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2013/04/17

耳嚢 巻之六 奸婦不顧恩愛事

 奸婦不顧恩愛事

 

 文化元子年七月盆中、ある與力を勤る人、菩提所淸障寺へ佛參して墓所に至りしに、歷々と見ゆる尤(もつとも)ら敷(しき)武士、未(いまだ)石塔も不立(たてざる)塚の前にて何歟(か)あるが如く口説(くどき)て、殊外(ことのほか)愁傷の體(てい)、數行(すうかう)の涙の樣子故、其脇を過(すぎ)んもいかゞと咳ばらひなどしければ、彼(かの)侍涙を拂ひて、暫く石牌(せきはい)にむかひて居(をり)し故、彼與力も盆拜(ぼんはい)をわりて立(たち)歸る頃、殊外暑(しよ)も強く候故、愛宕(あたご)の水茶屋に腰うちかけて休み居しが、彼侍も同じく來りて、水茶屋に腰うちかけぬる體、國家(こつか)の家來と見へて若黨抔兩人召(めし)連れたるが、與力を見て、扨々先刻は淸障寺墓所にて、侍に不似合(にあはざる)、未錬の落涙の體を御目にかけ、はずかしく存(ぞんじ)候と申ける故、何ぞ左存可申(さぞんじまうすべき)、御愛子(ごあいし)抔を失はれし故ならんと尋(たづね)しに、御察しの通り、四歳になりし娘を失ひしが、右の娘は某(それがし)が命に代りしもの故、其愁傷やみがたく、先刻の體なるといひて、いろいろ世の中のはかなき事抔咄し合けるが、何をか隱さん、我等は熊本家中にて、當春主人用向(ようむき)にて在所へ罷越(まかりこし)、當六月歸りしに、其日は家中知音(ちいん)一族も歸府を悦びて祝し、夜に入(いる)迄酒飮(のみ)て、客も散じける故やがて臥しなんと、一間へ床とらせけるに、四歳の娘、何か某をとゞめ側を不放(はなれざる)故、一所に臥(ふせ)り可申(まうすべし)とてともに床の内へ入れしに、彼(かの)娘片言(かたこと)に、かゝとゝを切ると、ひたものいひし故、いかなる事やと不思議に思ひしに、彼娘は寢入たる故、某も枕をとりしに、何か忍(しのぶ)體の音せし故、心を付(つけ)て娘は片脇(かたわき)へうつし、心をしづめて見し所、蚊帳の釣手(つりで)を四方切落(きりおと)し屛風を押倒す樣子故、密(ひそか)に寢間を拔出(ぬけいで)て枕刀(まくらがたな)を取居(とりをり)しに、やがて右屛風の上へ乘りて、刀を以(もつて)、屛風蚊帳越しにさし通すものありし故、拔打(ぬきうち)に切りしに、大伽裟(おほげさ)に打(うち)はなしける間(あひだ)、盜賊忍入(しのびいり)たり、出合(であへ)と呼(よばは)りしに、召仕(めしつか)ひ共(ども)火を燈し來(き)、娘も右の物音にて目覺(めざめ)、起出(おきいで)しを、妻成(なる)女、娘を捕へ、おのれ口走りたるならんと、九寸五分(くすんごぶ)にて娘のむなもとを突通(つきとほ)す故、是又其席にて妻を及切害(せつがいにおよび)、扨又最初の死骸を改めしに、召仕ひの若黨なり、全右(まつたくみぎ)若黨と妻姦通して、我を盜賊の所爲(しよゐ)の體にて殺しなんとの巧成(たくみなる)べし、彼娘なかりせば、某は姦婦姦人の爲に殺されんと存(ぞんじ)候故、今日娘の墓にまふで、思はず未鍊の歎きをなせしを、御身の目にかゝりしとかたりしが、名は不問(とはざり)しが、恐ろ敷(しき)女もあると、彼與力が許へ來れるものに、語りしとなり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:感じさせない。この話柄、姦婦の非情無慙なることよりも、頑是ない満三才の娘の誠心と人畜生たる鬼母による惨殺の悲劇、それを傷む父の涙こそが話柄の眼目である。内容の極めてしみじみとして良質なコントであるだけに、標題が今一つ気に入らぬのである。

・「奸婦不顧恩愛事」は「かんぷおんあいをかへりみざること」と読む。

・「文化元子年七月盆中」「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年八月であるから、一月前の出来事である。

