鎌倉 田山花袋
鎌倉 田山花袋
[やぶちゃん注:大正七(一九一八)年博文館刊の、自然主義の巨頭(私は彼の写真を見る都度、文字通り、巨頭と言いたくなるのである)田山花袋「一日の行楽」より。底本は国立国会図書館近代デジタルライブラリーの画像を視認してタイプした。親本は総ルビであるが、読みの振れそうなものと難読語のみのパラルビとした。なお、親本には途中に「鎌倉圓覺寺舎利殿」のキャプションを持つ当時の写真が挿入されてある。]
鎌倉
鎌倉と江の島は、今では東京の郊外と言つても好(よ)い位(くらゐ)である。ちよつと遊びに行くにもわけがない。鎌倉に住宅を構へて、毎日汽車で東京に出勤してゐるつとめ人などもある位である。
鎌倉は歴史の跡に富んでゐる。日本では、奈良、平泉、鎌倉、この三つが完全な『廢都(はいと)』の址(あと)である。中で、鎌倉はやゝ開けすぎたので、『廢都』といふ感じは薄らいで了つてゐるけれども、小野湖山が鎌倉懷古の七絶を賦した時分には、憑弔(いようてう)の客(きやく)をして涙(なみだ)襟(きん)を沾(うるほ)すに至らしめたほどさびれてしまつてゐたのでつた。私(わたし)の知つてゐる最初の鎌倉の印象も矢張(やはり)さびしい衰へた『廢都』のさまであつた。八幡前の廣い若宮大路には草が高く生えて、兩側(りやうがは)には茅葺屋根の百姓家が竝び、麥が筵に竝べて干されてあつたりした。
今は東京にゐて鎌倉を知らないものはない。鶴岡八幡、僧公曉のかくれた大銀杏(おほいてふ)、由比ケ濱の波、長谷の大佛、大塔宮(だいたふのみや)の洞窟、賴朝の墓、靑砥藤綱の滑川(なめりがは)、すべて人口に膾炙してゐる。中學生などもよく修學旅行に出かけて行つて知つてゐる。それに停車場(ていしやぢやう)から長谷の方にかけて、乃至(ないし)は笹目谷(ささめがやつ)とか、松葉谷(まつばがやつ)とか言ふ谷々も皆な別莊や人家で埋められて了つた。何(ど)うしても、東京の郊外といふ氣がする。
鎌倉で、先づ停車場を下りる。一番先に、鶴岡八幡に行く。八幡の境内は瀟洒で、掃除が行き屆いて氣持が好い。例の靜御前の舞を奏したあとなどを見て、長い石磴(せきとう)を登ると、左に、僧公曉の實朝を弑(しい)した大銀杏がある。無論そのひこばえであるが、それでもかなりに大きい古い樹だ。八幡の樓門の前から、遙かに由比の濱の波の音(おと)を聞いた感じはわるくない。それに鎌倉の四面を圍んだ丘陵の上に、松が竝んで生えてゐるさまも、人に繪のやうな感じを與へた。この下の一帶の低地、若宮大路を挾んだ左右の地は、賴朝時代に覇府(はふ)の行政廳や諸大名の邸(やしき)があつたところで、沿革圖を見ると、その當時のさまが一々指點(してん)される。で、八幡を去つて、師範學校の傍(そば)を通つて、賴朝の邸(やしき)の址(あと)といふのを見て、今度は丘近く賴朝の墓のあるところに行く。
墓は大江廣元の墓と相竝んでゐる。磴道(とうだう)がかなりに長い。廣元の墓はその後裔の島津家で手を入れているので常に綺麗だが、その主人の賴朝の墓は苔蒸して詣づる人もないのは悲しいやうな氣がする。で、一拜してこゝを去つて、今度は鎌倉がまだ覇府でなかつた以前からある荏柄天神社に行く。さびしい社(やしろ)だが、これが歷史の永い悲喜劇の址を經て來てゐる社だと思ふと、感じが深い。春先は境内の梅が白く咲いてゐて好い。
やがて鎌倉宮(かまくらのみや)に來る。春は山櫻がちらちらと咲いてゐたりする。護良親王(もりなかしんわう)の弑せられた土牢(どらう)は社の後(うしろ)にあつて、賴めばそれは見せて貰へる。淵邊義博(ふちのべよしひろ)は此處(こゝ)で親王を弑して、その遺骸を奥の松の下に持つて行つて埋めたといふことである。親王の事蹟は、今でも猶ほ人をして暗涙(あんるゐ)に咽(むせ)ばしめるに足るものがある。
で、此處から引返す金澤の方へ行く路に來て、滑川を渡つて、葛西(かさい)ケ谷(やつ)の方へ行つて見ても好い。此處にも澤山(たくさん)寺がある。北條氏は代々此の谷(たに)にその住所を持つてゐたらしく、高時の亡びた東勝寺(とうしやうじ)の址はもう今は殘つてゐないけれども、それでも別な寺にその時分の址は二三殘つてゐる。これからずつとレールを越して、材木座の方へ出て來ても好いが、普通は、八幡前に戻つて、小袋坂(こぶくろさか)の細い道を通つて、東福寺(とうふくじ)から建長寺の方へと行く。
