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2013/04/08

耳嚢 巻之六 豺狼又義氣有事

 豺狼又義氣有事

 

 尾州名古屋より美濃へ肴荷(さかなに)を返りて生業とする者ありしが、拂曉夜へかけて山道を往返(わうへん)なしけるが、右道端へ狼出てありければ、與風(ふと)肴の内を少々わけてあたへければ、悦べる氣色にて聊(いささか)害もなさゞりしゆゑ、後々は往來毎(ごと)に右狼道の端に出ける節、不絶(たえず)肴を與へ通りしが、誠に馴れむつぶ氣色にて、必(かならず)其道の邊に出で肴を乞ひ跡を送りなどせる樣なり。かく月日へて或時、右の所肴荷を負ふて通り、彼狼に與ふべき分は別に持(もち)て彼(かの)邊にいたりしに、與へし肴は曾(かつ)て喰はず、荷繩をくわへて山の方へいざのふ樣子故、いかゞする事ぞと、其心に任せけるに、四五町も山の方へ引きいたりしに、狼の寐臥(ねふし)する所なるや、すゝき萱(かや)等蹈(ふみ)しだきたる所あり。其所(そこ)に暫(しばらく)たゝずみいたりしに、何か近邊里方にて大聲をあげ、鐡砲などの音して大勢にてさわぐ樣子なりける故暫(しばらく)猶豫して、靜りける故元の道へ立(たち)出しに、里人あつまりて、御身は狼の難には不逢哉(あはざるや)、渡り狼兩三疋出て海邊の方へ行(ゆき)しが、人を破(やぶら)ん事を恐れて、大勢聲をあげ鐡砲など打(うつ)て追拂(おひはら)ひしといひける故、我等はかくかくの事にて常に往來の節、肴抔あたへ馴染の狼、此山の奧の方へともなひし譯かたりければ、扨は彼(かの)狼、わたり狼の難を救ひしならんと、里人もともに感じけるとなり。

 

□やぶちゃん注

○前項連関:山路奇譚で美事連関。こういう連関、とってもいい!

・「豺狼又義氣有事」は「さいらうまたぎきあること」と読む。「豺狼」は「山犬(やまいぬ)と狼(おおかみ)」の謂いであるが、ここは山犬の謂いであろう(次注参照)。

・「狼」狭義には食肉(ネコ)目イヌ科イヌ属タイリクオオカミ亜種ニホンオオカミ Canis lupus hodophilax を指すが、本話の場合、主人公に非常になついている様子から、元は人に飼われていた可能性があり、すると必ずしもニホンオオカミではなく(ニホンオオカミでも勿論よい。後に引くウィキの「ニホンオオカミ」によれば、シーボルトはヤマイヌとオオカミ両方を飼育していたとある)、所謂、イヌ属 Canis の野犬の一種であったのかも知れない。以下、ウィキの「ニホンオオカミ」より引用する(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『一九〇五年(明治三八年)一月二十三日に、奈良県東吉野村鷲家口で捕獲された若いオス(後に標本となり現存する)が確実な最後の生息情報、とされる。二〇〇三年に「一九一〇年(明治四三年)八月に福井城址にあった農業試験場(松平試農場。松平康荘参照)にて撲殺されたイヌ科動物がニホンオオカミであった」との論文が発表された。だが、この福井の個体は標本が現存していない(福井空襲により焼失。写真のみ現存。)ため、最後の例と認定するには学術的には不確実である。二〇一二年四月に、一九一〇年に群馬県高崎市でオオカミ狩猟の可能性のある雑誌記事(一九一〇年三月二十日発行狩猟雑誌『猟友』)が発見された。環境省のレッドリストでは、「過去五十年間生存の確認がなされない場合、その種は絶滅した」とされるため、ニホンオオカミは絶滅種となっている』。特徴は『体長九五~一一四センチメートル、尾長約三〇センチメートル、肩高約五五センチメートル、体重推定一五キログラムが定説となっている(剥製より)。他の地域のオオカミよりも小さく中型日本犬ほどだが、中型日本犬より脚は長く脚力も強かったと言われている。尾は背側に湾曲し、先が丸まっている。吻は短く、日本犬のような段はない。耳が短いのも特徴の一つ。周囲の環境に溶け込みやすいよう、夏と冬で毛色が変化した』。『ニホンオオカミは、同じく絶滅種である北海道に生育していたエゾオオカミとは、別亜種であるとして区別される。エゾオオカミは大陸のハイイロオオカミの別亜種とされているが、ニホンオオカミをハイイロオオカミの亜種とするか別種にするかは意見が分かれており、別亜種説が多数派であるものの定説にはなっていない』とある。本話の「豺(やまいぬ)」と「狼(おおかみ)」の違いについて独立した記載があるので引用すると、『「ニホンオオカミ」という呼び名は、明治になって現れたものである。日本では古来から、ヤマイヌ(豺、山犬)、オオカミ(狼)と呼ばれるイヌ科の野生動物がいるとされていて、説話や絵画などに登場している。これらは、同じものとされることもあったが、江戸時代ごろから、別であると明記された文献も現れた。ヤマイヌは小さくオオカミは大きい、オオカミは信仰の対象となったがヤマイヌはならなかった、などの違いがあった。このことについては、下記の通りいくつかの説がある。

