北條九代記 長沼五郎太輔房重慶を討つ 付 長沼實朝卿の政道を罵る
○長沼五郎太輔房重慶を討つ 付 長沼實朝卿の政道を罵る
大輔房〔の〕阿闍梨重慶(ぢうけい)は、畠山次郎重忠が末子なり。重忠没落の比より、出家遁世の身となり、幽(かすか)なる草菴に、念佛して居たりしが、畠山が滅亡は讒者(ざんしや)の所爲(しよゐ)なりと、將軍家にも思召し付けられ、御後悔ありける故にや、其餘類をも尋ねられず、况(まし)て重慶に於ては遁世修道の法師なれば、何方に居住すとも、咎むべからずと内々は仰(おほせ)ありけり。九月十九日に日光山の別當、法眼辨覺(べんかく)が許より、鎌倉へまうし遣しけるやう、「大輔房重慶當山の麓に住して、諸浪人を招(まねき)集め、佛前を飾り幣(へい)を剪(た)たて、晝夜を云はず黑煙(くろけぶり)を立てて祈る有樣、謀叛の用意と覺え候。定(さだめ)て當家調伏の行ひ其隱(かくれ)、是(これ)なし。早く尋(たづね)聞かしめ給へ」と申したり。仲兼朝臣、披露せらる。折節、長沼(ながぬまの)五郎宗政、御前に候す。將軍家、仰付けられ、重慶を將(つ)れて參るベし、直に子細を聞かしめらるべし、となり。宗政、畏りて、家にも歸らず、家子一人郎等八人倶して、下野國に赴き、同じき二十八日に、鎌倉に立歸り、重慶が首を以て指上(さしあげ)たり。將軍家、大に御氣色ありて、仲兼朝臣を以て仰せられけるは、畠山重忠は本より科(とが)なくして、讒者の爲に誅伏(ちうふく)せり。その末子、出家となり、假令(たとひ)陰謀を挾(さしはさ)むと云ふとも、何程の事かあるべき、生捕(いけどり)て參べしとこそ、仰せ下されしに、犯否(ぼんひ)の虛實をも聞(きゝ)届けず、誅戮を加ふる事、楚忽(そこつ)の結搆、罪過(ざいか)たるの由、申されたり。宗政、座を居直り、眼を怒らし、仲兼を睨(にらん)で申しけるは、「太輔房重慶が叛逆の事は、辨覺、證人として其疑ひ、是(これ)なし。生捕にせんは鼠を捉ふるよりも、いと易かりなん。但し、生捕りて參りたらんには、奥方の女房達、又は入(いり)籠る比丘尼等(ら)が申狀に付けて、定(さだめ)て宥(なだ)め許されるべきを、宗政、豫てより推量せし故に、首打切りて參りて候ぞ。故右大將家の御時、宗政に恩賞厚く賜はるべき由、頻りに嚴命ありといへども、堅く辭退して、御蟇目(おんひきめ)を申し賜(たまは)り、海道十五ヶ國の中に、民間無禮の溢者(あぶれもの)を退治すべしと、仰せ下さる。是(これ)、既に武備を重じ給ふが故なり。其(その)蟇目、今に宗政が家の寶とす。然るを、常代は武職(ぶしよく)に備は(そなは)り給ひて、武道を忘れ、和歌を詠じ、鞠を翫(もてあそ)び、近習(きんじゆ)も外樣(とざま)も、この歌鞠(かきく)に心を窶し(やつ)し、武藝兵法の廢れたる事、枯草の如く成(なり)行き候。又、其御暇(いとま)には、女房を召し集め、繪合(えあはせ)、花競(はなくらべ)、雛(ひな)の遊(あそび)に夜日(よひ)を費し、酒に長じて、醒遣(さめや)る時なし。忠義武勇(ぶよう)の侍(さぶらひ)はあれどもなきが如く、諸國沒收(もつしう)の地あるをも、勳功の賞には充(あて)られず、靑女房等(ら)に賜(たまは)る。榛谷(はんがへの)四郎重朝が遺跡(ゆゐせき)を五條の局(つぼね)に給はり、中山〔の〕四郎重政が所領を下總〔の〕局に下されたり。「今より國家の御大事あらん時は、忠節を存ずる侍は候まじ。女房、比丘尼等に鎧を著(き)せ、武勇を勵させて治め給へ」と、憚る所なく、過言しければ、仲兼は一言にも及ばす、座を立たれたり。宗政も、「あはれ、仲兼、何とぞ云はば、肥腹(ぼてばら)繰通(くりとほ)し、首打ち切るべきものを」と響(どよみ)に成りて退出す。