建長寺は圓覺寺と共に、此處では是非見なければならない巨刹(きよさつ)である。堂宇も鎌倉時代のすぐれた建築で、その前のヒバの木なども見事だ。山門の扁額は寧(ねい)一山(ざん)の筆として著名である。堂の中には、澤山(たくさん)佛像やら寶物やらが竝んでゐる。富士の牧狩(まきがり)に用いた太鼓だといふものなどもあつた。
こゝには奥に流行の半僧坊がある。そのせいか、参詣者が多い。それに境内も小ざつぱりしてゐる。こゝから半僧坊のあるところまで五六町。
こゝを出(で)て少し來ると、山内(やまのうち)の管領屋敷址(くわんれいやしきあと)がある。建物(たてもの)は何もないけれど、地形は依然として、此處に大きな邸(やしき)があつたことを旅客(りよかく)に思はせる。春は川に添うて、赤い野椿(のつばき)の花が咲いてゐたりする。
圓覺寺は建長寺に比べると、さびしい。いかにも禪寺(ぜんでら)らしい。本堂の扉がびつしり閉つてゐて、晝も小暗(こくら)く杉樹(さんじゆ)が茂つてゐる。それを背景に、梅が白く咲いてゐるさまは繪のやうである。寺の奥に、北條時宗の墓がある。また右の小高い處に、鐘撞堂(かねつきだう)があつて、一撞(つき)一錢で遊客(いうかく)のつくに任せてゐる。をりをり鐘の音(ね)があたりの寂寥(せきれう)を破つてきこえて來る。
山の内から扇(おふぎ)ケ谷(たに)を通つて、化粧坂(けしやうざか)に行くと、葛原丘神社(くづはらをかじんじや)、景淸土籠(かげきよどらう)などがある。長谷(はせ)の方へも出て行かれる。
しかし此路(このみち)を行くよりは、再び八幡前に引返す。そして其處に待つてゐる電車に乘る。長谷はすぐである。昔は此間(こゝのあひだ)は麥秀(ばくしう)の歌のひとり手(で)に口に上るやうな畠(はた)であつたが、今はすつかり開けて家屋になつて了つた。町になつて了つた。長谷で電車を下りると、やがて左に觀音に行く路ががわかれてゐる。そつちに行かずに、眞直(まつすぐ)に行く。突き當ると、長谷の大佛である。悲願を以て名高い大佛がそこに立つてゐる。境内も靜かで、木の影が多くなつて夏は涼しい。奈良の大佛などに比べると、非常に小さいのだが、これだけ見ると、かなりに大きく見える。濡佛(ぬれぶつ)であるからであらう。堂守に賴むと、胎内を見せて呉れる。中には佛像などが澤山に並んでゐる。不思議な氣がする。
こゝを出て、元に戻つて、今度は觀音に行く。門前町から山門に通ずる石段を登る。堂宇もかなりに立派である。こゝにある觀音は、昔(むかし)海中から引上げられたものださうで、案内の僧が轆轤仕(ろくろし)かけ蠟燭を高く持ち上げて、暗い中に立つてゐる像を照して見せる。かなりの大きな像である。
この附近に權(ごん)五郎社(らうしや)がある。大きな石などがある。權五郎が持つたものだといふことである。昔は力餅(ちからもち)などを賣つてゐたが今は何うしたか。
鎌倉十井(せい)の一つである星月夜(ほしづきよ)の井(ゐど)なども其の近所にある。晝でも覗くと、その中に星が見えるなどと言はれてゐる。
この鎌倉の覇府を控へた海は、所謂(いはゆる)由比ケ濱で、西は稻村(いなむら)ケ岬(みさき)、東は小坪の鼻で丸(ま)るく包まれてゐる。何方(どちら)かと言へば、平凡な海である。海岸の砂山に竝んでゐる松も頗る貧弱だ。この海岸路(かいがんろ)は長谷から小坪まで一里に少し近い位だ。
材木座の方にも、仔細に探ると、見るものが少しはある。寺の大きいのなどもある。小坪から厨子に越えて行く路は、小さな峠を越して。一里半。
[やぶちゃん注:大正初年の、既に都市化されつつあった鎌倉の市街の様子がよく分かる名所の記載や呼称には、かなり問題のある箇所が散見されるが、二つだけ、誤りを指摘しておく。
