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2013/04/18

北條九代記 北條時政入道の卒去 付 榎島參籠の奇瑞

      ○北條時政入道の卒去 付 榎島參籠の奇瑞

建保三年正月六日、北條遠江守時政入道、卒去せらる。先年、心ならず入道して、天下執権の職を辭し、伊豆國北條郡に引籠りておはせしが、去年の冬の末つ方より癰(よう)と言(いふ)物背中に出來て、腫(はれ)痛む事堪(たへ)難し。本道外科(ほんだうげか)の名醫を招き、補潟割灸(ほしやかつきう)の奇術を盡し、膿水(のうすゐ)を除ひ、肌肉(ひにく)を生ぜしむれども、更に寸效(すんかう)を奏せず、果(はたし)て死に給ひけり。行年七十八歳。一家繁昌の中に於て、一人無常の風に從ひ、閻浮(えんぶ)を辞して、黄泉(くわうせん)に歸(き)す。親疎愁歎の色を含み、貴賤哀傷の思(おもひ)を起す。送葬の營(いとなみ)、孝養の行(おこなひ)、誠に以て深切なり。抑(そもそも)北條家、年に隨て榮え、月を逐(おつ)て威光を増す。この事、故なきにあらず。昔、賴朝卿鎌倉草創の始め、北條時政味方となり、我が娘を合せて婿とし、度々(どゝ)の軍(いくさ)に大功を現(あらは)し、今、三代に及びて、將軍家の外祖たり。一門多く蔓(はびこ)りて、家、富榮(とみさか)ゆる事、云ふ計(ばかり)なし。往初(そのかみ)、時政、榎島(えのしま)に參寵し、三七日を経て家門の繁昌を祈りし所に、滿(まん)ずる夜の曉(あかつき)、緋(ひ)の袴(はかま)に、柳裏(やなぎうら)の衣著たる女房一人、時政が前に來りて仰せられけるは、「汝が過去世(くわこせ)には筥根(はこね)の法師たり。六十六部の法華經を書寫して、六十六ヶ國の靈地に奉納す。此功德、廣大にして、今又、人間(にんげん)に歸り生じたり。子孫、其德用を受け、日本を手に入れて、榮華に誇る家となるべし。若、又、非道あらば、家門、忽(たちまち)に亡ぶべきなり。よくよく愼(つゝしみ)行ふべし。疑(うたがひ)あらば、御經奉納せし靈地を見よ」とて歸り給ふ、其御姿、さしも美麗端正(びれいたんしやう)の粧(よそほひ)替りて、臥長(ふしたけ)二十丈計(ばかり)の大蛇と成りて、海中に入り給ふ。立ち給ひける御跡に鱗を三つ殘し給ふ、時政、願成就すと喜び、彼の鱗を取りて歸り、旗の紋にぞ押されける。北條家三つ鱗形(うろこがた)の紋、これなり。さて國々の靈地に人を遣して、見せらるゝに奉納筥のうへに、大法師時政(じせい)と書きたるにぞ、今俗名に時政と號しけるも、不思議の故ありとかや。

 

[やぶちゃん注:時政の卒去の事実は「吾妻鏡」巻二十二の建保三(一二一五)年一月八日の条によるが、附帯する遡る時政の江ノ島弁天での奇瑞については、「太平記」巻五の「時政榎島に参籠の事」に基づく。最早、政治的には抹殺された時政の死は、「吾妻鏡」でも、以下の通り、如何にもそっけない。過去の人となった彼を、それでもその最期で北条の始祖としてフィード・バックし、その濫觴のシーンを再現顕彰しようとする筆者は、「北條九代記」という本書のコンセプトを、正しく視ている。

○原文

八日戊辰。霽。伊豆國飛脚參。申云。去六日戌尅。入道遠江守從五位下平朝臣〔年七十八。〕於北條郡卒去。日來煩腫物給云々。

○やぶちゃんの書き下し文

八日戊辰。霽る。伊豆國より飛脚參じ、申して云はく、

「去ぬる六日戌尅、入道遠江守從五位下平朝臣〔年七十八。〕北條郡に於て卒去す。日來、腫物を煩ひ給ふと云々。

 

