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2013/04/27

明恵上人夢記 7・8

一、建仁元年正月三日より、人の爲に修行法(しゆぎやうぼふ)を祈禱す。同十日。同十一日の夜、夢に云はく、上師、成辨と共に、播洲へ下向せしむ。船二艘あり。一便には上師乘らしめ給ふ。又一艘には餘の同行等乘らしめ、然れども、成辨、上師之船に乘り、暫時之間、餘の御房等之船に乘り遷る。佛眼(ぶつげん)の具足入れたる經袋をば上師之船に置けり。其の後、急に駃(はや)き風出で來、船走る事極り無く、譬へ無き程也。此の船は前に進み、上師之船は後に來る。成辨、經袋を取りて來ずと思ひて、心に深く之を悔ゆ。海に入りもこそすれと思ふ。人々も海に入りやせむずらむと思へり。其の船、極めて狹くして、而も長し。ここに於いて、誤り無く陸地に付き了んぬ。人有りて、來りて成辨を肩に乘せて、播洲の御宿所に到り付く。夢心地に、前々の如く、東寺の修理播洲御下向とも思はず、唯、播洲御下向と思ふ。さて御宿處に到り、巳に上師等、皆、落ち付き給ふ。成辨、此の經袋を尋ぬるに、上師の御房云はく、「など我にこそ言ひ誂(あつら)へてあづけましか」とて、此を歎かしめ給ふ。然る間、■■■一人の同行有りて、此の經袋を慥(たしか)にして持ち來る。成辨、悦びて之を取ると云々。其の後、一人の同行有りて、語りて曰はく、「上師告げて曰はく、『明惠房をば、二因緣有る故、此へ具して來る也。一つには病患を療治せん爲の故也。〔此、上之呵嘖之言(うへのかしやくのげん)に似たること有り。之を略す。〕二つには云々。』」善くも聞かず。其の後、上師、御具足を見る。自(みづか)ら手に一つの手箱を持ち給へり。見るに、此の御前之佛、布施之手箱也。夢心地に思はく、此は成辨に施したりしを、此の上師の取り給ふ也と思ふ。又、所治(しよぢ)之驗(しるし)と思ひて、死人等多く見ゆ。此(これ)、所治の相、雜(まじは)れる故也と云々。

 

 一、同十一日、一時に行法す。同十二日の夜、夢に、又、上師、播洲に居給ふ。成辨又參ず。彼の上師悦喜して、種々の談話を作す。

 

[やぶちゃん注:この二つ(厳密には大きく三つと私は判断する。後述)の夢は完全に連続したプロット上のものであるので、続けて示した。

「建仁元年」西暦一二〇一年。

「修行法」密教の修法。

「同十日。同十一日の夜、夢に云はく」この叙述は明恵の夢の特異性を証拠付けるものである。「同十日」は一応、十日の夜の夢ととれる(現代語訳ではそうした)が、必ずしも夜見た夢ではなく、部分的には修法の最中に観想した白日夢様(後述)のものとも採れなくはない(これは最初に述べたように明恵には特異なことではなかった)。それはともかくも、驚くべき事実は――彼は例えばこのように夢を連続した無矛盾(その夢世界に於いて)なものとして、間に有意な覚醒中断を挟みながらも、二日続けて前後篇で(実はこれは叙述が短いが、その翌日「8」も見ているから三夜連続の三部作である)夢をみることがあった――という事実である(こういう夢を見る方は恐らく極めて少ないと思われる)。但し、ここで彼がかなり過酷な呪法を修していたと仮定すると、昼間の覚醒時にあっても恐らくは平生の昼間覚醒状態の正常脳波レベルよりも少し覚醒時幻覚を見やすいレム睡眠のそれに近い状態に偏移していた状態にあった可能性が高いようには思われる。私が夜の夢ではない可能性を示唆したのはそういう意味でもある。ともかくも、寧ろ、そうした『夢の続き』現象が明恵には普通に頻繁にあったことが、この如何にもさりげなく日付を並べていることからも窺えさえするのである。なお、この夢はそういう意味で、明らかにインターミッションがかなりはっきり分かる形で入っている。修法時の覚醒時幻覚ならインターミッションが入るのは当たり前であるが、睡眠中の夢について、近年の研究では必ずしもレム睡眠時または入眠時幻覚相当や覚醒前駆状態にのみ夢を見ているわけではなく、ノンレム睡眠時でも夢を見ていることがあるらしいから、その夢部分のインターミッションを総てノンレムと判断することは出来ないし、更にこの夢は後述するように覚醒した明恵によって一部が意識的にも無意識的にもカットされている可能性がすこぶる高いのである。従って私は、この二日間に渡る長大な「7」の夢を全部で(a)~(f)の七つのパートに別け、翌日の「8」と合わせて八つの夢として現代語訳した。

