耳囊 卷之六 猫の怪異の事
猫の怪異の事
或武家にて、番町邊の由、彼家にて猫を飼ふ事なし。鼠のあれぬるを家士共愁ひけるが、或人其主人へ其譯尋(たづね)しに、右聊(いささか)譯あれど、ひろく語らむも淺々(あさあさ)しければかたらざれど、切(せち)の尋(たづね)故申(まうす)なり、祖父の代なりしが、久敷(ひさしく)愛し飼(かへ)る猫あり、或時緣頰(えんづら)の端に雀二三羽居たりしを、彼(かの)猫ねらひて飛かゝりしに、雀はやくも飛(とび)さりしかば、彼猫小兒の言葉のごとく、殘念なりと言(いひ)しに、主人驚きて飛かゝり押へて、火箸を以(もつて)、おのれ畜類の身として物いふ事怪敷(あやしき)とて、既に殺さんと怒りしに、彼猫又聲を出し、もの云し事なきものをといひし故、主人驚きて手ゆるみけるを見すまし、飛あがつて行方しらずなりし故、其已後(それいご)猫は飼間敷(まじき)と申置(まうしおき)て、今以(いまもつて)堅く誡(いまし)め飼はざる由なり。
□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。既出(「卷之四」の「猫物をいふ事」など)に酷似した類話のある、ありがちな妖猫譚である。それにしても江戸時代、鼠除けに猫を飼う習慣は相当に一般的であった――実際には飼わない者が珍しかった――とさえ読める内容である。
・「淺々し」考えが浅い。浅墓だ。軽々しい。
■やぶちゃん現代語訳
猫の怪異の事
とある武家――番町辺りの者の由――にては猫を決して飼うことがない。
ある年のこと、鼠が猖獗(しょうけつ)を極め、屋敷内の荒れ様は――家士の者どもでさえも、あまりのことに、ひどく気に致すほどの有り様で――ともかくこれ、一方では御座らぬ――所謂、『ばたばた』――と申す呈にて御座った由。
されば、家内の誰彼、こっそりと主人(あるじ)の知音に頼み込んで、主人に対し、
「……時に貴殿……見たところ……かくも鼠どもの大きに徘徊致すにも拘わらず……何故に猫を飼わざるや?……」
と執拗(しゅうね)く訊ねさせたと申す。
すると、
「……その儀につきては……聊か……訳が御座っての……あまりこれ、軽々に公言することの……憚らるることなれば、の……今までは誰(たれ)にも語らずに御座ったのじゃが、の……貴殿が切(せち)にと、これ、訊ぬるゆえ――では、申そうず。……
……祖父の代の、若き日のこととか申す。……
……当時、当家にては、久しく飼って御座った猫が、これ、一匹、御座った。……
……ある日のこと、縁側の端で雀が二、三羽遊んで御座ったところへ、かの猫の、狙い澄まして飛びかかったものの、雀はこれ、一瞬早(はよ)う、飛び去って御座った。
というさまを、祖父は、家内より見て御座った。……
――すると
――かの猫
――まるで小児の発する如く、
「――残念ジャ!」
と申した!
――されば祖父、仰天致いて、即座に猫に飛び掛かって縁端(えんばな)に押さえ込むや、傍に御座った火鉢に刺して御座った火箸を執り、尖(き)っ先を猫の喉笛に突きつけ、
「――おのれ! 畜類の身でありながら、ものを申すこと、これ、奇怪千万!!」
と叱咤致いて、今にも突き殺さんと致いた。
……ところが――永年の愛猫(あいびょう)なれば、一時、手(てえ)も止まって御座ったものか――
――その折り
――その猫
――またしても声を発して、
「……チッ! 今日ノ今日マデ……クソッ! モノ申シタコト……コレ、ナカッタニ、ノゥ!……」
と喋った!
――と
祖父は、これまた、吃驚仰天、思わず、押さえつけて御座った手(てえ)を緩めてしもうたと申す。
――と
――まさにその一瞬を狙い澄まして御座ったと見えて
――かの猫
パッ!
――と飛び上がって……そのまま……行方知れずと相い成って御座った、と申す。……
……されば、の。その怪事以後、わが家にては、これ『猫を飼(こう)てはならぬ』と申す御家訓が御座って、の。今、以て、堅く誡めて、これ、猫を飼わぬので御座るよ。……」
との由で御座った。