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2013/04/09

明恵上人夢記 1 / カテゴリ「明恵上人夢記」始動(附完全オリジナル訳注)

明惠上人夢記 やぶちゃん訳注

[やぶちゃん注:以下は明惠(承安三(一一七三)年~寛喜四(一二三二)年)が残した夢記録で、本邦では近世以前では類を見ない稀有の纏まった夢記録である(「夢記」は「ゆめのき」と訓じているようである)。夢によっては明恵自身による夢解釈が附されている。彼は十九歳から夢記録を開始し、示寂直前に至るまで記述をし続けており、現存するそれは全体の凡そ半分程度とされているから、その実態はまさに、近代の西欧心理学移入以前に行われた、本邦に於ける膨大な夢記述と自己分析の驚くべき記録である。底本は岩波書店一九八一年刊久保田淳・山口明徳校注「明恵上人集」所収の片仮名交じりを平仮名に直したものを、私のポリシーに従って正字化した本文を掲げ(但し、一部に読点を追加し、歴史的仮名遣の読みについては私の判断で増やしてある)、必要に応じた注に現代語訳を附した。夢によって私の感ずるところがあった場合は、その後に更に「やぶちゃん補注」として私の感想や解釈を附したものもある。なお、便宜を考え、独自にそれぞれの夢に番号を最初に打った。底本の親本は高山寺蔵の十六篇で、これらは巻子本・冊子本・掛軸装・一通の文書など、種々の形態を成すもので、殆んどが明恵の自筆と認められているものである(底本解説による)が、底本はそれらを編者が推定時系列で並べたものと思われる。但し、例えば冒頭の「1夢」から「5夢」と、「6夢」は同一の「御夢記」と外題する巻子本に仕立てられているものの、まず冒頭が欠損しており、しかも「6夢」は「5夢」に続いているものの、実際には別紙に書かれたものが接がれているとある(底本注)。従って、これらの夢の順序には時系列上の錯雑があると考えてよい、というよりも、あると考えるべきなわけであるが、私は取り敢えずは、お目出度く、無批判に、これらの配列を時系列に沿ったものとして読み解くことにする。それはそうすることによるユング的な予知夢としての解釈の面白みが倍増するからに他ならない。私は文献考証学者でもないし、アカデミズムに縛られている人間でもなく、市井の好事家に過ぎぬからこそ、それが許されもし、それを自ずと楽しむことが出来るのである。

 明恵は華厳宗の僧で、諱は高弁、栂尾(とがのおの)上人とも呼ばれる。父は平重国(高倉上皇の武者所に伺候した伊勢平氏の家人で伊勢国伊藤党の武士。本は藤原氏で平氏は養父の姓。頼朝挙兵による戦乱で上総にて敗死)。現在の和歌山県有田川町出身。華厳宗中興の祖とされる。八歳で両親を失い、養和元(一一八一)年秋に京の高雄神護寺に入山、文治四(一一八八)年、十六歳にして叔父上覚を師として出家、東大寺戒壇院で受戒(この間、十三歳の時には無常を感じて自死を試みている)、仁和寺で真言密教、東大寺で華厳宗・倶舎宗・悉曇・禅を学んで将来を嘱望されたが、建久六(一一九五)年二十三歳の時、東大寺出仕を止めて遁世して紀州白上の峰に籠った(移って暫くして彼は自身の右耳を斬り落としている)。同九年には高雄に戻り、以後は一時的に生地の紀州に住んだりしているものの、概ね高雄を拠点として活動、建永元(一二〇六)年には右京に高山寺を開創している(この間、二度に亙って天竺へ渡っての仏跡巡礼を企図したが、春日明神の神託や病いにより断念している)。明恵は四十歳も年上の法然を、非常に高く評価し、尊敬もしていたが、建久元(一一九〇)年に法然が「選択本願念仏集」を著わすや、その内容を正法に反するものとして義憤を発し、法然が没する建暦二(一二一二)年に法然批判の書「摧邪輪(ざいじゃりん)」を著しているのである(翌年にも「摧邪輪荘厳記」を著して追加批判をさえしている)。なお、「朝日日本歴史人物事典」の「明恵」(松尾剛次氏記)には、従来、明恵は鎌倉旧仏教の改革派・旧仏教僧として理解されてきたが、思想的にも活動面でも鎌倉新仏教の祖師の一人として位置づけるべきだとする説もあるとし、戒・定・慧の三学において革新を主張して(戒の面では菩薩戒を、定の面では華厳経を読誦しながらの座禅を、慧の面では華厳と真言をミックスした教理を唱えた)、正確に釈迦に帰ることを目指し、それを核とした新しい教団を創造した、とされておられる。的を射た明察であると思う。

