江の島 田山花袋
江の島 田山花袋
[やぶちゃん注:大正七(一九一八)年博文館刊の、自然主義の巨頭(私は彼の写真を見る都度、文字通り、巨頭と言いたくなるのである)田山花袋「一日の行楽」より。底本は国立国会図書館近代デジタルライブラリーの画像(コマ番号237)を視認してタイプした。親本は総ルビであるが、読みの振れそうなものと難読語のみのパラルビとした。踊り字「〱」は正字に直した。]
江の島
鎌倉から電車で行く。
極樂寺の切通を過ぎると、竹藪、水車、小さな川が潺々(せんせん)と流れてゐる。この川の東岸に、義貞鎌倉攻めの時に奮戰して戰死した大舘宗氏(おほだてむねうぢ)以下の墓がある。歩いて行つって見ても好(よ)い。
やがて海が見え出して來る。
碧(あを)い、碧い海だ。風のある日に、それに波頭(はとう)が白く颺(あが))つて湧くやうになつて見える。やがて江の島の靑螺(せいら)が海中に浮かんでゐるのが見える。
漁村が漁村につゞく。電車はところどころに停(とま)つては動いて行く。疎らな風情のある松原の中に別莊のあつたりするのが眼に着く。やがて左はすつかり海になる。所謂七里ケ濱である。江の島は手に取るやうに見える。岸には波が寄せては返し、返しては寄せて來る。
腰越(こしごえ)の村はづれの岩の松の靡いてゐるのが遠く見える。
小さな川が丘の中から出て海に注いで行つてゐる。
行合川(ゆきあひがは)である。僧日蓮の龍口御難(たつのくちごなん)の時、報ずる使者と宥免(いうめん)の使者が行逢(ゆきあ)つたところだといふことである。
やがてその長い濱は盡きて、ごたごたした漁村に入つて行く、茅茨瓦甍相接(ばうしぐわくわうあひせつ)すといふ風である。昔はこゝは鎌倉の出外(ではづ)れの宿(しゆく)で、非常に賑やかなところであつた。誰(たれ)も皆此處(ここ)に來て一宿して鎌倉に入る許可を待つた。義經などは此處まで來て、遂に鎌倉に入(はひ)ることを許されなかつた。例の腰越狀は此處で書かれた。それを思ふと、旅客(りよかく)は昔を思ふの念に堪へないであらう。
滿福寺(まんぷくじ)に一詣(し)する。
それから例の龍口(たつのくち)の龍口寺(りうこうじ)に行く。こゝはもう片瀨である。寺はかなり大きな立派な寺でである。あの日蓮が法華經を持(ぢ)して動かなかつたさまなどが想像される。寺の前に、有名な片瀨饅頭がある。日光の湯澤屋の饅頭よりは拙(まづ)いけれども、それでも東京の土産にはちよつと面白い。
片瀨で電車を下りる。暫しの間、田舍道を行く、やがて松原が來る。それを通り拔ると、砂濱。もう江の島はずぐ手に取るばかりに近くにある。
江の島は地形は日向(ひうが)の靑島に似てゐて、それよりも好(よ)い。東京に近く、あまりに人口に膾炙しすぎたので、人は餘りめづらしいと思はないけれど、始めて見た人には、非常に好風景(かうふうけい)に思はれるに相違ない。江戸時代には、江の島鎌倉と言つて、人がわざわざ歩いて一日泊りで生魚(せいぎよ)を食ひに來たところである。右に連つた箱根連山、その上に聳えた富士が非常に美しい。茅ケ崎の海岸にある烏帽子岩も、注意するとそれと指さゝれた。
砂濱を七八町、やがて棧橋が來る。かなりに長い棧橋である。この棧橋は、暴風雨の時にはよく流されて、島との交通が一日も二日も絶えて了ふことがよくある棧橋である。これを渡ると宿引(やどひき)が澤山やつて來て旅客(りよかく)にまつはる。ゑびすや、江戸屋、岩本、さぬきやなどといふ旅館がある。
やがて旅客は狹いゴタゴタした爪先上がりの通(とほり)を發見する。江の島土産を竝べた家が軒をつらねて戸毎(こごと)に通る客を呼んでゐる。一種特色のある町である。
それを通り拔けて少し上ると、左に、金龜樓(きんきろう)といふ旅舍(りよしや)がある。
こゝでの旅舍は、富士を見るのには、岩本、ゑびすやなどが好い。その反對に、鎌倉、逗子の方を見るには金龜樓が好い。宿料(しゆくれう)は一圓五十錢内外。
一體、江の島は昔から江戸の人が生魚(せいぎよ)を食ひに來た處なので、旅舍では食物(しよくもつ)の多いを誇りにしてゐる。二の膳、三の膳、もつと多くつける。從つて宿料や晝食料(ちうしよくれう)が廉(やす)くない。それに、調理法も田舍者相手なのであまり旨くない。唯(ただ)材料の多いので旅客を驚かすといふ風である。