 ヤマイヌとオオカミは同種(同亜種)である。

 ヤマイヌとオオカミは別種(別亜種)である。 ニホンオオカミはヤマイヌであり、オオカミは未記載である。

 ニホンオオカミはオオカミであり、未記載である。Canis lupus hodophilax はヤマイヌなので、ニホンオオカミではない。

 ニホンオオカミはオオカミであり、Canis lupus hodophilax は本当はオオカミだが、誤ってヤマイヌと記録された。真のヤマイヌは未記載である。

 ニホンオオカミはヤマイヌであり、オオカミはニホンオオカミとイエイヌの雑種である。

 ニホンオオカミはヤマイヌであり、オオカミは想像上の動物である。

シーボルトはオオカミとヤマイヌの両方を飼育していた。現在は、ヤマイヌとオオカミは同種とする説が有力である。なお、中国での漢字本来の意味では、豺はドール(アカオオカミ)、狼はタイリクオオカミで、混同されることはなかった。現代では、「ヤマイヌ」は次の意味で使われることもある。

 ヤマイヌが絶滅してしまうと、本来の意味が忘れ去られ、主に野犬を指す呼称として使用される様になった。

 英語のwild dogの訳語として使われる。wild dogは、イエイヌ以外のイヌ亜科全般を指す(オオカミ類は除外することもある)。「ヤマネコ(wild cat)」でイエネコ以外の小型ネコ科全般を指すのと類似の語法である』。次に「生態」の項。『生態は絶滅前の正確な資料がなく、ほとんど分かっていない。薄明薄暮性で、北海道に生息していたエゾオオカミと違って大規模な群れを作らず、二、三~十頭程度の群れで行動した。主にニホンジカを獲物としていたが、人里に出現し飼い犬や馬を襲うこともあった(特に馬の生産が盛んであった盛岡では被害が多かった)。遠吠えをする習性があり、近距離でなら障子などが震えるほどの声だったといわれる。山峰に広がるススキの原などにある岩穴を巣とし、そこで三頭ほどの子を産んだ。自らのテリトリーに入った人間の後ろをついて来る(監視する)習性があったとされ、いわゆる「送りオオカミ」の由来となり、また hodophilax (道を守る者)という亜種名の元となった。一説にはヤマイヌの他にオオカメ(オオカミの訛り)と呼ばれる痩身で長毛のタイプもいたようである。シーボルトは両方飼育していたが、オオカメとヤマイヌの頭骨はほぼ同様であり、テミンクはオオカメはヤマイヌと家犬の雑種と判断した。オオカメが亜種であった可能性も否定出来ないが今となっては不明である。「和漢三才図会」には、「狼、人の屍を見れば、必ずその上を跳び越し、これに尿して、後にこれを食う」と記述されている』。「人間との関係」の項。『日本の狼に関する記録を集成した平岩米吉の著作によると、狼が山間のみならず家屋にも侵入して人を襲った記録が頻々と現れる。また北越地方の生活史を記した北越雪譜や、富山・飛騨地方の古文書にも狼害について具体的な記述が現れている。奥多摩の武蔵御嶽神社や秩父の三峯神社を中心とする中部・関東山間部など日本では魔除けや憑き物落とし、獣害除けなどの霊験をもつ狼信仰が存在する。各地の神社に祭られている犬神や大口の真神(おおくちのまかみ、または、おおぐちのまがみ)についてもニホンオオカミであるとされる。これは、山間部を中心とする農村では日常的な獣害が存在し、食害を引き起こす野生動物を食べるオオカミが神聖視されたことに由来する。『遠野物語』の記述には、「字山口・字本宿では、山峰様を祀り、終わると衣川へ送って行かなければならず、これを怠って送り届けなかった家は、馬が一夜の内にことごとく狼に食い殺されることがあった」と伝えられており、神に使わされて祟る役割が見られる』。最後に「絶滅の原因」の項。『ニホンオオカミ絶滅の原因については確定していないが、おおむね狂犬病やジステンパー(明治後には西洋犬の導入に伴い流行)など家畜伝染病と人為的な駆除、開発による餌資源の減少や生息地の分断などの要因が複合したものであると考えられている。江戸時代の一七三二年(享保一七年)ごろにはニホンオオカミの間で狂犬病が流行しており、オオカミによる襲撃の増加が駆除に拍車をかけていたと考えられている。また、日本では山間部を中心に狼信仰が存在し、魔除けや憑き物落としの加持祈祷にオオカミ頭骨などの遺骸が用いられている。江戸後期から明治初期には狼信仰が流行した時期にあたり、狼遺骸の需要も捕殺に拍車をかけた要因のひとつであると考えられている。なお、一八九二年の六月まで上野動物園でニホンオオカミを飼育していたという記録があるが写真は残されていない。当時は、その後十年ほどで絶滅するとは考えられていなかった』とある。

