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2013/04/15

耳嚢 巻之六 大す流しという紋所の事

 大す流しという紋所の事

 

 大洲流しといへる事、紋盡(もんづくし)などのものがたりにあれど、いかなる紋と申(まうす)事を不知(しらず)。或(ある)人のいへるは、丹羽の紋所なる拍子木等の如きを、打違(うちたが)へ候を二つ並べてつけたるを、大洲(おほす)ながしといへると、古實者(こじつしや)のかたりといひしが、按ずるに、川除(かはよけ)などに追牛(おひうし)といへるものあり、川瀨の片々は附洲となり、片々(かたかた)は欠所(けつしよ)など出來る所、追牛の二組三組もたてれば、右川先(かはさき)の洲を流し拂ふて川瀨の形よく成(なり)し事あり。右拍子木の打違ひは、川除の具を略し用(もちゐ)たる成るべし。依之(これによつて)大洲流しといふなるべし。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:家紋譚二連発。根岸の経験に基づいたオリジナルな非常に鋭い考証であり、以下の家紋解説の記載等からも正確であると言える。ホームズ鎭衞、ナイス!

・「大す流しという紋所の事」「という」はママ。「大す流しという紋所」図像だけをまず見る。電子データ「業務に使える高品質画像データ集 家紋倶楽部4000」販売サイトの「大洲流(おうすながし)に、全く異なった二種の家紋「保田大洲流し」と「蛇籠大洲流し」の二種、サイト「風雲戦国史――戦国武将の家紋」の「小野寺氏」の項に「大洲流(臥牛)」の家紋があり、これが前者の「保田大洲流し」に一致し、本文の解説の「拍子木等の如きを、打違へ候を二つ並べてつけたる」意匠とも一致する。底本の鈴木氏の注には、『蛇籠を固定させるために杭を打つ、その杭だけを打った形を紋どころにしたもの。初めは蛇籠の目に杭を打った形のものだったといわれる』とある。「小野寺氏」の項にはなお以下の記載がある(冒頭の一部を省略した)。

   《引用開始》

 『奥羽永慶軍記』には小野寺氏の家紋に関して、「小野寺ノ幕ノ紋ニ瓜ヲ用フル事、累代吉左右ノ故アリ。夫レヨリ先ハ牛ノ紋を用ヒシト云ヒ伝フ。近代ノ幕ノ紋ニ、墨絵ニテ牛ヲ画キタル」とある。また、一本『小野寺氏系図』には家紋「根牛」と記されている。これによれば、小野寺氏は瓜の紋とは別に、牛の紋を用いたということになる。さらに「牛ヲ画キタル」ということから哺乳動物の牛を用いていたように思われる。

 しかし、小野寺氏の用いた「牛」は動物の牛ではなく、『応仁武鑑』にも記されているところの「追洲流」の杭をいったものにほかならない。

 そもそも「追洲流」とは、河川の治水用に作られた築造物で、長い籠の中に石を詰め堤防の補強を行った。堤防に沿ってえんえんと配置される光景が長蛇に似ていることから「蛇籠」とも称される。蛇籠は籠のみを積んだものと、杭を立て横木をかけて蛇籠を積み重ねたものがある。そして、蛇籠の杭を奥羽地方や相模地方などの方言では「牛」といった。これは、動物のなかで牛は重荷を負ってよく耐えることから、川除けの杭を牛にたとえてそのように呼ぶようになったのだという。「追洲流」が激流に耐え、田畑を洪水より守る力強さに意義を感じて家紋として用いられるようになったと考えられる。

 「追洲流」の文様は、すでに『一遍上人絵巻』などにも用いられており、家紋としては『太平記』に山城四郎左衛門尉が直垂に描いていたとあり、『羽継原合戦記』には「大スナガシハ泉安田」とあり、紀伊の保田氏も「追洲流」を家紋としていた。小野寺氏の家紋として永慶軍記に記された「牛」、系図の「根牛」は「追洲流=蛇籠」のことであり、動物の牛のことでは決してないのである。

   《引用終了》

因みに、この引用の直前の部分では、後世の記録であるが、「応仁武鑑」には、『小野寺備前守政道の家紋は「追洲流」とあり、さらに、「(前略)その家の紋三引両にして、織田殿より「カ(五葉木瓜)」の紋を賜りしを合せ用うる由をしれり(後略)」とある。ここに記された備前守政道は泰道に比定されるが、「三引両」はともかくとして、織田氏から「カ(五葉木瓜)」紋を賜ったというのはうなづけない』という疑義が記されるが、直前の話の三浦氏の紋所も偶然ながら「三引両」である。

・「紋盡」一般名詞では、絵や図柄として種々の紋柄を描いたもの(また別に、江戸時代に遊女の紋を描いて遊里の案内とした書物をもいう)であるが、岩波版の長谷川氏注には、『曾我兄弟の十番斬の時の紋尽しなど』とある。これは「曽我の紋づくし」と言って、講談などの曽我物で頼朝の富士の巻狩に供した諸国御家人の、幔幕に描かれた紋を「ものづくし」で読み込んだもののことを指す。直ぐ後に「ものがたりにあれど」とあるから、これは長谷川氏の仰る通り、「曽我の紋づくし」のことを指していると考えてよい。

