北條九代記 千葉介阿靜房安念を召捕る 付 謀叛人白状 竝 和田義盛叛逆滅亡 〈和田合戦Ⅲ 和田義盛死す〉 ~了
義盛が一族郎從は皆、一騎當千の兵共にて、只、討死と思定めたりければ、少もためらふ色はなし。向(むかふ)を打なびけ、掛(かゝ)を追散(おつちら)し、四角八面に邊(あたり)を拂つて、終夜(よもすがら)戰ひ明(あか)せ共、志は撓(たわ)まず、愈(いよいよ)武勇を勵(はげま)しけり。義盛は、老武者なり、數度の戰(たゝかひ)に將軍家よりは新手(あらて)入替り、和田は替る兵なく、戰(たたかひ)疲れ討取らるゝ者、過半にして、殘る兵も、痛手薄手(うすで)負(おひ)ければ、先(まづ)暫く休めとて、前濱(まへはま)の邊にぞ引取りける。足利〔の〕三郎義氏、筑後〔の〕六郎知尚、波多野中務丞(はだののなかつかさのじよう)經朝、鹽田(しほだの)三郎義季等(ら)の軍兵共、中下馬(かなげば)の橋を固め、米町の辻、大町の大路以下、所々を取塞(とりふさ)ぎて、凶徒を攻(せむ)る事、息をも繼(つが)せず。義盛を初(はじめ)て昨日の暮より、今日に至る迄、戰明(たゝかひあか)せ共、兵粮(ひやうらう)をも使はず、馬人共(とも)に疲(つかれ)し所に、横山馬九時兼(よこやまむまのじようときかね)、其婿(くこ)波多野(はだのゝ)三郎、同じく甥の横山五郎以下一門、郎従を引率して、和田が陣に馳來る。軍兵、又、三千騎になりければ、和田は之に力を得て、武藏大路の間(あひだ)、稻村ヶ崎の邊に群りたる、曾我、中村、二宮、河村の者共を散々に追散(おひちら)し、義淸、保忠、義秀三騎の勇兵、轡(くつばみ)を竝べ、掛立々々(かけたてかけたて)打つて廻れば、上總〔の〕三郎、佐々木〔の〕五郎、結城(ゆふきの)左衞門等、馬の足を立兼(たてか)ね、辟易して亂るゝ中に、筑後〔の〕四郎兵衞、壹岐(いきの)兵衞、土方(ひぢかた)次郎、神野(かんのゝ)左近、林内藤次(はやしないとうじ)を初(はじめ)て、二十七騎討たれて、手負(ておひ)は又、數を知らず。土屋大學助義淸、愈(いよいよ)進みて、御所のおはします鶴ヶ岡の別當の坊にうち入らんとする所に、若宮の赤橋の砌(みぎり)にて、流矢飛び来り、頸の骨に箆深(のぶか)に立つ。義淸、目くらみ、心消(きえ)て馬より落つるを、近藤左衞門尉、走り寄りて、首を取る。この義済淸は岡崎〔の〕四郎義實が二男なり、將軍家に恨(うらみ)ありて、和田に属(しよく)して討たれたり。既にその日の酉刻(とりのこく)に成りければ、和田が軍兵、殘少(のおりすくな)に討取られ、人馬共に疲(つかれ)果てて、和田〔の〕四郎左衞門尉義直は伊具馬(いぐまの)太郎盛重に討たれたり。父義盛、之を聞きて、「今は何をか期(ご)すべき。命生(いき)ても甲斐なし」とて、敵を選ばす打つて廻り、江戸〔の〕左衞門尉義範が郎従に組まれてうたれけり。子息五郎兵衞尉義重、六郎義信、七郎秀盛も、所々にして討たれたり。朝夷三郎義秀は、なほこれまでも手も負はず、膚(はだへ)、撓(たわ)まず、力(ちから)つかれざりけれ共、父義盛、その外兄弟郎從等(ら)、悉く討れしかば、今は軍(いくさ)しても詮(せん)なし。時節を待ちて本意を達せんとて、健(すこやか)なる郎從五百餘騎を一所に招(まねき)寄せ、濱面(はまおもて)に打出でつゝ、船六艘に取乘り、安房國に赴き、行方知らず隱れたり。