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2013/04/10

耳嚢 巻之六 好所によつて其藝も成就する事

 好所によつて其藝も成就する事

 

 文化元年の頃、將棋の妙手といひて人の評判せし大橋宗光(そうえい)は、大橋の庶家より出しとはいへど、實は至て鄙賤の町家の悴なるよし。幼年の頃より將棋を好みて、いづれへ子守奉公年季等に出しても勤兼(つとめかね)ける故、古宗桂(こそうけい)にてありしや、渠(かれ)が好む所の將棋を教へしに、幼兒の節より五段三段の者、其術に及ぶ事なし。今や將棋所にても彼(かの)者に及ぶものなしと評判なしけるが、今も、子供にても無段のものにても、外の者と違ひ、將棋さゝんといへばいなまず相手になりて、朝夕も將棋を並べ是を樂しみとなせるよし、天然の上手なるべし。當時茶事(ちやじ)に名高き不白(ふはく)といへる宗匠(そうしやう)も、其いにしへは中間(ちうげん)にてありしが、茶事の家に仕へて、其主人の茶を翫(もてあそ)ぶを朝夕覗きて其業(わざ)を見しを、主人汝は茶を好やと一服たてさせしに、常に心を染みし故にや、其手品(てしな)もしほらしく可稱(しやうすべき)手前故、主人其以後は教へさとしけるに、其好所(このむところ)故や追々上達して、當子(たうね)八十七歳になれるが、東都において茶事の宗匠として、門弟も多く、不白といへば誰(たれ)知らぬものなく、手跡(しゆせき)もあまり見事ならねど、壹枚の墨蹟(ぼくせき)を數金(すきん)にかえて貯ふるもの多し。其好所によりて名をなす事、心得あるべき事と、爰にしるしぬ。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:特に感じさせない。お馴染みの技芸譚シリーズ。

・「好所」「このむところ」と訓じていよう。

・「文化元年」「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年八月。

・「將棋」私は金銀の駒の動かし方も知らぬ門外漢なれば、ウィキの「将棋」の「沿革」より大々的に引用してお茶を濁させて戴く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。

   《引用開始》

古将棋

日本への伝来

 将棋の起源は、古代インドのチャトランガ(シャトランガ)であるという説が最も有力とされている。ユーラシア大陸の各地に広がってさまざまな類似の遊戯に発達したと考えられている。西洋にはチェス、中国にはシャンチー、朝鮮半島にはチャンギ(將棋 : 장기)、タイにはマークルックがある。

 将棋がいつ頃日本に伝わったのかは、明らかになっていない。囲碁の碁盤が正倉院の宝物殿に納められており、囲碁の伝来が奈良時代前後とほぼ確定づけられるのとは対照的である。伝説としては、将棋は周の武帝が作った、吉備真備が唐に渡来したときに将棋を伝えたなどといわれているが、後者に関しては、江戸時代初めに将棋の権威付けのために創作された説であると考えられている。

 日本への伝来時期はいくつかの説があるが、早いもので六世紀ごろと考えられている。最初伝来した将棋は、現在のような平型の駒形ではないという説もある。古代インドから直接日本へ伝来したとする説では、古代インドのチャトランガの流れを汲む立像型の駒であったとされている。東南アジアのマークルックにちかいものが伝播改良されて生み出されたと考えられている。一方、六世紀ごろインドから直接ではなく、中国を経由して伝来したという説では、駒の形状は中国のシャンチー(中国象棋)と同様な平型の駒として伝来したという説もある。チェスでは古い駒ほど写実的であるとされる。アラビア等古い地域において平面の駒がみられる。また今までに立体の日本将棋駒は発見されていない。他説としては、平安時代に入ってからの伝来であったとする説がある。インド→アラビアの将棋からを経て中国のシャンチーそして朝鮮のチャンギ(朝鮮のものは中国由来)が日本に伝わったというものである。しかし平安時代には既に日本に将棋があったという説が有力である。また、駒の形の違い(アラビア、中国などは丸型、チャトランガは市立体像、日本は五角で方向が決まっている)やこれらの駒を線の交点に置くことなど将棋とどれも大きくことなる。これに対し、東南アジアのマークルックは銀と同じ動きの駒があるが、歩にあたるビアの動きがあまりに将棋とは違うことが指摘されている。また、将棋は相手側三列で駒が変化するがマークルックではクン、ルア、コーン、マー、メットとも「成る」ことはない。この点も大きく将棋とは異なる。近年はこの系統の盤戯が中国経由または直接ルートで日本に伝来したとする説がある。また、中国を舞台とした日本と東南アジアの中継貿易は行われていたことから中国経由の伝来は十分に考えられるが、中国での現代のシャンチーの成立時期は平安時代より遅くまた現代のシャンチーはルールも異なる。このため現代中国シャンチーが伝播したものではないと考えられている。いずれにしても日本での、古代の日本将棋に関する文献物証は皆無で、各説は想像の域を出ない。

