沢庵宗彭「鎌倉巡禮記」 13
山路十里ばかりゆきて山の高みをたゞちにきりとほしたる道を入ぬれば、鎌倉山を見る峰一そびへたり。是にならびて松のしげみ、これぞ誠の千とせの松よろづ代の鶴岡と覺ゆ。ゆくての右に、芝生のひろき所あり。是は右大將の御殿の跡也とて、民いまにたねものをもまかぬと也。德ほどたふとき物はなし。大將ひとへに威有て德ましまさずば、いかでか今の世までかくあらんや。桀紂はいにしへの人主なれども、威あつて德なければ、今の世の人を發射にたとふればいかる。夷齊は古の餓夫なれども、賢にして道を存すれば、今の世の人を桀紂にたとふれば悦ぶ。德をばねがふべき事也とおもひつゝ見つゝ過ゆけば、漸日も山のはに入相ばかりに鎌倉の里につく。爰をば雪の下といふ。折からあひにあふやどり也。
冬されに宿とひよれは折にあふ 雪の下てふ名さへあやしき
[やぶちゃん注:「山の高みをたゞちにきりとほしたる道」朝比奈切通。この頃は、特に切通道としてのその名は殊更には知られていなかったと考えてよい。
「鎌倉山を見る峰一そびへたり」という叙述があるが、現在の「朝比奈切通」の本ルート及びそこを抜けた後には、このような開けたピークは存在しないから(天園がこのロケーションにしっくりくるのは天園であるが、あまりにもルートがずれ過ぎ、考え難い)、当時の朝比奈のルート自体が、現在のそれ以外に複数存在した(その中に峰から鶴岡を垣間見れる場所があった)とも考えられなくもない。しかし、どうもこれは、底本の句点の打ち方に問題があるように思われる。即ち、ここは、
山路十里ばかりゆきて、山の高みをたゞちにきりとほしたる道を入ぬれば、鎌倉。山を見る。峰、一つそびへたり。是にならびて松のしげみ、これぞ誠の千とせの松よろづ代の鶴岡と覺ゆ。
で、
朝比奈の切通を抜け、十二所に下って、鎌倉に入った。――そうして、さらに胡桃川(滑川)沿いを下って行ったところ、我が眼に高き一峰が見えて参った。さらに行き行きて、そこから連なるところの松の木々の茂りを追って麓の辺りを見透かせば――ああっ、これこそ、かの源家の、まことの千歳(せんざい)の形見たる、鶴岡八幡の宮居じゃ――と感じいって御座った。
ということであろう。この一峰は恐らく、鎌倉最高峰の大平山(現在、頂上付近一帯の天園という呼称の方が知られる)を指しており、さらにその下る尾根の麓辺り、鶴岡八幡宮背後の大臣山(だいじんやま)が見えてくるためには、まさに大倉幕府跡近くまで来る必要があるように思われるから、次文との接続もよい。
「右大將の御殿の跡」大倉幕府跡。現在の清泉女学院付属小学校周辺二〇〇メートル四方。
「桀紂」暴君である夏の桀(けつ)王と殷の紂(ちゅう)王。
「夷齊」「史記」列伝第一に挙げられた殷末の孤竹国(一説に河北省唐山市周辺)の王子の兄弟で、高名な隠者にして儒教の聖人伯夷(はくい)と叔斉(しゅくせい)。彼らを「餓夫」(「がふ」と読むか)と呼んでいるのは、周の武王が父文王の喪の内に紂王を討とうとするのを不忠として諌め、その不忠の君子の国の糧を食むを恥として、首陽山に隠れ、わらび・ぜんまいを食し、遂に餓死して亡くなったことを指しての謂い。
「あひ」頃合い。時節。沢庵の雪の下到着は十一月三日の日暮れ過ぎであった。]

