遠景 萩原朔太郎 (「かなしい遠景」初出)
遠景
哀しい薄暮になれば、
勞働者にて東京市中が滿員なり、
それらの憔悴した紫色の顏が、
巷街(まち)中いちめんにひろごり、
あつちの市區でも、こつちの市區でも、
堅い地面を掘つくりかへす、
掘り出して見るならば、
煤ぐろい嗅煙草の銀紙だ、
重さ五匁ほどもある、
にほひ菫の干(ひ)からびきつた根の株だ、
それも本所淺草あたりの遠方からはじめ、
東京市中いちめんにおよんで、
空腹の勞働者がしやべるを光らす。
[やぶちゃん注:『詩歌』第五巻第一号・大正四(一九一五)年一月号に掲載。次に示す詩集「月に吠える」初版(大正六(一九一七)年二月感情詩社・白日社出版部共刊)の「悲しい月夜」の巻頭を飾る「かなしい遠景」の初出。太字は底本では傍点「ヽ」。「五匁」(ごもんめ)は一八・七五グラム。「にほひ菫」双子葉植物綱スミレ目スミレ科スミレ属ニオイスミレ Viola odorata。西アジアからヨーロッパ・北アフリカの広い範囲に分布し、バラ・ラヴェンダーと並ぶ香水の原料花として古くから栽培されている。草丈は一〇~一五センチメートル、茎は匍匐して葉は根生、他のスミレ類と同じくハート形。花は露地植えでは四月から五月にかけて咲き、左右相称の五弁花で菫色又はヴァイオレット・カラーと呼ばれる明るい藍色が基本であるが、薄紫・白・淡いピンクなどもあって八重咲きもある。パンジーやヴィオラに比べると花も小さく、花付きも悪いが、室内に置くと一輪咲いているだけで部屋中が馥郁たる香りに包まれるほどの強い香りがある(以上はウィキの「ニオイスミレ」に拠った)。しかし……これ……プロレタリア詩の中に作者名を伏せて潜ませれば、誰もがそれらしい無名の労働者の詩だ、とその象徴詩の巧妙な罠に気づかずに納得してしまうものではなかろうか?……]
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