新左衞門尉常盛、山〔の〕内先(せん)次郎、岡崎與一、横出馬允(うまのじよう)、古郡(ふるごほり)左衞門尉、和田〔の〕新兵衞入道は、一方を打破りて落(おち)失せたり。軍、散じて後、打(うち)取る所の首級を、由比浦(ゆひのうら)に梟(か)けられたり。都合二百三十四とそ聞えし。故右大將家より以來(このかた)、忠勤勇武(ようぶ)の輩、打(うち)續きて滅亡し、家門斷絶に及ぶ事も、時運の致す所とは云ひながら、旁(かたがた)以て不祥の瑞(ずゐ)なり。又誰(た)が上にか來るべきと、大名諸侍、口には云はねども、心の安き事はなし。和田が所領を沒收(もつしゆ)して、今度忠戰(ちうせん)の勸賞(けんじやう)に行はれ、諸方に下知して、叛逆(ほんぎやく)の餘黨一類共、悉(ことごとく)、誅せられ、世の中、暫く靜謐に属(しよく)しけり。
[やぶちゃん注:〈和田合戦Ⅲ 和田義盛死す〉
「吾妻鏡」巻二十一の建暦三(一二一三)年五月二日・三日の条に基づく。まず、前の二日の残りを示す。
○原文
凡義盛匪啻播大威。其士率一以當千。天地震怒相戰。今日暮及終夜。見星未已。匠作全不怖畏彼武勇。且弃身命。且勸健士。調禦之間。臨曉更。義盛漸兵盡箭窮。策疲馬。遁退于前濱邊。即匠作揚旗率勢。警固中下馬橋給。又於米町辻大町大路等之切處合戰。足利三郎義氏。筑後六郎知尚。波多野中務次郎經朝。潮田三郎實季等乘勝攻凶徒矣。廣元朝臣者。爲警固御文籍。自法花堂還于政所。路次被副遣御家人等。又侍從能氏。〔高能卿子〕安藝權守範高〔熱田大宮司範雅子〕等求納涼之地。今日逍遙邊土。而聞騷動之由奔參。路巷皆爲戰場。仍兩人共扣馬於山内邊之處。伺義盛退散之隙。參法花堂云々。
○やぶちゃんの書き下し文
凡そ義盛、啻(ただ)に大威を播(あ)ぐるのみに匪(あら)ず、其の士率も一(いつ)を以つて千に當り、天地震怒して相ひ戰ふ。今日も暮れ、終夜に及び、星を見るも未だ已まず。匠作(しやうさく)、全く彼の武勇を怖畏(ふい)せず。且は身命(しんみやう)を弃(す)て、且は健士を勸めて、調へ禦(ふせ)ぐの間、曉更(げうかう)に臨みて、義盛、漸く兵盡き、箭(や)窮(きはま)り、疲馬に策(むちう)つて、前濱の邊に遁れ退く。即ち、匠作、旗を揚げ、勢を率(そつ)して、中下馬橋(なかのげばはし)を警固し給ふ。又、米町の辻、大町大路等の切處(せつしよ)に於いて合戰す。足利三郎義氏・筑後六郎知尚・波多野中務次郎經朝・潮田(うしほだ)三郎實季等、勝つに乘じて凶徒を攻む。廣元朝臣は、御文籍を警固せんが爲に、法花堂より政所に還る。路次(ろし)は御家人等を副へ遣はさる。又、侍從能氏〔高能卿が子。〕・安藝權守範高〔熱田大宮司範雅が子。〕等、納涼の地を求め、今日、邊土を逍遙す。而うして騷動の由を聞きて奔り參るに、路巷、皆、戰場たり。仍つて兩人共に、馬を山内の邊に扣(ひか)ふるの處、義盛退散の隙(ひま)を伺ひ、法花堂へ參ずと云々。
・「匠作」北条泰時。既注。
・「中下馬橋」現在の二の鳥居のある鎌倉警察署前附近にあった。現在は暗渠。
・「切處」一般名詞としては山道などの通行困難な難所の謂いであるが、戦時下であるから、所謂、前線地帯、複数の道路の交差地点や、敵味方の拮抗している大路を指しているようである。
