは妙なる神楽の妙音を言っているのであろう。]

丘淺次郎 生物學講話 第三章 生活難 HP版

丘淺次郎「生物學講話 第三章 生活難」HP版を公開した。



僕はつくづく真正のヴィジュアル第一世代だ――という感を強くする。僕は自分で作っておきながら――今、この頁の数多の図像を見ながら――いつになく――うきうきしている自分を見出すのだ――それは誰かに喜んでもらえるとか――という話ではないんだ――僕が僕自身が楽しくなってくるんである……

無能者のエゴイズム 萩原朔太郎

       無能者のエゴイズム

 

 自分の愛の誠實さを、女が認めてくれないと言つて怒る男は、實際に女への奉仕をしないで、單にその愛だけを強ひるところのエゴイストである。或る詩人や文學者等が、彼等を認めてくれない讀者に對して、しばしばその同じ鬱憤を爆發させてる。彼等は常に自分がいかに誠實であり、いかに純潔であるかを宣言する。しかもその藝術的天分の貧困については、自ら意識しないのである。

 

[やぶちゃん注:昭和一五(一九四〇)年創元社刊のアフォリズム集「港にて」の冒頭パート「詩と文學 1 詩――詩人」の十八番目、先に示した「文學の倫理性」の直後に配されたものである。]

創造の草笛 大手拓次

 創造の草笛

 

あなたはしづかにわたしのまはりをとりまいてゐる。

わたしが くらい底のない闇につきおとされて、

くるしさにもがくとき、

あなたのひかりがきらきらとかがやく。

わたしの手をひきだしてくれるものは、

あなたの心のながれよりほかにはない。

朝露のやうにすずしい言葉をうむものは、

あなたの身ぶりよりほかにはない。

あなたは、いつもいつもあたらしい創造の草笛である。

水のおもてをかける草笛よ、

また とほくのはうへにげてゆく草笛よ、

しづかにかなしくうたつてくれ。

 

[やぶちゃん注:小さな頃、私の母は、私のために、よく草笛を鳴らしてくれたものだった――私は今も――草笛を鳴らせない――。]

鬼城句集 春之部 蜂

蜂    をうをうと蜂と戰ふや小百姓

     [やぶちゃん注:底本では「をうをう」の後

      半は踊り字「〱」。]

一言芳談 一三一

   一三一

 

 法然上人云、一丈の堀をこえんと思はん人は、一丈五尺をこえんと、はげむべきなり。往生を期(ご)せん人は、決定の信をとりて、しかも、あひはげむなり。

 

〇一丈の堀、一念十念むなしからずと安心決定(あんじんけつじやう)せる人も、心口(しんく)に油斷なく多念をはげむべし。二間の堀をこゆるに、二間とおもひてゆるくとべば堀の中程に落つるなり。

 

[やぶちゃん注: Ⅱの大橋氏注に、この法語は「法然上人行状絵図」の第二十一、「和語燈録」の巻五、「東宗要」の巻四にも見える、とある。「東宗要」は良忠が建治二(一二七六)年に著した「浄土宗要集」のこと。「和語燈録」のものは、

又人ごとに、上人つねにの給しは、一丈のほりをこへんとおもはん人は、一丈五尺をこへんとはげむべし。往生を期せん人は、决定の信をとりてあひはげむべき也。ゆるくしてはかなふべからずと。

とする。

……ただ……私はこう、付け加えておこう……

『あるひは(つまづく石でもあれば私はそこでころびたい)』(尾形龜之助「障子のある家」の副題)……

「一丈五尺」一丈は三・〇三メートルで、一丈五尺は四・五四メートル。

「二間」三・六三メートル。]

2013/04/01

沢庵宗彭「鎌倉巡禮記」 13

 山路十里ばかりゆきて山の高みをたゞちにきりとほしたる道を入ぬれば、鎌倉山を見る峰一そびへたり。是にならびて松のしげみ、これぞ誠の千とせの松よろづ代の鶴岡と覺ゆ。ゆくての右に、芝生のひろき所あり。是は右大將の御殿の跡也とて、民いまにたねものをもまかぬと也。德ほどたふとき物はなし。大將ひとへに威有て德ましまさずば、いかでか今の世までかくあらんや。桀紂はいにしへの人主なれども、威あつて德なければ、今の世の人を發射にたとふればいかる。夷齊は古の餓夫なれども、賢にして道を存すれば、今の世の人を桀紂にたとふれば悦ぶ。德をばねがふべき事也とおもひつゝ見つゝ過ゆけば、漸日も山のはに入相ばかりに鎌倉の里につく。爰をば雪の下といふ。折からあひにあふやどり也。

