一言芳談 一三六
一三六
行仙房云、あひかまへて、ひじるべきなり。往生のさはりの中に、貪愛(とんあい)にすぎたるはなし。衆惡(しゆあく)のさはり、色貪(しきとん)をさきとす云々。
〇ひじるべしとは塵俗を出でよとなり。
〇貪愛、財色の二に通ず。
淨心誠觀云、夫欲修道於三業中、先斷財色二種。若不貪財、即無諂諍、若不貪色、即無熱腦。
[やぶちゃん注:聖たる聖者が言わずもがなにこれを言わねばならなかったのは、その欲に縛られない聖者は、行仙房を含め、頗る少なかったからだと言える。Ⅰでは――まさにこの条が「用心」の章の最後――即ち「標註一言芳談抄」の掉尾にあるのである。……
「行仙房」「五十三」「五十五」「一一四」に既出。平清盛の異母弟で平家滅亡後も生き延びた平頼盛の孫とされる。
「貪愛」「色貪」Ⅰはともに「どんあい」「しきどん」と濁音。Ⅱ・Ⅲを採った。「とんない」とも読む。対象に執着し、むさぼり愛着する心。貪欲。怒りの心たる「瞋(しん)」と真理に対して無知である心を謂う「癡(痴)」の三大煩悩たる三毒の一つ。行仙房は往生の最大の妨げとなるものをこの「貪」(物欲・色欲)であるとしているが、仏教では諸悪の根源として一般には「癡」を挙げている。「色」について述べるにはまず五下分結(ごげぶんけつ)・五上分結(ごじょうぶんけつ)を示す必要がある。一切衆生が生成死滅を繰り返す三界(さんがい:欲界・色界・無色界。)に衆生を結びつけようとする束縛、即ち煩悩の異名をかく言い、五下分結と五上分結を合わせて十結(じゅっけつ)という。これをメタにしたものが三毒ということになろうか。
五下分結は、我々の在る欲界に我々を束縛している欲たる煩悩を指し、
①身見(しんけん:自己存在が不変に存在すると錯覚すること。)
②疑惑(ぎわく:釈迦に対して疑義を抱くこと。)
③戒取(かいしゅ:対象に捉われること。拘り。)
④欲貪(どんよく:貪ること。)
⑤瞋恚(しんに:怒り。)
である。以下が五上分結で、こちらは欲界を越えた上級ステージである色界・無色界に至った者をも拘束する欲たる煩悩を指す。
⑥色貪(しきとん:色界(三界の一。欲界の上で無色界の下にある世界。欲界のように欲や煩悩はないが、無色界ほどには物質や肉体の束縛から脱却していない世界。色界天。色天。四禅を修めた者の生まれる天界とされ、初禅天から第四禅天の四禅天よりなり、さらに一七天に分ける)への執着。
⑦無色貪(むしきとん:無色界(三界の一。色界の上にあり、肉体・物質から離脱し、心の働きである受・想・行・識の四蘊(しうん)のみからなる世界。さらに四天に分けられ、その最上の非想非非想天を有頂天ともいう)への執着。
⑧掉挙(じょうこ:心の昂揚。)
⑨我慢(がまん:慢心。)
⑩無明(むみょう:最後の最後まで僅かに残るところの無明の闇。微妙曖昧模糊たる無知。)
本文で言う、「貪愛」「色貪」はともに⑥に相当し、まさに完全には物質や肉体の束縛から脱却していないために生ずる微妙なる対象への物欲・色欲の執着を指している。なお、十結をすべて断滅させて初めて聖者・聖と呼ばれる(以上の五下分結と五上分結については、主にブログ「ブッダへ至る道」の「五下分結と五上分結[仏教の基礎知識(7)]」等の記載を参考にさせて頂いた)。
「ひじる」聖る。名詞「ひじり(聖)」の動詞化。戒律を厳しく守る。
「淨心誠觀云……」以下、Ⅰの訓点やⅡの大橋氏の注にある書き下し文を参考に書き下す。
「淨心誠觀」に云はく、「夫(そ)れ、道を三業(さんごふ)の中に修せんと欲せば、先づ財色二種を斷て。若(も)し財を貪らざれば、即ち、諂諍(てんじやう)、無し。若し色を貪らざれば、即ち、熱腦(ねつなう)、無し。
・「淨心誠觀」「浄心誡観法」唐代の南山律宗の開祖道宣(五九六年~六六七年)の書。
・「三業」身業・口業(くごう)・意業。身・口・心による種々の行為。
・「諂諍」へつらいやおもねりと、いさかいや争い。
・「熱腦」熱悩。激しい心の苦悩、身を焼くような心の苦悩。]