一つは、頼朝の墓である。「墓は大江廣元の墓と相竝んでゐる。磴道がかなりに長い」とあるのは、北条義時の墓の誤りで、大観的にも「大江廣元の墓と相竝んでゐる」と言うには苦し過ぎ、階段がかなり長くて「相竝んでゐる」のは、広元の墓のすぐ隣り伝義時の墓であって、現在の伝頼朝の墓(頼朝の法華堂跡に後世立てられた供養塔とするのが正しい)位置とアプローチからはあり得ない。因みに、頼朝の墓の東隣の山稜平坦地が北条義時の法華堂跡と推定されている場所を花袋が参ったものである。現在も荒廃が著しいが、当時すでに「苔蒸して詣づる人もないのは悲しいやうな氣がする」という状態であったことが分かる。
「東福寺」という寺は鎌倉にはない。これは新旧巨福呂坂ルートからはその前は通らないから如何にも苦しいが、寿福寺寺の誤りとしか思われない。
これらのミス及び後半の「權五郎社」(坂ノ下の御霊神社の別名)の下りで、「昔は力餅などを賣つてゐたが今は何うしたか」と思わず漏らした、その文末から、花袋は執筆時の直近には描かれた各所をすべて来訪したという訳ではないことがバレている。
「案内の僧が轆轤仕かけ蠟燭を高く持ち上げて、暗い中に立つてゐる像を照して見せる」この描写を読むと、私はどうしても、同じ場所で、同じようにして、この観音を見、激しい感動に打たれた、ある私の愛する人物の手記を引用せずにはいられなくなる。
《引用開始》
そこから、われわれは音に聞こえた鎌倉の観音寺の前にいたる。衆生の心魂を救わんがゆえに、永遠の平和のために一切を捨離し、百千万億劫の間、人類と苦難を共にせんがために、涅槃をすてた慈悲憐憫の女仏。――これが観世音だ。
三層の石階を登って、堂のまえに行くと、入口にひかえていた若い娘が立って、われわれを迎えに出てくる。番僧を呼びに、その娘が本堂の中へ姿を消したと思うと、入れかわりに、こんどは白衣の老僧があらわれて、どうぞおはいりと会釈をする。
本堂は、今まで見てきた寺と同じくらいの大きさで、やはり同じように、六百年の歳月で古色蒼然としている。屋根からは、さまざまの奉納の品や、字を書いたもの、色とりどりにきれいな色に塗った無数の提灯などが下がっている。入口と向かい合わせのところに、ひとりぽつねんと坐っている像がある。大きさは、人間と同じくらいで、人間の顔をしている像だ。それがへんに薄気味わるく皺のよった顔のなかから、化物じみた小さな目玉をして、こちらを見ている。その顔は、むかしは肉色に塗られ、衣は水色に彩(いろど)られてあったのが、いまは、年とともに積り積った塵ほこりのために、全部が白ちゃけてしまっている。その色の褪せたところが、爺ぐさい姿にかえってよく調和して、ちょっと見ると、生きている托鉢坊主を見ているような気がする。これがおびんずるで、東京の浅草で、無数の参詣者の指になでられて形の擦りへってしまっている、あの有名な像と同じ人物だ[やぶちゃん注:「おびんずる」は底本では「ヽ」の傍点。]。入口の左と右には、筋骨隆々たる、物すごい形相をした仁王が立っている。参詣人が吐きつけた紙つぶてが、深紅の胴体に点々とこびりついている。須弥壇の上には、小さいけれども、ひじょうに好感のもてる観音の像が、炎のちらちらするさまを模した、細長い光背を全身に負うて立っている。
が、この寺が有名なのは、この小さな観音像のためではないのだ。ほかに、もうひとつ、条件づきで拝観できる像があるのである。老僧が、流暢な英語で書かれた歎願文を、わたくしに示した。それには、参詣者は、本堂の維持と寺僧援護のために、応分の御寄進が願いたいとしてある。宗旨ちがいの参詣者のためには、「人に親切にし、人を善人にみちびく信仰は、すべて尊敬する価値がある」ことを銘記せよ、といって訴えている。わたくしは賽銭を上げて、大観音を拝観させてもらうように、老僧に頼んだ。