  冬されに宿とひよれは折にあふ 雪の下てふ名さへあやしき

[やぶちゃん注:「山の高みをたゞちにきりとほしたる道」朝比奈切通。この頃は、特に切通道としてのその名は殊更には知られていなかったと考えてよい。
「鎌倉山を見る峰一そびへたり」という叙述があるが、現在の「朝比奈切通」の本ルート及びそこを抜けた後には、このような開けたピークは存在しないから(天園がこのロケーションにしっくりくるのは天園であるが、あまりにもルートがずれ過ぎ、考え難い)、当時の朝比奈のルート自体が、現在のそれ以外に複数存在した(その中に峰から鶴岡を垣間見れる場所があった)とも考えられなくもない。しかし、どうもこれは、底本の句点の打ち方に問題があるように思われる。即ち、ここは、
 山路十里ばかりゆきて、山の高みをたゞちにきりとほしたる道を入ぬれば、鎌倉。山を見る。峰、一つそびへたり。是にならびて松のしげみ、これぞ誠の千とせの松よろづ代の鶴岡と覺ゆ。
で、
 朝比奈の切通を抜け、十二所に下って、鎌倉に入った。――そうして、さらに胡桃川(滑川)沿いを下って行ったところ、我が眼に高き一峰が見えて参った。さらに行き行きて、そこから連なるところの松の木々の茂りを追って麓の辺りを見透かせば――ああっ、これこそ、かの源家の、まことの千歳(せんざい)の形見たる、鶴岡八幡の宮居じゃ――と感じいって御座った。
ということであろう。この一峰は恐らく、鎌倉最高峰の大平山(現在、頂上付近一帯の天園という呼称の方が知られる)を指しており、さらにその下る尾根の麓辺り、鶴岡八幡宮背後の大臣山(だいじんやま)が見えてくるためには、まさに大倉幕府跡近くまで来る必要があるように思われるから、次文との接続もよい。

「右大將の御殿の跡」大倉幕府跡。現在の清泉女学院付属小学校周辺二〇〇メートル四方。

「桀紂」暴君である夏の桀(けつ)王と殷の紂(ちゅう)王。

「夷齊」「史記」列伝第一に挙げられた殷末の孤竹国(一説に河北省唐山市周辺)の王子の兄弟で、高名な隠者にして儒教の聖人伯夷(はくい)と叔斉(しゅくせい)。彼らを「餓夫」(「がふ」と読むか)と呼んでいるのは、周の武王が父文王の喪の内に紂王を討とうとするのを不忠として諌め、その不忠の君子の国の糧を食むを恥として、首陽山に隠れ、わらび・ぜんまいを食し、遂に餓死して亡くなったことを指しての謂い。

「あひ」頃合い。時節。沢庵の雪の下到着は十一月三日の日暮れ過ぎであった。]

丘淺次郎 生物學講話 第二章 生物の起り HP版

丘淺次郎「生物學講話 第二章 生物の起り」HP版を公開した。

耳囊 卷之六 猫の怪異の事

 

 猫の怪異の事

 

 或武家にて、番町邊の由、彼家にて猫を飼ふ事なし。鼠のあれぬるを家士共愁ひけるが、或人其主人へ其譯尋(たづね)しに、右聊(いささか)譯あれど、ひろく語らむも淺々(あさあさ)しければかたらざれど、切(せち)の尋(たづね)故申(まうす)なり、祖父の代なりしが、久敷(ひさしく)愛し飼(かへ)る猫あり、或時緣頰(えんづら)の端に雀二三羽居たりしを、彼(かの)猫ねらひて飛かゝりしに、雀はやくも飛(とび)さりしかば、彼猫小兒の言葉のごとく、殘念なりと言(いひ)しに、主人驚きて飛かゝり押へて、火箸を以(もつて)、おのれ畜類の身として物いふ事怪敷(あやしき)とて、既に殺さんと怒りしに、彼猫又聲を出し、もの云し事なきものをといひし故、主人驚きて手ゆるみけるを見すまし、飛あがつて行方しらずなりし故、其已後(それいご)猫は飼間敷(まじき)と申置(まうしおき)て、今以(いまもつて)堅く誡(いまし)め飼はざる由なり。 