金龜樓から、辨天の本社に參詣して、それから島の絶頂のやうなところを通つて、それからだらだらと下りる。岩と岩との間から白く碎けた波の海が見えて、景色が好い。一遍上人成就水のあるところへ下りて行く山二つあたりは、殊に眺望がすぐれてゐる。
それも通り越す。と、又土産物を賣る店が兩側に竝んで、やがて奥社の境内へと入つて行く。境内は西の海に面して、感じは広々としてゐる。その西南の隅には、かけ茶屋(ちやや)があつて、そこから窟(いはや)の辨天に行く路が下りて行く。このかけ茶屋の上から見た海は非常に好い。波も好ければ、海も面白い。聳えたり伏したしてゐる岩石にも奇姿(きし)が多い。それに、そこからは、大島の三原山の噴烟(ふんえん)が見える。
その茶屋で、名物のさゞえの壺燒でも食つて、草履をかりて、そして窟(いはや)へと下りて行く。兒(ちご)が淵(ふち)がすぐその下にある。それは鎌倉の寺の稚兒(ちご)が投身したところとして世にきこえてゐるところである。
好(い)い加減下りて、岩から岩を傳つて歩く。右も左も前もすべて怒濤澎湃(どたうぼうはい)としてあら海である。そこに、鮑(あはび)を海底から取つて來ると稱する漁師がゐる。しかし、これは取つて來るのではなくて、自分で手で持つて海に入つて取つて來たやうな振(ふり)をするのである。昔はこれでもめづらしいと人々が思つたものだが、今ではそんなことに欺かれるやうな旅客は少ない。
龍窟(りうくつ)の中は、俗だけれど、ちよつと面白い。棧橋を渡つて、窟(いはや)の中から振返つて海を見た形は奇觀である。案内者があつて、遊覽者を窟の中につれて行くが、窟もかなり深い窟である。
歸りは山二つの手前のところから左に入つて、近路(ちかみち)をして町の上のところへと出て來る。そこから西に向つた海が手に取るやうに見える。
で、引返す。片瀨に來て、電車に乘る。電車の中から片瀨川の芦荻(ろてき)や葦(あし)の多い小さな川が見える。電車の便(びん)のない時分には、遊覽者は藤澤からすこし歩いて來て、おの川に待つてゐる小舟に乘つて、海近くまで下つて行つたものである。川の向うは砥上(とがみ)ケ原で、古戰場である。
鵠沼の停留場で下りると、海水浴舍(かいすゐよくしや)が五六軒そこから五六町行つたところにある。鵠沼海水浴は其處(そこ)である。海水浴をするところとしては、餘りよくはないが、松原がちよつと好(よ)い。宿料も片瀨に同じ位(くらゐ)で、さう大して高くない。
で、藤澤に來る。
藤澤には例の遊行寺(いうぎやうじ)がある。時宗の本山で、そこから遊行上人(いうぎやうじゃうにん)が各地に説教に出るのできこえてゐる。そこに行くには一汽車おくらせねばならないが、次手(ついで)だから行つて見るが好(よ)い。距離は十二三町、車賃往復五十錢と思へば間違はない。寺の前は賑やかな門前町で、堂宇も宏壯(くわいさう)である。裏には小栗判官堂がある。小さな小僧が可笑しく案内をする。
人に由(よ)つては、江の島を先にし、鎌倉を後(あと)にするものもあるであろうが、さういふ人はこれを逆に應用して貰へば間違はない。
[やぶちゃん注:「靑螺」元来は青緑色のニシ(巻貝)をいうが、転じて青い山の形容。遠くの山の形を巻貝の形に譬えたものであろう。
「片瀨饅頭」片瀬龍口門前(藤沢市片瀬海岸)にある創業天保元(一八二八)年の和菓子屋「上州屋」の「片瀬まんじゅう」(現在、酒饅頭と茶饅頭の二種があるが、花袋は湯沢屋と比較しているので酒饅頭である)。なお、この「片瀬まんじゅう」、饅頭近代史の中で馬鹿に出来ない存在なんである。ウィキの「温泉饅頭」には、現在、無数にある温泉饅頭の発祥は一般に伊香保温泉とするのが定説らしいが、そのルーツについて、明治四三(一九一〇)年のこと、伊香保電気軌道(現在は廃線)の伊香保―渋川間開業時のこと、伊香保から江ノ島電鉄の視察に行った者が土産にこの『「上州屋」の「片瀬饅頭」を買って帰り、伊香保で創業間もない団子屋「勝月堂」の初代・半田勝三に、「湯の色をした独特の饅頭を作って、それを名物にしてみては如何なの?」と進言し、その半年後に黒糖を使い、鉄分を含んだ茶褐色の伊香保独特の湯の色に似せた「湯乃花饅頭」が誕生した』とあるのである! 恐るべし! 片瀬まんじゅう! 今度、必ず食うたろ!