 

平安将棋

 将棋の存在を知る文献資料として最古のものに、藤原行成(ふじわらのゆきなり(こうぜい))が著した「麒麟抄」があり、この第七巻には駒の字の書き方が記されているが、この記述は後世に付け足されたものであるという考え方が主流である。藤原明衡(ふじわらのあきひら)の著とされる「新猿楽記」(一〇五八年~一〇六四年)にも将棋に関する記述があり、こちらが最古の文献資料と見なされている。

 考古学史料として最古のものは、奈良県の興福寺境内から発掘された駒十六点で、同時に天喜六年(一〇五八年)と書かれた木簡が出土したことから、その時代のものであると考えられている。この当時の駒は、木簡を切って作られ、直接その上に文字を書いたとみられる簡素なものであるが、すでに現在の駒と同じ五角形をしていた。また、前述の「新猿楽記」の記述と同時期のものであり、文献上でも裏づけが取られている。

 三善為康によって作られたとされる「掌中歴」「懐中歴」をもとに、一二一〇年~一二二一年に編纂されたと推定される習俗事典「二中歴」に、大小二種類の将棋がとりあげられている。後世の将棋類と混同しないよう、これらは現在では平安将棋(または平安小将棋)および平安大将棋と呼ばれている。

 平安将棋は現在の将棋の原型となるものであるが、相手を玉将一枚にしても勝ちになると記述されており、この当時の将棋には持ち駒の概念がなかったことがうかがえる。

 これらの将棋に使われていた駒は、平安将棋にある玉将・金将・銀将・桂馬・香車・歩兵と平安大将棋のみにある銅将・鉄将・横行・猛虎・飛龍・奔車・注人である。平安将棋の駒はチャトランガの駒(将・象・馬・車・兵)をよく保存しており、上に仏教の五宝と示しているといわれる玉・金・銀・桂・香の文字を重ねたものとする説がある。さらに、チャトランガはその成立から戦争を模したゲームで駒の取り捨てであるが、平安将棋は持ち駒使用になっていたとする木村義徳の説もある。

 古将棋においては桂馬の動きは、チャトランガ(インド)、シャンチー(中国象棋)、チェスと同様に八方桂であったのではないかという説がある。持ち駒のルールが採用されたときに、他の駒とのバランスをとるために八方桂から二方桂に動きが制限されたといわれている。

 

将棋の発展

 これは世界の将棋類で同様の傾向が見られるようだが、時代が進むにつれて必勝手順が見つかるようになり、駒の利きを増やしたり駒の種類を増やしたりして、ルールを改めることが行われるようになった。日本将棋も例外ではない。

 十三世紀ごろには平安大将棋に駒数を増やした大将棋が遊ばれるようになり、大将棋の飛車・角行・醉象を平安将棋に取り入れた小将棋も考案された。十五世紀ごろには複雑になりすぎた大将棋のルールを簡略化した中将棋が考案され、現在に至っている。十六世紀ごろには小将棋から醉象が除かれて現在の本将棋になったと考えられる。元禄年間の一六九六年に出版された「諸象戯図式」によると、天文年中(一五三二年~一五五五年)に後奈良天皇が日野晴光と伊勢貞孝に命じて、小将棋から醉象の駒を除かせたとあるが、真偽のほどは定かではない。