 

□やぶちゃん注

 

○前項連関:特になし。既出(「卷之四」の「猫物をいふ事」など)に酷似した類話のある、ありがちな妖猫譚である。それにしても江戸時代、鼠除けに猫を飼う習慣は相当に一般的であった――実際には飼わない者が珍しかった――とさえ読める内容である。

 

・「淺々し」考えが浅い。浅墓だ。軽々しい。 

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 猫の怪異の事 

 

 とある武家――番町辺りの者の由――にては猫を決して飼うことがない。

 

 ある年のこと、鼠が猖獗(しょうけつ)を極め、屋敷内の荒れ様は――家士の者どもでさえも、あまりのことに、ひどく気に致すほどの有り様で――ともかくこれ、一方では御座らぬ――所謂、『ばたばた』――と申す呈にて御座った由。

 

 されば、家内の誰彼、こっそりと主人(あるじ)の知音に頼み込んで、主人に対し、

 

「……時に貴殿……見たところ……かくも鼠どもの大きに徘徊致すにも拘わらず……何故に猫を飼わざるや?……」

 

と執拗(しゅうね)く訊ねさせたと申す。

 

 すると、

 

「……その儀につきては……聊か……訳が御座っての……あまりこれ、軽々に公言することの……憚らるることなれば、の……今までは誰(たれ)にも語らずに御座ったのじゃが、の……貴殿が切(せち)にと、これ、訊ぬるゆえ――では、申そうず。……

 

……祖父の代の、若き日のこととか申す。……

 

……当時、当家にては、久しく飼って御座った猫が、これ、一匹、御座った。……

 

……ある日のこと、縁側の端で雀が二、三羽遊んで御座ったところへ、かの猫の、狙い澄まして飛びかかったものの、雀はこれ、一瞬早(はよ)う、飛び去って御座った。

 

 というさまを、祖父は、家内より見て御座った。……

 

――すると

 

――かの猫

 

――まるで小児の発する如く、

 

「――残念ジャ!」

 

と申した!

 

――されば祖父、仰天致いて、即座に猫に飛び掛かって縁端(えんばな)に押さえ込むや、傍に御座った火鉢に刺して御座った火箸を執り、尖(き)っ先を猫の喉笛に突きつけ、

 

「――おのれ! 畜類の身でありながら、ものを申すこと、これ、奇怪千万!!」

 

と叱咤致いて、今にも突き殺さんと致いた。

 

……ところが――永年の愛猫(あいびょう)なれば、一時、手(てえ)も止まって御座ったものか――

 

――その折り

 

――その猫

 

――またしても声を発して、

 

「……チッ! 今日ノ今日マデ……クソッ! モノ申シタコト……コレ、ナカッタニ、ノゥ!……」

 

と喋った!

 

――と

 

 祖父は、これまた、吃驚仰天、思わず、押さえつけて御座った手(てえ)を緩めてしもうたと申す。

 

――と

 

――まさにその一瞬を狙い澄まして御座ったと見えて

 

――かの猫

 

パッ!

 

――と飛び上がって……そのまま……行方知れずと相い成って御座った、と申す。……

 

……されば、の。その怪事以後、わが家にては、これ『猫を飼(こう)てはならぬ』と申す御家訓が御座って、の。今、以て、堅く誡めて、これ、猫を飼わぬので御座るよ。……」

 

との由で御座った。

文學の倫理性 萩原朔太郎

       文學の倫理性

 

