一言芳談 一四四
一四四
敬佛上人のもとにて、人々、後世門(ごせもん)の事につきて、あらまほしき事ども、ねがひあひたりけるに、或人云〔椎尾四郎太郎〕、法門(ほふもん)なき後世物語(ごせものがたり)、云々。上人感じて云、いみじくねがへり。その髓(ずゐ)を得たる事、これにしくべからず。
○法門なき後世物語、あながちに經釋(きやうしやく)を引かず、さのみ問答にも及ばず、直(ぢき)に生死無常の事をかたりて、道心をはげまんとなり。
○いみじくねがへり、よきねがひやうなり。
○その髓を得たり、後世者の最要(さいえう)をいひ得たりとなり。達摩(だるま)、二祖の見處(けんじよ)をほめて、汝得吾髓とのたまひし事、傳燈錄に見ゆ。
[やぶちゃん注:標注の「汝得吾髓」は「汝、吾が髓を得たり」と読む。
「敬佛房」「三十六」に初出し、本書に多く登場するが、伝不詳。法然・明遍の両人の弟子とされる。
「後世門」浄土についてのこと。
「あらまほしき事」かくあってほしいという、各々の理想染みたこと。
「ねがひあひたりけるに」かくありたいと、経文や法語を交えてしきりに云々していたところ。
「或人云〔椎尾四郎太郎〕」Ⅰには割注はない。この「椎尾四郎太郎」についてはⅡで『伝未詳』とあるが、「『歎異抄』の教学史的研究」(竜谷大学仏教文化研究叢書十七・矢田了章他共同研究)に、当時の法然浄土教に属する念仏集団についての叙述の中で、「一言芳談」『は、法然・明遍・敬仏・明禅・聖光など多くの語録を収集している。このなか、一四五条の三分の一を占めているのが敬仏の語録である』とし、この条を挙げて、『「或云く」とあり、その註に「椎尾四郎太郎」と一人の人物が登場する。この「椎尾」の姓は、常陸真壁の椎尾氏を意味し、真壁出身の真仏の「椎尾弥三郎」と同姓である。同時代であることからも、敬仏の弟子でもあった真仏と密接な関係にあった眷属に間違いはなく、関東の親鸞門弟周辺でも、このように念仏聖の語録が収集し伝えられていることが窺える。この敬仏は弘願本『法然聖人絵』や、無住の『沙石集』にも登場し、敬仏の後世者としての人気が高かったことがわかる』とある。
「法門なき後世物語」Ⅱで大橋氏は「後世物語」に注され、『平凡な、あのよの話。前世・現世に対し、後世・来世といい、法然上人は「ただ念仏の一行をもて、すなはち後世に付属流通せしむ」(『選択本願念仏集』)と述べ、『広決瑞決集』巻三に「念仏は只一向に後世の為のみにあらず、かねてはまた現世の祈ともなる」とあるのは同意』と記される(私は馬鹿なのか、これが『同意』であることがよく分からない)。「広疑瑞決集」とは法然の孫弟子敬西房信瑞という僧が建長八(一二五六)年に書いたもので、現在の諏訪市上原に拠点を置いた諏訪氏の一族の上原敦広なる人物の疑問に信瑞が答えた問答集である(「長野県立歴史館 歴史館たより二〇〇二春号」の記載に拠る)。
――「経文などを引用したり、くだくだしい法論などを抜きにしたあの世の物語を!」――の請いである。
「二祖」私の大好きな慧可(えか 四八七年~五九三年)。雪舟の絵で著名な「雪中断臂」「慧可断臂」(慧可が嵩山の少林寺で面壁していた達磨に面会して弟子入りを請うたが、達磨が断わるも、慧可は達磨の背後の雪中に立ち尽くし、遂には自らの左腕を切り落として入門を許されたとされる)の中国禅宗の二祖。
「見處」見地。見極め。断臂した慧可の覚悟が俗情や世知によるものではないこと。
「汝得吾髓」探し方が悪いらしく、所持する「傳燈錄」の電子テクスト・データから当該箇所が発見出来ないので、「中文サイト「禅宗祖師」の「慧可大祖禪師」にあるテクストを参考に引用する。
達磨祖師曰、「時將至矣、汝等盍各言所得乎。」
時有道副對曰、「如我所見、不執文字、不離文字、而爲道用。」
祖曰、「汝得吾皮。」
尼總持曰、「我今所解、如慶喜見阿〔門人人人。〕佛國、一見更不再見。」
祖曰、「汝得吾肉。」
道育曰、「四大本空、五陰非有、而我見處、無一法可得。」
祖曰、「汝得吾骨。」
最後、慧可禮拜、依位而立。
祖曰、「汝得吾髓。」
この部分について、個人ブログ「真実の自己を求めて」の「汝得吾髄(その1)」に谷口清超著「正法眼蔵を読む 葛藤の巻」を参考にされた現代語訳がある(一部を省略、句読点を追加し、改行を施させて戴いた)。
《引用開始》
達磨大師は曾て門人達にこう言われた。
「将に伝法の時が来たと思う。お前達夫々悟りの極致を言ってみよ。」
すると門人道副が、こう言った。
「私の今の境地は文字に因われず、しかも離れることなく、時に応じて真理を活用するということです。」
すると達磨は、
「お前は吾が皮を得た。」
と言われたのである。
次に尼総持は、こう述べた。
「私の今の悟りの境地は阿難尊者がかの阿しゅく如来の国土を一見して、さらに二度と見ようとはなさらなかったような心境です。」
すると達磨は、
「お前は私の肉を得た。」
と言われた。
第三に道育が、こう言った。
「地水火風などのあらゆる現象は本来空であり、五蘊(色受想行識)は本来あるものではありません。従って私の悟りは、現象はなしということです。」
すると達磨は、
「お前は私の骨を得た。」
と言われたのである。
そして最後に、慧可は、達磨の前で三拝して、又、もとの自分の席に戻って無言のまま立ったのである。
すると達磨は、こう言われた。
「お前は私の髄を得た。」
こうしてその後、達磨は慧可を二祖として法を伝え、袈裟を授けたのであった。
《引用終了》
しばしば、お世話になっている「つらつら日暮らしWiki〈曹洞宗関連用語集〉」の「汝得吾髄」でも、『達磨大師が自らの弟子達に各々得たところを示すように促した。二祖となる慧可大師はただ達磨大師を三拝し、自位に戻っただけであったが、達磨は慧可に対し、「吾が髄を得たり」として評した』とある。
「傳燈錄」中国の禅宗史書の一つ。三十巻。蘇州承天寺の道原の作。北宋の景徳元
(一〇〇四)年に真宗に上進され、勅許によって入蔵されたことから、「景徳伝灯録」とも呼ばれる。時の宰相楊億の序を持つ。過去七仏に始まり、インドの二十八代・中国の六代を経て北宋初期に至る総計一七〇一人の祖師の名と伝灯相承(そうじよう)の次第を述べた書。北宋時代における禅の興隆とともに士大夫の教養書の一つとなり、禅本の権威となった。仏祖の機縁問答を「一千七百則の公案」と呼ぶのは,本書に収める仏祖の数字に基づく(以上は平凡社「世界大百科事典」の記載に拠った)。]
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