耳嚢 巻之六 丹後國成相山裂の事
追記:先程、本話公開直後に、これを読んだ知人が兵庫県豊岡市~京都府宮津市にある山田断層帯のことを教えて呉れた。その地図を見ると……まさに……その線上に……成相山はあった!……
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丹後國成相山裂の事
文化元子年、松平主計頭領分丹後國宮津城下より乾方の二里程隔、成相寺觀音安置有之。去亥年十二月下旬より右境内池の坊と申畑より、鐘樓堂下迄凡百間程、大地裂陷候所、當子正月下旬より次第に所々地裂、所により候ては七八尺も陷入候場所も有之。地裂晝夜三分五分程、谷間欠候所も有之候由。境内諸堂社幷寺院住居傾候故、追々取片付の旨、在所家來共より申越候。人馬怪我は無之候。異變に付、此段御屆の旨、主計頭より御老中え申立候由。宗德養安、右屆の書面の由、携來の儘、書留ぬ。且繪圖もありしが、朱墨不端正難分故、不及模寫。
◆やぶちゃんの書き下し文
丹後國成相山裂(たんごのくになりあいやまさけ)の事
文化元子年(ねどし)、松平主計頭(かずへのかみ)領分、丹後國宮津城下より乾方(いぬゐのかた)二里程隔(へだ)て、成相寺(なりあひじ)、觀音安置之れ有り。去ぬる亥年(ゐどし)十二月下旬より右境内池の坊と申す畑より、鐘樓堂下迄、凡そ百間程、大地、裂け陷り候ふ所、當子(とうね)正月下旬より次第に所々、地裂(ぢれつ)、所により候ふては七・八尺も陷入(おちい)り候ふ場所も之れ有り。地裂、晝夜三分(ぶ)・五分程に、谷間、欠け候ふ所も之れ有り候ふ由。境内諸堂社幷びに寺院住居、傾き候ふ故、追々、取り片付けの旨、在所家來共より申し越し候ふ。人馬怪我は之れ無き候ふ。異變に付き、此の段、御屆(おとどけ)の旨、主計頭より御老中へ申し立て候ふ由。宗德養安(しゆうとくやうあん)、右屆の書面の由、携へ來たるの儘、書き留めぬ。且つ、繪圖もありしが、朱墨(しゆずみ)、端正(たんせい)ならず分かり難き故、模寫に及ばず。
□やぶちゃん注
○前項連関:不載ながら、絵図による事実報告で連関する。今回は上申書のような本文の体裁雰囲気を大事にしたいので、まず底本のそのままを示し、後に私がやや補正を加えながら書き下したものを示した。現代語訳も遊んだ(正規の古文書の形式など全く知らぬ私の、あくまで「遊び」であるので注意されたい)。根岸は流石に町奉行である。こうした天変地異の公文報告の転載には何か真摯さが感じられ、叙述も頗る厳密である。……それにしても……これは……まさか!……活断層?!……よかったねえ、寺で……因みにさ……地図で見てみたんだけどさ……この場所から真東に四十キロメートル行くと……今、何があるか知ってるかい?……大飯原子力発電所……だよ…………
・「丹後國成相山」先の「犬の堂の事」に既出であるが、改めて注する。山としての名は成相山(なりあいさん)、鼓ヶ岳ともいう。京都府宮津市と与謝郡岩滝町及び中郡大宮町の境界をなす山で標高五六九メートル。山頂は宮津湾奥にある天橋立の北側付け根の約三・五キロメートル北西に当たる。南東側中腹に真言宗成相寺がある(後注する)。特に南側山麓に近い標高一四〇メートル付近にある傘松公園からは天橋立の展望が素晴らしく、今は南麓にある籠(この)神社の横からケーブルカーが通じている(以上は平凡社「世界大百科事典」に拠った)。
・「文化元子年」「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年八月であるから、半年ほど前の、リアルな、文字通り、驚天動地の、戦慄の天災報告なのである。
・「松平主計頭」松平宗允(むねただ)(安永九(一七八〇)年/一説に天明二(一七八二)年~文化一三(一八一六)年)。丹後宮津藩第四代藩主、本庄松平家第七代。第三代藩主松平資承(すけつぐ)の次男として江戸で生まれたが、兄資統(すけのぶ)が病弱だったため廃嫡され世子に指名され、寛政七(一七九五)年十一月十七日の父の隠居によって家督を継いだ。当時、藩主となって九年目、二十四か二十二歳であった(ウィキの「松平宗允」に拠った)。
・「丹後國宮津城下」天橋立で知られる京都府宮津市。因みに、この宮津市は与謝野町旧岩滝町を挟んで、南北に完全な飛び地になっている珍しい市である。
