耳囊 卷之六 陰德危難を遁し事 ~ 「耳囊 卷之六」了(600話まで完成)
本話は「耳嚢 卷之六」の掉尾である。これを以って「耳嚢」全1000話全注釈の60話までを完成した。
*
陰德危難を遁し事
或武家、兩國を朝通りしに、色衰へし女、欄干の邊をあちこち徘徊せる樣(さま)、身を投(なげ)、入水(じゆすい)を心懸るやと疑はしく、立(たち)よりて其樣を尋しに、綿摘(わたつみ)を業とせるものにて、預りの綿をぬすまれ、我身の愁ひは申(まうす)に及ばず、親方も吳服所への申譯(まうしわけ)なき筋なれば、入水せんと覺悟極(きはめ)し由かたりぬ。いか程の價ひあればつぐのひなりぬるやと尋(たづね)しに、我等が身の上にて急に調ひがたし、三分程あれば、償ひも出來ぬべしと云ひし故、夫は僅(わづか)の事なり、我與へんとて懷中より金三分取出(とりいだ)し、彼(かの)女子に與へしに百拜して歡び、名所(なところ)など聞(きき)けれど、我は隱德に施すなり、名所を云ふに不及(およばず)とて立別れしが、年を隔(へだて)て、川崎とか又は龜戶邊とか、其所は不聞(きかざり)しが、所用ありて渡し場へ懸りしに、彼(かの)女に與風(ふと)出會(であひ)けるに、女はよく覺へて、過(すぎ)し兩國橋の事を語り、ひらに我元へ立寄り給へと乞し故、道をも急げばと斷りしが、切に引留(ひきとどめ)てあたりの船宿へともない、誠に入水と一途に覺悟せしを、御身の御影にて事なく綿代をも償ひ、不思議に助命せしは誠に大恩故、平日御樣子に似候人もやと心がけ尋しなり、我身もみやづかへにて綿摘し事、過し盜難に恐(おそれ)、暇取(いとまとり)て此船宿へ片付(かたづき)けるに、不思議にも今日御目に懸りしも奇緣とやいふべきとて、蕎麥酒抔出し、家内打寄(うちより)て饗應せしに、彼(かの)渡し場にて何か物騷(ものさわが)しき樣子、其譯を尋しに、俄(にはか)に早手(はやて)出(いで)て渡船(わたしぶね)くつがへり、或は溺死、不思議に命助かりしも怪我抔して、大勢より集(あつまり)て介抱せるよし。是を聞(きき)て、誠に此船宿へ彼女に逢(あひ)、被引留(ひきとめられ)ずば、我も水中のうろくずとならん、天道其(その)善に組(くみ)し、隱德陽報の先言(せんげん)むなしからざる事と、人の語りぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:特になし。「耳囊 卷之六」の掉尾である。岩波版長谷川氏注に『落語の「佃祭」に用いられる話で、『譚海』六、『むかしばなし』五、『古今雑談思出草紙』四など類話多し』とある。落語「佃祭」はウィキの「佃祭」(落語)に詳しい。こちらはこの話の後半部のシチュエーションが前半で(主人公は神田の小間物問屋次郎兵衛、救われるのは奉公する女中で恵んだ額は五両、事故現場は佃島からの渡し)、後半はそれを聴いた与太郎が真似して失敗するオチであるが、同解説によれば、本話の原型は『中国明代の説話集『輟耕録』の中にある「飛雲渡」である。占い師より寿命を三十年と宣告された青年が身投げの女を救ったおかげで船の転覆事故で死ぬ運命を免れる話で、落語「ちきり伊勢屋」との類似点もある』(同じウィキの「ちきり伊勢屋」を参照)とあり、更にこの「耳嚢」のことを引き、これも『飛雲渡を翻案した物』であるとし、筆者はこれが落語「佃祭」の系譜のルーツ(の一つ)と推測されているようである)。なお、舞台となった佃の渡しでは明和六(一七六九)年三月四日に藤棚見物の客を満載した渡し船が転覆沈没し、乗客三十余名が溺死しており、これが落語「佃祭」の直接の素材となっているらしい。