 十六世紀後半の戦国時代のものとされる一乗谷朝倉氏遺跡から、一七四枚もの駒が出土している。その大半は歩兵の駒であるが、一枚だけ醉象の駒が見られ、この時期は醉象(象)を含む将棋と含まない将棋とが混在していたと推定されている。一七〇七年出版の赤県敦庵著作編集の将棋書「象戯網目」に「象(醉象)」の入った詰め将棋が掲載されている。他のルールは現在の将棋とまったく同一である。

 将棋史上特筆すべきこととして、日本ではこの時期に独自に、日本将棋では相手側から取った駒を自分側の駒として盤上に打って再利用できるルール、すなわち持ち駒の使用が始まった。持ち駒の採用は本将棋が考案された十六世紀ごろであろうと考えられているが、平安小将棋のころから持ち駒ルールがあったとする説もある。近年有力な説としては、一三〇〇年ごろに書かれた「普通唱導集」に将棋指しへの追悼文として「桂馬を飛ばして銀に替ふ」と駒の交換を示す文句があり、この時期には持ち駒の概念があったものとされている。

 持ち駒の起源については、小将棋または本将棋において、駒の取り捨てでは双方が駒を消耗し合い駒枯れを起こしやすく、勝敗がつかなくなることが多かったために、相手の駒を取っても自分の持ち駒として使うことができるようにして、勝敗をつけやすくした、という説が一般的である。

 江戸時代に入り、さらに駒数を増やした将棋類が考案されるようになった。天竺大将棋・大大将棋・摩訶大大将棋・泰将棋(大将棋とも。混同を避けるために「泰」が用いられた)・大局将棋などである。ただし、これらの将棋はごく一部を除いて実際に遊ばれることはなかったと考えられている。 江戸人の遊び心がこうした多様な将棋を考案した基盤には、江戸時代に将棋が庶民のゲームとして広く普及、愛好されていた事実がある。

 将棋を素材とした川柳の多さなど多くの史料が物語っており、現在よりも日常への密着度は高かった。このことが明治以後の将棋の発展につながってゆく。

 

本将棋

御城将棋と家元

 将棋(本将棋)は、囲碁とともに、江戸時代に幕府の公認となった。一六一二年(慶長一七年)に、幕府は将棋指しの加納算砂(本因坊算砂)・大橋宗桂(大橋姓は没後)らに俸禄を支給することを決定し、やがて彼ら家元は、碁所・将棋所を自称するようになった。初代大橋宗桂は五十石五人扶持を賜わっている。寛永年間(一六三〇年頃)には将軍御前で指す「御城将棋」が行われるようになった。八代将軍徳川吉宗のころには、年に一度、十一月十七日に御城将棋を行うことを制度化し、現在ではこの日付(十一月十七日)が「将棋の日」となっている。

 将棋の家元である名人らには俸禄が支払われた。江戸時代を通じて、名人は大橋家・大橋分家・伊藤家の世襲のものとなっていった。現在でも名人の称号は「名人戦」というタイトルに残されている。名人を襲位した将棋指しは、江戸幕府に詰将棋の作品集を献上するのがならわしとなった。

 名人を世襲しなかった将棋指しの中にも、天才が現れるようになった。伊藤看寿は江戸時代中期に伊藤家に生まれ、名人候補として期待されたが、早逝したため名人を襲位することはなかった(没後に名人を贈られている)。看寿は詰将棋の創作に優れ、作品集「将棋図巧」は現在でも最高峰の作品として知られている。江戸末期には天野宗歩が現れ、在野の棋客であったため名人位には縁がなかったが、「実力十三段」と恐れられ、のちに「棋聖」と呼ばれるようになった。宗歩を史上最強の将棋指しの一人に数える者は少なくない。なお、江戸時代の棋譜は「日本将棋大系」にまとめられている。