「上師」母方の叔父で出家最初よりの師である上覚房行慈。明恵はこの翌建仁二年に、この上覚から伝法灌頂を受けている。

「播洲へ下向せしむ。船二艘あり」特に記載はないが(ないからこそ)、設定はかつていた神護寺であり、桂川から淀川を下っているイメージと思われる。後の部分で「夢心地に、前々の如く、東寺の修理播洲御下向とも思はず、唯播洲御下向と思ふ」とあるのは、私の場合もよくあるところのこれは夢の中での夢の自己の内的な認識補注に相当するものであるが、その「東寺の修理播洲御下向」という部分が、「4」で注したように、先立つ建久年間に行われた文覚・上覚らによる修理に関わって、実際に明恵は上覚に随伴して播洲に行ったことがある可能性が高いと推理するものである。その目的は判然としないが、修理に用いる建材か宮大工の関連かとも思われる。そこについては識者の御教授を乞うものである。

「佛眼の具足」「佛眼」は大日如来、「具足」はこの場合、僧の所持品でも狭義の最も重要な経典を指していよう。この仏眼如来の経とは、かの建久七(一一九六)年の「6」大孔雀王の夢で明恵に与えられた、明恵の夢界に於ける最重要アイテムを指していると読むべきであると私は思う。即ち、この夢では「6」の夢がプレにあって、その世界との夢界内無矛盾が成立しているということが、この夢を解き明かす上で重要であると私は思っている。

「其の船、極めて狹くして、而も長し」以下、「ここに於いて、誤り無く陸地に付き了んぬ」とシークエンスが明らかに変わるので、ここを区切りとし、前を(a)パート、後を(b)パートとした。

「人有りて、來りて成辨を肩に乘せて、播洲の御宿所に到り付く」私はこの肩にひょいと二十八歳の大人を乗せてずんずんと歩む人物に、異人性を強く感じる。描写がないが、私は所謂、四天王下の三十二将の天部の仏神の誰かではないかと踏んでいる。

「さて御宿處に到り、巳に上師等、皆、落ち付き給ふ」の「さて」という接続詞は一種の場面転換を意識的に示したものである。従ってここから後を(c)パートと採る。

「誂へ」人に頼んでさせる、の意。

「此を歎かしめ給ふ」ということは、上師はその経袋の存在すら知らず、この場面では行方不明であるということになる。その辺りの明恵自身の心の動きが描かれていないのが残念である。現代語訳ではそこを出してみた。

■■■」これは底本にはない。河合氏が「明惠 夢に生きる」の本夢分析の文中で、原本ではこの部分で『三文字ほどが抹消されている。「一人の同行」の僧を思いだしかけて書いて消してしまったのか、ともかく、ここに記憶の不鮮明さが伴ったことを反映していて、非常に興味深い』とあるのに基づく。なおこれは、私の次注の「思い出せないケース」という判断をも補強して下さるような心強い記載であると感じている。因みに、河合氏はこの文脈でこの「一人の同行」が明恵にとって『未知の僧』であるとされ、その未知の同行の人への思慕という形でシンボライズされている想いが、『結局は釈迦その人への直接的な思慕として結実してくるのである』と分析されておられる。これは極めて至当な解釈として私も支持するものである。

「悦びて之を取ると云々」先にも注したが、この「云々」はこの後に少し有意な展開(シーン・シークエンス)があったが、それを明恵が思い出せない場合に用いたケースと私は採る。従ってここでまでを(c)パート、以降を(d)パートとする。