・「侍從能氏・安藝權守範高等、納涼の地を求め、今日、邊土を逍遙す」彼らはこの日の早朝からか(事態からは考えにくい)、前日以前からか、鎌倉御府外の郊外(でなければこの呑気さはあり得ないし、山の内に馬を預けたというのがその証左である)に避暑目的で物見遊山していたのである。彼らの行っていた場所が如何にも気になる。私はつい変なことが気になってしまうのが悪い癖でしてねえ……。
建暦三(一二一三)年五月三日の条。非常に長い。
○原文
三日癸卯。小雨灑。義盛絶粮道。疲乘馬之處。寅尅。横山馬允時兼引率波多野三郎。〔時兼聟〕横山五郎〔時兼甥〕以下數十人之親昵從類等馳來于腰越浦之處。既合戰最中也。〔時兼與義盛。叛逆事謀合時。以今日定箭合期。仍今來〕仍其黨類皆弃蓑笠於彼所。積而成山云々。然後加義盛陣。義盛得時兼之合力。當新覊之馬彼是軍兵三千騎。尚追奔御家人等。辰尅。曾我。中村。二宮。河村之輩如雲騷。如蜂起。各陣于武藏大路及稻村崎邊。自法花堂御所。雖有恩喚。義兵有疑貽之氣。無左右不能參上。欲被遣御教書之比。數百騎之中。波多野彌次郎朝定乍被疵應此召。參石橋之砌書之。彼御教書〔被載將軍御判〕者。以安藝國住人山太宗高爲御使被遣之間。軍兵令拜見之。悉以參御方。又千葉介成胤引率黨類馳參。巳尅。被遣御書於武藏以下近國。有被仰下可然御家人等事。相州。大官令連署之上。所被載御判也。其狀云。
きん邊のものに。このよしをふれて。めしくすへきなり。わたのさゑもん。つちやのひやうゑ。よこ山のものとも。むほんをおこして。きみをいたてまつるといへとも。へちの事なき也。かたきのちりちりになりたるを。いそきうちとりてまいらすへし。
五月三日 巳尅 大膳大夫
相摸守
某殿
同時。向大軍於濱而合戰。義盛重擬襲御所。然而若宮大路者。匠作。武州防戰給。町大路者。上総三郎義氏。名越者。近江守賴茂。大倉者。佐々木五郎義淸。結城左衞門尉朝光等。各張陣之間。無據于擬融。仍於由比浦幷若宮大路。合戰移時。凡自昨夕至此晝。攻戰不已。軍士等各盡兵略云々。御方兵有由利中八大郎維久者。弓箭之道足譽也。於若宮大路。射三浦之輩。其箭註姓名。古郡左衞門尉保忠郎從兩三輩中此箭。保忠大瞋兮。取件箭射返之處。立匠作之鎧草摺之間。維久令與義盛。奉射御方大將軍之由。披露云々。鎭西住人小物又太郎資政攻入義盛之陣。爲義秀被討取。是故右大將家御時。被征高麗之大將軍也。又出雲守定長折節祗候之間。雖非武勇之家。殊盡防戰之忠。是刑部卿賴經朝臣孫。左衞門佐經長男也。又日光山別當法眼弁覺〔俗名大方余一〕引率弟子同宿等於町大路。與中山太郎行重相戰。小時行重迯奔云々。長尾新六定景之子息太郎景茂。次郎胤景等。相逢于義淸。惟平鬪諍。而胤景舍弟小童〔字江丸。年十三〕自長尾馳參。加兄陣施武藝。義淸等感之。對彼不發箭云々。義淸。保忠。義秀等並三騎轡。攻四方之兵。御方之軍士退散及度々。仍匠作以小代八郎行平爲使者。被申法花堂御所云。雖似有多勢之恃。更難敗凶徒之武。重可被廻賢慮歟云々。將軍家太令驚之給。防戰事。猶以擬被評議。于時廣元朝臣令候政所之間。有其召。而凶徒滿路次。非無怖畏。賜警固武士。可參上之由。依申之。被遣軍士等之時。廣元〔水干葛袴〕參上之後。及御立願。廣元爲御願書執筆。其奥以御自筆。被加二首歌。即以公氏。彼御願書。