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« 竹の根の先を掘るひと 萩原朔太郎 (「竹」別ヴァージョン) | トップページ | やぶちゃんのトンデモ仮説 「陳和卿唐船事件」の真相 »

2013/04/29

★特別限定やぶちゃん現代語訳 北條九代記 宋人陳和卿實朝卿に謁す 付 相摸守諫言 竝 唐船を造る

本来は「北條九代記」では詳細注釈に徹して、現代語訳はしていないが、ここは僕の大好きな話柄なれば――原文と注釈はこちら――



■やぶちゃん現代語訳

 

 ○宋人陳和卿が実朝卿に謁する事

  付けたり 相模守義時の実朝への諌言の事

  並びに  和卿が唐船を造る事

 

 宋国の陳和卿(ちんなけい)は、並ぶ者とてない名仏師である。しかも学識も優れ、道義も深い。

 来日後、そのまま日本に留まり続け、先(さき)つ頃は東大寺の大仏を造立致いたりもした。――その折りの驚くべき事実を、まずは語らずばなるまい。……

……右大将頼朝卿は、かの寺の落慶供養と新造の仏との結縁(けちえん)を期(き)して上洛致いたが、その折り、

「この度の、功ある宋渡りと申す仏工に、これ、是非とも対面(たいめ)致したいものじゃ。」

と仰せられた。

 ところが、その申し入れに対し、和卿は、

「――かの右大将家は、まことに多くの人の命を奪いなされた。――その罪業、これ、いや重きものなれば、――対面の儀は、未だ最後の落慶まで潔斎せる我らに於いては、これ、憚りが御座る。……」

と申し上げ、何と、遂に拝謁を致さなんだ。……

 ところが、今度(このたび)は、その和卿、当建保四年六月八日に至って、何と、自ら鎌倉へ下って参り、

「――ただ今の将軍実朝卿は、これ、『神仏の化身の生まれ変わり』の御方であらっしゃいます。――されば、是非とも、その御尊顔を拝し奉らんがため、はるばる関東の、この地まで赴き参じて参って御座った。――」

と謁見を願い出る言上(ごんじょう)を成した。

 それを聴いた将軍は、とりあえず、筑後左衞門尉朝重の家に和卿を逗留させ、大江広元朝臣を遣わして遠路来府の慰労をなされた。

 その上で一週間の後の同月十五日、めでたく御所に召し出だされ、将軍家との御対面の儀と相い成った。

 

 ところがそこで、異様なる事態が出来致いた。

 和卿は、将軍家の御前(ごぜん)にて合掌三拝致すと、凝っと将軍家の御尊顔を見つめ、突如、

「――あなたさまの前生(ぜんせい)は!――これ――大宋国に御座る育王山(いくおうざん)の禅師長老で御座る!……そして……そして我らはまさに、その折りの! あなたさまのお弟子で御座ったよッ! アイヤー! 我らのこの邂逅(かいこう)の因縁、これ、浅からざるものじゃ!……前世(ぜんせ)、そして今と……二世の契りを遂げ得たることの有難さよッ!……」

と叫んだかと思うと、滂沱(ぼうだ)の涙を流し、床を叩いて、号泣を始めた。

 ところが、将軍実朝卿には、この言葉を聞こし召されながら、不思議な心当たりが御座った。

『……去る建暦元年六月三日の夜(よ)のこと、私には……夢のお告げがあった。……一人の高貴なる僧が私の前に顕現され……私はかつて育王山の禅師の長老であったとの旨を、これ、私にお告げになられたのだった。……その夢告について、私は今日(こんにち)に至るまで、誰(たれ)にも語ったことは、これ、ない。……そうして六年が過ぎた。……しかし……今まさに……それが符合したではないか?!……』

 このことに気づいた実朝卿は、和卿の昂まりの収まるを見計らって、

「――その和卿が申す条は、全く以って我らが見たる夢の告げに違(たが)はざることじゃ!」

と宣はれたのであった。

 かくして将軍家は和卿に対し、深く信仰をお寄せならるるに至り、和卿を親しくお傍に侍らすことが、これ多なったと申す。 

 

 その対面から半年後の十一月二十四日のこと、将軍家は、ある命を発せられた。

「――私の夢告と和卿の言葉は一致した。――されば我ら、我が前生(ぜんしょう)の御住所たる育王山巡礼のため――入唐せんとぞ、思う。――」

と、即座に随伴する伴の者六十余名をお定めになられたのである。 

 

 驚天動地のとんでもない下知に、相模守義時とその子武蔵守泰時とが、しきりに諌め申しあげたものの、実朝卿は一向に聴く耳をお持ちになられぬ。

 遂には直々に、かの陳和卿に向かわれて、渡唐に用いんがための唐船(とうせん)を一艘建造せよと命ぜられたのであった。 

 