「其の後、一人の同行有りて、語りて曰はく」この人物は先の経を届けてくれた「一人の同行」とは別人であると私は採る。こういうプロットのはっきりした中で夢記述をする場合、同じ人物であれば、意識的にそれを分かるように記そうとするのが、私の永年の夢記述での習慣からの他者の夢記述でもある程度、普遍的に類推出来る特徴であると思うからである。従って、ここでこれが同一人物であれば――しかも間に思い出せない欠落を挟むというデメリットを補う上でも――「かの經袋を持ち來り給ふ同行の僧」とするはずである。そもそも明恵は経が取り戻せたことで頗る喜悦しているのであるからして、そう記してこそ自然である。にもかかわらずそっけなく、しかも前文の直ぐ近くでくだくだしく見えるように「一人の同行」としたのは、とりもなおさず、これが別人であることを意味していると私は考えるのである。更に言えば、この人物が語る内容は明恵にとってある種のアンビバレントな感情を引き起こさせる契機であるように思われる(次で注するように断言は出来ないが)。その、もしかすると明恵の心内を落ち着かなくさせる人物が、彼の直前の救世主(経を救助した)と同一人物というのはプロットからしても不自然である(私は明恵の不条理な夢を私の覚醒的論理によって強引に辻褄の合うように変造しようとしているのではない。夢記述をしたことのない方には理解しにくいと思うが、私はなるべく夢の不条理性をそのままに残すことを心掛けてきた。では、今ここで私が問題にしていることは何かと言えば、私は明恵が覚醒時に自身の夢を、なるべく見たままに再現しようとした場合にどう記述するかという推理から、そこで用いられている言辞や表現の等価性や差違性を定量化するということである。また附言すれば、実は夢の不条理性には、その閉じられた系の中では実は頗る自然に是認されている限定的無矛盾性(私はそれを単に超自我の検閲規則というしょぼくさい限定存在としては考えていない。もっと遙かに自由自在な性質のものである)が厳然としてあるのである。それは私などの場合、通常、一つの夢の中でのみ有効であるが、強靭な精神力を持った特異な明恵の場合、そうした夢で汎用可能な現実的論理を超越した高次で特異な夢内の法則が、持続的に保持されていたようにも窺われるのである。そしてそれによって、明恵にとっての夢が、現実の体験以上に意味や価値を持つもの変化していった(寧ろ、それらが相互に影響し合って高度化した)のだと私は考えているのである。

「明惠房をば、二因緣有る故、此へ具して來る也。一つには病患を療治せん爲の故也。〔此、上之呵嘖之言似たること有り。之を略す。〕二つには云々。」この台詞には大きな問題点がある。一つは、上覚が明恵をここに随伴してきた二つの理由を、本人にではなく、この同行僧である他者に語ったという事実、更にその最初の理由である「病患を療治せん爲」の内容が、前の仏眼如来経の一件で上覚が「など我にこそ言ひ誂へてあづけましか」と明恵を見損ない、失望し、嘆息した内容と似たようなものであるから(重複するから、というニュアンスである)省略するという、如何にも分かりにくい変な明恵の割注の存在、そして、もう一つの理由が隠蔽されている点である。この二つ目が記されていないことと、そこに例の「云々」があること、更に言えば、その直後に「善くも聞かず」とあることなど、この部分は訳も解釈もしにくいのである。何より「善くも聞かず」はよく聴こえなかったという表現ではなく、(何かある反発心があって)よくも聞こうとはしなかった(だから聴こえたけれど、忘れた。実はそれは覚えていたけれども、忘れたいものであったから、この夢記述をしている今はもう忘れてしまった)という言い分けや暗示のようにさえ読めるのである。そうすると俄然、ここで覚醒時の明恵が割注で口を挟んだのも、聴いたはずなのに覚えていない(若しくは意識的そこを聞こうとしなかった)のは、とりもなおさず、この言葉を上覚の口からではなく(この又聞き間接話法が重要)、「同行の一人」の口から聴いたことが、恐らくは二つの理由内容を含めて極めて明恵にとって不愉快千万なものであったことを示唆しているように私は思うのである。そもそもこの「病患」とは、身体的な病気ではなく、弟子としての明恵の修養の中にある、正しい仏道を踏み外した誤った致命的な疾患の謂いであろうと私は解釈する。でなくては割注の意味が通じないからである。そして、この一つ目の理由でさえ、明恵は途中から聴きたくなくなるほどに不愉快になったのだ。それは覚醒後も持続する感情であった。だからこそ珍しい割注などを挿入して、その不快感情を師に関わる記載であるが故に誤魔化したのである。

「其の後、上師、御具足を見る」「其の後」は明らかに有意な時間経過(若しくはその部分の夢の失念)を指しているから、これ以降を(e)パートとする。「御具足」は、ここでは広義の僧の携帯品のことであろう。

「此の御前之佛、布施之手箱也」よく分からないが、私は神護寺の御本尊若しくは上覚の念持仏の仏前に置かれてあったはずの布施として奉られた手箱の謂いで採った。謂わば、法燈の換喩的象徴物品として私は採るのである。

