沢庵宗彭「鎌倉巡禮記」 21
佛光の塔を出て第四山淨智寺に入てみれば、三間四面の堂一宇ふるき佛を安置して、いづくを開山塔といふべき樣もなく、末派邊土の僧一人きたりてかずかず茅屋ちいさくいとなみかたはらにあり。其次に又一僧一宇をかまへてゐたり。佛殿の本尊もやぶれくづれてこもといふ物にてつ一みてありしを、我らみづから負もちきたりて膠付などして、わびつゝも立置ぬとかたりける。あさましきありさま也。天下の五嶽、などかくのごとく成はてぬる事やあると嘆息やみがたし。
[やぶちゃん注:「末派邊土」「末派」は末輩(まっぱい)のことであろう。仲間の末に連なる者の意で、地位・技量などの劣った者のこと。「邊土」は片田舎。どこの馬の骨とも分からぬ田舎者の凡僧のことか。ともかく、沢庵が訪れたこの当時の浄智寺の荒廃が一通りでなかった様が分かる。「鎌倉市史 社寺編」を見ると、まず失われた鐘の記事が目につく。戦国時代、『北条氏康は鉄砲をつくるために某年伊豆山権現の鐘を鋳つぶしたことがあった。このかわりとして天文十九年に浄智寺の鐘を伊豆山に贈った。(『豆州志稿』)この鐘は正慶元年、(元弘二年一重)天外志高が浄智寺の住持としていた時に高時が寄進したもので、銘は清拙正澄が撰した。『風土記稿』はこの銘文を載せている』とし、この鐘については『早稲田大学金石文研究会はこれの拓本を蔵している』が、『鐘そのものは明治維新の際、廃仏毀釈運動の嵐の中に微塵にくだかれたものであろうとという』赤星直忠氏の推論を記した後、この『鐘はこの後慶安三年(一六五〇)に鋳造され、その鐘の銘が『鎌倉志』にのっているが、これに「二百年来宝殿荒廃」とあるのは仏殿が二百年間なかったことを示し、前述『鎌倉五山記』にも仏殿のみが欠如している記事を裏書きしている。慶安二年から逆算二〇〇年(一四四九)は宝徳元年にあたるが勿論この二百年は概算であろうから、若しこの銘の語るところが真実であるとすれば仏殿は永享十年(一四三八)または康正元年(一四五五)に戦火によって失われたものであろう。また『鎌倉五山記』及び『五山記考異』にみえる法堂・僧堂等は『鎌倉志』の伽藍図にはみえない。これはその後、貞享迄にこれらが失われたことを示している』と記す。『文明十八年(一四八六)春鎌倉を訪れた万里集九の『梅花無尽蔵』に「霧を払ひて浄智を山隈に望む」とあるのをみると、集九は足をこの谷に踏入れていないらしいが、中世及び近世を通じて文学・紀行類はおろか諸名所記等でさえここについてふれていない』と、浄智寺忘却史を綴っている。その直後に、本沢庵の来訪を解説し、本文の箇所を引用している(やや異なるので引用する)。
《引用開始》
ただ一人沢庵宗彰が寛永の半ばに鎌倉を巡礼してここを訪れている。
「仏光の塔を出て第四浄智寺に入りて見れば、三間四面の堂一宇古き仏を安置していづくを開山塔というべきようもなく、末流辺土の僧一人来り、かつかつ茅屋少くいとなみ、かたはらに有り、其次に又一僧一宇をかまへて居なり、仏殿の本尊も破れくづれてこもというものにてつつみてありしを、我ら自ら負ひもち来りて膠付などしてかつかつ立置ぬとかたりける。」沢庵の鎌倉巡礼は寛永十年(一六三三)ごろであるから、多分当時ここに住んでいた僧らは永正・天文の昔は知らずとも、天正から元和にいたる世の移りかわりを知っていたろうが、北条氏及び家康のあたえた七貫の寺領ではこの寺を復興する資とはならなかったのである。もっとも海蔵寺薬師堂は棟札その他によれば天正五年の建造、安永六年に浄智寺より海蔵寺に移建したものというから、このころにはこの建物は浄智寺にあったわけである。
仏殿及び小鐘の復興した慶安二年は、沢庵がこゝを訪れてから十五・六年目のことである。鐘の銘にいう「今環寺残衆相議、而企一宇鼎建之功」とあるのは丁度沢庵来訪時に庵居の僧が出てきたことに対応しているが、これから三十数年後『鎌倉志』のできた貞享のころ、蔵雲庵のほかに塔頭は正紹庵だけが残っている。
さて慶安二年(一六四九)の鐘もまた銘文を残しただけで失われたらしい。『風土記稿』には延宝七年(一六七九)の鐘があるように記している。なおこの書のできた天保頃に寺観はかな違っていて仏殿・方丈・鐘楼・楼門(中門)外門・惣門があり、蔵雲庵・開山堂・開山塔・正紹庵・正源庵・寮(駐春と号すとあるから正源庵の客殿のこと)・真際精舎(しんざいしょうじゃ)・正覚庵・楞伽院(この二つは無住)があった。これは江戸時代の寺としては先ず先ずの規模である。
大正十二年(一九二二)の地震はこの寺をも破壊したが、この時の被害は仏殿(文政年間建立とす)・書院・地蔵堂・総門・山門・中門・庫裡・土蔵全壊というから殆んど潰滅したわけである。現在、仏殿・総門・山門があり、寺宝中有名なものに重要文化財地蔵菩薩坐像と(鎌倉穀国宝館出陳、同館図録所収)と玉隠筆の永正十二年の西来庵修造勧進状(『史料編』三ノ二七五)がある。この他兀庵普寧木像・韋駄天木像等がある。現住職朝比奈宗源師。
《引用終了》
「楞伽院」は「りょうがいん」と読む。底本は昭和三四(一九五九)年の刊行であるので、現在の住職は朝比奈恵温氏である。]