 眞の純潔な熱情に燃え、誠心誠意に女を愛するといふことは、主觀者目身にとつてのモラルであつても、愛されてゐる者にとつては、何の道德的の恩惠でもない。むしろ對手の者は、その熱情によつて惱まされたり、迷惑されたり、壓制的に強迫されたりする。愛の證左は、單なる感情だけでなくして、愛する者によく奉仕し、勉めてその御機嫌を取り、樂しく悦ばせることの行爲によつて成立する。詩や文學やもこれに同じ。單なる感情の燃燒や、誠心誠意の純潔さや、思ひつめた一心の體當りやは、作者自身にとつて主觀上のモラルであつても、讀者にとつては、何の意味もない事柄である。詩や文學の價値づけする倫理性は、それの美しく樂しい魅力によつて、讀者を悦ばせるといふ、藝術的才能の恩惠に存するのである。

 

[やぶちゃん注:昭和一五(一九四〇)年創元社刊のアフォリズム集「港にて」の冒頭パート「詩と文學 1 詩――詩人」の十七番目、先に示した「文學の技巧」の直後に配されたものである。この「藝術的才能の恩惠」の部分は無論、「『藝術的』才能の『恩惠』の謂いですね? 朔太郎さん?]

武裝した痙攣 大手拓次

 武裝した痙攣

 

武裝した痙攣がおこる、

ぐわうぜんたる破壞にむかふ努力がうなりごゑをだす。

わたしはたちあがる、生活の顔面へ。

わたしはみづばれになつた足や膝(ひざ)をだしてあるくのだ。

濕氣の膓(はらわた)をひきだす幻想は姦淫されて、のら犬のやうに死んでゐる。

けれどそんなことは意としない。

くさつた鐵の壁は、わたしのうなりごゑをきいてしかみづらをしてゐる。

それは大きな象をうむ陣痛だ。

ぢつと旋行する凝視のクラリオネツトが鳴ると、

だんだんに夜(よる)がしらみががつてゆく。

 

[やぶちゃん注:下線「しかみづら」は底本では傍点「ヽ」。「しかみづら」は無論、「顰み面」で、「顰(しか)めっ面」に同じい。]

鬼城句集 春之部 目高

目高   菱の中に日向ありけり目高浮く

     ひちひちと頭まはすや針目高

     古沼にかたまつて浮く目高かな

一言芳談 一二〇

   一三〇

 

 乘願上人云、或人問うて云、色相觀(しきさうくわん)は觀經(くわんぎやう)の説なり。たとひ稱名の行人(ぎやうにん)といふとも、これを觀ずべく候ふか、如何に。上人答へて云、源空もはじめは、さるいたづら事したりき。今はしらず。但(ただ)、信稱名(しやうしやうをしんずる)なり。

 

〇色相觀、極樂の依正(ゑしやう)二種のありさまを觀ずる事なり。此の御返答の心は、尤も觀經の説にて正行なれども、人の心さはがしくして、その觀、成就し難し。かつは本願にもあらず。たゞ御名をとなふべしとなり。

〇さるいたづら事、そのやうな無益(むやく)の事といふ心なり。

〇但信稱名、うちかたふきて御名をとなふる事なり。

 

[やぶちゃん注:最後の「信稱名(しやうしやうをしんずる)」はⅡ・Ⅲを採りつつ、歴史的仮名遣の誤りを正した。Ⅰはそのまま、「信稱名(しんしやうしやう)なり」と読んでいる。これについては注の最後に私の考えを示した。