・「四五町」約四三六~五四五メートルほど。

・「渡り狼」定住せず、野山を渡り歩く狼。

 

■やぶちゃん現代語訳

 

 狼(おおかみ)にもまた堅気のあるという事

 

 尾張名古屋より美濃へ魚(さかな)を運ぶことを生業(なりわい)と致す者があったが、品が品なれば、払暁から夜へかけて山道を往復致すが常であった。

 その通り道の端(は)へ、ある時、一匹の狼(おおかみ)が出でておったれば、ふと、荷の魚の内から、少々を分け与えてやったところが、何か悦んでおる気色(けしき)にて、聊かの害もなさずあったによって、その後、往来の度(つど)、その一匹狼の道の端に出でて待ちおるに、絶えず商売の魚少々を、

「――山の神への初穂じゃ。」

と与えては、通って御座ったと申す。

 この狼、狼にしては、まことに男に馴れなついた様子で、必ず、かの者の通り道の辺りに出ででは、魚を乞うて、静かに食べた後(のち)は、男の後を暫く見送るようについて御座ったりも致いたそうな。

 かく月日が経ったある日のこと、何時もの場所を魚の荷を負うて通った。

 いつものように、かの狼に与えようと思うておった分は、別に手に持って、かの辺りに至って御座った。

 いつものように、かの狼がおった。

 ところが――その日に限って、与えた魚を、一向に喰う気配がない。

 ――と――

 ふっと荷縄を銜えて山の方(かた)へと誘(いざな)う素振りを見せる。

「……何や?……何をしようと言うんかい?……」

と、不審に思いながらも、そのなすがままにまかせて、四、五町も山の方へと引かれて入って御座った。

 連れて行かれたところはと言えば――これ、かの狼の寝臥(ねふ)しする棲み家と思しい――薄や茅(かや)なんどを踏みしだいた一所(ひとところ)で御座った。

 気が付けば……かの狼……知らぬ間に姿を消して御座った。……

 かの狼が戻って来るまでと、そこに暫くの間、ただぼんやりと佇んで御座ったところ……

――ホイ! ホイ! ホイーッ!

――ウッシ! ウッシ!

と、何やらん、近隣の里方(さとがた)より、大声を挙げるて人の来るのが聴こえだしたかと思うと、

――パン! パパンッ!

と今度は鉄砲なんどの音までして、これ、どうも、相当に大勢にて騒いでおる様子なれば、

「……これ、尋常ではないぞ!……鉄砲にても打たれては、かなわん!……」

と、少し様子を窺って後、静まったのを見計らって、元の山道へと下って立ち戻った。

 すると、曙の薄ら明りの中、松明を持った里人が仰山に集まっており、かの男を見つけるや、

「――お前さん、狼の難には遇わなんだか!?……この近くで、渡り狼が三疋ばかりも現われおっての!……ここからずっと海辺の方へと山道を走っていったようじゃて……人を襲うては、これ、一大事と……まあ、こうして大勢にて声を挙げ、鉄砲なんど撃っては、追い払(はろ)うておったんじゃ!……」

と申したによって、

「……我らはかくかくのことにて、常に往来の砌り、商売の雑魚なんどを一疋の狼に与えて御座ったが……その馴染みの狼が……今日は、この山の奧の方(かた)へと、我らを伴(ともの)うて入って御座ったれば……」

と語ったところ、

「……さては! その狼、お前さんが、渡り狼の難に遇うを、これ、救うたに違いない!……」

と、里人もともに、畜生ながら、狼の堅気に感じ入ったとのことで御座る。

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