沢庵宗彭「鎌倉巡禮記」 25
五山などのか程まであさましく成ぬる事は、いつの時よりかととへば伊豆の早雲關八州を領せられけれども、そこそこの國郡をしる人達皆北條にしたがふといふちぎりばかりにて、國郡はむかしのごとくあづかりゐるなれば、八州の司といふばかりにてしる所やせばかりけむ。事たらざれば力もいらずしておとしやすき寺社の領知を皆おとして、わが臺をにぎほされてよりかくのごとく成ぬと也。五山などいふを地をけづりてはたすべきもいかゞとて、僧一二人の朝げゆふげをつゞけよとて十貫づゝ殘しをきて皆おとされ、建長・圓覺は所ひろきとて百貫殘されし。いまもせめてむかしの地ならばもゝの數にも事たるべきに、しる所も此世にかばりぬればもゝといふ名ばかりにて、庫院のけぶりもにぎはひうすきなどかたるにつけておもふ、人は世によき名をこそ殘さまほしき事なれ。早雲かゝる事をしをきて寺社皆はて、わが家さらば千代萬代もさかへば、其家に善人生れあひてあしき道をよきにあらためなば、先祖の名もかさねてあがりなむ。家はやくはてぬれば、あしき名のあしきまゝにて世に殘ぬる事は、殘多き事也。家をば萬歳千秋と祈べき事也。一度はあしき事もあれどもあらためてよきにかへせば、あしき時の名はかくれてよき名を殘すはめでたし。わが身にことたらぬからに、外をむさぼり寺社をついやす。我こそ心ありてつけずとも、人のつけたるをおとすは重罪なり。されども無道ながらもなべて世の人の心なり。事たらぬより心の外の事もあるべし。餘る財あらば外にほどこして、一は菩提のため、一には名を後代に殘す、外の德何かあらむ。此ごろ神社佛閣修造の御沙汰ありときくにこそ、御家も久しくつたはり、御名もよろづ代までとしらるれ。世のやすからん事を上におもほすより、下が下まで人のいきほひかはりてめでたうぞみえける。此山陰の僧徒まで末たのもしきなどいひあへり。龜江がやつと聞て、
くちぬ名のあとはかはらしをのか身に ふる萬代の龜か江かやつ
爰は梅がやつといへば、
むかしたかのきはにさきし梅かやつ わすれぬ宿の香に匂ふらん
梅谷梅開憶昔年 昔年榮達盡黄泉
紫羅帳裡珊瑚枕 會宿此花誰作眠
[やぶちゃん注:まず、漢詩を底本の訓点を参考にしながら、私なりに書き下しておく。
梅ヶ谷 梅開いて 昔年(せきねん)を憶(しの)ぶ
昔年の榮達 盡く黄泉(くわうせん)
紫羅 帳裡 珊瑚の枕
此の花に會宿(ゑしゆく)するに 誰れか眠(みん)を作らん
底本は「梅谷」で、結句はそのまま書き下すと「會 此花に宿す 誰か眠を作す」である。
この鎌倉衰亡の因縁についての感懐には、沢庵が紫衣事件で受けた処分と、その後の返り咲きの経緯が、深く翳を落としているように読める。
「梅かやつ」白井永二編「鎌倉事典」昭和五一(一九七六)年東京堂出版刊)の「梅ヶ谷」によれば、『化粧坂の下の谷をいうといわれているが、はっきりしない。今では亀谷切通しの下、薬王寺のあたりをそうよんでいる。『夫木集』の「誰が里につゞきの原の夕霞、烟も見へず宿はわかまし」の歌に出てくる綴喜の里は梅ヶ谷のことであると『鎌倉志』ではいうがわからない』とあるのは、「新編鎌倉志卷之四」の、
◯梅谷〔附綴喜の里〕 梅谷(むめがやつ)は、假粧坂(けわひざか)の下の北の谷なり。此邊を綴喜里(つゞきのさと)と云ふ。【夫木集】に、綴喜原(つゞきのはら)を相模(さがみ)の名所として、家隆の歌あり。「誰(た)が里につゞきの原(はら)の夕霞(ゆふがすみ)、烟(けむり)も見へず宿(やど)はわかまし」と。此の地を詠るならん。
に基づく。
「龜江がやつ」亀ヶ谷。
「むかしたかのきはにさきし梅かやつ わすれぬ宿の香に匂ふらん」この歌は「吾妻鏡」巻二十四の建保七(一二一九)年一月二十七日の実朝暗殺のその日の条に載る、その朝に実朝が詠んだとされる和歌、
出でていなば主(ぬし)なき宿となりぬとも軒端(のきば)の梅よ春をわするな
を念頭においたもの。]