・「成相寺」京都府宮津市にある現在は真言宗単立寺院。以下、ウィキの「成相寺」によれば、山号は成相山で西国三十三所第二十八番札所である。本尊は聖観世音菩薩。寺伝によれば慶雲元(七〇四)年に真応上人の開基で、文武天皇の勅願寺となったとするが、中世以前の寺史は判然としない、とある。寺は天橋立を一望する成相山の山腹にあるが、創建時は山のさらに上方に位置して修験の道場となっていた。現在地に移ったのは応永七(一四〇〇)年の山崩れ以降である(山崩れとは降雨その他によるものの可能性も含まれるが、その後の四〇〇年の後のこの時にも、このような現象(本件は叙述から見ても降雨などによる地盤の緩みによる地滑りや陥没とは思われない)が起こっているということは……これ、この山全体がとんでもない活断層の上にでもあるのではなかろうか?)ある山号は古くは「世野山」と称し、雪舟の「天橋立図」(京都国立博物館蔵・国宝)には「世野山成相寺」の書き込みとともに当寺が描かれている。本堂は安永三(一七七四)年の再建とあるから、本事件の三十年前といことになり、更にウィキにかく記されているということは本堂は傾いたものの、恐らく補強補修で済んだことを意味している。堂内には中央の厨子内に本尊の聖観音像、向かって左に地蔵菩薩坐像(重要文化財)、右に千手観音立像を安置するが、本尊は三十三年に一度開扉の秘仏である。
・「池の坊」Kiichi Saito氏の「丹後の地名・資料編」の「成相寺(地名)の概要」に引用されている「角川日本地名大辞典」の成相寺の小字名として、「池ノ坊新畑池ノ坊」「別所池ノ坊山」の二つを見出せる。前者か。位置は不明。
・「百間」一八一・八メートル。
・「七八尺」約二メートルから二メートル四〇センチ。
・「三分五分」元の状態から十分の三から、ひどい箇所では二分の一ほどの陥没や地滑りによる段差が生じたことを言うか。
・「宗德養安」不詳。名前からすると僧のようである。成相寺の住持若しくは首座か。識者の御教授を乞うものである。
・「朱墨」朱粉を膠(にかわ)で固めた墨。赤墨。
■やぶちゃん現代語訳
丹後国成相山山裂(たんごのくになりあいやまやまさけ)の事〔松平主計頭(かずえのかみ)殿上申〕
●報告年時
文化元年子年(ねどし)。
●事件現場
松平主計頭(かずえのかみ)宗允(むねただ)殿領分、丹後国宮津城下より北西に二里ほど隔てたところのある、天橋立を見下ろす西国三十三所第二十八番札所として知られた成相寺(なりあひじ)〔本堂に本尊聖観音を安置〕。
●事件の発生
昨年亥年(いどし)の十二月下旬より、現在に至る。
●事件の経過
同寺境内の「池の坊」と称する畑地から、同寺鐘楼堂の下方まで、凡そ百間ほど、大地が裂け、大きな陥没が発生した。
更に当年子年(ねどし)の正月下旬より、同境内に於いて次第に所々で、やはり地面に亀が発生し、場所によっては七~八尺も深い陥入が生じた場所もある。
その後も地面の亀裂や陥穽(かんせい)は、昼夜分かたず断続的に起り、元の状態の三分(ぶ)強、ひどい場所では五分ほども沈下や段差が生じ、谷間のように深く抉られて空ろになってしまった場所も認められた。
●損壊その他
境内の諸堂社(しょどうしゃ)並びに寺院に附帯する住僧らの住居等は、その殆んどが傾いてしまったため、傾斜の著しい箇所及び重要な建物から順に、瓦礫の撤去・補強・片付などを行っている旨(むね)、在所の民及び当藩家来より報告を受けている。
怪我人やその他家畜等の損害はない、との報告を受けている。
以上。
発生した異変についての詳細と幕府へ届け出でたるの主旨(おもむき)
松平主計頭〔花押〕
御老中様へ 申立候(もうしたてそうろう)
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以上、その上申の書面を宗徳養安(しゅうとくやうあん)なる者が届出人として丹後より携帯して参ったものを、全くそのままに手を加えずに書き留めたものである。
なお、実はその上申書には、土地陥没・家屋損壊等に就いて、その被害実態を示す朱墨(しゅずみ)による注記を施した絵図も添えられていたが――災害の発生時の混乱の中で記したためであろうか――これ、きちんとしておらぬ殴り書きのようなものであり、非常に分かり難いものであったがため、その模写は断念した。
以上、根岸鎭衞、記す。