「色相觀」「色」は三十二相を具えた仏の生身のことを意味する「色身」のことであろうと思われ、Ⅱでも大橋氏は『仏のすがたかたちを観想すること』と注されておられる。但し、「色相觀」という語は、少なくとも現在では観法の一般的な称として、仏家でも用いられていないように思われる(疑義のある方はネット検索で「色相観」を掛けてご覧になられよ)。寧ろこれは引っ繰り返して「観仏」として、観法(瞑想法)の具体な一つというよりも、より上位概念で分類される観法の分類であるように私には思われる。観仏を行うところの観法群の一分類のように思われるのである(以下の引用を証左としたい)。「観仏」についてなら、例えば、「真言宗泉涌寺派大本山法楽寺」の公式サイトの「五停心観」に、『観仏とは、仏陀など勝れて徳あり優れた相好あるものを対象として観想する瞑想法で、口でただ「南無阿弥陀仏」などと唱えるだけのものでなく、本来的な意味での「念仏(心に仏を念じ留めること)」です。密教(金剛乗)で説かれる本尊観がそれであり、さらにいえば道場観なども観仏の一種です。分別説部でいうBuddha-anussati(仏随念)は、一応これにあたります』。『観仏は、止観のいずれかで言うならば正しく止(śamatha)の瞑想の範疇に入るものです。これは、密教の先徳たちが基本として観想を大変重要視したように、眼を閉じてもその対象がありありと現前するまでに修習しなければなりません』。『しばしばこの観において、光明を伴った対象が、すなわち光明を発する仏・菩薩の姿が現前する場合があります。これは観仏においてだけではなく、他の止に分類される瞑想法を修する中、仏・菩薩の姿などは現れなくとも、瞑想中に光を見ることがあります』。『しかし、それは瞑想を深める過程で当然現れるべき一体験に過ぎず、それは一応瞑想の深まりを示す兆候ではあるものの、初禅ですらありません。あるいは、瑜伽者のそれを見んとする強い願望に基づく、ただの妄想・幻想にすぎません。このような体験を何事か大層なものと捉え違えして囚われるのは、いわゆる魔境に陥ることとなりますので注意が必要です』。『補足となりますが、先に触れた分別説部でいうBuddha-anussati(仏随念)は観仏の一つではあるのですが、しかし、これはむしろ「南無阿弥陀仏」的なものとして行われています。なぜなら、分別説部では仏陀の姿を観想する、というのではなく、仏陀の徳を念じる、というように定義しているためです。具体的には仏陀の九徳(Buddha guā)、支那・日本でいう如來の十号を念じるものであるとして捉えています。実際には、ひたすら仏陀の九徳をただただ唱え続けるということになっていることから、ある意味で浄土宗の「南無阿弥陀仏」的なものと言えるのです』とある。……しかし、この解説に依るなら、称名念仏も「色相觀」となり、それも「いたづら事」として全否定される論理矛盾を引き起こす。とすれば、この法楽寺の仏随念=観仏の一つ=「南無阿弥陀仏」的なもの、という解説は法然は絶対に認めないものであろう。

「觀經」浄土三部経の一つである「観無量寿経」(「無量寿仏観経」ともいう)のこと。ウィキ・アーカイブ(今までもしばしば引用しているが、このウェブサイトは名称からは分からないが、浄土真宗という個別宗派の聖典とするものを電子化するプロジェクトであるので、閲覧に際してはウィキの閲覧以上に批判的視点を欠かさぬように見る必要がある)「仏説 観無量寿経」によれば(アラビア数字を漢数字に代えた)、

   《引用開始》

この経は釈尊在世当時、王舎城におこった事件を契機として説かれたもので、はじめに次のような事情が示される。悪友の提婆達多にそそのかされた阿闍世という王子が、父頻婆娑羅王を幽閉し、その王のために食物を運んだ王妃の韋提希夫人をも宮殿の奥に閉じこめた。夫人は遠く耆闍崛山におられる釈尊を心に念じ、仏弟子を遣わして説法してくださるよう求め、これに応じて釈尊みずから王宮の夫人の前に姿を現された。そこで夫人は、この濁悪の世を厭い、苦悩なき世界を求め、特に阿弥陀仏の極楽浄土を選んで、そこに往生するための観法を説かれるように請うた。

 こうして、まず精神を統一して浄土と阿弥陀仏や菩薩たちを観想する十三の観法が説かれる。この観法の中心は第九の真身観(阿弥陀仏の相好を観ずること)である。

 さらに、釈尊はみずから精神を統一しないままで修する善について、上品上生から下品下生までの九品に分けて説かれる。まず、上品には大乗の善が説かれ、中品には小乗の善や世間の善が説かれる。そして下品にはこれらの善を修することができない悪人のために念仏の教えが説かれるのである。

 ところが、このようなさまざまな観法や善を説き終ったあとで、最後に阿難に対して無量寿仏の名号を心にとどめよと説かれている。

   《引用終了》

なお、引用分の最後には、『そこで親鸞聖人は、釈尊の本意がこれまで説かれてきた観法や諸善にはなく、他力念仏の一行を勧めることにあると見られた』という親鸞の(現在の浄土真宗の)解釈が示されている。その本文では(編者による〔 〕補塡部もそのまま用い、恣意的に正字化した)、「眞身觀(念佛衆生攝取不捨)」として、