 私は無神論者であるが、私が妙に惹かれるものとして、今までネット上では「末法燈明記」白文附訓読・現代語訳、「無門關」原文附訳注「一言芳談言芳談」原文附注の三種の仏教書の電子化を手掛けてきた。今回、それらと同等のものとして、何故か、この夢記述のテクスト訳注を並べたくなったのである。それは私自身が説明出来ないから何か不可思議なある種の因縁とでも呼ぶべきものででもあるのかも知れない。訳注に際しては、底本及び私が親しく本書に接する機縁となった河合隼雄「明惠 夢に生きる」(京都松柏社一九八七年刊)等を一部参考にさせて頂いたが、その場合は、参考先を明記した。なお、同時に弟子の喜海の編になるとされる「栂尾明恵上人伝記」の電子テクスト化も開始したので、そちらも参照されたい。藪野直史【ブログ始動:二〇一三年四月九日】] 

 

明惠上人夢記

一、同廿五日、釋迦大師の御前に於いて無想觀を修(しゆ)す。空中に文殊大聖(だいしやう)、現形(げんぎやう)す。金色(こんじき)にして、獅子王に坐す。其の長(たけ)、一肘量(いつちうりやう)計(ばか)りなり。

[やぶちゃん注:底本ではこの前に「之を持ちて即失はずと云々。」とあるが、これは失われた前の部分の夢の殘闕(掉尾)であり、前の内容も分からないので示さないでおいた。本記述以降、三つは続く夢記述から建久六(一一九五)年の同月の記録と考えられる。底本注記に、これ以降の叙述について、『「建久七年八月、九月」以下、枕の下に涙湛へりと云々」までの部分も同一』の巻子本に仕立ててあるものの、『本来は別紙に書かれたものを後に継いだもの』であるとある。


「無想觀」ここで断っておかねばならないが、「夢記」は必ずしも睡眠中の夢記述に限らぬ記載である。明恵が覚醒時に行った修法中の意識の中に立ち上って来たイメージや情景(心理学風に言うなら幻覚・幻視)をも記載している。これもその一つで、あらゆる妄念や想念を離れる無念無想の観法(かんぽう:心に仏法の真理を観察し、熟考する実践修行法。天台十乗観法など)を行じていた際のものである。

「大師」大導師の意で仏菩薩の尊称。


「大聖」仏道の悟りを開いた人の尊称。釈迦如来を一般には指すが菩薩部にも用いる。「たいせい」と読むと、聖人の中でも特にりっぱな人格を備えている人の謂いとなる。文殊は菩薩(修行者)であることから「文殊大士(だいし)」と呼ぶこともあり、また、現世の徳の高い僧を敬って「大師」と呼称するから、後者でも問題はないが、一応、「だいしょう」を採った。


「獅子王」文殊菩薩の造形は一般的に獅子の背の蓮華座に結跏趺坐して、右手に智慧を象徴する利剣(宝剣)を、左手に経典を乗せた青蓮華(しょうれんげ)を持つ。


「一肘量」肘関節から中指の尖端までを基準とする目測の長さの単位。約五十センチメートル。]

 

■やぶちゃん現代語訳


 

一、同二十五日、釈迦大師の御前(おんまえ)に於いて無想観を修(しゅう)した。その際に見た夢。

「空中に文殊大聖(だいしょう)が顕現する。全軀(ぜんく)金色(こんじき)にして、獅子王に坐しておられる。その身の丈けは、凡(おおよ)そ一肘量(いっちゅうりょう)程であった。」

[やぶちゃん補注:明恵の弟子喜海の編とされるも、実際にはその成立は南北朝期まで下るとされ、必ずしも信をおき難いと底本解説にはある「栂尾明恵上人伝記」によれば、高雄山神護寺にあった明恵は、建久四年の公請(くじょう:宮廷からの公的な法会に対する参加要請)に対する衆僧学徒の忌わしい抗争に嫌気がさし

今は此の如き僧中を出でて、本意の如く文殊を憑(たの)み奉りて、佛道の入門を得る事を思ひて、高雄を出でて、衆中を辭して紀州に下向す。


とあるから、彼の遁世の拠り所が文殊菩薩への深い帰依にあったことが分かり、何故、文殊なのかは判明する(「栂尾明恵上人伝記」は底本に載るものを正字化して示した。以下同じである場合は注を略す)。

 底本では夢記述に対して別に注を起こし、これが鎌倉中期に成立した同じ喜海の編になる「高山寺明恵上人行状」の中に、

虛空にうかむて現に七八尺はかりの上に、文殊師利菩薩、身色金色にして金獅子に乘して現し給へり、其長三尺はかり


とある、ともする(引用に際して片仮名を平仮名に換え、また恣意的に正字化した)。


 「現に」は「うつつに」(実体として)であろう。ここでは文殊菩薩は同じく金色の獅子に乗った状態で二メートル強の空中に浮遊して顕現したことになっており、大きさも約九十センチメートルと大きい(「文殊師利」は悪名高いオウム真理教で人口に膾炙してしまったが、文殊菩薩の正式名である本来の梵名マンジュシュリーの漢訳語である)。


