一言芳談 一三七
一三七
ある人云、眞實に往生せんと思はば、人をもかへりみず、物にもいろはずして、ただ念佛すべし。利生(りしやう)は還來穢國(げんらいゑこく)を期(ご)すべし。
○人をもかへりみず、他を教化(けうげ)せんとも思はず。
○物にもいろはず、佛法の事、世間の事にもかゝはらず。
○還來穢國、善導の御釋(おんしやく)に、還來穢國度人天(げんらいゑこくどにんてん)とあり。極樂より立歸りて衆生を利益(りやく)する義なり。
[やぶちゃん注:――仏法や利生などを云々するのは、これ、お前が極楽に一度行って、そして戻ってからにせよ――実に実に、いい台詞である。
「いろはずして」「いろふ」は「綺ふ・弄ふ」などと書き、①関わり合う。関与する。②口出しする。干渉する。③言い争う。さからう、といった意味を持つ。ここは①でよい。
「利生」「利益衆生(りやくしゅじょう)」の略。仏・菩薩が衆生に利益を与えること。また、その利益。
「還來穢國」、中国南北朝期の僧で中国浄土教の開祖とされる曇(四七六年?~五四二年?)が「浄土論註」巻下で説いた往還回向の内の還相回向のこと。「還来穢国の相状」の略で、浄土へ往生した者を、再びこの世で衆生を救うために還り来たらしめようとの願いを指す。「往生浄土の相状」の略である往相回向が、自分の善行功徳を他の者に廻らしつつ、他の者の功徳として、共に浄土に往生しようとの願い、即ち、一切衆生がともに極楽往生しようとする願いという極楽への普通のベクトルに対する逆ベクトル、極楽往生して仏となった者が再び衆生を済度するためにこの穢土に帰還することを指す。
「物にもいろはず、佛法の事、世間の事にもかゝはらず」この標註、ぶっ飛んでいて、実によい。
「善導」(六一三年~六八一年)は唐代の僧で浄土教の大成者。
「御釋」善導の「法事讚」巻下の冒頭の「転経分」の第一段末尾に、
下、高に接ぎて讚じていへ。
願はくは往生せん、願はくは往生せん。佛と聲聞・菩薩衆、同じく舍衞に遊び祇園に住し、三塗を閉ぢ六道を絶たんと願じて、無生淨土の門を開顯したまふ。人天大衆みな來集して、尊顏を瞻仰して未聞を聽く。佛を見たてまつり、經を聞きて同じく悟を得、畢命に心を傾けて寶蓮に入る。誓ひて彌陀の安養界に到り、穢國に還來して人天を度せん。願はくは、わが慈悲際限なくして、長時長劫に慈恩を報ぜん。衆等、心を囘して淨土に生ぜんとして、手に香華を執りてつねに供養したてまつれ。
とある(ウィキ・アーカイブの「法事讃」のものを正字化して示した)。]