・「淸障寺」底本には「障」の右に『(淨カ)』と注する。清浄寺というと綱吉が寵愛した側室お伝の方の父の菩提を弔うために創建した覚了山清浄寺世尊院があるが、これは駒形村(文京区千駄木)で、次に登場する「愛宕」(港区愛宕山)とは、余りにもかけ離れている。ただ、岩波のカリフォルニア大学バークレー校版でも実は『清浄寺』である。しかし乍ら、長谷川氏はこの注に、『後文に愛宕の水茶屋があるから、万年山青松寺』ではないか、と推測されておられる。青松寺(せいしょうじ)は、ウィキの「青松寺」によれば、東京都港区愛宕二丁目にある曹洞宗の寺院で、山号は萬年山(ばんねんざん)と読み、江戸府内の曹洞宗の寺院を統括した江戸三箇寺の一つで、太田道灌が雲岡舜徳を招聘して文明八(一四七六)年に創建、『当初は武蔵国貝塚(現在の千代田区麹町周辺の古地名)にあったが、徳川家康による江戸城拡張に際して現在地に移転した。しかし移転後も長く「貝塚の青松寺」と俗称されていた。長州藩、津和野藩などが江戸で藩主や家臣が死去した際の菩提寺として利用した』。私も長谷川氏の見解を採る。現代語訳では勝手に「青松寺」とさせてもらった。

・「愛宕」愛宕山。東京都港区愛宕にある丘陵で、標高は二五・七メートル。山上にある愛宕神社は江戸の武士が深く信仰し、山頂からの江戸市街の景観の素晴らしさでも有名な場所であった。参照したウィキの「愛宕山」によれば、慶長八(一六〇三)年にこれから建設される江戸市街の防火のため、徳川家康の命で祀られた神社であったが、「天下取りの神」「勝利の神」としても知られ、各藩武士たちは地元へ祭神の分霊を持ち帰り各地で愛宕神社を祀った、とある。

・「未鍊」底本には「鍊」の右に『(練)』と補正注がある。終わりの方にある「未鍊」も同じ。

・「熊本家中」熊本藩。肥後藩とも呼ばれる。五十四万石。文化元(一八〇四)年当時の藩主は細川斉茲(なりしげ)。ウィキの「熊本藩」によれば、同藩『には上卿三家といわれる世襲家老がおかれていた。松井氏(まつい:歴代八代城代であり、実質上の八代支藩主であった)・米田氏(こめだ:細川別姓である長岡姓も許されていた)・有吉氏(ありよし)の三家で、いずれも藤孝[やぶちゃん注:細川藤孝(ふじたか)。細川家先祖で戦国大名として知られた細川幽斎のこと。]時代からの重臣である。そのほか一門家臣として細川忠隆の内膳家と、細川興孝の刑部家があった。支藩としては、のちに宇土支藩と肥後新田支藩(のち高瀬藩)ができた』とあり、「歷々と見ゆる尤ら敷武士」であるなら、もしかすると、この悲劇の武士は、ここ挙げられた中の一族の家士、いや、この一族の誰彼ででもあったのかも知れない。

・「大伽裟」底本には「伽」の右に『(袈)』と補正注がある。

・「九寸五分」は本来は鎧通しと呼ばれる刃渡り約二十九センチメートルの短刀を指すが、ここでは妻が用いているので、女性が護身用に帯にさしたもっと短い短刀、懐剣のことを指す。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 鬼畜の姦婦の父子の恩愛に聊かの情も恥も持たざる事

    ――若しくは父を救わんがために自らの命を落とした頑是ない三歳の少女の物語

 

 文化元年子年(ねどし)七月の盆の頃、ある与力を勤むる者、菩提所の青松寺(せいしょうじ)へ参詣致いて墓所へと参ったところ、相当な御身分とお見受け申す御武家が、未だ石塔も建っておらぬ新仏(にいぼとけ)の塚の前にて、訳ありにて、何事かを霊前に語っては、殊の外、愁傷の体(てい)にて御座って、果ては数行(すうこう)の涙をさえ流しておらるるところに出食わしてしもうたと申す。

『……あの脇を、全くそ知らぬ振りを致いて通り過ぐるも、これ、如何なものか……』

と存じた与力、わざと咳払いなんどを致いて、通り抜けようと致いた。

 すると、その声に気づいたかの侍は、涙をうち拭って御座ったと申す。

 与力は、その後、自家の墓を参り、そのところより、見るともなしに先の御武家を窺ってみると、暫らく、その仮に立てた小さき石の牌(はい)に向こうて、凝っと佇んで御座ったが、心に残って御座ったと申す。

 さて、かの与力も盆の参りを終えて寺を後に致いたが、丁度、その日は、殊の外、暑さも暑し、やりきれぬ程の炎暑にて御座ったれば、愛宕山(あたごやま)下の水茶屋の縁台に腰を下ろして、一休みしておったところが、かの先の侍も、たまたま同じ道を通って、その同じ水茶屋の、近くの縁台に腰を下ろして御座った。

