海産生物古記録集■1 「立路随筆」に表われたるカツオノエボシの記載
新たな野人の荒野で、僕の偏愛する海産動物の古記録の渉猟し始めようと思う。時にはこの孤独な奇人藪野直史と、淋しい人気のない机上の幻の海浜で、ともに漁(すなど)ってみては如何?――
*
「立路随筆」に表われたるカツオノエボシの記載
[やぶちゃん注:江戸中期の江戸(内容より推定)の俳人林百助(立路は「りつし」と読み、彼の俳号。それ以外の彼の事蹟は未詳)の書いた一五六条からなる「立路随筆」(成立年未詳)に所収。底本は吉川弘文館昭和四九(一九七四)年刊「日本随筆大成 第二期 18」所収の「立路随筆」を用いたが。「ㇾ」は返り点。カツオノエボシについての図入り記載では嚆矢の部類に属するものと思われる。]
一鰹の烏帽子 三浦三崎の浦に、此烏帽子流寄時は、鰹烏帽子を脱ぐと云て、夫より初鰹を釣に出るなり。此えぼし寄らざる内は、鰹取に不ㇾ出由。
其形如ㇾ此
色白ク水月(クラゲ)ニ似タリ、紉ノ如キ物紺色ニ光ル、針アリ、至テ毒アリ、人手ヲ著レバ忽痛ミハルヽト云。
◆やぶちゃん注
底本では「其形如ㇾ此」が一字下げで「其形」と「如ㇾ此」が二行左右に配され、その下に図があって、更にその下に「色白ク水月ニ似タリ、紉ノ如キ物紺色ニ光ル、針ア」(改行)「リ、至テ毒アリ、人手ヲ著レバ忽痛ミハヽト云。」とやはり左右に二行で配されている。それにしても――このトンパ文字の如きぶっとんだ図――いいねえ!
・「鰹の烏帽子」海棲動物中で思いつく種を一つ挙げよ、と言われたら、私がまず真っ先に思い浮かべる種といってよい。それほど海産無脊椎動物フリークの私がマニアックに好きな生き物である。刺胞動物門 Cnidaria ヒドロ虫綱 Hydrozoa クダクラゲ目 Siphonophora 嚢泳亜目 Cystonectae カツオノエボシ科 Physaliidae カツオノエボシ属 Physalia カツオノエボシ
Physalia physalis(Linnaeus, 1758)は英名を“Portuguese Man O' War”(単に“Man-Of-War”とも)他に“Bluebottle”・“Bluebubble”などと呼ぶ。本邦では所謂、刺毒の強烈なクラゲの謂いとして「電気クラゲ」があり、これは多くの記載で種としては箱虫綱箱虫目アンドンクラゲ科アンドンクラゲ
Carybdea rastoni 及びカツオノエボシ Physalia physalis を指すと明記するのであるが、クラゲ類はその殆んどが強弱の差こそあれ、刺胞を持ち、毒性があるから、「電気クラゲ」でないクラゲは極めて少数と言ってよいし、感電的ショックを受けるというのなら、二種とは異なる、鉢虫綱旗口クラゲ目オキクラゲ科ヤナギクラゲ属
アカクラゲ Chrysaora pacifica や、同じ旗口クラゲ目の、ユウレイクラゲ科ユウレイクラゲ Cyanea nozakii 及び オキクラゲ科アマクサクラゲ
Sanderia marayensis カツオノエボシと同じ嚢泳亜目に属する繩状の、ボウズニラ科ボウズニラ Rhizophysa eysenhardtii なんぞは彼らに優るとも劣らぬ強烈なる「電気クラゲ」である。即ち、「電気クラゲ」とは、実際には『夏期の海水浴場で刺傷するケースが圧倒的に多い』アンドンクラゲ
Carybdea rastoni 及びその仲間(最強毒を保持する一種として知られるようになった、沖縄や奄美に棲息する箱虫綱ネッタイアンドンクラゲ目ネッタイアンドンクラゲ科ハブクラゲ
Chironex yamaguchii ――本種も私の偏愛するクラゲであるが――大雑把に言えばアンドンクラゲを代表種とするアンドンクラゲを含む立方クラゲ目(Cubomedusae)に属し、科名を見てもお分かりの通り、アンドンクラゲの仲間であると言って差し支えないのである)が「電気クラゲ」として広く認識されている傾向が寧ろ強いと言ってよいと私は思っている。閑話休題。カツオノエボシ
Physalia physalis の属名“Physalia”(フィサリア)はギリシア語で「風をはらませた袋」の意で烏帽子状の気胞体の形状に基づき、英名の“Portuguese Man O' War”や“Man-Of-War”の「(ポルトガルの)軍艦」とは、気胞の帆を張ったポルトガルのキャラベル船(三本のマストを持つ小型の帆船であるが高い操舵性を有し、経済性・速度などのあらゆる点で十五世紀当時の最も優れた帆船の一つとされ、主にポルトガル人・スペイン人の探検家たちが愛用した)のような形状と、本種の発生源がポルトガル沿岸でそれが海流に乗りイギリスに漂着すると考えられた(事実どうかは不明)ことに由来する。“Bluebottle”(青い瓶)や“Bluebubble”(青い泡)も気胞由来。和名「カツオノエボシ」は鰹が被っていた烏帽子で、鰹漁の盛んな三浦半島や伊豆半島では、本州の太平洋沿岸に鰹が黒潮に乗って沿岸部へ到来する時期に、まずこのクラゲが先に沿岸部に漂着、その直後に鰹が獲れ始めるところから、その気胞を祝祭的に儀式正装の烏帽子に見たて、カツオノエボシと呼ぶようになった。また、今直ぐに掘り出せないのであるが、かつて読んだ本に、地中海で(イタリアであったか)、本種を採って引っ繰り返したその形状が女性の生殖器にそっくりであるところから、漁師たちはそうした猥雑な意味での呼称(呼称名を思い出せない。「海の婦人」だったか、もっと直接的な謂いだったか)をしている、という外国の文献を読んだ。当該呼称が確認出来次第、掲載したい(因みにイタリア語の隠語では男性器を「鰹(カツオ)」(!)と言うらしい)。これは美事にマッチするネーミングではないか!
・「紉」の字は厳密には「剱」を(いとへん)に替えた字体で、音は「ジン・チン・ニン」、恐らくは「なは(なわ)」と訓じているものと思われる。一重の縄のことである。
◆やぶちゃん現代語訳
一 鰹(かつお)の烏帽子(えぼし) 三浦三崎の浦に、この烏帽子が流れ寄る時には、「鰹、烏帽子を脱ぐ」と言い習わして、その折りより、初鰹を釣りに出るという。この烏帽子が沿岸に寄って来ないうちは、鰹漁には出漁しない由である。
その形は以下の通り。
〔図〕
総体の主部の色は白く、水月(くらげ)に似ており、一重の縄に似たものが下部に垂れ下がっており、それが紺色に光る。そこには針があって、これには非常に強い毒が含まれている。人が手を触れると、瞬時に激痛が走り、腫れ上がるということである。