被奉於鶴岳。當斯時。大學助義淸自甘繩入龜谷。經窟堂前路次。欲參旅御所之處。於若宮赤橋之砌。流矢之所犯。義淸亡命。件箭自北方飛來。是神鏑之由謳歌。僮僕取彼首。葬于壽福寺。義淸依爲當寺本願主也。是岡崎四郎義實二男。母中村庄司宗平女也。建暦二年十二月卅日任大學權助。法勝寺九重塔造營功云々。酉尅。和田四郎左衞門尉義直。〔年卅七〕爲伊具馬太郎盛重被討取。父義盛〔年六十七〕殊歎息。年來依令鍾愛義直所願祿也。於今者。勵合戰無益云々。揚聲悲哭。迷惑東西。遂被討于江戸左衞門尉能範所從云々。同男五郎兵衞尉義重。〔年卅四〕六郎兵衞尉義信。〔廿八〕七郎秀盛。〔十五〕以下張本七人共伏誅。朝夷名三郎義秀。〔卅八〕幷數率等出海濱。棹船赴安房國。其勢五百騎。船六艘云々。又新左衞門尉常盛。〔四十二〕山内先次郎左衞門尉。岡崎余一左衞門尉。横山馬允。古郡左衞門尉。和田新兵衞入道。以上大將軍六人。遁戰場逐電云々。此輩悉敗北之間。世上屬無爲。其後。相州以行親。忠家。被實檢死骸等。構假屋於由比浦汀。取聚義盛以下首。及昏黑之間。各取松明。又相州。大官令承仰。被發飛脚。遣御書於京都。兩人連署之上。所被載將軍家御判也。是義盛雖令伏誅。餘黨之令紛散。未知其存亡。凡京畿之間。有骨肉。不日無羂索之儀者。難斷後昆狼唳也。御書之樣。
和田左衞門尉義盛。土屋大學助義淸。横山右馬允時兼。すへて相摸の者とも。謀叛をおこすといへとも。義盛殞命畢。御所方別の御事なし。しかれとも。親類多きうへ。戰場よりもちりぢりに成よしきこしめす。海より西海へも落行候ぬらん。有範。廣綱おのおのそなたさまの御家人等ニ。この御ふみの案をめくらして。あまねくあひふれて。用意をいたして。うちとりてまいらすへき也。
五月三日 酉尅 大膳大夫
相摸守
佐々木左衞門尉殿
又昨今兩日。致合戰之輩。多以參匠作御亭。々主勸盃酒於件來客給。此間被仰云。於飮酒者。永欲停止之。其故者。去朔日入夜。有數獻會。而曉天〔二日〕義盛襲來刻。憖以著甲冑。雖令騎馬。依淵醉之餘氣。爲惘然之間。向後可斷酒之由。誓願訖。而度々相戰之後。爲潤喉尋水之處。葛西六郎〔武藏國住人〕取副小筒與盞勸之。臨其期。以前之意。忽變用之。至盞者給景綱〔尾藤次郎〕人性於時不定。比興事也。但自今以後。猶不可好大飮云々。
○やぶちゃんの書き下し文(途中に語注を附した)
三日癸卯。小雨灑(そそ)ぐ。義盛、粮道(らうだう)絶へ、乘馬疲(つか)らかすの處、寅の尅、横山馬允時兼、波多野三郎〔時兼が聟。〕・横山五郎〔時兼が甥。〕以下數十人の親昵(しんぢつ)從類等を引率し、腰越の浦に馳せ來るの處、既に合戰の最中なり。〔時兼と義盛、叛逆の事を謀り合はすの時、今日を以つて箭(や)合はせの期(ご)と定む。仍つて今來たる。〕仍つて其の黨類、皆、蓑笠を彼の所に於いて弃つるに、積みて山を成すと云々。
[やぶちゃん語注:
・「寅の尅」午前四時頃。]
然る後、義盛が陣に加はる。義盛、時兼の合力(かふりよく)を得、新覊(しんき)の馬に當る。彼れ是れ、軍兵三千騎、尚ほ御家人等を追奔(ついほん)す。