「又、所治之驗と思ひて、死人等多く見ゆ。此、所治の相、雜れる故也と云々」明らかに本筋とは違う別な、そして死者累々たるすこぶる凄惨な情景である。「所治之驗と思ひて」はこれを記述している覚醒時の明恵の説明であって、前日より今日まで(次注参照)修してきた呪法の影響かと思われ、という謂いであろう。彼が行った修法が如何なるものであったのかは分からないが、そこでは人の死、その死体変相を説く仏説などが含まれていたものと思われる。それがこの累々たる死体の夢として現われたのであろう、と明恵は自己分析しているものと読む。しかし、この後に翌日の夢があることを考えれば、この一連の夢の中では、一種のこの一連の夢の意味を暗示するために配された、非常に重要なフラッシュ・バック・シーンでもあると私は考えている。これを(f)パートとした。

「同十一日、一時に行法す」これは「7」の夢を見る昼間の事実を記している。「一時に」は副詞で、短時間に集中して行うさまをいう。

「所治」二日からずっと行って来て、この日の昼も短い間おこなった修法。]

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 建仁元年正月三日より、さる方の求めにより、さる修法(ずほう)を行(ぎょう)じ、祈禱をなした。その後半の十日及び十一日の夜、続けて見た夢。

(a)

 上覚上師が、私とともに播磨国へと船で下向なさる。

 船は二艘あった。

 一艘には上師がお乗りになられた。

 また、一艘には私の同行(どうぎょう)の僧らを乗らせたが、私は最初は、自分の意志で上師の船に乗り、しばらく下って後、その他の同行せる御房らの乗る船に乗り換えた。

 ところが、その乗り換えた際に、自分の大日如来の経を入れた大事な経袋を、上師の乗っておられた船の中に置き忘れてしまったことに気づいた。

 ところが、その直後に疾風(はやて)が吹き荒び、私の乗った船の早く下ってゆくことといったら、譬えようもないほどの速さなのである。

 私の乗った船はみるみるうちに前へ前へと進み下り、上師のお乗りになられた船はずっと後から遅れて来るのであった。

 私は、

『――ああっ! 忘れた経袋を取りに戻らなかった!……』

と、思わず、心に深く悔いたのであった。また、私の乗る船の尋常でない速さに、

『――このまま我ら、海に沈んだりしたら一大事じゃ!』

と思ったりもした。

 同船している御房連中も、

『……海に沈んでしまうのではなかろうか?……』

と心配している。

 その船の形状は、ともかく極めて船幅が狭いものであって、しかも全長は異様に長いのであった。……

 

(b)

……しかし、その後、辛くも何とか無事に――いや、思ったような難船という事態も起こらずに――陸地へと流れ着いたのであった。

 海岸に人がいるのが見えた。

 その人がすっと寄ってきて、船の中の私を、童子ででもあるかのように、ひょいと肩に載せると、いとも軽そうに、播磨の上師の御宿舎まで運んで呉れる。……

 なお、この時、私は夢心地(ごこち)ながらも、はっきりと、

『この旅は――かなり以前に行ったことがある東寺の修理改修事業に関わる旅――であるという認識はなく――ただ純粋な播磨国への行脚の旅――である。』

という自覚を夢の中で持っていた。……

 

(c)

……さて、御宿舎に着いてみると、何と、後の船に乗っておられたはずの上師御一行は、既に先に到着なさておられた。

 私は、すぐにあの経袋のことを、訊ね申し上げたのであったが、上師の御房様は、

「どうして、この私に頼んで、その経袋を預けなかったのじゃ?!」

と、如何にも私の失策を惜しむように、その一件をしきりにお歎き遊ばされるのであった。――即ち、上師様は、大日如来の経の入った経袋のことを御存じなく、従ってここにはその経がないということを意味した――

 私は思った。

『……ああっ! 私の大切な、かの大日如来の御経は失われてしまったか!……』

 すると、その時である。

 後から遅れて入室してきた一人の同行の僧――■■■殿――があって、その御方が、何と! かの御経の入った経袋をしっかりと両の手に捧げて、持ってこられたのであった。

 私は喜悦して、これを受け取ったのであった。……

 

(d)