[やぶちゃん注:「吾妻鏡」巻二十一の建暦三(一二一三)年九月十九日及び二十六日の条に基づく(建暦三年は十二月六日に建保に改元される)。まずは追伐出陣の九月十九日の条。
○原文
十九日丙辰。未尅。日光山別當法眼弁覺進使者申云。故畠山次郎重忠末子大夫阿闍梨重慶籠居當山之麓招聚牢人。又祈禱有碎肝膽事。是企謀叛之條。無異儀歟之由申之。仲兼朝臣以弁覺使者申詞。披露御前。其間。長沼五郎宗政候當座之間。可生虜重慶之趣。被仰含之。仍宗政不能歸宅。具家子一人。雜色男八人。自御所。直令進發下野國。聞及郎從等競走。依之鎌倉中聊騷動云々。
○やぶちゃんの書き下し文
十九日丙辰。未の尅、日光山別當法眼弁覺、使者を進じて申して云はく、
「故畠山次郎重忠が末子、大夫阿闍梨重慶(ちやうけい)、當山の麓(ふもと)に籠居して牢人を招き聚(あつ)め、又、祈禱にて肝膽(かんたん)を碎く事有り。是れ、謀叛を企つるの條、異儀無きか。」
の由、之を申す。仲兼朝臣、弁覺の使者を申す詞を以つて、御前に披露す。其の間、長沼五郎宗政、當座に候ずるの間、重慶を生虜(いけど)るべきの趣き、
之を仰せ含めらる。仍つて宗政、歸宅する能はず、家子(いへのこ)一人・雜色男八人を具し、御所より、直きに下野國へ進發せしむ。聞き及びて郎從等、競い走る。之に依つて鎌倉中、聊か騷動すと云々。
同二十六日の条。
○原文
廿六日癸亥。天晴。晩景宗政自下野國參著。斬重慶之首。持參之由申之。將軍家以仲兼朝臣被仰曰。重忠本自無過而蒙誅。其末子法師縱雖插隱謀。有何事哉。随而任被仰下之旨。先令生虜其身具參之。就犯否左右。可有沙汰之處。加戮誅。楚忽之議。爲罪業因之由。太御歎息云々。仍宗政蒙御氣色。而宗政怒眼。盟仲兼朝臣云。於件法師者。叛逆之企無其疑。又生虜條雖在掌内。直令具參之者。就諸女性比丘尼等申狀。定有宥沙汰歟之由。兼以推量之間。如斯加誅罰者也。於向後者。誰輩可抽忠節乎。是將軍家御不可也。凡右大將家御時。可厚恩賞之趣。頻以雖有嚴命。宗政不諾申。只望。給御引目。於海道十五ケ國中。可糺行民間無禮之由。令啓之間。被重武備之故。忝給一御引目。于今爲蓬屋重寳。當代者。以歌鞠爲業。武藝似廢。以女性爲宗。勇士如無之。又没収之地者。不被充勳功之族。多以賜靑女等。所謂。榛谷四郎重朝遺跡給五條局。以中山四郎重政跡賜下総局云々。此外過言不可勝計。仲兼不及一言起座。宗政又退出。
〇やぶちゃんの書き下し文
廿六日癸亥。天、晴る。晩景、宗政、下野國より參著す。重慶の首を斬り、持參するの由、之を申す。將軍家、仲兼朝臣を以つて仰せられて曰はく、
「重忠、本(もと)より過ち無くして誅を蒙る。其の末子の法師、縱(たと)ひ隱謀を插(さしはさ)むと雖も、何事か有らんや。随つて仰せ下さるるの旨に任せ、先づ、其の身を生虜らしめて之を具し參らば、犯否(ぼんぷ)の左右(さう)に就きて、沙汰有るべきの處、戮誅(りくちゆう)を加ふは、楚忽(そこつ)の議、罪業(ざいごふ)の因たり。」の由、太(はなは)だ御歎息と云々。
仍つて宗政、御氣色を蒙る。而るに宗政、眼(まなこ)を怒らし、仲兼朝臣に盟(ちか)ひて云はく、
