耳囊 卷之六 蜘蛛怪の事
蜘蛛怪の事
文化元子年、吟味方改役(あらためやく)西村鐡四郞、御用有之(これあり)、駿州原宿(はらしゆく)の本陣(ほんぢん)に止宿せしが、人少(すくな)にて廣き家に泊り、夜中與風(ふと)目覺(めざめ)て床の間の方を見やれば、鏡の小さきごとき光あるもの見へける故驚きて、次の間に臥しける若黨へ聲懸ぬれども、かれも起出(おきいで)しが、本間(ほんま)次の間とも燈火消(きえ)て、彼(かの)若徒(わかきと)も右光ものを見て大(おほい)に驚き、燈火など附(つけ)んと周章せし。右のもの音に、亭主も燈火を持出て、彼(かの)光りものを見しに、一尺にあまれる蜘(くも)にてぞありける。打寄りて打殺し、早々外へ掃出(はきいだ)しけるに、程なく湯どの一方にて恐敷(おそろしき)もの音せし故、かの處に至りて見れば、戶を打倒(うちたふ)して外へ出(いで)しようの樣子にて、貮寸四方程の蜘のからびたるありける。臥所(ふしど)へ出しも湯殿へ殘りしも、同物ならん、いかなる譯にやと語りぬ。
□やぶちゃん注
○前項連関:本格動物怪異譚二連発。一見、「ウルトラQ」の「クモ男爵」張りの巨大グモが怪異のメインに見えるが――どっこい! 違うぜ!――本当の怪異は最後の小さな蜘蛛なのだよ。……そもそも、この蜘蛛はこんなに小さいのだ。……しかも、とっくに死んで干からびてるじゃないか。……それなのに何故、湯殿で激しく戸を破って外へ出ようとる音が生じたのか?……これは、殺された大蜘蛛の(多分、雄という設定だね)、その、とうに亡くなっていた連れ合いの雌の亡魂湯殿に籠っており、それが夫の死を察して、そこを脱して夫の魂のもとへと参ろうとした……その遺魂の断末魔の仕儀であったのだよ。……彼らは今頃、極楽の蓮(はちす)の蔭で、きっと仲睦まじく生きているに違いない……いや、犍陀多(かんだた)に御釈迦様が降ろした蜘蛛の糸はこの夫婦の蜘蛛の一匹だったに違いないさ……だってそうだろう? ワトソン君?……彼らは何も……悪いことなどしていないんだからねえ……
・「文化元子年」「卷之六」の執筆推定下限は文化元(一八〇四)年八月。この巻は、後半になればなるほど、直近のクレジット附の記事が多いのが特徴である。
・「吟味方改役」勘定吟味役の下で勘定方の調べた公文書を再吟味する実質的な実務審理担当官。
・「西村鐡四郞」不詳。ここまでの「耳囊」には登場していない。
・「駿州原宿」東海道五十三次十三番目の宿場で現在の静岡県沼津市にあった。宿場として整備される以前は浮島原と呼ばれ、歴史的には木曾義仲討伐のために上洛する源義経が大規模な馬揃えを行ったことで知られる(ウィキの「原宿(東海道)」に拠る)。
・「本陣」街道の宿駅にあって大名・公家・幕府役人などが宿泊した公的な旅宿を指す。
・「一尺にあまれる」約三十センチメートルを超える、ということになり、初読者は一見、本邦産の蜘蛛では到底あり得ないと思いがちであるが、果たしてそうだろうか? このクモ、深夜に室内に出現している徘徊性の種であるから、間違いなく、普通に家庭にいる節足動物門鋏角亜門蛛形(クモ)綱クモ目アシダカグモ科アシダカグモ Heteropoda venatoria である。ウィキの「アシダカグモ」によれば、体長は♀で二~三センチメートル、♂では一~二・五センチメートルで、全長(足まで入れた長さ)は約一〇~一三センチメートルに達し、その足を広げた大きさはCD一枚分程度はあるとする(以上で分かるように、♂の方が♀よりも少し小さく、しかもやや細身で、触肢の先が膨らんでいる点で容易に区別が出来る)。『日本に生息する徘徊性のクモとしてはオオハシリグモ(南西諸島固有)に匹敵する最大級のクモで』、『全体にやや扁平で、長い歩脚を左右に大きく広げる。歩脚の配置はいわゆる横行性で、前三脚が前を向き、最後の一脚もあまり後ろを向いていない。歩脚の長さにはそれほど差がない。体色は灰褐色で、多少まだらの模様がある。また、雌では頭胸部の前縁、眼列の前に白い帯があり、雄では頭胸部の後半部分に黒っぽい斑紋がある』とある。この大きさは、驚愕した直後、しかも夜で、さればこそ叩き潰した後の大きさを言っていると考える方が自然であり、ぺしゃんこの状態から差し引くなら、実際の脚全長はせいぜい一〇数センチメートルから二〇センチメートルとすれば、上限だと確かに特異的な大型個体ながら、必ずしもあり得ない大きさではない。