『無量壽佛を觀ぜんものは、〔佛の〕一つの相好より入れ。ただ眉間の白毫を觀じて、きはめて明了ならしめよ。眉間の白毫を見たてまつれば、八萬四千の相好、自然にまさに現ずべし。無量壽佛を見たてまつれば、すなはち十方無量の諸佛を見たてまつる。無量の諸佛を見たてまつることを得るがゆゑに、諸佛は現前に授記す。これをあまねく一切の色身を觀ずる想とし、第九の觀と名づく。この觀をなすをば、名づけて正觀とす。もし他觀するをば、名づけて邪觀とす』

また、「觀音觀」として、

『一々の色に八萬四千の光あり。その光柔軟にしてあまねく一切を照らし、この寶手をもつて衆生を接引したまふ。足を擧ぐるとき、足の下に千輻輪の相あり、自然に化して五百億の光明の臺と成る。足を下ろすとき、金剛摩尼の華あり、一切に布散して彌滿せずといふことなし。その餘の身相・衆好、具足せること佛のごとくして異なし。ただ頂上の肉髻および無見頂の相、世尊に及ばず。これを觀世音菩薩の眞實色身を觀ずる想とし、第十の觀と名づく』

次に、「勢至觀」として、

この觀をなすをば名づけて正觀とし、もし他觀するをば、名づけて邪觀とす。大勢至菩薩を見る。これを大勢至の色身を觀ずる想とし、第十一の觀と名づく。この菩薩を觀ずるものは、無數劫阿僧祇の生死の罪を除く。この觀をなすものは胞胎に處せず、つねに諸佛の淨妙の國土に遊ぶ。この觀成じをはるをば、名づけて具足して觀世音・大勢至を觀ずとす。

の三つの「色身を観ずる想」が示されてある。

「上人答へて云、源空もはじめは、さるいたづら事したりき。今はしらず。但、信稱名なり。」「源空」は勿論、答えている本人、法然。Ⅱの大橋氏の注に、「和語燈録」(既注)の『巻五「諸人伝説の詞」』にある旨の注がある。ウィキ・アーカイブの「和語燈録」より当該部分({ }で挿入された注釈箇所を含む)を恣意的に正字化して、以下に引用しておく。

   《引用開始》

乘願上人のいはく、ある人問ていはく、色相觀は、觀經の説也。たとひ稱名の行人なりといふとも、これは觀ずべ候かいかん。

上人答ての給はく。源空もはじめはさるいたづら事をしたりき。いまはしからず、但信の稱名也と。{授手印决答よりいでたり}

 又人目をかざらずして、徃生の業を相續すれば、自然に三心は具足する也。

 たとへば葦のしげき池に、十五夜の月のやどりたるは、よそにては月やどりたりとも見えねども、よくよくたちよりてみれば、あしまをわけてやどるなり。妄念のあしはしげげれとも、三心の月はやどる也。これは故上人のつねにたとへにおほせられし事也と。{かの二十八問答よりいでたり}

   《引用終了》

なお、引用元では「たとへば……」以下、「おほせられし事也と。」まで点線下線が附されている(意味不明。底本である「真宗聖教全書」にある巻圏点か)。

「但、信稱名」実はⅠもⅡ「但信稱名」として句点を打たず、その意味では「但信稱名」という四字熟語として意識されている。実際に「但信称名(ただしんしょうみょう)」「但信の称名」という読みや文字列は良忠「授手印決答」などに現われてはいる。しかし、尚且つ、私にはⅠのような読みは如何にも衒学的であり、そもそもが凡夫の愚智を排し、観想さえも「いたづら事」と喝破する本書や本条の読みとして相応しくないと考えるのである。素直に読むならこれはどう読んだってやはり、「ただ只管、称名をのみ信ずるものである」という謂いで――しかなく/でのみある――と私は思うのである。因みにⅡのこの部分の注で、大橋氏は、『十念の念仏においても、かならず往生すると信じて、称名すること』と解説された上で、法然の「無量寿経釈」の中に、『「たとへ観念なくとも、但(ただ)称名を信ずる、また往生を得」と説いている』と記しておられる。法然も『但だ称名を信ずる』と読んでいたことは、これで明らかである。]

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