沢庵宗彭「鎌倉巡禮記」 23
次の日は龜谷山壽福寺に入る。逍遙院も今はなし。逍遙院はあやにくに水かれて草あをし。入定の石龕荊棘かこみ藋藜させ り。方丈も今はなし。殘りたる一院にいさゝか開山塔をかまへて香燈をそなふ。千光國師の尊像儼然たり。佛殿もかたばかりの體なり。淨妙寺は小佛殿・方丈是もかたばかりの體也。天地只一僧寂寞の扉をとぢて音もせず。開山塔をば光明院ときけど、光や地におちけむとおもふばかり也。
[やぶちゃん注:「逍遙院」は開山栄西の開山塔である逍遙庵のことである。
「あやにくに」もとは形容動詞ナリ活用の連用形であるが、ここでは副詞化されて、期待・本意に背いて、生憎、の意。
「水かれて」とあるから逍遙院には相応の大きさの池塘があったものと思われる。
「藋藜させ り」空白はママ。底本には右に『(藜藋しけりィ)』という編者注がある。「藜藋」は音「レイチ」で、ナデシコ目ヒユ科
Chenopodioideae 亜科 Chenopodieae 連アカザ属
Chenopodium シロザ Chenopodium
album 変種アカザ Chenopodium album var. centrorubrum のこと(「藋」もアカザの一種であるアオアカザ=基準種シロカサザのことを指す)。ここは恐らくあかざが生い茂った扉の意である「藜戸(れいこ)」、あばら屋のことを表現しようとしたものと思われる。
「千光國師の尊像儼然たり」栄西の像。「鎌倉市史 社寺編」の「寿福寺」の項では沢庵の記載を引用して、『寿福寺の頽廃悲しむべきものがある』と記した後、
《引用開始》
その後、半世紀たって『新編鎌倉志』ができるが、この時には外門(『鎌倉五山記』にあった「天下古刹」の額はいまはない)・仏殿・祖師堂・土地堂・鐘楼及び塔頭の桂蔭・正隆・悟本・積翠の四庵があったという。仏殿の本尊は釈迦三尊であって現在に伝えられているが、これは当時から籠釈迦(かごしゃか)とよばれた。仏殿にはまた現在観音菩薩坐像がある。これは永禄十三年仏師信濃法印快円という人の作であることがその胎内銘によってわかっている。
祖師堂(開山堂)には達磨(だるま)・臨済・古文及び開山明菴栄西の像があった。沢庵のみた千光国師像であろうが、これについては慶長四年に上記快円が彩色を施したことが報国寺所蔵の願文(『史料編』一ノ三七八)にみえる。この願文によると天文十年に快円の父泉円が黒漆に塗ったが、その泉円の三十三回忌の布施や開山堂二度の造営の奉加銭未進のため、快円が像の彩色の寄進をもってこれらに替えるために施したものらしい。扇ケ谷は古くから仏師の居住地であり、寿福寺には仏師の家の墓も多いが、この願文によると生活は豊かであったともみえない。しかし沢庵が「千光国師の尊像儼然たり」と印象づけられたことは像が秀作であるからであるのは勿論であるが、快円の彩色も面目を施したことになる。[やぶちゃん注:中略]
この仏殿は沢庵が「形ばかりの体」と評したものであるが、この『鎌倉志』ができて一二年後の元禄十二年及び十六年に鎌倉は大地震に襲われている。大正大震災後の大正十三年十二月十七日仏殿大改修の日に、開山五百年忌の時仏殿を造立させる旨の古記が組子古材の内から発見されたという(当寺所蔵記録に当時の住持元譲和尚の書留めたものがある)。即ち開山五百年忌といえば正徳四年であるからその直前に再建したものであろう。時の住持は法山禅演であった。
《引用終了》
正徳四年は西暦一七一四年であるから、沢庵来訪の八十一年後のことである。籠釈迦や寿福寺の詳細については「新編鎌倉志卷之四」の「壽福寺」の項や私の注を参照されたい。]