   《引用終了》

・「大橋宗光」(宝暦六(一七五六)年~文化六(一八〇九)年)底本の鈴木氏注に、『寛政十一年九代目将棋所名人となる。文化六年没。鬼宗英といわれた名手で、近代定跡を始めて統一した』とある(生年は岩波版長谷川氏の記載の享年五十四歳から逆算した)。なお、サイト「DEEP AZABU.com 麻布の歴史・地域情報」の「むかし、むかし8」 の「宮村町の宗英屋敷」に、文化元年頃、『麻布宮村町、増上寺隠居所わきに宗英屋敷と呼ばれる屋敷があった。これは将棋所(幕府の官制で、将棋衆を統括する役。厳密には「名人」と違うが、実際はほぼ同義)の拝領屋敷で主人は織田信長、豊臣秀吉の御前でたびたび将棋を披露し信長から宗桂の名を与えられ』、慶長十七(一六一二)年『に徳川家康から五十石五人扶持を賜った宗桂から数えて大橋家六代目の当主大橋宗英』(ここに西暦の生没年が記されるが私の計算と一致している)『であった。宗英は、現在も江戸期を通して最強の棋士と言われ当時、「鬼宗英」の異名をとった。宗英は大橋分家の五代宗順の庶子で幼少のころ里子へ出されていたが、将棋の才能を認められ、家に呼び戻されたという』。十八歳『で宗英を名乗るが、将棋家の者との対戦は無く、民間棋客との対戦が続き、御城将棋への初勤は』二十三歳『で、将棋家の者としては遅い。しかしその後大成し、その将棋は相掛り戦法や鳥刺し戦法を試みるなど現代の棋士にも通じる将棋感覚で新しい将棋体系の創造に力を尽くしたため、近代将棋の祖といわれる』とある。当該記載は「耳嚢」の本記事も紹介されてあり、宗英について詳述を極める。

・「古宗桂」「古」は「故」の意。底本の鈴木氏注に、『大橋宗桂は明治末年まで十二代続いた。そのうち、初代の宗桂、二代の宗古、五代の宗桂(大橋家中興)、八代宗桂などが名実共に名人といわれる。ここは執筆当時(文化初年)の宗桂が十代目であるから、その先代の九代目であろう。寛政三年五十六歳で将棋所名人位についた。』とある(岩波版長谷川氏の推定同定も同じ)。九代大橋宗桂(寛保四(一七四四)年~寛政一一(一七九九)年)は、ウィキの「大橋宗桂(9代)」によれば、五世名人二代伊藤宗印の孫とし、伊藤家に生まれながら大橋家を継いでいた父の八代宗桂の嫡男として生まれ、十二歳で御城将棋に初出勤する。対戦相手は叔父の初代看寿であったが、飛車香落とされの手合いで勝利している(宝暦一〇(一七六〇)年に初代看寿、翌年に三代宗看が相次いで没して名人位は空位となった)。宝暦一三(一七六三)年には父の八代宗桂との御城将棋初の親子対戦が認められている(右香落とされで敗北)。明和元・宝暦十四(一七六四)年に五段に昇段、同年に七段に昇段した伊藤家の五代伊藤宗印や、翌年の初出勤であった大橋分家五代大橋宗順とは好敵手であり、当時の将軍が将棋好きの徳川家治であったこともあって、名人空位時代でありながら「御好」と呼ばれる対局が盛んに行われるなど将棋界は活気づいた。安永三(一七七四)年に父の八代宗桂が没して家督を継ぎ、この時に宗桂の名も襲名したと思われているが、御城将棋には「印寿」の名のままで出勤している。「浚明院殿御実紀」にも、家治の将棋の相手の一人として「大橋印寿」の名が挙がっている(この頃、大橋分家では安永七(一七七八)年に六代大橋宗英が、伊藤家では天明四(一七八四)年に六代伊藤宗看が御城将棋に初出勤するなど、他家でも世代交代が進んだ)。天明五(一七八五)年に八段に昇段、この頃から「宗桂」の名で御城将棋に出勤している。寛政元(一七八九)年に二十七年間に亙って空位になっていた名人位を継ぎ、当時では比較的高齢な四十六歳で八世を襲位した。この年に宗銀(後の十代宗桂)を養子に迎えた。寛政二(一七九〇)年には六代大橋宗英と平香交じりで対戦し、平手戦で敗れ、この対局は御城将棋では「稀世の名局」と評されるという。寛政九(一七九七)年に最後の御城将棋に出勤二年後に没した、とある。また、「将棋営中日記」には『代々名人の甲乙』として、六代宗英・三代宗看・六代宗看に次ぐ第四位に名が挙げられている、ともある。以上の記述を見ると、疑問を附しながら宗桂が宗英に将棋を教えたという叙述はやや疑問が残るが、本話を読み解く上で非常に貴重なデータであるとは言える。

