一言芳談 一三九
一三九
顕眞座主(けんしんざす)云、轆轤(ろくろ)かまへたることぞ。
○轆轤かまへたることぞ、佛願の重罪を接したまふことは大木を引くに轆轤をかまへたらんがごとし。繪詞傳第十九に物語あり。
[やぶちゃん注:「顕眞座主」(天承元(一一三一)年~建久三(一一九二)年)は天台僧。号は宣陽房、父は美作守右衛門権佐(うえもんのごのすけ)藤原顕能(あきよし)。母は参議藤原為隆の娘。比叡山で天台教学や密教を学んだ後、承安三(一一七三)年、大原別所に隠棲、浄土信仰へ傾き、文治二(一一八六)年に勝林院に法然・重源・貞慶・明遍・証真らの碩学を集めて大原問答を行ったとされる(参加者については異説あり)。翌文治三(一一八七)年には勝林院で不断念仏を始めている。建久元(一一九〇)年、第六十一代天台座主に就任、最勝会(金光明最勝王経を講じて国家の安泰を祈願する勅会)の証義も勤めさせられ、権僧正の位に昇った(以上は主にウィキの「顕真」に拠った)。
「轆轤かまへたることぞ」Ⅱの大橋氏の訳はこの主語を「阿弥陀仏の本願は、」と補って訳しておられる。
「轆轤」重い物の上げ下ろしに用いる滑車。
「佛願の重罪を接したまふこと」私が馬鹿なのかこの部分、意味が分からない。識者の御教授を得たい。是非、お願いする。
「繪詞傳」「法然上人行状絵図」のこと。個人ブログ「いとーの部屋」のここにあるのがそれか?(正字化して引用させて戴いた)
上人かたりての給はく。淨土の法門を學する住山者ありき。示云。われすでに此教の大旨を得たり。しかれども信心いまだおこらず、いかにしてか信心おこすべきとなげきあはせしにつきて、三寶に祈請すべきよし教訓をくはへて侍しかば、かの僧はるかに程へてきたりていはく。御をしへにしたがひて祈請をいたし侍しあひだ、あるとき東大寺に詣たりしに、おりふし棟木をあぐる日にて、おびたゞしき大物の材木ども、いかにしてひきあぐべしともおぼえぬを轆轤をかまへてこれをあぐるに、大木おめおめと中にまきあげられてとぶがごとし。あなふしぎと見る程に、おもふ所におとしすへにき。これを見て良匠のはかりごとなをかくのごとし。いかにいはんや彌陀如來の善巧方便をやとおもひしおりに、疑網たち所にたえて信心決定せり。これしかしながら、日頃祈請のしるしなりとかたりき。其後兩三年をへてなん。種々の靈瑞を現じて往生をとげける。受教と發心とは各別なるゆへに、習學するには發心せざれども、境界の緣を見て信心をおこしけるなり。人なみなみに、淨土の法門をきき念佛の行をたつとも、信心いまだおこらざらん人は、たゞねんごろに心をかけてつねに思惟し、また三寶にいのり申べきなりとぞ仰られける。]