「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年であるから、この三十年ほどの間に恐らく原「佃祭」が創作され、そのヴァリエーションが、全くの実話として根岸の耳に入った――当時のネットワークの一つのパターンが垣間見られる。「譚海」の話は、主人公は江戸京橋の浪人(の子)で、救われる相手は女ではなく遊里にはまって首が回らなくなった桑名の男で施しは三両、現場は桑名の渡し、「むかしばなし」のそれは主人公は道具屋、救われるのは若夫婦で、現場は本庄の渡しである。この原典から本邦でのインスパイアの歴史については、鈴木滿「『輟耕録』から落語まで」という論文(『武蔵大学人文学会雑誌』第三十四巻第三号所収)が詳細に解き明かしている。必一読。また、鈴木氏のも同論文の中で指摘されてられるが、かなりのひねりが加わった「耳嚢 巻之一 相學奇談の事」等を始めとして、所謂「陰德陽報」譚は、この「耳囊」では相当数数えることが出来る。
・「遁し」「のがれし」。
・「綿摘」小袖の綿入れなどに入れるために綿を摘綿(真綿を平らにひき伸ばしたもの)にする作業のこと。底本の鈴木氏の注が仔細を極めるので、例外的にほぼ全文を引く。『綿を塗桶にかぶせて延ばして薄くする作業。小袖の中に入れる綿、或いは綿帽子をつくるためにする』。但し、これを表向きの『仕事として内実は淫を売る女を、綿摘と呼ぶことも寛文のころからの流行で、宝永ごろ一時やんだが、その後も一部にはあった。文中に出てくる綿摘の女も、礼ごころとはいえ舟宿へ誘うところなど、少し怪しい感じがする』とある。とってもいい注である。
・「償ひ」実は底本は「價ひ」であるが、これでは意味が通らない。岩波のカリフォルニア大学バークレー校版で訂した。
・「金三分」一分金は四枚で一両。現在の金額にすると約五万円前後に相当するか。
・「みやづかへにて」この「みやづかへ」は所謂、「宮仕へ所」で、職場、かの綿摘作業をする作業場の謂いであろう。
・「うろくず」は魚の鱗、魚のこと(但し、仮名遣は誤り)。「うろくづの餌(ゑ)」辺りと「藻屑(もくづ)」との混同か。
・「隱德陽報」人知れず善行を積めば、必ずよい報いとなって現れてくるということ。
・「人の語りぬ」という末尾は、微妙に不自然で、本話がその武士の直談ではないというニュアンスを感じさせる。但し、訳ではわざと直談とて、本話をリアルなものとして示しておいた。それが有象無象の本類話の増殖蔓延を目指す戦略の要めでもあろうと判断するからである。
■やぶちゃん現代語訳
陰徳によって危難から遁れ得た事
ある武士、両国橋を朝方、渡りかけたところ、如何にもやつれて見ゆる一人の女、欄干の辺りをあちらへ一さし、こちらと二さしと歩んでは思案顔、これはもう、身を投げ、入水(じゅすい)を図らんとすると、疑わしき体(てい)なれば、傍らに寄って、
「……御女中……如何致いた?――」
と、穏やかに質いたところ、
「……妾(わらわ)は綿摘(わたつ)みを生業(なりわい)と致す者なれど……預りおいた、さわにあった綿を皆、盗まれて……我が身の途方に暮るるは申すに及ばず……綿摘み元締めの親方も、じきに卸さねばならぬところの呉服屋への申し訳も立たざる仕儀なれば……最早、入水せんと……覚悟を決めて、御座いまする……」
と、消え入りそうな声にて語って御座ったと申す。
あらましを聴いた後(のち)、かの武士、
「……それは……いかほどの値い、これ、あらば――その盗まれた綿の――償いと致すこと、これ、出来ようものじゃ?」
と訊いた。