・「五段三段」将棋の段位は享保二(一七一七)年に「将棊図彙考鑑」に段位の記載がされてからであるとする(ウィキの「将棋の段級」に拠る)。

・「不白」茶人川上不白(享保元・正徳六(一七一六)年~文化四(一八〇七)年)は不白流及び江戸千家流開祖。表千家七代如心斎の命により、江戸へ下って表千家流茶道を「江戸千家」として広めた(ウィキ・トークの「川上不白」に拠る)。

・「當子」文化元(享和四年)の干支は甲子(きのえね)。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 好む所によってその芸も成就するという事

 

 文化元年の頃、「将棋の妙手」と、専ら、人々の評判致いて御座る大橋宗光(そうえい)という御仁は、これ、大橋家の分家の出身と称しては御座れど、実は至ってて身分の賤しい町家の悴れであると申す。

 幼年の頃より将棋を好み、何処へ子守奉公や年季奉公なんどに出しても、これ、全くろくに勤めることが出来ずに御座ったところが、かの名人故宗桂殿ででも御座ったか、この少年の好むところの将棋を、本格的に教えたところが、幼少より将棋の修行を積んで五段や三段に認定されて御座った者でも、かの少年の手には及びようがなく、一人残らず、完敗致いたと申す。

 今や将棋所にてもかの者に及ぶ者は、まず、ないと、専ら評判致いて御座る。

 今も、子供であっても無段の者であっても、外の将棋所の気位の高い者たちとは異なり、将棋を指したし、と乞えば、否まず、相手となって、朝な夕な、将棋を並べて、これのみを楽しみと致いて御座る由。

 全く以って、これ、天然自然の上手という者なので御座ろう。

 また今日(きょうび)、茶事(ちやじ)で名高き川上不白と申さるる宗匠(そうじょう)も、その昔は、賤しき中間(ちゅうげん)で御座ったが、さる茶道の家筋の屋敷に仕えて、その主人の茶を翫(もてあそ)ぶを、これ、朝な夕な、覗き見ては、その手業(てわざ)を見習い、かの主人が、ある時、

「……そなたは、これ、茶(ちゃあ)をお好みか?」

と、水を向け、

「……なら、一服、点(た)てておじゃれ。」

お点てさせたところが、賤しき身ながらも、常に秘かに茶の道に心を傾け、これ、じんわりと染まってでもおったものか、その御点前(おてまえ)、殊の外、雅びにて、文字通り、賞美するに値する御手前で御座ったによって、主人、それ以後は、熱心に茶の奥義を教え諭したと申す。

 されば、その好むところ、よほどの執心の御座ったものか、おいおい上達致いて、当文化元年で八十七歳になって御座るが、江戸に於いて茶事の宗匠として、門弟も多く、不白と申せば誰(たれ)一人知らぬ者とてなき御仁と相い成って御座る。

 その手跡(しゅせき)なんども――私も管見したことが、これ、御座るが、言ってはなんであるが――あまり、その、美事、というほどのものでも御座らぬが、その、不白筆の一枚の墨蹟(ぼくせき)を、数十両で買い求めては、秘蔵しておる者も、これ、多い。

 いや、その好むところによって、名を成すこと、これ、方々、心得あるべきことと、ここに記しおくことと致す。

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