「癰(よう)」は、所謂、ブドウ球菌感染で生じた圧痛のある結節である「おでき」(医学的には癤(せつ)又は癤腫(せつしゅ)と呼び、ドイツ語では“Furunkel”(フルンケル)と呼称する)が皮下で多発し、それらが連続した、癤の集合体病巣を指す。癤よりも化膿が深く、瘢痕を残す。現在の医学的な癰は細菌性皮膚感染症としての皮下膿瘍よりは小さいもの、より浅在性なものをいうが、時政のそれは重い皮下膿瘍や悪性度の高い皮膚癌も射程に入れるべきかも知れない。メルクマニュアル 第18 日本語版の「せつおよび癰」の記載によれば、癤・癰ともに健康な若年成人に発症することがあるが、特に肥満者・免疫不全患者(好中球欠損症を含む)・高齢者に生じる方が多く、また糖尿病患者でも健康な若年成人より発症することが多いと推定されている(私もしばしば軽い同症状起こるのでこれは正しい)。集団発生の場合は比較的衛生状態の悪い密集地区に住む者や、強毒株の感染を受けた患者と接触した者の間で生じることがあるとし、発症素因としては皮膚又は鼻腔内における細菌のコロニー形成・高温多湿な気候・毛包の閉塞または毛包の解剖学的な異常が挙げられ、臨床像は結節又は膿疱で、壊死組織及び血性の膿汁を排出、発熱及び衰弱を伴うことがあると記されている。時政の場合、年齢やⅡ型糖尿病の発症可能性なども十分に窺え、単なる癤や癰であったとしても重症化した可能性がある。

「補潟」東洋医学の鍼灸の経絡治療に於いて「虚実補潟」という考え方があり、その療法を指す。生命力が低下した状態を「虚」、亢進した状態を「実」とし、虚には「補法(ほほう)」、実には「潟法(しゃほう)」を行うことによってバランスをとる。「補法」は気を補う又は気の多い他の場所から少ない場所に運んでくることを、「潟法」は余分な気を散じさせて平にすることを指すという(京都府向日市にある「うらさき鍼灸院の院長ブログ」の「経絡治療について」を参照させて戴いた)。

「割灸」新宿区高田馬場にある「福島鍼灸院」(院長福島賢治氏)のHP内にある「打膿灸について」の記載に、『大きい艾柱、切艾などを用いて皮膚表層を焦灼・破壊し、施灸部に膏薬や発疱薬を貼って皮膚の不完全開放創を持続的につくる灸法。江戸期~戦後の一時期までは、家伝灸としても行われていたが、昨今では一部の灸点所(弘法灸:東京都墨田区の遍照院灸点所、無量寺の灸:大阪市南区の無量寺など)を除いてほとんど行われなくなった』。『施灸局所は、通常、透明または淡白色の薄い膜が張ったような状態を呈する。化膿を起こすブドウ球菌やレンサ球菌などの細菌感染が発生すると、黄色の膿が排出する。打膿灸では、漿液性滲出物の排出を促進するが、黄色の膿汁は期待していないので、化膿時はその部を清潔に保つ』。『本灸法では、施灸時の強い灼熱痛、施灸後の化膿や発熱、瘢痕形成などをみるので事前に十分な説明を行い、必ず本人の理解・承諾を得てから実施する』とあり、また、ウィキの「灸」の歴史の記載にも『日本において鍼、灸、湯液などの伝統中国医学概念は遣隋使や遣唐使などによってもたらされた。灸は律令制度や仏教と共に日本に伝来したが、江戸時代に「弘法大師が持ち帰った灸法」として新たな流行となり、現在も各地に弘法の灸と呼ばれて伝わっている。また他にも「家伝の灸」として無量寺の灸、四ツ木の灸などがある。これらの灸法は打膿灸と呼ばれ、特に熱刺激が強く、皮膚の損傷も激しいため、あまり一般化していない。打膿灸は日本において腰痛や神経痛など様々な症状に用いられるが、実際のところは腫れ物(癰)などに用いたのではないかとも考えられる』とあって、まさに化膿性の癰に対して古い時代には専ら灸が施されていたことが分かる。また、癰が多発した癤の集合体で比較的広範に広がってゆく症状であるから、灸を一箇所ではなく病巣から周辺域に「分割」して据え、しかもその激烈な効果から推測しても相当な量の灸を小分けに「分割」して据えるものと考えられ、この「割灸」の「割」とはそのような施方を述べているのかも知れない。但し、ネット検索では「割灸」という熟語はヒットしなかった。識者の御教授を乞うものである。