やがて、老僧が提灯に灯をともして先に立ち、壇の左手にある狭い戸口から、本堂の奥の高い暗がりのなかへと案内をする。しばらくのあいだ、あたりに気をくぼりながら、そのあとについて行く。提灯がちらちらするほかには、何も見えない。やがて、なにやらピカピカ光った物の前にとまる。しばらくすると、目がだんだん闇になれてきて、目の前にあるものの輪郭が、しだいにはっきりしてくる。そのうちに、その光った物は、何かの足であることがわかってくる。金色(こんじき)の大きな足だ。足の甲には、金色の衣の裾がだらりとかかっている。と、もう一方の足も見えてくる。してみると、これは、何か立っている像だ。今、われわれのいるところは狭いけれども、天井のばかに高い部屋であることがわかる。そして、頭のずっと上の神秘めいた闇のなかから、金色の足を照らしている提灯の灯影の輪のなかへと、長い綱が何本も下がっているのが見える。その時老僧は、さらに提灯をふたつともして、それを、一ヤード[やぶちゃん注:約九〇センチメートル。]ずつほど離れて下がっている綱についた釣(かぎ)にひっかけると、ふたつの提灯を、同時に、するすると上にたぐり上げた。提灯がゆらゆら揺れながら、上の方へするする上がって行くにつれて、金色の衣がだんだんに現われてくる。やがて、大きな膝の形が二つ、もっこりとあらわれたと思うと、つぎには、彫刻をした衣裳の下にかくれている、円柱のような二本の太股の線があらわれてくる。提灯は、なおも揺れながら、上へ上へと昇って行く。それにつれて、金色のまぼろしは、いよいよ闇のなかに高くそびえ、こんどは何が出てくるだろうという期待の心が緊張してくる。頭のずっと上の方で、目に見えない滑車が、コウモリの鳴くようなキイキイ軋る音を立てるほかは、何の物音もしない。そのうちに、金色の帯の上のあたりに、胸らしいものが見えてくる。すると、つづいて、冥福を祈るために高くあげられている、金色さんぜんたる片方の手が見えてくる。つぎには、蓮華をもった片方の手が、そうして、いちばん最後に、永遠の若さと無量のやさしさをたたえて、莞爾(かんじ)として微笑(みしょう)したもう、金色の観音の慈顔があらわれる。
このようにして、神秘の闇のなかから現じたもうたこの女仏――古代が産み、古代美術が創造した作品の理想は、ただ、荘厳というようなものだけにはとどまらない。この女仏からひきだされる感情は、ただの讃歎というようなものではなくて、むしろ、畏敬の心持だ。
美しい観音の顔のあたりに、しばらく止まっていた提灯が、この時、さらに滑車のきしる音とともに、また上へ昇って行った。すると、なんと見よ、ふしぎな象徴をあらわした、三重の冠があらわれた。しかも、その冠は、無数の頭と顔のピラミッド――観音自身の顔を小さくしたような、愛らしい乙女の美しい顔、顔、顔の塔であった。
けだし、この観音は、十一面観音なのである。
《引用終了》
この筆者が、如何にこの観音像に感動したかは、以下、次の「十三」章をまるまる、この長谷観音の縁起を語ることに費やしていることからも分かる(「新編鎌倉志卷之五」や「鎌倉攬勝考卷之七」の「長谷觀音堂」の記述と比べれば、その温度差は天地ほども違うと言える)。……しかも、もうこの人物が誰かは、お分かりであろう――彼は日本人ではない――いや――後に日本人となったアイルランド人――小泉八雲である。これは彼の日本来日直後の印象を纏めた明治二十四年に刊行された、
HEARN,
Lafcadio Glimpses of unfamiliar Japan 2vols. Boston and New York, 1894.
の「十二」章の全文で、引用は私の尊敬する翻訳家平井呈一氏の「日本瞥見記(上)」(一九七五年恒文社刊)に拠った。著作権が存続するが、この項には最も相応しい引用であると確信し、章全体の引用を行った。これは著作権侵害に当たる行為に相当するとは私は思っていないが、著作権者からの要請があれば、必要な引用としての観音の描出シーンを残して前半部を削除する用意はある。
最後に。前に示した「昔は力餅などを賣つてゐたが今は何うしたか」という懐旧表現に着目して貰いたいのである。実はこの御霊神社の境内には彼の盟友であった国木田独歩が明治三五(一九〇二)年から一年ほど移り住んでいたのである。名物の力餅は独歩の好物でもあった。花袋の、突然の不思議な感懐の吐露は、実は亡き友の面影とのオーバー・ラップなのである。]