昂奮と灌漑 萩原朔太郎
昂奮と灌漑
詩作に必要な動機は、感情や情緒の昂奮ではなく、平常、常識によつて抑壓されてゐたそれらの物が、何等かのはずみによつて、解放れることの機緣である。それ故に詩は、アルコールの酩酊によつて生ずる如き、情緒のパツシヨネートの昂奮ではなく、心に貯へられてあつた池槽の水が、靜かに美しく律動しながら、平地に灌漑して行くやうな狀態でのみ、常に藝術され得るのである。詩がもし「昂奮」であるならば、詩は知性的に盲目者でなければならぬ。だがその反對に、詩は澄み切つた知性の眼で、常にその周圍の風景を見渡しながら、悠々として情緒の浪に漂ひつつ、靜かに美しく律動して行く。詩は「情緒の灌漑」であつて昂奮ではない。
[やぶちゃん注:昭和一五(一九四〇)年創元社刊のアフォリズム集「港にて」の冒頭パート「詩と文學 1 詩――詩人」の二十番目、先に示した「人工による靈感」の直後に配されたものである。下線「必要」は底本では傍点「ヽ」。私はこの「情緒の感慨」ならぬ『情緒の灌漑』という表現が、これ、とびっきりに好きだ。このアフォリズムを示したいがために、ここまでのそれらを、私は延々と引いて来たと言っても、実は過言ではないのである。]