辰の尅、曾我・中村・二宮・河村の輩、雲のごとくに騷ぎ、蜂のごとくに起りて、各々武藏大路及び稻村崎(いなむらがさき)の邊に陣す。法花堂の御所より、恩喚(おんくわん)有ると雖も、義兵、疑貽(ぎたい)の氣有りて、左右(さう)無く參上に能はず。御教書を遣はされんと欲するの比(ころ)、數百騎の中、波多野彌次郎朝定、疵を被り乍らも此の召しに應じ、石橋の砌りに參じて之を書く。彼(か)の御教書(みきやうしよ)〔將軍の御判を載せらる。〕は、安藝國住人山太(やまた)宗高を以つて、御使を遣はさるるの間、軍兵、之を拜見せしめ、悉く以つて御方(みかた)に參ず。又、千葉介成胤、黨類を引率して馳せ參ず。巳の尅、御書を武藏以下の近國へ遣はされ、然るべき御家人等に仰せ下さるる事有り。相州・大官令連署の上、御判を載せらるる所なり。其の狀に云はく、
近邊の者に、この由を觸れて、召し具すべきなり。和田左衞門・土屋兵衞・横山の者ども、謀叛を起こして、君を射奉ると雖も、別(べち)の事なきなり。敵(かたき)の散々になりたるを、急ぎ討ち取りて參らすべし。
五月三日 巳尅 大膳大夫
相摸守
某殿
同じ時、大軍を濱に向けて合戰す。義盛、重ねて御所を襲はんと擬す。然れども、若宮大路は、匠作・武州、防戰し給ふ。町大路(まちおほぢ)は、上総三郎義氏、名越は、近江守賴茂、大倉は、佐々木五郎義淸、結城左衞門尉朝光等、各々陣を張るの間、融(とほ)らんと擬するに據無(よんどころな)し。仍つて由比の浦幷びに若宮大路に於いて、合戰、時を移す。凡そ昨夕より此の晝に至り、攻め戰ふこと已まず。軍士等、各々兵略を盡すと云々。
御方の兵に由利中八大郎維久といふ者有り。弓箭(きうぜん)の道、譽れに足るなり。若宮大路に於いて、三浦の輩を射る。其の箭(や)に姓名を註(しる)す。古郡(ふるこほり)左衞門尉保忠が郎從、兩三輩、此の箭に中(あた)る。保忠、大いに瞋(いか)りて、件の箭を取り射返すの處、匠作の鎧の草摺に立つの間、
「維久、義盛に與せしめ、御方の大將軍を射奉る。」
の由、披露すと云々。
[やぶちゃん語注:
・「新覊の馬に當る」「覊」は「羈」でおもがい(馬の頭部に附ける馬具)であるから、新たに元気な兵馬を得たのと同じである、の意。
・「辰の尅」午前八時頃。
・「恩喚」貴人が目下の者を呼び寄せること。
・「疑貽」疑殆が正しい。原義は疑い危ぶむ、の謂いであるが、解決困難な混乱状況を指している。
・「御教書」三位以上及びそれに准ずる地位にある人の家司が、主の意思を奉じて発給した文書。
・「巳の尅」午前十時頃。
・「相州・大官令」「相摸守」北条義時と「大膳大夫」大江広元。
・「武州」北条時房。]
鎭西の住人、小物(こもの)又太郎資政、義盛の陣に攻め入り、義秀の爲に討ち取らる。是れ、故右大將家の御時、高麗を征せらるの大將軍なり。又、出雲守定長、折節(おりふし)、祗候(しこう)するの間、武勇の家に非ずと雖も、殊に防戰の忠を盡す。是れ、刑部卿賴經朝臣の孫、左衞門佐經長が男なり。又、日光山別當法眼弁覺〔俗名、大方(おほかた)余一。〕、弟子や同宿等を引率し、町大路に於いて、中山太郎行重と相ひ戰ひ、小時(しばら)くあつて行重、迯れ奔(はし)ると云々。
[やぶちゃん語注:
・「高麗を征せらる」「歴散加藤塾」の「吾妻鏡入門」の同条注に『実は鬼界嶋で現在の喜界島』とある。喜界島を代表する南西諸島の島嶼地域が何らかの形で強い独立性を示し、幕府に抵抗していたということか。
