一言芳談 一三三
一三三
又云、往生は、決定と思へば、定めて生(むま)る。不定とおもへば不定なり。
〇決定と思へば、何の仔細もなく、此度決定往生とおもひつめて申すべし。そのつよき心にて往生は手に取るがごとし。
[やぶちゃん注:「生(むま)る」の読みはⅡ・Ⅲに拠った。「往生は」以下の法然の法語はⅡの大橋氏注に、「法然上人行状絵図」の第二十一、「閑亭後世物語」の巻下、「東宗要」の巻四にも見える、とある。「閑亭後世物語」は「一一七」で既に注したが、二巻からなり、まさに「一三二」で注した、多念義を主張した浄土宗長楽寺流流祖隆寛の語録である。しかし、何よりも人口に膾炙する「徒然草」に引用されている点であろう。以下、第三十九段を引く
(底本は昭和二七(一九五二)年角川書店刊今泉忠義訳注「徒然草」本文に拠った)。
或人、法然上人に、「念佛の時、睡(ねぶり)にをかされて行をおこたり侍ること、いかがして、このさはりをやめ侍らむ」と申しければ、「目の醒めたらむ程念佛し給へ」と答へられたりける、いと尊かりけり。また、「往生は一定(いちぢやう)と思へば一定、不定(ふぢやう)と思へば不定なり」といはれけり。これも尊し。また、「疑ひながらも念佛すれば往生す」ともいはれけり。これもまた尊し。
「をかされて」「をかす」は「犯す」「侵す」で、害する、妨げるの意、「目の醒めたらむ程」「む」は婉曲、「程」は限定を示す形式名詞で、目が醒めている時だけ、の意。「疑ひながらも念佛すれば往生す」とは、これまでの「一言芳談」の叙述から見ると、一見、やや不審な気もするが、考えて見れば――救い難き煩悩の凡夫は、心から純粋に疑いなく念仏申すべきこと、これ候はず――と私などは思うによって、嫌いな兼好と珍しくも同じく、「また尊し」と思うのである。しかして本条の標注を見れば「つよき心」と言うが、心の在り方が純粋に「何の仔細もなく、此度決定往生とおもひつめ」たる状態であるならば、それを厳密には「つよき心」と表現する必要はないのである。他力を完全なる『真』命題としている心の状態にあっては、それは既にして「つよき心」と呼ぶ必要はない。そこに宿命の凡夫としての一抹の『偽』の疑いの翳が潜んでいながら、それでも、他力を信じようという「つよき心」がある場合にこそ、「つよき心」とは言うのである。さればこそ「疑ひながらも」「つよき心にて」「決定と思」ひて「念佛すれば」「定めて生る」、「往生す」と法然は語るのではないか?]
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