沢庵宗彭「鎌倉巡禮記」 17
建長・圓覺寺はならびの山也。淨智寺もむかふ山也。壽福・淨妙は各別の所なりとそこそこのすがらを委うかゞひ、燒香順禮の爲なれば香の資など取したゝめ、威儀をとゝのへ先建長寺にむかふ。左の偏門には海東法窟と云額あり。右の偏門、天下禪林と額あり。正門には巨福山といふ額あり。山門には西※之筆にて巨福山建長興國禪寺と二行に額あり。中央の爐は石なり。閣は壞て今はなし。仰てみればかりに板をしき其上に觀音の像を安置す。たゞちに佛殿にむかふ。ゆくての右を嵩山といふ。古木雲をしのぎときはの松に秋の色をまじへ、折から山のはへいはむかたなし。
[やぶちゃん注:「※」=「礀」-「月」+「日」。但し、これは底本か原本かの「礀」の誤りである。
「そこそこのすがらを」そこそこの来歴の一部始終を。
「委」「くはしく」と訓じているか。
「偏門」東外門。
「右の偏門」西外門。
「正門」総門。
「西※」(「※」=「礀」-「月」+「日」)は南宋浙江省出身の臨済僧西澗子曇(せいかんしどん 一二四九年~嘉元四(一三〇六)年)。文永八(一二七一)年に来日、一度帰って正安元(一二九九)年に一山一(いっさんいちねい)に従って再来日した。第九代執権北条貞時に信任され、円覚寺や建長寺住持となった。書画をよくした。諡号大通禅師。道号は「西礀」とも書き、また法名は「すどん」とも読む(講談社「日本人名大辞典」の「西澗子曇」の項を参考にした)。
「嵩山」「新編鎌倉志卷之三」の「建長寺」の「嵩山幷に兜率巓」の項に、
嵩山(すうざん)幷に兜率巓(とそつてん) 開山塔の後ろの山を嵩山と號し、峯(みね)を兜率巓と云ふ。兜率巓に、開山幷に佛光の石塔あり。佛光禪師は、圓覺寺の開山なれども、建長寺にて葬る故に、塔は嵩山にあり。
とある。前後その他についても、同巻の建長寺の記載(委細を極める)や私の注を参照されたい。]

