栂尾明恵上人伝記 18 明恵の与り知らぬ勝手に神憑り託宣の話
又其の比(ころ)、春日の御社に御神樂(みかぐら)のありける次(ついで)に、少き巫女(みこ)の有りけるにつき給ひて、此の宗(しゆう)高雄に講ぜらる。誠に深義(しんぎ)を述ぶること昔に等し。嬉しきかな嬉しきかな、誰々も行きて聞け。又明惠上人をば我が太郎と思ひ、解脱(げだつ)上人をば我が次郎と思ふ、と御託宣ありけるとて、奈良より來れる學侶語り申すこと披露しけり。又上人の御事に付きて、連々の御託宣あり。事多きに依つて略す。
[やぶちゃん注:「解脱上人」法相宗の僧貞慶(じょうけい 久寿二(一一五五)年~建暦三(一二一三)年)。藤原信西を祖父に持つ。号を解脱房、勅謚号を解脱上人と言った。笠置寺上人とも呼ばれた。平治の乱では祖父は自害、また彼の父藤原貞憲も配流された。生家が没落した幼い貞慶は望まずして、興福寺に入り、十一歳で出家、叔父覚憲に師事して法相・律を学んだ。寿永元(一一八二)年には維摩会(ゆいまえ:興福寺において毎年十月十日より七日間に亙って行われる「維摩経」を講説する大会。)の竪義(りゅうぎ:「立義」とも書く。「リュウ」は慣用音で、立てるという意味。義を立てる・理由を主張するということを指す。諸大寺の法会に当たって行われた学僧試業の法に於いて論題提出僧すなわち探題より出された問題につき、自己の考えを教理を踏まえて主張する僧、竪義者(りゅうぎしゃ)。竪者(りつしや)・立者とも書く。)を遂行し、御斎会・季御読経などの大法会に奉仕し、学僧として期待されたが、僧の堕落を嫌って建久四(一一九三)年、以前から弥勒信仰を介して信仰を寄せていた笠置寺に隠遁、以後、般若台や十三重塔を建立して笠置寺の寺観を整備する一方、龍香会を創始して弥勒講式を作るなど弥勒信仰を一層深めた。元久二(一二〇五)年には「興福寺奏状」を起草、法然の専修念仏を批判して、その停止を求めてもいる(そうした人物の言行をさえ引く「一言芳談」の懐の広さを見よ)。承元二(一二〇八)年には海住山寺に移り、観音信仰にも関心を寄せた(以上は主にウィキの「貞慶」を参照した)。]