中島敦漢詩全集 五
五
北辰何太廻
人事固堪嗤
莫嘆無知己
瞻星欲自怡
〇やぶちゃんの訓読
北辰 何すれぞ 太廻(たいくわい)せる
人事 固(もと)より嗤(わら)ふに堪(た)へたり
嘆く莫かれ 知己(ちき)の無きを
星を瞻(あふぎみ)て 自(おのづ)から怡(たの)しまんと欲す
〇T.S.君原案(一部は藪野補筆)の中国語を踏まえた語釈
・「北辰」北極星。全天唯一の不動の恒星。
・「何」何故、若しくは、間投詞の「なんと」と言う意味で用いられる。ここでは、何故と、解釈したい。
・「太」程度が過ぎること、非常に、高い、最も高い身分の、という意味を有する。しかし、次の「廻」と合わせた場合には意味が取り難い。ここでは「非常に高い水準において回転し巡り行く」ことから、「万物はその周囲を巡る」という意に解釈する。
・「廻」「回」と同字。もとの場所に戻る、回転する、巡る、返す、という意味を有する。回転を採る。
・「人事」ここでは、人の世、若しくは人の世の様々なことを指す。
・「固」ここでは、もともと、或いは、もとより、という意で用いられている。
・「堪嗤」「堪」は能力的に可能なこと、耐えられることを表わす。「嗤」はあざ笑うこと、嘲笑すること。両者をあわせて「嘲笑に堪えることができる」と読み解けるが、含意は翻って、「嘲笑される程度のものでしかない」と取るべきであろう。
・「莫」動作の禁止、不可能を指す。ここでは動作の禁止を自らに呼びかけていると取るべきであろう。
・「知己」現代の日本語では、単に己れを知る人の意で用いられることも多い。但し、伝統的には、非常に深いところまで自分を理解してくれている極めて特別な人物である。「史記 刺客列伝」の「豫讓」に、次の有名な下りがある。
*
士為知己者死、女為説己者容。
士は己れを知る者の爲に死し、女は己れを説(よろこ)ぶ者の爲に容(かたちづく)る。
[T.S.君訳:士は自分の価値を知ってくれる者のために死に、女は自分を見て喜ぶ者のために容色を飾る。]
*
・「瞻」上方あるいは前方を見ること。ここでは勿論、星を見ること、更には、北極星を見上げることと取りたい。
・「欲」得ることや到達することへの欲望、動作への希望、必要であること、今にも状態が変化しそうなことなどを表わす。ここでは状態が変化することへの強い期待感を表現していると採りたい。
・「自怡」「自」はおのずと、という自発の意。「怡」は楽しむこと、嬉しいこと。合わせて「おのずと心楽しくなる」の意。
○T.S.君による現代日本語訳
北極星……
お前は何者だ。
なぜ独り微動だにせず、万物がお前の周囲を巡るのか?
全ては移ろい、変転し、流れて行く。――
人の世のあらゆることは、元来、取るに足りないことなのだ。
嘲笑(あざわら)ってやり過ごせばよいのだ。
しかし……
しかし、私を理解する者など、世にひとりとして、ない。……
この孤独を……この鬱悶を……どうすればいい?
だから……
だから……私は信じていたいのだ!
嘆くことはない!
お前の輝きを見れば――心は自ずと満ち足りるのだ、と――
〇T.S.君とやぶちゃんの協働取組みによる評釈
北極星に因んだ詩。
またしても星空が詩人の心を触発する。
しかし、我々が詩人の心に誠実に近づこうとすればするほど、はっきり見えてくるものがある。
これは北極星を詠んだ詩では――ない――。
確かに、この不動の星がないと、詩世界は瓦解する。
しかし――あくまでも星を眺め、憧れ、惧れ、思いを致しつつ、実は、自らの鬱悶を吐露した詩――なのだ。
北極星に足掛かりを定め、移ろいゆく宇宙と、深淵の前に立ち尽くす自分の眩暈をうたった詩なのだ。
だが――読者は――果して感じ得るのだろうか?
全天唯一の不動の輝きに、遂に心が満たされ安堵した詩人などというものを?
北極星に対しつつ、爽やかに自らの孤独を受け止め、胸を張って、しっかり二本の足で立つ詩人などというものを?
まさか、悪い冗談だ。……
結句の末尾に惑わされてはいけないのだ。
詩人の鬱悶は何も解決しちゃいない! 軽減されてさえいないんだ!
たった独り、夜空を見上げる詩人は、却って眼前に広がる大宇宙の流転に慄き、恐ろしい孤独の前に立ち竦む。
そうして自らを理解してくれる魂の存在を夢想する。
しかし――しかし、自分を完全に理解する他者など――
――これは恐らく幻想に過ぎない。
孤独を全身の肌で感じてしまう恐ろしい一刻は、決して彼を離れない。
そして北極星だ。
人の世を包むこの大宇宙の中、唯一、不動の極点を捕(つら)らまえた燦めき。
詩人の心はこの輝きに追い縋ろうとする。
「全てが変転する中で、なぜお前だけは?……一体お前は何者なのか?……」
と。
しかし星は何も応えない。
詩人もまた、移り行く世界の一点景でしかあり得ない。
そんな彼に、永遠を捉えた不可思議な極点にあって星が呟く言葉など――聞こえるはずもないではないか!
万一、それが聞こえたとしても――彼には、それを理解する術(すべ)さえもないはずだ!
ましてや、そんな彼が、その星に近づくなど、想像することすら、難しい。
いや、詩人は全て解っている。
解っていながら――その輝きに目を凝(こ)らさざるを得ないのだ。
そして、理不尽な世の中と自分との、あらゆる不協和音を束の間でも忘れようと呟かずにはいられないのだ。
心伸びやかに怡(たの)しむのだ――と、詠(うた)わずにいられないのだ。
そうして、密かに夢想するのだ。……
……変化する宇宙にあって、同じくうつろう存在としての自分は……こんなに苦しみ藻掻いている……けれど……動かないもの――確かなもの――永遠なもの――が、きっとあるに違いない!……この世界のどこかに……私の心の中に……。
――なぜなら、あの北極星を見よ! 流転する万物を従えて永遠に微動だにしない輝きが、眼の前に現に存在しているではないか!――
現代でこそ、星と孤独を併せて詠(うた)う『文芸モドキ』は、これ、世に溢れている。これらを主題にした歌謡曲さえも、きっと容易に我々は思い出すことが出来るに違いない。
しかしそれは、謂わば、『孤独の安売り』に過ぎぬ。
マスメディアが、現代ほどには野放図に信号を発してはいなかった、あの中島敦の生きた時代(*)にあって、この詩想は、どれほど一般的なものであったのだろう?
(*)追加注:「マスメディアが現代ほど野放図に
信号を発している」という認識自
体は、実は所詮、一種の幻想でし
かないと、私には思われるのだけ
れども。
詩人が抱えていた心の闇は、美しい北極星の輝きの向こうに見失われがちだ。
しかし星を見つめながら――つまり、自分の心を見つめながら――吐息とともに、ポツリと、こんな五絶を詠んだ彼の鬱屈した心を思う時、私はその奈落の深さ――闇の濃さをこそ思い致すのである。……
そうして最後に、私は恐ろしいことに気づく。
――千仭の奈落、そして漆黒の闇……これは、はたして、詩人独りのものだったのだろうか?
と。
この詩に共感する私は/私だけは『違う』などと――何を根拠に言い切れるだろうか?……
――私はただ
――惧れ
――黙したままに
詩人とともに
あの北極星を
見つめるしか――ない――