(無題〔散文〕) 萩原朔太郎
●名聲があつて實力のない人がある、實力があつて名聲のない人がある。この前者に屬する人はザラにゐる。後者に屬する詩人は二人居る。即ち大手拓次氏と中川一政氏である。大手氏と中川氏とは、全然素質を異にした作家で、その詩境は全でちがつたものであるが、すぐれた詩人といふ點では同格である。詩の實力からいふならば、現詩壇を總ざらへにしてかかつても、二人に及ぶだけの詩人はめつたにない。そして二人共、私や白鳥省吾君等と一緒に詩壇に出て、長い間詩をかいてゐる。
かく實力ある詩人が、長い間詩をかいてゐて、それで少しも詩壇に知られずにゐるといふのは、何だか不思議のやうな氣がする。しかしこの二人に對しては、少しも「氣の毒」といふ氣はしない。それは山村暮鳥氏のやうに、詩人的位置に自立してゐて、詩壇に認められなかつたのは氣の毒である。しかし大手氏と中川氏は、始めから「詩壇意識の外野」に立つてゐる。中川氏は畫家が本職であり、大手氏は他に職業を有してゐる。そして二人共、詩に對しては「純一なる餘技」の態度を取りつづけてゐる。彼等は眞に尊敬すべき意味でのヂレツタント――物好きといふ意味でなく、それを以て職業化さないといふ意味の素人藝術家(ヂレツタント)――である。
詩壇に多すぎるものは、むしろ専門家(くろうと)詩人である。大手氏や中川氏のやうな天分ある素人(しろうと)詩人は、その名聲を望まぬ故に、いよいよ冴えてくる實力の恐ろしさを痛感させる。
[やぶちゃん注:『日本詩人』第六巻第二号・大正一五(一九二六)年二月号の「靑椅子」欄に発表した散文。下線は底本では傍点「●」。]