「件(くだん)の法師に於ては、叛逆の企て、其の疑ひ無し。又、生虜りの條、掌(たなごころ)の内に在ると雖も、直きに之を具し參らしめば、諸々の女性・比丘尼等(ら)が申し狀に就きて、定めて宥(なだ)めの沙汰有るかの由、兼ねて以つて推量の間、斯くのごとく誅罰を加ふる者なり。向後(きやうこう)に於ては、誰(たれ)の輩(ともがら)か、忠節を抽(ぬき)んずべけんや。是れ、將軍家、御不可なり。凡そ右大將家の御時は、恩賞を厚くすべきの趣き、頻に以つて嚴命有りと雖も、宗政、諾(だく)し申さず。只だ望むらくは、御引目(おんひきめ)を給はり、海道十五ケ國中に於いて、民の間の無禮を糺(ただ)し行ふべきの由、啓(け)せしむるの間、武備を重んぜらるるの故、忝(かたじけな)くも一(いつ)の御引目を給ひ、今に蓬屋(ほうをく)の重寳たり。當代は、歌(うた)・鞠(まり)を以つて業(わざ)と爲し、武藝は廢(すた)るるに似たり。女性を以て宗(むね)と爲し、勇士の無きがごとし。又、没収の地は、勳功の族(やから)に充(あ)てられず、多く以つて靑女(せいぢよ)等(ら)に賜はる。所謂、榛谷(はんがや)四郎重朝が遺跡は五條局に給ひ、中山四郎重政が跡を以つて下総局に賜ふ。」
と云々。
此の外の過言、勝(あ)げて計(かぞ)ふべからず。仲兼、一言にも及ばず、座を起つ。宗政も又、退出す。
「太輔房重慶」畠山重慶(ちょうけい ?~建暦三(一二一三)年)は畠山重忠の末子。父重忠と兄重秀や重保ら一族は先立つ八年前の元久二(一二〇五)年の畠山重忠の乱で幕府軍によって滅ぼされ、畠山氏の名跡は北条氏縁戚であった足利義純が継承、平姓畠山氏は断絶していた。この謀略や乱の一部始終については、「北條九代記」巻三の「武藏前司朝雅畠山重保と喧嘩 竝 畠山父子滅亡」を参照のこと。
「仲兼朝臣」源仲兼(生没年不詳)は後白河院の有力な近習であった源仲国の弟。父は河内守光遠で、仲兼も近江を始めとする諸国の国守を務めて財を蓄え、建永元(一二〇六)年に火災にあった比叡山の大講堂の再建を担当するなどの造営事業などの請負をしているが、丁度、本話の頃には鎌倉に下向して実朝に仕えていた(以上は「朝日日本歴史人物事典」の記載に拠る)。
「長沼五郎宗政」名は既出であるが、ここで注する。長沼宗政(応保二(一一六二)年~仁治元(一二四一)年)は小山政光の子。下野国長沼荘(現在の栃木県二宮町)を本領とし、同国御厩別当職を帯した。寿永二(一一八三)年の野木宮合戦では兄の小山朝政に従い、合戦の後に兄の名代として鎌倉に参上した頼朝直参の御家人。その後も平家や奥州藤原氏の追討に従軍した歴戦の勇士である。この一件の後の承久の乱後は摂津・淡路の守護に補されて淡路守となっている。鎌倉の宗政邸は将軍御所の南を占め(北面の武士である)、本話では「宗政に恩賞厚く賜はるべき由、頻りに嚴命ありといへども、堅く辭退し」たと自慢しているが、実際にはその所領は下野の他にも、陸奥・美濃・美作・備後・武蔵などに及んでいる(以上は「朝日日本歴史人物事典」の記載を参考にした)。このシークエンスの罵詈雑言も、「荒言悪口之者」とも評された彼ならではのもので、筆者による往年の三船敏郎張りの――「仲兼の青二才野郎が、これ、何ぞほざいたら、あのでぶった腹を引っ摑み、ぶっすり突き通した上に、首を搔き切ってやったに!」――という台詞も、これ、実に小気味よいではないか。……そして、それがまた、周囲に京真似びに現を抜かすとしか見えなかった実朝という存在が、急速に東国武士団の中で求心力を失ってゆく、その象徴的な「北條九代記」の伏線のエピソードである、とも言えるのである。]