 また、先に掲げた「栂尾明恵上人伝記」ではもっと具体的に(リンク先は私の電子テクスト)、

まさに明恵が自らの耳をそぎ落とすという準捨身ともいうべきぎりぎりのアンガジュマン(自己投企)の翌日の体験として


「華厳経」を披き、如来諸菩薩が宝蔵殿にて法門を説いておられる場面を読み、羨ましく思いつつ、『我も其中に交はり烈(つらな)れる心地して、悲しみの涙を拭ひ、耳の痛さを忍びて、泣々聲を上げて、』誦経し続けていると、遙か彼方の天空の『莊嚴、眼前に浮かび、在世説法の慈顏、したしく拜し奉る心地せり。依りて悲喜の涙を拭ひ、本尊をまぼり奉り、聲を勵まして經を誦』していると、

眼の上忽ちに光耀(かかや)けり。目を擧げて見るに、虛空に浮かびて現に文殊師利菩薩、身金色にして金獅子に乘じて影向(やうがう)し給へり。其の御長(おんたけ)三尺許(ばか)りなり。光明赫奕(かくやく)たり。良(やや)久しくして失せぬ。仍りて彌(いよいよ)其の志を勵まして、他事なく一心に仏心を悟らん事を祈請す。

とその白昼夢が記されてあるのである(以上の耳の自截前後の原文は、こちらの私の電子テクストを参照されたい)。しかも、これも睡眠時の夢ではない。さらに言えば、耳を斬り落とした激しい心理的昂揚感と肉体的苦痛の中(観想などという心底落ち着いた状況とは訳が違う)、宗教的自傷行為のファナティクな心理的法悦(エクスタシー)の中で幻視したものである(どうも叙述からはこの夢は「高山寺明恵上人行状」のものと同一のものと私には思われる)。なお、河合隼雄氏の「明惠 夢に生きる」その他によれば、「華厳経」の中でも特に重要とされる一つ「入法界品」は、善財童子(ぜんざいどうじ)という少年が人生を知り尽くした五十三人の人々を訪ねて悟りへの道を追究する物語であるが、童子が最初に出逢うのが文殊菩薩である。河合氏はそれを、幼年期に父母の死によって欠損喪失した『父性と母性の両側面をある程度わがものとして、立派な僧になるべきイニシエーションを成し遂げた明恵が、求道の旅の最初に会う菩薩として、文殊に出会ったとも考えられるのである』(一三二頁)とある。

 但し、これらは弟子の記載であるから、原夢に手を加えて恣意的に荘厳化したものとも考えられるが、それ以上に、明恵はこの文殊顕現夢を頻繁に見ていたこと(だからこそ細部が異なるのだとも言えよう)、それを弟子たちに殊更に語っていたことが明らかになるというべきであろう。

 本条について河合氏も「明惠 夢に生きる」の中で(一三一頁)、

   《引用開始》


ここに述べられている文殊顕現が、果たして『伝記』などに記されているものと同一のものであるかどうか確かめるべくもない。ひょっとして、それは一度ではなかったかも知れない。ともかく明恵にとってこれは大きな体験であったようで、晩年にこのことについて弟子たちに語ったときは、「虚空カヾヤクコトカギリナシ、ソノ光明ノ中ニ、大聖マナアタリ現ジタマフ。歓喜勝計スベカラズ」と述べ、続いて「このゴロ口(くち)キヽ候ハ、ソノユヘニテアル也」とつけ加えている(「却廃忘記」)。つまり、皆に説教しなどできるのも、あの文殊顕現を見たおかげだと言っているのだから、彼がいかにそれを重視していたかが解るのである。


   《引用終了》


と述べておられる(「歓喜勝計スベカラズ」は「歓喜、勝(まさ)に計(けい)すべからず」と読むと思われ、「却廃忘記」は直弟子長円による聞き書きである)。

 それにしても本人が頻りに語りたがり、伝記作者も引用したくなる象徴夢であること明白である。即ち、明恵という高僧の夢記の断簡を継いだ巻子本の冒頭に配するには、これは頗る効果的な夢であると言えるのである。まず総ての仏智を象徴する文殊の顕現である。いや、智は、そのトバ口でしかないということか。寧ろ、金色の眩い輝きに逆照射されることでハレーションしてホワイト・アウトする此岸の側の愚かなさもしい人智の消失こそが、意味を持つ夢なのかも知れぬ。「もんじゅ」「ふげん」(普賢は仏法の髓であるカルマ(法)を象徴する。因みに文殊と普賢の両菩薩は釈迦の両脇侍である)……今まさに、とんでもない名前の忌わしい人智が――「現に」あるではないか。

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