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栂尾明惠上人傳記
[やぶちゃん注:底本は国立国会図書館デジタルラブラリーのパブリック・ドメインである奥田正造編「栂尾明惠上人傳記」(東京・昭和八(一九三三)年)の、画像(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1191363)視認から起こした(この底本は旧所持者が誤植と思われるものを手書きで補正している。肯んずることの出来る箇所はその補正を用いた)。但し、誤読の恐れのない一部のルビについては省略した。割注は同ポイントで〔 〕で示した。
本作は明恵の弟子喜海が著わしたとされる明恵の伝記である。但し、その内容から現在では完本の成立は南北朝期と考えられており、喜海作というのは仮託とされている。
本テクスト化は私の明恵の「夢記」の私訳注附の電子テクスト化プロジェクトに合わせ、その参考資料として供することを専らの目的として開始した。従ってテクスト化スピードを高めるため、ブログ版では原則、注を附さない。将来的にはHP版として注を附したものを目指す。【ブログ始動:2013年4月12日】]
栂尾明惠上人傳記卷上
沙門高辨(しやもんかうべん)は、紀伊の國有田郡石垣の吉原(よしはら)村にして生る。姓は平(たひら)、父重國(しげくに)は高倉院の武者所(むしやどころ)なり。母は藤原宗重(ふじわら)むねしげ)が女(むすめ)なり。治承四年〔庚子〕正月、母におくれ、同九月、父におくれたり。時に八歳にて、二親早世するに依りて、伯母に養育せらる。
そのかみ、父重國、法輪寺に常に參詣して、子息を祈請す。或夜の夢に、童子一人來て告げていはく、「汝が請ふ所の子を與(あた)へん」とて、一の針(はり)を以て耳を刺すと見る。又母、六角堂の觀音に詣で、日を經て堂を遶(めぐ)る事萬遍(まんべん)、其の間
普門品(ふもんぼん)を誦(じゆ)す。祈請(きせい)していはく、「我れ受け難き人身(にんしん)を得たりといへども、女人(によにん)は無智にして必ず人身を失却(しつきやく)せん。願はくは大慈大悲我が後世(ごせい)を助くる程の子一人給へ」と祈念す。承安元年孟夏上旬の比(ころ)、堂前に坐して眠る。夢に人來りて、金果一顆(くわ)を與(あた)ふ。之を取つて懷(ふところ)に入ると見る。其後幾(いくばく)ならずして懷姙す。同三年〔癸巳〕正月八日、辰剋(たつのとき)日出(ひので)の時に誕生す。
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その冒頭から、稀有の「夢記」を残した明恵の出生自体に、まさに父母の夢が関わっている事実に、我々は驚愕せざるを得ない。