「……我らが身の上にては……とてものこと……直ぐに調えようのできようような金高(かねだか)にては……これ、御座いませぬ……」
「――いや――幾らかと――と訊いておる。」
「……へえ……三分ほども、あれば……これ、償いも出来ましょうが……」
と答えたゆえ、
「――なに。それは僅かのことじゃ。我らが取らす。」
と、懐中より金三分を取り出だいて、かの女子(おなご)に与えた。
女は、無論、百拝せんほどに歓び、
「……ぜひ、お名前やお住まいなど、お聞かせ下さいまし!」
と乞うたれど、
「――いや――我らはただ隠徳として、これを施すのじゃ。名所(などころ)は言うに及ばぬ。――」
と、踵(きびす)を返して立ち去ったと申す。
さて、それから数年の後のこと。
かの武士が――川崎であったか、亀戸辺であったか、場所は聴き洩らいたが――所用が御座って、とある渡し場へ通りかかった。
すると、あの入水をしかけて御座った、かの女に、そこで偶然、再び出逢(お)うたと申す。
女も、かの武士のことを、よう覚えて御座って、過ぎし日の両国橋での一件を語って謝した上、
「――ひらに! 我らが元へ、是非、お立寄り下さいまし!」
と乞われたによって、
「……いやぁ……道をも急いでおるによって……」
と一旦は断ったものの、しきりに引きとめられ、さればとて近くの船宿へと相い伴って参った。
「――まことに! あの時は、入水せんものと一途に覚悟致いておりましたものを、お武家さまのお蔭にて、無事、盗まれた綿の代(しろ)をも償い、不思議なる御縁によって我らごときをご助命下さいましたは、これ、まっこと、我らにとっての大恩。なればこそ、あれより毎日、ご様子の似申上げて御座らるるお人を見かけては、これは、とせちに心をかけて、貴方さまでは、と訊ね暮らして参りましたので御座います。我が身も――あの頃は世過ぎに綿摘みなど致しておりましたが――過ぎし日の、あの盜難とその難儀の一件にすっかり怖気づきまして、じきに暇(いとま)を貰い、今は、こうして、この船宿を営みまする夫のもとへと片付いて御座います。……ああっ、それにしても! ほんに、不思議にも、今日(きょうび)、お目にかかることが、これ、できました! これも何かの奇縁と申すものに、御座いましょうぞ!……」
と、いたく歓んで、蕎麦やら酒やら肴なんどまで持って来させ、主人(あるじ)や子(こお)などまで家内一同うち寄って、上へ下への大饗宴と相い成って御座った。
そんな中、女が風を入れんと、ふと障子を開けたによって、武士は何気なく岸辺を眺めた。
見れば、かの渡し場の辺りにて、何やらん、物騒がしき様子が見てとれる。
女が宿の者に見に行かせたところが、
「――いやあ! 何でも、にわかに突風が吹きやしてねぇ! 渡し船が、川のど真ん中にて、これ、ひっくり返(け)えったんでごぜえやす! そんでもって、ある者(もん)は溺れ死に、不幸中の幸いと、命の助かった者(もん)も、これまた、ひどい怪我でごぜえやして、へえ! 大勢の者(もん)が、寄ってたかって介抱しておりやしたが……ともかく、いや、もう、とんでもね、大騒ぎで、え!……」
とのことであった。……
「……まっこと、あそこでかの女に逢い、そこであのように引き留められ、かの船宿に参るらずんば、これ、我らも、水の中の鱗(うろくず)の餌(え)となって御座ったに相違御座らぬ。……これぞ、まさに『天道はその善に与(く)みす』『陰徳陽報』と申す、先人らの言(げん)が、これ、虚しき空言(そらごと)にては御座らなんだということ、相い分かり申した。……」
とその御仁が語って御座った。