・「町大路」大町大路。西の端が現在の長谷甘縄から東町の盛久頸座(もりひさくびざ)付近で、東の端が名越の横須賀線踏切長勝寺付近で、現在の下馬四角で若宮大路と交差しており、この一帯が当時の鎌倉市街の繁華街であった。]
長尾新六定景の子息太郎景茂・次郎胤景等、義淸・惟平の相ひ逢ひ、鬪諍(とうじやう)す。而るに胤景が舍弟の小童(こわらべ)〔字(あざな)は江丸(かうまる)。年十三。〕、長尾より馳せ參じ、兄の陣に加はり、武藝を施す。義淸等、之に感じ、彼に對し、箭を發たずと云々。
[やぶちゃん注:「長尾」現在の神奈川県横浜市栄区長尾台。現在の大船駅西の直近。]
義淸・保忠・義秀等三騎、轡(くつばみ)を並べて、四方の兵を攻め、御方の軍士の退散、度々に及ぶ。仍つて匠作、小代八郎行平を以つて使者と爲し、法花堂の御所へ申されて云はく、
「多勢の恃(たの)み有るに似たりと雖も、更に凶徒の武を敗り難し。重ねて賢慮を廻らさるべきか。」
と云々。
[やぶちゃん注:「賢慮」何らかの新たな攻略法。具体的には鎌倉御府外への増強援軍要請を実朝に求めているのであろう。が、実朝がやったのは神頼みだった。が、それがまたプラシーボ効果を齎すのであるが。]
將軍家は、太(はなは)だ之を驚かしめ給ふ。防戰の事、猶ほ以つて評議せられんと擬す。時に廣元朝臣、政所へ候ぜしむるの間、其の召し有り。而るに凶徒路次に滿つ。怖畏(ふい)無きに非ず。警固の武士を賜はりて、參上すべきの由、之を申すに依つて、軍士等を遣はさるるの時、廣元〔水干、葛袴。〕參上の後、御立願(りつぐわん)に及ぶ。廣元、御願書の執筆(しゆひつ)たり。其の奥に御自筆を以つて、二首の歌を加へらる。即ち、公氏を以つて、彼の御願書を鶴岳に於いて奉らる。斯(こ)の時に當り、大學助義淸、甘繩(あまなは)より龜谷(かめがやつ)に入り、窟堂(いはやだう)の前の路次(ろし)を經、旅御所に參ぜんと欲するの處、若宮の赤橋の砌りに於て、流矢、義淸を犯す所、命を亡(うしな)ふ。件の箭、北方より飛び來る。是れ、神の鏑の由、謳歌す。僮僕、彼の首を取り、壽福寺に葬る。義淸、當寺の本願主たるに依つてなり。是れ、岡崎四郎義實が二男、母は中村庄司宗平が女なり。建暦二年十二月卅日、大學權助に任ぜらる。法勝寺九重塔造營の功と云々。
酉の尅、和田四郎左衞門尉義直〔年卅七。〕、伊具馬(いぐま)太郎盛重の爲に討ち取らる。父義盛〔年六十七。〕、殊に歎息す。
[やぶちゃん注:「酉の尅」午後六時頃。]
「年來、義直を鍾愛(しようあい)せしむに依つて祿を願ふ所なり。今に於ては、合戰に勵むも無益。」
と云々。
[やぶちゃん注:
・「鍾愛」寵愛。「鍾」は集めるの意。
・「祿を願ふ」(継がせるために)ひたすら領地を所望してしてきた。]
聲を揚げて悲哭し、東西に迷惑す。遂に江戸左衞門尉能範が所從に討たると云々。
同男五郎兵衞尉義重〔年卅四。〕・六郎兵衞尉義信〔廿八。〕・七郎秀盛〔十五。〕以下の張本七人、共に誅に伏す。朝夷名三郎義秀〔卅八。〕幷びに數率等、海濱へ出で、船に棹さして安房國へ赴く。其の勢五百騎、船六艘と云々。
[やぶちゃん注:ここで遁走した私の好きな「朝夷名三郎義秀」は行方を晦まし、遂には伝説の彼方へと去ってゆくのである。]
又、新左衞門尉常盛〔四十二。〕・