 幕府を――否、日本国を揺るがする、この事態に、相模守義時は密かに大江広元朝臣を自邸に招いて次のように語りかけた。

「……将軍家は、内々に渡唐という、呆れたと申すしか御座ない御事を思い立たれてしもうた。甚だ以って由々しき事態である。我らもしきりに諌言を奉ってはみたものの、これ、一向にお聴き入れ下されぬ。さればこそ、この上なく歎き申しておるところで御座る。そればかりにては御座ない。右大将頼朝公は官位昇進の宣下については、これある時には、その都度、昇進を固辞なされてお受けになられなんだが、当代将軍家は、これ、未だ壮年にもなられておらぬにも拘わらず、昇進のこと、甚だ早(はよ)う御座ろう。……されど……貴殿、何故に、ご忠言申されざるや?」

と苦言を含めたところが、広元も、

「……仰せの通り、日頃より我らとて、そのことを歎息致いて御座ったのじゃ。……いや、我らも、まっこと、心より悩み申し上げては御座ったれど、いささかのご忠言を吐露致す機会も、これ、御座なく……ただもう、独り腸(はらわた)を断ち切らんがばかりに――いや、まことで御座る!――口を噤んでおることしか出来ませなんだ。……しかしながら――古来、『臣たる者は己れの力量を見知って職を享(う)く』とこそ申すに、当代の将軍家は、たた単に先君(せんくん)の貴き御跡(みあと)としての将軍職の名目だけを、これ、お継ぎになられておらるるばかりにて、さしたる勲功も、憚りながら、おありには、なられぬ。しかるに――いや、言わせて貰(もろ)うなら、本邦諸国の総軍最高司令官としての征夷大将軍という職でさえも……これ実は、かの君には未だ、分に過ぎたるもので御座る。にも拘わらず、それに加えて中納言・左中将の職にまで補せられなさってしもうた。……これはまるっきり、摂関家の御子息と、何ら変わりは御座らぬ! これは禍いを重ねること、また、その結果として悪しき応報が降り懸かる、実にその双方に於いて、お遁れになることは、これお出来になれぬ。……しかも、少しの幸運さえも、まるで御子孫に残し伝えらるることは、これ、成し難きことと、申すしかなかろうか。……相い分かり申した。……早速に貴殿の御使(みつかい)として参上致し、進言、これ、申し試みようと存ずる。」

と返答なされ、即座に座を立って自邸にお帰りにならるるや、直ちに踵(きびす)を返して、御所に参じ、常に似ず、

「相州義時の意を介したる使いとして――」

とわざわざ断りの言上(ことあ)げ致いた上、

「――ただ願わくは、御子孫御繁栄の御為(おんため)には中納言及び左中将の当官を辞され、征夷大将軍一職をお守りになられて下されい! お歳を召された暁(あかつき)には、いかようにも、公卿の名誉職をも、これ、お享けになられてもよろしゅう御座いますればこそ!……」

と、遠回しの諌めの言葉を奉って御座った。

 すると、実朝卿は、いたって落ち着いたご様子にて、

「……その忠言……いかにもありがたく思うぞ。……なれど、よいか?……我らが源氏の正統……これ、今、この時に衰微し、子孫は、これ、更に相続なんおはとてものことに成し難きぐらいのことは――広元、そちも分かっておろうが?――されば……我ら、あくまでこれらの官職を兼任保守致し、せめても、源家の家名を、これ、後代に至るまで、正統にして公(おおやけ)なるところの受官の者として、輝かしく伝え残さんものと……思うておるのじゃ。……」

と仰せられた。

 この、恐ろしきまでの覚悟の仰せ言には、流石の広元も、最早、是非を申すに及ばず、黙礼致いたままに退出致すしか御座らんだと申す。

 広元は帰って、再び相州義時を訪ね、この趣きを語っては、両人ともに、今まさに幕府の屋台骨が、これ、積み上げた卵の如、すこぶる危険な状況にあるということばかりを歎きあったと申す。 

 

 翌年の四月、遂に唐船の造立が終わった。

 当日は数百人の人を召し出だされて、

「由比の浦に曳き出だいて浮かばせるように。」

と仰せにならるる。

 結城信濃守行光がこれを奉行致いて、午の刻より申の刻に至るまで、人足にありったけの力をふり絞らせ、

――エイヤ!――エイヤ!

と曳かせたけれども……

……何せ、この浦は元来が遠浅であって、かくも巨大なる唐船(からぶね)の浮ぶようも、これ、御座らねばこそ……何の施しようもなく……

……船は、ただ……

……役立たずのままに……

――さても後にはこの浜辺に打ち捨てられたままに朽ち果ててしまったと申す――

……一方、将軍家はと申せば……

……その日、大願の渡唐の大船(おおぶね)の進水とあって、満を持して御出座遊ばされたものの……かくなる仕儀と相い成り、興も醒めて、申の刻の前には還御なされてしまったとのことで御座った。 

 

「……陳和卿は頼朝卿の殺生の罪を冷徹に測り知り、また、実朝卿の前生をも明晰に記憶して、『人の心に隠された思いや、その運命を見通すことの出来る神通力がある』なんどと、尊(たっと)ばれはしたものの、唐船が由比の浦に浮かぶはずもないという、鎌倉にては童(わらんべ)さえ知りおることをも知らで、かくも御大層なる船を造り出だいては、湯水のように無駄金を費やしてしもうた。いや! なんとも妙に大事なところに行き届かぬ神通力ではないか! ト、ハハハハハ!」

と、市井の人々は、手をたたいては笑いおうた、とのことで御座った。

 

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