栂尾明恵上人伝記 5 九歳
九歳にして、八月に親類に放(はなた)れて、師に高雄山に登らせらる。何となく故郷の名殘惜しく覺えて、泣々馬に乘つて行くに、鳴瀧(なるたき)と云ふ河を渡るに、馬立留(たちどま)つて水を飮まんとするを、手綱(たづな)を少し引きたれば、歩み水を飮むを見て、思ふ樣は、畜生とて拙(つたな)き者だにも、人の心を知つて行くとこそ思ふらめ、留らずして歩みながら水を飮むらめ。我れ父母の遺命に依りて入寺する、一旦親類の名殘惜しければとて、泣かるゝことのうたてさよ、遙に馬には劣りけりと覺えしかば、則ち戀慕の心止(とゞ)めて、一筋に貴(たつと)き僧と成りて、親をも衆生をも導かんと、心中に願(ぐわん)を發(おこ)しけり。
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