山内先次郎左衞門尉・岡崎余一左衞門尉・横山馬允・古郡左衞門尉・和田新兵衞入道、以上大將軍六人は、戰場を遁れ、逐電すと云々。
此の輩、悉く敗北するの間、世上、無爲(ぶゐ)に屬す。其の後、相州は行親・忠家を以つて、死骸等を實檢せらる。假屋(かりや)を由比の浦の汀(みぎは)に構へ、義盛以下の首を取り聚(あつ)む。昏黑(こんこく)に及ぶの間、各々松明を取る。又、相州・大官仰せを承はり、飛脚を發せられ、御書(おんしよ)を京都に遣はす。兩人連署の上、將軍家の御判を載せらるる所なり。是れ、義盛、誅に伏せしむと雖も、餘黨の紛散せしむる、未だ其の存亡を知らず。凡そ京畿の間に、骨肉有り。不日(ふじつ)に羂索の儀無くんば、後昆(こうこん)の狼唳(らうれい)を斷ち難きなり。御書の樣(さま)、
和田左衞門尉義盛・土屋大學助義淸・横山右馬允時兼、總て相摸の者共、謀叛を起こすと雖も、義盛、命を殞(おと)し畢んぬ。御所方、別(べち)の御事なし。然れども、親類多き上、戰場よりも散々に成る由、聞し召す。海より西海へも落ち行き候ひぬらん。有範・廣綱、各々そなた樣の御家人等に、この御文の案を廻らして、遍く相ひ觸れて、用意を致して、討ち取りて參らすべきなり。
五月三日 酉尅 大膳大夫
相摸守
佐々木左衞門尉殿
又、昨今兩日、合戰致すの輩、多く以つて匠作の御亭へ參ず。亭の主、盃酒を件(くだん)の來客に勸め給ふ。此の間、仰せられて云はく、
「飮酒に於いては、永く之を停止(ちようじ)せんと欲す。其の故は、去る朔日(ついたち)、夜に入り、數獻(すこん)の會有り。而るに曉天〔二日。〕、義盛襲ひ來たるの刻(きざみ)、憖(なまじ)ひに以つて甲冑を著し、騎馬せしむと雖も、淵醉(えんずい)の餘氣に依つて、惘然(ばうぜん)と爲すの間、向後、斷酒すべきの由、誓願し訖んぬ。而るに度々相ひ戰ふの後、喉を潤さんが爲に、水を尋ぬるの處、葛西六郎〔武藏國の住人。〕、小筒(ささえ)と盞(さかづき)を取り副(そ)へ、之を勸む。其の期(ご)に臨み、以前の意(こころ)、忽ちに變じて、之を用う。盞に至りては、景綱〔尾藤次郎。〕に給ふ。人の性(しよう)、時に於て不定(ふじやう)、比興(ひきやう)の事なり。但し、今より以後、猶ほ大飮を好むべからず。」
と云々。
[やぶちゃん語注:
・「無爲に屬す」平静に戻った。
・「不日に」すぐに。
・「羂索」捕縛。「羂」は罠の意で、元は鳥獣を捉えるトラップのこと。
・「後昆の狼唳」「後昆」は「後」も「昆」も、後(のち)の意で、子孫後裔のこと。「狼唳」狼の如く凶悪で道理に背く行為・狼藉で後代の禍根の意。
・「曉天」とあるが、二日の和田の御所包囲(その際に初めて泰時の名が挙がっている)は「酉の尅」(午後六時)で齟齬する。このオチのエピソード自体が如何にもな作話っぽい。人徳の人泰時の逸話としては、血糊と死臭の中で演じられるこの軽いノリは、私にはおぞましいワン・シーンで好きになれぬ。
・「淵醉」単なる酒宴の意味で用いているが、本来、これは宮中の清涼殿殿上の間に殿上人を召して催した酒宴を指す。参会者は朗詠や今様などを歌い、歌舞を楽しんだ。正月三が日中の吉日又は新嘗祭などの後に行われた宮中行事の名称である。]
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