 見たところ、何処(いずこ)かの地方の大藩の御家来と見えて、若党などを二人ほど召し連れておられた。

 その侍が当の与力を見掛け、

「……さてさて……先刻は青松寺墓所にて、侍に似合わざる、未練落涙の体(てい)、お目に掛け、お恥ずかしゅう御座った。……」

と申したゆえ、

「――いや、なにを申されます。御愛子(ごあいし)など、亡くされたものででも御座いましょう。……」

と返したところ、

「……お察しの通り、四歳になりました娘を失(うしの)うて……その娘は……某(それがし)の命に代わって……命を落といたものにて……御座ったればこそ……その愁傷止み難く……先刻の体(てい)たらくにて御座った。……」

と応えられた。

 それから暫くは、人の世の如何にも儚き無常のことなんど、形ばかりに言い交してはお茶を濁して御座ったが、ふと、その侍が語り出だいた。……

 

 ……何をか隠しましょうぞ……我等は熊本藩御家中にて、この春、主人用向きにて在所熊本へ罷り越し、先月の六月に帰府致いた者で御座る。……帰りついたその日は、家中はもとより、知音(ちいん)一族なんども無事の帰府を悦びて祝いを致し、夜(よる)に入るまで酒宴となり申した。……やっと客どもも散じたゆえ、さても一寝入り致そうずと、一間へ床とらせましたところ……四歳になる我が娘が……これ、何やらん、某(それがし)を頻りに寝かすまいと致いて……これ、一向に傍らを放ざれば、永の留守を致いて御座ったゆえ、どうにも淋しゅうて仕方なかったものであろうと、

「――さても――共寝(ともね)致そうぞ。」

と、ともに床の内へ入れて臥して御座った。……

……ところが……

……かの娘、片言(かたこと)にて、

「――かかさまが――ととさまを――きる……」

と、頻りに訳の分からぬことを申すによって、

『……はて、これは一体、如何なる謂いか……』

と不思議に思うては御座ったが、かの娘、すうっとそのまま、我が抱いた懐にて、これ、寝入って御座ったゆえ、某(それがし)も枕を取って眠らんと致いた。……

……暫く致いて……ふと目覚めた……何か、忍ぶ体(てい)にて、部屋へ近づいて参る幽かな音が致いた……されば用心致いて、寝入っておる娘は床の片脇(かたわき)の方へと静かに移し、心を鎭めて、闇の中を覗って御座ったところ……何者かが部屋に忍び入って御座った……そうして……部屋の四隅の蚊帳の釣手(つりで)を切り落いて、その上に屛風を押し倒さんとする気配なればこそ……そっと先方に気づかれぬよう、身を平(ひら)に平に致いたまま、そっと寝床を抜け出でて、護身に置いて御座った枕刀(まくらがたな)を執って闇の中に凝っとして御座った。……

――と!

バサバサッ!

と蚊帳が落ち、

バン!

と、屏風がうち倒されかと思うと、

その屏風の上へ飛び乗って、太刀を以って、屛風蚊帳越しに、力任せに刺し通す人影を見た。――

即座に、我らも手にした太刀を引き抜き、抜き打ちに、その影を切った。――

 袈裟懸けの一太刀の手応えのあればこそ、

「盜賊が忍び入った! 出会え! 出会えっ!」

と呼ばわったによって、召使どもも火を燈して走り来たる。

 部屋の隅に御座った娘も、この激しき物音に目を醒まして起き出で、廊下に佇んで御座った。

――と!

我らが妻なる女――

我らが娘を捕えると――

「おのれッ! よくも! 口走ったなアッ!」

と、おぞましき叫び声を挙ぐるや!

懐剣――引き抜き――

それで――我らが娘の――

胸元を!

ズン!

――と!

突き通しおった……

されば我ら――

即座にその場にて妻をも一刀のもとに斬り殺して御座った。……

 ……さてもまた……最初に斬った死骸を明りで照らし改めてみたところが……

これ――

親しく召し使(つこ)うておった若党で御座った。……

 ……全く……この若党と我が妻……以前より秘かに姦通致いており……我らを……押し込みの盜賊に襲われた体(てい)にて……これ、謀殺致さんとする悪巧みででも……これ、御座ったものらしゅう御座った。……

 ……さても、かの娘がおらなんだら……某(それがし)は、これ、かの姦婦姦人がために殺されて御座ったろうと思わるればこそ……今日……帰らぬ愛しき娘の墓に詣で……思わず……未練の歎きをなしてしもうて御座った。……それが御身の目にとまって御座った……我らが涙の……真意で御座る…………」

 

「……その御武家様の御名(おんな)は、これ、障りもあろうかと敢えて問わずに御座いましたが……いや……それにしても、恐ろしき女もあるもので御座います。……」

とは、その与力自身が彼のところへ訪ねて来た者――それが、たまたま、また私の知音(ちいん)でもあった――に、語って御座ったと申す話である。

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