・「丹羽の紋所なる拍子木等の如き」拍子木を図案化した拍子木紋と呼ばれるもの。引両紋と似ており、変形したものと思われ、一般的な図柄は二本若しくは複数(多いものでは十一本)の棒が描かれたもので、拍子木・丸に拍子木・紐付き拍子木などの種類があり、武田氏や伊沢氏などが使用した。森鷗外の「伊澤蘭軒」の「その三」に『伊澤氏は「幕之紋三菅笠(みつすげがさ)、家之紋蔦、替紋拍子木」と氏の下に註してある』と出、家紋関連の書籍で見る限りは、黒い拍子木で上部がやや左右に開き気味の、下に紐が付いた完全な拍子木である。「替紋」とは略式紋のこと。「丹羽」氏の拍子木紋については、岩波版長谷川氏注に、『二本松十万二百石丹波左京大夫の紋所違棒をいう』とある。サイト「祭りだ!山車だ!」の「二本松のちょうちん祭り」の一番下の右の神社の写真をポイントすると、その紋をあしらった提燈の画像(「×」の意匠なだけに、これだけ並ぶとなかなか凄絶である)が見られる。同頁にはこの「違棒紋」についての注があり、それによれば、直違紋・筋違紋(すじかいもん)ともいい、丹羽五郎左衛門長秀(『戦国・安土桃山時代の武将で、信長の養女(信長の兄・織田信広の娘)を妻にした。また、嫡男の長重も信長の四女を娶うなど信長に信頼の厚い家臣であった』。『信長四天王の一人とされ、鬼五郎左・米五郎左と呼ばれ』たが、『長重は、軍律違反があったとして秀吉から領国の大半と、長秀時代の有力家臣まで召し上げられたが、関ヶ原の戦いで西軍に与して改易されたが、後に江戸崎藩主・棚倉藩主・白河藩主となった。二本松藩主の丹羽光重は、長重の子、長秀の孫』とある)の家紋で、『家紋研究家の丹羽基二は、この紋を日本の三大呪符紋のマイナスの呪符紋とし、「災いが起きないよう、来るな」の禁止紋としている』。『古代では、死人が出ると直違いで住居を封じ別の住居へ移る事例があり、江戸時代には閉門・謹慎の処分を受けた武家は、門前に青竹を×型に組んで人の出入りを禁じた。現在でも、北陸・東北地方の一部には、死者の出た家で青竹を家の前に立てる風習がある』。『このように、直違いは、死者の霊を封じ、外との交流を断つ呪術性があったとされ、その呪術性から、武家が戦場の旗印に使い、やがて家紋にも使われるようになったとする説もある』とある。目から「×」の美事な解説である。

・「川除」堤防等の河川の氾濫防止施設の総称。

・「追牛」既に前の注の引用でも解説されているが、「笈牛」で、水防・護岸工事に用いられた用具。四角をした菱牛(四本の合掌木で四角錘を組み、同一の太さの丸太で桁木及び梁木を取り付け、棚を設けて重籠を積載したもの。当該装置の復元画像は個人サイト「武田家の史跡探訪」の「信玄堤(荒川)」を参照。因みにこの最後にある「牛枠」がこの「追牛」か、その原形であろう)に対し、笈牛は三角形を呈しており、山伏の担ぐ笈に似ているとことから命名された。菱牛同様の効果を持つ江戸時代の治水道具で、材木の長さ・太さは同じであるが、菱牛に比べて水流に対する効果は薄い。コンパクトであることから菱牛の設置困難な谷川や小川に用いられた(以上は「信玄堤(荒川)」及び「古河歴史博物館」の「笈牛」――こちらには江戸期のものと思われる「笈牛拵樣(こしらへやう)の圖」「同仕上の圖」の絵図が載るので必見!――の記載を参照させて戴いた)。根岸は勘定吟味役時代に、実地の河川普請の奉行としてこうした技術を知尽していたはずである。従って、本条の最後の考察部(「按ずるに」以下)は根岸自身のものであると私は考える。

・「附洲」岩波版は『つきす』とルビしつつ、長谷川氏は注で、『あるいは「つけす」か。洲のできることをいうのであろう』と注されておられる。この意を現代語訳でも採らさせて戴いた。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 大洲流しという紋所の事

 

 「大洲流し」と申す紋のことは、「曽我の紋づくし」などの物語にも登場致すが、如何なる紋であるかということは知らず御座った。

 ある御仁の申すよう、

「かの丹羽の五郎左衛門長秀殿の紋所にて、拍子木なんどの如きを、打ち違(たが)えに致いたものを、これ、二つばかり並べ附けたる意匠を、これ、『大洲流し』と言うと、有職故実に通じたる者の、話しにて御座った。」

と聴いた。

   *

 しかし、私が按ずるに、川除(かわよけ)などの対策設備の中に、「追牛(おいうし)」と呼称するものが御座る。

 これは、川瀬に於いて、一方が常に洲となって延び、流れが抑えられてしもうて、その対岸にしばしば決壊が生ずるような場所に、この「追牛」の二組か三組を以って、組み立てて設置致す。さすれば、かの川下の先に延び生じておったところの洲を、綺麗に流し去って、川瀬の形が、まことに良好になる場合が御座る。

 この紋所の意匠を――「拍子木の打ち違(たが)え」――と説明しておるが、実は私は、――「川除(かわのけ)に用いる道具たる追牛」――これを意匠化して用いたものに違いないと思うので御座る。だからこそ、この紋所の名称をも――「大洲流し」――と言うので御座ろう。

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