「膿水を除ひ、肌肉を生ぜしむれども、更に寸效を奏せず」癰の膿を灸や外科的な切開術によって取り除き、化膿によって壊死した皮肉を切除して、一時的には皮膚を元の状態に戻すことが出来たものの、瞬く間に同箇所やその周辺部に化膿と腫脹が生じ、一向に治療効果が認められなかった、というのである。癰であったとすれば、時政のそれは新たな強毒株のブドウ球菌ででもあったのかも知れない。

 

 以下、「太平記」巻五の「時政榎島に参籠の事」を引く。底本は新潮日本古典集成本を用いたが、恣意的に正字化し、一部のルビを省略、読点を追加した。

 

   時政榎島に參籠の事

 

 時已に澆季(げうき)に及んで、武家天下の權を執(と)る事、源平兩家の間に落ちて度々(どど)に及べり。然れども天道は必ずみてるをかくゆゑに、あるいは一代にして滅び、或いは一世をも待たずして失せぬ。今、相模入道の一家、天下を保つ事、すでに九代に及ぶ。この事ゆゑ有り。

 昔、鎌倉草創のはじめ、北條四郎時政、榎島(えのしま)に參籠して、子孫の繁昌を祈りけり。三七日(さんしちにち)に當りける夜、赤き袴に柳裏(やなぎうら)の衣(きぬ)着たる女房の、端嚴美麗(たんげんびれい)なるが、忽然として時政が前に來たつて、告げていはく、「汝が前生は箱根法師なり。六十六部の法華經を書寫して、六十六箇國の靈地に奉納したりし善根によつて、再び此の土に生(うま)るる事を得たり。されば子孫永く、日本の主と成つて、榮花を誇るべし。ただし、その振舞ひ違ふ所あらば、七代を過ぐべからず。わが言ふ所、不審あらば、國々に納めし所の靈地を見よ」と言ひ捨てて歸りたまふ。その姿をみければ、さしもいつくしかりつる女房、忽ちに伏長(ふしだけ)二十丈ばかりの大蛇(だいじや)と成つて、海中に入りにけり。その跡を見るに、大きなる鱗(いろこ)を三つ、落とせり。時政、所願成就しぬと喜びて、すなはちかの鱗を取つて、旗の文にぞ押したりける。今の三鱗形(みついろこがた)の紋、これなり。その後、辨才天の御示現(ごじげん)にまかせて、國々の靈地へ人を遣はして、法華經奉納の所を見せけるに、俗名(ぞくみやう)の時政を法師の名に替へて、奉納の筒(ばこ)の上に「大法師時政(じせい)」と書きたるこそ不思議なれ。されば今、相模入道七代に過ぎて、一天下を保ちけるも、榎島の辨才天の御利生、またあは過去の善因に感じてんげるゆゑなり。今の高時禪門、すでに七代を過ぎ、九代に及べり。されば亡ぶべき時刻到來して、かかる不思議の振舞いをもせられけるか、とぞ覺えける。

・「澆季」「澆」は軽薄、「季」は末の意で、道徳が衰えて乱れた世。末世。

・「天道は必ずみてるをかくゆゑに」宇宙の道理としての天道にあっては、月が「盈(み)て」(満ち)れば、必ず「虧(か)く」(欠け)ることから分かるように。「易経」に説かれている。

・「三七日」二十一日目。

・「柳裏」裏柳。襲(かさね)の色目の名。表は白、裏は萌葱(もえぎ)の「柳襲」の一種で、春から初夏に用いる。

・「伏長二十丈」横たわって延びた全長が凡そ六十メートル余。

・「かかる不思議の振舞いをもせられけるか」主語は北条高時。本引用部は「相模入道田樂をもてあそび幷(ならび)に鬪犬の事」という、「太平記」の中でもかなり知られた北条高時の奢侈乱行(御所での田楽無礼講に鴉天狗が出現して「天王寺のやえうれぼしを見ばや」と囃すシーンを含む)の話の直後に挿入されている。]

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