「日光の湯澤屋の饅頭」日光市下鉢石町の日光寺社群の門前にある文化元(一八〇四)年創業の和菓子屋「湯沢屋」の酒饅頭。永く元祖「日光饅頭」と呼ばれ親しまれてきた(商標登録の関係で現在は「湯沢屋のまんじゅう」。以上は「湯沢屋」公式サイトに拠る)。
「一遍上人成就水」現在は「一遍上人の島井戸」と呼ばれている。リニュアールして改名された新植物園「サムエル・コッキング苑」を通り過ぎた、江ノ島大師近くにある。一遍上人が飲み水に窮していた島民を助うために加持して掘り当てたと伝えられる井戸。一遍自筆と伝える「一遍成就水」の額が江島神社に残る。
最後に。「そこに、鮑を海底から取つて來ると稱する漁師がゐる。……」というのは、江の島の裏の魚板石(まないたいし)周辺の話柄であるが、余り知られているとは思われないが、かの芥川龍之介は、未完作品「大導寺信輔の半生」の最終章「六 友だち」の掉尾に、この魚板石付近を舞台にした印象的なエピソードが語られている。私のテクストから当該部を引用しておく。
信輔は才能の多少を問はずに友だちを作ることは出來なかつた。標準は只それだけだつた。しかしやはりこの標準にも全然例外のない訣ではなかつた。それは彼の友だちと彼との間を截斷する社會的階級の差別だつた。信輔は彼と育ちの似寄つた中流階級の靑年には何のこだわりも感じなかつた。が、纔かに彼の知つた上流階級の靑年には、――時には中流上層階級の靑年にも妙に他人らしい憎惡を感じた。彼等の或ものは怠惰だつた。彼等の或ものは臆病だつた。又彼等の或ものは官能主義の奴隸だつた。けれども彼の憎んだのは必しもそれ等の爲ばかりではなかつた。いや、寧ろそれ等よりも何か漠然としたものの爲だつた。尤も彼等の或ものも彼等自身意識せずにこの「何か」を憎んでゐた。その爲に又下流階級に、――彼等の社會的對蹠點に病的な惝怳を感じてゐた。彼は彼等に同情した。しかし彼の同情も畢竟役には立たなかつた。この「何か」は握手する前にいつも針のやうに彼の手を刺した。或風の寒い四月の午後、高等學校の生徒だつた彼は彼等の一人、――或男爵の長男と江の島の崖の上に佇んでゐた。目の下はすぐに荒磯だつた。彼等は「潛り」の少年たちの爲に何枚かの銅貨を投げてやつた。少年たちは銅貨の落ちる度にぽんぽん海の中へ跳りこんだ。しかし一人海女あまだけは崖の下に焚いた芥火の前に笑つて眺めてゐるばかりだつた。
「今度はあいつも飛びこませてやる。」
彼の友だちは一枚の銅貨を卷煙草の箱の銀紙に包んだ。それから體を反らせたと思うと、精一ぱい銅貨を投げ飛ばした。銅貨はきらきら光りながら、風の高い浪の向うへ落ちた。するともう海女はその時にはまつ先に海へ飛びこんでゐた。信輔は未だにありありと口もとに殘酷な微笑を浮べた彼の友だちを覺えてゐる。彼の友だちは人並み以上に語學の才能を具へてゐた。しかし又確かに人並み以上に鋭い犬齒をも具へてゐた。…………
本文中に「或風の寒い四月の午後、高等學校の生徒だつた彼は彼等の一人」とあるが、龍之介の一高卒業は大正二(一九一三)年七月であるから、これは明治四十四(一九一一)年か翌年の四月、若しくは卒業年の大正二(一九一三)年四月の間の出来事となる。まさに花袋の描いたものと美事にシンクロナイズする、まさに海の中のシークエンスなのである。]