……その後のことである。

 先の経を持ってきて下さった人物とは違う、別の上師の同行がいた。

 その男が、私の元へ来たって語って言うことに、

「上師が仰せられたことじゃが、『明恵房をここに伴い来たったのには、ふたつの理由がある。

――一つには明恵自身の仏心の病んだ部分を療治せんがためという理由である。〔明恵注:この理由については、先の経袋を上師に委託しなかったことを譴責したのと酷似する内容が語られているに過ぎないので、略した。〕……

――二つ目の理由は…………』……

……この二つ目の理由は……そうさな、よく聴いても、これ、おらなんだわ…………

 

(e)

……その後の場面。

 上師の御持ち物を垣間見た。

 御自身で手に一つの手箱をお持ちになっておられた。

 それをよく見てみると、それは神護寺にある御本尊の前に置かれてあるはずの、布施として供えられた、あらたかなる手箱ではないか?!

 夢心地ながらも、私は、はっきりと、

『……!……あの手箱は、この私に嗣がれたはずの手箱ではないか!……何と! この上師が、それを知らぬ間に不当にも! お取り上げになられたかッ?!……』

と強い憤りを覚えたのであった。……

 

(f)

また、それに続く夢の中には、《明恵附記:この昼間に成した修法(ずほう)の影響からと思われるが、》死人(しびと)らが多く登場する場面を見た。《明恵再附記:先の附記は、この死人の群れは、当日、私が修した修法の内容や性質が、夜の夢に作用して、かくなって現われたのであろうと考えられる、という意味である。》」

 

一、建仁元年正月十一日、短時間の集中的な修法(ずほう)を行じた。その翌日の十二日の夜に見た夢。

「また、上覚上師がいる。上師はやはり、いまだ播磨国におられるのであった。

 私は、またしても師の御前に参じた。

 ところが今度は、いたく私の参ったのをお悦びになられて、いろいろと話しに花が咲いたのであった。

 

[やぶちゃん補注: 河合氏は「明惠 夢に生きる」でこの夢を取り上げ、『この夢を必ずしも上覚という人』実際の師としての個人と『明恵との葛藤と読みとる必要はなく、上覚が一般の当時の僧を代表しているのかも知れないし、あるいは華厳』という宗派存在や教団『を代表しているのかも知れないのである。ともかくもこの夢は、明恵が上覚を「師」として、ひたすらそれに従ってゆくのではなく、自分の道を自分の手で拓いてゆくべきことが暗示されているように思われる』と分析しておられる。ユング派らしい万人受け入れられやすい穏当な夢分析である。但し、最後の部分ではもう少し深く抉っておられ、注で述べた如く、この夢の翌年に『伝法灌頂を受けた頃、明恵は密教の様式によって華厳の教理を体得しようとする意図で、いろいろな工夫をこらしているが、華厳と真言という二つの教理の存在も、明恵にとっては大きい意味をもっていたと推察される』とある。

 7での師上覚とのアンビバレンツは、読んでいて何の困難もなく「腑に落ちる感じ」が私にはする。それは河合氏の夢分析を読まずとも、多くの方が同様に納得されるものと思う。「何を意味するかが論理的に解る」のではなく、こうした夢を見た明恵の心的複合(コンプレクス)が「直感的に腑に落ちる」のである。また、私には、

(e)での師への感情的な憤りの感情が超自我を刺激したために、

(f)の末尾の死体変相の夢魔が明恵に黙示され(それをそうは明恵はとらずに昼間の修法という一種の外部刺激によるものと「強いて」解釈しているところが、実は超自我の解釈検閲のようにも見えるのである)、

その無意識の夢の中の明恵の感情鎮静と師弟間の礼の復元を企図して、

「8」という打って変わった大団円の夢が用意されている、

と私は実に自然にこの長編三部作を破綻なく読解し終わるのである。

 再三述べるが、私はこの夢の隠された意味が分析的に解ったと言っているのではない。私はこの長大な明恵の、一見、複雑な夢を、一つの連続したストーリーとして、十全に楽しむことが出来た、と言っているのである。フロイトのような汎性論的単相の性的象徴関係でステロタイプに分析することは、実は容易いのだと思う。しかしそれは「ためにする」解釈の定式化でしかない。そうして、明恵が積極的に夢を記述する楽しみに生きたように、その明恵の夢を読んで、生き生きと楽しむこと――そこには無論、牽強付会な自己満足が潜んでいることも事実である。しかし、それは私に限らず、精神分析の夢理論総てに言えることなのである――それこそが実は夢を読み解くことの大切な第一歩であると、実は私は信じて疑わないのである。]

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