沢庵宗彭「鎌倉巡禮記」 22
又次の日は建長寺に入、佛國禪師を拜す。正統庵は夕に扉をもとぢず。人すまざればよるほけだものすみかとなるとみえたり。いかにしてかゝる樣ぞと問へば、所領庄園いさゝかも今はなければ、兒孫末派はありながらも、わが私の庵をさへ守かねたる事なれば、本庵をいかにともしがたくとかたる。常寂の塔は風とぼそをひらき、さし入物はよはの月より外はあらじ。禪師そのかみ、
月はさし水鷄はたゝく槇の戸を あるしかほにてあくる山風
と詠じ給けるは、今みればあとを讖し給ふにこそと覺ゆ。さまざまに色どりゑがきたる棟うつばりを雨にくたし、現容によくにむ事をおもひ、志をきざみし尊像も今はつゆしづくにうるほふ。後門のかたをみればから樣にきざみなしたる曲几くづれうづびてあれども、たれおさむる人もなし。か樣にもすたれはつる事やとなげく外なし。いさゝか香の資を奉りしもたれにかくといふべき人もなし。門派の人を尋て授て歸りし。禪居庵は大鑑禪師淸拙和尚の塔也。香拜して歸りぬ。一老僧後に宿坊へ尋られ古今の物かたりどもありし。
[やぶちゃん注:「佛國禪師」高峰顕日(こうほうけんにち 仁治二(一二四一)年~正和五(一三一六)年)。執権北条貞時・高時父子の帰依を受け、鎌倉では万寿寺・浄妙寺・浄智寺・建長寺の住持を歴任した。門下に夢窓疎石などの俊才を輩出、関東における禅林の主流を形成した(ウィキの「高峰顕日」に拠る)。
「讖し」は「しるし」と訓じているものと思われる。音は「シン」で、字義は、しるし。兆しで、未来の吉兆禍福の前兆の謂いである。
「建長寺境外(外門の道を隔てた向かい)にある建長寺の塔頭。現在は「禅居院」と院号を用いている。
「大鑑禪師淸拙和尚」清拙正澄(せいせつしょうちょう 一二七四年~暦応二・延元四(一三三九)年)。中国渡来の禅僧で北条高時の信任を得、後は後醍醐天皇の勅命で京都の建仁寺・南禅寺などに住した。]