……何故、断言出来るんだって? 引用中に出るキシダグモ科オオハシリグモ Dolomedes orion の♀の生体の脚体長は一五センチメートルを超えるという採集コレクターの記載にあるし……それに何より……しばしば百足野郎が闖入して来、守宮(やもり)君がトイレの窓枠に何年も棲み込む私の家は、昔からこの足高蜘蛛殿の定宿でね……独身だった三十年ほど前の秋のこと、寝室で寝ていたら、顔が……右耳の辺りから……蟀谷(こめかみ)……反対側の左側の頰……顎の下辺りと……それが同時に……円形に引き攣ったことがあったんだよ。……はっ! と……ある直感が働いて起き直り、電燈を点けた。……すると……枕元に……脚長……有に私の掌を越える大きさのアシダカグモ Heteropoda venatoria が――いたのだ!……驚愕とともに……それが私の顔面にいたという鮮やかな顔面皮膚感覚を思い出した時……私は反射的に枕でもってテッテ的に叩き潰していたのだ。……潰れたその「くだらない奴」は……実に完膚亡きまでに平たく平たく熨されて……軽く三〇センチメートルはあろうかと――「見えた」――からなんだよ!(無論、後に枕は容赦なく一緒に捨てたわい!)……ああ、もう!……思い出したくなかったのにぃ!……
・「貮寸四方」六センチメートル四方。ここで「四方」としているのは、寧ろ、前の「一尺」が同じく測定単位が「四方」、即ち大きく脚を広げた時の大きさ、すでに述べた通り、若しくは叩き潰し殺したシイカ状態のそれであることを意味する、と私は読む。さすれば、普通のアシダカグモ Heteropoda venatoria の、普通の成虫(それも必ずしも大きくない♀か、それより小型の♂)ということになり、この数字は如何にも普通にリアルである。しかし、小さ過ぎて、話柄の展開とうまく合わない。
・「蜘のからびたるありける」これはとうに死んだアシダカグモの死骸、もしくは脱皮片と思われる。
■やぶちゃん現代語訳
蜘蛛の怪の事
文化元年子年(ねどし)のことである。
吟味方改役(あらためやく)西村鉄四郎殿、御用の筋、これあって、駿河国原宿(はらしゅく)の本陣(ほんじん)に止宿致いた。
その日は本陣を用いるような他の客もなく、西村殿同道の配下の者も小人数(こにんず)なれば、これ、その、だだっ広い屋敷に、彼らだけで泊ることと相い成って御座った。
その夜中、西村殿、何か妙な気配に、ふと目覚め、上半身を起こして、何気なく床の間の方(かた)を見やったところが、これ、小さな鏡ほどの丸い光りあるものが、これ、、見えたによって、吃驚仰天、次の間に臥して御座った若党へ、
「……お、おいッ!……」
と声を掛けた。
その声に、若党も起き出だいては参ったものの、西村殿のおる本間も、その若党のおった次の間も、これ、ともに何故か、燈火が、とっくに消えて御座ったゆえ、その若侍も、目の当たりに皓々たるその光り物を見てしもうた。
されば、これまた、おっ魂消(たまげ)て、
「……とっ、と、燈火(ともしび)、な、な、なんどど、つつ、つ、点けま、ましょうぞ……」
と闇の中で、ばたばたと、慌てまわり、あちこちにぶつかっては、五月蠅く、物音を立てた。
されば、その物音に、亭主も燈火をうち持って寝所より走り出で、やっと、その明りで、かの光り物を照らし見た。……
――と――
それは……
一尺にも余る驚くべき大蜘蛛――
にて御座ったと申す。
余りの異形(いぎょう)なれば、皆して、打ち寄って叩っ殺し、早々に外へと掃き出させた。
――と――
ほどのう……今度は、奥の湯殿の方(かた)にて、
ド、ド、ドン! バン! バ、バン!
と、何やらん、恐しく大きなる物音が致いたゆえ、また皆して、その湯殿へと馳せ参じて、戸を開けて見たところが、
湯殿の内から締め切って御座った戸を打ち倒して、何とかして外へ出でんとせし様子の……
二寸四方ばかりの大きさの干からびた蜘蛛――
……その……とうに……干からびて死んだ骸(むくろ)が……湯殿の内側に横たわって御座ったのであった。……
「……さても……この臥所(ふしど)へ出でた大きなる物も、この、とうに死んで湯殿へ残っておった物も、これ、同じき物の怪ででもあったものか……一体、どういう訳なのか、……今一つ、我ら、分かりませなんだ……」
とは、西村鉄四郎殿の直話で御座った。