耳嚢 巻之六 其調子揃時弱きは破るゝ事
其調子揃時弱きは破るゝ事
熊本領に座頭ありて音律に妙を得て、三味線を以(もつて)、何の調子にても合せけるが、或時小兒の障子を敲いて音しけるを、あれにも調子合(あふ)べしやと人のいひしに、合(あは)せ申さんといひし故、彼(かの)小兒に替りて大人の其(その)障子ほとほと打(うち)ける音に、座頭三味線とりて調子を合せけるに、其調子の氣合、言葉にも述(のべ)がたし。しかるに大人の其心してうつ障子なるに、暫く程過(すぐ)れば障子の紙はことごとく裂(さけ)しと、西國の人かたりしをしるしぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:話柄上の有意で密接な関係性は認められないはずだが(前者は与力の話の又聴きで、こちらは西国出身の関係者)、何故か熊本で連関している。シンクロによる共鳴効果か、特殊な倍音の物理的な衝撃波的効果か。
名人の演奏はその調子が揃った瞬間に弱い対象を容易に破壊し得るという事
熊本領に一人の座頭が御座って、音律に妙を得た達人にして、三味線を以って、どのようなおかしなる変拍子であっても、これ、その調子を合わせて三味線を弾くと申す。
ある時、彼が訪ねた先にて主人(あるじ)と語ろうて御座った折り、すぐ近くの戸の辺りにて、その家(や)の主人の子(こお)が、障子を敲いて遊んでおる音がして御座った。
それを聴いた主人の曰く、
「――例えば――貴殿、あの音にも、これ、三味の調子を合わすこと――出来ると申すか?」
と質いたゆえ、
「――されば――合わせ申そうず。――」
と即座に答えたれば、主人は、かの子を奥にやって、主人自から、その障子を、
……ほとほと……
……ほとほととんと……とんととほとと……ほととん……
と如何にも乱拍子にて打って御座った。
と、その音に、かの座頭、徐ろに三味線を執っては調子を合せた――
いや!
その調子の、これ、絶妙なる合わせ方たるや!
これ!
もう、言葉にてはとても、述べ難きものにて御座っての!――いやいや、その実を、これ、方々へお聴かせ出来ぬは、まっこと! 残念至極じゃて!――
――因みに
――ところが
――大の大人が、その座頭の神妙なる三味の合いの手を意識しつつ――この時は……もう、大方、お分かりになられて御座るとは思わるるが、実は、半ばはその三味の調子をわざと崩してやろうぐらいの思いも強う、これ、働いて御座ったが……打ったるところの――この障子――まだ張り替えたばかりの新品で御座ったそうじゃが――これ――この出来事の二、三日後――敲いたところだけにてはなく――一つ戸のその総ての障子の紙が――これ、自然――悉く――ぼそぼそになって裂け破れてしまっておったと申す……
これは熊本所縁の、西国渡りの御仁より聴いたものを書きとめておいたもので御座る。